デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
7節 製革業
1款 依田西村組・桜組
■綱文

第11巻 p.158-164(DK110031k) ページ画像

明治31年11月(1898年)

日清戦役起ルニ際シテ製品ノ需要激増シ、事業大イニ拡張セリ。依リテ是月、栄一等十七名ノ出資ニヨリ合資会社組織トナス。出資総額三十四万円ナリ。


■資料

竜門雑誌 第二四〇号・第一二―一四頁〔明治四一年五月二五日〕 ○故西村勝三翁の武士道(DK110031k-0001)
第11巻 p.158-160 ページ画像

竜門雑誌 第二四〇号・第一二―一四頁〔明治四一年五月二五日〕
 - 第11巻 p.159 -ページ画像 
    ○故西村勝三翁の武士道
 本篇は本年四月一日発行「実業の日本」に掲載せられたるものなり
  事は三十一年の話
明治三十一年桜組がいよいよ合資会社にならうといふ時であつた。故西村勝三翁と渋沢男との間に立派なる美談があつて自分は西村翁を想ひ起す毎にいつも又其話を想ひ起すのである。人と共に事業をするならばどうかこういふ風にやつて貰ひたいといふ感じまでがいつも起つて来る。
いふまでもなく桜組は最初から西村翁の事業であつて、明治の初め時の兵部大輔大村益次郎の勧誘に依り我軍隊に必要なる皮革と軍靴とを供給する為に四囲の反対を排斤して着手されたのである。即ち純然たる武士的精神から起つたものである。若し単に金儲けといふ点から考へて見ると、何を苦んでか斯の如き人から賤まれ親類から反対せられ殊に最初から大した儲もありさうに見えない靴や革などに手を出す必要があらう。要するに所謂士族根性で算盤勘定よりも国家の為といふ様な考が常に先きに立つて居つたからである。
  援くる者援けらるゝ者共に士魂
最初の考が斯うであるから唯もう欧米に譲らぬ様な立派な工業にしたいといふ方針で、時には随分算盤を持たずに仕事をしたといふ様な風もあつた。つまり此士魂と熱心あればこそ遂にあれ丈の成功を見るに至つたのであらうが、其代り事業の困難は非常なもので、二十年間は此悪運との奮戦苦闘であつた、其間始終翁を助けて資本の上からも又精神の上からも援助慰安を与へたのは渋沢男であつて、是れも矢張翁が国家の為にするといふ熱心に感じ、自分も利害の関係を離れて出来得るだけ声援を与へられたものと信じて居る。
  関係者へ義理堅き恩返し
処が日清戦争以来天運循環して是迄常に逆境に居つた桜組事業は、二十七八年中従来にない利益を見ることが出来た。桜組は其時迄も西村翁の仕事ではあつたが、表面は堀田家の事業、翁は監督といふ事になつて居つたので、翁は堀田家初め関係ある方面へ是迄御迷惑を懸けた御恩返しといふので、整理に着手した、先づ桜組を自分の全責任に移して更に三十一年合資会社に変更し、更に新資本を加へて新らしい人を入れなどし、又世話になつた人へは一々返礼をし当然返へすべき借金抔は無論の事、既に帳消になつて居る余程以前の取引の残金も夫れぞれ返却し、義理を全ふする為には多年苦心の結果漸く儲け得たる利益をも吝まれなかつたのは誠に立派な精神といはなければならぬ。
  渋沢男へ一万円の謝恩金
此時に渋沢男へも聊か御恩返へしをしたいといつて翁はいろいろと心配された、兎に角男には箇人としても亦第一銀行を通してもいろいろと迷惑心配を懸けた恩人である、今日の開運を見るに至つたのも大に男のお蔭であるから、唯義務を返へしたと、いふだけでは気が済まない、聊か謝恩のしるしまでにといつて桜組の株を自分の持分の中から一万円だけ割て之れを渋沢男に贈呈し、これで出資者の一人になつて頂きたいと頼んだ。
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  武士の贈品に対する武士の辞退
渋沢男は之れを聞て翁の厚意を感謝し深く其義理堅きに感ずると同時に、一万円の贈呈に対しては一言の下に之を峻拒し翁に向て左の如くいはれたさうだ。
 そりや貴下の事業も是迄不運であつたが為に私の方でも損をして居ないとはいはぬ。併しそこが商売ではないか、お互に手を携へて実業に従事する以上は損をすることもあれば、得をすることもある。自分はそれを承知でお手伝ひをしたのであるから決して意に介せらるゝには及ばない。貴下の様に義理堅くては余りに窮屈で一緒に仕事が出来ないではないか。
といつて之れを謝絶し、自分の懐から一万円出して、翁の希望の如く出資者の一人となり、翁の死ぬ迄親切に世話を焼かれた。
利益の時には利を争ふて親友も仇敵の如くになり、損失の時には損を他人に塗りつけて友をも売るといふ今日の時勢に於て両人共此の如き立派なる精神を以て利害の間に処せられたるは実に一世の美談で、是れでは真に武士道の光輝といはねばならぬ。


