デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
15節 造船・船渠業
1款 株式会社東京石川島造船所
■綱文

第11巻 p.619-632(DK110095k) ページ画像

明治26年9月5日(1893年)

是日当造船所臨時株主総会ヲ開キ、株式会社東京石川島造船所ト改称ス。栄一取締役会長ニ選バレ、爾後重任シテ明治四十二年七月十三日ニ至ル。


■資料

株式会社東京石川島造船所報告 第五回明治二七年一月(DK110095k-0001)
第11巻 p.619-620 ページ画像

株式会社東京石川島造船所報告 第五回明治二七年一月
  株式会社東京石川島造船所第五次報告
玆ニ明治廿六年一月ヨリ同十二月ニ至ル一季間、工事ノ概況諸般ノ要領ヲ挙ケ併セテ諸計算ヲ精査シ、以テ株主各位ニ報告スルコト左ノ如シ
    第四 所務総況
役員進退 委員故平野富二氏○廿五年十二月二日歿ノ後任ヲ撰挙セシニ、投票多数ヲ以テ西園寺公成氏就任セラレ、又常務委員ニハ梅浦精一氏就任セラレタリ○廿六年一月廿一日株主総会決議
 十一月廿七日改正定款ニ基キ監査役ノ撰挙ヲ執行セシニ、松田源五
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郎・田中永昌ノ二氏投票多数ヲ以テ就任セラレタリ
株主臨時総会 明治廿六年九月五日株主臨時総会ヲ当社事務所ノ楼上ニ開キ、工場増設方ニ付委員ヨリ提出シタル原按ニ就キ、左ノ通リ決議セリ
 資本金七万五千円ヲ増加シ、右増株配当ノ割合ハ株主現在持高ニ応シ割当テ○中略 ニ決議セリ
 定款改正按ハ原案ニ二三ノ修正ヲ加ヘ、余ハ原按ノ如ク決議セリ
 定款認可願ヲ主務省ニ差出シ、若シ主務省ノ差図ニ依リ修正ヲ要スル箇条アルトキハ、其修正ヲ総テ委員ニ委托スル事ニ決議セリ
 定款認可ノ上ハ、是迄ノ委員ヲ任期中其儘取締役ニ撰任スル事ニ決議セリ
 定款ニ依リテ弐名ノ監査役撰挙ハ、株主臨時総会ヲ開カスシテ当社ヨリ投票用紙ヲ送付シ撰挙スル事ニ決議セリ
定款改正 明治廿六年九月廿一日農商務省ニ改正定款ノ認可ヲ申請セシニ、第四条株金払込方ノ規定及第四十二条第一項起業資本積立金ノ割合、其他一二ノ条項ニ向テ訂正ヲ要シタルニ付、更ニ委員ニ於テ修正ノ上、十一月十八日農商務省ノ認可ヲ得タリ
           株式会社東京石川島造船所
                 取締役会長 渋沢栄一
                 常務取締役 梅浦精一
  明治廿七年一月        取締役   西園寺公成
                 所長    進経太
                 支配人   片山新三郎
右之通相違無之候也
                 監査役   田中永昌
                 監査役   松田源五郎


添申録 工部会社組合明治廿六年(DK110095k-0002)
第11巻 p.620-621 ページ画像

添申録 工部会社組合明治廿六年 (東京府庁所蔵)
    登記済御届
当会社登記ノ儀本月廿四日別紙之通京橋区裁判所ヘ出願、今日御許可相成候間此段御届申上候也
  明治二十六年十一月廿七日
                 株式会社東京石川島造船所会社之印
    農商務大臣 伯爵 後藤象二郎殿

    株式会社登記陳述書
      登記ヲ受クベキ事項
一社名           株式会社東京石川島造船所
一営業所          東京市京橋区佃島五拾四番地
一会社ノ種類及本店又ハ支店 株式会社本店
一会社ノ目的        汽船風帆船及諸機械ノ製造又ハ各般ノ工業ニ関スル諸機械ノ製作及材料買入請負等
一会社設立免許ノ年月日   明治廿二年一月十七日
一会社開業ノ年月日     明治廿二年一月十七日
一会社存立時期       明治二十二年一月ヨリ明治五十二年一月迄 満参拾年
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一資本総額         弐拾五万円
一株式ノ総数        弐千五百株 新株七百五拾株旧株千七百五拾株
一一株ノ金額        百円
一払込金額         新株払込ナシ旧株金額払込済
一取締役ノ氏名住所
      住所            氏名
     東京市深川区福住町四番地
              取締役  渋沢栄一
     東京市京橋区木挽町九丁目十一番地
              取締役  梅浦精一
     東京市京橋区木挽町一丁目十一番地
              取締役  西園寺公成
右登記相成度、別紙公証人ノ認証シタル定款認可証、定款設立免許書株主名簿、謄本相添及申請候也
  明治二十六年十一月廿四日
              株式会社東京石川島造船所
                取締役 西園寺公成
                取締役 梅浦精一
                取締役 渋沢栄一
    橋京区裁判所
         御中


