デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
6節 製紙業
1款 抄紙会社・製紙会社・王子製紙株式会社
■綱文

第11巻 p.92-107(DK110016k) ページ画像

明治31年9月18日(1898年)

是ヨリ先、当会社ノ重役中三井家ヲ代表スル一派ト栄一等ノ一派トノ間ニ紛争アリ、栄一仲裁斡旋ニ努メタレドモ効ナク、専務取締役大川平三郎遂ニ辞職ス。因リテ是日栄一モ亦取締役会長ヲ辞ス。


■資料

(王子製紙株式会社)明治三十一年後半季考課状 明治三二年一月(DK110016k-0001)
第11巻 p.92-93 ページ画像

(王子製紙株式会社)明治三十一年後半季考課状 明治三二年一月
 - 第11巻 p.93 -ページ画像 
    ○株主総会
明治三十一年九月十八日午後一時、日本橋区坂本町銀行集会所ニ於テ株主臨時総会ヲ開キ、八月五日以来本社並ニ気田分社ニ起リタル同盟罷工ノ状況及被害ノ顛末ヲ報告シ、引続キ重役ノ改撰投票ヲ行ヒ、左ノ諸氏当撰セリ
                  取締役 波多野承五郎
                  同   藤山雷太
                  同   益田克徳
                  同   沢田俊三
                  同   福沢桃介
                  監査役 斎藤専蔵
                  同   鹿島岩蔵
    ○処務要件
八月三日 専務取締役大川平三郎氏専務ヲ辞職シ、取締役兼技術長トナレリ
八月十日 取締役大川平三郎氏取締役兼技術長を辞任セリ


雨夜譚会談話筆記 上巻・第三二九―三三四頁〔大正一五年八月―昭和二年一一月〕(DK110016k-0002)
第11巻 p.93-94 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上巻・第三二九―三三四頁〔大正一五年八月―昭和二年一一月〕
  第十二回 昭和二年九月六日 於渋沢事務所
    王子製紙会社の紛擾に就いて
先生「○中略こんな具合で会社の基礎は固まるし資本も漸次増して来て愈独力でも会社はやつて行けると云ふ見込が付いて来ました。会社の役員としては大阪の造幣局に居た谷啓造《(谷敬三)》を常務取締役に招き、大川も多分重役に加はつてゐたと思ひます。私は取締役会長を勤めてゐました。三井の方からは波多野承五郎や藤山雷太それから斎藤純造など云ふ人が時々這入つて来ました。だから資本は三井が出してゐたのですが、心配は渋沢・谷・大川の手でやつてゐました。それから会社が独力で行けるといふので私が世話をよすことにしましたが、これが二十八・九年だつたでせう。此時三井から製紙会社へ這入つてゐたのは波多野か藤山かであつたが、中上川○彦次郎が会社を渋沢の経営に任じて置ては駄目だと云ふ意向で、自ら経営しやうとしだした。そこで私はそれは一向に差支ないから手を退かうと云ひ、大川にも此事を云ひ含めたが大川は聞かない。遂に資本者側の三井派と実際仕事をして居る私等の派とが葛藤を生じ、遂に実際派は連袂辞職して仕舞つたのであります。併し考へて見ると大川は偉い。爾来他の力をからず自己一身の力で身を立てゝ、遂に現在の地位に成つたのですからネ。優秀な技術を持ち、且勉強を怠らなかつたことは実際賞讃の価値があります。そんな理由で王子製紙が渋沢の手を離れる事になつたが、此の間私の態度が至極公平だつたと、此頃波多野承五郎氏が書いてゐます。其時分に私の経営に三井の資本が入つて居たのは第一銀行であつた。第一銀行の資本は三井と小野から各百万円づゝを出資した関係から、資本的の勢力は其方に在つたけれども、実際の経営は私がやつてゐました。役員としては三井から永田甚七、小野からは行岡庄兵衛の二人が出てゐました。支配人
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も二人ゐて三井・小野両方から一人づゝ出しました。ところがその中に小野が破産して行岡がやめる。三井ではその後中上川が渋沢の下に付くのは厭だと云つて株を売つた。――殆んど売つて八郎次郎氏の株が少し残つたばかりでした。――私は之を買つたのです。かく株を売つて了つたが、喧嘩はしなかつた。変りなく親しく交際して来ました。その後永田が死んだので佐々木さんが継いだのです。併し右の株を売つたのは三井主人の考から出たのでなく中上川の意向でありました。今申したのは王子製紙の問に答へると同時に、同様の関係にあつた第一銀行のことを関聯して話した次第です」
敬三「これは大川さんから聞いたんですが、藤山雷太さんが来て、大川さんの旅行に出た留守中に重な技師を免職した為め、それが紛糾の原因であつたさうです。王子製紙を退いてから大川さんは上海へ設けたモールスの製紙工場へ行つたそうです。何でも支那人を使ふには、日本人を入れる必要があるといふので、大川さんを雇つたのだそうですが、大川さんは此会社を後に買収して大変儲けたと云つてゐました。それから余談ですが、大川さんがまだ王子にゐた時、突然祖父さんに呼ばれて、浅野セメントをやつて見ないか、七万五千円の内を幾らか出してやると云はれたそうですが、之が大川さんの財産の基礎を造つたと話してゐられました」
先生「兎に角大川は感心だよ、米藁からの製紙法は全く独力で研究したんだからね。その次には英国の方から、木材を原料とする紙の技術を得て帰つた」
敬三「景諦社というふのが今の東京印刷の前身でせう」
増田「大川さんは頭がきゝ過てゐた関係からか、年長者に対しても先輩振る傾があつたといふ事を聞きました。何でも星野(錫)さん等と米国で一緒に居るときなど、下宿の世話から一切大川さんが一人で周旋して先輩振つたので、星野さん等も大川さんの性質を知らぬセイか、不愉快な生意気な奴と感じたと云ふ話を聞きました」
先生「そう云つて見ると大川は人に対して思ひやりがあるとか、親切な心尽をするなど云ふ点はないやうだネ。併し大川が、麦の藁でなく、米の藁を原料とする製紙法を考案した点は非凡と云へる」
   ○当日ノ出席者ハ、栄一・篤二・敬三・増田・渡辺・白石・小畑・高田・岡田・泉。


