デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
23節 土木・築港
2款 野蒜築港会社
■綱文

第13巻 p.70-72(DK130013k) ページ画像

明治11年7月(1878年)

宮城県桃生郡野蒜ニ於テ内務卿大久保利通ノ主唱ニヨリ政府一大商業港市ヲ起サントシ、是月其築港工事ニ着手セリ。栄一、渋沢喜作・戸塚貞輔等ト謀リ、同地ニ地面ヲ求メ倉庫家屋等ヲ新築シテ経営ニ着手セントス。然レドモ政府其築港事業ヲ中止スルニ到リ、栄一等亦其計画ヲ廃ス。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第一五〇頁 〔明治三三年六月〕(DK130013k-0001)
第13巻 p.70 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)  第二巻・第一五〇頁〔明治三三年六月〕
    野蒜築港
野蒜ハ陸前国桃生郡ニアリ、明治十一年ノ交、時ノ内務卿大久保利通ノ主唱ニヨリ、土木局ニ於テ大ニ其改築ヲ企ツ、其計画ハ野蒜ト宮戸島トノ外面ニ一大突堤ヲ繞ラシ、東北地方ニ一大商業港市ヲ起サントセシナリ。青淵先生・渋沢喜作及戸塚貞輔等ト謀リ、同所ニ地面ヲ求メ一大商港ノ体面ヲ具ヘンカ為メ、倉庫家屋等ヲ新築シ大ニ経営スル所アラントス。後チ政府ハ工事困難ナルヲ以テ此ノ業ヲ中止スルニ際シ、先生等亦其計ヲ廃ス。



