デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
21節 瓦斯
3款 東京瓦斯株式会社
■綱文

第12巻 p.673-680(DK120087k) ページ画像

明治36年7月16日(1903年)

是日第三十六回株主定時総会開カレ、終会後引続
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キ臨時総会ニ移リ、栄一工学博士高松豊吉ヲ常務取締役ニ推選ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三六年(DK120087k-0001)
第12巻 p.674 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年
五月廿二日 曇
○上略 十一時帝国大学ニ抵リ、渡辺渡氏《(渡辺洪カ)》ニ面会シテ高松豊吉氏身上ノコトヲ談ス、帰途瓦斯会社ニ抵リ○中略一時兜町ニ帰ル、渡辺福三郎氏来話ス○下略
五月廿五日 晴
○上略 午後一時帝国大学ニ抵リ山川総長ニ面会シテ高松豊吉氏ノコトヲ談ス○下略
五月廿七日 晴
○上略 九時○午前帝国大学ニ抵リ渡辺学長ニ面会シテ高松豊吉氏ノコトヲ談ス○下略
六月十七日 晴
○上略 午後高松豊吉・福島甲子三二氏来話ス○下略
六月十九日 晴
○上略 ○午前帝国大学ニ抵リ渡辺渡氏ト高松豊吉氏ノコトヲ談話ス○下略
  ○七月十一日ヨリ三十一日迄ノ記事ヲ欠ク。


(東京瓦斯株式会社)事業報告書 第三七回明治三六年下半期(DK120087k-0002)
第12巻 p.674 ページ画像

(東京瓦斯株式会社)事業報告書  第三七回明治三六年下半期
一定時総会 七月十六日第三十六回株主定時総会ヲ東京市麹町区有楽町一丁目東京商業会議所ニ於テ開会ス、出席株主(委任状共)四百五十四人此株数六万六千六百三十九株ニシテ、取締役ヨリ提出ノ明治三十六年上半期間ニ於ケル事業報告書・財産目録・貸借対照表損益計算書ヲ承認シ、次テ利益金分配案ヲ決議セリ
一臨時総会 同日定時総会閉会後引続キ株主臨時総会ヲ開キ、左記定款改正ノ件ヲ議定シ、増員取締一名ノ選挙ニ移リシニ満場一致ヲ以テ会長指名ニ決シ、会長ハ工学博士高松豊吉氏ヲ推選セリ
   一定款第十九条中左ノ如ク改正ス
    取締役ハノ下「五人」トアルヲ「六人」ニ改ム


工学博士高松豊吉伝(鴨居武編) 第九三―一〇〇頁〔昭和七年三月一六日〕 【○第六章 東京瓦斯会社取締役時代 高松博士(子爵渋沢栄一)】(DK120087k-0003)
第12巻 p.674-677 ページ画像

