デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
11節 硝子製造業
3款 東洋硝子製造株式会社
■綱文

第11巻 p.460-466(DK110064k) ページ画像

明治39年9月(1906年)

是月栄一、仏国人ロバート・ルーネン等ト共ニ東洋硝子製造株式会社ヲ設立シ、其相談役・顧問ト為リシモ、四十二年二月ニ至ツテ解散ス。


■資料

竜門雑誌 第二二〇号・第四一―四二頁〔明治三九年九月二五日〕 ○東洋硝子製造株式会社創立(DK110064k-0001)
第11巻 p.460 ページ画像

竜門雑誌 第二二〇号・第四一―四二頁〔明治三九年九月二五日〕
○東洋硝子製造株式会社創立 先般来本邦人と仏白人との間に計画中なりし内外人共同硝子事業は其後交渉着々進行し、資本金百四十万円中、百五万円は仏・白資本家、三十五万円は日本資本家の出資と為し社名を東洋硝子製造株式会社と称することに協議纏り、其第一着手として製造工場を大阪に設置することゝなり、梅田停車場附近新淀川に沿ふて約二万六千坪余の土地を買入れ、先般来已に土工に着手し、目下敷地の地上げ工事中の由、会社の目的は主として未だ我国に生産し能ざる厚薄板硝子を製造するにありて、白耳義に於て硝子製造を以て有名なる、デブレ会社の発明特許に係る「フルコール」式を、同会社と交渉の結果、殆んど無条件を以て全部採用することゝなれりと、又「デブレ」会社との間にデブレ会社は孟買以東に製品を供給せざる約成立したる由なれば、印度以東の硝子供給は同会社の独占に帰せむ勢にて、同会社は既に此場合を想定し、三百万円乃至五百万円の増資を決行する計画ありと云ふ、取締役には大倉・長森両氏及び「ロバート、ルーネン」(社長)・タイエ(仏人)・ヂユビビエ、ジヤドウ(白人)・ジー、ミルワード(英人)の諸氏に、監査役は中山・村井・仏人バタンの三氏に決定し、技師及び職長は白仏両国より雇入るべく、尚ほ青淵先生も之に加入し、相談役たることを承諾せられたりと云ふ


青淵先生公私履歴台帳(DK110064k-0002)
第11巻 p.460 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳 (渋沢子爵家所蔵)
  民間略歴 (明治二十五年以後)
○上略
 現在従事セル諸会社ノ業務其他公私団躰等ニ関スル職任ハ左ノ如シ
○中略
一東洋硝子製造株式会社相談役顧問 三十九年九月 四十二年六月六日辞任
○下略
    以上明治四十二年六月七日迄ノ分調


(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK110064k-0003)
第11巻 p.460-461 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治三九年 (八十島親義氏所蔵)
    五月卅一日
朝西村家ニ至リ大人○西村勝三ニ御面会、男爵ノ命ニヨリ仏人ルーネン及技師ジユイピエーガ目下大坂ニ計画中ノ板硝子業ニツキ見込ヲ承ル、大人ハ此困難ナル工業ガ幸ニ外資ト外人ノ丹精ニ依リ成功セバ、実ニ
 - 第11巻 p.461 -ページ画像 
国益ナリ大歓迎、但当分ノ困難損失ハ不免、且技術及職工ノ熟煉《(練)》ハ一切外人ニ任セサレハ不可ナリトハ多年ノ宿論ニツキ、ナマジツカ日本人加入セサルコソ事業成功容易ナラントノ意見ナリ
    九月十八日
西村大人盲腸炎快方○中略昨日宮ノ下ヨリ大磯マテ帰着セラレタルニツキ、本日八時半発ノ汽車ニテ往テ見舞フ思ヒシヨリハ元気モ回復○中略男爵ノ命ニヨリ仏国人ルーネン氏ノ目論ニ係ル硝子会社加入ノ件相談ヲナス


(八十島親徳) 日録 明治四〇年(DK110064k-0004)
第11巻 p.461 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治四〇年 (八十島親義氏所蔵)
    二月十四日
午後二時ヨリ東洋硝子製造株式会社ノ創立総会ニ臨ム、男爵ト西村家トノ代理ヲ兼ネテ也、定款其他外国志想《(思)》ト日本志想《(思)》トノ混合ノ為、不整理ノ処多ク議論百出セルモ、免モ角結了セリ


渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK110064k-0005)
第11巻 p.461 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四〇年
五月十五日 晴 暖              起床七時就蓐十二時
○上略十一時過キ東洋硝子会社ノ要務ニ関シ仏人両名、長森氏ト共ニ来話ス○下略


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK110064k-0006)
第11巻 p.461-462 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四一年
二月十五日 晴 軽寒
○上略午前十時東洋硝子会社重役会ニ出席シ、大倉・長森及仏人数名ト会話ス○下略
二月二十四日 雪 寒甚
○上略長森藤吉郎氏来リ東洋硝子会社ノコトヲ談ス○下略
四月十三日 雨 軽暖
○上略午前十時東洋硝子会社ノ重役会ニ出席シ、頃日大坂ヨリ出張セル技師ドロース氏ニ工場及製品販路等ノコトヲ質問ス、此日長森氏病気欠席ニ付、更ニ近日一会ヲ開クコトヲ約シテ散会ス○下略
四月十八日 晴 暖
○上略午前十時東洋硝子会社重役会ニ出席シ、長森氏及仏人数名ト種々ノ協議ヲ為ス○下略
五月十四日 晴夕曇 暖
○上略午後二時東洋硝子会社ニ抵リ、ルネン氏其他技術長ドローワ氏等ト会社従来ノ不整理ヲ談シ、且フールコール式板硝子製造ノ見込違ヒヲ責メ、将来ノ経営ニ関シテ種々ノ意見ヲ述フ、大倉・長森・村井氏来リ会ス○下略
六月十六日 曇夕雷雨 暑
○上略午前九時帝国ホテルニ抵リ大倉・村井・長森諸氏ト会シテ東洋硝子会社重役会ニ関スルコトヲ協議ス、後硝子会社ニ抵リ重役会ニ出席シテ種々ノ談話アリ議決ニ至ラス、明後十八日再議ヲ約シテ退散ス
○下略
六月十八日 曇又雨 暑
 - 第11巻 p.462 -ページ画像 
○上略十時東洋硝子会社ノ重役会ニ出席シ種々ノ議事ニ参与ス、午後一時帝国ホテルニ於テ午飧シ直ニ白耳義国公使館ニ抵リ、男爵ダヌタン氏ニ会見ス○下略
六月十九日 晴 暑
午前○中略帝国ホテルニ抵リ白耳義人カチイー氏ト東洋硝子会社ノコトヲ談ス○下略
六月二十日 曇夕雷雨 暑
午前○中略十時東洋硝子会社ノ株主総会ニ出席シ、種々ノ議論アリシモ終ニ原案ニ決ス○下略
七月二十八日 晴 大暑
○上略午前十時兜町事務所ニ抵リ○中略仏国人ルーネン氏来話ス○下略
七月三十一日
午前○中略十時半硝子会社ニ抵リ仏人等ト会談ス○下略
八月一日 晴 大暑
○上略午前十一時帝国劇場会社重役会ヲ開ク為メ中央亭ニ抵リ、仏国人ドローズ氏ニ会見シ硝子会社ノコトヲ談ス、長森氏来会ス○下略
八月七日 曇夜大風雨 暑甚シ
○上略午後第一銀行ニ抵リテ午飧シ○中略大倉喜八郎・植村澄三郎二氏来リ東洋硝子会社ノコトヲ談ス○中略
九月十五日 曇 涼
午前○中略十時東洋硝子会社ニ抵リ重役会ニ出席ス、種々ノ議論アリ更ニ明日ヲ約シテ散会ス○下略
九月十六日 曇後雨 冷
○上略午後一時帝国ホテルニ抵リ大倉・村井・長森氏等ト東洋硝子会社ノ善後方案ヲ協議ス○中略東洋硝子会社ニ抵リ仏国人等ト種々談話スレトモ終局ニ至ラスシテ散会ス○下略
九月十九日 曇 涼
午前○中略十二時半帝国ホテルニ抵リ大倉・長森・村井・中山等ノ諸氏ト東洋硝子会社ノコトヲ談ス○下略
九月三十日 曇 涼
○上略午飧後○中略再ヒ兜町ニ抵リ大倉・村井・藤原氏ト東洋硝子会社ノコトヲ談ス○下略
十月六日 晴 冷
○上略午前十時東洋硝子会社ノ重役会ニ出席シ、藤原某ヨリ意見ノ陳述アリ○下略


