デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
18節 人造肥料業
1款 東京人造肥料株式会社
■綱文

第12巻 p.177-189(DK120026k) ページ画像

明治31年1月(1898年)

是月当会社ハ取締役会長タル栄一ノ多年ノ功労ヲ謝シ金盃一組ヲ贈ル。


■資料

東京人造肥料株式会社考課状 第一九回明治三一年一月(DK120026k-0001)
第12巻 p.177 ページ画像

東京人造肥料株式会社考課状  第一九回明治三一年一月
明治三十年七月二十日午前九時、当会社ニ於テ第十八回定式総会ヲ開キ、取締役会長渋沢栄一議長席ニ就キ、明治三十年上半季営業ノ情況及損益勘定ヲ報告シ、利益金ノ配当案ヲ議定シ、次ニ専務取締役報酬金増額ノコトヲ議決セリ
続テ臨時総会ヲ開キ、定款第三十九条第三項ニ就キ左ノ改正案ヲ議決セリ
    一利益金百分ノ十 役員賞与金
次ニ監査役二名任期満了ニ付改選ヲ行ヒタルニ、投票多数ヲ以テ浅野総一郎・田島信夫ノ二氏重任ニ決シタリ
右終リテ将ニ閉会ヲ告ケントスルニ臨ミ、田島信夫氏ヨリ当会社創業以来就任セル委員以下諸氏ノ功労ニ対シ相当ノ報酬アリタキ旨ノ発議アリ、出席株主満場一致ヲ以テ之ヲ賛成シ、浅野総一郎・田島信夫・堀江助保・谷敬三・諸井時三郎ノ五氏ヲ其取調委員ニ推選セリ


東京人造肥料株式会社考課状 第二〇回明治三一年七月(DK120026k-0002)
第12巻 p.177 ページ画像

東京人造肥料株式会社考課状  第二〇回明治三一年七月
明治三十一年一月二十五日午前十時、当会社ニ於テ第拾九回定式総会ヲ開キ、取締役会長渋沢栄一氏議長席ニ就キ、明治三十年下半季営業ノ情況及損益勘定ヲ報告シ、利益金ノ配当案ヲ議定セリ、続テ臨時総会ヲ開キ、昨三十年七月ノ株主総会ニ於テ、田島信夫氏ノ発議ニ係ル当会社創業ノ際就任セル委員以下諸氏ノ功労ニ対シ報酬方ノ儀ニ付、取調委員谷敬三氏ヨリ報酬品ヲ寄贈スヘキ諸氏ノ姓名ヲ報告シ、其方法ニ就テ按ヲ具シ出席株主ニ議決ヲ求メタルニ、異議ナク満場一致ヲ以テ之ヲ可決セリ