工学博士高松豊吉伝(鴨居武編)  第九三―一〇〇頁〔昭和七年三月一六日〕
 ○第六章 東京瓦斯会社取締役時代
    高松博士(子爵渋沢栄一)
 日本の従来の有様は事業の経営は自己の得ばかりを計るもの、学理を研究するは人を治めるの備へであつて、事業と学理とは相接触して混淆するものでは無いといふ風であつた。実際事業に従ふ人は慾張り一点のもの、学理を説くものは迂濶で人の厄介になる位のものといふやうな有様で、学問と事業とが併び進むといふやうなことは考へられなかつた。
 その風習はいけぬ。本来事業の経営は学理を論ずると共に相伴うて、進む筈のものである。支那の昔は全くその通りに行つてゐたのであるが、時代の進むに従つて矢張り此分離の弊が生じて来た。日本では欧
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羅巴の学問が入つて来ると、学理は相応に進んだが、道徳は之に伴はない。
 私はどうかして実業界を進歩させたいと思ふにつけ、かく実業は実業、道徳は道徳といふのは間違つてゐる、倫理道徳は実業と関係なくなつてをるといふことは間違つてをる―仁をなせば富まず、富をなせば仁ならずといふやうなことでは困る―孔子の理窟もあるのだけれども。殊に大学の工科理科等に至つては一種の学者を作る所、道理を論ずる事は出来るけれども世事に迂遠なものとされてゐるといふ工合である、けれども真実国を富ますには物理化学の学問が実地に働くことが必要である。瓦斯は元来物理化学上の仕事であるけれども其事柄の応用があるので……従来支那の風習ばかり稽古してゐたのだから、我国には無いことであつた。
 所が東京府知事に由利公正といふ人があつて、楽翁公の貯蓄された江戸の七分金を使つて瓦斯の機械を買入れたので、此理窟が自然と実行されるやうになつた。
 大久保一翁といふ人が知事となつてから、明治七年に私も共有金の取締に就くやうになつて、従つて瓦斯に関係するやうになり、此頃から高松君とは直接に御引合《(附)》することゝなつた。親しくお人柄を知つて見ると其抱懐せらるゝ理想も判り、同君の説によつても亦私の経済道徳合一論が事業上に実際に行はれ得ると考へた。つまり、高松君と一緒に事業に就て話し合つた上から銭儲けといふ一方づくめの観念を止めて、富みつゝ道理を進め、道理を進めつゝ富むといふことが実際に行はれるといふ信念を得たのである。
 瓦斯局では当初瓦斯の事業に就てペレゲレンといふ仏蘭西人を傭つてゐたことがあるが、これは瓦斯の事業には、副業としてコールタール、瓦斯コークス等関聯して利益を生ずるものがある。即ち応用化学の学問が必要だからであつた。ペレゲレンは間もなく去つたので、明治十七年頃応用化学の―大学の応用化学部の主任は高松君であつたが、自分の弟子を一二人瓦斯会社へよこすことゝなつた。
 水戸の人と思ふが所谷英敏といふ人があつて、それが高松君の推薦で瓦斯局の技師となるといふことで私に会つて何でも月給まで五十円か六十円かに極めた。
 所が其翌日か来て瓦斯局は将来如何なるかと聞くので、自分は政治上の関係から、事務を直接に府が扱ふことはよくない、当分止むを得ん事情もあるかも知れぬが、完全に仕事が進んで行つたら追つて民業に移すつもりだと答へた所が、所谷は「民業になつて了ふのでは私は止めます」といふ。私は「それはどうしてだ」と訊くと「民業になつたのではいくらそこで働いた所が位も得ねば名誉も伴はぬ、私が笈を負うて上京したのは、人間と生れたからには多少の名誉を得たいといふ望みからである。今会社になると承はるとそれでは名誉を失ふ故に御辞退する」といふ。私は「君は民業だから不名誉と思ふか。渋沢は元は相当の官吏であつたが現在渋沢のしてゐる事には名誉が無いと思ふか」と申すと「あるとは思ひません」と答へた。名誉は官の事業にのみ伴ふもので、必ず共に会社事業に名誉が無いとは大間違ひである
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私はそれを憂ひて云ふに「君の考方もよくないけれどもさういふ風習を作つた先輩が悪い」といつて、とうとう其時の大学の綜理をしてゐた加藤弘之さんの所へ高松君と一緒に行つたと思ふ。
 加藤さんは「それは尤もだ、然しそれを覚らせるには実例を以て論じて呉れるのが一番だ、一般の人気は官吏の偉さをばかり知つて其他の偉さを知らぬから、その点を是非生徒に説いて聞かせて呉れ、それに渋沢を学生に知らせたいから講師になつて呉れろ」。「いや私は別にさういふ学問をした訳では無いから講義は嫌だ」と云ふと「銀行に就ては学事を実際に応用させたのは渋沢である、亜米利加の真似もしたであらうがその銀行条例の話一つをして呉れても立派な学問だ、君は土百姓の出ではあるけれども、相当の学者仲間に押しも押されもせぬ人である」と加藤さんは云ふ、高松君も亦之に同説して勧めたので、一ケ月に一二度づゝではあつたが本郷の大学で講義をしました。丁度毛織物や綿織物の事業にかゝつてゐた時なので、その話もした。此実際の講義は聞く生徒が皆心を入れて聞いて呉れた。
 高松君は謙遜な人で、講釈じみた事を云ふのは嫌ひな人であつたが所谷を説いて其蒙を啓き、結局所谷は瓦斯局で働くことになつた。
 高松君は其説く所に徹底したのみならず、学問の道理と富とが相合することを教へて呉れたから、丁度学理と実際とが道理を踏んで並び馳せて相悖らずと云ふことに就て高松君が学者として実際に力を尽して呉れたので、社会をして其風習を強めしめた、之に就ては同君最も働があるといつてよろしい、是は只単に一時的のことではなく、此議論を事実に施してよからうと云ふので、之を土台として瓦斯会社を経営することにした。
 明治三十六年に大学に乞うて高松君を瓦斯会社の常務取締役に迎へた。それから四十二年に私が会長を辞するまで、日露戦争前後の多忙な時期を共に働いた。高松君はよく道徳論に基いて力を尽されたのである。
 高松君は決して商売に鋭いといふ風の人ではなく、むしろ少々位は高い物も買はう、安過ぎても売らうといふ位の人ではあつたが、如何にも正しい人であつたので――普通は其局に当る人は算盤の鋭い人が其職に居るべきが世の風習であるのに、高松君は其風の人ではなく大まかな様子の見える人だが、仮りに多少の小股くゞりの人にしてやられても、斯かる人を以て大会社の長とせしめたならば却つて間違はないと考へた。高松君は自己の職分を以て我利益の材料とするといふやうなことは断じて無い人である。
 其後私が瓦斯会社を止してからは御懇意は同様ではあるが、接触は淡くなつて居る。元来が強く物を論ずる事の嫌ひな人だから、久しうして渝らず、同君も渋沢の人と為りを信じて呉れ、当時に在つて固く此主義を執り、独り瓦斯とのみ云はず、工業と道理(即ち人の本分)とが、相共に事業上に表れるといふことに就て、高松君が最も力を致されたものと云つてよからう。
 高松君の事に就ての感想と云へば、かゝる事があつたといふことも多からうが、今悉くは覚えては居らぬ、たゞ最も大切な点だけを述べ
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て置くに止めよう。


