デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
6節 製紙業
1款 抄紙会社・製紙会社・王子製紙株式会社
■綱文

第11巻 p.47-59(DK110009k) ページ画像

明治12年7月(1879年)

是ヨリ先、製紙会社技師フランク・チースメン、トーマス・ボトムレー二人ノ任期満了ヲ以テ解雇シ、日本人技師養成ノ為メ是月社員大川平三郎ヲ米国ニ派遣ス。翌年十月大川帰朝シ大ニ設備ヲ改善シ良品ヲ出スニ至ル。


■資料

社事要録 第一巻(DK110009k-0001)
第11巻 p.47 ページ画像

社事要録  第一巻         (王子製紙株式会社所蔵)
明治十二年
七月 抄紙方大川平三郎ニ製紙業研究ノ為メ米国留学ヲ命ス
明治十三年
十月 大川平三郎米国ヨリ帰朝
 糊剤ヲ改正シタル為メ紙品大ニ昂ル


王子製紙株式会社回顧談(男爵 渋沢栄一) 第二九―三三丁(DK110009k-0002)
第11巻 p.47-49 ページ画像

王子製紙株式会社回顧談(男爵 渋沢栄一)  第二九―三三丁
    八、社名変更と地券状紙の抄造
○上略
併し到底外国人を使うて此の事業を将来利益ある様に遣り遂げる訳にはゆかぬ。一歩進んで考へれば是は日本人だけで出来得る様にどうしてもせねばならぬ。日本の工業は日本人でやるのが当然であると種々苦心して、製紙もどうやら日本人だけで出来るといふ見込が就いた。そこで明治十年二月機械技師のフランク・チースメンが満期を幸ひ退社せしめ、其の代りとして五月から横浜製鉄所雇の英人アルチボールドキングといふ人に随時器械の視察を嘱託した。それから又同五月に抄紙技師のトーマス・ボツトムリーも、満期となつたので其の傭を解き、後は全く日本人のみで仕事を続けることになつた。依つて大に勉強せねばならぬといふので、操業時間が従来十八時間であつたのを其の月から始めて二十四時間、即ち一昼夜間の全運転に改めた。明治九年末の調査に依ると、職工の現在数が男工百十一人、女工二百六十三人、合計三百七十四人を使用して居たのである。
明治十年には第一回内国勧業博覧会が東京上野に開かれた。それ故前年の十一月中に出品の出願をして置いた所が許可になつた。又八月抄紙機械及びダンデイロールを博覧会へ出品し、右開会中工場の縦覧を
 - 第11巻 p.48 -ページ画像 
許すことにした。然るに製品審査の上、博覧会より一等賞牌受領の名誉を受けた。
    九、社員の留学と藁紙製造
併し乍ら何時迄も地券紙の抄造を以て満足して居る訳にはゆかぬ、是非共輸入紙に勝る程の品物を内地で造り、将来必ず来るべき大需用の機会に十分なる供給を為し得るだけになさねばならぬ。詰り世の進みに伴ふて行くといふより、一歩進んで世の中の進歩を誘導啓発させる程の覚悟を以てかゝらねばならぬ。それには尚一層の研究が必要であつて、同時に又現在欧米諸国で行つて居る方法は如何であるか。其の有様をも講究せねばなるまい。此に於て外国に何人をか派遣留学せしむるがよからうとの企を起した。併し此の事業の如きは唯学理上の研究だけでは決していかぬので、実際の手業が利かねば本当に事業の利益を見る訳にはいかぬ。斯く研究すると云ふ考案は立つても、外国へ留学させる適当の人を得るといふ段になつて大に困難を来した。所が其の頃工場に使用して居た大川平三郎氏は未だ二十歳前の青年であつたが、外国人に就いて製紙の技術も鍛錬して居るし、勉強家でもあるから此の大川氏を派遣しては如何かとの説が出た。而して大川本人も頻りにそれを希望して居るといふことである。其の時自分の思ふには彼は未だ年少である上に第一英語といふものは十分に出来まい。技術の心得はあるにしても何んとなく不安心の様であると考へたが、他の人々が左様云ふことでもあり本人も希望として申出でたので、兎に角本人に逢つてよく才能を試験して見ようと決心し三井の益田孝氏を試験官に頼んで三井物産会社の楼上で試験した。益田氏は早くから外国語の研究の積んだ人であるから、先づ大川が室に入るや否や英語で問ひかけた。而して各種の質問を英語で連発した所が、案外にも大川はそれに答へることが出来たので益田氏も感心して、年少者には珍らしい熟達だ。此の人なら留学生として適任であらうと云ひ出した。自分は恥かしいことには部下として使つて居た此の青年の能力を此の時まで知らなかつた。聞けば大川は会社に傭入れてあつた二人の外国人に就いて熱心に語学の勉強を為し、夜間だけの研究で何時の間にかそれだけ上達をしたのだといふ。自分も左様いふ特志家なら宜しからうといふので、留学生には此の大川を派遣することに一決した。そこで明治十二年七月愈々大川氏を亜米利加へ派出することに差定めた。其の頃は今日とは全く社会の形勢が異つて居て、教育も未だ其の緒に就いた位であるから、外国語に上達した人なぞはそう々々ある訳のものでない。然るに製紙会社は不完全ながらも社内から其の人を得たのは万事に好都合であつたと思ふ。斯くて大川氏は亜米利加へ渡りホリヨークの紙漉工場へ入場して爰に色々の実地を研究し、次第々々に其の事を日本の本社へ報告する。本社は其の報告に依つて工風しては改良を企て遂に藁の原料を以て紙を製造するといふことを日本に始めた。昨今では藁を原料にして紙を漉く位のことは三歳の童児でも知つて居ることであるが、それを始めた起源を尋ぬれば実に左様いふ所にある。藁を原料にして紙を漉くのも大川氏が外国でやつて居たもの其の儘の方法を移したのではない。謂はば日本独創といふべく、全く製紙会社
