デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
8節 製糖業
5款 明治製糖株式会社
■綱文

第11巻 p.267-272(DK110043k) ページ画像

明治39年10月6日(1906年)

是ヨリ先、相馬半治・小川䤡吉等ニヨリ計画サレタル明治製糖株式会社ノ設立ハ、栄一・森村市左衛門等ノ賛助ノ下ニ具体化シ、是日第一回発起人会ヲ開ク。栄一創立委員長トナル。


■資料

明治製糖株式会社三十年史 第一―四頁〔昭和一一年四月〕(DK110043k-0001)
第11巻 p.267-268 ページ画像

明治製糖株式会社三十年史 第一―四頁〔昭和一一年四月〕
    第一章 会社設立
 我が明治製糖株式会社設立の起源は遠く日露戦役の前後に遡る。其発案者にして現社長たる相馬半治氏は糖業研究の為め多年欧米に学び明治三十六年に帰朝するや、同郷の先輩小川䤡吉氏に説くに名古屋地方に精製糖工場を起すことの地利上有望なるを以てし、同氏の賛成を得て夫々調査の歩を進めつゝありしが時恰も日露戦端を開くに際会し計画中止の已むなきに至りたり。翌三十七年相馬氏は東京高等工業学校教授より転じて台湾糖務局技師となり、実地に糖業指導の任に当るに及び、具に台湾の幼稚なる糖業を目撃し、之が改良を図るに於ては優に国家的大事業たるべきことを確信し、乃ち同島に大規模の新式製糖工場を設立するの一層有利なるべきを看取し、更に之を小川氏に勧告したり。是れ実に明治三十九年三月なりき。小川氏は実際の調査を基礎とせる相馬氏の提案に賛成し、之を近藤廉平氏及び浅田正文氏に諮り、更に偶々上京中なりし本山彦一氏及び松本重太郎氏に相談の結果、大阪精製糖会社の台湾事業として経営することに略々決定したり然るに同社は其後に至り急転直下現在の大日本製糖株式会社と合併したるを以て同計画は中止せられ、便宜上別に東京方面の人士に依つて本事業を進捗せしむることゝなれり。
 先之台湾総督府は糖業奨励規則を発布して斯業発達の為めに企図する所ありしも、日猶ほ浅くして製糖場の多くは在来の所謂旧式糖〓に属し、偶々小規模の改良糖〓若くは新式製糖場設立せられ漸を追うて面目を更めたるの観なきにあらざるも、之を布哇・爪哇等の製糖工場に比較するときは設備規模将た技術に於て霄壌の差異あるを免れず各社何れも頗る困難なる経営を為しつゝあるの際、当初より大規模の経営を標榜せる当社創立の目論見に対して総督府が大に警戒の態度に出でたる蓋し故なしとせず。
 明治三十九年六月、小川氏及び浅田氏は相馬氏と共に偶々上京中なりし台湾総督府財務局長兼糖務局長祝辰巳氏を訪ひ親しく台湾糖業に対する所見を披瀝し、計画の内容を開陳して只管其許可を請願せり。祝氏は時期尚早の理由を以て容易に引受くるの気色なかりしも百方折衝を重ね総督府民政長官後藤新平氏と数次電報交渉の結果、内地大資本家が堅忍持久以て事業経営の任に当るの大決心あらば、総督府は之
 - 第11巻 p.268 -ページ画像 
を歓迎するものなりとの内意を辛うじて確め得たり。是に於て計画は俄に進展し、子爵渋沢栄一氏・男爵森村市左衛門氏等賛助の下に愈々具体化するに至れり。
 抑も台湾に於ける甘蔗耕地は、当時既に三万甲歩(一甲歩は約一町歩)を超え、将来尚開拓すべき土地甚だ広く、殊に濁水渓以南の南部台湾は平野遠く連なりて大規模の経営を為すに適せり、当社製糖場の位置選定に付いては一切相馬氏に依嘱せり。同氏は耕地に関する調査は勿論、水利及び交通の便否等詳かに実地踏査を為し、高雄州阿緱地方《あこう》(旧阿緱庁下)に基礎を定めんとしたるも、同地方は当時鉄道の連絡なく、且つ下淡水渓の水害を顧慮し、遂に当時台湾蔗園の中心地たる台南州佳里《かり》(旧塩水港庁蕭壠《せうろう》)及び蒜頭《きんたう》(旧嘉義庁下)を以て候補地と定め、周囲一円の地域を原料区域として出願したり、然れども其後各社割込出願の結果現状の如く本社及び蒜頭工場と地域を分離して指定せられたり。
 候補地の決定と同時に設立趣意書及び目論見書を作成し、左記二十名の同志を得て発起人とせり。
 飯田巽     岩永省一    浜政弘
 可児弥太郎   柿沼谷蔵    男爵武井守正
 中野薫六    植村澄三郎   梅浦精一
 小川䤡吉    久保扶桑    日下義雄
 山本直良    馬越恭平    浅田徳則
 浅田正文    朝田又七    佐々木〓思郎《(佐々木慎思郎)》
 男爵 渋沢栄一     男爵 森村市左衛門
 明治三十九年十月日本橋倶楽部に於て前後二回の発起人会を開き、渋沢栄一・小川䤡吉・浅田正文の三氏を創立委員とし、渋沢子爵を委員長に推薦して玆に創立事務の取扱を開始したり、株式の引受は発起人と賛成人のみにて既に満株以上の盛況を呈したれば、百株未満の端数を附せざることゝして割当数を按排し、其の内八千株を事業地の関係により特に台湾に於ける工場附近の台湾人に分配して一般公募を為さず、証拠金は一株十二円五十銭とし、申込と同時に直ちに第一回払込金に充当したり、当社の創立の事一たび発表せらるゝや、世間その将来に矚目したり。