竜門雑誌 第一八三号・第四二頁〔明治三六年八月二五日〕 ○東京瓦斯会社の副生物製造の景況(DK120087k-0004)
第12巻 p.677 ページ画像

竜門雑誌  第一八三号・第四二頁〔明治三六年八月二五日〕
○東京瓦斯会社の副生物製造の景況 同社にては灯火用及燃料用として瓦斯供給に努め居れる外猶ほ副生物としてコークス及コールタールの製造に従事し居れるが、コークスは近来需要大に増加したるのみならずコールタールに至つては其の需要の増加実に著しきものあるを以て、同社にては此需要に応ぜんが為めに特に副生物製造に意を注ぐことゝなり、瓦斯に関して専門家中斯術に最も堪能なる工学博士高松豊吉氏を招聘するに決したるが、何分本邦にては瓦斯に関して高松氏を除くの外適当の学者なきより同氏招聘に就ては文部省との交渉頗る困難を極め、青淵先生より目下本邦に於ける瓦斯事業漸く勃興せんとするの時に際し、東京瓦斯会社は殆んど全国の模範たらんとするの姿あり、従つて各地方より研究調査を求め来る者多く、東京瓦斯に於ける事業の発達は取りも直さず全国の瓦斯事業に影響を加ふることゝなるを以て斯業の為め高松氏の辞職を諾せられたしと懇請し、高松氏より更に一週間数回大学の講座に出席す可きを条件とし漸く許可せられたる程にて、同氏入社後の瓦斯会社は技術其他の点に於て面目を一新す可きものある可しと云ふ、而して同氏の主として力を注ぐ可きは副生物製造なるが、前記コールタールはアニリン色素として染色用に応用せらるゝ、肥料用として硫酸アンモニヤ、煉炭製造用としてビツチ、木材防腐用としてクレオリード油に精製せらるゝ等、其用途極めて広く右ビツチに就ては特に海軍省より委托あり、其他ベンゾール・溶剤ナフサ・ナフサリン・クレシン等にも精製するを得、染料用及薬品として販路益々拡張するより、特に副生物製造に意を注ぐことゝなり今回の挙に及びたるものなりといふ