竜門雑誌 第一三八号・第五三―五六頁〔明治三二年一一月二五日〕 ○桜組の園遊会(DK110031k-0002)
第11巻 p.160 ページ画像

竜門雑誌 第一三八号・第五三―五六頁〔明治三二年一一月二五日〕
    ○桜組の園遊会
維新の当時西村勝三氏が兵部省の勧誘に応し製靴事業を開始し、爾来各種の製革事業に従事し東洋に於ける同業の嚆矢として欧西に劣らざるものを製造し、公私の利益を計り我が産業の発達に鴻益を与へたるは人の知る処なるが、本年は恰も事業創始以来三十年に相当するを以て、祝意を表するため去九月廿九日午後一時《(十)》より芝紅葉館に於て園遊会を開きしが、来会者は伊藤・大山の両侯、松方・土方の両伯、伊東子・川口男を始め実業界には我青淵先生・益田孝・大倉喜八郎・山本達雄・上田安二郎・池田謙三・佐々木勇之助等の諸氏、其他朝野の紳士約三百余名にして軍人の割合に多かりしは際立ちて、目ぼしく園内には麦酒・寿司・水菓子・天麩羅・おでん等の掛茶屋及喫茶店の設けあり、又室内には余興として能狂言・太神楽等の催しあり、非常に盛会にして早朝より降出せし雨の十一時頃より快晴と変せしは主人の為めには勿論来客の為めにも非常の好都合なりしも、午後三時過一天再び掻き曇り迅雷驟雨の至りたるは主客一同の閉口せし所なるが、間もなく晴れ渡り日没後は花色を飾るため殊更に園内に設けし数台の瓦斯灯に点火して其光景を添へたり、かくて立食の饗応終りて一同の退散せしは五時半にして、当日万般の用意行届きたるは来客の総へて満足を表せしところなりといふ、又桜組創業以来三十年間の沿革は左の如くにして青淵先生は其間顧問として事業の経営に助力を与へられたる事実の少からずといふ。
   ○「沿革」ハ前掲(第一四八頁)ニツキ略ス。


西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第一〇四―一〇七頁〔大正一〇年一月〕(DK110031k-0003)
第11巻 p.160-161 ページ画像

西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第一〇四―一〇七頁〔大正一〇年一月〕
    第九章 製靴及製革業の成功
○上略
 - 第11巻 p.161 -ページ画像 
日本熟皮会社は不幸にして解散したれども、翁が半生の心血を濺ぎたる桜組の事業は日進月歩の好境にあり。会々日進戦役起り二十万の大軍満韓の野に戦ふや、軍靴及び武器附属皮革の需要一時に激増せしかば、西村謙吉を米国に遣りて其原料を購はしめたり。然るに米国に於ても戦役の波動を蒙り価格騰貴せるが故に、同人は更に遠く墨西哥に赴きて之を購ひ帰れり。かくて翁は大沢省三と共に桜組の業務を督励し、また北品川に製革の支工場を増設して、軍需の補給を遺憾なからしめたる勲功は、猛将・闘士のそれに比して遜色を見ずといふべく、而して収益の大なりしも亦想ふべきなり。されば翁は時局の平和に帰すると共に先づ渋沢栄一を訪ひ、第一銀行に対する積年の負債を償却し、尋で其他の債権者に及ぶまで、悉く返済の義務を了したり。
桜組は日清戦役を経て其基礎の鞏固なると共に、翁もまた昔日の債務者にあらず、事業の経営一身の進退共に自由を得て、漸く活躍の機会を得たれば二十九年には従来の製靴法を改良し、分業製靴法を採用するの準備として技師を米国に派し、翌三十年には新に造靴工場を北品川に営み、専ら多数労働者に供給し、併せて又東洋諸国に輸出するの目的を以て、改良靴と称する分業器械製の仕入靴を発売せり。是より先桜組の資本は堀田家の出資を基礎としたれば、同家の代表者田村利貞表面事業監督の名義人たりしに、日清戦役以来は収益を以て漸次之を償却し、今や全く同家の覊絆を脱するを得たり。是に於て翁は従来の個人経営を変更して合資会社と為し、大に業務を拡張せんのあり《(マヽ)》。乃ち三十年藤村義苗・町田豊千代等新進の士を招聘せしが、翌年更に東洋諸国の牛皮産出に係る事項調査の為め、西村謙吉を支那・暹羅・海峡殖民地に派遣し、帰朝の後更に独逸索遜製革学校に留学せしめ、兼ねて器械製靴法の研究調査、及び将に拡張せんとする、工場の設計を、専門の学者並に実業家に託し、三名の製革職工を雇傭するの任務をも併せ行はしめたり。
桜組拡張の準備は翁の指導の下に著々其歩を進めたれば三十一年十一月翁及び渋沢栄一・田村利貞・矢野二郎・西村茂樹・西村謙吉・大沢省三・八十島親徳・吉岡茂兵衛・町田豊千代・藤村義苗等十七名の出資総額三十四万円より成る合資会社桜組を設立し翁及び大沢・藤村・町田の四名取締役となり更に翁は社長に大沢は専務理事に就任せり。
○下略


