デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
20節 化学工業
3款 日本化学工業株式会社
■綱文

第12巻 p.275-277(DK120034k) ページ画像

明治40年5月10日(1907年)

栄一、大倉喜八郎・馬越恭平等ト共ニ日本化学工業株式会社ノ設立ヲ発起ス。是日当会社創立セラル。


■資料

中外商業新報 第七五四六号〔明治四〇年一月一七日〕 日本化学工業会社(DK120034k-0001)
第12巻 p.275 ページ画像

中外商業新報  第七五四六号〔明治四〇年一月一七日〕
    日本化学工業会社
今般設立せらるべき同会社は資本金二百万円にして、化学工業品中有利の粋を抜き、沃度・硝石・明礬・加里肥料・塩酸加里等を第一着に製造するものにして、本年四月開業、四分の一払込を以て初期より優に一割乃至二割を配当し得らるべく、渋沢栄一・大倉喜八郎・馬越恭平・浅野総一郎・大橋新太郎・福原有信・渡辺福三郎・加瀬忠次郎・鈴木三郎助外数十氏は、十八日偕楽園に会合の上直ちに発表すべしと云ふ


中外商業新報 第七五五三号〔明治四〇年一月二五日〕 日本化学工業会社(DK120034k-0002)
第12巻 p.275 ページ画像

中外商業新報  第七五五三号〔明治四〇年一月二五日〕
    日本化学工業会社
渋沢栄一・大倉喜八郎・浅野総一郎・馬越恭平外数十名の発起に係る日本化学工業株式会社は四万株にして、発表前より非常の好況にして已に申込夥多の超過に付、廿一日同気倶楽部に委員会を開き大倉喜八郎・渡辺福三郎・大橋新太郎・根津嘉一郎・福原有信・青木大三郎・加瀬忠次郎・鈴木三郎助・友田嘉兵衛の諸氏出席し一般募集を為さゝる事に決したり、因に記す委員長は福原有信氏なり


中外商業新報 第七六四一号〔明治四〇年五月一一日〕 化学工業会社創立総会(DK120034k-0003)
第12巻 p.275 ページ画像

中外商業新報  第七六四一号〔明治四〇年五月一一日〕
    化学工業会社創立総会
日本化学工業会社創立総会は十日午後二時阪本町銀行集会所にて開会し、青木大三郎氏諸般の報告を為し、大倉喜八郎氏を議長に推し、定款に修正を加へ成立を告けたり、役員は
 取締役に大倉喜八郎・福原有信・根津嘉一郎・渡辺福三郎・鈴木三郎助・加瀬忠次郎・友田嘉兵衛の七氏を、監査役に青木大三郎・木村庫之助・大橋省吾の三氏を
撰定し、午後四時退散したり


銀行通信録 第四三巻第二五六号・第九六頁〔明治四〇年二月一五日〕 △日本化学工業会社(DK120034k-0004)
第12巻 p.275 ページ画像

銀行通信録  第四三巻第二五六号・第九六頁〔明治四〇年二月一五日〕
△日本化学工業会社 渋沢栄一・大倉喜八郎・馬越恭平・加瀬忠次郎・鈴木三郎助等の諸氏は資本金二百万円を以て日本化学工業会社を設立せしが、総株数四万株は悉皆発起人及賛成人に於て引受け一般よりは募集せざることとなれり

 - 第12巻 p.276 -ページ画像 

竜門雑誌 第二二四号・第三九頁〔明治四〇年一月二五日〕 青淵先生と日本化学工業会社(DK120034k-0005)
第12巻 p.276 ページ画像

竜門雑誌  第二二四号・第三九頁〔明治四〇年一月二五日〕
○青淵先生と日本化学工業会社 大倉喜八郎・馬越恭平・浅野総一郎・大橋新太郎・福原有信・渡辺福三郎・加瀬忠次郎・鈴木三郎助等諸氏の主唱に係り、青淵先生も其の発起人に加入せられたる同社は、資本金二百万円にして、化学工業品中有利の粋を抜き沃度・硝石・明礬・加里肥料・塩酸加里等を第一着に製造するものにして、本年四月開業の見込みなるが、初期より優に一割乃至二割を配当し得べき計算なりと云ふ


竜門雑誌 第二二八号・第二三頁〔明治四〇年五月二五日〕 ○日本化学工業会社創立総会(DK120034k-0006)
第12巻 p.276 ページ画像

竜門雑誌  第二二八号・第二三頁〔明治四〇年五月二五日〕
○日本化学工業会社創立総会 青淵先生の発起人中に加入せられし日本化学工業会社創立総会は本月十日午後二時東京銀行集会所に於て開会、大倉喜八郎氏議長となりて定款の議決を為し、又取締役及監査役の選挙を行ひしに左の如く当選せり
取締役 大倉喜八郎(会長) 福原有信 根津嘉一郎 渡辺福三郎
    鈴木三郎助(専務) 加瀬忠次郎(常務) 友田嘉兵衛
監査役 青木大三郎 木村庫之助 大橋省吾



〔参考〕工学博士 高松豊吉伝(鴨居武編) 第三一七―三二一頁〔昭和七年三月〕 【第十五章 会社 日本化学工業株式会社(工学博士 棚橋寅五郎)】(DK120034k-0007)
第12巻 p.276-277 ページ画像