竜門雑誌 第四八一号・第二〇四―二〇七頁〔昭和三年一〇月二五日〕 渋沢子爵と瓦斯事業及私との関係に就て(高松豊吉)(DK120087k-0005)
第12巻 p.677-680 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第二〇四―二〇七頁〔昭和三年一〇月二五日〕
    渋沢子爵と瓦斯事業及私との関係に就て(高松豊吉)
 明治八年頃私が東京大学の学生であつたとき、芝金杉に東京府瓦斯局の工場が出来た。是れは横浜瓦斯局の工場設計者たる仏人ペレゲレン氏の手で成り、其資金には東京市民の共有金を使用して渋沢さんが局長となられた。当時私はまだ瓦斯の事業の如何なるかを能く知らなかつたが、此等の工場を見学して大に其の知識を得て興味を感じた。其後十一年大学を卒業し、次で十二年文部省より英国に留学を命ぜられマンチエスター市のオエンス大学へ入学して時々近傍の瓦斯工場を見るに及び、貧弱なる東京の工場と雲泥の相違があるに驚いた訳である。そして瓦斯工場の外に、其副生物たるコールタールの蒸溜を行つて居る工場も見た。殊に染料事業が之に関聯して起ることを知つて、瓦斯事業の益々有利であることを悟つたが、染料事業は化学者の多い独逸で盛んに発達して居ると聞いたので、留学の第三年目に文部省の許可を得て独逸へ赴き、その方面の講習を受けて、明治十五年八月帰朝した。
 其の当時欧米の大学では化学の授業上便利の為め純化学と応用化学
 - 第12巻 p.678 -ページ画像 
とを区別して居たが、日本には未だ応用化学なるものが認められてゐなかつたから、帰朝と同時に東京大学総理に此事を話した結果、明治十七年から初めて応用化学科の卒業生を出すやうになつた。一方東京府の瓦斯局では予て嘱托して為た西洋人の技師が帰国するに就ては、日本の学者を技師に採用したいと云ふことて、渋沢さんより私に相談があつたので、私は応用化学科出身の理学士所谷英敏氏を推薦した。此の所谷氏のことに就て渋沢さんより度々話を聞いた人が多いと思ふが、あの当時は学問をした者は悉く官吏たることを希望してゐたから応用化学科を卒業した所谷氏にしても瓦斯局に勤務するのは官吏たることであるから初めは名誉と心得て居たが、後に瓦斯局を廃し、東京府より此事業を民間に払下げることに決つたから、これでは自然官吏たる名誉を得ないで下品な商売的仕事に従事せねばならぬと感じたと見え『辞職する』と云ひ出した。従つて之を聞いた渋沢さんは非常に心外として『総て事業は学者の手で発展するのに、今此の瓦斯業に従事することを嫌だと云ふ程なら、最初から来なければよかつたではないか――』とて、民間事業の名誉を伴はぬものでないこと、自分が大蔵省の高官を辞して民間の事業に携つたことなどを諄々と説いたから所谷氏も漸く気を取り直して勤めたので案外好成績に進んで居たが不幸にも同氏はチブスに罹て逝去した。即ち渋沢さんが此の所谷氏が民間の事業に携はるのを嫌だと云つたことをよく比喩として話され、民間商工業の卑しむべきものでないことを高唱せられるのである。其時私も所谷氏を推薦した関係から、瓦斯事業は将来は大いに発展すべきものである旨を、懇ろに話したのである。現在でこそ工科大学で応用化学の如き学問をした人は民間事業に関係せねばならぬとされて居るが、所谷氏の卒業した時分は、全くの過渡期であつたから官吏を志望したのも無理からぬことであつたと思ふ。
 瓦斯局は斯くて十八年に民間に払下げられて株式会社となり、取締役会長には渋沢さんが依然就任せられ、大橋新太郎氏が専務取締役として経営せられたが、其後大橋氏は都合に依り専務取締役を辞され、一時渡辺福三郎氏が専務に就任されたが横浜よりの通勤が不便であつた故、其当時(明治三十六年)工科大学教授であつた私を瓦斯会社の常務取締役に推薦したいとの話を渋沢さんより工科大学長に交渉した結果、終に私は瓦斯会社の仕事に従事することになつた。処が二十年余も勤続した私が辞職すれば其の後任の教授を至急に採用する準備として助教授井上仁吉氏を直ちに海外へ留学せしめる必要が起つたけれども、大学の方で其の資金が無いと云ふので、遂に瓦斯会社から六千円を支出して留学費とし、其留学の二ケ年間は私に応用化学科の講義を大学より嘱托をされたから、休職の自分である私は会社の余暇を利用して一週二三回学生の為めに二ケ年間を通じて講義をした、殊に井上氏が帰朝した時留学費が尚八九百円不足したとの事であつたから、それは私が支出した、そして井上氏は直に東京工科大学の教授に任ぜられ、尋いで東北大学教授となつて今直《(猶)》ほ在職中である。