竜門雑誌 第一二三号〔明治三一年八月二五日〕 ○王子製紙会社の同盟罷工(DK110016k-0003)
第11巻 p.94-95 ページ画像

竜門雑誌 第一二三号〔明治三一年八月二五日〕
    ○王子製紙会社の同盟罷工
王子製紙会社には従来二人の専務取締役あり、事務と技術とを分ちて社務を調理する法なりしが同名の専務取締役あるは事体不都合なりとて、去る三日の重役会議に、大川平三郎氏をして専務取締役を辞せしめ、単に技術長となすことに決したるより多年大川氏に養成せられたる社員及職工中、此組織変更に不満を抱き密々同盟罷工の企を為し居たる折柄、八月四日の夜此事を密告するものありたれば同社の重役は翌五日王子の本社に会議し、主謀者両人を即時免職し尚同社の事務員技師等一同を招集して、取締役会長たる渋沢栄一氏懇々説諭する所あ
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りたる山なれとも、同盟罷工の企は此説諭によりて打破られざるのみか寧ろ益々其実行を急かしめたるものありたるが如く、同日の夜半頃には主なる技手職工は悉く退散し製紙器械は一時運転を中止するの已むを得ざるに至りたるも、翌六日よりは罷工同盟外の人々を駆集め辛くも第二工場の運転を始め得たるより、特約ある新聞社に対しても滞なく製紙を供給することを得たるは意外の幸なりしも、第一工場は去る十日午前に至るも尚運転を開始する能はざりしのみならす、罷工者中五十三名は府下の某所に潜伏し同社の職工を誘拐せんとする形勢あるが故に、此際断然たる処分を要すべしとて同日渋沢会長以下の重役は王子の本社に会合し、審議の上罷工者五十三名を懲戒的処分によりて免職し、更に大川取締役及同氏の胞弟たる田中主事を説諭して辞任せしめ、大川氏には目下建設中に係る遠州中部分工場の工事監督のみを同工事落成まて嘱託することゝなし、玆に一段落を告けたりと云ふ又此処分の為めに恟々たる人心は漸く鎮静し、且製紙職工の招集も出来たれば同日午後よりは第一工場も亦、遂に運転を開始するに至りし由なり(中外商業新報所載)
   ○栄一・大川平三郎等辞職ノ後、製紙業一般ノ不況ト共ニ同社ノ業績ハ著シク悪化シタルヲ以テ、栄一ヲ相談役トシ井上馨ノ斡旋ニヨリ再ビ大川平三郎ヲ迎ヘテ回復ヲ図ラントセシモ、遂ニ行ハレザリキ。


渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛(明治三一年)九月五日(DK110016k-0004)
第11巻 p.95 ページ画像

渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛(明治三一年)九月五日
                 (八十島親義氏所蔵)
別紙大川へ之書状ハ其要領ニても御書取被成、早々発送御取計可被下候、来電ニ対してハ
 ナニブンユクコトデキヌユヘナルベクチンブヲツトメテキケイハソウソウキキヤウアレ
と御発電有之度候○下略
  九月五日 栄一
    八十島殿


竜門雑誌 第一二四号・第三九頁〔明治三一年九月二五日〕 ○王子製紙会社の重役総辞職(DK110016k-0005)
第11巻 p.95 ページ画像

竜門雑誌 第一二四号・第三九頁〔明治三一年九月二五日〕
    ○王子製紙会社の重役総辞職
王子製紙会社にては九月十三日重役会を開き、職工同盟罷工に対し責を引ひて重役総辞職を為すことに決し、十八日の臨時総会に於て重役の改選を行ひたるに、取締役には藤山雷太・波多野承五郎・益田克徳・福沢桃介・沢田俊三、監督役には斎藤専蔵・鹿島岩蔵の諸氏当選し至て平穏に結果を告げたりと云ふ


竜門雑誌 第一一八号・第二〇―二三頁 〔明治三一年三月二五日〕 ○本邦抄紙事業の半面=王子製紙会社(板倉清四郎君稿)(DK110016k-0006)
第11巻 p.95-98 ページ画像