大日本人造肥料株式会社五十年史 第四九―五八頁〔昭和一一年一一月〕(DK120026k-0003)
第12巻 p.177-181 ページ画像

大日本人造肥料株式会社五十年史  第四九―五八頁〔昭和一一年一一月〕
 ○第一編 当社の沿革
    第三章 日清戦争時代
○上略
 元来我邦に於ける肥料は、魚肥を以てその主なるものとしたが、そ
 - 第12巻 p.178 -ページ画像 
の後魚肥に比し割安な大豆粕を、満洲より盛に輸入使用してゐたのである。然るにこの輸入杜絶と魚肥の払底は、大に化学肥料の発展を促し、当社に利益を齎したるに止まらず、農家自身も亦化学肥料使用の機運に際会した訳であつて、農業界の進歩に寄与せし所が少くなかつたのである。初めて化学肥料を使用した農家は、その効果の著大なると、取扱の簡単便利にして価格の比較的低廉なるを新たに認識し、競つてこれ等新肥料を使用するに至つた。
 さて当社創業当時、所謂人造肥料の需要は、主として窒素・燐酸・加里の三成分或は其の二成分を適当に配合した完全肥料と称するものであつたが、明治二十四・五年の頃から燐酸分のみを含める過燐酸肥料の需要が増加して来た。これは我邦農業進歩の一端を窺ふに足るものであつて、当時東京駒場農林学校(農科大学前身)その他篤農家間に於ても過燐酸肥料の研究は熱心に行はれ、明治二十四年十月七日の官報には、駒場農林学校農芸化学教師ドクトル・オー・ケルネル及助教授古在由直、同森要太郎、同長岡宗好の諸氏によつて、燐酸肥料の効能に就ての研究成績が詳細に発表された。
 斯くて当社製品の需要はその後累進的に増加すると共に、業績も向上して、明治二十七年下期には、一割の配当をなすに至つた。而して翌二十八年下期の如きは、註文高に対して、約三割の製品不足と云ふ状態で、こゝに会社は事業拡張の必要に迫られたのである。曾ては解散の危機にも瀕した当社は、明治二十八年七月二十五日の株主総会に於て資本金を最初の弐拾五万円に増資し、後述の硫酸工場を増設するといふ社況になつた。これに先立ち二十七年七月、和田支配人は多病の故を以て其の職を退かれたのである。
 当社創業以来十年間の肥料販売数量を示せば次の通りで、十年間に約百倍に達したのである。
    年次        販売数量
   明治二十一年        四九千貫
   同 二十二年       一二四
   同 二十三年       一〇四
   同 二十四年       四一六
   同 二十五年       四九四
   同 二十六年       四一九
   同 二十七年       八四七
   同 二十八年     一、〇七〇
   同 二十九年     一、八七〇
   同 三十年      二、九五九
   同 三十一年     四、三七二
 前述の如く、人造肥料の声価漸く高まり、将来の発達を予想さるゝや、早くも悪商人の注目する所となつて粗製濫造品を生むに至り、中には偽造品を以て、巧みに善良なる農家を瞞着する奸商さへ現れた。為めに漸くその真価を信用しかゝつた農家も、遽に危惧の念を抱くに至り、果てはその需要が一時減退し、甚しきに至つては、人造肥料は有害無効なりと宣伝するものさへ起り、発展途上にある製品の販路を
 - 第12巻 p.179 -ページ画像 
阻害したのである。然しその結果却て農家自身の肥料に対する識別の力を養成し、当社製品の名声を高め、「釜屋堀」ならば安全と云ふ確信を持たしめ、終に当社工場所在地の通称名たる「釜屋堀」の名は、人造肥料の代名詞とまでなるに至つたのである。
 斯かる状勢の裡にあつて、明治二十九年上期には販売高の増加と共に利益も大に増加し、一割二分の配当を行ふに至つた。
 過燐酸肥料の原料は燐礦石と硫酸であるが、当社は従来硫酸の供給を印刷局の王子硫酸製造所に仰いで居た。然るに欧洲諸国にあつては化学肥料製造所は同時に硫酸製造所であるか、或は亦硫酸製造所に於て化学肥料が製造されるかで、化学肥料と硫酸とは離るべからざる関係にあるものである。当社は前述の如く創業以来硫酸自給の方法を採らなかつたが、事業の発展に伴つて種々不便を感ずるに至つたので、明治二十八年当社工場内に硫酸工場を新設することとなり、同年十二月磯長鉄之助氏を雇聘して硫酸製造場の設計を為し、翌二十九年三月建設に着手、その年十一月竣工を告げ、十二月より硫酸の製造を開始したのである。
 日清戦争後に於ける当社事業の発展、化学肥料の擡頭は、一般化学工業界を刺戟し、明治二十九年には大阪アルカリ株式会社が過燐酸肥料の製造を再開し、明治二十五年の創立で硫酸及晒粉の製造を営んでゐた大阪硫曹株式会社も、同三十年に至り過燐酸肥料の製造を開始したのである。斯くて東京人造肥料株式会社は関東に於て、過燐酸石灰及これに有機質肥料を配合せる調合肥料を主として販売し、大阪硫曹株式会社は関西に於て、過燐酸石灰及これに無機質窒素肥料を配合せるものを主として販売し、後述の両社合併に至る迄我邦化学肥料界に対立し、前者は釜屋堀肥料、後者は硫曹肥料として、永く人造肥料の代名詞の如くになつて居たのである。
 化学肥料の真価が認識せられその需要大いに増進するや、当社当時の製造力を以てしては、到底これを満たすこと能はず、遂に明治二十九年七月の株主総会に於て、事業拡張のため金五拾万円に倍額増資の案が可決されるに至り、同時に専務取締役を置くことになり、取締役互選の結果は、渋沢子が従来通り取締役会長に、谷敬三氏が新たに専務取締役に選任されたのである。
