デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
28節 貿易
5款 其他ノ商社 1. 小野組糸方
■綱文

第14巻 p.447-459(DK140052k) ページ画像

明治6年6月-7月(?)(1873年)

是ヨリ先、小野組糸方ニ於テ浅野幸兵衛ヲ欧洲ニ遣ハシ、蚕卵紙ノ直輸出ヲ試ミシコトアリ。栄一当時官ニアリシモ、コノ企テニ関与セシモノノ如ク、情報蒐集ニ便宜ヲ与フル外、六年春、浅野ノ帰朝セル後ハ、生糸製方取調ノタメ官命滞欧中ナリシ渋沢喜作ヲ業務継続者トシテ推薦セシガ、喜作帰朝セルトキ既ニ栄一退官ノ後ナリシヲ以テ、栄一ノ後ヲ追ウテ退官セル喜作ヲ小野組糸方ノ総管古河市兵衛ノ参謀ニ推薦セリ。


■資料

(渋沢喜作)書翰 渋沢栄一宛(明治六年)三月一二日(DK140052k-0001)
第14巻 p.447-448 ページ画像

(渋沢喜作)書翰  渋沢栄一宛(明治六年)三月一二日
                    (渋沢子爵家所蔵)
副啓上沢屋・浅野両人帰国に付別帋委曲陸奥御両公江申上候間可然御承容祈上候、別書申上候通生糸養蚕之義取調候もとても実地期節中ニ至り目撃ニ無之ては小子義は元より言語は不通中島義一通り相通シ候ても其情実云々等に至り候ては、兎ても其真情相通し候と申義中々及兼、乍去元より小子義富丘ニも暫時たりとも有之取扱且は生糸之義品位始大略相心得居候故、先新繭出来迄伊太利国有之取調候て大略は其ノ情態も意得候積ニ御坐候、右等陸奥頭江も可然賢兄より御高話祈上候、蚕種商法変遷之云々随分法方有之候事と存候、右は卒爾ニ書面ニも申上兼候間帰朝之刻に譲り候、本文申上候通り当年は百五十万位至極と豊凶ニ不拘御目途御施行有之度候
○中山惣領事着ニて承知候処、旧冬は何歟省中も御用多端井上も暫時不勤と歟申事如何御出勤ニ相成候哉、定而内外賢兄も御多忙恐察仕候、右云々も大略中山より承知是不得止義兎角ニ真実之仕事は六度はやり之分明と歟虚空ニ奔り候は困入申候
○御令郎も日増ニ御成長嘸々御楽之義と奉存候、其他御内閨始御令娘ニ至迄御佳勝ニ御起居之義と奉賀候
次ニ弊屋之義数々御高配ニ可相成候条□《(乍カ)》御省顧伏仰候老人も移居之積如何有之候哉、例之田舎風去就之難き云々万一未タニ候へは是又御序之節腎台より御促し之程仰候、復説野生も折角当州江参り義候得は是非共一事位は其得失位は意得いたし行々は自主之権こそ妻奴之扶助も出来候様相成度、何歟ぐづぐづ商法之事抔江愚念配算罷在候
○小野種之義も漸之売上ニ相成少々残り右も夫々手都合有之正ニ昨今之売上候事と存候、此迄蚕種抔少々持参之者共概して大破候も多年自身取扱配念候は尤之至り尤も難事候様被存候、乍去小子も幸甚ニは実地之稽古もいたし申候、書外は両子より御聞取被下度祈候草々頓首々々
 - 第14巻 p.448 -ページ画像 
  三月十二日認               喜作拝
    渋沢正五位公閣下
  二伸御内閨君江も宜敷御鸖声祈候 已上
  ○「百官履歴」ニヨレバ中山譲治ガアメリカヨリイタリーニ転ゼシハ明治五年十月ニシテ七年被免帰国ス。


