デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
6節 製紙業
1款 抄紙会社・製紙会社・王子製紙株式会社
■綱文

第11巻 p.84-92(DK110015k) ページ画像

明治27年10月28日(1894年)

栄一当会社創業二十年祝賀式ニ臨ミ祝辞ヲ述ブ。

席上感謝状及ビ記念品ヲ贈ラル。


■資料

(王子製紙株式会社)明治廿七年後半季考課状 明治二八年一月(DK110015k-0001)
第11巻 p.84 ページ画像

(王子製紙株式会社)明治廿七年後半季考課状  明治二八年一月
    処務要件
十月廿八日 当社創立廿年ノ祝典ヲ挙ケ、数多ノ来賓ヲ招キ園遊会ヲ為セリ
 此日渋沢取締役会長ノ当社創立以来ノ功労ヲ謝スル為メ、銅製鷹ノ置物一個ヲ同氏ニ贈リ、又特ニ取締役谷敬三氏ノ勤労ヲ賞シテ之ニ金参千円ヲ贈与セリ


たかの置物(DK110015k-0002)
第11巻 p.84-85 ページ画像

たかの置物               (金子四郎氏所蔵)
維時明治二十七年十月二十八日。王子製紙株式会社虔挙創業二十年之
 - 第11巻 p.85 -ページ画像 
祝典。乃以所鋳銅鷹一隻。敬贈之本会社取締役従四位勲四等渋沢栄一君。以為頌功之記。恭惟。君慧眼達識。察必需於未然。維新之七年合本結社。以興洋式製紙之業。撰人克任。鋭意督励。固期創業之不易。故以挫折不撓。益致工技之精良。遂能効成完功。是啻本会社之栄誉乎哉。真為開国家之利源者矣。夫本会社之事業蒸蒸日騰。猶迅鷹翔九霄。斯銅鷹之贈。蓋表其祥也。因添以詩一篇。冀嘉領焉
                   王子製紙株式会社敬白
      題銅鷹詩
  新工競起似逐鹿。製紙創塲飛鳥麓。広廈巨廠機器大。朝野万人皆注目。宛是鷙鳥雲際揚。百鳥屏息避匿忙。豈料俄然乏食餌。左顧右眄殆蒼黄。頼有良匠被撫育。操縦中節肉満腹。二十余年翰翎鮮。鉄爪居然睨羽族。嗚呼今日世間同業倣我程。王子製紙工塲之声天下鳴。赤金鋳鷹表祝意。以頌高徳告切成
  ○「たかの置物」ハ当時王子製紙株式会社ヨリ配布セシ冊子ニシテ、右文ノ外巻頭ニ置物ノ写真ヲ載セタリ。


青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第一三四―一三五頁 〔明治三三年六月〕(DK110015k-0003)
第11巻 p.85 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)  第二巻・第一三四―一三五頁〔明治三三年六月〕
  ○第三十章 製紙業及印刷業
    第二節 王子製紙会社
○上略
    ○右答
王子製紙株式会社爰脩創業二十年之祝典。因贈栄一以銅鷹一隻。以為頌功之記。栄一不任感喜之至。惟恐栄一之功不当斯重贈也。窃思栄一之於本会社。不過創合資之法。荷諸君之信委。自誓任事而已。幸見挙今日之慶典者。実諸君之功績也。而諸君敢不自賞。乃以帰其功於栄一。栄一無勝慚愧。雖然敢辞非礼恭拝受紀物即以鳴謝。
  明治二十七年十月廿八日         渋沢栄一
  ○栄一ヨリ王子製紙株式会社ヘ贈リタル答書ハ「竜門雑誌」(第七八号)ニモ掲載シアレドモ「青淵先生六十年史」所載ノモノト著シク異ル。按ズルニ「青淵先生六十年史」ノ記事ハ、王子製紙株式会社ノ調査ニ係リ、「竜門雑誌」所載ノモノハ渋沢家ニ残リタル草稿ニ依リシモノナラン、ヨツテ此処ニハ「青淵先生六十年史」ヨリ引用ス。