 翌三十年七月の株主総会に於て、監査役田島信夫氏は、当社が創立以来幾多の艱難によく耐へて今日の隆盛を致したことは、偏に当初就任されたる委員其他諸氏の措置宜しきを得たるの結果に外ならざるに由り、その功労に対し相当の酬ひを為し度き旨を発議し、出席株主に諮つたところ株主は満場一致を以てこれに賛成した。而して浅野総一郎・田島信夫・堀江助保・谷敬三・諸井時三郎の五氏を取調委員に推薦し、翌三十一年一月の株主総会に於て、調査の結果を総会に報告し功労者氏名、寄贈すべき報酬品等、異議なく可決されたのであつた。
 その氏名は左の通りである。
  渋沢栄一氏  渋沢喜作氏
  益田孝氏   馬越恭平氏
  高峰譲吉氏  和田格太郎氏
 - 第12巻 p.180 -ページ画像 
 尚この新製品の販売に当つて、幾多の苦労尽力をされた諸氏をも表彰することゝなつたが、その氏名は左の如くである。
 茨城県  桜井平兵衛氏 鈴木文次郎氏 広江嘉平氏 前島由兵衛氏 森田惣重氏
   外に農学士織田又太郎氏
 栃木県  小久保六郎氏
 福島県  柳沼忠四郎氏
 長野県  百瀬精一郎氏
 群馬県  田村仲太郎氏 韮塚直次郎氏
 同時に支配人以下社員一同に対しても夫々慰労があつた。その際調査委員より、株主総代の名儀を以て夫々感謝状を贈つたが、その内、渋沢会長へのものは次の如くである。
     感謝状
  明治二十一年本会社創業ノ始メ人造肥料ノ未タ世ニ知ラレス、従テ販路ノ進向至難ナリシモ、貴下ノ経営其効ヲ奏シ、需要漸ク進ミ、前途望アルノ運ニ際シ、不幸ニシテ祝融ノ災ニ罹リ、宿図亦灰燼ニ帰セントス、此時ニ方リ工場ヲ再築シ、更ニ進ンテ規模ヲ拡張シ、遂ニ本会社今日ノ盛況ヲ見ルニ至リシハ、是レ偏ニ貴下カ創立委員長取締役会長ノ重任ヲ荷ヒ、百事多難ノ中ニ在ツテ規画宜シキヲ得タルニ因レリ、其効績ノ著大ナル、株主等ノ感佩シテ措クコト能ハス、玆ニ謹テ別紙目録ノ通リ贈呈シ、聊カ謝意ノ万一ヲ表ス、幸ニ受納アランコトヲ乞フ 敬具
  明治三十一年一月二十五日
             東京人造肥料会社株主総代
                    諸井時三郎
                    谷敬三
                    堀江助保
                    浅野総一郎
                    田島信夫
    渋沢栄一殿
之に対して渋沢会長より左の如き答謝状を提出された。
    答謝状
  恭シク感謝状ヲ領ス、諸君ハ本会社カ今日ノ隆運ニ膺ルヲ以テ栄一ノ功績ニ帰シ、別紙目録ノ祝儀ヲ贈与シテ謝意ヲ表セラル、栄一敢テ当ラスト雖モ、其事ヲ処理スルニ於テ亳モ忌憚セス、肝胆ヲ披露シテ尽シタル所一ニシテ足ラス、蓋シ本会社ハ我邦ニ於テ未曾有ノ新事業ナルヲ以テ、其ノ原料収採ノ不便ナル、其製造品售路ノ梗塞セル、二ツナカラ至難ニシテ、其未タ目的ヲ達セサルニ際シ、不幸ニシテ工場其災ニ罹リ、資産ノ強半烏有ニ帰セシカ、株主諸君カ栄一ヲ信スルノ厚キ、鋭意屈セス、之ヲ再築シ或ハ資ヲ増シ、爾来業務日ニ進ミ今日ノ境遇ニ達スルモノハ、実ニ諸君カ能ク栄一ノ計画ヲ協賛シテ、役員諸氏各其任ヲ尽セシニ由ラスンハアラス、是ヲ以テ栄一ハ諸君ノ謝意ラ領スルト倶ニ、諸君カ栄一ヲ賛助セラレタル功労ヲ謝セサルヘカラス、因テ虔テ復
 - 第12巻 p.181 -ページ画像 
辞ヲ呈ス
  明治三十一年一月
             東京人造肥料株式会社
               取締役会長 渋沢栄一
  東京人造肥料株式会社株主総代
       田島信夫殿
       浅野総一郎殿
       堀江助保殿
       谷敬三殿
       諸井時三郎殿
 さてこの前年即ち明治三十年には、国際貿易の発展に伴ひ関税定率法が公布された。過燐酸肥料の主原料燐礦石は、全部これを輸入に俟つてゐたため、この関税は当社にとり重大なる関係を持つてゐた。課税科目には燐礦石はなかつたが、附属輸入税表中「其他税目中ニ掲ケサル生粗若クハ未製品一〇」の内に含まれ、一割の関税が課せられることが明らかとなつたのである。当社はこれがため化学肥料の発展を妨げ、農業に及ぼす影響の多大なるを憂ひ、乾鰯・油糟・骨灰・鳥糞と同様免税品として取扱はるべくこれが改正に苦心した。其結果遂に東京・茨城・千葉・栃木・埼玉・群馬・神奈川・静岡・愛知の一府八県の主要特約販売者の連署を以て、その年十二月貴族院及衆議院に対し免税請願書を提出し、遂に時の議会に於て免税可決となり目的を達するを得たのである。尚燐礦石の資源を我邦内に発見するを得れば、肥料の価格を低廉ならしめ、多大の国益となるを以て、当社は明治三十四年の秋、特に技師を雇聘して多大の物質的犠牲を忍び、海内各地に派遣して専心燐礦石の探見に従事せしめたが、二年以上の歳月を閲し遺憾ながら遂に当社の原料として使用に堪ゆべきものなく、探見中止の止むなきに至つた。
 明治三十三年六月、従来嘱託顧問であつた農商務省技師森要太郎氏を当社の技師に招聘し、肥料及原料の視察研究の為め欧米各国へ派遣した。これは当社が技師を海外へ派遣した初めであつて、同技師は翌三十四年一月帰朝し、爾来専ら肥料製造監督の任に従事されたのである。
○下略