渋沢栄一 日記 明治四二年(DK110064k-0007)
第11巻 p.462-463 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四二年
一月十六日 晴 寒
○上略午前十時東洋硝子会社ニ抵リ重役会ヲ開ク○下略
二月十六日 晴 風寒
○上略午後三時東洋硝子会社ノ重役会ヲ事務所ニ開ク○下略
三月四日 半晴 寒
○上略此日白耳義公使ダンヌタン氏来リ東洋硝子会社ノコトニ関シ種々ノ談話ヲ為ス、依テ創立以来ノ沿革及余ノ位地ト爾来心配セシ事共ヲ
 - 第11巻 p.463 -ページ画像 
縷述ス


東京経済雑誌 第五五巻・第一三八八号 〔明治四〇年五月一八日〕 ○仏白資本と興業(DK110064k-0008)
第11巻 p.463 ページ画像

東京経済雑誌 第五五巻・第一三八八号 〔明治四〇年五月一八日〕
    ○仏白資本と興業
仏国シンヂケートの代表者たるルーネン氏は従来渋沢・大倉・村井・長森・中山等の諸実業家と合同し、帝国刷毛・東洋硝子・東洋護謨・東洋森林等の諸会社を設立し、尚ほ白耳義資本家の代表者東洋興業合資団のジヤドウー氏と共に更に新方面の計画を為しつゝある由なるがルーネン氏は今回日仏新協約の成立と共に仏白の資本家が我国に向ひ大に放資する形勢熟したりとの飛電に接したるを以て、不日出発西比利亜鉄道に依り往復八週間の予定にて巴里に赴くこととなり、七月初旬来朝の上は我事業界に対し益々活動を試むる筈なりと


毎日電報 第一三一〇号 〔明治四〇年六月二四日〕 【渋沢男の経済談】(DK110064k-0009)
第11巻 p.463 ページ画像

毎日電報 第一三一〇号 〔明治四〇年六月二四日〕
    渋沢男の経済談
 昨日○六月二十三日往訪の社員に語られたる渋沢男の経済談の一節に曰く日仏協約の成立以来内地実業家の多数は該協約に依り豊富なる仏国の資本が、我国各方面の事業に投資さるゝかの如く予想し居るものゝ如し、特に彼の東亜興業合資団の主幹たる仏人ルーネン等と共同にて、東洋硝子会社を創立して目下大阪にその製造工場を建築しつゝある折柄、ルーネン氏と大倉喜八郎・長森藤吉郎・西村勝蔵《(西村勝三)》の諸氏及余等の間に何等か黙契の存するかの如く揣摩するものあるも、元来彼の硝子会社は百五十万円の資本を以て設立され日本人側より半額の投資を為す計画なりしが遂に仏白の資本百万円と日本人側より五十万円の投資を為す事となり、長森氏の勧誘に依り賛成したるものにて目下余はその株主たり、相談役と為り居るも重役として責任を負ひ居れるにはあらず、抑々硝子会社の設立は余が年来の希望にて今より廿年前欧洲漫遊の節、仏白地方にてその製造の模様を視察し帰朝後是が製造に付き種々調査する所ありしも、原料品の不足とその製法の容易ならざるを以て之を中止したるが、今やルーネン氏及び白耳義の技師ジユビー氏の精細なる調査を経て、原料の採掘製法の改良に依り将来有望なる事業として発達すべきを知り、遂に同社の創立を見るに至りたるなり
○中略
長森氏の談に依ればルーネン氏等の関係あるシンヂケートにては、一億万円の範囲に於て東洋方面に投資さるゝかの如く説くも、余は仏国の資本家は只さへ保守的なるに、只僅かに印度支那の領土が日仏協約に依りて安全に保証されたりと云ふ簡単なる理由に拠りて、直ちに同国資本の輸入が容易に行はるべしとは思惟せず、余は日英銀行設立に付ても成る可く成立せしめんと期し居るも、外人が安心して我国の実業に直接投資するは近き将来に於ては期し得べからざるを信ず云々
   ○右ノ談話ハ「竜門雑誌」第二三〇号第二―三頁〔明治四〇年七月二五日〕ニ「日仏協約と仏国資本の輸入」ト題シテ掲載サレタリ。