竜門雑誌 第一一八号・第二〇―二三頁〔明治三一年三月二五日〕
  ○本邦抄紙事業の半面=王子製紙会社 (板倉清四郎君稿)
明治維新後人文日に開け百般の事業争ふて泰西の所長を採り、以て邦家の開明富強を謀るの秋に際し、文化表彰の機関たる抄紙事業未た本邦に興らす、挙て其供給を海外に仰けり、然るに明治五年大蔵省紙幣寮に於て公債証書・紙幣・諸印紙類の発行あり、加ふるに文書局の創
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置ある等洋紙の需用応さに旺盛なるべきの兆を顕はせるを以て、紙幣寮より三井組・小野組・島田組に勧奨するに抄紙業を起すべきを以てす(此勧奨は時の大蔵省三等出仕渋沢栄一氏の規画に依る)
玆に於て三井次郎右衛門・渋沢才三郎・小野善右衛門・島田八郎右衛門・斎藤純蔵・三野村利助・古河市兵衛・永田甚七・三野村利左衛門・行岡庄兵衛・勝間田誠三郎・藤田東次郎の諸氏発起人となり、資本金拾万円を醵出し(爾後漸次増加して明治七年十二月までに弐拾五万円となす)明治五年十一月を以て会社設立の願書を紙幣寮に呈出す、此れ本社創立の起原にして実に本邦洋紙業の嚆矢なり、明治六年二月紙幣寮より会社設立の許可を得、社名を抄紙会社と称す(明治九年五月製紙会社と改め明治二十六年商法実施に及び王子製紙株式会社となる)横浜亜米一商会の手を経て製紙機械を英京竜動イーストレス・エンド・アンダーソン商会へ注文し、且同商会の紹介を以て、英国人機械技師フランク、チースメン、米国人抄紙技師トーマス、ポツトムリーの両名を傭聘す(機械技師は明治十年二月抄紙技師は同年五月解傭し爾来復外人を傭はす)
明治七年一月株主総会の決議を以て本社の事務担任を渋沢栄一氏に委托し、同年七月谷敬三氏を聘して支配人と為す(渋沢氏は爾来引続き株主総代となり、明治二十六年商法実施に及んて取締役会長となり、今日に至る、谷氏も爾来引続き支配人を勤め明治二十六年取締役となり今日に至る)
明治七年九月地を府下北豊島郡王子村に卜し工場の建築に着手す、此敷地撰定に就きては当局者の最も苦心したる所にして普く東京近傍を踏査したる後、用水の清潔にして舟楫の便ある飛鳥山下に定め、稲田を埋め榛莽を啓き八年六月に至り工事竣成す、当時王子村は城北の一寒村なりしか本社の工場を設置してより大に其面目を革め、後年印刷局抄紙部・硫酸製造所・東京製絨会社・日本メリヤス会社・王子機械製造所・関東酸曹会社等相踵て起り、煙突林立府下第一の工場地となれり
明治七年本社発起人中事故ありて、株金の払込を果さゞるもの半に過き、為めに本社は資本欠乏の非運に遭遇したれとも当局者の熱心能く其困難を排し素志を達するに至れり、明治八年七月に至り諸般の準備整頓して業務を開始するに至りしと雖も、当時新聞雑誌等の如き未た微々幼稚の域に在りしを以て、民間に於ける洋紙の需用甚少なく、唯官用に供するに過きさりしを以て需供の権衡を得る能はず、製品の販売上非常の困難を極めたりと雖も、本社は永遠の隆盛を懐ひ奮て文明の機関たらんとし孜勉其成功を期したり、是より先本社の創立と同時に分社を横浜に設置し専ら活版印刷の業を営みしか、踵て又東京分社(東京横浜両分社は明治二十九年本社と分離して東京印刷株式会社となる)を起し事業を拡張し以て本社製品の消費を計る等拮据経営する所ありしに、幸にも我邦の奎運は駸々として長足の進歩を為し、明治十一・二年の交より新聞雑誌著書出版等漸く隆盛に赴き頓に洋紙の需用を増加せしを以て、本社は専ら全力を新聞用紙の製造に致したり
明治十二年社員大川平三郎氏(現任専務取締役)を製紙業研究の為め米国に留学せしめ、氏の通信に依り大に事業を改良し又稲藁を以て製紙原料となす方法を始め著しく製造高を増加するに至れり
明治十七年再ひ大川平三郎氏を海外に派遣し製紙業の状況を視察せしむ、此時に当り欧米に於ては木材を以て製紙の原料となす新法の発明
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あり製て紙業に一大革新を来さんとするの秋なりしと雖も、其製法最も秘密にして容易に学ぶ能はざりしも氏は幾多の艱苦を嘗め其法を研究して帰朝し、直ちに此れを実施し種々の製法を折衷し、殊に煮釜の如き本社創見の新装置を工夫するに至れり、此れ本邦に於て木材原質を使用したる創始なり
明治十八・九年の交より新聞雑誌・小説翻刻の業、非常の旺盛を極め洋紙の需用著大の増加を来し、供給の足らざるに苦しむに至りしを以て本社は爰に規摸拡張の必要を視、明治二十年三月株主臨時総会の決議を以て資本金を五拾万円に増加し、第二工場を起し又分社を遠州周智郡気田村の山間に置、樅栂材を以て低廉の紙品を製造し以て益需用の増加を促し偏に開明の文運に副はんことを企図せり
明治二十三年より明治二十五年までは世間一般の不景気に伴ふて洋紙の需用を減少したるにも拘らず、一方には富士・千寿・四日市・阿部等の各製紙所一時に勃興して暴かに製紙額を増加したるにより、同業者間互に競争放売の弊を生し非常の困難に遭遇したれとも、本社は幸ひに既に基礎の鞏固なるを以て優に此競争に打勝つことを得たり
明治二十七年十一月本社創業二十年の祝典を挙行し、取締役会長渋沢栄一氏の創立以来多年の功労を謝し銅鷹置物を贈り、又取締役谷敬三氏多年の功労を謝し贈るに金三千円を以てせり
明治二十七・八年日清の戦役以来国運の進暢に伴ふて洋紙の需用急激の増加を為し、特に新聞雑誌の如き驚くべき長足の発達にして其発行の数、前日に倍蓰するに至り、尚将来愈需用を増加すべき趨勢を現はし、更に工場を増設するにあらざれは到底之れか供給を充たすこと能はさるを以て明治二十九年二月株主臨時総会の決議を以て資本金を百拾万円に増加し(明治三十年四月更に五拾五万円を増し総資本金百六拾五万円となれり)樅栂材に豊富なる信州下伊那郡和田村外四ケ村の共有材を買収し、工場を水力に利便なる静岡県磐田郡佐久間村字中部(天竜河畔)に卜定するに至れり
明治二十九年八月専務取締役大川平三郎氏米国に渡航し、彼国現今製紙業の実況を視察したる上、最新鋭利の機械を購入し同年十二月帰朝し、目下中部分社建築の最中にして来る八月頃には竣成開業の予定なり
 本社が内外博覧会及共進会に於て得たる褒賞は左の如し
一、明治十年第一回内国勧業博覧会に於て竜紋賞牌
一、同 十四年第二回内国勧業博覧会に於て一等有功賞
一、同 二十年東京府工芸品共進会に於て銀牌
一、西暦千八百八十九年仏国巴里万国博覧会に於て金牌
一、明治二十三年第三回内国勧業博覧会に於て名誉銀牌
 左に掲くる本社創立以来販売額の年表なり、因て以て我邦の文化と倶に如何に本社の事業が進歩したるか状況を概観するに足るべし
   年次           販売高
                    封度
  明治八年         二〇、一七八・二五
  同 九年        四三六、二一五・五〇
  同 十年         八三四、二〇八・二
  同 十一年       八六八、八四五・二五
 - 第11巻 p.98 -ページ画像 
                    封度
  同 十二年     一、一二八、八九二・七五
  同 十三年       八四六、五六八・二五
  同 十四年     一、五八九、一六四・六二
  同 十五年     一、八七五、〇四四・二五
  同 十六年     二、一五四、七五五・二五
  同 十七年     二、二五一、八一八・五〇
  同 十八年     二、五二九、三六〇・二五
  同 十九年     三、〇六八、五三八・五〇
  同 二十年     三、一四〇、二八八・二五
  同 二十一年    三、一一四、一三五・〇〇
  同 二十二年    三、〇九四、六一一・五〇
  同 二十三年    六、六五〇、二三三・二五
  同 二十四年    七、六七九、三一四・七五
  同 二十五年    七、九一九、二八一・七〇
  同 二十六年    九、九一四、四三四・三五
  同 二十七年   一〇、〇五四、一八八・二〇
  同 二十八年   一一、〇〇四、二八七・四五
  同 二十九年   一一、六〇六、一四五・六九
  同 三十年    一二、三九四、三九四・七五
 本誌嚮に青淵先生の関係せられ若くは竜門社に縁固ある諸工業会社の現況を逐号掲載するの計画あり、編者一日王子製紙会社を訪ひ工場に就て親しく見聞する所ありたり、時に本社特別社員にして製紙会社の現任会計掛長坂倉清四郎君、本誌の為めに社務の繁激なる数時間を割いて特に会社の沿革を起草せらるべきことを約せられ、稿成て本社に寄送せらる、右に掲くる所のもの即ち是なり、依て編者は次号に見聞録を草し工場の規模・抄紙の模様・製紙額と需要及原料たる破布藁等に就て詳記し、併せて製紙業社界に於ける製紙会社の地位及中部分社の樅栂木材元料抄紙の新計画等を照回することとなしぬ