(明治製糖株式会社)創立関係書類(DK110043k-0002)
第11巻 p.268-270 ページ画像

(明治製糖株式会社)創立関係書類
    明治製糖株式会社創立ニ関スル事項ノ報告
当会社ノ創立ニ関シ、発起人ノ処理シタル事項ノ要領ヲ玆ニ創立総会ニ報告シ、株主各位ノ承認ヲ請ハントス
 一、当会社ノ創立ニ付テハ其初メ発起人中二三同志者間ニ計画セラレタルモノニシテ、本邦ニ於ケル砂糖消費高年額約五億万斤ノ内、殆ント七割ハ海外ヨリノ輸入ニ係リ、内地ニ於テ産出スルモノハ僅カニ残余ノ三割ニ過キス、而シテ我国ニ於ケル産糖地トシテ将来発展ノ余地十分ナルモノハ、独リ台湾地方アルノミナルヲ以テ彼地ニ大組織ノ製糖場ヲ設立セントシ、明治三十九年五月ヨリ其調査ニ着手シ、爾来着々調査ヲ進捗セシメタル結
 - 第11巻 p.269 -ページ画像 
果、工場ヲ台湾塩水港庁下ニ設立スルコトヽシ、一方ニ於テハ新ニ同志者十余名ヲ得テ発起人ト為シタリ
 二、明治三十九年十月六日第一回発起人会ヲ開キ、決議シタル事項左ノ如シ
   (一)会社ハ株式組織トシ商号ハ明治製糖株式会社ト称シ、資本ノ総額ヲ金参百万トシ、之ヲ六万株ニ分ツコト
   (二)男爵渋沢栄一・浅田正文・小川䤡吉ノ三氏ヲ創立委員トシ、中、渋沢男爵ヲ委員長トスルコト
   其後台湾ニ於ケル糖業ノ大体ヲ視察シ、且本社製糖場設立予定地ヲ踏査シ、愈其有望ナルヲ認メタルヲ以テ、工場ヲ二ケ所ニ設ケ、第一工場ヲ塩水港庁下ニ、第二工場ヲ嘉義庁下ニ設立スル計画ニテ、此両工場ヲ経営スルニ参百万円ノ資本ニテハ不足ナルニ依リ、資本ヲ増加スル為メ、十月二十日第二回発起人会ヲ開キ、左ノ事項ヲ決議シタリ
   (一)資本ノ総額ヲ金五百万円トスルコト
   (二)資本ノ増加ニ伴フ事業目論見書及予算書改正ニ関スルコト、同時ニ会社ノ定款ヲ決議シ、発起人一同記名捺印シタリ
 三、創立ニ関スル処務ノ概要左ノ如シ
   (一)十月七日、第一回発起人会ノ決議ニ基キ調製シタル製糖場設立願書ヲ台湾ヘ向ケ発送シタリ、次テ十月二十三日第二回発起人会ノ決議ニ依リ、新ニ調製シタル設立願書ヲ発送シ、前願書ハ之ヲ取下ルコトヽナシタリ
   (二)株式ハ発起人及賛成者ノ引受ノミニテ全部満株トナリタルヲ以テ、株主ヲ公衆ヨリ募集スルコトナク、証拠金払込ノ手続ノ如キモ之ヲ省略シ、直ニ第一回ノ払込ヲ促カスコトヽナシタリ
   (三)十一月二十三日、各予約株主ニ対シ第一回ノ払込トシテ、十二月八日迄ニ一株ニ付金拾弐円五拾銭宛ヲ取扱銀行ヘ払込ムヘキ旨ノ通知書ヲ発送シタリ
   (四)十二月三日、曩ニ提出シタル製糖場設立願ニ対スル十一月十日附臨時台湾糖務局長ノ認可指令書到達シタリ、指令ノ要領左ノ如シ
    第一、原料ノ採取区域ハ追テ限定スルコト
    第二、本命令交附ノ日ヨリ六ケ月以内ニ会社ヲ成立セシメ、事業準備ニ着手スヘキコト
    第三、限定区域内ノ甘蔗ハ毎年製糖期間内ニ相当代償ヲ以テ全部消費スヘキコト
    第四、願人ハ限定区域内ノ甘蔗ヲ全部消費シタル後ニ非サレハ、区域外ヨリ甘蔗ノ採取ヲ為スコトヲ得サルコト
    第五、臨時台湾糖務局長ハ原料ノ採取砂糖ノ製造其他事業経営上ニ関シ、必要ト認ムル施設又ハ方法ヲ命スルコトアルヘキコト
    第六、願人ハ限定域内甘蔗ノ改良増殖ヲ図リ、甘蔗耕作人ニ対シ、資金又ハ蔗苗肥料農具等ノ供給ニ努ムヘキコト
 - 第11巻 p.270 -ページ画像 
    第七、毎営業年度ニ於ケル事業ノ予定及収支予算ハ其年度ノ初メニ於テ、又事業ノ功程及決算ハ年度経過後二箇月以内ニ、臨時台湾糖務局長ニ報告スヘキコト
   (五)十二月八日払込期限迄ニ、予約者中三名ヲ除クノ外払込ヲ了リ、右ノ三名モ翌日払込ヲ完了シタリ
   (六)十二月二十九日午後二時ヨリ東京市日本橋坂本町東京銀行集会所ニ於テ創立総会ヲ開クヘキ旨、同月十四日ヲ以テ各株主ニ通知シタリ
   (七)創立費ハ金壱万五千円ヲ支出シタリ
 右之通ニ候也
  明治三十九年十二月二十九日
                 明治製糖株式会社発起人
                      飯田巽
                      岩永省一
                      浜政弘
                      可児弥太郎
                      柿沼谷蔵
                      武井守正
                      中野薫六
                      植村澄三郎
                      梅浦精一
                      小川䤡吉
                      久保扶桑
                      日下義雄
                      山本直良
                      馬越恭平
                      浅田徳則
                      朝田又七
                      浅田正文
                      佐々木慎思郎
                   男爵 渋沢栄一
                      森村市左衛門
    株主各位