株式会社東京石川島造船所定款 明治三〇年九月(DK110095k-0003)
第11巻 p.621-622 ページ画像

株式会社東京石川島造船所定款 明治三〇年九月
               (株式会社東京石川島造船所所蔵)
  株式会社東京石川島造船所定款
    第一章 総則
第一条 当会社ハ明治二十二年一月一日ノ創立ニシテ有限責任東京石川島造船所ト称セシヲ、玆ニ株式会社東京石川島造船所ト改称ス
第二条 会社(株式会社東京石川島造船所ヲ云フ、以下倣之)ハ東京市京橋区佃島五拾四番地ニ設置スヘシ
第三条 会社ハ滊船・風帆船及諸機械ノ製造ヲ引受ケ、又ハ各般ノ工業ニ関スル諸機械ノ製作及材料買入請負等ヲ以テ営業ノ目的トス
第四条 会社ノ資本金ハ壱百万円ト定メ、之ヲ弐万株ニ分チ、一株ヲ金五拾円トス、内参拾参万七千五百円ハ払込済ニシテ、残六拾六万弐千五百円ハ来ル明治三十二年二月迄ニ払込マシムルモノトス、但其払込金額及期日ハ取締役会ニ於テ決定シ、三ケ月以前ニ各株主ニ通知スヘシ
○中略
    第三章 取締役及監査役ノ事
第十八条 株主ハ通常総会ニ於テ、六拾株以上ヲ所有スル株主中ヨリ取締役三名監査役二名ヲ選挙スヘシ
第十九条 取締役ノ任期ハ三箇年トシ、監査役ノ任期ハ二箇年トス、但満期後再選ヲ得タル者ハ重任スルコトヲ得
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第二十条 取締役及監査役ノ報酬ハ総会ニ於テ之ヲ定ム
第二十一条 取締役又ハ監査役ニ不時ノ欠員アルトキハ、臨時株主総会ヲ開キ其補欠員ヲ選挙スヘシ、但補欠員ノ任期ヲ越ユルヲ得ス
第二十二条 取締役ハ其所有ノ株式六拾株ヲ会社ニ預ケ、在任中ハ之ヲ引出スコトヲ得ス
第二十三条 取締役ハ会社一切ノ業務ヲ総括シ之ヲ施行スルノ権ヲ有ス、然レトモ法律命令定款及総会ノ決議ヲ遵守スルヲ要ス
第二十四条 監査役ハ取締役ノ業務施行カ法律命令定款及総会ノ決議ニ適合スルヤ否ヲ監視スヘシ
第二十五条 監査役ハ計算書・財産目録・貸借対照表・事業報告書・利息又ハ配当金ノ分配案ヲ検査スヘシ
第二十六条 取締役ハ同僚中ヨリ会長一名専務取締役一名ヲ互撰スヘシ
第二十七条 取締役ハ株主中又ハ株主外ヨリ技術長ニ適任ナリト認ムル者ヲ撰抜シ、之ヲ所長ニ任シ、専ラ工事ヲ監督セシメ、時トシテハ会社事務ヲ代理セシムルコトアルヘシ
○中略
第四十一条 会社ハ一月ヨリ十二月ニ至ル全壱箇年毎ニ其総勘定決算ヲ為スモノトス
第四十二条 毎年総収益金ノ内ヨリ一切ノ諸経費及諸損失ヲ引去リ、其残額ヲ利益金トナシ之ヲ配当スルコト左ノ如シ
 第一項 利益金ノ弐拾分ノ壱以上起業資本償却積立金
  是ハ会社ノ起業資本タル家屋諸機械ノ原資償却ニ充ツルモノニシテ、毎年其原資金ノ百分ノ参ニ下タラサル割合ヲ以テ之ヲ積立、臨時消費スルヲ得ス、但本項積立金ハ資本金ノ十分ノ七ニ充ツルヲ以テ其度トス
 第二項 利益金ノ百分ノ拾 賞与金
  是ハ取締役監査役及所長支配人以下職員ノ賞与金トシ、取締役会ノ決議ヲ以テ分配スルモノトス
 第三項 株主配当金
  是ハ利益金ノ内ヨリ、前二項ノ金額ヲ引去リタルモノヲ純益金トシ、総会ノ決議ニ従ヒ毎年十二月三十一日現在株主ニ之ヲ分配スルモノトス
   ○右定款ハ明治三十年九月ノモノニシテ、明治二十六年九月変更ノ定款ナラザレドモ、当会社現在所蔵最古ノモノナルヲ以テ玆ニ掲ゲタリ。