〔参考〕中上川彦次郎君伝記資料 第二六一―二六二頁〔昭和二年一〇月〕 【王子製紙の復活(小出収氏談)】(DK110016k-0007)
第11巻 p.98-99 ページ画像

中上川彦次郎君伝記資料 第二六一―二六二頁〔昭和二年一〇月〕
    王子製紙の復活(小出収氏談)
○上略
 製糸事業に対して夫れ程楽観せられて居た中上川氏も、王子製紙会社に就ては少しく悩まされて居られたやうであつた。と言ふのは中上川氏の言に、あの化け物屋敷を引き込んだ藤山は馬鹿ものである、波多野にやらせ、又、朝吹に頼んだが何とも面白くないと語られた事があつた。元来此の王子製紙は三井が資本を提供し渋沢氏が実権を有し大川平三郎氏が万事支配して居たものである。
 中部気多の工場は天竜川の山の奥で、先任の支配人が気狂になつたと言はれる程、心地の悪しき深山なるに、藤山専務の頃牧哲氏は支配人として夫人を同伴して赴任し、材木伐採の為め此の山中に二三年間を過した。此の牧氏は相当意見もある人で種々調査した結果、到底
 - 第11巻 p.99 -ページ画像 
かる《(か脱)》山中に於ては附属工場を持続するは不可能であるとして藤山氏に意見書を提出したりしたが、藤山氏も如何に変更すべきか方針も立たず、夫れを持続するの止むなき状態にあつたのである。此の工場を設立するに当つては予算額の数倍に達する巨費を要した。然るに其製紙は下等洋紙にて収支相償はず、当事者も大に困難した。其結果時の三井家の顧問たる井上伯は自ら遠州に赴き二三日掛りで精密に夫れを調査し、然る後井上伯は我々を招致した。当時の責任者たる藤山氏は病床にあつた為め代理として福沢桃介氏に加へて筑紫氏私等が井上伯の下に参集し、所謂御前会議が開かれ、大に取調を受くると共に叱責され、我々一同は甚だ恐縮した事があつた。
 此の遠州の工場に就ては曾つて大川平三郎氏も可成失敗したものである。此の大川氏は当時病床にあつて役に立たぬ藤山氏と仕事をするのは嫌であるから藤山氏を辞職せしめよと云ふことであつた。其処で止むなく中上川氏に其の旨を伝へると以ての外である、察ろ大川を辞職せしむ可しと云ふ意見の下に其の実行を見たのであつた。然るに同社に於ける技術者は殆んど大川氏恩顧の者であつたから、其の非を鳴らしてストライキを起し、折柄土木工事中であつた土工も加はり、結束して大川氏辞職に反対を唱へた。三井から石川彦太・杉山喬氏等の腕に覚のある人々が、日本刀を携へて応援したりしたのも其の時のことである。


〔参考〕中上川彦次郎君伝記資料 第二〇七―二〇八頁〔昭和二年一〇月〕 【事業の整理処分(藤山雷太氏談)】(DK110016k-0008)
第11巻 p.99-100 ページ画像

中上川彦次郎君伝記資料 第二〇七―二〇八頁〔昭和二年一〇月〕
  事業の整理処分(藤山雷太氏談)
○上略
    王子製紙会社
 中上川氏の主張する処は、既に周知の如く工業立国論であつた。氏は王子製紙会社をも三井の支配下に置かんとしてゐた折柄、同社は木材でパルプを作り、新聞の巻取紙を製する計画を新たに起し、二百万円の増資をして四百万円の資本となすに就いて、社長渋沢氏は大株主たる三井即ち中上川氏に相談した。当時同社の専務は谷氏、技師長に大川平三郎・田中平八等を全然渋沢系を以て成立して居た。中上川氏は此の相談を受くるや、増資に関する計画には大に賛成するが、それには専務を三井から出したいといふ事であつた。当時財界に於いては素破らしい勢力を有してゐた渋沢氏も、中上川氏の此一言には止むなく同意し、然らば誰を専務として三井よりくださるべきかと尋ねた。然るに中上川氏は、現在三井も人の少ない時ではあるが外ならぬ王子の事であるから割愛するが、岩下清周・藤山雷太の両人の内何れにても宜しき方を取らるべしと答へられた。岩下氏は米国に在る時から大川平三郎氏とは懇親であつたが、如何なる所以か何の因縁関係もなき私が迎へられて王子の専務に任ぜられた。其時中上川氏は、渋沢氏が君にと言ふのだから、是非やつて欲しいが、その代り君に命ずる事がある、と言ふのは外でもないが、君が専務になるのは王子を奪りに行くことであるから、必ず彼等に懐柔されるが如きことなく、三井の製紙会社たらしむるのだと言ふ事を念頭から離してはならぬと言ふ命を受
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けた。私も何分年壮気鋭の折柄とて会社を奪りに行くと云ふことで丈でも頗る愉快に感ぜられ、全然他人許りの中へ飛込んで孤立大に奮闘努力したものであつた。而して増資を行ふと共に四日市製紙会社を買収して試験的に製紙を為し続いて駿州の奥の遠山山林を買収し、其材木を天竜川に流し、中部に工場を作り、遠州の木田にも工場を建設して事業の進捗を計つた。