〔参考〕還暦小記 (相馬半治著) 第一九二―一九六頁〔昭和四年一二月〕(DK110043k-0003)
第11巻 p.270-272 ページ画像

還暦小記 (相馬半治著) 第一九二―一九六頁〔昭和四年一二月〕
    明治製糖株式会社の創立
 現時我邦に於ける砂糖の消費高は、年額約五百万担(一人当十斤前後)そのうち台湾その他国内の生産高は二百万担を出でない、他は全部を輸入に仰ぎ年々二千万円を海外に支払ふのである。さりながらこれを米英人が年一人当五六十斤以上を消費するに比較するときは、前途尚大に消費を増加する余地のあることは明らかである。私はこの意味に於て曾て小川䤡吉氏に面晤の際、名古屋附近に精製糖工場を起すの地理上有利なる所以を説いたことがあつたが、その計画は日露戦役のために一時中止の已むなきに立ち至つた。
 然るにその後台湾に赴任することゝなり、親しく該島の状況を調査するに土地広濶にして温度高く、風雨の分布も宜しいので、糖業地として将来大に有望なりとの確信を得た。さりとて現在のやうな小規模の組織では常に多額の生産費を要し、何れの国に於ても不成功に終る
 - 第11巻 p.271 -ページ画像 
ことは明らかである。少くとも一日六七百噸以上の甘蔗を圧搾する工場を建設するにあらざれば、不利益なりと信じ、三十九年五月台湾より帰り再びこれを小川氏に進言した。
 小川氏は曾て大阪精製糖会社を発起し、糖業に趣味を有する人、私に対し更に台湾糖業の有利なる所以の詳細と、具体的計画の提案を要求せられたので、私は旬日の後、一日七百五十屯の甘蔗を操作する工場の建設並にその収支計算書を同氏に呈した。氏はこれに就き更に詳細質問を重ねられた後、同僚近藤廉平氏・浅田正文氏に、而して両氏より更にたまたま上京中であつた本山彦一氏および故松本重太郎氏に相談の結果、大阪精製糖会社の台湾事業として経営することに略決定した。然るに同社はその後都合により急転直下現在の大日本製糖株式会社と合併したので、同計画は中止せられ、便宜上別に東京方面の人士によつてこれを進捗せしめることになつた。
 既記の通り台湾総督府は既に法を設けて同島の糖業を奨励しつゝあるに拘らず糖界の情勢は遅々として進展せず、随つて時の総督府は大規模新式工場の設立を時機尚早なりとして、その許可を躊躇しつゝあつた。祝総督府財務局長兼糖務局長は私の大製糖工場発起に対し、若し今日かゝる企業を敢てする人あらば親しく面晤せんとの話により私は六月中旬小川・浅田両氏に随伴し、たまたま上京中の同氏に面会し具さに意見のあるところを披瀝し、小川・浅田両氏も亦交々糖業に関する総督府の方針を質問した。祝氏はこれに対し同島糖業の将来に嘱望するも、多額の物質的補助を為す能はず。されども飽くまで行政的方法にてその奨励を持続するの意ありと確答せられたので、両氏は遂に明治製糖会社設立の許可を懇請された。祝氏は慎重の人、糖業の現状から時機尚早説をとつて動かず、容易に設立を承認せらるゝ気色もなかつたが、牢乎たる両氏の要求黙視し難く、遂に後藤長官と数回電報交渉の末、七月四日附を以て大資本家が強ひて補助を依頼せず、堅忍持久の意気込を以て本業を経営するならば総督府はこれを歓迎せんとの意を発表せられた。こゝに於ていよいよ会社の創立となり、私は自然これに関係して計画実現の責任を負ふことゝなつた。