青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第五五―五六頁 〔明治三三年六月〕(DK110095k-0004)
第11巻 p.622-623 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)第二巻・第五五―五六頁〔明治三三年六月〕
 ○第二十七章 造船業
    第二節 石川島造船所
○上略
爾来漸次事業ヲ拡張シ、前途亦多望ナルヲ以テ更ニ向フ二十箇年間拝借ヲ追願シ海軍省ノ許可ヲ得タリ、明治十九年ニ至リ、平野富二同造船所将来ノ維持拡張困難ナルヲ以テ、来テ青淵先生ニ相談ス、先生則チ方法ヲ按シ、匿名組合法ニヨリ梅浦精一其他二三ノ同志ト共ニ資金
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ヲ供給シタリ、明治二十二年一月其組織ヲ改メ拾七万五千円ヲ以テ株式会社ヲ組織シ、有限責任石川島造船所ト改称ス、先生及梅浦・平野ヲ挙テ委員トシ会社一切ノ事務ヲ担当セシメ、更ニ互撰ヲ以テ平野ヲ常務トス、而シテ石川島ハ海軍省ノ管轄ナリシカ、後内務省ニ転シ、更ニ復宮内省ニ移属ス、依テ更ニ向フ三十箇年拝借ヲ宮内省ニ出願シ允許ヲ得タリ、是即造船所カ合本組織ニ属シタル始メニシテ、明治九年平野カ独立創設シタル後玆ニ十有三年ナリ、其間製作シタル船舶、橋梁及各種機械ノ如キ枚挙ニ遑アラス、就中軍艦鳥海号ノ如キハ其最モ顕著ナルモノニシテ、又本邦民設造船所ニ於テ軍艦ヲ製造シタル嚆矢ナリ、明治二十五年十二月常務委員平野富二俄然病死ス、次テ翌二十六年商法実施ニヨリ定款ヲ改正シ、株式会社東京石川島造船所ト称シ、先生及梅浦・西園寺ヲ取締役ニ撰挙シ、松田・田中ヲ監査役ト為ス、更ニ互撰ヲ以テ先生ヲ取締役会長ニ、梅浦ヲ専務取締役ニ撰定ス爾後改撰期ニ至ルモ株主総会ハ投票ヲ用ヰス全会一致ヲ以テ重任ヲ懇請シ、遂ニ今日ニ至ル、更代スル所ナシ、是ニ於テ梅浦専務取締役ハ平野ノ後ヲ享ケ、先生ト相謀リ専心従事一切ノ事務ヲ総攪スルノミナラス着々旧套ヲ改メ、孜々トシテ革新ノ実ヲ示シタリ、即工場ノ整頓機械ノ設備、技士職工ノ精撰、材料購入等諸端其宜シキニ応ヒ技術ハ益々精巧ニ信用ハ益々博ク収益亦之ニ伴フ、実ニ昔日ノ比ニ非サルナリ、就中海軍造兵廠ノ特命ヲ受ケ弾丸削成ヲ一手ニ引受ケ、為メニ工場及機械ヲ新設セル如キ、又日清ノ役起ルヤ全工場ハ挙ケテ海軍ノ徴発スル所ト為リ、船舶ニ機械ニ電機ニ弾丸ニ総テ公用ヲ弁セサルハ莫ク、殊ニ僅々五十余日ヲ以テ小蒸汽船八艘ヲ製造シ、滞ナク横須賀鎮守府ニ引渡シ急速ノ用ヲ達シタル如キ、復東京電灯会社ノ注文ニ係ル発電諸機械ノ如キ、設計ノ巧緻ニシテ考按ノ斬新ナル、機械ノ巨大ニシテ精良ナル、欧米各国ニ於テモ稀ニ見ル所ナリ


秘書類纂 実業・工業資料 第一六八―一六九頁〔昭和一〇年一〇月〕(DK110095k-0005)
第11巻 p.623-624 ページ画像

秘書類纂 実業・工業資料 第一六八―一六九頁〔昭和一〇年一〇月〕
    石川島造船所改正定款写
 (第四号)
  明治廿八年十一月七日東京日々新聞広告
   商業登記公告
○株式会社東京石川島造船登記事項中左ノ如ク変更ス。
      原登記
  資本総額   金弐拾五万円
  株式ノ総数  弐千五百株内 旧株千七百五拾株 新株七百五拾株
  壱株ノ金額  金百円
  払込金額   旧株金額払込済 新株金五拾円払込済
      変更
  資本総額   金五拾万円
  株式ノ総数  壱万株内 旧株三千五百株 第一新株千五百株 第二新株五千株
  一株ノ金額  金五拾円
  払込金額   旧株金額払込済 第一新株ノ内七百五拾株金額払込済 第一新株ノ内七百五拾株未払込 第二新株未払込
 - 第11巻 p.624 -ページ画像 
 右明治廿八年十一月六日登記ニ此旨公告候也
  明治廿八年十一月六日         京橋区裁判所
   ○東京石川島造船所浦賀分工場工事予算見積、更ニ増大シ明治二十八年九月五日ノ臨時株主総会ニ於テ二十五万円ノ増資ヲ決議ス。前掲登記ノ公告ハ其後十一月七日ナリ、本款明治三十二年六月十一日ノ項参照。