大日本人造肥料株式会社五十年史 第六〇―六四頁〔昭和一一年一一月〕(DK120026k-0004)
第12巻 p.181-183 ページ画像

大日本人造肥料株式会社五十年史  第六〇―六四頁〔昭和一一年一一月〕
 ○第一編 当社の沿革
    第四章 日露戦役時代
 我邦化学工業の発達は大体明治二十年頃迄を第一次として、以来日清・日露の戦役及世界大戦の都度劃期的なる躍進を示した。即ち第二次振興期たる日清戦役以後は、直接軍需工業より始つて衣食住関係事業の発展に及んだが、既設の各化学工業は、その殆ど全部が組織を拡大して確固たる基礎を定め、新興化学工業も亦政府の厚き保護を受け大いに成長を見るに至つたのである。当時政府は戦争インフレーシヨンの結果を憂へて極力戦後の経営に意を用ひ、頻りにパニツクの襲来
 - 第12巻 p.182 -ページ画像 
を防いだのであつた。然し打ち続く輸入超過に加へ、明治三十三年六月清国義和団匪の暴動となるや、対支貿易はこゝに全く挫折し、遂に経済界は恐慌来となり、基礎薄弱の事業会社は破綻或は閉鎖し、果ては倒産するもの相次いで起るの状態となつたのである。
 然しながらこのパニツクは、他面我邦事業界に於ける一種の清掃剤として、必然的に各種事業の淘汰を行ひ、基礎堅実の会社のみが残存するの結果となつた。此の時代を凌ぎ来つた諸事業は明治三十五・六年に至り財界の恢復すると同時に、益々着実な進歩を示し、我邦化学工業の第四次振興期を形成する基礎となつたのである。
 明治三十六年七月の株主総会に於て、当社の発起人として創業以来多年功労のあつた取締役益田男は、多忙の故を以て辞任を申出でられた。同氏身辺の事情止むを得ざるものがあつたので、当社の為めには惜しくもその希望に副ふたのである。更に同年九月には事務取締役谷敬三氏が急病に依り逝去せられ、支配人竹田政智氏がその後を襲はれた。
 この間に於て当社は多少の盛衰はあつたが、堅実な発展を続け、遂に明治三十六年上期よりは従来の一割二分配当を一割五分に引上げ、明治三十七年上期には更に又一分の増配を行ふなどの状況であつた。
 斯かる間に東亜の風雲は急となり、明治三十七年二月五日、遂に日露の国交は断絶して我国の運命を賭したる日露戦役は開始され、全世界驚嘆の裡に快捷が打続いた。
 この戦役を通じて化学肥料の進展は目覚しいものがあつた。即ち満洲の大豆粕は日清戦役当時以上に我邦への輸入を阻止され、在来の肥料が欠乏して暴騰を来したため、化学肥料の需要激増して、斯業は実に空前の活況を呈するに至つたのである。特に日露戦役の影響は硫酸の価格暴騰を招き、これが製造を開始するもの夥しき数に達したが、肥料界は頗る好調であり、その前途亦大いに期待されたため、戦後硫酸製造業者は等しく自家製造の硫酸を過燐酸肥料の製造に利用し、両者を兼営するものが多くなつた。
 これ等の事情のため、日露戦役以後両三年の間に、肥料製造会社は雨後の筍の如く新設されたのである。
○中略
 これより先当社は肥料の需要激増に応ずるため、明治三十六年末に硫酸製造場増築の工を起し、翌三十七年夏竣工を告げたが、化学工業界の好況は僅々十ケ月にして早くも更に増産を必要とするに至り、同年十二月再び増設工事に着手した。一方越えて三十八年の始めには、欧米先進国に於ける肥料、硫酸の製法、原料の研究並に肥料界の状況を視察する目的を以て、吉田七郎・磯長鉄之助の両技師を海外に派遣し、一層会社製品の向上と社業の発展を図つたのである。
 斯くて販路は着々発展し、需要は益々増加する情勢に対応して、当社はこゝに四度資本を増加して、倍額金百五拾万円に増資したのである。同時に専務取締役を一名増員し田中元三郎氏が就任された。
 当時当社の営業は常に需要に逐はれ勝ちであつたが、事業拡張と共に明治三十四・五年頃から、関西を始め各地への新販路の開拓に努め
 - 第12巻 p.183 -ページ画像 
た。然し日露戦役後急激に増加した肥料製造業者は夥しい数に上つたため、各地に於て販売競争が起り、この間にあつて、当社は東京のみに製造工場を有する関係上、関西各地方に於ける競争には、運送費の関係其他配給の敏速を欠く等、不利益尠からざるものがあつたのである。これ等の事情の下に広島・岡山・香川・兵庫等関西方面の有力なる特約販売店は、当社に向つて関西に工場設置の運動をすら起すに至つた。これより先、当社としても関東及び関西に新工場設置の必要を感じ、これが計画中であつたので、東京府小松川村及兵庫県西尻池村の二ケ所に分工場を新設して、増進する需要に応ずることに決定した而して神戸分工場では差当り完全肥料のみを製造し、過燐酸肥料は東京より供給することとした。これ当社工場関西進出の第一歩であつて同工場は明治三十八年十一月起工、翌年九月仮工事を竣工して製造販売を開始したのである。尚小松川工場は神戸分工場と相前後して起工し、四十年末略竣工を告げた。
○下略