 かゝる関係で私は当分在官のまゝその調査を進行するの内許を与へられ、八月中旬更に渡台し各方面調査の結果、阿緱庁下に基礎を置かんとしたが視察中たまたま下淡水渓出水して交通杜絶のこともあり、遂に現時台湾蔗園の中心地たる曾文渓以北、濁水渓以南を区域とし、差当り第一工場を蕭壠に、第二工場を蒜頭に建設し、塩水港製糖および蔴荳製糖工場は時機を見て適当にこれを買収する方、将来のため万全の策ならんと決意した。
 然るに日露戦役後事業勃興の際とて当社の計画に刺戟せられた塩水港製糖会社は、その後拡張を計画し、又先に当社と分離した松本重太郎等大阪一派は時の糖務支局長浅田知定氏を擁して東洋製糖会社の創立を企て、大日本製糖会社も彼地に進出することゝなり、原料採取区域の争奪に関し非常な混戦の結果、三十九年十月、総督府は現状の如く本社および蒜頭工場と分離して、両工場の設立を許可せられたのである。
 - 第11巻 p.272 -ページ画像 
 一面内地に於ては、小川・浅田両氏から、更に渋沢子爵に相談せられ、故森村男爵・故武井男爵・浅田徳則氏・馬越恭平氏・近藤廉平氏等十余名を発起人とし、資本金三百万円で創立計画を進行することゝなつたが、第二工場の計画もあるので資本金を五百万円とし、渋沢子爵を創立委員長、小川氏・浅田氏を創立委員として準備を進め、その後定款の作成やら第一回振込を終へ、いよいよ明治三十九年十二月二十九日、日本橋区坂本町の銀行集会所に於て創立総会を開き、わが明治製糖株式会社はこゝに成立を告げた。渋沢子は相談役に、小川氏は取締役会長に、而して私はこれに先ちて官職を辞し、専務取締役として事業の責任を負ふことゝなり、その他浅田正文氏・植村澄三郎氏・薄井佳久氏は取締役に、山本直良氏・荒井泰治氏(当時塩水港製糖社長、隣接地区の関係上選任されたがその後辞せられた)が監査役に就任せられた。重役選任につき小川氏は、私のやうな小役人上りが重役となるのは会社の目方が軽くなるから面白くない、むしろ単に技師長として事業に携はる方が宜からうとの意見であつたが、他に適当の人を見出し得ず、遂に右の通り決定を見た次第である。
 会社成立の当夜、小川会長は新任重役一同を浜町常磐に招待せられた。席上、渋沢委員長は書生技師上りのほやほや実業家たる私に対し
 自己担当の仕事は己れのものと思ひ、誠実にこれを遂行せよ
 金銭は他人より預りものと心得、何時でも返し得るやう整理して置け
との訓言を与へられた。これは事業家の服膺すべき、千古の金言である。併し当時は何となく十分理解し得なかつた点もあつたが、漸次その真理たることを了解した。この教訓は今尚念頭に新にして、自分は日々、一意これに背かざらんことを心がけてゐる。