有限責任石川島造船所報告 第三次明治二五年一月(DK110095k-0006)
第11巻 p.624 ページ画像

有限責任石川島造船所報告 第三次明治二五年一月
               (株式会社東京石川島造船所所蔵)
    明治廿五年一月現在株主名簿
  株数    住所               姓名
 四〇〇 東京市日本橋区兜町二番地       渋沢栄一
 三八九 東京市京橋区築地二丁目十六番地    平野富二
 二七〇 長崎市酒屋町             松田源五郎
 二五〇 東京市麹町区永田町二丁目一番地    田中永昌
 一五〇 東京市京橋区木挽町一丁目十一番地   西園寺公成
 一三〇 東京市京橋区木挽町九丁目十一番地   梅浦精一
  三二 神奈川県三浦郡横須賀町字港廿八番地  岩田平作
  三〇 東京市京橋区越前堀二丁目四番地    重村直一
  二〇 東京市芝区烏森町一番地        島谷道弘
  二〇 東京市京橋区築地二丁目五番地     片山新三郎
  一二 東京市京橋区銀坐三丁目廿二番地藤野方 桑村硯三郎
  一二 東京市京橋区新湊町一丁目十一番地   森田利兵衛
  一〇 東京市本郷区竜岡町廿三番地柳沢方   池田賢太郎
  一〇 長崎市新町三番戸           品川ヒデ
   七 東京市小石川区金富町五十番地     石橋政方
   六 石川島造船所長            進経太
   二 東京市芝区三田小山町一番地      進経太
    計千七百五拾株              拾七名
   ○石川島造船所創立当時ノ株主名簿ヲ得ズ前掲「報告書」ヲ以テ之ニ代フ。右名簿中、田中永昌ハ鍋島家ノ代理人、西園寺公成ハ伊達家ノ代理人ナリ鍋島家ノ代理人初メハ深川亮蔵タリシガ後田中ト代レリ。


西谷常太郎氏談話(DK110095k-0007)
第11巻 p.624-626 ページ画像

西谷常太郎氏談話
                    昭和一二年五月一五日於西谷邸高橋善十郎筆記
高橋「石川島平野造船所時代に平野さんが第一銀行から資金を融通して貰つてゐましたが、東京石川島造船所五十年史の青淵先生の序には明治十三四年頃とあり、この書の内容には十五年とありますが、貸付の年月と金額を御存知ありませんか」
西谷「私は明治十六年の末に入社しましたから、その辺のことは全然存じませんが、十六七年以後は第一銀行から度々融通を受けてゐたやうです」
高橋「先生が匿名組合を作りましたとき、梅浦精一さんも組合員になりましたが、加入した経緯はどうなんで御座いませうか」
西谷「梅浦さんは其頃東京商法会議所の書記長で居られて居りました
 - 第11巻 p.625 -ページ画像 
のでその関係で、渋沢子爵の代理として這入られました」
高橋「梅浦さんは、匿名組合員として相当の出資をして居られましたか」
西谷「梅浦さんの出資は他の方よりは少額であつたやうです」
高橋「昨日石川島に参りまして中山さんや栗田重役にお会ひしましたが、お話に依りますと書類は土蔵に入れてあつたが震災で全部焼失してしまつたと云ふことですが」
西谷「さうです。海軍省に対する造船所用地の拝借の願書、会社設立当時の願書、定款設立以来の考課状、株主総会や重役会の議事録其他の重要書類も全部土蔵に入れてあつたのが焼けてしまひました。事務所のあつた所は埋立地でしたから地盤が悪く、あのとき土蔵が少し傾いたと見えて、鉄扉がよくしまらず火が入つたものと見えます。東京石川島造船所五十年史は私共の記憶を辿つて漸く作つたものです。渋沢○正雄さんの紹介で堀敏一君(朝日新聞記者)に編纂方を御願しました」
高橋「お手元に何か資料は御座いませんか」
西谷「私共の方には今御座いません。願書や定款、其他の記録の写しを作つて置いたが、会社で私の預つて居つた金庫に入れて置きました。すると震災で黒焦になつてしまつて残念な事をしました」
高橋「平野造船所時代に海軍省や内務省や宮内省に願書を度々出してをりますが――」
西谷「石川島造船所の敷地はもと海軍省の所管になつてゐた。それが後に内務省に移され、又海軍省に戻されたりして、結局宮内省に移管され、佃島御料地と称されました。議会がいよいよ開設になるので種々面倒な問題が起るかも分らぬので、斯く宮内省の所管に移された事と思はれます。拝借料は最初から年五百円でした。つまり特に造船所に貸渡す為めに移管されたものと見て宜しからうと思ひます」
高橋「面白いことですね。こんなことは回顧談でありませんと分らないことです。次に浦賀分工場のことですが、浦賀船渠との競争で浦賀分工場が立往かなくなり、分工場を浦賀船渠に合併しようと謀りましたが、遂に浦賀船渠側の合併否決で不調に終りましたが、その間の事情は如何ですか」
西谷「浦賀船渠の大株主は渡辺治右衛門さんで、社長は塚原周造と云ふ人でした。梅浦さんとは不仲の間柄であつたやうです」
高橋「では感情問題で不調に終つたのでせうか、浦賀船渠にも合併賛成者が居ましたが」
西谷「単に社長間の感情問題で、不調になつた事では無論ありますまい。両会社では夫々海軍の技術方面の主脳者に設備等の評価其他の調査を御願して、此等の方が居中折衝に力められましたが、合併条件の意見の一致を見ず不調に終つた。石川島の方ハ合併を希望して居たのですが、浦賀の方で拒絶したのでした」
西谷「その合併の一件の総会は、十月二十二日麹町区有楽町東京商業会議所に於て臨時総会を開き、浦賀船渠株式会社と合併の件が不成
 - 第11巻 p.626 -ページ画像 
立に帰したることを報告しました」
高橋「明治四十年四月二十七日の山光丸進水式の時、併せて会社創立三十年祝賀式を挙行しましたが、その式のことをお話し願ひます」
西谷「その日は生憎大雨でした。青淵先生がテント張りの式場で演説された」
高橋「どんな演説だつたか、その内容が記録にないのですが」
西谷「それは記憶して居りません、筆記もなかつた様です」
高橋「栗田さんのお話しでは青淵先生は会社の経営方針には余り関係しなかつたといふことですが」
西谷「会社の経営は専務や工務担当者を信頼され、重役会などの折には当局者の意見を御聴になり裁決をなされました。職員の集りの席では常に論語の句を引いて懇篤の訓戒をなされました。会社は主として第一銀行から資金を融通して貰つてゐました。一度第一銀行で断られて勧銀から借受けたことなぞあります。会社があれまで大きくなつたのは全く青淵先生のおかげで御坐います」
高橋「取締役会長としての先生の活動は他にどんな方面がありませうか」
西谷「青淵先生は株式総会の時は議長をいつもやられた。重役会なぞ初め石川島でやりましたが、先生は他の会社の関係で中々お忙しいので、二時の重役会が先生の御出席が遅れて四時頃に開かれることもありました。浦賀分工場設置に関する或時の重役会は石川島の事務所で十時頃までかゝつた事も記憶しております。後には兜町の事務所で重役会を開くやうになりました。重役会で私は議事の筆記をとりましたが、各重役の言はれた事を一々記録することになつて居ましたから随分困つた事もありました。此等の重役会の議事録も株主総会の議事録(大正元年以後は速記録として)も、前申しました通り皆んな震火災で烏有となりました」