 - 第11巻 p.49 -ページ画像 
の新案である。初め大川氏は亜米利加で麦藁を材料にして紙を漉くのを見て、これは面白いが日本では麦藁を用ふるよりは寧ろ日本特有の藁を材料にしたら如何であらうか。藁なら原料は豊富であつて値段も大に安いといふので、段々研究を積んで其の方法を案出したのであつた。藁が紙になるなどとは夫れこそ切支丹の法ではあるまいかと其の時分は思つて居つた。併し出来るといふのだから試験の為めにやつて見ようではないかと、当時の支配人たる谷敬三氏と相談したことを今もよく覚へて居る。
大川氏が米国から帰朝したのは十三年の十月であつたが、既に其の前に屡々書送して彼の国の有様又は学理の進歩、技術の働き等それぞれ書状の上では承知して居たけれども、本人に逢つて、話を聞いて見ると、書類で見るとは大きな相違。本人が帰つて一層会社の業務を拡張することを得た。而して大川氏の帰朝した頃には既に地券紙の製造は已んで、普通印刷紙の供用を専らにせねばならぬ時期になつて居た。然るに普通印刷紙は其の時分余り紙価が高くない為に、地券紙を漉くが為に隠然特典を頂戴するが如き営業に依つて、安んずる訳にはゆかず、製造も迅速にし、紙価も低廉にして売捌きを競争するといふことにせねば会社の経済が取れぬ。故に爾来は前述の藁原質の紙製造法に専ら力を尽して、遂に明治十五年頃から、それが完全に出来る迄になつた。而して此は当時に於ては製紙会社の成功の一つとして誇るべきものであつた。


竜門雑誌 第四八一号・第九〇―九一頁〔昭和三年一〇月二五日〕 青淵先生と製紙事業―偉大なる其の人格―(大川平三郎)(DK110009k-0003)
第11巻 p.49-50 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第九〇―九一頁〔昭和三年一〇月二五日〕
  青淵先生と製紙事業 ―偉大なる其の人格―(大川平三郎)
○上略
 私は深川福住町の先生の御屋敷に屡々御伺ひしたが、先生は私の顔を見て「王子の工場にも困つたものだなあ」と長嘆息を漏される事も幾度かあつた、私は其頃絵図引から機械を扱ふ方に代つて居たが、一介の小僧で責任の衝に当ると云つた地位の者ではなかつた、然し先生の此の嘆息を聞くと恐懼措く処を知らず、倉皇として座を退いた程であつた。そこで一所懸命殆ど昼夜間断なく機械の取扱を研究して辛ふじて紙が出来る様になつた、機械の操作は私の方が外国人よりも余程巧者になつた、数々取調を進めると此機械は抄紙機の始めて手掛けた機械工場が学理のみを基として実地上の都合を知らずに製作したもので、とても満足に仕事の出来るものではない事がはつきり判つた、外国人とも相談して漸く応急的改良を施して辛ふじて紙が満足に出来る様になつたのであるが、此間の苦心は実に口にも筆にも尽し得るものではなく、其の一例を挙ぐれば製紙機械では紙が機械より出て来ると是れを巻上げる道具がある、そして巻上たる紙を四五枚重ねてゆつくりと切断機に掛けるのが普通の法であるのに王子の機械には捲上機械があり、機械から出て来る紙を其儘に断裁機にかけて、キチンと極まつた寸法に切ると云ふ六カシイ殆ど軽業の様な仕事になつて居た、此断裁機械取扱の専門家は田中栄八郎であつた、又紙の光沢をつける機械はチルドアイロン(堅鉄)でなければならぬのに普通の鋳鉄であつ
 - 第11巻 p.50 -ページ画像 