〔参考〕中上川彦次郎先生伝 第二八一―二八七頁〔昭和一四年一〇月〕(DK110016k-0009)
第11巻 p.100-102 ページ画像

中上川彦次郎先生伝 第二八一―二八七頁〔昭和一四年一〇月〕
  第七三節 王子製紙会社の占収及び経営
    第一 本邦製紙工業会社の濫觴
○上略
 ところが明治二十四年には、先生○中上川彦次郎が三井に入つてその事業の整理に任ずることゝなり、工業に対して前述のやうな大方針を立てると、不良株式はどしどしこれを手放し、事業の優良なものでも三井の経営上の実権を把握するこの出来ないようなものは、惜気もなくこれを売払つてしまつた。その代り現在事業の成績はさほど優秀でなくても、社会の事情から推して将来に有望であり、合理的である仕事は啻に大旦那として祭上げられるばかりでなく、必ずその実権をも把握しようといふことになり、予て抜擢して銀行の抵当係長とし、不良貸付の整理で実正にその手腕を認めて居た藤山雷太氏を推して専務とし、同社の実権を三井の手に回収させることゝした。これが明治二十六年のことである。
    第二 藤山雷太氏の王子製紙入り
○上略
 ちやうどその頃のことだ。王子製紙の社長であつた渋沢栄一子から中上川先生に対し、前記木材製紙の計劃に関して増資の相談があり、先生はこの機逸すべからずとその計画には大賛成であるが、その代り三井の代表者を専務として入社させたいと主張した。すでに述べた如く当時の王子製紙は全然渋沢子の子分で固め、専務に谷敬三氏を据ゑ技師長に大川平三郎氏を置き、水も洩さぬ陣立であつたが、人の知る如く、渋沢子は天成の大器で東海の百川を容るゝ如き蕩々邈々たる人格であつたから、先生の申出に対して少しも躊躇せず「しからば三井より何人を下さるべきか」とすらすら何の蟠りもなく問ひかへした。そこで先生は「三井も今改革中で人物払底の折柄ではあるが、外ならぬ王子製紙のことなれば岩下清周か、藤山雷太か、この両者の中にて望まるる方を差上げましよう」と答へた。岩下氏は米国に居た時から大川平三郎氏とは懇意の仲であり、王子製紙に迎へて専務にするには適当と思はれるところもあつたのであるが、渋沢子は何と思つてか藤山雷太氏を択んだ。
 すでに詳しく述べて来た先生の大方針からいへば、何とその表面を修飾して見たところで藤山氏を王子製紙に入社させた先生の究極の目的が、王子製紙の実権を三井の手に回収するいわゆる乗取策にあつたことはいふまでもない。
○下略
 - 第11巻 p.101 -ページ画像 
    第三 王子製紙社内に於ける大川派と藤山派との対立抗争
 かくて明治二十七・八年の戦役後は、国運の伸張に伴ひ洋紙の需要も驚くべき勢で増加し、王子製紙も従来の工場では到底これに応じきれなくなつたので、明治二十九年二月の株主総会で、又々資本金を百十万円に増加し樅栂材に豊富である信州下伊那郡和田村外四箇村の共有林を買収し、工場を遠州佐久間村中部に卜定して事業の大拡張を行ふことゝなつた。この拡張計画に応ずる最新の機械を購入するために大川氏は明治二十九年八月米国に赴き、同年十二月その使命を果して帰朝したが、その頃から先生によつて王子製紙の社中に投ぜられた争闘の種子は漸くにしてその枝を張り、葉を拡げ、明治三十一年には遂に藤山氏と大川氏との火の出るやうな正面衝突となり、大川氏危しと見た会社の技術者は職工を煽動してストライキを起し、工事中の土工までがこれに加はつて大川氏に声援するなど、その騒動は一通りでなく、渋沢子も大に居中調停に努めたが、元々先生の方針が渋沢栄一子等一派を追出して、王子製紙を三井のものとしようといふにあつたので納まらう筈がなく、結局は予定の筋書き通り渋沢子も社長の任を辞し、大川氏と共に同社を去ることゝなつて一段落を告げた。
    第四 小出収氏の懐旧談と藤山雷太氏の追想談との矛盾を如何に解く
 この事に関しては同じ伝記資料中、小出収氏の談話に先生が「あの化物屋敷を引込んだ藤山は馬鹿ものである」と云つて居たといふことがあり、藤山氏が初めから先生の内命を受け王子製紙を乗取る為めに出かけたといふ大胆な告白をして居るのと全く矛盾するやうであるが筆者は藤山氏の談話が事の真相を穿ち得て居るに近いものと考へる。なる程王子製紙の気田工場・中部工場は、いはゆる技師万能政治の弊に陥つて居り、化物屋敷か道楽息子か、ともかくも連年欠損つゞきのものには相違なかつたのであらうが、先生の工業的経綸は、一時の損得といふやうなことで猫の目のやうに変るそんな無定見のものでなく前来幾度も述べて来たやうに初めから一つの大方針を立て、それに従つてやつて居たのである。小出氏の右の談話は後に大川氏との衝突の場合、大川が藤山のやうな役立たぬ男と仕事を共にするのは嫌だから、藤山を辞職させるやうに中上川先生にいへといふので、止むを得ずその意を先生に伝へると、先生は「飛んでもないことだ。それならむしろ大川氏を辞職せしめよ」といふので、到頭大川氏が追出されたとある一条によつて、立派に裏切られて居る。
 藤山氏は前述の如くにして、美事に王子製紙乗取りの使命は果したが、間もなく会社を去ることとなり、工業部(銀行部に設けらる)の理事長であつた朝吹英二氏がその後を襲つて専務を兼ねたが、どうも成績が挙らない。流石の三井もこれには少なからず手を焼いた形で、銀行の池田成彬氏を主任として神崎平二氏あたりを助役とした内部の調査なども行はれて、一時は大分悲観されたものである。
○中略
 王子製紙の歴史を見る度に、われわれの何時でも感じるのは渋沢子
 - 第11巻 p.102 -ページ画像 
の怨讐といふものを絶対に超越した洋々大海の如き器である。渋沢子が中上川先生の密旨を帯びた藤山氏の為に大川氏以下の子分と会社を逐はれた一条から、その後大川氏が穴水要人氏の後楯となつて富士製紙に立籠り、纔に王子製紙と対立して居た事情から察すると、渋沢子と藤山氏以下、先生の息のかゝつた王子の経営者との間が、犬猿も啻ならぬ関係にあるとしても誰も渋沢子を偏狭なりと批難する人はあるまい。しかるに渋沢子は王子製紙を棄てゝ去ると共に、藤山氏対大川氏の喧嘩は全く他人のことのやうに忘れて藤山氏を日糖に推選し、藤山一家をして今日あらしむる上に、何程か力をなして居る。藤山氏の外、先生の息のかゝつた王子の経営者でどの途、渋沢子の世話になつた人は他にもある筈である。渋沢氏には怨讐といふ心の働きが全く欠けて居るかにも見えることさへある。