(渋沢喜作)書翰 渋沢栄一宛(明治六年月日未詳)(DK140052k-0002)
第14巻 p.448 ページ画像

(渋沢喜作)書翰  渋沢栄一宛(明治六年月日未詳) (渋沢子爵家所蔵)
蚕種規則之義も弥御治定夫々御施行原帋之儀も漉立も発場ニ相成候向万端御配念之義と奉存候、此一事も同様浅野江相託し愚考申上候処当年之義は百万より乃至百五十万を至極之高と是非共御配算有之度、伊国豊作候て百万より同弐十万位尤も相当之事と愚考仕候、先書も縷々申進候通蚕種商法は随分有力之者支配候て多分商法も可有之候得共、右は差当り今年実際施行と申義ニも相成兼帰朝之節目撃之処委悉可申上候養蚕之儀も当国と本邦と之工拙を篤と目撃仕候積、是は是非共実業目撃ニ無之候ては相分り兼候義、右ニ付夫々其筋向々江も配心仕罷在候ガラス養蚕は一ト通り承知仕候、已ニ四五日前迄に各所とも繭ニ相成申候、当年之上作昨年より宜敷様子ニ御座候、本邦之種当園之種をも先は異同も無之例年之振合ニ有之候、乍去此一事は全く究理上より其年之豊凶ヲ推考案候事ニて右豊凶より真ニ節度之養蚕豊凶ヲ相定メ候義ニは決而相成兼候様併し随分養蚕法方ニは小民ニ至迄配念研究ヲ極申候富丘工場も可成成就開業ニ相成候段大慶之極、依而出来之糸御差廻しニ相成此間中相届申候、一見候処可成ニ出来候様被存候、御申達之通り其節々々江相掛ケ篤と取調品位之優劣価ノ高底は不申及伊仏両国之品と之比較迄も追而可申上候、右ニ付申上候通リヨン表江も一度罷出一ト通りは取調も見込之処仕候得共、真ニ糸生始品位之高底取調候ては同所之外無之分各所は時々相場之高底商法之支略見聞之義而已を被存候義、所々ニ同所江御差廻之糸持参取調之積ニ候、浅野幸平御差止ミ電信承知仕候処、遂ニ同人は出発乍去何等之事務ニ御座候哉、委書来着之上は御申達之義は取計可申候、右出立之都合等は同人より可申上候事と存候間相略申候
英国留学生野口富蔵と申人、生糸之筋江尽力有之候由ニ候、大使より大蔵省出仕小子江附属被仰付候由ニて、一昨日当地江相見申候、然ル処同人義更ニ生糸之義、繭と申事も不知位ニ付、大使江小子之愚案尚書面の以申上候、右仰ニて陸奥頭江申越候間、御承知有之度候、右近況得御高慮度如此ニ候 草々頓首敬白
    青淵閣下               喜作拝
  ○明治六年三月十五日、蚕種原紙売捌規則発布セラル。
   明治六年三月二十八日付特命全権大使一行公信ニ野口富三ヲ渋沢喜作附属ニセル旨記サレタリ。本書翰ハコノ頃ノモノナルベシ。
  ○「木戸孝允日記」明治六年五月十七日・十九日・二十日ノ条ニ喜作・野口ト行ヲ共ニセル記述アリ。


(渋沢喜作)書翰 渋沢栄一苑(明治六年)四月一八日(DK140052k-0003)
第14巻 p.448-450 ページ画像

(渋沢喜作)書翰  渋沢栄一苑(明治六年)四月一八日
                    (渋沢子爵家所蔵)
 - 第14巻 p.449 -ページ画像 
    四月十八日 従伊国ミラン客舎
一月十七日御認之甘書三月十七日巴里府に於て落掌披閲謹誦仕候処、爾来愈御佳勝御奉務被為在候条恐賀此事ニ候、不相替省中も御多忙其上井上公ニは何歟各省云々抔義より御出省も暫時無之と之云々風評伝承一層御多務恐察仕候、兎角人情新しきニ寄り流行ニ走り候事不得止場合ニは候得共深憂邦之諸君子ニは其御煩慮恐察仕候、将又御国情茂細民小動揺抔有之候様子、右は全御来諭之通凡百之事旧観改更之際、敢而御関心被為成候義ニも有之間敷奉存候、将又小子もスヱツル国より両三日前帰伊仕候、弥々被仰越候義も已ニ去月十六日出発之浅野宗吾子江相託し候製糸機器其当日迄巡廻目撃之処愚考等併而申上候処、定而御高閲被成下候義と奉存候、爾来リヨン始近辺瑞西国江巡廻、製糸之機器織物場は不申及、各州生糸之品位織物之様子向不向等も大略取調先は本邦製糸之義始品位遣ひ向等も略了知仕候、委悉は一書ニも尽しかたく、製糸之法方始万端大変改無之候ては決而相成申間敷候、先書ニも縷々申進候通、繭は品位糸之生合等ニ至り候ては聊モ仏伊之品位ニ相劣り候義は無之、第一は製糸之機器之相違より優劣は不得止義ニ候得共、従来之本邦製糸法方ニても、随分進歩之いたしかたも差当可有之、織物場始リヨン表抔ニて売買之実際抔目撃聞見ニては何共遺憾之至ニ候、全く内地之小民製造人は不申及浜港始各部之商人実際之損益商法と申事更に不知ニより幾許之損失ニ一歳之高ニて相成候哉不容易之至ニ候、数量ニも商事も今一層御配念為邦家御尽力有之度候、且又瑞西ニ於て数ケ所屑繭出売キビスより製糸之機器モ相見、其法方始品物之遣向織物向等も取調申候、右機械は別而本邦ニ於ては必要之様見請申候、愚考候処右機械建築其之同々織物之夙ニ製糸候て全く前書之屑糸始両三品ニて内地之人民衣用ニは十分引足可申、左候て本邦ニ於て出産之分は不残輸出ニ相成候訳ニ成行、御承容之通御国之衣服は夏向ふと糸之向ニて欧州は総而十分糸生を相撰ミ、尤も薄向茂第一之上品も多くて織物も称美候、風習彼我之都合向不向等計算候て是又不容易之事ニ可有之候
    副啓
御令閨君兎角ニ御小恙も有之候由、嘸々御差支之義と奉遠察候、如何さしたる義ニも無之哉、御療用大切と奉存候、日増ニ春色も相満候折ニは墨江向島之夕景抔ニて御補養何寄ニ可有之候、乍去人は楽之極は苦、苦は楽と申事、矢張昔歳田舎ニ独居内ニて数々困苦外ニは良人之事等痛苦起居之積ニ相成候事第一之療治とも又々存候、御令郎は日増ニ御成長之由祝賀不過之、嘸々方今ニ御愛楽ニ可相成と奉遠想候
旧冬ニ廟上各省とも御内情も有之候様子、乍去井上君ニも春来は御出省総テ御折合宜敷由可賀之至ニ候、先々賢台ニも方今之場合満都之依頼不得止義今暫時は月給取被成度其内ニは好機も可有之事と存候、小子如きは全く無用之輩兼而御内話も有之候通是非共帰朝之後は衣食は簡易ニていたし度、何歟彼是其向見聞尽力有之候、帰朝之後は衣食位は外人之資給茂請、月給取不致候共出来可申と心配有之候
弊宅之義万端御高配多謝此事ニ候、老人も未タ出府無之由田舎好ニは困入申候、尤も起居等は随意何れ之地ニ有之候とも只々好ニ任せ候迄
 - 第14巻 p.450 -ページ画像 
元よりニ候得共、兎角ニ冷水好ニは困入申候何卒折も有之候て御話被成下度祈候、小児之義先便ニて殊之外心配いたし候処今便ニて案堵仕候、何卒可然妻奴共江も御省顧祈上候
御改暦ニて春も寒風ニ吹れ候計と之由、乍去人心春は春と申事付而は花開之節も自然寛々嘸々何歟好春遊も可有之と奉想像候、小子抔も仏府江遊、幸ニ仲春好時節ニ候得共、第一ニは御手当之少々より小遣ニ引足不申、加之ニ言語は不通、一として取べき事無之始末故、遂ニは有名世界第一之シヤンゼヱリゼイ又はブユルバールイタリヤン之探花モ一度モ出来不申終天之遺憾とは真ニ此事ニ候、右は源根失張省之酷よりと想像各省之物議司法省之云々も相察し申候 呵々已上
    青淵賢兄               蘆州拝
          几下
  書外公事は陸奥頭江申進候間、御承知有之度祈候 已上
  ○コノ書翰ニオイテ本文ト副啓書ハ夫々一枚ノ紙ニ記サレタリ。コノ副啓書ハコノ本文ニ附属セシモノナルヤモ明ラカナラザレドモ、ソノタタミ方及ビ、本紙ニ宛名ナク副啓書ニアルヨリシテ、或ハ一組ノモノナルベキカ。