たゝめ、忽ちに傷だらけになつて光沢がつかぬ、米国に急に註文を出して堅鉄製と取替へた抔と云ふ余りに素人臭くして御話にならぬ様な事が数限りなくあつて、徹頭徹尾厄介極る製紙機械と言はざるを得ないものであつた。私は機械係の一人として機械を扱つたが、何等の危険防止の設備がなく而も凡ゆる欠陥を具備した機械の為めに我々兄弟の手には常に傷の絶え間がなかつた程であつた、然し乍ら此機械は却つて私の機械への知識の指導者となつた、私は殆ど三ケ年間此の機械に直面して不眠不休の努力をした、そして当製紙事業の詳細を究める為めに、自ら進んで欧米に於いて学び度い希望を、青淵先生に披瀝した、此希望が容れられて明治十二年米国に渡り、専念彼の地に於いて其技術を修めて帰国した、帰国の後は従来の機械は其儘では到底用をなさゞるを知つて、之れを全部解体的に改良して其幹体を残すに止めて其部分的組織を一新し、改めて作業を開始した、玆に於て製造能力亦面目革まり、二月三月と経るに従つて一日の生産高は三千ポンドから忽ち一万二千ポンドに激増したので、私も大に面目を施し一人前の製紙家らしくなつたのであるが、然し私は玆に一言し度い、此の成績は決して私の功績と云はんより、寧ろ機械の構造が余りに不完全に過ぎたものを普通一般のものに取代へたと云ふに過ぎない結果である。今日の製紙業者は今述べた所を以て信じがたき珍談として笑ふかも知れない、而も私が此珍談に類する事柄を述べて見たのは日本製紙事業の嚆矢たる抄紙会社が其の創業の日に如何に艱難を嘗めたか、明治の初年に於いて大なる機械工業を起す事が如何に容易ならざる問題であつたかを知らしむる為めなのである。青淵先生無かりせば今日の王子製紙会社は或は存在せぬかも知れぬ。私の製紙業の凡ても生れて居るまい、斯う考ふる時始めて先生の高徳の高大なる事が感得せらるゝのではないか。


大川平三郎君伝(竹越与三郎編) 第八四―一二八頁〔昭和一一年九月〕(DK110009k-0004)
第11巻 p.50-59 ページ画像

大川平三郎君伝(竹越与三郎編)  第八四―一二八頁〔昭和一一年九月〕
    第四、王子製紙会社に入る
○上略
 前項に記るしたるが如く大川君は王子製紙会社に入つてから、渾身の力を揮つて働き、朝は何人よりも早く出勤し、夜は十時十二時迄居残つて勉励した結果として、工場第一の仕事通となり、大川君なくては工場経営が出来ぬほどとなつた。其の代り日夜の労苦の余怪我した事もあり、指や掌に負傷して永く順天堂に入院したこともあつたが結局、大川君の力量は外国技師よりも優秀であるといふことが一般に認知せらるゝやうになつた。そこで大川君は谷支配人に対して多額の月給を取る外国技師の必要がないから、雇傭関係を絶ちては如何と建議することゝなつた。此外国技師は其の技能十分ならざるに、大枚二百六十五円の月給を取つて居つた。大川君は初任給五円で、其の年の七月には勉強と技能を認められて、一円を増加せられ、爾後多少の増給はあつたものゝ極めて小額であつた。他の先進役員は相当の人であつても二十五円以上の俸給を取るものは二三人しか居らなかつた。かかる事情であるから大川君の建議は直ちに重役の嘉納する所となつて、
 - 第11巻 p.51 -ページ画像 
外国技師の雇傭を断ることになつた。数年の後、大川君が社命によりて米国へ行つた時、該技師は態々大川君の所に来り自分の家に立寄り呉れと云ふので訪問したところが、その地位はナイト、ボーイと言ふ工場の夜警に過ぎなかつたのを見て、一驚を喫したさうである。当時は外国人と言へば皆な有能の士と盲信し、高給を払つたものであるが是れも幾多の中の一例に過ぎぬのである。
 斯くて工場に於て名義は兎も角責任は一に大川君に帰したが、然らば則ち王子製紙会社の事業は如何なる状態であつたか、之は大川君の談話をそのまゝに記るすことが最も捷径である。
  明治十年に西南戦争が起つて始めて紙が盛んに売れるやうになつた。今迄王子で出来る紙を全国の新聞社へふり撒いても使ひきれなかつた。実に小さいものであつた。僅に六尺ばかりの幅の機械で一日に三千か四千封度の出来高であつた。それを全国に販売しても尚余つたのである。当時の新聞といふては東京には読売新聞と東京日日・東京絵入等で誠に微々たるものであつた。それから日新真事誌と云ふのがあつたが是れは日本紙へ印刷して居つた。
  僕が亜米利加から帰つて来て初めて一日一万五千封度出来るやうになつた。即ち一ケ月にすれば四十五万封度である。所が今日は一月一億五千万封度を使ふやうになつたから約三百三十倍になつたのであるが、まだそれでは進歩が遅いと思はれる。兎に角もう六十年だ。
  また明治の初年に政府が地券状を発行したが、此の地券状は日本国全部の土地一筆毎に一枚交付せられるので、此の紙の為めに約二年ばかり専門にやりました。当時紙の原料は襤縷ばかりであつたが出来上つた紙はむつくりした軟い紙である。普通は一遍襤縷を蒸して洗つて、洗つたものを又二度蒸してやつたものであるから、随分手数が掛かるので価は高く一封度二十五銭であつた。其の中に僕は旨いことを考へた。それは襤縷を一遍煮て、馬立式の貯蔵場を建設し二週間程此処に積んで置くと、仕舞に手を突込むと熱を有つて来る位に醗酵して菌が生へて来る。そこで之を機械にかけると軟かくしてドシドシこなされる。機械運転の馬力も要らず沢山に出来る。之れが大変宜いといふので注文も沢山出来て、大層えらい人気になつたので、僕は自身印刷局へ出頭し、印刷上の御相談までする様になり大に名を揚げたのである。そこで今度は戦争が愈々済んで、財政整理の為に紙幣を発行しなければならぬ。それで何でも六七千万円であつたらう、太政官紙幣の青い竜のついたものである。其の紙幣用紙を一ケ月間に全部製することを引受けるかとの事であるから直ぐ宜しいと承諾して、千葉地方を始め大阪堺まで人を派し、漁網の古物を買占め、それを苛性曹達で煮て巧にこなし、紙に漉き上げて出して見たところが、余り宜しくない、けれども非常に丈夫であつたので是は結構だと言ふので、非常の高価で御用を達したのである。さういふ特別のことがなくなると、会社はすぐ困ると言ふ不安状態であつた。
