デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
28節 貿易
10款 聯合生糸荷預所
■綱文

第15巻 p.75-80(DK150004k) ページ画像

明治14年11月1日(1881年)

是日栄一、益田孝ト共ニ横浜町会所ニ開カレタル横浜生糸聯合商人及ビ荷主総代ノ総会ニ出席シ、過般行ハレタル米国公使トノ会談ノ模様ヲ伝ヘ、総会ノ決議ヲ問フ。


■資料

東京日日新聞 第二九七〇号 明治一四年一一月四日 生糸直輸出の決議(DK150004k-0001)
第15巻 p.75-76 ページ画像

東京日日新聞  第二九七〇号 明治一四年一一月四日
○生糸直輸出の決議 明治十四年十一月一日横浜町会所楼上に於て聯合生糸売込問屋及各地方荷主総代一同にて臨時集会を開きたり、此日来会ありしハ売込問屋二十名、各地荷主総代四十一名、外に東京第一国立銀行頭取渋沢栄一・三井物産会社々長益田孝の両氏なり、午後第五時各員座定る時荷預所頭取ハ各員来会の労を謝し且曰く、今日各位の集会を要せしハ、曾て今回の紛紜に付本港の引取屋諸君より外国商館に向ひて仲裁を入れしに、今以て何等の返答なきを以て見れバ到底十分の場合にハ運バざるものならん、果して十分の場合に至らずとせバ自今何の方法を以て其目的を達すべきか、斯に其方法を定めざるべからず、故に本会に於てハ諸君十分の思想を吐露せられんことを望む抑も当荷預所を設立せし趣意ハ今改て演《のぶ》る迄もなく従来取引上に於て我々日本商人が外国の専横を蒙りし弊害を矯正して万国普通公平なる取引法を立んとするに外ならず、故に外商と雖も異議を立ることなかるべしと思惟せしに、豈図らんや彼ハ此挙を以て不当となし断然当荷預所の規則に遵ひて取引を為さゞるべしと広告し、爾後取引屋諸君《(引取屋)》の仲裁に対しても何等の回答なきハ実に我々の解し能ハざる所なりと雖も、最早今日の形勢にてハ既に港内に貯蔵せし者を始め自今追々入港すべき聯合中の生糸ハ当所に於て彼に売渡の望ハ絶たるものと云ふべし、故に此上の処置ハ海外へ直輸出を為し横浜市場を以て欧米に移すの外なしとす、是れ荷預所当初の目的に違ふと雖も既に当所に於て売捌く途なしとせバ勢ひ之を海外市場に提出して其販路を開かざるべからず、故に荷預所ハ諸君の決議に由りてハ自今更に其責に任じ畢生の力を尽して、荷主諸君の為めに荷為換其他輸出に関する一切の手続を担任し、諸般の計画を怠らざるべし、諸君果して直輸出の一方に決定せらるゝ以上ハ輸出の都合により少数荷物ハ交互売買し其等級を一にし、又ハ区分する等の手続ハ最必要なれバ別に諸君と協議を為し競市場の如き者を設るも亦要件ならんか、諸君併せて考察を吐露せられんことを乞ふ、且過日来媾和の事に付米国公使より渋沢栄一・益田孝の
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両氏に照会あり、同氏等ハ此紛紜に付資金其他非常の配慮あり、最も関係多き方々なれバ此に臨席を請へり、其米公使と談判の摸様ハ同氏より親しく承られたしと述べらる、此時渋沢栄一君ハ人々に対ひ、今日荷主諸君が団結盟約して飽迄聯合の目的を達せんと期せらるゝハ外商にハ何様の害を与ふるも日本商人さへ利益あれバ善しとせらるゝにハあらざるべし、必ずや正理公道に由て団結せられしハ余が信じて疑ハざる所なり、去れバ諸君ハ飽迄その正理を貫ぬかんとせらるゝか将た無理が通れバ道理引込の俗諺《ことわさ》に従ひ、彼の不当に屈従せらるゝの意か、此二つの中孰れにか決せざるを得ず、諸君果して其正理を貫かんと欲せバ直輸出の挙に一決し、其方法順序を定むべし(以下次号)


