デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
12節 煉瓦製造業
1款 品川白煉瓦株式会社
■綱文

第11巻 p.483-485(DK110067k) ページ画像

明治9年(1876年)

是年、東京瓦斯局、瓦斯製造用ノ石炭調査ノ為メ同局傭技師アンリー・ペレゲレンヲ群馬県乗付村ニ派遣ス。同地ノ石炭ハ良質ナラザリシガ附近ニ耐火煉瓦用ノ粘土アルヲ発見ス。依ツテ同局事務副長西村勝三ハペレゲレント謀リ、試験ノ結果舶来品ニ劣ラザル製品ヲ得タリ。栄一、西村勝三ヲ援助シテ同局構内ニ白煉瓦製造所ヲ起サシム。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第二二七―二二八頁 〔明治三三年六月〕(DK110067k-0001)
第11巻 p.483 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第二二七―二二八頁〔明治三三年六月〕
  第四十二章 煉瓦製造業
    第一節 品川白煉瓦製造所
品川白煉瓦製造所ハ東京品川ニアリ、我国ニ於ケル耐火煉瓦業ノ開祖ニシテ、西村勝三ノ営ム所ナリ、青淵先生之ニ直接関係スル所ナシト雖モ、遡テ二十余年前西村カ経営ノ端緒ヲ開クニ当リテハ、先生ノ賛助ニヨルモノ尠ナシトセス
明治九年ノ交、先生ハ瓦斯局長ニシテ西村ハ其副長タルノ時ニ当リ上州高崎在乗付《ノツケ》ニ石炭脈発見ノ報アリ、瓦斯局乃チ技師仏人ペレゲレンヲ遣シテ之ヲ視察セシム、調査ノ結果ニヨレハ、开ハ只下等ノ褐炭ニシテ、到底瓦斯局ノ使用ニ適セサルモノナルコトヲ確カメシモ、ペレゲレンハ別ニ其地方ニテ耐火煉瓦ノ原料粘土ヲ発見セリ、依テ再三之カ試験ヲナセシニ、其結果至テ良好ナリ、西村ハ瓦斯局ノ一事業トシテ此ノ業ヲ興スノ急務ナルヲ感シ、先生ニ謀リテ時ノ東京府知事楠本正隆ニ建言シタリ、然ルニ楠本之ヲ許可セサリシカハ、西村大ニ之カ放擲ヲ遺憾トシ、自ラ此ノ事業ヲ試ミンコトヲ欲シ、先生ニ説テ其賛同ヲ得タリ、乃チ其際瓦斯器械買入ノ為メ渡欧中ノペレゲレンニ其設計万端ノ調査ヲ托シ、ペ氏ノ帰着後仮工場ヲ建築シ、仮リニ牛力ニヨリ器械ヲ運転シ、製造ヲ試ミタルニ果シテ成績ノ見ルヘキモノアリ、製品ハ優ニ外国品ニ拮抗スルニ足ルモノアリシカハ、瓦斯局ハ直ニ之ヲ輸入品ニ代用スルニ至レリ、即先生カ此ノ業ノ計画ニ於ケル幾多ノ賛助ハ遂ニ耐火煉瓦業隆昌ノ基礎ヲナセシモノナリ
後工部省ハ深川セメント工場内ニ白煉瓦ノ模範工場ヲ起セシカ、後年西村之ヲ払下ケ、両者ヲ併セテ品川ニ移シ、品川白煉瓦製造所ノ名ヲ以テ此ノ業ヲ経営シ、漸ヲ以テ進ミ遂ニ今日ノ盛況ヲ呈スルニ至レリ


日本近世窯業史(大日本窯業協会編)第二編第一〇―一一頁(DK110067k-0002)
第11巻 p.483-484 ページ画像

日本近世窯業史(大日本窯業協会編)第二編第一〇―一一頁
 明治四年東京府瓦斯局技師仏国人《(九)》ペレゲレン、偶々上野国片岡郡即
 - 第11巻 p.484 -ページ画像 
ち今の群馬郡寺尾村小塚地内に於て、石炭の層間より一種の粘土を発見し、耐火煉瓦の原料に適するを曰ふ。西村勝三初め郷里下総佐倉の藩に仕ふるや、砲術を学びて化学的の知識を得、後ち野州佐野に遊び同地の豪商正田某の為めに新式製鉛法を研究せり。時にギートセン著鋼鉄全書の翻本に依り、反射炉及び火に耐ゆる白瓦なるものあるを知り、其製法に苦心したる宿縁ありしのみならず、当時瓦斯局次長の職に在りしかば、ペレゲレンの発見したる粘土を利用し、瓦斯窯用の耐火煉瓦を製造し、而して外国に俟つ要なからしめんと計劃せり。然るに東京府知事楠本正隆之を許さゞりしかば、此年一家の私業として開始するに決し、瓦斯局所属地たる芝浦に、試験的耐火煉瓦工場を起せり。然れども当時本邦の工業界は未だ頗る幼稚なりしのみならず、耐火煉瓦製造の技亦た未熟の故を以て、製品の需要起らず、年中の殆んと半ば以上は業を休めり。殊に明治十三四年の頃は周年操業廃停の姿にて損失も少なからざりしと雖も、勝三は其前途大に期する所あり、十六年探川工作分局貸下げの議起るや、進んで其耐火煉瓦製造工場の貸下げを受け、次で翌十七年、《(年脱)》賦償還の法に依り払下げを受けたり。
玆に於て芝浦の工場を深川に合併し、名を伊勢勝白煉瓦製造所と称せり。蓋し伊勢勝は勝三の通称なりき。而して山内政良を挙げて其監督に当らしめ、之に附するに芝浦工場にて使用せし工長一名及び職工二人と、工作分局より傭継する処の職工十数人を以てし、又運転資金五百余円を支出せり。