石川島造船所と青淵先生との関係 「石川島造船所取締役 栗田金太郎談」(DK110095k-0008)
第11巻 p.626-628 ページ画像

石川島造船所と青淵先生との関係
       石川島造船所取締役 栗田金太郎談
            昭和十二年五月十四日 於石川島造船所
            土屋喬雄・佐治祐吉・高橋善十郎・山本勇
 私は明治二十六年に入社しまして、ずつと工場の方をやつてをりました。西谷常太郎君は初めから事務所にゐましたから、事務関係や青淵先生との接触も多かつたらうと思ひます。かういふことは西谷君が一番よく知つてゐる筈です。
『石川島造船所五十年史』は、御承知の通りこゝは大正の大震災ですつかり書類等焼けてしまひましたので、私や西谷・小川鉄五郎・斎藤平太郎などの古い人がなくならぬ内にといふので作つたのでして、あれに尽くしてゐるやうなものです。
  土屋――こちらの五十年史はむろん渋沢子爵を中心に書かれてをりませんが、今日は成るべく子爵を中心にしてお話願ひたい。
 子爵との関係もあの本の通りです。
  高橋――青淵先生の書かれた『石川島五十年史』の序に、先生が
 - 第11巻 p.627 -ページ画像 
第一銀行を通じて平野造船所に資金を融通した時は明治十三・四年であつたと書かれてをりますが、他の先生の談話の中には十一二年とあります。これはどちらが正確とみてよいものでせうか。また、造船所のために総計七・八万円を第一銀行より貸出したと述べてあります。その金額について御存じありませんか。
 憶えてをりませんなア。記録も殆んど残つてゐませんし、梅浦(精一)さんや平野(富二)さんが亡くなられたから分らんでせう。平沢さんは大倉さんから推薦されて来てゐたが、これも亡くなりました。私は二十一の時――明治二十六年に入りましたけれども、最初のことは分りません。
  高橋――こちらの浦賀分工場と浦賀ドツク株式会社の合併が不調になつた事情は御存じありませんか。
 明治三十一年に私は浦賀分工場にやらされて、合併になるまでゐました。この問題は結局こちらの分工場が立ち行かぬ、合併せねばやつて行けぬのです。それで向ふ(浦賀ドツク)が強かつたんでせうな。石川島でもあれ(浦賀分工場)を持つてゐてはやりきれぬといふことを見抜いてゐたのですね。西谷君はこの間の事情をもつと詳しく知つてゐるかもしれません。
 浦賀分工場は百万円かけて出来まして、私は機械課長として参つてをりました。子爵は時々来られて――丁度日清戦争後で疲弊してゐた時代でしたが――『日本の造船業が大きくならねば、日本の国は栄へぬ』とおつしやつて我々若い者を励げまされました。それが浦賀ドツクと合併になるようなことになりましたので、私等はすごすごと帰つて来ました。
  高橋――浦賀分工場は百万円で売つたことになつてゐますが、百万円のうち九十万円は株式で、十万円は現金で払つたとありますが、九十万円の株主は浦賀船渠の株主になつたのですか。
 売つたことにはなつてゐるが、石川島の株主が向ふの株主になつたのです。
  土屋――子爵が何か特におやりになつたことはありませんでしたか。
 造船界は苦しい時代ばかりでしたので、金の心配は総てやつて戴いてゐました。子爵には、日本の造船業を盛んにせねばならぬといふ信念が常に御座いましたから。それにも拘らず、こゝはあまり伸びませんでした。その一つは此処の位置が悪かつたことです。此処がいかんといふので浦賀に分工場を三十一年からやつたのですが、そこもうまくゆかず、浦賀ドツクに譲つてこちらに少さくなつて……。とにかく子爵には一番御心配かけました。いつたいに造船界はいゝことはありませんでした、戦争の時は一寸よかつたが、その後はずつと悪かつたのです。
 子爵の関係で第一銀行にも世話になりました。そして昭和五・六年の不況時代を乗り切ることが出来たのは第一銀行のお蔭です。佐々木さんや石井さんにも面倒をみて貰ひました。
  土屋――子爵がこちらに来られたのはどういふ時でしたか。
 - 第11巻 p.628 -ページ画像 
重役会のときです、月に一度くらゐでした。
  土屋――経営方針については。
 どうもね、あまりきゝませんでしたよ。『たゞ儲けるばかりではいかん、国家的に』といふことはよく伺ひましたが。
  山本――青淵先生はこゝでずいぶん沢山の演説をなさつたことが先生の日記にかゝれてありますが、その資料が、殆んどありません。どんな内容のものだつたか御存じありませんか。
 こゝの新年宴会がいつも正月五日にあります。その時に子爵はよく論語の文句なぞひきだされて、訓話のやうなものをなさいました。経営方針については聞いたことがありません。人間はこうしなければならぬといふやうなお話でした。訓示の記録はこゝではとりませんでした。
 子爵のことで印象が深いのは『お前等は死まで造船のことを一生懸命にやれ、さうすれば今にお前等もよくなるぞ、造船が盛んにならなければ日本がやつてゆけんのだから』といふお話です。お蔭様で私共今日かうしておられるのです。
  土屋――子爵からのお手紙をお持ちではありませんか。
 私にはありません。こゝの社に梅浦さん宛のものが一本あります。これは日清戦争後間もなくのことでしたが、荒木さんをやめさせるとか何とかいふことを子爵が心配になつて、梅浦さんに出されたものです。
    石川島造船所の古参者
 資料のことは西谷君にきいてみなさい、あの人は『万年暦』といはれてゐるくらゐですから。
 五十年史は朝日の記者で新井といふ人です。この人は渋沢正雄さんがひつぱつて来たのです。本は西谷君に話をきいて書いたものです。
 小川君は十二歳くらゐの時から見習に入つて造船課長になり、それから重役にまで勤め上げた人です。
 田中君は造船技術の方です。
 西谷君は工部大学の出身で、設計・総務をやつてゐました。
 宮川君は海軍をやめた人で、あまり深い関係はありません。