東京日日新聞 第二九七一号 明治一四年一一月五日 生糸直輸出の決議(前号の続)(DK150004k-0002)
第15巻 p.76-77 ページ画像

東京日日新聞  第二九七一号 明治一四年一一月五日
○生糸直輸出の決議(前号の続) 是余が聊か卑見を陳して諸君の決意を希ふ所以なり、而して米国公使と談話の一条ハ頃日公使より此紛紜を生じたる実情を聞かんことを望まれし故、此荷預所ハ決して日本商賈の私利を謀る為にあらず、従前取引上の弊を洗除し彼我公同の便利を得せしめんと欲するにあり、尤も場所の如きハ或ハ便利を図るべきハ余が保証する所なりと述べしに、公使ハ果して然らバ外国商人ハ何故に之を拒むやと問ハれたり、余対て曰く、蓋し外国商人ハ日本商人中二三の者が壟断の利益を営まんとするに出たりと推測し之を破らんと図りたるものならん乎、今や我聯結ハ全国に波及し尚ほ益々鞏固ならんとするの勢ひなり、此一事を以てするも二三者の私心にあらざるや明かなり、左れバ双方より委員とか総代とかの資格を具ふるものを出し協議せしめバ媾和の道もあるべしと答へしに、公使ハ其意を領したれども、表向きの協議となりてハ他に憚る所ありとて尚ほ懇切に余に付き談話を為さんと望まれ、即ち明日にも面話すべき筈なり、斯る場合なれバ今日此席に於て諸君の決意を承ハるハ頗る都合よしと演べられたり、此に於て荷預所頭取ハ更に前説を敷衍し、且外国人の駈引多き形跡を挙げ、現に我が聯合の勢ひ張弛に依て彼れ其意志を変ずれバ此時に当りてハ斃れて已むの精神を以て飽迄彼に対せざるべからず今幸ひ各銀行の助力を得て今年の新糸だけハ悉く引受るも之を左右するの資力を備へたれバ、此点ハ諸君の顧念を省せられんことを望むと述べらる、時に山梨県下総代依田孝氏ハ到底此中裁ハ行ハるまじ、何となれバ外国商人ハ只利己主義に執拗するものと察せざるべからず、因て公平無私の仲裁を容るゝも故らに之を左右し我結合を破らんと此際種々の計策を運らす者あらん、我等ハ彼等の計策に陥らずして益々結合の力を固ふすべし、故に最早此上ハ適宜の方法を設けて直輸出を謀るの外他に良策なしと述べて直輸出の挙を賛成す、信州友誼社総代田中忠七氏ハ凡そ売買ハ相互の利益を以て成立するものなれバ之れを買ハざれバ彼に利あらず之を売らざれバ我に利なし、故に一概に之れを売らぬと云ふハ少しく僻論に当れバ、我が望む所を彼に示し又彼の意をも聞き、若し彼れ飽迄も執拗我が望む処を拒まバ結局直輸出を以て我が目的を貫徹せざるべからざれバ、詰り其根本を直輸出と決し其方法を設くるハ飽迄賛成する所なる旨を述べ、又山梨県下総代若尾逸
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平ハ最早今日の情勢に迫りたれバ直輸出の計を運らすの外なしと賛成し、前橋敷島社総代喜多正雄氏ハ我より仲裁を求むるが如きハ頗る拙策にして却て彼を増長せしむるの恐れあれバ、此上ハ他を顧みず特に直輸出を為すべしとして之れを賛成し、其他追々賛成説ありて一も直輸出を不可とするものなけれバ、荷預所頭取ハ更に各員の起立を以て賛成の実を証せんと請ひたれバ、聯合売込問屋を始め各地惣代惣起立となれり、是に於て本議ハ外国人が荷預所の規則に遵て取引を為ざる限りハ現に今日迄入港せし生糸及び自今入港すべき生糸ハ都て直輸出すべしと決したり(以下次号)