(渋沢喜作)書翰 渋沢栄一宛(明治六年)四月二九日(DK140052k-0004)
第14巻 p.450-451 ページ画像

(渋沢喜作)書翰  渋沢栄一宛(明治六年)四月二九日
                     (渋沢子爵家所蔵)
    従四月廿九日伊国美羅濃表
拝啓愈御清粛ニ可被為在候条恐賀此事ニ候、陳は本月十九日差出シ候一書は御高覧被成候義と奉存候、蚕卵之義先書縷々申進候通先々余り多数出来無之方可然と奉存候、数々情態も有之右等景ニ情至り候ては書中にも尽しかたく、万端目撃推考之義ニも有之愚慮も申述候上御高案除々御配算之方ニ可有之と奉存候、方今当国も早場之地種も発生之期、然ル処発虫甚タ悪敷と申評説ケレモナ申ロンバルジヱ州之南部ニ有之候得共、漸各商人とも売渡し之分四五歩ならでは発虫不就由、ピニー申商人より売渡し候分は百分之三位発虫之由ニて右伝聞よりロンハルシヱ・ピヱモン両州も殊之外養蚕人騒然種抔持参彼是目利之事抔申入候者も有之候、商人も大心痛何共悪敷評説ニて心配いたし候、小野持参之分も少々同所ニ於て発虫悪敷と申様子此は発輝といたし不申候、今日より七八日之内ニは両州も総して発虫可申と存候、乍去上品之分は敢而心配之事も有之間敷、已ニ前所ニ於ても一両商人より慥ニ小子も心得居候品は充分発虫候と申事今夕承知いたし申候
富丘も弥御開場出来之糸御廻し篤と各商人織屋江も器械抔ニて取調候処、伊国上品と正ニ優劣も無之全く同位却而秩父仕入繭之分は糸生伊国より百分之四分より六位強く光沢は同様ニ有之候、併し先書ニも申進候通品位優劣取調候ニはリヨン之外無之候間、不日同所江も出向候積尚可申上候、伊国ニ於て取調之大略は陸頭江価等之割合迄方今之処申進候間御承知被成下度候
偖同場之義は実ニ起源より万端老兄之御配算数々之論義も有之到底如何可有候哉、甚タ小子ニ於ても懸念心痛も仕候処、先之前書之品位ニ開場直ニ出来候義全く望外とも可謂義ニて、此一事丈は方今之普通語殖産之真理義ヲ尽し候と申候ても可然哉、実ニ為邦家可賀一件ニ有之こ
 - 第14巻 p.451 -ページ画像 
とは此事ニ奉存候、乍去諸費も多々目前之損益は如何候哉も難計候得共、右は法方次第何れニも相成候義小子も暫時出向何歟腰ため之考抔いたし繭始彼是努力甚タ懸念有之候処漸く安堵嘸々老兄ニは御満祝ニ可有之と奉存候、先は近況之義得御高慮候 草々頓首々々
    青淵閣下                 喜作拝
  二白井上閣下江も可然御申上被下度此段祈上候
  使節御一行も瑞西より五月中旬ニは伊国御出張之由昨日田辺子より来書有之候、当節はデ子マルク御留居之由云々


