デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
6節 製紙業
1款 抄紙会社・製紙会社・王子製紙株式会社
■綱文

第11巻 p.67-71(DK110011k) ページ画像

明治17年5月(1884年)

製紙会社社員大川平三郎ヲ欧洲ニ派遣シ、木材ヲ原料トスル製紙方法ヲ研究セシム。


■資料

社事要録 第一巻(DK110011k-0001)
第11巻 p.67 ページ画像

社事要録  第一巻        (王子製紙株式会社所蔵)
明治十七年
五月 大川平三郎ヲ解傭ス、但同人ノ欧米製紙業視察ノ補助トシテ、凡ソ弐ケ年間毎月金五百円宛支給ス
十二月 在英国「マンチエスター」府大川平三郎ヘ、製紙伝授料トシテ、英貨四百弐拾五磅ヲ支給ス
明治十八年
九月 大川平三郎欧洲ヨリ帰朝ス
十二月 「パーチントン」専売ノ剪紙機ヲ創使ス


青淵先生六十年史 第二巻・第一一六―一一七頁 〔明治三三年二月〕(DK110011k-0002)
第11巻 p.67 ページ画像

青淵先生六十年史  第二巻・第一一六―一一七頁〔明治三三年二月〕
 ○第三十章 製紙業及印刷業
    第二節 王子製紙会社
○上略
明治十七年再ヒ大川平三郎ヲ海外ニ派遣シ、製紙業ノ状況ヲ視察セシム、此ノ時ニ当リ欧米ニ於テハ木材ヲ以テ製紙ノ原料トナス新法ノ発明アリテ、製紙業ニ一大革新ヲ来サントスルノ秋ナリシト雖モ、其製法最モ秘密ニシテ、容易ニ学フ能ハサリシモ、大川ハ幾多ノ艱苦ヲ嘗メ、其法ヲ研究シテ帰朝シ、直チニ此レヲ実施シ、種々ノ製法ヲ折衷シ、殊ニ煮釜ノ如キ、本社創見ノ新装置ヲ工夫スルニ至レリ、此レ本邦ニ於テ木材原質ヲ使用シタル創始ナリ


王子製紙株式会社回顧談(男爵 渋沢栄一) 第五八―六〇丁(DK110011k-0003)
第11巻 p.67-68 ページ画像

王子製紙株式会社回顧談(男爵 渋沢栄一)  第五八―六〇丁
    一三、木材原質紙の製造
前にも述べた如く、明治十三年頃の紙価は一封度十三四銭以上であつたから、紙として非常に高値なものではあるが、併し、一方から見ると、其の頃唯一の原料であつた襤褸は一貫目八銭内外で、石炭は一万斤五拾円の相場であつたから、生産費に追はれて利益が少い。これは如何しても生産費も減じ紙価も安価にせねば此の事業は十分に発達を遂げないのである。然るに玆に又紙価が高いから製品の需用が供給に及ばぬといふ嫌ひを生じて来た。これを救ふには一は世の進歩に頼むより外ないが、更に又世の進歩を頼むに最も重要なことは価を廉くすることである。価が低落すれば自然と他の競争品は其の為に圧倒されて仕舞うのは経済の原則である。而して製紙会社の当時の状態も其処にあつたのだから、即ち廉価にして多額を捌くことに尽力せねばなら
 - 第11巻 p.68 -ページ画像 
ぬ時期に到着した。それで段々価を下げ製品を成る可く売捌くと云ふことを務めてゆく中に、予期した如く世の中の進歩に伴ふて次第に需用を増す様になつて来た。併し需用を増したことは大に祝すべき現象であつたが、之に従つて価を下げなければならぬといふことには困つて仕舞ふた。本社も創業当時は一年の製造高が僅かに四十万封度であつたが、十八年頃には二百五十万封度となり、産額は凡そ六倍を数ふる迄進んだが、一方の価格は四割も下つて居る。産額と価格とは恰も逆比例してゆく訳で、当業者に取つては甚だ迷惑な有様となつた。其処で更に最う一歩進んで考へて見れば、今後此の工場を完全に維持することは難いかも知れぬといふ様な恐れを生じたので、これは海外諸国の情勢を斟酌する必要があると思ひ付いたから、明治十七年の五月再び大川平三郎氏を欧羅巴に派遣し、製紙業視察をして来る様にと命じた。然るに大川は英国のマンチエスターから通信して、欧羅巴は今盛んに木材原質を以て紙を漉く様になつて居る。是必共《(非)》これを日本でも学ぶ様にしたいと其の事を巨細に書き送つて来た。英国のバーチントンといふ人が発明した方法で、其の工場へ這入るばかりの束修が殆ど二千円程も必要であるといふので、大川氏から其の工場へ這入つて其の技術を修めて宜しいかといふことを電報で問合せて来た。それ故此方からも、それは宜しい。それだけの金を払つて技術を伝習して帰る様に、又金は直に為替で送つてやると返信した。依つて其の年の十二月製紙伝授料として英貨四百弐拾五磅(四千百五拾円余《(弐)》)を送金した。斯くて大川氏は十八年の九月欧洲から帰朝したが、それと同時に木材原質を以て紙を製造すると云ふことの工事に取り掛つた。それから段々工夫を積んで行つたが、十九年の十月に至り漸く準備が整ひ、初めて木材を煮て原料に混用した所が案外にも成績が良好であつたので、更に木材工場を増設し、引続いて木材原質紙の製造に努めた。
○下略


