デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
6節 製紙業
1款 抄紙会社・製紙会社・王子製紙株式会社
■綱文

第11巻 p.71-75(DK110012k) ページ画像

明治20年3月27日(1887年)

製紙会社、資本金ヲ増シテ五十万円ト為ス。尋イデ本社ノ隣接地ニ第二工場ヲ増設、又大川平三郎ヲ米国ニ派シテ製紙器械ヲ買入レシメ、星野錫ヲ米国ニ派シテ印刷業ヲ研究セシム。


■資料

願伺届録 明治二十年(DK110012k-0001)
第11巻 p.71 ページ画像

願伺届録  明治二十年           (東京府庁所蔵)
    製紙会社設立願
                      谷敬三
     指令按
書面会社設立ノ儀ハ追テ一般ノ会社条例制定候迄ハ、人民ノ相対ニ任セ候条、其旨可相心得事
 (理由)本願ハ更ラニ資本金弐拾五万円増加ニ際シ、本年二月第十三号府令ノ趣モ有之、右ニ基キ会社設立之義願出候処、該会社ハ已ニ明治十三年十月中所轄郡役所ヘ届済、営業致来候次第、且定款中不都合ノ廉無之ニ付別段発趣人等《(起)》ノ身元調ヲ不要、本按指令ヲ付スルモノトス
(別紙)
    製紙会社資本金増加ニ付御認可願
当製紙会社之儀、去ル明治十三年十月十六日、所轄郡役所へ定款御届済、爾来漸々事業隆盛ニ赴キ候ニ付、資本金二拾五万円ヲ増加シ、定款改正ニ際シ本年二月第拾三号御府令之趣モ有之候ニ付、今般更ニ資本金五拾万円ヲ以テ会社設立之儀出願仕度、依テ別冊改正定款相添候間、何卒御認可被成下度、此段奉願候也
             東京北豊島郡王子村六拾番地
  明治廿年五月十日      製紙会社支配人
                    谷敬三(印)
    東京府知事 高崎五六殿

前書出願ニ付奥書候也
 明治二十年五月 東京府北豊島郡王子村戸長 熊谷源左衛門
         東京府北豊島郡長 桑原戒平


願伺届録 会社明治廿一年(DK110012k-0002)
第11巻 p.71-72 ページ画像

願伺届録  会社明治廿一年     (東京府庁所蔵)
    王子製紙会社株主姓名届
   旧株    新株      住所             姓名
  七百六拾株 六百六拾株  神田区北甲賀町四番地      西村乕四郎
 - 第11巻 p.72 -ページ画像 
  三百八拾株 三百三拾株  日本橋区駿河          三井八郎次郎
  三百株   三百五拾株  浅草区新旅籠町十六番地     高野栄次郎
  三百株   弐百株    深川区福住町四番地       渋沢栄一
  百六拾一株 弐百五拾八株 日本橋区北新堀町十八番地    浅野総一郎
  百四拾一株 弐百三拾八株 西京三条通東洞院西入ル廿六番地 中井三郎兵衛
  八拾五株  百拾株    北豊島郡王子村拾五番地     大川平三郎
  七株五株  百株     同               谷敬三
○中略
  明治自廿年一月至十二月


(製紙会社)明治二十年上半期考課状抄本(DK110012k-0003)
第11巻 p.72 ページ画像

(製紙会社)明治二十年上半期考課状抄本
                  (王子製紙株式会社所蔵)
    資本増加
三月二十七日 第一国立銀行ニ於テ本社株主ノ臨時総会ヲ開キ、工事拡張ノ為メ資本金ヲ五拾万円ニ増加シ、新ニ工場ヲ増設スヘキコトヲ議決セリ
四月十二日 新株第一回ノ払込金壱株ニ付拾円ヲ募集セリ(増株券ノ壱割弐万五千円)
六月十六日 是ヨリ先キ東京府庁ヘ本社増株ノ認可ヲ出願セシニ、此日、追テ一般ノ会社条例制定マデハ人民ノ相対ニ任セ候条其旨可相心得ト指令アリタリ


社事要録 第一巻(DK110012k-0004)
第11巻 p.72 ページ画像

社事要録  第一巻        (王子製紙株式会社所蔵)
明治二十年
四月 東京分社員星野錫ニ印刷事業研究ノ為メ二ケ年間米国ヘ留学ヲ命ズ
九月 第二工場用器械類買入ノ為メ、大川平三郎ニ米国出張ヲ命ズ、星野分社員モ相伴フテ渡米ス
明治二十二年
十月 分社員星野錫米国ヨリ帰朝ス