○中略
 - 第11巻 p.52 -ページ画像 
    第五、会社から洋行
○上略
 大川君は王子製紙会社の工場に於ては既に必要欠くべからざる人となり、その工場管理の力は外国技師に勝さる事を証明し得たが、大川君の志は、斯かることで満足するものでない。会社全体の経済上の工夫、国家産業との関係などに気を配り、今日の如き会社経営の方法では到底長く其の事業を維持し得べきにあらずと言ふ結論に達して、重役に対して左の意見書を提出した。
     建白書
  製紙会社ハ創業以来既ニ五閲年ニ垂ントス。退イテ既往ノ景況ヲ顧ルニ百般ノ艱難ヨリ来レルノ惨状ハ実ニ之ヲ今日ニ言フニ忍ビザルモノ有リト雖モ、幸ニ社員諸君ガ誠実ニシテ其任ニ熱心ナルニ依テ工事ノ進歩ハ殊ニ迅速ナルヲ得、今ヤ其営業ノ全体ハ素ヨリ意ニ満足スベキニアラズト雖トモ、又故サラニ痛慮ヲ要スベキニアラザルノ場合ニ進メリ。然レドモ是ノ如キハ唯々ニ損ヲ蒙ラザルニ安ンズル者ニシテ、決シテ製紙会社ガ、其鋭意ヲ怠ルベキノ場合ニアラズ。製紙会社ハ宜シク正理ニ応ジテ満足スベキノ利益ヲ得ン事ヲ忘ルベカラズ。
  正理ニ応ジテ満足スベキノ利益トハ何ゾヤ、其資本ヲ以テ世間平均ノ利益ヲ得ルヲ言フ。而シテ玆ニ世間ノ平均ノ利益ト言フモ世間ノ事業ハ極メテ多端錯雑ナルモノタルガ故ニ、其利益ノ平均ハ素ヨリ甚ダ知ルニ艱難ニシテ工業最モ然リトス。看ヨ同一ノ資本ヲ用ユルモ其使用者ノ智愚ト、其事業ノ幸不幸トニ因ツテ、其得ル所ノ利益モ亦甚異ナルアルニアラズヤ、故ニ有名ナル経済学者スミス氏ハ世間普通ノ利息相場ヲ以テ資本ノ平均ノ利益ト定メタリ。此ノ事ノ当否ニ於テハ吾輩今其如何ヲ知ラズト雖ドモ、仮リニ其見ヲ以テ至当ナリトスルモ、現今製紙会社ガ得ルノ利益ハ未ダ決シテ充分ノ点ニ達シタリト言フベカラズ。
  今ヤ世間ノ利息相場ハ査シテ其何程ナルカヲ知ラズト雖ドモ、大概一割二三分ヲ以テ常トスルガ如シ。此ハ是レ貨幣ノ取引ニシテ、然ル事ナレバ製紙会社ノ如ク全ク其資本ヲ擲ツテ機械ヲ購フニ当ツテハ、又其業ノ危険ニ向テ幾分カ余量ノ利益ヲ要求セザル可ラズ。仮ニ之ヲ資本ノ八割分ト見做サバ製紙会社ガ正理トシテ満足スベキノ利益ハ其資本ノ二割、即金六万円ナリトス。(資本ヲ三拾万円ト算ス)
  此ノ如ク論ジ来ツテ能ク製紙会社現時ノ景況ヲ見レバ、其利益ハ未ダ、資本ノ一割ダモ達スルヲ得ズ、実ニ嘆息ノ他ナキヲ奈何センヤ。而シテ仔細ニ其利益ノ多カラザル原因ヲ探索スレバ、主トシテ其熟練ニ達セザルニ拠ラザルハナシ。熟練増加スレバ品位ハ進ミ、製出ハ増ス、実ニ熟練ハ工業家ガ利益ノ元素ト言フモ可ナリ。然リ而シテ此ノ如ク熟練ハ会社ニ於テ甚シキ関係アルガ故ニ、能ク其既往ノ景況ト現時ノ事情トヲ考察シ、創業以来進歩ノ速力ヲ以テ現時ニ比シ来ルトキハ、現時ノ速力ハ更ニ甚ダ遅々タルヲ見ル、蓋シ当初ニアリテハ其業ノ段階甚ダ卑キヨリ其進歩モ殊ニ平易ナル事ヲ得
 - 第11巻 p.53 -ページ画像 
タルモ今ヤ然ラズ、漸クニシテ既ニ簡単ノ科業ヲ踏ミ来リ更ニ艱難ノ蘊奥ヲ求メントスルノ場合ナレバ、其進歩ノ遅々ナル敢テ怪シムニ足ラズ、然ト雖ドモ如何セン吾輩ハ実ニ目的トシテ進行スベキノ標準アル事ナク、恰モ暗夜ヲ行クニ灯ナキガ如キノ状ニシテ、殆ンド為スベキノ術ニ尽キタリト言フベシ。是ニ於テカ鋭意其策ヲ研究スルモ唯其蘊奥ヲ海外ニ求ムルニ他ナキヲ知ル。依テ今左ニ彼ニ就キテ問フベキノ事項ト其理由トヲ列記スト雖ドモ、唯其概略ニシテ一モ拠ルベキ所ナク僅ニ全貌ノ一班ト言フベキ而已。
  破布ハ製紙上最緊用ナル者ニシテ其性質ニ於テハ頗ル研究ヲ要スベキアリ。其大略ヲ論ズルニ同一ノ木綿ナルモ其産地ニ因テ性質ニ異ナル所アルヨリシテ、甚シキ差異ヲ製紙上ニ生ズルコトアルガ如シ。外国ノ製紙ヲ見ルニ其質滑沢緻密ニシテ且光輝アリ、之ヲ水ニ投ズルモ、乾燥ノ後日本洋紙ノ如ク甚シク其様ヲ変ズル事ナク、之ヲ火ニ燃スニ其残燼亦大ニ日本洋紙ニ異ナル所アリ、此般ノ事項ハ一ニ含有スル混和物ノ成跡ナルベシト信ズルト雖ドモ、又少シク破布ノ性質ニ関スルヤノ疑ナキニアラズ。是事ニ附キテハ是迄随分注意ヲ加ヘタレドモ未ダ必然ノ理由ヲ確知スルコト能ワズ。若シ一旦其理由ト医方トヲ確知セバ大ナル改良ヲ和製洋紙ニ起スベシ。