大川平三郎君伝(竹越与三郎編) 第一四九―一六〇頁〔昭和一一年九月〕(DK110011k-0004)
第11巻 p.68-71 ページ画像

大川平三郎君伝(竹越与三郎編)  第一四九―一六〇頁〔昭和一一年九月〕
    第七、王子製紙会社の支配人
○上略
 大川君は明治十二年に二十歳でアメリカへ行き、約一年半の後翌十三年二十一歳で帰つて来た。然るに此の二三年の間に欧洲の製紙界は異常の進歩を来たし、十六年に木材のパルプを原料とする工業が起つた《(て)》来た。そこで此の新事業を研究して、一日も早く日本に取り入れねばならぬと言ふので、明治十七年五月更に欧洲へ渡航することゝなつた。此の時大川君は二十五歳であつた。今日の印度洋は丸ラインと言はるゝほどに、日本汽船が優勢を示す処であるが、其の頃はイギリス船の勢力範囲であつて、インド洋から一旦イタリーのナポリに到着しナポリからマルセーユに転航するのであつた。
○中略
 大川君はパリに入つてから諏訪と言ふ海軍書生の古手を通弁として帯同し、所々の工場を視察した。諏訪は其後パリの売笑婦を妻として諏訪ホテル等といふ細やかな宿屋を営んで居つたものである。其中に
 - 第11巻 p.69 -ページ画像 
最後の目的であるロンドンに入り、イリス商会の主人カールイリス氏の紹介でマンチエスター附近のクロウソにあるハーヂントンの工場に入る事が出来た。此の人は所謂るセルフ・メードマンで職工から成り上つて、サーの爵位を貰つたほどの人であるが始めてソルフアイトパルプ工場をイギリスに建設したのである。但しイギリスには木材が乏しいのでノルウエーから木材を輸入して居つた。此処で伝手を求めて千磅の謝金を払つてパルプ製造の方法を見せて貰つた。勿論それは今日から見れば幼稚なものではあつたが方式だけは会得することが出来て、此の後の運用は唯だ己れの一心に存するといふ段取りとなつた。大川君はそれからドイツに行つて種々研究する所があつた。大川君が前年アメリカに居た頃同じ下宿屋に居つたドイツ人でフリンシユと言ふ人があつたが、大川君が日本に帰る時、彼も日本を見物したいといつて大川君と同行して来たので、之を渋沢栄一君に紹介したり、種々世話した事がある。彼はドイツのフライベルグに小さな製紙工場を所有して居るので、此の男に手紙を出した所が、早速返事が来て自分の家に宿泊せよといふ。そこで訪問すると彼は意外にも男爵になつて居つた。彼はフオン・ヒルレルンといふ男爵の跡取娘の所へ入婿となつた結果で、両家の名を取りホン・ヒルレルン・フリンシユと名乗つて居た。大川君は一ケ月位フリンシユ男爵の家の客となつて居つたが其の工場は極めて古式のものでビーターにベルトを用ひず、メーンシヤフトから直ちに歯車を以て動かす程度のもので独逸でも旧式の物であつて、工場に於ては別に得る所はなかつたが、フリンシユ男爵の為めに社交上の便宜を得ることは極めて多かつた。
 此処で大川君は、種々に考究した結果、トリエスト市にあるバーロン・リツテルといふ人の工場に行つて見学することゝなつた。此処の技師長にケルネルといふ偉大な化学者があつて、熱心に仕事をして居つたが、此の人は後に前項に記したイギリスのハアヂントンと結托してケルネル・エンド・ハーヂントンコンパニーといふ大工場を建設したのである。大川君は此の工場に行くに就ては非常に苦心した。此の上更に金を払つて技術を学習するといふ訳にも行かず、金に就ては話にはならぬ。さりとて是非工場の研究はせねばならぬといふので、如何にせば此の目的を達し得べきかと、頻りに苦心し末に一種の権道に出た。大川君は前年アメリカに居つた時は下宿住ひをしてホテルには泊らず、百事倹約にして工場に於ける体験から知識を吸収することに勉めたが、今回は第一等のホテルに宿泊して威容を盛んにするのみならず、日本に於ける自分の位置を誇張して人に語り貴公子然として二頭立の馬車に乗り、豪然としてリツトル邸の表玄関に刺を通じた。此の策略は果然効を奏し男爵リツテル令夫人直に出て会見し、大川君を優遇すること一方ならず、工場を開放して其の研究に任せたのである。大川君の慧眼以て見学すれば、二三度の見学は二三人の技師が二三ケ月を費して研究したよりも、早く要点を握ることが出来るので、夫れからアメリカを経由して帰朝した。そして直ちにケルネル式によつて王子製紙会社の構内にサルフアイトパル《(プ脱)》工場を建設したのであるが、其れは明治十七年で此時米国には未だサルフアイト工場は無かつたの