東京石川島造船所五十年史 第二二―三四頁〔昭和五年一二月〕(DK110095k-0009)
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東京石川島造船所五十年史 第二二―三四頁〔昭和五年一二月〕
    四、日清戦争時代
        自明治二十七年 至同三十六年
 明治二十七年(一八九四年)八月一日、予て清国の朝鮮進出政策によつて、極度の険悪を呈せし日清の国交は遂に破綻し、この日帝国政府の決然宣戦を布告するに及んでこゝに両国は干戈相見ゆる事となれり。
 宣戦と同時にわが軍事当局は国内の有力工場を徴発動員して、時局に万全を期し、本社にても同年八月二日弾丸工場全部を海軍造兵廠に借上げられ、次いで同月十二日旋盤工場をも海軍省に徴発せられ」翌二十八年(一八九五年)二月二日、更に右徴発工場以外の工場及び造船材料一式また横須賀鎮守府の徴用する処となりたり。(右弾丸工場
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は、急迫せる時局に鑑みて、明治二十六年秋、本社に於てその新築を決し、二十七年四月落成と同時に、海軍造兵廠の特命により、ホツチキス速射砲弾の削成に従事しつゝありしものなり)。
 一方造船部並に造機部に於ても、幾多軍需品製造の下命に接し、造船部は明治二十八年、横須賀鎮守府造船部より木製小蒸汽船八隻、陸軍省経理局より鉄製水槽船二隻の急造を命ぜられ、昼夜兼行その全部を僅々五十余日間にて竣工せしめ、造機部にても弾丸鋳型その他の製造に従ひ、以て本社は徴用に下命に軍国の急に際して、機能を発揮し間然する処なかりき。
 この間わが軍は陸に海に連戦連勝し、遂に二十八年二月清国の和を乞ふありて、同年三月下関に媾和会議は開かれ、平和克復するに及んで、同月三十一日を以て海軍省の工場徴発は解除せられ、横須賀鎮守府徴用の分は五月十五日、海軍造兵廠借上の弾丸工場は六月三十日、孰れも解約となれり。翌二十九年戦時行賞の事あるや、所長進経太氏が本社を代表して叙勲の光栄に浴せしは、蓋し戦時に於ける本社の功労尠からざりしを以てなるべし。
○中略
 戦後の産業振興を予測して、本社の新に企劃したるものに、浦賀分工場以外電機部の新設あり。蓋し電機事業の勃興するもの、戦後年と共に多きを加へんとする傾向ありたるが為にして、媾和の翌二十九年(一八九六年)本社は新に電機工場を設け、工学士岡本高介氏を主任技師に任じ、帝国大学工科大学教授中野初子氏を顧問に招聘し、同年七月三十一日二階建百三十五坪の新工場落成と共に業務を開始し、その年早くも東京電灯株式会社の為に、単相式二〇〇キロワツト交番発電機《(流)》の製作に成功せり。
これ実に当時本邦にて製作せられたる最大の発電機にして、わが工業史上特筆に値するものなり。
 時恰も浦賀分工場の工事漸く進捗し、本社の事業全般に亘つて最も活気を呈せし際にして、電機工場新設の翌年には、更に車輛工場を開設し、一方工場敷地拡張の必要に迫られ、新に御料地内の濠渠を埋立てゝ、工場敷地面積を拡げ、車輛工場は三十年九月開始匆々日本鉄道会社註文の有蓋貨車を、翌三十一年には九州鉄道会社註文の八噸積鋼製開底式運炭車五百台を製造せり。次いで、明治三十二年(一八九九年)新築したる機械工場は建坪百九十七坪、本社に於る最初の鉄骨建築にして、爾来造機工事に最も力をいたす事となれり。
 しかも其後浦賀分工場売却に伴ふ減資、並に整理に累せられて、電機、車輛の両工事共、一時手控の余儀なきに至りしが、三十六年(一九〇三年)に至り専務取締役平沢道次氏等、時の重役諸氏の努力により、整理一段落を告ぐると共に、業務刷新の途に出で、新に三井所有の地千余坪を借入れて橋梁工場(本社に於る橋桁製作及び架橋工事は此より一段の活況を呈せり)其他の新設を行ひ、諸機械の増設を計りたれば、作業漸次旧時の状態に復するに至れり。
 これを要するに日清戦役後約十年に亘る間の本社の業績は、同期間に於けるわが国財界工業界の消長に並行するものあり、初め戦後の産
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業振興を予想して大いに積極に出でしも、事予想に合致せず、財界の不況は諸事業をして萎微沈衰せしめ、本社また浦賀分工場に期待したる処を裏切られて、減資に次ぐ減資を以てせざるを得ざるに至りその後漸次恢復の緒につきたるは慶ぶべきも、各種新企劃の多くが蹉跌を見たるは遺憾とせざるを得ず。