西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第七九―八三頁〔大正一〇年一月〕(DK110067k-0003)
第11巻 p.484-485 ページ画像

西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第七九―八三頁〔大正一〇年一月〕
    第六章 耐火煉瓦製造業の創始
明治六年東京会議所が府知事の命によりて瓦斯灯建設の事に従ふや、仏人ペレゲレンを聘して技師となし、工場を芝浜崎町に設く。翁此時会議所の議員たりしかば、渋沢栄一等と共に之に参与せり。会々同八年上州高崎在の乗付村に石炭脈発見の報あり、会議所乃ちペレゲレンを遣りて視察せしめたるに、下等の褐炭にして到底瓦斯用に適せざるものなりき。されど此時ペレゲレンは、別に其地方に於て耐火煉瓦の原料粘土を発見し、再三試験の結果極めて良好なるを確め得たれば、翁は瓦斯製造の附帯事業として、会議所に於て其製造に従ふの急務なるを感じ、渋沢等と謀りて之を府知事楠本正隆に建議せり。蓋し翁誉て正田利右衛門の招聘に応じて佐野に遊び、耐火煉瓦の製造に苦心せるが故に、今此事を大成せんとするは因縁浅からずといふべし。然るに府知事は之を許可せざりしかば、翁いたく遺憾とし、独力を以て此事業に著手するの決心を定めたり。よりて折しも瓦斯機械買入の為め渡欧中なりしペレゲレンに、工場の設計以下万端の調査を託し、其帰著後仮工場を芝浦なる瓦斯工場の附属地内に営み、牛力によりて機械を運転し製造を試みたるに、稍良好の成績を得て、外国製に比するも甚しき遜色を見ざりしかば、会議所○同所ハ既ニ解散シ東京府庁之ヲ管掌は直に之を輸入品に代用せり。民間に於て耐火煉瓦製造の事ある蓋し玆にはじまる。
抑も耐火煉瓦の製造は早く江戸時代より起れり。天保年間には水戸藩
 - 第11巻 p.485 -ページ画像 
主徳川斉昭・肥前藩主鍋島斉正・薩州藩主島津斉彬等、名其領内に於て、安政年間には伊豆韮山代官江川英竜同国中村に於て、共に大砲鋳造の為め反射炉を築くや、蘭書に拠りて始めて耐火煉瓦を造る。かくて維新後に至り政府が造幣局を大阪に起せる際、明治二、三年の頃また其製造を試みたれども成功せず、幾もなく同六年工部省所轄赤羽製鉄所後ち赤羽製作所また赤羽工作分局と改称す、芝赤羽にありの事業として、伊豆国加茂郡梨本村に工場を営むに及びて、漸く好成績を挙ぐるを得たり。よりて政府は同十一年探川清住町なる深川工作分局内にも其工場を開き、且梨本村の工場をも管掌せしめしかど、収支相償はざるを以て、此に至り確実なる商人に貸与せんとするの内議あり。翁之を聞きて貸下を請願し、同十六年四月深川工場貸下を允許せられ、向ふ五箇年間を限りて営業を継続すると共に、貸与料として純益の十分の五上納の契約を結びたり。梨本村の工場は政府之を同地の稲葉来蔵に払下げしが、幾もなく廃業せりといふ然れども官有のまゝにては経営上の不便少なからざるが故に再び政府に請ひ、十七年七月一万二千百余円二十五箇年賦にて払下げかの芝浦の工場を此所に併合し、伊勢勝白煉瓦製造所と改称し、山内政良をして専ら其事務を扱はしめたり。而して綾部平輔平輔は是より先ペレゲレンに就きて製法を学びし事ありをして当時の農商務省傭窯業学者ワグネルの説を聴きて其工事に当らしめ、又築窯の方法に就ては工部省大技師宇都宮三郎の指導を仰ぎ、苦心焦慮して其経営に尽力せり。
白煉瓦の製造は、かくのごとくにして創業せられたれども、当時其煉瓦を使用すべき諸般の工業いまだ発達せず、需要極めて少なかりければ、明治十六七の二年度を通じて、僅かに五六百円の販路を得たるのみ○下略
  ○「青淵先生六十年史」第二巻ニ「同年○明治五年五月東京瓦斯局ヲ置キ事務長ヲ青淵先生ニ副長ヲ西村勝三ニ嘱托セリ」ト記ス。是月栄一、東京会議所会頭ヲ委嘱サレ、尋イデ瓦斯局事務長ヲ委嘱サル。本資料第十二巻「東京会議所瓦斯課」ノ項参照。