 - 第11巻 p.70 -ページ画像 
である。
 此れに就いて大川君の着眼に間違はなかつたけれども、事業の成績は余り面白くなかつた。第一、当時製紙の原料は秩父の山林を目当にして居つたのであるが、其の原料の供給が思ふやうでない。そこで静岡県下の三椏殻に着目した。此の頃静岡県地方では三椏を原料として駿河判紙を盛んに製造して居るが、三椏は皮を剥き之を紙とするので其の骨は全然廃物として捨てられたものである。それを西洋紙の原料として使用するのは名案であると思附き、浅野君に相談して三椏の骨の買入事業を一手に請負はす事となり、大川君は浅野君と共に岩淵に居所を定め、富士川の上流各所を遍歴して、此の計画を進めたので静岡県下の三椏の骨は殆んど全部買占の形となり、秩父から来る材木と合してパルプを作ることゝなつた。当時の材木は一石の価が一円八十銭位であつて、之を紙に漉けば一封度十四銭に売れた。若し当時今日の如き優秀な技術があつたならば非常の巨利を博したであらうに、思ふほどの巨利を得なかつたのは技術の欠乏であつた。之に就いて大川君は左の如く語つて居る。
  此より以前欧羅巴では釜が破裂するやら色々な困難をして、其のパルプといふ産業の為に幾人の人が死んだか幾人が財産を潰して居るか判らぬ位である。私はその真最中に入つたのである。斯く欧洲諸国でもまだ大成して居らぬ、此の困難なる事業を一人の力で日本に移さんと企てたのは、大胆に過ぎ、寧ろ暴挙とも言ふべきであるが、此サルフアイトパルプに対する観念が欧洲の人々と吾輩とは大に異なれる所があつて、吾輩は成功を急ぎ過ぎたのであつた。夫れは此のパルプは日本の三椏又は楮に酷似し色々の日本紙を製するに最も安く最も便利で、此もの一度世に出るならば日本の斯業界は忽ちに一変し、三椏や楮は無用の長物と化し、パルプ業者独り巨利を占むるに至らんとの考が非常に強かつた為めである。是れが事実の真の告白である。されどもかゝる大事業を夫ほどに重要視せず、随つて見透し研究が不行届であつて幾多意外の故障に遭遇して第一回の試みは不成功に終つた。薬の為めに設備の各部がドンドン腐蝕する、薬の強度が思ふ様にならず釜の内面を張る鉛薬は変質する、木材は段々腐蝕する。三椏殻の事に至りて、話にならぬ厄介物であつた。嵩張つて沢山積む事の出来ぬ為め運賃が非常に高くなり、材木よりは割高のものとなるのみならず、真白のものが薬で煮ると真赤に変色し、之を白くするには木材よりも費用がかゝる等種々なる厄介問題が連発する。そこで速に此の仕事を思ひ切り、さうしてもう一度亜米利加の方で一研究した上にすべきであると決心し、木材の煮釜を急に藁の煮釜に改造したが、是が非常の成功で木材や三椏を使用するよりも遥に有利であつた。此の為に王子に於ける遣り損じの事は話にならずして済んだのである。木材煮釜を藁釜に変更するに付き吾輩の新考案は大々的名案であつた。其の構造の事を述ることは余り面倒である故遠慮する。唯だ僕は一つ大に困つたことに遭遇すると、直ちに禍を転じて福となす案が立どころに何時の場合でも浮ぶ。「如何なる場合でも一切困らぬ」といふ自信は常に持つて
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居たので、仕事をしてゐる中に困るといふことに出遇ふと、何かしら切り抜ける方法が浮いて来たのである。
 右の如くにして王子に於けるパルプ事業は旨く行かぬので、更に再転して藁を原料とする事となり、釜や其の他の設備を一変して終ひ、同時に材木の腐蝕せぬ中にと思ひ立つて、材木は木場の商人に一切売却してしまつた。