渋沢栄一 日記 明治三二年(DK120026k-0005)
第12巻 p.183-184 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年
一月十二日 晴
○上略
此日銀行ニテ金子堅太郎氏ニ書状ヲ送テ、人造肥料免税ノコトヲ依頼ス○下略
一月十六日 晴
○上略 此日人造肥料会社重役会ヲ兜町宅ニ開ク、谷・竹田・堀江・益田渋沢喜作等来会ス
○下略
一月十七日
○上略 四時警視庁ニテ松井茂氏ニ面会シテ、人造肥料会社ノコトヲ談話ス○下略
一月十八日
○上略 午後貴族院ニ抵リテ金子堅太郎氏ニ面会シ、人造肥料会社ノ依頼ニ係燐礦石輸入税免除《(ル脱カ)》ノコトヲ談話ス○下略
一月二十日 晴
○上略 十一時人造肥料会社ニ於テ株主総会ヲ開ク○下略
二月九日 晴 烈風
○上略 竹田政智来リテ人造肥料会社ノコトヲ話ス○下略
二月廿五日 晴
○上略 午後五時帰宅、谷敬三氏来ル、人造肥料会社ノコトヲ議ス○下略
二月八日《(三)》 晴
○上略 午後二時日本郵船会社ニ抵リ特定航路ノコトヲ談ス、帰路警視庁ニ於テ主事鈴木氏ニ面会シテ、人造肥料会社硫酸製造所建築ノコトヲ請求ス○下略
七月二日 曇
○上略 肥料会社竹田政智、煉瓦会社諸井恒平来ル○下略
七月十四日 曇
 - 第12巻 p.184 -ページ画像 
午前人造肥料会社及帽子会社等ノ役員会ヲ兜町邸ニ開ク○下略
七月二十日 晴
午前深川釜屋堀人造肥料会社株主総会ニ出席ス○下略


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK120026k-0006)
第12巻 p.184 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年
一月十三日 曇又晴
人造肥料会社竹田政智来ル○下略
一月十四日 晴 大風
朝竹田政智ト人造肥造会社半季計算報告《(料)》・利益分配案其他ノ要件ヲ協議ス○下略
一月十五日 晴 風強シ
朝、竹田政智東京ヘ帰ル、人造会社技師二名ト近日会議ノコトヲ約ス○下略
  ○一月一日ヨリ大磯ニ滞在中ナリ。
一月二十日 曇
○上略 午前十一時人造肥料会社株主総会ニ列ス○下略
四月六日 晴
○上略 夜恒藤技師・谷敬三・竹田政智来リ、燐石坑ノコトヲ協議ス
四月二十九日 晴
午前谷敬三・竹田政智来、肥料会社ノ事務ヲ談ス○下略
六月廿六日 晴
○上略 竹田政智来リ、人造肥料会社ノコトヲ談ス
七月二十日 曇
午前竹田政智来ル、肥料会社ノコトヲ話ス○中略午前十時人造肥料会社株主総会ヲ本社ニ開ク○下略
八月六日 晴
○上略 此日ハ銀行交換所集会ノ約アリシモ、人造肥料会社竹田氏来話ニテ交換所ヘハ断リ遣ス○下略


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK120026k-0007)
第12巻 p.184 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年
一月十八日 晴
午前谷敬三来ル、人造肥料会社ノコトヲ談ス○下略
一月二十日 晴
○上略 九時過人造肥料会社株主総会ニ出席ス、重役会ヲ開キテ要件ヲ議決ス○下略
六月六日 晴
竹田政智来ル、人造肥料会社ノコトヲ談ス○下略
七月廿日 曇
午前十時人造肥料会社株主総会ニ出席ス○中略午後偕楽園ニ抵リ、人造肥料会社員ト共ニ会食談話ス○下略
八月十二日 晴
○上略 武田政智来《(竹田政智)》リ、肥料会社ノコトヲ談ス○下略