〔参考〕東京石川島造船所 三十五年(五十八期)間概記 自明治二十二年一月至大正十二年十一月末日(DK110095k-0010)
第11巻 p.630-632 ページ画像

東京石川島造船所
三十五年(五十八期)間概記 自明治二十二年一月至大正十二年十一月末日
   (営業報告書摘録)〔未定稿〕
○上略
  ○明治二十六年
一月二十一日帝国ホテルニ於テ第四回株主総会ヲ開キ、二十五年中ノ営業報告ノ承認及利益金処分ヲ議決シ、次テ委員ノ補欠選挙ヲ行ヒ、西園寺公成当選就任ス、委員梅浦精一ヲ常務委員ニ推ス
明治二十三年制定ノ商法本年ヨリ実施ニ付キ、九月五日本社ニ於テ臨時総会ヲ開キ、左ノ事項ヲ議決ス
 一、社名ヲ株式会社東京石川島造船所ト改ムルノ件
 二、工場増設ノ為資本金七万五千円ヲ増加シ、資本総額ヲ弐拾五万円トナスノ件
 三、定款全部改正ノ件
 四、現委員ハ其任期中取締役ニ選任ノ件
取締役ノ互選ヲ以テ取締役会長ニ渋沢取締役、常務取締役ニ梅浦取締役上任ス
九月二十一日農商務省ヘ改正定款ノ認可ヲ申請シ、十一月十八日認可セラル
十一月二十四日商法ノ規定ニ依リ会社設立登記ヲ了ス、会社設立ノ年月日ハ会社組織許可ノトキ即明治二十二年一月十七日トス
十一月二十七日株主ノ投票ヲ以テ監査役二名ノ選挙ヲ行ヒ、松田源五郎・田中永昌当選就任ス
  ○明治二十七年
一月二十五日帝国ホテルニ於テ第五回株主通常総会(以下単ニ通常総会ト記ス)ヲ開キ、二十六年中ノ営業報告並諸計算ノ承認及利益金処分ヲ議決ス
二十六年九月株主総会ニ於テ増設ノ件可決トナリタル弾丸削リ仕上工場ハ、四月ヲ以テ建築及機械設備完成シ、海軍造兵廠ノ特命ヲ受ケ速射砲弾ノ削成ニ従事ス、清国ト開戦セラルヽヤ、八月二日ヲ以テ該工場ヲ挙テ造兵廠ノ借上トナリ、次テ旋盤機械工場モ亦同月十二日以後海軍省ニ於テ徴発使用セラル
六月二十日地震ノ為、第二倉庫・烟突・熔解炉等崩壊ス
九月二十七日本社ニ於テ臨時総会ヲ開キ、左ノ事項ヲ議決ス
 一、神奈川県三浦郡西浦賀字川間館浦ニ一船渠(長四五〇呎以内幅九〇呎以内深三〇呎以内)ヲ設クルコト、其ノ工費予算高ヲ弐拾万円トシ、竣工予定ハ起工ノ日ヨリ一ケ年トスルコト
 二、右事業費トシテ拾万円ヲ増資スルコト
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 三、右増資ニ関聯シテ必要ナル案件
十一月二日午後五時木型工場附近ヨリ出火該工場全焼ス
  ○明治二十八年
一月二十五日帝国ホテルニ於テ第六回通常総会ヲ開キ、二十七年中ノ営業報告並諸計算ヲ承認シ利益金処分ヲ議決ス
二月二日昨年海軍省ニ於テ徴発セラレタル工場以外ノ工場全部並造船用材料一切ハ、横須賀鎮守府ニ於テ之ヲ徴発セラル、而シテ海軍省ノ徴発ハ三月三十一日ヲ以テ解除セラレ、横須賀鎮守府ノ徴発ハ五月十五日ヲ以テ解除セラル、又昨年来海軍造兵廠ノ借上トナリタル弾丸工場ハ、六月三十日ヲ以テ借上解約トナル