東京日日新聞 第二九七二号 明治一四年一一月七日 生糸直輸出の決議(前号の続)(DK150004k-0003)
第15巻 p.77-78 ページ画像

東京日日新聞  第二九七二号 明治一四年一一月七日
○生糸直輸出の決議(前号の続) 時に田中忠七氏ハ荷預所に於て已に倉敷手数料を領収せざる以上ハ其諸入費ハ何を以て支弁するの見込なるやを問ハれたるに、荷預所頭取ハ当分の間蔵敷手数料を領収せさるハ已に諒知せらるゝが如し、其他荷預所の失費支弁方の如きハ未だ確定せる考案ハあらざれども、詰り此荷預所ハ売込問屋の設けしものなれバ我々売込問屋にて支弁すべきハ其義務なりと信ずる旨を答へ、且兼て横浜に競市場を設立せんとのことハ群馬県下諸君を始め望まれし所なれバ此際これを設立して此に於て此生糸をも取扱ハんか将た別に設くべきかとの問もありたれ共、其ハ此際荷主の便利を以て孰れ共協議の上決せんとの論に帰せり、此時益田孝氏ハ今回の場合に臨みたれバ飽までも聯合を固くし此目的を達せんことを希望するを以て、明日再び米公使に面談するに当りてハ今夕諸君決議の実況を報ぜバ大なる勢力を我に来たすを信ずるなり、一体荷預所創立の際に当りて外国商人等謂《おも》へらく、日本人ハ元来団結の力乏しけれバ我れ威力を示さバ忽地瓦解せんと、然るに今日全国一般聯合して此挙に応援せらるゝに至りしハ全く彼の意想の外に出しものならん、左れバこそ我々が談話せし所も稍く容れんとするの勢ひを表したり、然るに又昨今に至り却て仲裁を拒むものハ我が聯合の或ハ破れんことを推測したるによるならん、故に我が結合力の強弱を視て彼れ其所思を左右するを以て我が目的を達するハ今夕の決議にあり、此事たる啻に生糸取引上に止らず条約改正の如きも此精神を以て成否を卜すべし、我々ハ商人なり、又製産者なり、外国の交際に於て敢て関係なきものゝ如しと雖も決して然らず、即ち全国人民の此精神を奮起せしむるに非ずんバ其改正も亦遂る能ハざるなり、故に冀くハ諸君飽まで此団結を固くし当初の目的を達せられんことを演べられたるに満場拍手喝采して同意を表したり、又此時福島生糸結合商会惣代古関直紹氏ハ我同盟六十七名中三名程盟約に背きたる者あり、已に昨今ハ見本を外国商館に持ち廻り売込を為さんとするに至れり、如斯者ハ如何の処分を為すべきやと問ハれたれば種々討議の末、明二日荷主中より更に総代を出し荷預所に於て協議の上其詮議を為すべきに決したり、而して此総代ハ一県下若くハ一郡又ハ一組合より適宜に撰むへく、且此総代ハ荷預所に会し直輸出に付てハ欧米其望む所に従ひ之を分輸し、其前後緩急等成るべく荷主の所望を取捨すべく、尤其遅速によりて市価の高低あるハ所謂時の運にて
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決して遅速を以て論ずべきにあらざれとも、夫是れ能く斟酌し且差当り直輸出の手順方法、背盟者の処分等を商議すべしと云へり、斯く決したる後渋沢栄一君ハ今夕諸君の決議こそ我々の目的を達するの精神なれバ尚ほ益々団結を鞏固ならしむべき旨を述べて荷主の注意を望み次に荷預所頭取ハ川村伝衛・中村道太・原六郎の三氏より同伸社再加盟歎願書を添へ照会ありたるに依り、集議の上其願意を容れ再び聯合中へ加盟せし旨を報じ、且信州伊那郡生糸商五十五名ハ同盟団結して当荷預所を応援し我々の本望を貫徹せしめんとて同盟書を寄せ、併せて我々の労を慰せんが為め金百円を贈られたる旨を報道し、右畢りて一同退散したるハ午後第八時三十分なりき