工学博士 高松豊吉伝(鴨居武編)  第三一七―三二一頁〔昭和七年三月〕
  第十五章 会社
    日本化学工業株式会社(工学博士 棚橋寅五郎)
 東京帝国大学在学中、余は高松博士指導の下に沃度製造事業を研究して沃度加里製造法に関する特許を得、之れに依り出資者同志三人にて事業を起さんことを企て、工場を麻布区広尾に建設した。爾来幾変遷を経て、沃度事業は智利硝石製造副産沃度の圧迫に依り、其事業単独維持甚だ困難なるを知つたので、当時其儘遺棄せられた沃度副産塩化加里利用法に就きて研究し、或は硝石製造に、加里肥料製造に、遂に進んで塩素酸加里電解製造に応用し一段の成功を齎した。
 然るに、余と前後して沃度と硝石事業に従事せる同業者の雄なるもの二人あり、即ち、深川区に加瀬忠次郎氏、相州葉山に鈴木三郎助氏で、余を合せて三者は常に沃度原料採集に又硝石の売込に劇甚なる競争を為し、動もすれば共倒れの悲運に瀕する事屡々であつた。日露戦役後の好況時代に乗じ加瀬・鈴木の両氏相謀り、其事業を合併して一大会社を創立せん事を企て、其製品が沃度・硝石であつたので、沃硝製造株式会社と標榜した。当時余は専ら加里肥料製造事業に熱中し居り、沃度・硝石製造の運命前途甚だ面白からざるを思ひ、他種化学工業に進出せんと意気込んで居たので、他の同志に謀り日本化学工業株式会社創立を標榜し高松博士に賛助を乞ふた。博士は同業者にて二個の株式会社を創立すること甚だ不合理なるを懇諭せられ、当時有力なる実業家福原有信・大橋新太郎の両氏、又学者側としては高松博士・丹波敬三博士等の熱心懇篤なる斡旋に依り、遂に両計画を合併し且各自所有の葉山・深川・麻布・広尾・大崎等所在工場を評価して会社で
 - 第12巻 p.277 -ページ画像 
之れを買収し、又別に亀戸に新たに一大工場を建設して漸次に各工場の事業を之れに集合した。是れ即ち現今の日本化学工業株式会社の工場である。
 明治四十年五月、会社が愈々創立せられ、大倉喜八郎氏が推されて会長となつて、会社の大綱を統轄せられた。
 次で、前項に述べた通り塩素酸加里製造を企て、先づ相州箱根宮の下の電流を利用し、中規模の試験を為して好成績を得た。此試験には大倉・高松の両氏も立会はれた。其後福島県会津郷日橋川の流域を利用し、三千余キロを発電し次で猪苗代より買電して使用し、以て内地の需要を充たし猶ほ幾分の輸出を為し得るに至つた。是がため欧洲大戦中輸入杜絶の際に於ても、内地燐寸業者は安んじて其業を継続する事を得たのである。又亀戸工場に於ては専ら余の特許に依る硫酸加里肥料製造を為し、之れを普及して大に利益を挙げ且我国加里肥料製造の嚆矢をなした。
 其後商工省工業試験所に於て高山博士指導の下に黄燐の製造を研究されたので、余は其方法を譲受け、高松・高山の両博士其他知名の実業家数氏の賛助を得て五万円の一匿名組合を作り、自ら事務を担当して之れを工業化せんと企てた。斯くて大正二年静岡県芝川に工場を建設し、種々苦心経営の結果、遂に黄燐・赤燐の製造を完成したが、時偶々欧洲大戦勃発して輸入杜絶し価格暴騰したので大に利益を挙げ、遂に叙上の匿名組合を壱百万円の株式会社に引直し、日本化学工業株式会社に合併して、製燐工場を福島県郡山に新築し、其設備を完成した。
 大正四五年頃欧洲大戦の真最中、余は其道の研究家某と図り、亜鉛華・光明丹・リサージ等の製造を企て、其原料金属の暴騰するに乗じて金属亜鉛の製錬をも企て、其他顔料・塗料・アニス等を製造し、資本金弐百万円の日本塗料株式会社を起し大に利益を挙げたので、日本化学工業株式会社当事者の切望に依り是も亦同社に合併し、遂に当時の大会社たる資本金五百万円の大日本化学工業会社を形成するに至つた。
 日露戦役後各事業界の整理刷新の時代に於て、高松博士は早くも化学工業界の合理化統制を唱導せられ、世間未だ化学工業の何物たるかを覚知せざる時に於て、我国化学工業の進歩発達の忽にすべからず従て同業者徒らに内に鬩ぐの不可なるを説かれ、余等も亦博士の熱誠なる教示を遵奉して、遂に此大化学工業会社を創立するに至つた。同会社は実に当時に於て最も早く名乗りを揚げたる一大化学工業会社で、欧洲大戦中其製品を以て国内の需要を充たし、国家に貢献する所尠からず、又多額の利益を挙げて株主を潤ほした結果、其株式は株式市場に於て大に歓迎されたのであつた。
 然るに其後会社の当事者其人を得ず、営業漸次不振に陥り株価も著しく下落して、株主に不利益を与へたのは頗る遺憾の次第である。当業者は速かに其善後策を講じ事業の復興を謀りて、博士始め当会社の創立に尽力された先輩諸氏に満足を与ふると同時に、化学工業の率先者として国家に貢献せられんことを切に希望するのである。