東京日々新聞 第四〇五号〔明治六年六月二三日〕 富岡の製糸ハ名品なる説(DK140052k-0005)
第14巻 p.451 ページ画像

東京日々新聞  第四〇五号〔明治六年六月二三日〕
    ○富岡の製糸ハ名品なる説
伊太利国在留租税寮七等出仕渋沢君よりの来翰に、上州富岡製糸場にて出来の生糸御廻し相成不取敢当所其筋の者へ一見致させ各所糸品試験の器械にて品位を調査《ギンミ》せしに、彼国最上の生糸と同位にて更に甲乙これ無し彼国人も大ひに感心せし趣なり、流石に名誉の産物殊にハ当節盛に勧業あそバされけれバ製糸人も勉励熟達して、終にバ《(マヽ)》世界第一の名品と称せられん事ハ期して待へきなり


(渋沢喜作)書翰 渋沢栄一宛(明治六年)八月二〇日(DK140052k-0006)
第14巻 p.451-452 ページ画像

(渋沢喜作)書翰  渋沢栄一宛(明治六年)八月二〇日
                     (渋沢子爵家所蔵)
拝啓愈御清廸御奉事被為成候条奉南山候、然は四月十四日小野善助代云々蚕卵直約定小子取計方御達書当月十八日相達拝見敬承仕候、右は商法ニ於て実ニ御至当蚕卵之義是非とも行々は左様無之候ては決而為御国ニ於て相成間敷夫是愚考推案之義も右商法ニ於て有之、過日来申上候義も有之候次第ニは候得共、此事も当表養蚕人と商人之取組振情実等目撃探知候ては㝡大之事件之様深得失等勘弁仕候、真ニ右商法開業候ニは第一ニ根元組立方より夫々注意到底之得失見込も略決意ニより施行ニ取掛り不申候ては万端実際上ニ至り見込之通りニも相成兼候は勿論別シテ卵之義数万之人民ヲ相手ニいたし寒暖気候之異同より同様精撰之品ニても豊凶と申事も有之、早卒一朝一夕之見込推案より開業今年と明年と源根之着意相変《(マヽ)》し候様之義、万一有之候ては内地之事務とも相違、且は御国名ニも関係彼我交際ニ於て不容易次第も出来無比之名産位価ヲ却而落し候様之義も有之間敷哉、御高案之通右商業之大意は他策有之間敷と乍失敬小子ニても愚慮も仕候得共、其ノ施行実際ニ於て篤と源元之見定も承知御賢案之体をも委曲敬承不仕上は、同様小野無比之巨商ニ候とも目撃探知之情実等篤と帰朝拝話之上ニ無之候ては御達之件々奉事も仕兼、委曲陸奥頭江申述候間可然御海容伏仰候
何歟早卒之愚見より折角之御達しニ違背候姿深く恐悚之至ニ候得共、右は聊情実探知過慮之余り深く到底之義懸念之微意より申上候義ニ御坐候間、右商業施行之義は乍失敬不日小子義帰朝候間一応拝語之上御施行有之度呉々も申進候、依而は井上閣下江も可然賢台より御執奏被成下度伏願候、書外寮頭並ニ古川江申進候間夫是御高推之程願候、右得高慮度如此ニ候 匆々頓首敬白
  八月廿日認                喜作再拝
 - 第14巻 p.452 -ページ画像 
    青淵賢兄
          乕皮下
  二伸小子も弥明後廿二日伊国発途仏国リヨン表ニて生糸並同国蚕之義取調、夫より英府米国廻り是非と八月一日サンフランシスコ出帆之郵船ニて帰朝仕度、夫是都合罷在申候
  ○蚕之景況見込輸出種多少云々之義、過日之電信愚考之義同様陸奥頭江申上候間、御承知之事と存候
  ○別ニ御達之云々奉事仕兼候件々、是又小野都合も可有之と存、同様電信申進候義、御承知之事と奉存候 以上
  ○留守宅之義可然御致声祈候 以上


(渋沢喜作)書翰 渋沢栄一宛(年月日未詳)(DK140052k-0007)
第14巻 p.452 ページ画像

(渋沢喜作)書翰  渋沢栄一宛(年月日未詳)  (渋沢子爵家所蔵)
    副啓
小子も明日発車博覧場江遊覧仕度存居候間此段可然御許容祈上候、尤往返とも八日間位蚕も繭ニ相成は六月上旬と被存候得は何様出発取急候ても七月中帰帆と被存候、是非とも米国廻り仕度心懸居申候、弊宅之義可然何も不馴之妻奴已可然御願申候、富丘場之糸は一度はリヨン表ニ於て商ひいたし見申度、何分ニもあまり少し之差送ニて各所取調見本も出来がたく困却いたし候
○生糸も追々下落いたし候、右等も古川江も申送候間同人より御聞取之程祈候
                       喜作拝
    青淵賢契
           乕皮下
  尚々陸奥頭より数々申越之一書相届不申候、前後之書已相届了解致兼候廉多々困却云々
  ○本書翰ニオイテ、本文及ビ副啓ハ各一枚ノ紙ニ記サレタリ。シカシテコノ副啓書ハ果シテコノ本文ニ附属スルヤ明ラカナラズ、シカレドモ用紙ノ大イサ、内容ナラビニ宛名等ヨリシテ、一組ノモノナルベキカ。


竜門雑誌 第三四六号・第一八頁 〔大正六年三月二五日〕 ○実験論語処世談(廿二)(青淵先生)(DK140052k-0008)
第14巻 p.452-453 ページ画像