中外商業新報 第八〇六五号 〔明治四一年九月一六日〕 東洋硝子会社革新(DK110064k-0010)
第11巻 p.463-464 ページ画像

中外商業新報 第八〇六五号 〔明治四一年九月一六日〕
 - 第11巻 p.464 -ページ画像 
    東洋硝子会社革新
東洋硝子製造会社にては十五日午前十時より内幸町の本社に重役会議を開き、日本人側よりは渋沢男・大倉喜八郎氏外三名出席し、今後の営業方針に就き凝議する所ありしが、当日は決定に至らず、更に十六日午後三時より再開することとなりて散会せり、右に付更に或方面より探聞するに、従来同社の技師職工等は仏国及白耳義より呼寄せ、大阪工場の如きも、其規模甚だ嶄新広大なるが当初の設計に難あると、外人への支給々料巨額に上り其割に成績意に満たす、従ふて支出倒れの虞ありしが、右の重役会議も深く此二点と今後同社の営業方針、就中重要業務を邦人側に移すの件に就き討議を重ねたるものにて、外人側は稍や躊躇の態度ありしも、外人も革新の必要は十分に知り居る事なれは、十六日の会議にて重要業務を邦人に移すことに協議成立すべしといふ


竜門雑誌 第二四六号・第六七頁 〔明治四一年一一月〕 ○東洋硝子製造会社の整理(DK110064k-0011)
第11巻 p.464 ページ画像

竜門雑誌 第二四六号・第六七頁 〔明治四一年一一月〕
○東洋硝子製造会社の整理 内外人の共同企画に係り大阪に設立したる東洋硝子製造会社は、其経営を外人に委托せしに、日本の事情に通せざる為め、予期の効果を挙ぐる能はざりしより、其後内国人に於て主権を握ることゝなり、青淵先生は大倉喜八郎・村井吉兵衛の諸氏と共に整理の計画を立て、藤原俊雄氏を挙げて総支配人とし、社内に大改革を施し、予定の計画を変更して板硝子製造は後廻として、先づ壜類の製造を為すことゝなりたり


日本近世窯業史 第四編・硝子工業 第一一一―一二頁〔大正六年五月〕(DK110064k-0012)
第11巻 p.464-465 ページ画像

日本近世窯業史 第四編・硝子工業 第一一一―一二頁〔大正六年五月〕
 ○第三章第四節 板硝子製造業
    第二 大阪地方
○上略
 東洋硝子製造株式会社は日英仏白四国人共同の資本に依り、明治三十九年九月を以て創立せられたり。即ち資本総額百五拾万円内本邦人並に仏国人各四拾万円、白耳義人六拾万円、英国人拾万円を一時に払込み、内国人側にては渋沢栄一・村井吉兵衛・長森藤吉郎・大倉喜八郎・中山佐市等を主とし、外国人側は仏国人チヤールス・ルーネン代表者となり、会社成立するやカール・デユビビエ社長として技師長を兼ね、長森藤吉郎専務取締役に就任し、工場敷地を大阪府西成郡鷺洲村大仁に卜し、白耳義より技師五名・職工長数名を招致し、板硝子と共に壜及び食器類の製造を兼業する事とし、先づ開業の準備として工場・外人舎宅の建築、運河の開鑿等、壮大なる建築をなし、細大の材料を海外より輸入して、実験用半瓦斯式試験窯一基、シヤルノー式レキユペラチイブ製壜窯四基、シヤルノー式食器窯一基板硝子用ゴツブ式リゼネラチイブ連続熔融槽窯一基及び其の他附属の冷却窯並に耐火材料製造工場等を設けたり。然るに技師デツセルが発明に係る機械に依り僅かに鉱泉用壜の製造を開始せる前後よりして、早くも資本の欠乏を告ぐるに至りしを以て、更に白国のシンジケートに謀りて五拾万円の債券を発行し、運転資金の円滑を計りしと雖も、是れ亦暫時にし
 - 第11巻 p.465 -ページ画像 
て費消し終りたるのみならず、経営者たる内外人重役間の議常に合はず、主脳者の更迭頻々として行はれ、社務は次第に紊乱して到底継続の見込立ち難きに至り、板硝子及び食器等の操業を見るに先ち、四十二年二月遂に解散の止むなきに至りぬ。東洋硝子製造株式会社は斯くして短命に終りたりと雖も、流星の如き同社の短生命が我硝子業界に与へたる教訓と暗示とは、同社の名を近世日本窯業史上に不朽ならしむるに足るものあり、即ち(一)我邦は始めて真に雄大なる硝子工場の出現を見たる事、(二)純欧洲式に拠る最初の板硝子工場たりし事、(三)機械的製壜の嚆矢なる事、(四)鉱泉壜製造に連続式槽窯を使用せる事、(五)同社の外人技師職工の一部は転じて旭硝子株式会社に入り遂に本邦最初の板硝子工場の大成に与かりし事等之なり、更に吾人をして切言せしむれば之等硝子業界の享受したる技術的利益を除くも、当時内外人共同事業中の注目すべきものたりし同社の運命は、一般事業界に啓示する所多かりしを感ぜざるを得ず、即ち彼等の事業は(一)経営人物の中心を誤れり、更に(二)企業準備の本末を顛倒せり、其の結果(三)内外人共同事業経営の戒慎の上にも戒慎すべきを社会に警告するに与つて力ありしを以てなり、要するに彼等は経営上及び技術上余りに外人本位にして、根本に於て内地企業の条件に合致せざりし施設多かりしは争ふべからず、されば遂に没落に殯せんとして俄かに邦人を重用し信頼せんとせしと雖も、時既に去つて狂瀾を既倒に回すべくもあらざりしなり。惟ふに将来窯業上内外人共同経営をなす事絶後と云ふべからず、更に支那其他東南洋に於て邦人が其地方人士と合弁事業を営む事に至つては多々益々繁からんとす、殷鑑遠からず、後車須らく警しめて可なるべし。