  其他破布ノ製法ニ関シテハ薬品ノ用量、汽圧ノ量、煮ルベキ時間等ニ於ル如ク皆斉シク緊用ニシテ研究ヲ用スベキ事多シト雖ドモ、其細密ノ事実ヲ詳記スルニ於テハ徒ラニ文章ノ冗長ニ渉ラン事ヲ恐レ、余ハ唯緊切ノ事項ヲ摘シテ之ヲ記セント企テタルナリ。
  元来製紙ハ多ク麻ヲ用ユルニ随テ抄造モ益便利ニシテ品位モ愈々精良トナルハ疑ナキモ、現時日本ノ景況ニテハ麻布ハ供給僅少ニシテ実ニ百分ノ五以上ヲ用ユル事ハ到底為シ能ハザル事ナリ。故ニ今外国ニテハ果シテ幾何ノ麻ヲ用ヘザルヲ得ザルカヲ探聞シテ、若シ多量ヲ用ヒザレバ倒底抄造《(到)》ニ難義ナリトノコトヲ確知セバ、麻ニ代用スベキ料ヲ見出ス事ヲ研究セザル可ラズ。現今外国ニテハ抄造ヲ便利ニスルノ目的ニ向ツテハ、一ニ麻ノミヲ用ユルカ或ハ既ニ麻ニ代用スベキモノヲ用ユルカ、是又切ニ探知セン事ヲ要スルナリ。
  破布市場ノ景況ハ今如何ノ場合ニ及ビタルヤ、各製紙書及新紙等ニ就キテ考察スルニ、其供給ハ常ニ需用ニ及バザルニ苦シムヨリ製紙場ニ於テモ競フテ破布ニ代用スベキノ繊緯ヲ得ルニ吸々タルハ、最下等ノ紙ニテハ木材ヨリ製シタル繊緯ヲ混用シタル物多キニテ知ルベシ。而シテ其場合ノ玆ニ至レル以上ハ破布市場ノ有様ガ極メテ微忽ノ点ニ行届キ居ルハ決シテ疑ヲ容ル可ラズ。日本ニテハ現時破布ノ供給充分ナレバ敢テ是ヲ憂フルニ足ラザルガ如シト雖ドモ、年月ヲ経ルニ従ヒ自然供給ニ向ツテ眉ヲ顰ムルニ至ルベキハ実ニ明々タルモノアリ。然ラバ則チ外国ニテ今日ノ場合ニ進ミタル経営ト、現時取引ノ方法トヲ探知シテ之ヲ営業ノ模型ト為スコトハ非常ノ利益ニアラズシテ何ゾヤ。
  此ノ如ク果シテ破布ノ供給ニ向テ痛慮ヲ要スベシトセバ、又一二破布ニ代用スベキ繊緯製法ヲ学バザル可ラズ。今ヤ外国ニテ製紙元質ノ破布ニ次グモノハ藁ナリトス。幸ニシテ日本モ又藁ノ供給ニ乏
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シカラザレバ破布ノ代用品ニシテ先第一ニ望ヲ属スベキモノハ蓋シ藁ナリ、之ヲ紙ニ製シテ破布ヨリ低価ナルコトヲ得バ破布ノ仏底《(払)》ニ至ルヲ待タズシテ之ヲ今日ニ用ユルモ利ナリ。況ンヤ藁ハ価格ノ如何ニ係ハラズ、自然其珪素ヲ含保スルヨリ著シク製紙ノ質ヲ滑沢緻密ト為スベキノ望アルニ於テオヤ。
  破布ハ元来其価甚ダ高カラズ、而シテ其容積甚大ナルガ為ニ頗ル運般ニ不便ナルヨリ沿海ノ地ニアラザルヨリ之ヲ遠地ニ求ムル事難シ、是実ニ吾輩ノ憾トナス所ナリ。然レドモ外国ノ如ク供給ノ不足ニ至リタル場合ニテハ其運輸ノ法ニ於テモ亦必ラズ尽シタル所アリテ、遠地ノ破布ト雖ドモ敢テ之ヲ棄テザルハ論ヲ待タズ、然ラバ其運輸及荷造ノ方法等ハ必ラズ見テ以テ益スベキアルヲ信ズ。
  破布買入ノ手順ハ如何ナル方法ヲ以テ之ヲ至便利ナリトスルカ是又探聞ヲ遂ゲザル可ラズ。
  機械ノ調和ハ製造ノ大眼目ニシテ苟モ其調和ニ於テ欠クル所アレバ精良ノ紙品ヲ出ス事能ハズ、機械固有ノ製出ヲ為ス事能ハズ、而シテ其機械ノ調和宜シキヲ得ル事ハ単ニ人々ノ熟練ニアリテ唯久シキ習慣ノ成課ナレバ口以テ言フ可ラズ、筆以テ書ス可ラズ、是故ニ余ハ今玆ニ於テ唯一言スルヲ得ルノ他ナシ。曰ク機械ノ調和ハ製造ノ眼目ナリ。調和整ハザレバ精良ノ紙品ヲ出スコトナク、機械固有ノ製出ヲ為ス事能ハズト、此ノ如キガ故ニ機械ノ調和ヲ得ルヲ学ブ事ハ切ニ緊要ナル事ニシテ余ガ鋭意シテ其蘊奥ヲ得ンコトヲ望ム所ナリ、製出ノ増加ハ工場ガ富栄ノ進歩ナリト言フベク、製出ノ分量ハ工場ガ幸不幸ノ分量ヲ表スルト言フモ可ナリ、余ハ常ニ外国ノ製紙所ノ製出高ト製紙会社ノ製出高トノ割合ヲ比較シ来ル毎ニ未ダ曾テ嘆ゼズンバアラズ、同一ノ機械ヲ以テ彼ハ果シテ何故ニ夥多ノ製出ヲ為シ得ルカ、何故ニ製紙会社ハ充分ノ製出ヲ為シ能ハザルカハ専ラ同一ノ種類ヲ製造スルト各種ノ製造ヲ為サザルヲ得ザルノ利害ニ在ル可シト雖ドモ又他ニ百般ノ事項アルナカランヤ、若シ能ク審カニ彼我ノ事情ニ通ジ得テ其得失ヲ弁ジ短ヲ棄テ長ヲ採リ孜々怠ル事ナキ時ハ彼ト同一ノ製出ヲ為スニ至ルベキハ理ノ最モ見易キ者ナリ。
  其他機械ノ調和ニ係リテハ汽力ノ倹約法元質ヲ倹約スルノ術又或ハ抄紙具ノ使用法等、一モ緊切ニシテ研究ヲ要セザルモノナシト雖モ事多端ニシテ一々之ヲ記スルニ暇アラザルヲ憾ム。
  製出ノ量ヲ増加スルノ法ト品位ヲ改良スルノ法トハ共ニ工業ノ基礎ニシテ実ニ第一ニ研究ヲ要スベキ事ナリトス。製紙会社ハ此法ニ於テハ両ナガラ未ダ完全ヲ得ル事能ハズ、就中製出高ノ増加ハ追日進歩ノ勢アリテ其速力ハ之ヲ前日ニ比スレバ極メテ迅速ナルヲ覚ユレバ、倒底左《(到)》マデニ痛慮ヲ要セズシテ外国ト同一ノ場合ニ進ムベキヲ信ズルナリ、然レドモ同一ノ費用ヲ以テ同一ノ製出ヲ為スニ非レバ共ニ力ヲ較フルニ足ラザルガ故ニ、彼レハ如何ナル経済ニ依ツテ幾何ノ費用ヲ要シ以テ幾何ノ製出ヲ為スカヲ研究セザル可ラズ。啻是ノミナラズ自今製紙会社ガ製出スルノ量ハ未ダ機械固有ノ量ニ達セザル事遠ケレバ、今ニシテ外国ガ実行スルノ道ヲ探知シ得テ以テ