竜門雑誌  第三四六号・第一八頁〔大正六年三月二五日〕
    ○実験論語処世談(廿二)(青淵先生)
     喜作洋行して小野組に入る
○上略
 依て私○栄一は、兎に角一度洋行して来るが可からうと勧め、又当人○喜作に於ても、未だ一度も行つた事が無いから是非爾うして欲しいものだとの希望があつたところ、翌る明治五年蚕糸業取調べの名目で、伊太利へ留学仰付けられる事になつたのである。然し、蚕糸業取調は単に名目だけのことで、実際は欧洲の状況を視察するにあつたのだが明治六年に帰朝して見れば、私は既に大蔵省を辞して民間に下り、又井上さんも辞職してしまはれたので、栄一も井上さんも居らぬ知己の乏しい官界にあつたからとて、別に面白くも無い故、自分も官途を退きたいとの事であつた。之れには私も同感であつたから、喜作は帰朝早々官を辞することになつたのであるが、私には当時既に銀行業に従
 - 第14巻 p.453 -ページ画像 
事しやうとの意志があつたので、喜作と私と同じ事を行るでもなからうと私より喜作を小野組糸店の総管古川市兵衛[古河市兵衛]の参謀に推薦したのである。然し不幸にも翌七年に至り、小野組は破産して倒れたので、喜作も小野組を去らねばならぬやうになつた。○下略


青淵先生伝初稿 第七章五・第六一―六二頁〔大正八―一二年〕(DK140052k-0009)
第14巻 p.453 ページ画像

青淵先生伝初稿  第七章五・第六一―六二頁〔大正八―一二年〕
 ○大蔵省出仕
    渋沢喜作の伊太利派遣
渋沢喜作は箱館の戦敗れて縛に就き、東京に幽せられしが、後赦免せらるゝや、先生之を大蔵省に薦めて勧農司七等出仕となしたりしが、明治五年十月製糸・養蚕等の調査研究を命ぜられ、租税寮八等出仕中島才吉と共に、生糸の産地として名高き伊太利に赴けり。蓋し製糸の改善発達を図り、且つ之によりて貿易の利を興し、将来の国富を期するにありて、先生が井上と謀議計画の結果なり。然るに喜作が帰朝せる時は、先生辞職の後なりしかば、喜作も亦官を辞して野に下り、海外に学びし所を実行せんとて、生糸の輸出貿易に従事し、斯業の為に尽せること大なりしは下文にいふべし。