〔参考〕大川平三郎君伝 (竹越与三郎編) 第一八一―二三三頁〔昭和一一年九月〕(DK110016k-0010)
第11巻 p.102-107 ページ画像

大川平三郎君伝 (竹越与三郎編) 第一八一―二三三頁〔昭和一一年九月〕
    第九、王子製紙会社を去る
○上略
 谷敬三君が大川君の先輩であり、大川君の立身は此の人に負ふことが多かつたことは前項に記したが、此の人は三井の益田孝君の推薦で来た人である。其の性質は醇直で、温厚で、勉強家で、一点非難すべき処がないのみならず、王子会社の創業以来の勲労者であるに係らず明治三十二年に至り突然、会社を去らねばならぬやうになつた。それは三井から渋沢栄一君に対して三井も王子製紙会社に対して、多大の株を所有し重大の関心を有する。就いては、重役を一人三井から入れたいから、谷を罷めて其の席を造つてもらひたいと言つて、藤山雷太君を推薦して来た。渋沢君は王子製紙会社に就いては創業以来相談役のやうな形で万事を指揮して来たが、最大株主たる三井の提案を拒絶すべくもなく、是非もなく直ちに谷氏を罷めて、藤山氏を重役としたのである。併しながら谷氏に対しては如何にも気の毒の感があるので渋沢君は谷氏のため生涯の生活方法を立つべく、谷氏を人造肥料会社の社長に推薦して始末をした。
 何ぞ図らん之は藤山氏が大川君を駆逐せんとする策謀の端緒であつた。記事は七八年前の旧事に還る。
 大川君が、最初にアメリカに行つた頃、福井信・新井領一郎・森村豊・岩下清周などの連中が居つたが、日曜其の他暇ある毎に大川君は是れ等の連中と論談を交はした。当時是れ等の人人の多くは商業立国論を唱へて居つたが、大川君は独り敢然として之と抗争した。諸君は商業商業といふが一国に産業が盛んならずして、如何にして商業が成り立つか、先づ工業を盛んにして、其の生産物を動かすのが商業である。工業が基であつて商業は次である。其の基を怠つて末を勉めた所が何の役にも立たぬといふので、寄ると触ると商業工業で論争した結果、大川君と岩下君の間に言語が極端に走つたこともある。そして其の末に此の中で誰が最も成功するか賭をしようとまで言つたが、岩下君は大川は大言しても百万円の財産を作り得たらば、最上の出来であるなどと罵つたこともあつた。かかる争論の結果、大川・岩下の二人
 - 第11巻 p.103 -ページ画像 
間に感情の疎隔が生じ、岩下君が日本に帰つてから頻りに大川君を攻撃して回つたが、遂に三井の中上川彦次郎君に入説し、大川は意外にも十万か十五六万の財産を作つたらしい。是れは頗る戒心を要すと言ふに至つた。中井洋紙店の中井三郎兵衛氏は王子製紙会社の紙を取次ぎ、関西の一手販売をしてゐる関係から大川君と懇親であつたが、或日中上川君を訪問した処が、中上川君は大川は意外にも十四五万の財産を持つてゐるさうであるが困つたことであると言つた。之を聞いた中井君は直ちに之を大川君に告げたが、大川君は平然として驚かず、余は君の言ふよりも多くの財産を持つてゐる。併しながら余は朝野セメント、王子製紙等の株で持つて居つて、現金は二三万しかない。余は是れ等の株券を持つてゐても少しも不思議はないではないかと言つた。玆に至つて岩下君の盛つた毒薬が利いて来たのであらうと気附いたが大川君は胸中にやましき所がないので泰然として中上川君に対して自家のことを説明し、若しくは諒解を求めることをしなかつた。大川君は後年に至り、当時の事を回顧して谷君が会社を去つた時殉死的に共に去らなかつたのは、余が畢生の失策であつたと、悔悟して人に語つたさうである。大川君は年少にして早く成功し、そしてアメリカ人の間に立ち回つて欧米に於ける個人主義の社会生活に親しんでしまつた。アメリカでは如何に勢力あり如何に人望ある重役が、会社を罷めても部下には一片の別語で分手してしまふのが一般の風習であり、其の間に封建的の親分子分の情縁がない。大川君はそれになれて今や谷敬三君が会社を已むる時、深く之を愛惜し過去に於ける友情を回顧して感慨無量であるものの、偖て自分は自分の責任を尽せば可なりと思うて踏み止つた。そして霜を履んで堅氷至ると言ふが如く、谷といふ長堤の崩れた処から侵入した水は、やがて大川君を溺らすに至つたのである。
 以上に記したる如く王子の工場では主として藁を原料として紙を作り、気田の工場では木材パルプを作ると言ふ事で、其の事業は着着として進行し、そして日本の国勢の進転に伴うて紙の需要が非常な勢で増加する。そこで大川君は更に事業を拡張せねばならぬと思うて、先づ木材を得べく新たに山林を獲得せんと物色し出したが、其の頃弁護士の沢田俊三君が一個の山を持ち込んで来た。信州の飯田の附近の遠山といふ処に大山林があり、本願寺が寺院造営の準備として之を所有して居り、其の山林を多少は伐採したが今は不用であるから売り払ひたいといふので、大川君は沢田弁護士を伴うて実地見分に出かけた。次ぎに富士川の上流、次ぎは土佐の山林、熊野川の上流等、目ぼしき山林を悉く検討したが其処で水力の利用し得べきものがあれば自ら器械を使用して測量することを怠らなかつた。大川君は実地検討に先ちて、自らランキン氏の測量学を読んだりして測量学の大意を呑み込み自ら簡単な測量機を製作し、眼鏡などを用ひず自家の作りし機械により、自家の眼を以て測量したのである。そして各地跋渉の結果、本願寺から信州の遠山の山林を買ひ取り、遠山の附近の中部といふ土地に工場を建設すべく、安い土地を買収してしまつた。中部は遠州に入つて天竜川が信州飯田町の下流に方り屈曲する処で、百戸ばかりの村落