 私が瓦斯会社に就職の始め経営の事務に不馴であつた為めに、時に他の重役と折合の悪るいことがあつたが、私としては今更瓦斯会社を
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辞職することも出来ず、耐忍して務めたならば終には経験を得て成功するだらうと決心し、大学の有力な教へ子四人ばかりも入社させて、専ら技術方面の仕事を委せ、私は経営の方の仕事に努力して居る内に日露戦争が初り、忽ちにして石炭の饑饉に遭遇し大に困難を感じたのである、是れは船舶が殆ど御用船となつた為め、室蘭から横浜への船が無くなつたからであるが、種々運動の結果日々石炭の供給も出来て安心した、然るに東京市内に於ける瓦斯の需要は益々増加して、風月堂で軍用パンを焼く為めとか、砲兵工廠の下受をやつて居る工場でガスエンヂンを据付ける為めとか、又灯火用も需要激増で非常に会社の景気がよくなつて、多大の利益を挙げ株主配当も一割四五分を為し、積立金も百五六十万円にまで上つたのである。従つて瓦斯会社は引続いて毎年工場の拡張を為し、資本金の如きも順次倍額に増加して、約十年間に三千五百万円となり、私の入社した当時の十倍にも発展して来た。斯様な状況にあつた四十二年七月、渋沢さんは七十を迎へられて凡ゆる営利事業会社の重役を辞任せられたが、同時に瓦斯会社取締役会長をも辞せられたので、次で私が社長となつたのである。それから四十三年九月には競争会社千代田瓦斯会社を合併して資本金を四千五百万円としたが、此の千代田瓦斯の合併は渋沢さんの口添もあつて多少不利であつたが対等で円満に実行したが、重役に千代田側の人々が入つて段々経営が面倒になつて来たから、遂に私は大正三年六月に辞職したのである。後は久米良作氏が社長となつて経営した。兎に角私の在職中会社の事業を拡張し過ぎた点に就て種々の非難はあつたやうだが、其後十数年を経た今日になつて見ると、当時拡張をして大森千住などへも新しく工場を造つて置いたから、震災でその外の損害はあつても、直に復興して現今瓦斯の大需要に応ずることが出来るのである。
 現在では東京瓦斯会社の資本金も一億円に達し、千代田瓦斯合併後は東京市の独占権を待つて、所謂東京市との間に報償契約を結んで居る、それは私と久米氏とが在職中尾崎市長時代に締結したもので株主配当は九朱としてスライジングスケール式になつて居るから、今日に於ても差支ないと思つて居る。
 要するに東京瓦斯会社に於て私は渋沢さんの人格の偉大さに直接に触れてゐたので、其の事業の為めに尽された功績に対して感服し、私が瓦斯会社であれだけの仕事をし得たのも、上に渋沢さんの如き人が居られたからであると考へて居る。
 尚ほ瓦斯事業に関聯して其副生物から染料事業の起るべきことは申すまでもないことであるが、我が国にて大正五年以来現在染料消費量の八割を自給することが出来るやうになつて居るのも、一つには瓦斯事業やコークス事業の発達にある。私はさうした関係から日本染料会社の創立にも与かつたが、染料製造に伴つて感ずることは染織物の発達である。曾て渋沢さんの世話をせられた京都織物会社の成立した当時、私に経営の任に当つてはとの話があつたが、之を断はつたので昨年亡くなつた舟坂八郎氏が専心経営せられた。之は余談であるが、斯様な染織事業との関係を持つ私は、近時喧しい国産奨励の意味からも
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内地産の染料を使用して純日本的の意匠を施した、内地産の絹織物を製出して輸出向とすることを此際提唱したいのであるが、惟ふに渋沢子爵も同一の御意見を持つて居らるゝ事を信じて、此の記念号の誌上に、平素抱懐せる一端を附加した次第である。