西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第二一四―二一七頁〔大正一〇年一月〕(DK110031k-0004)
第11巻 p.161-162 ページ画像

西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第二一四―二一七頁〔大正一〇年一月〕
    第十四章 性格
○上略
翁また義理に厚し。故兵部大輔大村益次郎は、翁を縲絏の中より挙げて、大総督府及び兵部省の御用達となし、且、製靴事業の創始を慫慂し、其将来成功の基礎を為さしめたれば、大輔は実に翁の恩人なり。男爵渋沢栄一も常に翁に同情し、事業の経営に参画して指導の労を執り、又為に資金を融通し、桜組の破綻を未然に匡救せしかば、亦翁の恩人なり。翁深く兵部大輔の知遇と渋沢の情誼とを感じて終生之を徳とす。故に明治二十四年有志相謀りて兵部大輔の銅像を九段坂上に建
 - 第11巻 p.162 -ページ画像 
設するや、進んで建設委員となり、且資産なほ未だ豊かならざりしにも関らず、率先して多額の金円を寄附し、些か其旧恩に報じたり。又日清戦役に多大の軍靴及び皮革を受負ひて収益尠なからず、之によりて事業経営の為めに生じたる一切の宿債を返却せし時、第一に先づ渋沢を訪ひて謝辞を述べ、尋で桜組の合資組織となるや、自己の出資額の一分を割きて贈呈し、之を以て出資者の一人たらん事を懇請せり、蓋し恩に報ずるなり。渋沢深く其好意を喜びたれども贈与は固く辞して受けず、却て別に自ら出資して翁の希望に応じて加入したりき。翁の病革りし時渋沢の病床を慰問するや、翁いたく喜び、「回顧すれば明治七年なりき、故福地桜痴居士紹介により、始めて閣下に見えしより以来、知遇を蒙ること玆に三十有余年、幸に晩節を完くするを得たるは、皆閣下の渝ることなき同情と指導との賜ものなり、今や不治の病に罹り高恩また報ずべからず、せめては心情の万一を告げまゐらせんと思ひしに、図らずも今日温容を拝して生前の望は足れり、余は安んじて瞑目するを得べしと告げ併せて後事を託したり。渋沢、翁の手を執り泣いて曰く、「生死は命なり。神ならぬ身のいかでか之を知るを得べき、されど卿とは昔年の心友なり、余にして卿よりも後に生き永らふることもあらば、誓つて卿の依頼を空しくせざるべしと。やがて渋沢の辞去するに及び、遥かに之を目送して左右を顧み、「今日はかねて心にかゝれる男爵に対して一生の謝辞を述べたれば、重荷を下したるやうに覚ゆるなり」といへりとぞ。翁の義理人情に厚き概ねかくの如し。○下略



〔参考〕西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第一〇七―一一五頁〔大正一〇年一月〕(DK110031k-0005)
第11巻 p.162-163 ページ画像