〔参考〕古河市兵衛翁伝(五日会編) 第三一―四八頁〔大正一五年四月〕(DK140052k-0010)
第14巻 p.453-458 ページ画像

古河市兵衛翁伝(五日会編)  第三一―四八頁〔大正一五年四月〕
 ○本紀
  第四章 小野組在勤時代
    一、井筒屋小野店に仕ふ
 文久二年、養父太郎左衛門が中気発病の為め、糸買附けに福島に下れぬ身となつたので、翁は単身発足する事となつた。出発に際して、翁は養父に向ひ、商売上の注意を求めた処が、日頃厳厲なる養父も、「お前は私が是迄見届けて置いたから、何も云ふ事はない、万事宜敷頼む。」との一言を吐いたのみであつた。この信頼の言葉に対して、翁は感激の涙に咽ばざるを得なかつた。
 郷里を発足して、翁は京都の小野本店に到り、糸店の重役に面謁して、養父の発病の事情を陳べた。その時重役は、「古河さんも中風になられて気の毒だ、が併し一両年お前の様子を見るに、中々大丈夫だと安心して居る。此地の商況は月六回通知するから、これを見て駈引をして、どうぞ旨くやつて呉れ。」と、奥州に於ける糸の買附けを翁に一任した。翁の抜け目なき才幹は、峻厳な養父の信瀬を贏つたばかりでなく、糸店重役の鍳識に叶つて、幾多の古参者を抜いて、一躍して買附主任の要位に就くことゝなつた、翁の得意想ふべしである。これが翁の正式に小野店に仕へた最初であつて、翁時に歳三十一。
 この後の翁は主として福島江戸の間を往来し、生糸横浜輸出の危険な取引に没頭したので、殆ど江州の養家を省するの暇が無かつた。明治元年四月に、養父太郎左衛門は歿した、その時翁は帰郷して自ら葬送の事に当つた。
 翌明治二年、翁三十八歳の時に小野宗家は翁に別宅を申附けた、別宅を申附くるとは、井筒屋の暖簾を分けて分家に昇格させる事で、前
 - 第14巻 p.454 -ページ画像 
葉○写真略スに掲ぐるのは宗家より翁に与へた一札である。その文面は、
      覚
  一金弐百両
  右者今度別宅申附候に付
  末々為手当差遣可申候《すゑずゑてあてとして》
  尤右金子年五朱之利を加へ
  預り置候併勤柄《しかしつとめがら》により可致
  減少勿論於不埒不勤
  有之は此書面可為反古候以上《このしよめんほごたるべく》
    明治二巳年
       八月八日  善助花押
      市兵衛殿
 文久二年より明治二年迄七年にして、所謂中年者の翁が小野の如き旧格古式を重んずる店の暖簾を許さるゝに至つたのは、異数とも云ふべきであらうが、次節に掲ぐる生糸輸出取引の翁の殊勲は、当然この抜擢に値ひしたものなのである。
    二、生糸輸出
 翁入店以前の小野糸店の営業は、主として西陣織及び丹後縮緬の原料糸の供給であつた。然るに当時の急迫せる国情は、生糸市況に甚だしい変動を与へたので、国内の取引は需要激減せるに反して、安政六年の神奈川開港に伴つて、生糸の海外輸出取引は卒然として興つた。
開港の初年には生糸の輸出高五千俵なりしもの、文久三年には二万五千俵に上るの盛況を呈した。翁は偶々この時代に、小野店の生糸買附けを専掌する事となつたのであるが、小野本店では断じて外国商館との取引を禁じた。翁の直話に、「その時分は、糸の相場は主に横浜から起つたので、京都はモウ一向商ひの方が細くなつた。京都へ持つて往けば損をするものも、横浜の商館に持つて往けば、一梱に就いて三十両や五十両位は必ず儲かつた。けれども京都の店では斯かる商売を承知しない。横浜の商館売込に関係してはならぬぞと、重役から厳重に言付けられて居るから、どうも横浜と関係を開く訳には行かなかつた。」とある。
 併し、京都の重役が商館取引を危倶してこれを厳禁したのも、当時の情勢として亦無理からぬ処であつたのである。抑も安政六年の開港以来、外国関係は一時小康を得たが、国内の攘夷党はこれを以て、幕府が外夷の虚喝に畏怖し、勅に背きて城下の盟をなし、国家の面目を傷けたるものと痛憤するに到つた。加之、貿易開始以来三港より輸出する生糸・茶・蝋・油其他の雑貨は驚くべき数量に達したので、尤も募府は条約に於て米・麦・銅等には特別の制限を加へたけれども、一般の貨物の輸出は自由であつたが為め物価頓に昂騰し、一定の俸禄に衣食する士人は殊に困厄を極めたのであつた。士民がこの禍根は一に幕府の開港条約に存するものとなして、幕府を恨み、併せて外人と取引をする商人を敵視するに到つたのも、亦自然の勢であつた。
 かゝる時世に於て天下の嗔視反感を顧みずに、生糸の輸出取引にたづさはる事は可也危険な仕事であつた。商人の内には梟首された者も
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あり、生糸蔵を焼き払はれたものもあつた。井筒屋本店の重役も何時浪人が闖入するかも知れぬと戦々兢々として別仕立の飛脚を以て頻々と、翁に対し生糸輸出厳禁を訓令したが、翁は其訓令に頓着せずに、主家井筒屋の為めに盛んに横浜取引に従事して巨利を収めて居た。
 翁は横浜以外に兵庫の外国商館にも手を延して、井筒屋大阪支店を通じて、生糸の取引を行つた。当時大阪支店に在つた木村長七の談話に、「明治元年の夏、私(長七)が大阪の支店に滞在中に東京の古河翁から、仙台の上等糸二十八梱到着致した。これを神戸に持ち込んで外国人に売りたいが、維新早々のことで外国貿易が許されるかどうか分らないので、其交渉の済むまで船に積んで、天保山沖に留めて置く事になり、私が其番人に行つた。」とある。然るに、玆に翁の兵庫取引に関聯して一挿話がある、それは戊辰の頃、新政府の財政を司つた子爵由利公正氏の伝に、「明治元年四月、車駕に随うて京に帰る、予め計画したる金策は多く失敗し、出兵先の窮困甚しく、加ふるに、兵庫に於ける仏人暴殺事件は償金一万弗而かも外貨を以て支弁せざるべからざるの災禍に遭遇す。然れども外貨を求むるの途なく殆んどこれが処置に窮せしが、其時幸ひにも、小野糸店に於て生糸の売却によりて得たるものありしを以て、其立替によつて漸く之を解決するを得たり。」とある事で、これと前掲の木村長七談とを綜合する時に、翁の兵庫商館との生糸取引が偶然にも外人暴殺事件の賠償金を拈出し得たるものである事を知り得るのである。
 翁の生糸輸出は糸店重役の憚る処であつたが、莫大の利益を小野店に寄与した事は、次に抄する小野組総理小野善右衛門氏の手記に徴しても知られる。
 「安政の初め外国交際初めて開きてより通貨の吹増海岸防禦等にて為替用達の運転頗る不自由を極む。元治度に至り京阪金相場騰貴して金融益々切迫す。是を以て為替金の業は一朝大に衰へたり、然れども生糸の商業は繁昌す、是即ち外国人に売渡すを以てなり、その国益を起す大なりと雖も此頃諸藩士の間に攘夷論頻りに行はれ外国人と取引を為す者を目して奸商と擯斥し、既に二三の生糸商家を打毀すあり。
斯の如き時勢と雖も断然此業を廃せず、頻りに勉強せしは他なし、宗家の本業たる為替名目金漸次衰微すればなり。」
 この手記の通りに、安政以後に於て小野家が為替業衰微の為め窮境に陥つた時、これを救ふ可きは生糸の横浜取引の一途あるのみなので小野宗家は、陽には店の方針として生糸輸出商売を禁制し、陰には、翁を督励して小野家の為めに横浜取引に努力せしめたのである。次に掲ぐる翁の直話は、この間の消息を伝へると同時に、当時の翁の活躍を窺知せしめるものがある。
 「私共は京都の言付けを破ることになるから、京都から預けられた金では到底糸を横浜にやることは出来ない。そこで地方に先き物と云ふ物があつて、糸を引取つてから、一月先の代金払で約定する、之を十分纏めて、さていよいよ横浜に引出さうとすると、遂に他の者に知られたから、その事情を打ち明けた処が、横浜に口を開けて呉れては大に困るが、儲かるものならドンドンやつて呉れと云ふ許しを得たの
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で、一生懸命にやつた。尤も三度に一度は損のいくこともあつたが、先づ其時分糸を百梱買ひ附けて江戸へ来ると、それを売れ売れと横浜から外国人が買ひに来る。そこで売つては儲けが無いから、吉原などに往つてトボケた顔をして、別手を以て他の外国人へ口を掛けるといふ様な手段を用ひ、中々其辺の駈引をして、其年に何んでも元金二万両かそこらしか預けられなかつたが、七万両は儲かつたと云ふことで大変私の働きを賞美して呉れ、褒美金を貰つたことがあつた。」