王子製紙株式会社回顧談 (男爵 渋沢栄一) 第六一―六三丁(DK110012k-0005)
第11巻 p.72-73 ページ画像

王子製紙株式会社回顧談 (男爵 渋沢栄一)  第六一―六三丁
    一四、増資と明治二十年頃の製紙界
社会の進歩は漸く十八年頃となつて紙の需用を著るしく高めて来た。此の時代は彼の欧化主義の鼓吹された時代で、新聞雑誌は未曾有の繁盛を来し、又小説の翻刻が非常な流行となつた為に、外国紙の輸入は相当にあつたけれども、需用額が激増の結果、内地紙は供給不足を告ぐる有様となつた。二十年の後半期に於ては、彼の有名なる大阪国事犯嫌疑事件の起つた関係などもあらうが、紙の需用は愈々多くなり、年末には本社の如き貯蔵紙悉皆売尽して仕舞ひ、註文が諸方から来るのを謝絶するに、却つて困難を極める位であつた。それで其の年の七月から紙価を改め普通印刷紙一封度を七銭八厘、番外紙を五銭五厘とし、売捌割引を壱割弐分としたけれども、年末に及んで需要旺盛なる上に製品払底といふので、新聞紙を八銭壱厘、別口を九銭五厘に上騰した程である、所が此の盛況を見るに及んでは世の中の企業家が黙視
 - 第11巻 p.73 -ページ画像 
して居らぬ。十九年から二十二年までの間に、四日市製紙会社・富士製紙会社・千寿製紙会社、阿部製紙所(後の日本製紙会社)等の如き比較的大規模の組織を有する製紙業が陸続として起り、其の多くは二十二年中に竣工して製品を市場に出す迄に至つた。これ明かに製紙業勃興の機運に際会したものである。
然るに我が製紙会社も此の盛運に際会して袖手しては居らなかつた。明治十三年の六月株主会議で資本金を弐拾五万円と限定し、尚積立金を拾壱万円と為すことに決議して以来、別に増資計画も無く数年継続して来たのが、将に機運は熟したと見たので、二十年三月臨時株主総会を招集し、其の席上で事業の規模を拡張すべき必要に迫つた理由を説明し、増資して資本金を五拾万円にすることを決議した。其の年六月払込を了し、其の結果王子に第二工場を増設し、気田に分社を設置することゝなつた。依つて第二工場の機械類買入の用務を帯びて其の年九月大川氏に三度目の渡航を命じ、東京分社の星野錫氏も印刷事業研究の為め同時に二個年間米国へ留学することゝなつた。同年十月には第二工場設立の為に、王子工場の南部の隣接地千五百九十四坪を購入れ、翌年十一月清水満之助氏の建築請負で工場の新築に着手したが此の工費金四万八千八百余円であつた。斯くて工事も進捗し、器具機械類も整備したのが二十三年の春で、三月から創業することゝなつたが、此の第二工場新設に要した一切の費用は、総計金弐拾壱万千百八拾参円余、これに昨年十二月創業した気田分工場の新設費を合すると、合計金高参拾弐万五千六百五拾壱円余の支出であつた。併し乍ら第二工場の新式機械といひ、気田分工場の木材原質紙の製造といひ、将に来るべき機運に乗じて文運の開発に資すべき準備は玆に成つたのである。


渋沢栄一 書翰 山辺丈夫宛(明治二〇年)四月二六日(DK110012k-0006)
第11巻 p.73-74 ページ画像

渋沢栄一 書翰  山辺丈夫宛(明治二〇年)四月二六日
                    (山辺清亮氏所蔵)
爾来御清暢拝賀、然者貴兄此度第三工場器械買入之為、英国行被成候ニ付而ハ、先其途次ハ米国を経、御旅行之積之由、先頃之御来書ニても承知仕候、依而王子製紙会社ニても、此間株主総会ニて倍高之株増いたし、更ニ木材原質之製紙業創設之筈ニ付、右器械類買入之為、大川平三郎米国迄派出之都合ニ候間、可成ハ御同行相成、右器械之中蒸気機関等之事ハ米国之方可然歟、又ハ英国ニて買入候方歟両様之見込取調、品ニ寄貴兄ニ相願候様仕度候ニ付、何卒御含御尽力可被下候
右製紙会社之事も新創ニて、未タ其原質工場之位地確定不致候ニ付、製紙業之土地も相定不申候、右等も運送賃之関係ニより候次第ニ付、其辺ニ付而も高案も御坐候ハヽ御垂示被下度候
貴兄洋行留守中之都合ハ、過日之回答書ニ委細申上候ニ付、尚取締役と充分御相談可被下候
又川村・中山、支那行ニ付而ハ手続書相認、先日さし上候ニ付、右ニて貴方異見無之候ハヽ清国公使紹介之張実生、引合済次第出立相成候様御指揮可被下候
右大川出立ニ際し御依頼旁申上度、如此御坐候 匆々再拝
 - 第11巻 p.74 -ページ画像 
  四月廿六日
                      渋沢栄一
    山辺丈夫様