西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第一〇七―一一五頁〔大正一〇年一月〕
    第九章 製靴及製革業の成功
○上略
かくて桜組の製造販売する所は、軍需品としては、短靴・半長靴・長靴・工兵靴・背嚢・馬具等あり、一般需要品としては革製及び布製の改良靴あり又調革其他の革具あり、営業所並に工場は築地一丁目の本店と其直轄に属する軍靴工場の外、向島製革場、品川同支工場、品川造靴場、横浜・大阪・広島・熊本・仙台・台北の六支店、名古屋・姫路・善通寺・小倉の四出張所を有し、社運日に添ひて盛んなり。三十二年技手大沢亨省三の男は農商務省実業練習生として、製革研究の為め独逸に留学したりしが、会々清国湖広総督張之洞将に兵制を改革せんとし、之に伴ひて製革所を同国武昌に設くるの議を定め、外務省及び参謀本部を介して其計画に任ずべき技師の派遣を桜組に交渉せしかば、翁は技手井野場行一を渡清せしむると共に、なほ又張総督の依頼により、清国留学生数名の為めに桜組の工場に於て製革業をも伝授せり。翁夙に東洋永遠の平和の為に日清親善の必要を唱へて已まざりしが、今や清国の依頼に接するに及び、以て其目的を達する一手段たるべしとて、特に意を用ゐ派遣せる技手の如き悉く無報酬にて之を請負ひたりといふ。此年は恰も桜組創業三十年に相当せしかば、十月十五日を卜とし、紀念の為め本支店・各出張所及び工場に於て、取引上の関係者
 - 第11巻 p.163 -ページ画像 
並に役員・事務員・職工等を会して盛大なる祝宴を開き、越えて二十九日朝野の貴顕・紳士数百名を芝紅葉館に招待し、一大園遊会を催して多年眷顧の恩を謝せり。嗚呼翁が三十年の苦戦悪闘に屈せず、艱難に遭遇する毎に勇気益々振ひ、遂に能く此美果を収めたるは、豈独り翁の栄誉とのみ云はんや、抑もまた国家の慶事なり。此時に当り、翁は本邦の軍靴は機械製に改むるにあらざれば、多額の生産に任じ且粗製濫造を防ぐ能はずとなし、曩に西村謙吉を独逸に遊学せしむるや、其事項の調査研究をも行はしめたりしが、同人が機械・器具類を携へ帰るに及び、直ちに之を用ゐて製作に従へるに結果頗る良好なりき。是に於て陸軍省に建議せしに、経理局長外松孫太郎いたく賛同し、陸軍被服廠直轄の下に機械製靴工場を新設せんとし、其建築設計及び機械の選択と装置とを桜組に嘱託せしが、外松局長はなほ亦民間にも有力なる一大機械製靴工場を設け、国家有事の際には官民協力して事に当るの急務を認め、重なる製靴業者の合同を慫慂せり。蓋し合同の議は是より先日清戦役の際、既に同業者間に起りたる所なれども、なほ熟するに至らざりしが、今や工業界の気運は、之を促す事切なりしなり。翁は外松局長の勧誘に接して遊説頗る力め、遂に桜組・大倉組・東京製皮合資会社・福島合名会社の各製靴部を合同し、三十五年一月日本製靴株式会社を創立せり。資本金は二十万円にして、其約三分の一を桜組に於て引受け、且翁は監査役に、大沢省三は専務取締役に就任したりき。かくて其造靴機械は総て独逸モエナス会社の専売品を採用すると共に、翌三十六年五月より営業を開始し、七月始めて陸軍被服廠の注文を受けたり。幾もなく日露戦役起りて軍人・軍属の征途に上る者百五十万を算へ、軍靴及び兵器附属皮革の需要は日清戦役の比にあらず、若し供給にして需要に応ぜざらんには、我軍の困難は如何なるべき、幸にも翁等の計画は機宜に適し、機械製造の方法を採用せる為め、官民製靴工場の生産力は需用に応じて余りあり、百万の皇軍また後顧の憂なかりしもの、翁の力与りて大なりといふを得べし。桜組は其製靴事業を割きて日本製靴株式会社の経営に移すの後、専ら力を製革事業に注ぎしが、三十五年十二月には本店築地一丁目及び製革工場向島須崎町を千住中組に移して、大規模の工場を営むの盛況を見るに至れり。三十六年二月更に北海道勇払郡早来に製渋所を開く。渋液製造の事は翁が嘗て二回まで之を試みて成功せざりしものなりしが、曩に技師中島宣の米国に航するや其調査研究に従ひ、必要の機械を購ひ来りしかば、是に至り地を檞樹の豊富なる早来に相したるなり。爾来予定の功績を挙げて製革上の利便を得ること尠なからず。
○下略