 - 第11巻 p.55 -ページ画像 
一日モ早ク同一ノ費用ヲ以テ同一ノ製出ヲ為スコトヲ企望セザル可ケンヤ。品位ノ一事ニ至ツテハ是迄社員諸君ガ頭脳ヲ煩シタル幾何ナルヲ知ラズ、其試験ノ為ニ会社ガ費シタル金額モ実ニ少詳ノ事ニアラザルベシ。此成果ニシテ品位ノ改良ニ趣キタルハ亦甚ダ尠カラズト雖ドモ、未ダ曾テ著シキ成果ヲ顕ハシタル事ナシ。
  日本ノ製紙ハ其質軟柔ニシテ密ナラズ、聊カ光沢ヲ帯ルモ僅ニ水分ヲ受ル時ハ其光沢ヲ失ヒテ表面忽チ粗造トナル、之ヲ印刷スルニ細末ノ繊緯板面ニ粘附シテ容易ニ活字ヲ塡塞スルノ害アリ、加之墨汁ノ透通ヲ許シテ酷シク印刷物ノ体裁ヲ汚ス、此般ノ害ハ更ニ洋紙ニ見ル事ナク日本紙固有ノ害ナリトス、而シテ日本紙ト外国紙トガ此ク迄其性質ヲ異ニスルハ理由果シテ何レノ点ニアリヤ、或ハ破布ノ性質ヲ異ニスルト言ヒ或ハ混合物ノ効ナリト論ズ、若シ夫レ是ヲシテ破布ノ性質ナラシメンニハ又如何トモス可ラズ。然ト雖ドモ余ヲ以テ之ヲ見ル時ハ幾分カ破布ノ性質ニ関スルモ多クハ混合物ノ効ナルガ如シ。
  新聞社印刷所ヲ論ゼズ総テ紙ヲ以テ生計ヲ営ム者ハ、其紙ヲ外国ニ仰グヨリハ日本ニ求ムルノ廉価ナルト便利ナルトニ依リテ頻リニ日本紙ヲ用ヒント渇望スルモ、前述ノ害アルヨリシテ深ク望ヲ失フテ只管其改良ヲ待ツノ状アリ。是ノ故ニ社員諸君ガ頭脳ヲ尽クシテ其方法ヲ研究スル、敢テ怠ラズト雖ドモ、未ダ其目途ヲ達スルヲ得ズ、若シ彼我実地ノ景況ヲ目撃シテ、審カニ其原因ト医防法トヲ知リ、能ク宿弊ヲ去リ和製洋紙ノ名誉ヲ回復スルニ至ラバ其需用モ又大ニ増加スルハ決シテ疑ヲ容ル可ラズ。
  製紙ヲシテ墨汁ノ透通ト湿気ノ浸入トヲ受ケシメザルハ一ニ薬品ノ効験ナリ、而シテ其同一ノ薬品ガ異様ノ現像ヲ現ハスコトハ実験ニ富ミタル化学士ト雖ドモ、頗ル其理ニ苦シムコトハ往々製紙書等ニテ見ル所ナレバ、探聞ノ任ヲ担フテ外国ニ行クノ人ハ専ラ精神ヲ此点ニ凝ラシ、敬礼ヲ厚ウシテ人ノ教示ヲ受ケルコトヲ勤メ、傍ラ化学ノ大意ヲ理解シテ日常薬品ノ試験ニ従事シ精励倦マズ、以テ其目途ヲ達スルニ孜々タラザレバ決シテ其目途ヲ誤ラザルヲ保チ難キナリ。
  工場ニ使設スベキ人員ハ可成丈僅少ナルヲ望ム、人員多ケレバ啻ニ夥多ノ給料ヲ要スルノミナラズ、併セテ又百般ノ雑費ヲ増シ大ナル不経済トナルコトナリ。是故ニ工場ノ結構ハ可成丈人員ヲ減ズル様為サザル可ラズ、工事ノ都合ヲ謀ツテ適切ノ方法ヲ設クル時ハ、五人ニテ為スベキヲ四人ニテ弁ジ、十人ニテ為スベキノ業ヲ七人ニテ弁ジ得ルノ方法ナカランヤ。外国ニテハ如何ナル約束ヲ以テ職工ヲ使役スルヤ、如何ナル方便ヲ用ヒテ職工ノ労働ヲ奨励スルヤ、又職工ハ其方法ニ向ツテ如何ナル感想ヲ懐クヤ否ヤヲ探知スルハ又欠ク可ラザル事ナリトス。
  同一ノ出金ヲ以テ可成丈多量ノ返報ヲ要スルハ、経済ノ大主義ナリ。而シテ其同一ノ出金ニテ返報ニ大差異アルハ給料ヨリ甚シキ者ハアル可ラズ。給料支給ノ方法ヲ失スレバ決シテ其応分ノ返報ヲ得ル事能ハザルナリ。而シテ其支給法ハ孰レガ最利ナルカハ、識者ノ
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研究ヲ待ツコトニシテ容易ニ此ヲ知リ難キナリ、確ト支給ノ金額ヲ定ムレバ職工ノ気風自ラ偸安ニ流ルヽノ弊アリ、製出ノ高ニ依テ給料ヲ支給スレバ工事自カラ粗鄙ニ流ルヽノ害アリ、畢竟給料ハ僅ニ職工ノ感想ニ依テ返報ニ差異ヲ生ズルニ過ギザレバ外国ノ製紙所ガ支給ノ方法ト職工ガ労働ノ景況ヲ見テ其長短ヲ取捨シタランニハ大ニ我ニ利ナルノ道ヲ得ル事アラン。
  学士ヨング氏曰ク、財産ノ魔術ハ能ク砂ヲシテ金ニ化セシムト、旨アル哉言矣、蓋シ物一度ビ人ノ所有トナル時ハ其擁護琢磨ニ拠テ遂ニ著シク変化ヲ為スヲ言フナリ。サレバ給料支給法ノ完全ニシチ《(テ)》其当ヲ得ルヲ望事言フモ唯職工ガ其工場ヲ見ル事己レガ財産ヲ見ルガ如クナルヲ望ムニ過ギズ、聞ク処ニ拠レバ外国ノ製紙所ハ賞与金給法甚ダ完全ニシテ其職工ハ競フテ多量ノ製出ヲ為サントス、余ハ未ダ其如何ヲ知ラズト雖ドモ実験ニ富ミタル外国製紙所ガ為ス処ハ必ズ大ニ拠ルベキ所アルベキヲ固信シ一日モ早ク其方法ト成果トヲ実験セン事ヲ望ムナリ。
  現今米国等ニテハ製紙需要供給之割合ハ如何ノ景況ヲ市場ニ顕ハスカハ詳カニ之ヲ知ラズト雖ドモ、製紙新聞等ニ就キテ考察スルニ市場ハ常ニ供給多キニ過ギ、製紙家ノ技師ノ進歩シテ製出ノ増加スルニ係ハラズ、品位ノ益精良ニ趣クニ係ハラズ、頗ル其売捌ニ困難スルノ如シ。甚シキニ至ツテ製紙家中条約ヲ設ケテ互ニ夜業ヲ廃シテ市場ノ過積ヲ減ゼント論ゼシ者アルヲ聞ケリ。此ノ如キガ故ニ製紙ノ原価ト売価ノ差異ハ益々僅少ノ場合ニ陥リタルハ疑ベキニアラズ。而シテ其困難ノ多キニ従ツテ製造ノ経済ヨリ売捌ノ方法ニ至ル迄、悉ク能ク綿密ノ点ニ達シタルベキハ又疑ヲ容ル可ラズ。