竜門雑誌 第一八八号・第三二頁〔明治三七年一月二五日〕 ○東京瓦斯会社総会(DK120087k-0006)
第12巻 p.680 ページ画像

竜門雑誌  第一八八号・第三二頁〔明治三七年一月二五日〕
○東京瓦斯会社総会 同社にては一月十九日株主定時総会を商業会議所に於て開会、先づ当期決算の報告あり年一割四分の利益配当案を可決し、次で臨時総会に移り、当日の議案たる業務拡張の為め興業費予算金四百二十万円を以て本年より来る四十三年六月迄継続工事を施行するの件、並に資本金四百二十万円を増し八百四十万円とし之に伴ふ定款改正の件を可決したる後、取締役監査役の改選を行ひしに取締役に大橋新太郎・渡辺福三郎の両氏、監査役に西園寺公成・渡辺朔・渡辺治右衛門の三氏当選して無事散会せり


(八十島親徳) 日録 明治三六年(DK120087k-0007)
第12巻 p.680 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三六年   (八十島親義氏所蔵)
十二月十五日 曇夕より雨
○上略
五時過ヨリ烏森湖月ニ東京瓦斯会社大株主会ニ男爵代理トシテ出席ス
○下略


(八十島親徳) 日録 明治三七年(DK120087k-0008)
第12巻 p.680 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三七年   (八十島親義氏所蔵)
一月十九日 晴 暖
九時出勤ス、午後商業会議所ニ於テ開催ノ瓦斯会社総会ニ臨ム、初定時総会ニ於テ半季計算ヲ承認シ、割当ハ一割四分ニ決ス、臨時総会ニ於テ事業大拡張ノタメ現資本ヲ倍額ニスルノ件ハ満場一致可決、取締役ノ内二名及監査役全員(三名)改選ノ件ハ取締役丈投票ヲ省キテ再撰、監査役ハ各投票ヲ用ヒタリ、何事モ大体ニ於テハ異議ナキモ、流石泰斗タル青淵会長ノ出席ナキタメ何カニツケ小鬢咎的ノ質問ナド出テ勝ニテ極円滑トハ参ラサリキ○下略
  ○栄一日記ヲ欠ク。