渋沢栄一 日記 明治三五年(DK120026k-0008)
第12巻 p.184-185 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年
 - 第12巻 p.185 -ページ画像 
一月廿日 晴
午前九時朝飧ヲ畢リ、人造肥料会社総会ニ出席シ○下略
二月九日 晴
午前竹田政智来リ、人造肥料会社ノコトヲ談ス○下略
二月十三日 朝雪
○上略 紅葉館ニ抵リ、高峯譲吉氏米国ヨリ帰国セシヲ歓迎スル宴会ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為シ○下略
二月十八日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ八十島親徳来リテ事務ヲ指揮ス、竹田政智・森庸太郎来リテ人造肥料会社ノコトヲ談ス○下略
二月廿六日 大風
午前八時朝飧ヲ畢ル、大川・植村両氏来ル、阿部市三郎来リ肥料合同ノコトヲ談ス○下略
三月十四日 曇
○上略 午後一時日本鉄道会社重役会ニ列ス、畢テ釜屋堀人造肥料会社ニ抵リ、技師分掌ノコトヲ談ス○下略
四月十五日 曇
○上略 午後三時ヨリ兼テ案内セシ来客、高峯譲吉夫妻及益田・大倉・浅野・渋沢喜作・梅浦精一其他肥料会社・麦酒会社ノ社員共合計弐十余名来会ス、庭中ヲ散歩シ、後夜餐中種々ノ余興アリ、共ニ歓ヲ尽シ夜十一時散会ス
十二月廿三日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ、九時東京瓦斯会社ニ抵リテ重役会ヲ開ク、畢テ深川人造肥料会社ニ於テ重役会ヲ開ク○下略


渋沢栄一 日記 明治三六年(DK120026k-0009)
第12巻 p.185-186 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年
一月廿日 晴
午前七時国府津ヲ発シ、十一時深川人造肥料会社ニ抵リ、株主総会ヲ開ク○下略
二月十五日 晴
○上略 竹田政智氏来リ、人造肥料会社計算ノコトヲ談ス
五月十六日 晴
午前七時朝飧ヲ畢ル、竹田政智来リ、人造肥料会社ノコトヲ談ス○下略
五月十九日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ、竹田政智来リテ人造肥料会社ノコトヲ談ス○下略
六月五日 晴
○上略 十時深川人造肥料会社株主総会ニ出席ス○下略
八月三十日 晴
○上略 午後竹田政智来リ、人造肥料会社ノコトニ関シテ杉村通商局長ニ書状ヲ托ス
九月十九日 曇
○上略 十時兜町事務所ニ抵リ、来人ニ接シ書類ヲ整理ス、人造肥料会社ノコトニ関シ竹田政智・益田太郎・浅野総一郎来議ス○下略
九月廿六日 晴
 - 第12巻 p.186 -ページ画像 
午前六時起床、七時朝飧ヲ為ス、吉田七郎来リ、人造肥料会社専務取締役ヲ竹田政智ニ任セラレンコトヲ企望ノ旨申聞ラル、磯永・森二氏ノ総代ノコトヲモ述ヘラル、依テ其意ヲ領シ、他日重役中ノ評議アルヘキコトヲ答ヘ置ク○下略
十月十日 曇
○上略 十二時深川人造肥料会社ニ抵リ重役会ヲ開ク、堀江助保・浅野総一郎・桜井平兵衛氏等参会ス○下略


渋沢栄一 日記 明治三七年(DK120026k-0010)
第12巻 p.186 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三七年
三月二日 曇
○上略 午後○中略 吉岡新五郎来リテ人造肥料会社ノコトヲ談ス○下略


竜門雑誌 第一五八号・第三五頁〔明治三四年七月二五日〕 △東京人造肥料株式会社(DK120026k-0011)
第12巻 p.186 ページ画像

竜門雑誌  第一五八号・第三五頁〔明治三四年七月二五日〕
    △東京人造肥料株式会社
東京人造肥料株式会社に於ては本月二十日株主定式総会を開き、左の利益分配案を議決し、且つ監査役任期満了に付き改選せし所・浅野総一郎・田島信夫両氏当選就任せりと云ふ
                        円
 本期営業益金           三二、七〇六・五九〇
 前期繰越益金            三、一九九・〇八五
  合計              三五、九〇五・六七五
    内
  法定積立金            一、六〇〇・〇〇〇
  別段積立金            一、六〇〇・〇〇〇
  株主配当金           三〇、〇〇〇・〇〇〇
  後期へ繰込益金          二、七〇五・六七五


竜門雑誌 第一六五号・第四四頁〔明治三五年二月二五日〕 △東京人造肥料株式会社(同先生取締役会長)(DK120026k-0012)
第12巻 p.186 ページ画像

竜門雑誌  第一六五号・第四四頁〔明治三五年二月二五日〕
    △東京人造肥料株式会社(同先生取締役会長)
同会社に於ては一月廿日株主定時総会を開き、昨年下半季中の営業報告を為したるが、右に依れば同半季間の純益金は三万三千円にして、株主に向ては年一割二分の配当を為し、三千三百円を積立てたり、今其利益金勘定を見るに左の如し
    利益勘定
                       円
 本季営業益           三三、〇三八・八一四
 前季繰越益            二、七〇五・六七五
   合計            三五、七四四・四八九
    内
 法定積立金            一、七〇〇・〇〇〇
 別段積立金            一、六〇〇・〇〇〇
 株主配当金(年一割二分)    三〇、〇〇〇・〇〇〇
 後季へ繰込益金          二、四四四・四八九