竜門雑誌 第七八号・第一―一七頁〔明治二七年一一月二五日〕 青淵先生の祝辞(簗轍君速記)(DK110015k-0004)
第11巻 p.85-92 ページ画像

竜門雑誌  第七八号・第一―一七頁〔明治二七年一一月二五日〕
    青淵先生の祝辞(簗轍君 速記)
 左に掲ぐるは本年十月廿八日、王子製紙株式会社創業二十年祝典の節、先生の演説せられたる筆記なり
満場の淑女紳士及株主各位、今日は当会社の創業より二十年に当りまする、此二十年を将来の紀念と致す為に、此に小宴を開いて其祝典を挙げまするのでござります、此祝典に際して不肖栄一は当会社の当局者の総代として会社を代表致して、爰に一言の祝辞を申上げまする、凡そ祝辞と申すものは其詞を奇麗にし、其文章を流暢にして、甚しきは溢美虚賞に当ることをも敢て嫌はぬのが祝辞の体裁でござります、併し根が此会社は実業に従事致して左様な玉の如き詞、美しい文字を以て敢て楽しむものでござりませぬから、此に申述べまする祝辞は少
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し不似合でござりますが、会社創立以来の経歴を以て祝辞に代へやうと存じまする
顧みると二十年昔、此会社創立の頃ひは日本の工芸は未だ芽ざしの時期でありました、而して此会社の創立は開業以後二十年でござりますけれども、其前に猶二三年の下地があつて遂に此に立至つたのでござります、明治維新後第一に進むべきものは文運である、此文運が進歩致さねば国家の智識は発達する訳に参らぬ、智識が発達せねば凡ての事業も挙らぬ、故に西洋各国は総て此文運の発達に大層注意をする、扨て其文運の発達は百種のことがござりませうが、之を要するに印刷が便利で夫が且つ速でなければならぬと云ふことは最も関係の多いものである、其印刷が価廉く、且つ便利にして速になるのは何かと云へば、即ち紙を製する事業与つて大に力あると云ふことは、欧羅巴なり亜米利加なり各国に例のあることである、当会社は此に見る所があつて始めて此洋紙製造の事業を企て起したのでござります、扨て企図する所は右に申す如く果して其当を得た又其時機も敢て宜しきを失つたでは無かつた、左りながら此器械を以て工芸を企てると云ふことは、未だ其頃ひには殆んど絶無と申して宜い時期であつた、是れと共に百般の事柄が啻に具備せぬと申すのみならず、従て殆んど不便極まる何事も皆差支へると云ふ時代であつた、況んや其事に従事する、或は挙げられて役員となり若くは傭はれて雇員職員となる人も、皆経験がなく事実を知らぬと云ふ者が相集つての事業で其困難想ひ見るべしと云ふ有様であつた、器械を買取ることの約束を致しましたのは明治五年でござりました、其到着が明治七年頃であつたと記臆致しまする、其頃ひは不肖栄一即ち私が此会社大体の事務を担当することを株主諸君に托されましたが、此原との起りは此会社は大きく企てやうと云ふ計画であつた、即ち資本も凡そ百万円位に組立てたいと云ふ想像であつた、併し再び実地に当つて考へて見ると世の中の需要は如何であらうか、左様に巨大なる企をして果して好い結果を見るであらうか、気遣ひは此処なりと更に夫を縮めて遂に十五万円で組織しやうと云ふことに差定めた様に記臆致して居ります、而して注文致した器械は到着する、之に附帯して丁度英吉利から工場建築の技師を雇ひました、又折柄に日本に参つて居つた米利堅人で紙漉業を熟練して居る所の技師を一人、即ち外国人を両人傭聘しまして、此両人を以て、一方は工場の建築、一方は紙漉事業に従事させると云ふことに差定めて着手致したのでござります、此王子の工場を定めると云ふに付ても当時の当任者は余程の苦念を以て場所を確定致したです、私は記臆して居ります、殆んど東京四辺の各地を凡そ三ケ月ばかりの間に二三週ぐるぐる廻つて見たことを覚えて居ります、関口の水道町へも参つた、三田へも参りました、或は千住の方へも参りました、品川へも参つた、然るに此紙漉事業に第一の必要なるものは水でござります、水利の便を得ませぬければ決して此事業を都合好く運ばせることは出来ない、而して又其原料製品は運搬に嵩高いものである、故に運送の便利も同時に計らねばならぬ、即ち工場を択むのに心を尽したのは右等の要点があつた為めである、種々取調べた末に即ち此処の王子村と云ふものが最上の