中外物価新報 第四四八号 明治一四年一一月二日 【○昨日ハ横浜町会所楼…】(DK150004k-0004)
第15巻 p.78-79 ページ画像

中外物価新報  第四四八号 明治一四年一一月二日
○昨日ハ横浜町会所楼上に於て横浜生糸聯合商人及各地方より出港の荷主惣代一同の惣集会を開らきたり、今其概況を記さんに、同日は東京第一国立銀行の頭取渋沢栄一君・本社々長益田孝君も兼て此回の事件に付ては資本繰出し其他に付尽力あり、且頃日来米国公使と談話の事もありたれは荷預所よりの請ひによりて臨席せられたり、午後第五時頃各員の坐次定る時荷預所頭取渋沢喜作氏は各員に向ひ、荷預所設立以来今日迄の情況を述へ、且頃日来引取屋諸氏が媾和に尽力せられ其媾和の主要は現在の荷預所手狭にて不便なれは十分の建築出来迄は税関の倉庫か、若くは外国商館の倉庫を借りて荷預所の出張所とし、検査量目の掛改等の都合に不便なき迄の所に運はは、敢て外商に於て不同意のあるへき理なしとて其段を外商方へ云入れしに、其後何等の沙汰なしと云へは、先つ即今媾和の事は望むへからさる場合なり、最早斯く媾和も望むへからさる場合と成りし上は、現今荷預所及び各問屋に貯蔵し居る生糸並自今追々入港すへき生糸は当地に於て販路を得さるものなり、故に今日に当りては之れか所分を求むること最も肝要なり、荷預所役員等の考案に拠れは、之れを処分するは直輸出を為すの外他に得策あるへしとも思はれす、故に若諸君にして飽く迄も外商の侮辱を排し我か正当の道理を守り固有の商権を占めんと欲し奮然直輸出の挙に一決せは、荷預所は最初の組織にはあらされと其直輸出に付ては荷為換を始め諸般の手続を担当し、事宜に寄りては特別に委員を海外各地にも派遣し其販売方に従事せしめ専ら輸出者の便利を謀らんとの考案もあれと、大体諸君の決意の在る所を知らされは其根元を定むること能はす扨こそ本日の集会を要したるものなり、諸君冀くは心胆を吐露し決意の如何を表されんことを望むとの意を述へ、時に渋沢栄一君は荷預所役員の請に応し出席したれは米国公使と談話せし顛末を述ふへしとて其要領を述へ、且此回の一条は諸君の荷預所の設立に於て十分の道理あるものと信せらるれは社斯く結合盟約して荷預所に応援せらるゝならん、果して然らは外商の之を拒むは毫も道理なきものと謂ふへく、況や引取屋諸氏の仲裁に対して何等のケ条が不同意なりとの事も示さす、只其決答を為さゝるものは畢竟我が聯合の破れんことを待つものなり、故に諸君にして俚諺に謂はゆる無理か通れは道理引込といふ薄弱なる気力にて全く敗北降旗せられんか、将た何所
 - 第15巻 p.79 -ページ画像 
まても公道正理に基き益々聯合を堅ふし外商を制せんかの二ツの者孰れか一に居らさるへからさる勝敗判別の界なれは、飽迄も道理に基き決定せられんことを冀望す、而して今夕の決議如何は直ちに外国商人の感覚にも侵入し明日尚ほ米公使に面話の筈なれは、其際の談話にも頗る関係あるものなりとの意を述へ、夫より各員中一二の質疑はありたれとも甲州信州上州等の人々は進んて直輸出を最も希望且賛成する所なる旨を述へ、只の一人も動議なく満場の賛成となりたれは、尚ほ念の為め起立に問ひしに惣起立にて飽迄も直輸出を以て此目的を貫くに決せり、而して益田孝君は各員に向ひ今日迄外国人の挙動を視るに一旦は頗る和解を求むるの色ありしも、昨今に至り却て其意を変せしは彼れ我が聯合中盟約に背反するものあるやの説を唱ふる者あるに由ると云ふ、故に我か結合力の強弱は直ちに彼の思想に感触すれは、只今諸君の決議を以て明日渋沢君と倶に米公使に面話するに当らは或は又媾和の運ひに至るべきか、取りも直さす今夕の議決は日本商人の声価を定むる者なり、諸君は益々団結を固ふし初志を貫徹せられんことを冀望する旨を述へ、夫より直輸出に付ての方法手順及荷主惣代中より別に惣代を撰んて日々荷預所へ詰め役員と諸般を商議すること等を議し、其他数件の報道もありて解散せしは午後八時頃なりき