 - 第11巻 p.104 -ページ画像 
である。此処で河水を切り替へた為めに、七八十尺ばかりの落差が生じたので、此の落差を利用して動力を起したのであつた。天竜川に船を浮べて信州の飯田と東海道の宿駅とを交通することは極めて冒険的の事業であつた。外国人の中には猟奇的気分から、飯田より箭の如き急流を下だるものがないでもなかつたが、それは薄板で船底を張つた快走船に頼るものである。そして普通の航運では櫓は船尾にあるが此処では舳と艫に櫓を据へつけて、船頭が全身の力を込めて操縦するのである。之が為め古来幾人の魂を水中に没し去つたか知れぬ。然るに今や大川君は此急流に二十余艘の運送船を浮べ一艘ごとに四人の船頭を乗り組ませ、外国製の重量ある機械を高地に送らんとするのであるから、之を見るもの皆な驚かざるはなかつた。幸に最初は都合よく運んで西渡と云ふ部落に到着し、船を支流の小川に引き込みて船頭等は附近の農家に一泊したのであつた。然るにその夜測らずも豪雨襲来して小川の水が急激に増加したため、モヤイの綱が切れ船は四散して悉く転覆してしまつた。大川君は翌日数十人の潜水夫を傭ふて天竜川の河底を上下一里に亘つて探せしめたが、幸に河底は平滑なる岩磐であつたので一物も失はずして拾ひ得たのである。斯くて人力によりて天然を征服して、工場が出来たのは明治三十一年の暮であつた。
○中略
三月卅一日
東京本社        中部分社
 藤山雷太様        大川平三郎
 田中栄八郎様貴下
謹啓致候、中部対岸河合御料林の義は両兄も御存の通、対岸極近の場所にて、而も其区域甚だ広く薪材として五万乃至六万坪はあるべく、当分社十年間の薪材を供給するに足るべき大山に御座候。
 当分社の後来最も掛念すべきは薪材の供給なり。一日に十五坪の薪材と言ふては、実に驚くべき消費なれば前途甚気遣敷候。而るに対岸に此大山を控へ居る事実は無上の幸運なれども、唯御料局に対する処置頗る六ケ敷候と存候、殊に掛念すべきは磐田郡井通村熊岡安平外数名にて数来此払下に運動しつつあり、頃日は大に歩を進め居候哉に承り及び候一事なり。
 当分社買入山林より薪材を工場へ搬入するには大ヨソ七円坪と見込居候得共、該山林よりすれば平均四円を出ざる見込に御座候、唯代価の高低損益の論にはあらず、此山を他人に取らるるか又は御料局払下六ケ敷相成候時は計算的以外の不便実に言ふ可らず候間、此際会社は急に大憤発を以て其払下許可を得ざる可らずと存候。
御料林は静岡支庁の管轄にして浜松出張所に属するものに御座候、出張所長は此一日頃更迭あり、前出張所長は平野次郎とは懇意なる人の由なりと。
 右急速を要するに就きては、渋沢会長又は中上川君等有力なる補助を要すべく、又平野氏にも至急上京を促がし、之に当らしむる事可然候、小生は最早や全力を挙げて工場□《(欠字)》工の局に当らざる可らず、寸暇も有之間敷候間該事件は挙げて御両所に御宅し申度候間、今後此事に
 - 第11巻 p.105 -ページ画像 
就きては小生よりの催促を待たず責任を負ふて御尽力被下候様キツ度御依頼仕り候。右は実に本社休戚の繋る所に有之、呉呉も御油断有間敷特に御注意申上置候。
○中略
六月廿九日(三十一年)
東京本社                中部分社
 藤山雷太様               大川平三郎
     貴下
謹啓仕候、小生義昨日中部へ来着候
○中略
 一、当方工事の模様は何分進行意の如くならず、工夫不足の為め大金を掛けて連れ来れるもの数日の内、逃走する等の事非常に多し、是は世間土方人足一般の悪習なるに此頃は土工の各地に起り(就中足尾鉱毒予防工事等大に此悪弊を助長せしめたりと見ゆ)排水溝の掘り方等意外に延引するの恐れあり。
 今日の如くにては排水溝の堀り方落成は十月に至るやもしれずといふ、斯くては工場の落成に意外に遷延を来すに付急に方針を授け恰も道灌山、田端の停車場土取工事と一般の設計を成し人力を省くの工夫を成し為し与へ由候。
 其為め今日注文致候トロツク車三十台レール用帯鉄二百本は一日も早く来着候様御申附被下度候
 小生は出来る限り人夫を増し、一日も早く工事を落成せしむる方針を取り、多少費用の増加するは之を辞せざる積りに御座候。
 昨今当場一日の経費は中中多大に候。乍併落成の上は一日少くとも六七百円の利益と存候場合に付差引にて一日千円程の差と相成候事に付、少少の費用は実に之を辞せざるを利とする次第、是は元より御賛成の事と奉存候。
 一煉瓦も手製にして薪材も自ら搬出し石炭も焼く木材も伐採し、石材も自分で切り出す、土方・鍛冶屋・大工・建具屋・船大工・船夫の世話より彼等が需要品の世話迄致候事其混雑実に非常の事に御座候。
 去れば騒動の割合には是迄工事進行せず候得共、諸事所謂其緒に著きたりといふ有様にて、是より後は大に目鼻の明き候様相成可申と存候。上村氏始め社員の丹精中中容易ならざりし事実に相見へ申候。
○中略
  王子本社          明治三十一年六月三十日
    藤山雷太様
 廿八日附御書唯今拝読当方の工事進行の模様は昨既に御知らせ致候通に御座候、然るに今朝に至り又又工夫の数を減じ候に付、事情取調候処、昨夜十三名逃走致候由に御座候。彼等を引卒し来るには皆一人に付五円位の費用は相掛居候ものなるに、斯く逃走被致候ては中森乙蔵も定めし難義なるべしと存候。彼は今一日三十五銭の給料を仕払居候得共、豊橋近傍にても四十銭を得るは容易なりとか、加之当地は物価高く尚且四十銭にても其購買力には二割位の差はあるべし。而して魚類なども乏しく生活困難なる故に人足の足留らざるやに見受申候。