 「右様の次第で、大なる商売を機敏に働くには一刻を争ふので、途中で暇取つては居られぬから早馬を仕立て、その馬に跨つて飛出して福島から江戸まで三日目に這入ることを度々やつた。斯うして年々生糸売込みの事業を拡張して、維新の頃迄には、随分手を拡げたものである。」
 右の直話にある如く、維新前後の翁は、福島と江戸との間を常に往来したので、福島に於ては前に述べた如く、山口屋を定宿とし、江戸に来たときには、日本橋瀬戸物町の島屋といふ飛脚問屋の向ひ側なる路次の突当りの家をば足溜りとしてゐた。そして小野の糸店は、最初は日本橋伊勢町にあつたが、明治三年九月に瀬戸物町に移転し、それと同時に翁は糸店内に居を移して、東京定住の身となつたのである。
    三、築地製糸場創設
 翁が幕末より明治初年に亘つて、盛んに生糸の輸出取引に鞅掌した時に、思当つた事は蚕糸品質の改良統一といふ事であつた。
 製糸業改善奨励の議は維新改元後に於て官民の間に熾んに論ぜられたのであつて、明治三年二月、時の政府は斯業奨励の令を民部大蔵の両省に下し、官営の模範的工場を設立せんとする廟議を決したのであつた。
 是より先き、前橋藩主松平直克公は、藩士速水竪曹氏に製糸改良の研究を命じたる結果、洋式製糸場を開設する事に決して、横浜シーベル・ベルモール商会の斡旋の下に、明治三年六月、瑞西人ミューレルを、俸給一ケ月墨銀三百枚、任期四ケ月の条件にて傭聘し、工場建設監督の任に当らしめた。然るに、藩中に外人雇傭を非難する者多く、ミューレルの身辺危きに及んだので、前橋に工場を建設する事を中止して、南勢多郡岩神村に、木製六人繰の製糸工場を新築して、前橋製糸場と名づけた。時に明治三年九月、本邦に於ける器械製糸工場の嚆矢と伝へられて居る。同年十月ミューレルは任期満了せる為め、前橋藩の傭聘を解かれて横浜に立ち戻つた。このミューレル技師を、翁は直ちに雇入れて、東京築地入舟町に、製糸工場開設に着手したのである。当時の事情は次の直話によつて明白に知ることが出来る。
 「生糸と云ふことに就いては、養父の関係から多少経験も持つて居たから、どうか此生糸を外国に輸出するに就いても、思ひ思ひに各所で出来る不揃の糸と云ふことでなく、一定の糸を拵へたいと云ふことは、常々自分の思込であつた。其頃横浜にシーベル商会と云ふ有力な商館があつて、館主シーベルと云ふ人に、自分の生糸の改良の思惑に就いて相談をした処が、それは随分良い考へである、どうしても日本の糸と云ふものを一定の品位にして外国に売出さねは、非常に損耗が
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あるから、器械製糸に力を入れてはどうかと云ふやうな話になつて、私も予めさう云ふ良い器械があるならば、一つ改良して見たいと云ふところからして、シーベル商会の館主に依頼して、瑞西人のミューレルと云ふ人を雇ひ、東京の築地に製糸場を設けることにした。」
 翁の創立せる築地の製糸場は最初の規模は六十人繰りであり、後に九十六人繰りに拡張されたので、前橋製糸所が木製六人繰りの試験的工場であつたに比すれば、築地工場こそ本邦に於て、真に工場の名に値する製糸設備の嚆矢と云つて然るべきなのである。当時の東京人は製糸器械の新奇なのに驚目し、その工場の有様は、早速に三枚続きの錦絵として売り出された。次葉に掲げた「東京築地舶来ぜんまい大仕掛絹糸を取る図」がそれであつて、煙突の井桁の印は、井筒屋小野組の商標である。
 翁が年来の生糸取引の経験から、品質の統一を目的に、小野組をして率先的に製糸工場を開設せしめたといふ事は、翁が事業の遂行に当つて改善を要するものあらば、その根源に徹せずんば已まぬといふ事業方針を如実に物語るものであつて、翁は啻に福島から江戸へ早馬で乗附ける商売上のケレン師ではなく、この頃に既に大局の利害に徹する事業家であつた事も、この製糸場建設の一事によつて知り得るのである。
 併し、製糸工場として選ばれた築地は、同じ時代に丸の内の野原を牧場として選定したよりも猶不適当であつた。翁は直話に於て次の如く物語つて居る。「其時分は、東京の全体から云つても桑畠などは非常に沢山あつた時分で、又繭を拵へることも随分盛んであつたから、大丈夫製糸をしても引合ふだらうと考へた。処が段々やつて見ると、時勢の移り変りは烈しく、追々に桑畠も無くなり、繭も思ふやうに出ないと云ふところからして、初めの見込通りには行かなくなつた。」
 或は思ふに、工場の位置を築地に卜した事は、技師ミューレルの意見に基いたものかも知れぬ。前橋に於て危害を加へられんばかりに排斥された彼は、地方に出づることを虞れて、東京に工場開設を主張したかとも想像されるのであるが、結局する処、築地製糸場は位置の選定が当を得なかつたが為めに、収支償はず、明治六年六月遂に閉鎖して、建家器械を信州諏訪に移して、同地方洋式製糸の濫觴を成し、工女は奥州二本松に新設せられたる二本松製糸会社外数ケ所に送つて、ミューレル直伝の技術を各地方に伝へしめた。築地製糸場は斯くの如く不幸にして閉鎖の已むなきに到つたが、小野組の製糸事業は、これを以つて断絶したのでなく、同組が各県の為替方を勤めた関係上、蚕糸業保護奨励の大策に応じて、東北及信州各地の工場に投資し、経営に関与した功労は甚大なものであつて、明治五年に群馬県富岡に設立せられたる官営製糸場と、小野組経営の各地製糸場とは、本邦に洋式製糸法を輸入せる二大源流として認めらるゝ処である、而して、小野組に於ける製糸事業の経営方針は一に、糸店支配人たる翁の方寸より出でたのである。
    四、機画縦横
 横浜の生糸取引に成功した翁は、其後本店の厚き信認の下に、糸店
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の仕事をあらゆる方面に発展させた。苟も商機の潜む処には豊富な資本を活用して利を征する事を怠らなかつた。翁の縦横の機画によつて小野組糸店は今日の商事会社として進展したのであつた。
 明治元年、新政府は銅銭・文久銭・濤銭・天保銭の比価を改めた事がある、この時、翁はこの改正布達が未だ江戸に知られざるを機会として、上野の戦争中危険を冒して、小銭を極力買ひ集めしめ、京都へ送つて、比価の鞘を利した事の如きは、小手調べに過ぎざるものであつた。翁はこの歳に、生糸を大々的に買占めんと企てゝ、自身は病気の為め出張し得なかつたので、人を奥羽に急派して戦争中に生糸の買附けを試みしめた。然るにこの計画は直話に、「戦争中の危険な場合であるから、自分は病中ながら浅草蔵前の不動尊に、どうか成功するやうにと祈願して長い間精進潔斎した。処が、戦の後、生糸の相場は見込通り暴騰したが、出張した者は、戦さ怖ろしさに、此方からの仕送り金を宿屋の蔵に仕舞ひ込んで、一つも糸を買はなかつたと云ふ馬鹿げた事で、今から思ふと笑ひ話です。」とあるやうに、滑稽なる失敗に終つたのであつたが、上野の戦争続いて奥州の戦乱に際して、飛耳張目、一攫千金の奇利を博さんとした翁の意中は、明治元年八月京都の生家に宛てたる翁の手柬に「奥州合戦すみ、商内《あきなひ》にては日々心配斗仕居申候《ばかり》、併し商人は軍の中に商内の勝利も有る事故、夫にて色々商内方心配仕申候、よくばりなれども商人仕方なき事に御座候。」とあるによつても知り得る。
 糸店の主要なる事業として翁の企てたるものは、米穀の商売であつた。小野組が米穀を取扱つたのは、明治三年租税米納を廃止し金納とする令が下つた時、為替方を勤めた関係上官民の便宜の為、各地の産米を引請け売捌く一方には、租税を代納した事に端を発するのであつて、それが漸次に大量の見込商売に進み、明治四年に既に東京深川に於ける取扱高が半季十八万円に上つたといふことである。猶、翁の直話にも、「明治七年に秋田酒田地方に於て約十万石の米の買附けをなし、東京に輸送せんとする矢先に、偶々台湾征討事変が起つて、運送船は徴発され、買占めの目算に大に狂ひを来したが、多少の利益は収むるを得た。」とある。以て取引の規模を窺ふことが出来る。
 併し、翁の小野組時代に於ける商取引中、一攫千金の水際立ちたる手腕は、明治五年に於ける蚕卵紙買占の時に、最も鮮かに発揮されたと云ふべきである。
○下略