〔参考〕日本築港史 (広井勇著) 第二二―三二頁〔昭和二年五月〕(DK130013k-0002)
第13巻 p.70-72 ページ画像

日本築港史(広井勇著)  第二二―三二頁〔昭和二年五月〕
 ○近代ノ築港
    野蒜港
 明治ノ初年我東北地方ニ於ケル産業振興ノ策ヲ講スルニ当リ大久保内務卿ハ東北六県ノ長官ニ令シテ各自意見書ヲ提出セシメタリ、其所論皆ナ運輸交通ノ便ヲ増進スルヲ以テ最要件トナセリ、仍テ先ツ当時水運ノ重要路タリシ北上川ニ改修ヲ施シ其河口ニ於テ海運ニ接続セシムルヲ以テ第一著ノ事業トナシ、土木局長石井省一郎・雇工師蘭人バンドールン(C. J. Van Doorn)等ヲシテ実地ノ調査ニ従事セシメ、又三菱会社ノ船員等ノ意見ヲモ徴シタリ、其結果バン ドールンハ当時地方人ノ属望シタル北上川ノ河口ニ深水港ヲ築造スルノ案ハ、同川ノ吐出スル土砂多量ナルノ故ヲ以テ之ヲ不可ナリトシ、又女川湾・荻ノ浜ノ如キ良湾アリト雖モ前者ハ狭隘ニシテ稍々東ニ偏スルノ嫌ヒアリ後者ハ陸上ノ交通困難ナリ、其他石浜ノ如キハ良湾ナリト雖モ島嶼ノ間ニアリテ陸地ヲ去ルコト遠ク、寒沢ニ至テハ石浜ノ欠点ニ加フルニ水深ヲ不足ナリトシ、結局野蒜ヲ以テ適当ノ地トナスニ至リタリ、仍テ爰ニ築港ノ計画ヲ立テ十年一月之ヲ内務卿ニ報告セリ
 当時政府ハ西南ノ役ニ全力ヲ集注シ亦タ他ヲ顧ルニ遑アラサリシニ拘ハラス、東北開発ノ一日モ忽諸ニスヘカラサルト、先キニ殖産興業ノ資トシテ初メテ国債ヲ募集シタルノ関係ヨリシテ、野蒜築港ノ案ヲ
 - 第13巻 p.71 -ページ画像 
容レ更ニ調査ノ歩ヲ進メタリ
築港工事
 野蒜ノ地タルヤ石巻湾ノ西隅ニ位シ、南ハ宮戸島ニヨリ半ハ大海ヨリ庇蔽セラレ、西ハ松島湾ニ通シ三里ニシテ塩釜ニ到リ、東ハ石巻ニ達スルニ北上川口ヲ経由スルモ五里ニ過キス、又タ背部ニハ鳴瀬川ヲ改修シテ水運ニ利用シ得ヘキ等ハ海港ノ設置ニ適スルモノトシテ選択セラレタル主ナル理由ナリトス、是ニ反シテ仙台地方ノ者ハ松島湾内即チ塩釜ニ築港セラレンコトヲ希望セルモノナリ
 野蒜築港ノ計画タルヤ其関係図書ノ存セルモノニ拠レハ大体ニ於テ港ヲ内外ニ区分シ、内港ハ和船及ヒ近海回航ノ小型船舶ノ繋留ニ宛テ運河ニヨリ北上川及ヒ松島湾ニ連絡シ、外洋ニハ外洋航行ノ大船ヲ碇泊セシメ艀ニ拠リ内港トノ接続ヲ期スルニアリタリ、而テ各部工事ノ設計ニ至テハ当初ノ成案ヲ後チ変更シタル点少ナカラスト雖モ、其実施シタルモノハ大略第一図ニ示ス如クニシテ、左記ノ諸工事ヨリ成リタルモノナリ
 一 鳴瀬川ノ河口内ニ於ケル繋泊地即チ内港ノ築設
 二 内港ヨリ海ニ通スル航路即チ港口及ヒ運河ノ築造
 三 鳴瀬川ノ切替及締切
 四 野蒜ヨリ北上川ニ通スル運河(北上運河)ノ開鑿
 五 松島湾ニ通スル運河(東名運河)ノ開鑿
 六 新市街地ノ築設
 七 雑工事
○中略
 本工事ノ着手ハ明治十一年七月ニシテ、先ツ北上運河ノ開鑿及ヒ水閘ノ築造ヨリ之ヲ始メ、前者ハ概シテ人力ニ拠リ屡々水害ヲ被リタルニ拘ハラス其費用一立坪ニ付キ平均五十銭内外ニ過キサリシト云フ、底部ノ掘浚ニハ浚力毎時四十噸ノ蒸汽浚渫機ヲ使用セリ、是レ本邦ニ於ケル浚渫機使用ノ嚆矢トス
 北上運河ハ予定ノ如ク竣功シ久シク野蒜石巻間ノ航通ニ用ヒラレタリト雖モ、爾来維持工事ヲ施スモノナク、其為メ漸次水深ヲ減シ、今日ニアリテハ僅ニ満潮ニ際シ多少小舟ノ航通スルモノアルニ過キス
 東名運河ハ今猶ホ全長ニ亘リ干潮面以下二尺内外ノ水深ヲ存シ使用ニ耐ユ
 新市街地ハ十四年ノ交ニハ家屋ノ新築セラレタルモノ二百余ニ及ヒタリト雖モ其後悉ク撤去セラレ、爾来耕地トシテ使用セラルヽノ外ハ松樹ノ掩フ所タリ
 港口ノ工事ハ十二年七月ニ著手シ、当初ハ予定ノ進行ヲ呈シタルモ其海中ニ属スル部分ニ到ルヤ激浪ノ為メ屡々災害ヲ蒙リ、又タ漂砂ノ襲来スル処トナリ、予期ノ結果ヲ収ムルニ至ラス
○中略
 野蒜築港ノ結果前述ノ如クナリシニヨリ、十七年末ニ至リ山県内務卿ハ工師ムルデル(Rt. Mulder)坪井海軍大佐、共同運輸会社並ニ三菱会社在職ノ英国人ジエームス(J. M. James, T. H. James)等ヲシテ実地ヲ視察セシメ各自ノ意見ヲ徴セリ、其等報告ハ野蒜外港ノ築
 - 第13巻 p.72 -ページ画像 
造ナラサルトキハ多少ノ風波ニ際シテモ大船ノ碇泊困難ナルノミナラス、荷役ノ全然不可能ナルニヨリ内部ノ施設ヲ利用スル能ハスト云フニ一致セリ、而テ外港ヲ築造センニハ バン ドールンハ長三百間ノ防波堤ヲ以テ足レリトセシト雖モ、ムルデル及ビ両ジエームスハ長約千間ノ突提ヲ宮戸島ノ東端ニ築設スルノ必要アリトシ、其工事ハ長年月ト数百万円ノ工費ヲ要シ容易ノ事業ニ非ルニヨリ、寧ロ女川湾ヲ改修シテ商港トナスノ利アルヲ説ケリ、蓋シ女川ハ天然ノ良港ニシテ其工事タルヤ、若干ノ埋築ヲ施スト短距離ノ運河ヲ開鑿シテ北上川ニ接続スルヲ得ヘク、其所要工費ハ野蒜外港ノ比ニアラスト云ヘリ
 是ニ於テ政府ハ野蒜築港ノ失敗ヲ認ムルニ至リタリト雖モ、一方女川湾改修ノ案ニ関シテハ仙台地方人ノ反対ヲ顧慮シテ之ヲ採択スルニ至ラスシテ歳月ヲ曠ウセリ
 爾来野蒜築港ノ再興ヲ企図セル者ナキニ非サリシト雖モ、事遂ニ成ラスシテ今日ニ至レリ、蓋シ其位置及ヒ地勢宜シキヲ得サルハ以テ僅少ナル既成工事ノ償フ所ニ非サルヲ認メタルニアリ