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兎に角斯る有様にては成功期愈愈後れ候掛念あるに付、中森にも厳談し急に人足を三百人に致すべし、若し是を速に引請ざる様なれば小生別に意見ありと恐嚇を加へ候処、彼も大に驚き早速手当致すべき旨相答候。然るに人足を引きに来るに先ず必要なるは金なれば、此場合不得止次第に付一人に付金五円位の見込にて、不取敢金五百円を貸与し百人の人足を引卒し来るべき旨相命候。此金は勿論仕事の上より引去候ものなり。右の事情に付土工費用は迚も予算にては上らざるべし。併ながら工事の後るる損害には比すべくもあらず候間、唯唯速成の手段を貴び、多少の費用は辞せざるつもりに存候。是も御含置被下御意見御座候はば御申越被下度候。
 右の通り諸事神速を貴ぶに付、多少の費用は辞し難き場合と相成居候に付、当方より注文差出候雑品の供給方に就きては特に貴方に専務の物品掛を御申附被下、当方の催促を待たずしてドシドシ調製し差送呉候様、此際御厳命被下度候。今後速達を要するの注文品、追追出来可申と存候に付、今より此義相願置候。
○中略
七月七日
東京本社                 中部分社
 藤山雷太様                大川平八郎
      貴下
 御料林払下運動の義、貴兄御病気の為め追追遷延相成候得共、右は会社命運の係る処、重大の事柄に存じ、寸刻も猶予難有成存候間、万事は捨置申此事に御従事被下度希望に堪ず候。
 気田川筋、河合及び恵那の三ケ所一時に来らば、大に可なり河合御料林の如き、中部分社手元の山林にして、尺〆大凡五万本は会社に面したる部分のみに於て得らる可く、他面に於て大略同様の数を得べき見込に御座候。
 其他薪材も二万坪以上を得べき由に御座候間、会社に取りては実に莫大の利益に相成可申候(若し普通価格以下にて一時に全部を受領するを得ば)河合御料林の値段は、可相成は十五銭より二十銭以内にて手に入度存候。
 右は、木数等を細密に調査せずして、全山何程と言ふ工合に買入申度、併し是は六ケ敷注文ならん歟。全山一万五千円は安きものとの衆説に御座候也。
○中略
 右の如く大川君は当時遠州気田の分工場に全力を注いで居り王子の工場のことは、鈴木徳次郎といふ技師長に任せ切りであつた。鈴木は王子製紙会社創立当時人夫の出入を預つた吉野屋といふ仕事師の処に居つた鳶職で背に「景清牢破り」の黥がある江戸児であつた。当時重量物取扱に要する機械道具は皆無であり、鳶職が縄の強さを「素縄八百貫」と称し、之に信頼して重量物を上げ下げするのであるから危険此の上もないむづかしい仕事であつた。然るに鈴木は決して危ない仕方をしない、従つて仕損じがない。中々注意深い気の利いた男であるので次第に大川君に任用せられて、遂に技師長まで昇進したものであ
 - 第11巻 p.107 -ページ画像 
る。その中大川君は機械据附の理論と方法と槓杵を利用する道理などを鈴木に教へたが、鈴木は大川君の命令を直ちに呑み込んで実行したのである。かかることから更に紙漉の部分にまで彼を任用し、大川君がアメリカで研究したることを一切彼に教授した。
 然るに根が鳶職上りであるから我儘ものであつて、之を駆使するは猛獣使ひでなければむづかしいのである。或時大川君が遠州の工場に行つて居る留居中、彼は鬼の留居に洗濯をすべく下谷の待合に入りびたつて、三日も会社を怠つたのである。之を見たる藤山君は嚇然として怒り、大川君が居れば早出、遅退で、渾身の気力を現はして勉強するが、其留守となれば此の仕末だ。此の如きものに工場の監督が出来るかと直ちに之を免職してしまつた。然るに彼は平生、宵越の金を使はぬことを誇として懐中に銭があれば部下に飲食せしめて居るので部下は彼の免職を見て是れまた憤然として怒り、同僚三十余人、相共に職場を棄てて退却してしまつた。かかる所へ大川君は電報に接して帰京したが三十余人の腕師が居らぬので、製紙事業は殆んど中止せられたる状態となつた。然るに翌々日には時事新報へ送るべき紙が無くなると云ふ状態なので大川君は自ら工場に入り、社員の中で役に立ちさうなものを徴発して、機械を動かし、時事新報に対する責任だけは辛うじて果したのである。是れが明治三十一年の出来事で日本に於ける同盟罷工の嚆矢である。
 鈴木等の一党は会社を退却してから、大挙して成田に行つたが警察の手が廻りさうなので、一転して静岡へ行き、浮月楼などに立て籠つた。其の間彼等は金が尽きて進退に窮し、大川君に対して何とか助けてもらひたいと言ふので、大川君は前後二回に五百円ほどの金を恵与しそして懇懇と会社に帰りて自分の罪を謝し、其の職を失はぬやうにせよと説得する間に、藤山君は同盟罷工の責任者は大川君にありとして攻撃して来たので、大川君は然らば余は責を一身に負ふべしと言つて辞職する段取となつたが、同時に中上川君から渋沢君に対し、王子製紙会社に就いては、永年お世話になつたことは深く感謝する処であるが、最早我々に一任せられることが御趣意にも適ふであらうと言ひ出した。斯く大川君は明治八年以来心血を澆いだ王子製紙会社とは関係のない人となり、渋沢君も全然該社との関係を絶つこととなつた。斯くて藤山君は大川君放逐の機会を巧妙に攫んで其の目的を達した。そして王子製紙会社は彼の独裁の下に置かれたが、併しながら爾後会社の事業は甚だ振はなくなつた。