雨夜譚会談話筆記 下・第八二一―八二六頁 昭和二年一一月―五年七月(DK150004k-0005)
第15巻 p.79-80 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第八二一―八二六頁 昭和二年一一月―五年七月
             ○昭和五年六月二十四日 於渋沢事務所
  第三十回
    一、紛争の仲裁に立たれた時の御気持に就て
先生「○中略それから此郵船会社の問題の外に、私が仲裁に立つた場合が沢山ある。けれどもその動機に於ては、決して一様ならず、或る場合には自ら進んで仲裁した事もあるし、又人から頼まれて間に立つた時もあつた。だから、一概に仲裁に立つた時の気持と聞かれても一寸困る。どうも同じ態度で、両者の間に折衝した事と云ふのは少ないヨ。殊に外国との関係で―何と云つたらよいか、そうだネ、マア商売関係で、日本の権力を拡張するとでも云つたらよからう―わいわい騒いだ事がある。それは明治十四年の頃と記憶する、横浜に私等が生糸荷預所と云ふのを設立した時の事である。外国商館と日本の売込問屋との間に面倒が生じた。譬へて云つて見ると、其頃の横浜に於ける生糸の売買は、昔風の反物あきんどと云つた具合でお出入り先きの奥さんの所へ反物を置いて、その翌日位『昨日の物は如何で御座いますか、御気に召しましたか』とお伺ひに出る。すると奥さんが『そんな事どころではないヨ。忙しくて反物を見る暇はなかつたヨ』と云つたら『左様で御座いますか。それでは又明日……』と云つて引さがる。こんな事をして昔は商売したものだが、横浜の生糸売捌きが丁度そんな具合だつた。横浜で生糸を買取る商館は其頃悉く外国の商館であつた。先づ信州・奥州・上州などの各処から生糸を横浜に売りに出る。すると外国商館はこれを一時自分の所に引込ませるのであるが、別に受取証書を与へるでもなく、又火災保険にも附けて呉れない。そして一方で本国へ電信で問合せて
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自国が景気が好ければ早く引取り、景気でも悪いと、ペケと云つて引込ませて置いた生糸を突き戻して仕舞ふ。又買取るにしたところが全部の品を取るときまつてゐない。勝手な云ひ掛りをつけて、半分も取らない事がある。それは当方にも、今日のやうな検査制度と云ふものがなく、其点落度があるにはあつたけれども、こんな事では安心して取引は出来ないと、横浜の売込問屋が、一斉に申し合せて外国商館に掛合ひを始めた。そして『従来の方法を改めなければ生糸の売買はせぬ』と申し込んだ、すると外国商館では『そんな我儘を云ふなら買はぬ』と云つて、互に睨み合つた。ところが売込問屋には地方から生糸の荷物を送つて来るが、これに対して金を出せない。そこで生糸荷預所を設けて、金融の途を附ける事にした。私も銀行家として大いに肩を入れたのであるが、謂つて見ると、日本の商売人の腰をしつかりさせるため、尻押をした訳である。併乍ら銀行家の力と云つても、其頃は微々たるもので、尻押しの力が不充分なため、大蔵省に願つて助力をして貰つた次第である。何でも其時は、松方(正義)さんが大蔵卿だつた。此悶着は八月から十一月までだつたと思ふが、すつたもんだやつてゐる内に、結局十一月の末になつて、亜米利加公使のジンガムと云ふ人が、あまり馬鹿らしいと仲に立つて呉れた。其頃までは、今日と違つて、亜米利加との取引は割合に少く、却つて欧羅巴の方へ多く生糸が輸出されて居つた。そして瑞西の商館で何とか云ふのが、可成り勢力を持つて、又一番横暴でもあつた。糸屋仲間で一番骨を折つたのは、原善三郎、茂木惣兵衛、それから渋沢喜作の三人で、銀行業者としては私が主として奔走した。尚ほその前に大隈さんが大蔵卿のとき、種紙の事で問題を生じて、私はその時にも種々骨を折つた事があるヨ。要するに、私は初めにも申した通り種々の問題に就て調停に立つた。そしていちいち気持も違つて居つた。けれどもその場合々々に臨んで必要と思つた時は必ず出て行つたと云ふ事だけは云へる。」
  ○当日ノ出席者ハ栄一・篤二・渡辺・白石・小畑・佐治・高田、係員岡田・泉ノ九名ナリ。