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位地と確定致した、併し此水利を得るに於ては其地所を定めた以後も猶今日まで続いて余程尽してある所から、水の手も先づ充分に今日は間に合ふと申上げられる様になりました
其処で工場の着手は前に申した英吉利から傭ふた「チイスメン」と云ふ男が、地を卜して引受けることになりましたが根がどぶ田でござります、此どぶ田を切開いて煉瓦を組立てるので、今日では技術も進んで居るから左までのことであるまいと自然御感じも薄いでせうが其時分は中々困難である、況んや此地は其地盤が能くなかつたです、併し先づ相当なる技師であつたからして予期通りには参りませぬが、聊か遅延したまでゞ先づ建築も仕上つて、到着した所の器械も其据附が落成した、尤も此時には資本金か十五万円では足らぬと云ふので遂に二十五万円に増株を致したと記臆して居ります
扨て紙漉に掛つて前に述べたる専門技師に、日本の相当の人達を附随さして紙の漉出しを試みて見ますると、とんと出ない、適々少々宛出ても直きに切れて仕舞ふ、今日は少し出たと思ふと又翌日は切れる、始めの間は私も殆んど隔日位に出張して見まする所が先づ切れるのみで俗に申す気の引けると申す位、是はどうしたものであらうか、将来は見込ある事業に違ひないが斯う云塩梅では仕方がないと思ひまして、此に於ては栄一は技師として傭入れた「ポツトムリー」と云ふ外国人に強い詰問をした、お前は経験ある外国の紙漉技師である、夫れであるから相当の給料を以て傭入れたのである、当時傭ふた時に私はお前に何んと云ふた、此器械は横浜の亜米一「ウオールスホール・コンパニー」に約束して買つた器械である、「フオーゾニアマシーネ」と云ふ英吉利で普通に行れて居る所の輓近最良の器械である、果してさうであるかとお前に問ふたら、お前は其通り完全であると答へた、而してお前は其事に従事して且つ原料も水も薬品も皆お前の好む所に従つて具備してあつて、此紙が出ぬと云ふのはお前の技術が不完全であると云ふことを自ら証明したのであるか、何故出来ぬか、職工が悪い職工が私の命令を用ひぬ、職工は決してお前の命令を用ひぬと云ふことはない、どうも技術が甚だ巧みでないからだ、故に原料の製造が悪いかと若くは薬品の調合が宜しくないとかと云ふことであろうと、段々責めましたらどうぞ一週間待つて呉れ、一週間待つて夫れで愈々工合好く出来ないなら私は拠ろないから会社を退く、放逐をされても敢て怨みとは思ひませぬと云ふことまでとうとう言はせた、其責めた為めであつたか、若くは時期が来たつたのか、其中に漸く紙が少し延出す様に相成りましたが、併し決して完全ではなかつた、其漸く紙の漉出し得らるゝやうになつたのが、明治八年の始めであつたと記臆して居ります
扨て左様に種々なる苦しみをして紙は漉上げて見た所で、其出来た所の紙はどう云ふ種類であるかと云ふと、漸く荷包みをするやうな紙です、渋紙の様なものを延出す為に左様に苦心をした、併し其漸く得たるものは価安い粗末なもので迚も計算して引合ふものではない、夫で丁度明治八年の末頃までに段々営業試験費等の損耗額が凡そ四万円以上に相成りました、始めより此会社の工場建築或は紙の漉立方等、前
 - 第11巻 p.88 -ページ画像 
に述べた如く苦んでやつと仕事が出来ると云ふて見た所が、其紙は時好に適ふ品物はなく而して其間の浪費と云ふものは四万円以上の費用を重ねて往つたです、かゝる有様ですから皆さんでも其当時を想像なされたら此会社は迚も行末が覚束ないとお思ひ為さるでござりませう、根が私の発起です、株主諸君は私が多く御勧め申したのである、前に申した様に理由を述べて賛成を求めた所が至極尤もと云ふので応じて下すつた、其時分から自分が担当してやつて殆んど三年を経過した暁が右申す通り、栄一の身の上は殆んど赤面千万と言はうか、赧然に堪えぬと言はうか、殊に事業は小なりと雖も日本に殆んど始めてと云ふ有様である、此際の栄一の苦心はどうぞお察しを願ひたうござります、私は今日よりも尚ほ其当時を想ふのです、併し以て屈撓すべからず、止める訳に往かぬのです、何うしてもやり遂げなければならぬ宜しい、決して屈するには及ばぬ、今は