〔参考〕竜門雑誌 第二一一号・第三二頁〔明治三八年一二月二五日〕 ○株式会社桜組の事業拡張(DK110031k-0006)
第11巻 p.163-164 ページ画像

竜門雑誌 第二一一号・第三二頁〔明治三八年一二月二五日〕
○株式会社桜組の事業拡張 我国製革工場の巨擘ともいふべき合資会社桜組に於ては、此度の戦役に際しあらゆる設備を整へ昼夜兼行の姿にて巨額なる軍国の急需に応じたる由なるが、従て利益金も少からざりしを以て、此際一層事業の鞏固を計り先きに資本金を五十万円に増加し、且つ組織を変更して株式会社となせしが、今回の平和克復を機
 - 第11巻 p.164 -ページ画像 
として向後大に軍需品以外、尚平時一般の需要に向て事業を拡張するの方針を定め、横浜火災保険株式会社東京支店長たりし山田万里四郎氏を聘して支配人となし以て内部の事務を担任せしめ、専務取締役町田豊千代氏は不取敢米国に渡航し、戦後皮革商況の趨勢を視察して得る所あり既に帰朝し、又副支配人半沢輔賢氏は販路研究の為、清国に又技師上月秀太郎氏は革具製造研究の為、欧米に渡航し技師野口弥太雄氏も新式製革法研究の為、遠からぬ内欧米へ派遣せんとする等、着着発展の目的を達するため、本月二十三日の総会に於て更に増資を決議し、都合一百万円の資本となせり、又同社組織変更後の重役には社長西村勝三、副社長大沢省三、専務取締役町田豊千代、取締役藤村義苗・八十島親徳・監査役矢野二郎の諸氏当選就任せられたる由


〔参考〕(八十島親徳) 日録 明治三三年(DK110031k-0007)
第11巻 p.164 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治三三年 (八十島親義氏所蔵)
    十月八日
九時出勤、今夕五時ヨリ桜組ヨリ西村大人○勝三始大沢・藤村・町田・西村諸氏来邸、桜組ノ現状ヲ報シ併セテ将来ノ方針ニ付高見ヲ承リ度シトノ趣旨也、向島工場免許ノ期限ハ来年限リニ付、千住ニ地所ヲ求メテ新工場建築ノ計画ヲナスコト、桜組ノ資本ハ三十四万円ナル《(レ)》トモ資債又ハ負債ノ〆高百万円ニ上リ、常ニ十一万円ノ借入及ヒ四十万ノ約手ヲ発行シ融通ノ度合大ニ付、一朝経済界ノ恐慌ニ会フトキハ頗危険ナルコト等ノ状況ハ、青淵先生モ被聞取、結局相当増資(勧業銀行ヨリ廿万計借入ヲナス外)ヲナスノ外ナカルヘク、又外資ヲ借入ルヽ等ノコトハ今日ノ場合先ツ望ナカルヘシトノ意見也キ


〔参考〕(八十島親徳) 日録 明治三四年(DK110031k-0008)
第11巻 p.164 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治三四年 (八十島親義氏所蔵)
    二月十日
午後品川西村大人○勝三来訪アリ、凡ソ三時間談話、要件ハ桜組増資ノコトニ付テ前田家ニ対シ、渋沢男ノ口添ヲ乞ヒタキコト


〔参考〕(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK110031k-0009)
第11巻 p.164 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治三九年 (八十島親義氏所蔵)
    一月二十日
予ハ午後一時ヨリ大沢氏方ニ至リ桜組重役会ニ臨ム、戦時需用ニ超過スル皮革持過高百二三十万円ニ達スルタメ、金融ニ頗ル苦神ヲ生スヘキ傾向アリ、渋沢男爵ノ予戒告セラレタル敗事常存得意時ノ言、適中ノ姿、前途ハ容易ナラズ、困ツタルコト共也


〔参考〕渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛(明治三八年)一月八日(DK110031k-0010)
第11巻 p.164 ページ画像

渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛(明治三八年)一月八日
                    (八十島親義氏所蔵)
○上略桜組社員退社ニ付、委任状差出可申旨承知、即別状ニ調印さし出申候、可然御取計可被成候
○下略
  一月八日 栄一
    八十島親徳殿