  製紙会社ガ現時営業ノ体裁ハ素ヨリ之ヲ幸福ナリト言フベキニアラズト雖モ、未ダ必シモ断ジテ之ヲ不幸ナリト言フベカラザルナリ製紙会社ガ充分ノ利益ヲ得ルニ由ナキハ、需用ノ僅カニ依ルニアラズシテ、製出ノ不充分ナルニ拠ルナレバ、漸々技術ノ進歩ニ応ジテ其事情ノ安楽ニ達スベキハ論ヲ待タズ、余ヲ以テ此ヲ言ハシムレバ製紙会社ハ不幸ナリト言ハズシテ、寧ロ之ヲ幸福ノ位置ニアリト言フベシ。
  既ニ斯ノ如ク幸福ニ進ムベキノ位置ナル製紙会社ニシテカノ艱難ナル米国ノ製紙所ガ研究セル方法ヲ解得シタランニハ、其幸福ハ蓋シ余アルニ至ランハ決シテ疑ヲ置クベキニアラザルヲ信ズ。
 此の文章は今日より見れば必ずしも巧妙の名文とは言へぬが、二十歳の青年が明治十二年に書いたものであることを思へば、其の一社の運命を双肩に担はんとする気魄の、雄渾であることを感ぜずには居れぬ。そして此の建議書は渋沢君と谷敬三支配人が見たのであるが、眼光紙背に徹する長老は之を見て、大川君自ら洋行する積であると看破したのである。そして大川君を洋行せしめて製紙会社の発達に必要な事項を調査学習せしむることに就いて、相談が調つたらしく、或日渋沢君が大川君に対し種々の談話中、外国へ行つても英語が出来なければ無益であると言ふ話をし出でたので、大川君は敢然として大概の用事は英語でやれる積であると答へた。
 - 第11巻 p.57 -ページ画像 
 そこで渋沢君は益田孝君宛の一通の書簡を認めて、大川君に渡し返事を聞いて来るやうに命じたのである。大川君は何気なしに益田君を三井物産会社へ訪問して右の書簡を手渡した所が、益田君は書簡を読みて之を巻き収めた後、頻りに英語で話しかけるのであつた。大川君は益田と言ふ人は妙にアメリカ癖のある人であると思ひ、英語で返答して居つた。所が是は渋沢君が益田に対して大川君の英語の能力の試験を依頼したものであつたらしく、益田君から渋沢君に対し大川は自分の用事位は十分に達し得る英語を知つてゐる。外国へ行けば至急に語学の能力が発達するであらうから其辺の心配はない、此点は保証すると言ふ返事が来た。斯う言ふ訳で大川君は愈々社命によりて洋行する事となつた。当時会社には月給百円から六・七十円を取り、大川君の上席に坐する社員が三四人も居つたに係らず、大川君が独り洋行を命ぜられたのであるから、其得意、思ふべしである。
○中略
 大川君が最初に入つた工場はホリヨークのビーブ・エンド・ホルブロツク会社で、此の工場には小野寺正敬氏や村田一郎氏等がゐて日本人に馴染の人が多かつた。次に雇れた所はホワイテング・ペーパー・コンパニーであるが、此の会社は主として筆記紙を製造するので大川君の希図する所ではなかつたが、目的以外の事も一通り見聞して置けば他日また何かの役に立つであらうと言ふので暫時玆に居つた。其の次はホリヨークのコルツケル・マニフアクチウア・コンパニーに移り玆で八ケ月ほど働いたが、社長コロツケル氏は純真の紳士で大川君に対して親切に種々の面倒を見て世話して呉れた。大川君は固より日本で工場の管理までをしたほどであつたから其の目は尋常職工の目ではないので、此の工場に於ける八ケ月の実験によりて得たる所は中々多くあつた。
 次に大川君はコロツケル氏の周旋でコンネクチカツト州のホルスフオルのモンテギユ・ペーパー・コンパニーに入つた。社長マーシヤル氏はグラウンドパルプの製造に関し有効なる発明専売権を有し、また盛んに麦藁を使用して紙を製造しつゝあり、新案採用に依つて有名なる人物であつた。後年大川君が二度目に往訪した時は今世界中の製紙界一般に恩恵を享けつゝあるマーシヤル・トレーンと称するコーンボレーを以て抄紙各部の速度を勝手自由に調節し得る機械の図案中で、大川君は此の設計に参加したと云ふ。斯かる人物の下に修業した事は実に不思議の僥倖とも言ふべき事で、マーシヤル氏に就いての僅々数ケ月間の修業が大川君の将来を支配した程の効果が有つたのである。此処で十分に藁の原料製造法を習得し、之を日本へ土産としたのであるが、前にも述べた通り日本の紙の原料として居る襤縷は段々欠乏して将来其の供給に苦むは遠きにあらず。藁は年々産出する無限の物であり其の価は安くしてボロの比にあらず、故に之を以て将来事業の基礎とすべきであると思ひ付いたのである。それのみならずマアシヤル氏の卒直、簡易、勤勉の社長ぶりは大に大川君を啓発する所があつたらしい。
 以上の如き工場歴遊で王子製紙会社に対する大川君の御土産は十分
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であつたので、此の経験から立てた新方針を日本で実行して見たいと言ふ考が浮ぶと共に帰心矢の如くになつて来たが、尚一層の経験を加へたしと、今回はニウヨークのシヤワンガム会社に傭れた。此の会社は以上数種の会社が襤縷と麦藁と同じく原料とするに反し、全部麦藁のみを原料とする一点に於て、特異性を示し、一層大川君の決心を固めた。此の会社の工場経営に関し大川君は左の如くに語つた。