損を重ねるとも器械はある、原料はある、詰り需要は進むに違ひない品物だから一時の困難を以て此事業の目的は悪るかつたとは決して言はれないのである、併し到底此外国人を使ふて此事務を将来利益あるやうにやり遂げる訳にはいかぬ、一歩進んで是れは日本人丈けでどうしても此事業をやり得るやうにせねばならぬと、種々に苦心してどうやら日本人丈で出来得ると云ふ曲りなりにも目的が就いたに依て、とうとう前に傭ひ入れた米利堅人の傭を解きまして日本人で工事を致して居つた、紙は漸く出来た処で之が需要者はどうかと云ふと、洋紙を用ふるものは至て少なく印刷局の外は一二の洋紙商と二三の新聞社丈にて、販売の困難は実に想像の外でありましたから、一方には紙を抄造するに苦しみ一方は販路を拡張するに勉むるといふ有様でありました故に、尚一層研究をせねばならぬ、従つて又現在欧米でやる仕方はどう云ふ有様であるかと云ふことも共に講究せねばならぬと、此に於て外国に人を派遣すると云ふことを企て起しました、併し此事業の如きは唯だ学理上の研究丈けでは決していけませぬので、実際の手業が利かねば本当に仕事の利益を見る訳にいかぬ、故に斯く研究すると云ふ考は就きましても其適当の人を得ると云ふことを大に難んじた、幸に今の専務取締役、技術部長である所の大川平三郎氏、此人が未だ若年でありましたが明治十二年八・九月の頃でありました、亜米利加へ修業の為に派出すると云ふことに差定めて………夫から同氏が亜米利加に往きまして、「ホリヨーク」の紙漉工場に入場致して爰に色々の実地を研究致し、其事を委しく日本へ報知する、其報知に依つてこちらは改良を企て、遂に藁の原料を以て紙を製造すると云ふことを日本に始めました、只今では藁で紙を漉くと云ふことは三つの子供でも知つて居ることであるが、是れは誠に近頃の事である、藁が紙になる抔とは夫こそ「キリシタン」の法ではあるまいかと其時分は思つて居つた、夫から試験の為にやつて見やうと云ふことを谷君と御相談申したことは、未だ私の胸には目の当りの様な気がして居る、大川が帰朝されたのが明治十四年でありしが、既に其前に屡々書送して彼の国の有様又は学理の進み方、技術の働き等夫々書状の上では承知しましたが、又見ると聞くとは大きな違ひ、本人が帰つて一層会社の業務を拡張することを為し得られたです
 - 第11巻 p.89 -ページ画像 
且つ其前に会社に仕合せを得ましたのは偶然なことではあつたが、例の政府が日本の地面に対して証券を与へた其地券紙を拵へた、此地券紙の製造を製紙会社に注文に相成つた、是れは至つて性質の良い厚い紙であつた、此厚い紙は所請稽古中にて器械の働きの極く不完全な頃ひでも漉出すに甚だ都合の好い仕事である、是等の事業の経営中に前に申した損耗抔も追々償却することが出来得られました、さうして今の大川が亜米利加から帰りました頃ひは、頓に地券紙の製造は已んで普通印刷紙の供用を専らにせねばならぬ時期に相成つた、扨て普通印刷紙は其時分西洋の紙価も左まで高くない為に、地券紙を漉くが為に隠然特典を頂戴するが如き営業に依つて安ずる訳に参らぬ、製造も速に致し価も低廉に致して、売方を競ふと云ふことにせねば会社の経済が立つ訳に参りませぬ、故に今申した所の藁原質の紙製造法に専ら力を尽して、遂に明治十五年頃から夫が完全に出来る様に相成りました其頃ひ御承知の銀貨の差もござりましたから日本の紙の価と云ふものは甚だ高かつたのです、今日に比較しますると丁度上等印刷紙が明治十三・四年頃の価は一磅十二三四銭であつたと私は記臆して居ります、故に紙の製額も少なし、経済も拙なし、職工も拙で、原価は高く付いても猶紙価の高い為に一部分は補はれて居つたです、而して追々に工事の進歩するに従ふて製品の供給が需要に勝つと云ふ嫌ひを生じて来た、其製品の供給が需要に勝つと云ふことになれば例へば品が出来たと致しても、其品物を何時までも積んで置かなければならぬ、無理に売らうとすれば唯価を下げるのみである、併し是れは会社が如何とも致すことは出来ない、世の中の進みより頼むものはない、此世の中の進みを頼むに最も重要なることは価を廉く売ることが必要である、価が減じて来れば自然と日本紙もかなはぬ、他の種類も又かなはぬ、而して其需要が段々進んで来ると云ふのは是れは経済の原則であるからどうしても其処に務めなければならぬ、即ち価を大に引下げてさうして額を大に売ると云ふことの尽力を最も要すると云ふ時期を生じて来た、段々さう云ふ塩梅に価を下げ製品を成るべく売捌くと云ふことを務めて往く中に、即ち予期の如く世の中の進みに伴ふて追々に此需要を増すと云ふことが到来して参つた、而して此需要を増すと云ふことは大変喜ばしいことであるが之に従つて大に価を引下げると云ふ嫌ひを生じて来た、年々進んで参つて、明治九年頃即ち創業の際に一年の製造額が僅に四十万磅であるのが十七八年頃には二百五十万磅、六倍余も進んだが併し価は四割も下つて居る、故に一方が進むに従つて一方の価を減ずると云ふ傾きが生じて居る、其処で更にもう一歩進んで考へますれば此工場を完全に維持することは難んずると云ふ恐れを生じて、再び大川氏を欧羅巴に派遣致しました、是れが明治十七年頃であつたと記臆致します、其時に大川が欧羅巴に参つて木材原質を以て紙を製造すると云ふことを研究致して、其事を巨細に申して参りましたから遂に此木材原質を以て紙を製造すると云ふこのと工事に掛りましたのが、明治十八年と記臆して居ります、併し是れは最も新事業であります、英吉利の「パーチントン」氏が発明したものであつて其工場に這入るばかりの束脩が殆んど二千円ばかり要ると云ふので、大川
 - 第11巻 p.90 -ページ画像 
から其工場に這入つて其技術を修めて宜しいかと云ふことを電信で問合せて参りましたから、宜しい丈けの金を払つてさうして其技術を覚えて帰つて呉れる様にと、直ぐに為替を以て其金を送つてやると云ふことを言つてやつたのは未だ昨日今日の如く私の胸には感じて居ります、丁度其事は手紙でも委しく申して参り、並に同氏は凡そ一年ばかりの旅行で帰国されたと同時に、遂に木材原質を以て紙を製造すると云ふことに従事致しましたのでござります、併し其時には此木材原質の紙の工場も矢張均しく東京に創立するに差支はないと云ふ考へてござりましたが、之れは不省栄一抔《(肖)》の実地に暗い為に過つたのでござります、遠方の場所でやつたならば監督も届くまい、若しも器械が破損しても之を修繕するに費用が掛るであらう、其原質は東京に夫々貯蔵の道かあるであらう、東京なる哉と、斯う決して東京に創立を致しました、一両年実験して見ますると此木材は嵩高い原質であるから、東京に貯蔵してある間は或は水で流れることもあるし、先づ第一腐ると云ふことが多い、さうして運搬の費用も大に掛る、其処で明治二十一年でござりましたか、再び考を変へて之を各地に取調べて遂に遠州に気田工場と云ふ分工場を造ることに立至りました、此分工場に付て大に与つて務められたのは此処に列席して居らるゝ上村欣一郎氏でござります、之より先き明治十九年に本社は其事業の拡張を計り更に資本金二十五万円の増株を決議して新に工場の増設に着手し、機械を買入れんか為、大川氏を亜米利加に遣し最良器械を撰はしめ、今の新工場か出来上りました、今日では本社及気田共に紙の製造を致すと云ふことに相成りまして、本社の紙は専ら襤縷或は藁等を原料とし、気田の工場は木材を原質として、各々需要を異にして居りますが世の供用を為すに至りまするまでにやつと進みましたのでござります
製造額の概略を申すと丁度始めの頃ひ、即ち初年明治九年頃の製造額は僅に四十三万六千磅であつた、其翌年は進んで八十三万四千磅、二十五年頃は六百四十七万二千磅であつて、二十六年には更に進んで八百二十九万磅であつた、殆んど二十年の以前を顧みますると二十層倍までに紙の製造高が進んで居ります、又価を論じますると云ふと大に差がある、明治十四年頃には一磅の価が十四銭余であつたが明治二十六年には一磅五銭以内に附いて居る、此計算上で精細に申上げずとも即ち前に申述べたことを御了解を為し下されるであらうと考へまする只今述べました二十年の間の工場の経過、此間に付て終始易らず社務に従事して下さりましたのは即ち谷敬三氏、昨年会社の組織を改めまするまでは支配人として二十年一日の如く全体の事務を管理して呉れられましたのでござります、此御方の功労は此会社の為には最も大なりと云ふべきものでござります、又次に只今申す如く技術上に付て三度まで欧羅巴に参られて最も重要なる二つの新発明の技術を学んで此に実行せられたのは大川平三郎氏、此の学術上の考を以て当会社に利益を与へて呉れられたのは同氏の力与つて大なりと申して宜しいと考へます、又気田分工場に於て創業以来主任者として最も尽力されたのは上村欣一郎氏でござります、此の外に明治七年横浜に分社を設け、明治八年東京に分社を置き、共に印刷製本の事業を経営し、本社の製