九月五日本社ニ於テ臨時総会ヲ開キ、左ノ事項ヲ議決ス
 一、浦賀ニ築造スヘキ船渠ハ長四百八呎五吋幅百六呎深三十三呎トシ、其ノ築造及工場建設予算工費ヲ金弐拾五万円トスルコト
 二、金弐拾五万円ヲ増資シテ資本総額ヲ五拾万円トスルコト
 三、昨年九月ノ株主総会ニ於テ議決シタル増資金拾万円ニ対スル申込株高ハ、今回ノ増株ノ内ヘ繰込ムコトヲ得ルコト
 四、右増資ニ伴ヒ定款第四条ヲ改正スルコト
  (定款改正ノ結果一株金額百円ナリシヲ五拾円ニ変更ス)
十二月二十一日本社ニ於テ臨時総会ヲ開キ、定款第四条中株金払込時期ノ改正ヲ議決ス(九月五日ノ株主総会ニ於テ、議決セル定款第四条中、払込時期ニ就キ主務官庁タル農商務省ヨリ変更方ヲ命セラレタルニ因ル)
昨年来起業ニ係ル浦賀船渠築造工事ハ、七月二十六日其ノ筋ノ認許ヲ得、而シテ工事ノ安全ヲ期スル為、本社自ラ工事ヲ董督施行スルコトニ決ス
  ○明治二十九年
一月二十五日京橋区采女町精養軒ニ於テ第七回通常総会ヲ開キ、二十八年中ノ営業報告並諸計算ヲ承認シ利益金処分ヲ議決シ、次テ監査役二名ノ満期改選ヲ行フ(前任者重任)、続テ臨時総会ヲ開キ、定款中改正ノ件及重役報酬年額ヲ弐千五百円トスルコトヲ議決ス
定款ノ改正ニ依リ、取締役ノ互選ヲ以テ梅浦取締役専務取締役ニ上任ス
八月二十九日本社ニ於テ臨時総会ヲ開キ、定款第四条中株金払込期日変更ノ件ヲ議決ス
五月二十五日ヨリ、東京株式取引所ニ於テ初メテ本会社株式ノ定期売買ヲ開始ス
電機工場ハ従来弾丸工場ノ一部ヲ以テ之ニ充テタルモ、事業繁忙ニ赴クヲ以テ独立工場ヲ設備シ、七月末竣工ス
明治二十七八年事件ノ功ニ依リ、所長進経太ニ勲六等瑞宝章並金百円ヲ授ケ賜ハル
  ○明治三十年
一月二十五日帝国ホテルニ於テ第八回通常総会ヲ開キ、二十九年中ノ営業報告並諸計算ヲ承認シ利益金処分ヲ議決シ、次テ取締役三名ノ満期改選ヲ行フ(前任者重任)続テ臨時総会ヲ開キ定款中改正ノ件ヲ議
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決ス
三月二十七日本社ニ於テ臨時総会ヲ開キ資本金五拾万円ヲ増資シテ資本総額ヲ壱百万円トナスコト、及ヒ之ニ関聯シテ定款第四条改正ノ件ヲ議決ス
九月二十五日本社ニ於テ臨時総会ヲ開キ、定款中改正ノ件ヲ議決ス
本社沿地濠渠敷八百九十三坪七合九夕拝借ノ儀ヲ宮内省ニ願出、四月九日允許セラル
  ○明治三十一年
一月二十五日本社ニ於テ第九回通常総会ヲ開キ三十年中ノ営業報告並諸計算ヲ承認シ利益金処分ヲ議決シ、次テ監査役二名ノ満期改選ヲ行フ(前任者重任)
浦賀船渠工事竣成シタルヲ以テ浦賀分工場ト称シ、十一月一日ヲ以テ営業ヲ開始ス
従来警視庁ノ使用ニ係ル佃島御料地ノ内四坪ヲ本会社ニ於テ拝借ノ件允許セラル
○下略