竜門雑誌 第一七六号・第四五頁〔明治三六年一月二五日〕 △東京人造肥料会社(DK120026k-0013)
第12巻 p.186-187 ページ画像

竜門雑誌  第一七六号・第四五頁〔明治三六年一月二五日〕
△東京人造肥料会社 同社は本年一月株主定式総会を開き、左の利益
 - 第12巻 p.187 -ページ画像 
分配案を可決せり
                      円
 当期純益金          三九、三五五・九〇五
 前期繰越金           二、七五一・九一九
  合計            四二、一〇七・八二四
    内
 法定積立金           二、八〇〇・〇〇〇
 別段積立金           三、八〇〇・〇〇〇
 当期配当金(年一割二分)   三〇、〇〇〇・〇〇〇
 後期繰越金           五、五〇七・八二四
定式総会結了後、引続き臨時株主総会を開き、資本金二十五万円増資の件に就き協議せしに、是れ亦満場一致を以て原案を可決したるが、右増資額二十五万円の内二十万円は現在の同社株主中に於て引受け、残余の五万円は汎く一般より募集するに決定したり、是れにて同社資本額は七十五万円となる都合なりと云ふ


竜門雑誌 第一九五号・第三〇頁 〔明治三七年八月二五日〕 △東京人造肥料株式会社第三十二回報告(DK120026k-0014)
第12巻 p.187-188 ページ画像

竜門雑誌  第一九五号・第三〇頁〔明治三七年八月二五日〕
  △東京人造肥料株式会社第三十二回報告
                    (同上取締役会長)
    ○貸借対照表

     負債
                      円
 株金            七五〇、〇〇〇・〇〇〇
 法定積立金          六二、〇〇〇・〇〇〇
 配当平均準備積立金      四〇、〇〇〇・〇〇〇
 別段積立金         一二二、〇〇〇・〇〇〇
 支払手形           三一、二七二・八一〇
 諸預リ金           六八、二二〇・二五三
 取引先            一一、六六五・三三〇
 前季繰越益金         一二、八九一・九一〇
 本季営業益         一〇一、四四一・三〇〇
  合計         一、一九九、四九一・六〇三
     資産
 受取手形          二三〇、〇一〇・五九〇
 未払株金           六五、二二五・〇〇〇
 地所家作機械        三〇七、七二四・七八六
 第一銀行          一六七、四七三・二九〇
 地方銀行            五、六三二・一八三
 貨幣             三六、七六三・五三二
 原料            一二二、五七八・九一七
 肥料製造場          三五、八九〇・一三九
 硫酸製造場           六、九四九・四〇〇
 製造品            一三、〇五三・七二二
 製造用品           三九、九七〇・一三七
 製造要具            二、七七五・七〇二
 得意先勘定          五三、〇四六・五三四
 - 第12巻 p.188 -ページ画像 
 仮払            一〇九、一四七・六七一
 国庫債券            三、二五〇・〇〇〇
  合計         一、一九九、四九一・六〇三

 財産目録ハ資産ノ部ト同一ニ付之ヲ略ス
    ○利益勘定

 本季営業益         一〇一、四四一・三〇〇
 前季繰越益金         一二、八九一・九一〇
  合計           一一四、三三三・二一〇
   内
 法定積立金           五、一〇〇・〇〇〇
 別段積立金          三〇、〇〇〇・〇〇〇
 配当平均準備金        一五、〇〇〇・〇〇〇
 株高配当金(年一割六分)   五〇、〇〇〇・〇〇〇
 翌季繰込益金         一四、二三三・二一〇




〔参考〕東京経済雑誌 第六〇巻第一四九九号・第一一〇―一一二頁〔明治四二年七月一七日〕 東京人造肥料会社(中)(DK120026k-0015)
第12巻 p.188-189 ページ画像