 - 第11巻 p.91 -ページ画像 
紙と並び立て文運の発達を裨補致しました、特に東京分社は創業後十数年間は本社製紙の販売を兼ね、同社の星野錫氏等は其販路拡張に付大に与て力ありと申して宜しひと思ひます、又此の印刷製本の事業に就ても充分の研究をなさしめんか為、明治十九年に星野氏を亜米利加に遣りました、同氏は三年計り居て帰朝いたし爾来其得る処の技術を以て大に業務を拡張致しました、横浜分社には現に馬場氏・須原氏の担任者あり、本社には谷・大川等の諸氏に続いて―創業以来引続いて事務に従事されたる相当な御人達がござります為に、遂に此会社は前に申す通り種々なる苦難があるに拘らず、其苦難を悉く相凌ぎ或は排除して、遂に今日の場合に至りましたのでござります、先づ会社創業以来二十年の経歴を申述べますると、概略右の通りでござります
蓋し此事業は前に申す通り其関係は大なりと雖も、其事柄は爾来追々興りました各種の工芸に比較して見ると甚だ小さい、此会社と雖も僅に五十万の資本を以て経営致して居る位でござりまするから、決して衆人広座の前にて誇大を以て申上ぐる訳には参らぬ、去りながら日本の工業と申すものゝ中で、濫觴若くは嚆矢と申得らるゝものは此製紙会社であらうと思ふ、例へて申さうならば春の駘蕩の空気に依つて百花競ふて花を開く夫れは実に美しいものでござりませう、去りながら花の魁は梅花でござります、梅の前に桜が開くと云様なことがあつたならば、夫れは気候の大変化でござります、此梅の花は甚だ美しいものではないかも知れませぬけれども、此会社が百花中の梅花たる位地を占め得ると云ふは争ふべからざる事実であります、諸君にも左様御承知を願ひたひ、之を以て祝辞に代へまする(満場拍手大喝采)
  ○左ニ栄一在任中ノ利益配当率ヲ示ス。
   明治十年 上半期迄   無配   明治二十二年 上 一・〇
                割
   〃 〃  下      〇・六   〃 〃   下 一・二
   〃 十一年上      二・六   〃 二十三年上 〇・六
   〃 〃  下      〇・二八強 〃 〃   下 〇・五
   〃 十二年上      〇・四四強 〃 二十四年上 〇・五
   〃 〃  下      〇・三   〃 〃   下 〇・三
   〃 十三年上      不明    〃 二十五年上 〇・四
   〃 〃  下      〇・五二強 〃 〃   下 〇・五
   〃 十四年上      〇・六三強 〃 二十六年上 〇・六
   〃 〃  下      一・七強  〃 〃   下 〇・九
   〃 十五年上      一・五   〃 二十七年上 一・一
   〃 〃  下      一・八   〃 〃   下 一・〇
   〃 十六年上      一・一強  〃 二十八年上 一・二
   〃 〃  下      一・〇六  〃 〃   下 一・五
   〃 十七年上      一・一   〃 二十九年上 一・三
   〃 〃  下      一・三   〃 〃   下 一・一
   〃 十八年上―十九年下 一・二   〃 三十年 上 一・〇
   〃 二十年上下     一・三   〃 〃   下 一・一
   〃 二十一年上下    一・二   〃 三十一年上 〇・八
  ○栄一在職中ノ製造高・積立金額ハ左ノ如シ。
   製造高                   積立金高
   明治十年    約八三四、〇〇〇听  同 年末   四、三一〇円
   明治十五年   一、八七六、一三九听 〃     五三、〇六〇
 - 第11巻 p.92 -ページ画像 
   明治二十年   三、三〇二、二○六听      一三〇、二七〇
   明治二十五年  七、六四一、九九一・二五封度  一九八、三〇〇
   明治三十年  一二、三九四、三九四・七五封度  二八八、九四五・九四三