竜門雑誌 第九号・第一五―一六頁〔明治二〇年一二月二五日〕 ○渋沢君経済学者を招待す(DK110012k-0007)
第11巻 p.74-75 ページ画像

竜門雑誌 第九号・第一五―一六頁〔明治二〇年一二月二五日〕
    ○渋沢君経済学者を招待す
 渋沢栄一君は楓紅の節を幸とし、去月二十三日午前十一時より和田垣・坂谷・土子・添田・浜田・犬養・森下・中橋・嵯峨根の諸氏所謂る府下の経済学者なるもの二十余名を王子別荘に招きて園遊会を催ふされたり、此日は穂積陳重氏、第一銀行の佐々木勇之助、経済雑誌社の田口卯吉氏も来会ありたり
○中略
滝の川の紅葉へ案内し帰途製紙会社を一覧して帰れり、日は漸く西山に入らんとし夕陽の景云ふ可からす、既にして広間に燭を照し一同座に就くや渋沢君は左の如く演述ありたり
 ○上略此王子ノ製紙場ノ如キ明治七・八年ノ頃ニ漸ク竣工シタルカ、何分ニモ創業ノ事ナレハ職工ハ熟練セス、万事不整頓ニシテ損失ヲ免レス、然ルニ此際恰カモ政府ニテハ地券下付ノ議ニ決シタルカ、まさかに従来ノ奉書紙ヲ用ユ可キニアラサレハトテ其用紙製造ノ命ヲ受ケタリ、是レ云ハヽ一ノぱてんとヲ得タル姿ニテ、之カ為メ不熟練不整頓ナルニモ拘ラス、漸クニ工場ノ経済ヲ維持スルヲ得タリ、然レトモ此仕事モ九年ヨリ十一年頃マテニテ悉皆了リタルカ、扨テ此ぱてんと了リテハ我和製紙ハ又廉価ナル舶来紙ト競争スル能ハス、当時工場支配人ノ申スニモ此有様ニテ続テ製造ヲナサハ、月月約ソ三千五百円一年ニハ莫大ノ損失アルヲ免カレス、製造スレハ必ス此損失アリ、製造ヲ停止セル此損失ヲ免カルヽ丈ケノ利益アリ、如何ニ致ス可キヤト申セシニ因リ、拙者答フルニハ是レ致方ナシ、仮令ヒ損失スルモ先ツ数年ハ試験し、其上ニテ弥々立行カサレハ、其時ニ至ツテ製造ヲ廃止ス可キノミト答ヒ、損失ヲ冒カシテ製造ヲ行フコトニ決シタリ、然ルニ偶々紙幣増発為メニ洋紙大ニ騰貴シ、従来一ポンド八銭ナリシ者カ、遂ニハ十四銭ニマテ至リシカ故ニ、工場ノ経済モ之カ為ニ立行クコトヲ得タリ、然レトモ増発アレハ又償還ナキ能ハスシテ反動ノ激変ヲ免カレス、故二十五・六年物価ノ益々下落スルニ当テハ再ヒ困難ニ遭遇セシカ、此損失ヲ補フニハ唯仕事ノ出来高ヲ増シテ所謂数デコナスノ外ナシ、故ニ一方ニ於テハ相場益々下落スルニ従ヒ、一方ニ於テハ益々仕事ノ分量ヲ増シテ、之ヲ補ヒすたちすちつくニ取リテ見ルト余程面白キ結果ヲ呈シ仕事益々増加スルニモ拘ハラス相場亦益々下落スルカ為メニ、利益ハ常ニ同シト云フノ有様トナレリ、然レトモ洋紙ノ需要ハ早晩増加セサル可カラスト思ヒシ程ニハ増加セスシテ、数年間ハ右申ス如キ姿ナリシカ漸ク昨冬ニ至リテ増加ノ兆ヲ現ハシ、今春ニ至テハ俄然増加シテ払底ヲ極メタリ、而シテ日々ノ製造高ハ初メハ三千五百ポンド乃至四千ポンドナリシカ、熟練ノ加ハヽルニ従ヒ漸々増加シ遂ニ今日ニテハ一万ポンドニ達シ、最早ヤ洋人ヲ使フモ此上ニハ出テ
 - 第11巻 p.75 -ページ画像 
マシト思フマテニ至レリ、而シテ斯ク洋紙ノ需要増加セシハ別ニ特著ノ原因アルカト申スニ、決シテ左ルニテハナクつまり一般ニ洋紙ノ用方増加セシニ外ナラス、是レ固ヨリ一班ノ景況タルニ過キスト雖トモ、又タ以テ商況ノ稍々好気配ニ向フノ一端ヲ徴ス可キカ○下略