明治工業史 化学工業編・第四三三頁〔昭和五年一〇月〕(DK110064k-0013)
第11巻 p.465 ページ画像

明治工業史 化学工業編・第四三三頁〔昭和五年一〇月〕
 ○第二編第八章 窯業
    第四 板硝子製造業
○上略
 東洋硝子製造株式会社は日・英・仏・白四国人共同の資本に依り、明治三十九年九月創立せられ、工場を大阪府西成郡鷺洲村大仁に建て白耳義より技師五名、職工長数名を招致し、板硝子と共に壜及び食器類の製造を兼業する事とし、細大の材料を海外より輸入して実験用半瓦斯式試験窯一基、シヤルノー式レキユペラチイブ製壜窯四基、シヤルノー式食器窯一基、板硝子用ゴツブ式リゼネラチイブ連続熔融槽窯一基及び其の他附属の冷却窯、並に耐火材料製造工場等を設けたり。然れども幾くもなくして資本に欠乏を告げ、内外人重役間の議常に合はず、終に四十二年二月解散の止むなきに至りぬ。
○下略



〔参考〕西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第二一一―二一三頁 〔大正一〇年一月〕(DK110064k-0014)
第11巻 p.465-466 ページ画像

西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第二一一―二一三頁 〔大正一〇年一月〕
    第十四章 性格
○上略
 - 第11巻 p.466 -ページ画像 
翁が東洋硝子製造株式会社の株式を引受けたるに就ては一小話あり。明治三十四年の頃、政府は我国に於ける板硝子の需要の増加するに従ひ、輸入品の益々多からんことを憂ひ、斯業を起すに志あり。初めは官業とする内議ありしも、後変じて民業たらしむるに決し、翁も其勧誘を受けたり、されど翁は硝子製造の先覚としての経験を有したれば「数年間は損失を重ぬる決心を定め、大資本を以て事に従はざるべからず、政府は宜しく相当の保護金を下附すべし」と主張せるに、其容るゝ所となりたれば、徐ろに計画に従ひ、政府もまた三十六年其費用を第十九議会に要求したれども、不幸にして議会に解散せられ、予算の成立を見るに至らず。尋で日露戦役起りしが為め、事遂に熄めり。然るに戦役後仏人ルーネン来朝し、渋沢栄一・長森藤吉郎等と協同して東洋硝子製造株式会社を起すや、翁之を聞きて、「板硝子事業が果して予定の如く成功を収め得べきや否やは疑問ながら、万一失敗に畢りたりとも、後年必ず継で起るものあるべし、要するに斯業の種子を下すと同じければ、損失にあらず、進んで株式を引受くるは工業界に対する余の微志なり」とて、遂に株主となれりといふ。同会社は翁の憂慮せるが如く果して失敗に畢りたれども、亦以て翁の事業を愛する事の厚きを見るに足らん。
○下略