〔参考〕渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛(明治二八年)九月二八日(DK110015k-0005)
第11巻 p.92 ページ画像

渋沢栄一 書翰  八十島親徳宛(明治二八年)九月二八日
                    (八十島親義氏所蔵)
貴方廿七日附御状今日落手披見仕候、出立後無別条廿四日名古屋着其後日々会議ニ出席いたし、昨日ニて大概相済、今日ハ当地諸工場一覧之都合ニ候、只今田原セメント工場之事ニ付、名古屋人と相談之事有之、今夕ハ当地ニ於て一同と共ニ留別之宴会相催し、明日午前半日丈ケ会議之残りを議了し午後二時之汽車ニて出立、即夜浜松ニて谷・大川と会し、夫より気多工場へ罷越候筈ニ御坐候、右之次第ニ付帰京時日ハ多分来月三日四日頃ニ相成可申と存候、其段一同へ御申通し可被下候
○中略
  九月廿八日
                         栄一
    八十島親徳殿


〔参考〕渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛(明治二八年)九月二九日(DK110015k-0006)
第11巻 p.92 ページ画像

渋沢栄一 書翰  八十島親徳宛(明治二八年)九月二九日
                    (八十島親義氏所蔵)
○上略
名古屋之用向ハ今日午後迄ニて相済、直ニ同地出立、只今浜松着ニ付此状ハ当地ニて相認さし出申候、明日ハ午前六時出立気田ニ罷越、工場水利其外充分熟覧之積ニ付、両三日ハ相掛可申且品ニ寄、帰途静岡ニ立寄候用向相生し可申と存候間、帰宅之日ハ多分来月四日頃ニ相成可申と存候、宅之人々へも銀行へも其段御申伝可被成候、右回答迄如此御坐候 不一
  九月廿九日
                      渋沢栄一
    八十島親徳殿
尚々谷・大川も同時ニ浜松着相成、今夕ハ共ニ、大米屋と申旅亭ニ一泊、明日六時之汽車ニて袋井迄罷越、夫より人力ニて八時間相掛候由ニ御坐候、山中之旅行も亦興味ある事ニ御坐候