東京経済雑誌  第六〇巻第一四九九号・第一一〇―一一二頁〔明治四二年七月一七日〕
  東京人造肥料会社(中)
    三、日清戦争後の発展
事業の不振に加へて祝融氏の災に罹りたれば、同社の株券は大に下落し、株主中に解散論盛に唱へられ、剰へ従来斯業の国家の為め将た農業の為め有利有益なるを説きて資本家に出資せしめ、己れ自ら事業経営の任に膺りて奮闘したる技術部長高峯譲吉氏さへ、此難境に際して元気沮喪し、遂に自己の持株を社長渋沢栄一氏に譲りて退社するに至りしかは、同社は二十六年の上半期総会にて解散するの外途なきに至りしが、纔に渋沢氏の熱誠に依り、事是に至らずして止みたること前述の如し、然れども現状を維持することは到底困難なり、仍て事業を継続すると共に払込金を減じて十二万五千円と為し、創業以来の諸損失消却残額金四千四百四十五円余及び工場焼失損金等を、従来の積立金及び前半季の利益金並現在払込額十三万七千五百円の内資本減殺金一万二千五百円を以て補塡することに決し、同年十月農商務省より定款の改正認可せられたり、是に於て渋沢氏は、高峯氏に代ふるに吉田七二郎氏を以てし、一層社員を督励鼓舞して事業の経営に努力せしめたり
渋沢男の苦心は空しからず、是より人造肥料の効験は漸く世人に認められ、各地に於て大に声誉を博するに至りしかば、販売高は長足の度を以て増進せり、然るに人造肥料に最も密接の関係ある硫酸の供給は従来之を王子硫酸製造所に仰ぎしに、其供給高には素より制限あるを以て同社の需要を悉く充す能はざるを以て同社は玆に自ら硫酸製造を企画し、二十九年三月五万三千五百五十余円を投じて硫酸製造場を建築し、其製造に着手したり、是より営業上の利益著しく増進し爾来社運は隆々として順風に帆を揚げて駃するが如く、販売高は朞年ならずして約二十倍に達したりき、而して日清戦後事業の勃興に連れ、同社にても時運に伴ふの必要上二十九年七月の株主総会に於て五十万円に
 - 第12巻 p.189 -ページ画像 
増資の事を議決し、更に取締役二名を増員し、又専務取締役を置くこととし、取締役の改選を行ひしに、渋沢栄一・益田孝・渋沢喜作・堀江助保・谷敬三の五氏当選し、渋沢栄一氏更に取締役会長に当選し、谷氏は専務となれり、斯くて社運益々隆昌に赴き、配当率は二割を越えて二割五分に達し、尚ほ毎半季に二、三万円の積立金を為すに至れり、去れば三十一年一月同社は渋沢男の尽力を徳とし、料金千円の金盃一箇に左の感謝状を附して渋沢男に贈呈したり
     感謝状
 明治二十一年本会社創業の初め人造肥料未だ世に知られず、従て販路の進向至難なりしも、貴下の経営其効を奏し、需要漸く進み、前途望あるの運に際し、不幸にして祝融の災に罹り、宿図亦灰燼に帰せんとす、比の時に方り奮ふて二場《(工)》を再築し、更に進で規模を拡張し、遂に本会社今日の盛況を見るに至りしは、是れ偏に貴下が創立委員長取締役会長の重任を荷ひ、百事多難の中に在りて規画宜きを得たるに因れり、其功績の著大なる、株主等感佩して措くこと能はず、玆に謹で別紙目録の通り贈呈し、聊か謝意の万一を表す、幸に受納あらんことを乞ふ 敬具
然れども利益ある所には競争者を生ずるは事業界当然の勢にして、戦時中人造肥料の需要多かりし為め、戦後数個の会社は設立せられたれば、此に同業者間の競争は漸く行はるゝに至れり、故に販売高は以前に比し概して上進の傾向なるに拘らず、利益は三十二年の下半季以来著しく減少し、最高頂の八に比し、其半額以下に下り、随て配当率も二割に帰り、一割二分に落ちたり、左に二十七年以来三十六年まで、即ち日清戦役より日露戦役に至る十年間の営業成績を表示せん
    自二十七年至三十六年営業成績

   決算期      販売高          利益金       配当率
                    貫           円   割
 二十七年上半   四六四、六二二、五〇〇  一一、七七一、〇七八  〇・八〇
 二十七年下半   三八二、四一二、〇〇〇  一一、七六一、〇五三  一・〇〇
 二十八年上半   六二二、六七四、〇〇〇   九、五一五、〇九九  一・〇〇
 二十八年下半   四四七、八一二、〇〇〇   六、七四八、三七八  〇・八〇
 二十九年上半   八九七、四二九、〇〇〇  一五、六一四、〇二一  一・二〇
 二十九年下半   九七二、八五八、〇〇〇  一九、五九四、七二八  一・四〇
 三十年上半  一、四六一、七九八、〇〇〇  三五、二六五、一四八  一・八〇
 三十年下半  一、四九六、八一〇、〇〇〇  四三、五二四、五四〇  二・二〇
 三十一年上半 二、二四二、七一三、〇〇〇  八六、四九七、八六四  二・五〇
 三十一年下半 二、一二九、二五六、〇〇〇  七〇、七二一、一三七  二・五〇
 三十二年上半 二、四四八、三四一、五〇〇  七一、七七二、四〇四  二・五〇
 三十二年下半 二、四一七、一四八、〇〇〇  四四、一五八、四七〇  二・〇〇
 三十三年上半 二、六一七、〇六二、〇〇〇  三〇、二六九、一五九  一・二〇
 三十三年下半 三、五五二、〇〇七、九〇〇  三七、八七七、一四〇  一・二〇
 三十四年上半 二、三二〇、九九九、五〇〇  三二、七〇六、五九〇  一・二〇
 三十四年下半 三、一六五、一〇二、〇〇〇  三三、〇三八、八一四  一・二〇
 三十五年上半 三、一〇一、七三六、〇〇〇  三四、三〇七、四三〇  一・二〇
 三十五年下半 三、六四八、〇八九、〇〇〇  三九、三五五、九〇五  一・二〇
 三十六年上半 三、九六五、三五四、七〇〇  七六、〇七三、五八一  一・五〇
 三十六年下半 四、五六五、一四五、五〇〇  八二、五一二、一九五  一・五〇