  此の会社は全部麦藁ばかりで何も使はない、此の近傍の藁を悉皆買集めて白紙を製造して居る全米国中唯一ケ処の工場であつた、其処で感心したのは事務員が一人も居ない事である。社長一人それからトランターといふ技師長格の老人が一人あつて、其の息子が紙の仕上方を担任して居た。尤も原料が藁ばかりであり、そして始終同じ紙を漉いてゐるから、工程に色々な面倒がないから、そんな風でやつて行けたのである。其の社長が私も此処に家はない、工場の傍の人の家に下宿して居るのだから貴方も其処へお出でなさいと言つて呉れて、其処に一ケ月ばかり居つたが、其処で感心したのは近所の百姓が藁を馬車に積んで持つて来ると、社長の部屋の窓下に大きな計量器が据附てあり、馬車台ぐるみ目方を見るのであるが丁度社長の腰を掛けて居る処に、秤の分銅があつて此処でオーライと言つて社長自身がチヤンと目方をつける。斯く原料の受入れは皆社長が一人でやつて居つた。工場の方はトランターと言ふお爺さんが一人で工場を看廻つて居る。さういふやうな訳で、其処で丁度暑い時分であつたから是れから湯に入らうといふことになつたが、村中に風呂場がありはしない。社長が僕を連れて行くといふので社長と一緒に行つて見ると、水車の余水が出て来る所がある。其処に行つて水を浴るのであつた。如何にも変つて居る。而かも此の水浴で初対面の僕と社長とが互に背中を流し合つたと云ふ、如何に其の質素であつたかゞ窺はれるであらう。
 大川君のアメリカ滞在中は二週間毎に其の見聞研究によりて得たる意見を会社に報告しつゝあつたことは、既に前項に記したる如くであるが、之に対して渋沢君(社長ではないが事実上の首脳であつた)が多忙の中から数十回の返事をして居る。其の往復の書面を見て深く感動したのは、此の二十一歳の少年職員に対して、渋沢君は第一銀行の用箋に細字で認めた書簡で、長きは六七枚短きも三四枚に亘る長文で本社の経営状態経済関係を委細説明してゐる。それは恰も会社の社長が専務取締役の出先へ、社務を報告するが如き状態である。此の点に於て渋沢君は殆ど大川君の年齢を忘却し、老成の人と思うて音信しつつあるのではないかと思はるゝほどである。そして其の書中には大川家の状態なども報じ『毎便の来報にて日に増し、上進の勢に相見へ、拙生も末頼母敷存じ候、乍然百事自惚と慢心は大弊害を為すものに付縦令識見稍々相進候とて、工事の研磨稍々出来候とて、呉々も小成に安んじ又は自尊等の念は不相生、勤勉益怠倦等無様御留念専一に候』と言ふやうな、厳父的慈愛に満ちた文言が少くない。また大川君がアメリカの工場で機械の為めに手に負傷したることを報告したるに答へて『大に心配仕居候処追々快方の由、先づ先づ安心仕候、工場に従事
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する人は尚ほ船乗りが水中に怪我すると同例にて、必らず之を避くることが出来ざるも、常々注意を厚くせば免れる所もあるべく、別して御用慎可有候、併し貴兄には左筆の巧手に有之候、爾後も消息は続々御申越にて大に安堵仕候、其上会社宛の御状は、常体の右筆に付猶更全快を遥賀仕候』と言ふやうな細心の注意を以て、大川君の書状を読んだことを想像せらるゝ文言もある。また『偖毎便支配人への報告は一々披見致候、来意領掌、且つ事務上の件は、其時々各課長へも相示し、常々来状を以て、会社々員の勉強心と、思想の念を増さしむる好機会と存居候』と言ふやうな文言もある。
 大川君は渋沢君に対する報告の他に、支配人谷敬三氏に対しても、工務財務上の報告や意見進説を怠らず、其の大なるは王子製紙会社が製紙原料である襤縷の買入に就いて、神戸にある外国人の製紙会社と競争するは破布商人の術中に陥るものであるから、決して得策でないと言ふ忠告から、小はコンパウンド・インジンを据え付くることや、製紙に使用する糊や薬品に至るまで、凡そ気附きたることは大小となく報告した。そして谷支配人は之に対して詳細の返答を為したる書簡が残つて居るが、之を見ても、谷支配人もまた大川君帰朝の後の活躍に就いて深く望を嘱して居たことが窺はるゝのである。
 斯くて大川君はアメリカの会社工場を歴遊研究すること約一年と四ケ月で帰朝することゝなつた。此の間大川君は決してホテルに宿泊せず下宿屋を遍歴して居つた。大川君が王子製紙会社より支給せらるゝものは毎月五十弗であり、そして大川君がアメリカの工場で職工として受くる所の給与は、一日一弗二十五セントであつた。然るに大川君の支出する下宿料は一週間三円五十銭であつたから、本国から送る手当は殆ど全部貯金となつて残存したので、日本に帰るときは千円程の金を懐にして居つた。