〔参考〕翁の直話(五日会編) 第四九―五〇頁〔大正一五年四月〕(DK140052k-0011)
第14巻 p.458-459 ページ画像

翁の直話(五日会編)  第四九―五〇頁〔大正一五年四月〕
    一九、蚕卵紙の買占
 明治五年頃と覚えますが、先きに申しましたシーベル氏の申すには「欧羅巴の中で、生糸の産地と云はれて居る伊太利、仏蘭西などでは本年は非常な不作であつて、蚕の種が非常に不足を告げたといふことであるから、本国から態々買ひに来る筈である、就いてはどうか一つお前の力で十分種紙を買入れて輸出してはどうだ。」といふ話があつて、其頃私の友達の中、渋沢栄一君其他の方々にも色々事情を探知し
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て貰つた処が、その話は実際のやうであつたから、大にその機会を得ようと思うて、当時全国に出来る種紙の半高くらゐを買占めました。
その枚数は小紙にして六十万枚、本紙にして三十万枚、一枚の価が本紙で三円で、それを買つて売捌きました。
 ところがその残りは、とても横浜の商館を相手にしてはいけないから、態々人を伊太利へ派出して、直輸出を計りました。幸ひに、思惑通りに行きまして、前後の販売高に依つて凡そ四十万円足らずの利益を得ました。これは種紙の売買が始まつて以来、先づ前後にない処の商ひ高でありました。
 斯ういふ工合に、生糸に就いては養父の時代からして私に取つては余程縁故のあることで、日本の生糸業に対しては、多少の歴史を持つて居ります。