デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
28節 貿易
10款 聯合生糸荷預所
■綱文

第15巻 p.99-128(DK150006k) ページ画像

明治14年11月18日(1881年)

聯合生糸荷預所ト横浜外国商人トノ間ニ起リタル紛議ニ就キ、栄一、益田孝等ト共ニ和解ニ努メ来リシガ昨日紛議解決シ、是日ヨリ取引ヲ再開ス。


■資料

(聯合生糸荷預所)電信 東京銀行集会所宛(明治一四年)一一月一七日(DK150006k-0001)
第15巻 p.99 ページ画像

(聯合生糸荷預所)電信  東京銀行集会所宛(明治一四年)一一月一七日
                 (東京銀行集会所所蔵)

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 明治 年送達紙   スベテ               ヨロツマチ   出   発局  □報            ギンコウ    レンコウ      第四五七号           シウカイ   キイト      ヨコハマ分局            シヨ   ニアツカリ      十一月十七日                    シヨ      午九時四十分      字数二十三字         ジウブンナルワカイデ   着局 第外三十一号         キタイサイユウビン      [img 図]日本橋電信分局印 分局      十一月十七日      十三七   技術ケン 





東京銀行集会所所蔵文書(DK150006k-0002)
第15巻 p.99 ページ画像

東京銀行集会所所蔵文書
    広告
横浜聯合生糸荷預所ニ於テ外国商人ト紛議ヲ生セシニ付、当集会所同盟各銀行ハ右結局迄ノ間、聯合組合人名外ノ荷受ト可相成生糸荷為替ハ一切取組サルコトニ決議セシ段広告致置候処、今回和解相整候ニ付爾後一般ノ取引差支無之候間、各地生糸製造及売買ニ従事セラルヽ諸君ニ此段更ニ広告候也
  明治十四年十一月            銀行集会所
                   (「東京、銀行集会所」罫紙)

 - 第15巻 p.100 -ページ画像 

渋沢栄一外二名 書翰 大阪銀行集会所宛(明治一四年)一一月二三日(DK150006k-0003)
第15巻 p.100 ページ画像

渋沢栄一外二名 書翰  大阪銀行集会所宛(明治一四年)一一月二三日
                  (東京銀行集会所所蔵)
一翰啓上仕候、時下秋冷之候各位愈御清適奉賀候、然者横浜港生糸紛議ニ付荷預所ニ御応援之義者御集議之上三拾万円御出金之事ニ御決定相成候得共、其間電報之行違等も有之送金之御用意ハ行届なから其御運ニ相成不申候内荷預り所之方和解相整候ニ付、送り金之義は御見合之事ニ御決議相成候趣最後之御電報ニて承知仕候、尤も荷預り所之方へハ貴方ヨリ御応援之義兼々申通置候ニ付、譬へ和解相整候とも資金之供給ハ相望ミ候由ニ付、去ル十六日一書を呈し置候得共行違ニ前書電報も相達し候ニ付、先方へも其趣ニ相答置申候間、最早今日ニ於てハ御送り金等は相望ミ不申事ニ御座候、此段御承知可被下候、右御応援之義は貴方ニ於て之御集議ニより御心配相成候事とハ奉存候得共、最初当方三名より申上候廉も有之候ニ付、右事件結局ニ際し前段陳謝旁呈一書候 匆々頓首
                      渋沢栄一
  十一月廿三日              安田善次郎
                      原六郎
    大坂銀行集会所
          御中
             (「東京、第一国立銀行」罫紙)


渋沢栄一 書翰 大橋半七郎宛 明治一四年一一月二三日(DK150006k-0004)
第15巻 p.100 ページ画像

渋沢栄一 書翰  大橋半七郎宛 明治一四年一一月二三日
                   (大橋半七郎氏所蔵)
  明治十四年十一月廿三日
○上略
横浜港生糸売込方ニ付外商との紛議ハ九月十五日より差起り種々之面倒を生し一時ハ大葛藤ニ及候ニ付、本店抔も荷預所応援之為巨額之貸出金も取扱、拙生ハ時々出港相談もいたし中々尽力仕候処、幸ニ本月ニ入候而外商も少々挫屈いたし、其間引取商連中之中裁ニて漸和解行届昨今ハ平時之如く取引候訳ニ相成申候、乍去生糸景気ハ外国相場割合よりハ内商之気配強く候故先薄取引ニ候、夫故ニ目下生糸之為メ金融ハ世話敷姿ニ御坐候、而して円銀も之ニ関し何分低下と申様子ハ無之候、併前文之葛藤程克折合候ハ大幸福ニて尽力之甲斐有之候、委細ハ新聞紙ニも縷述候ニ付文略仕候
○中略
                      渋沢栄一
    大橋半七郎殿


東京日日新聞 第二九八三号 明治一四年一一月一九日 ○生糸紛議の和解(DK150006k-0005)
第15巻 p.100-102 ページ画像

東京日日新聞  第二九八三号 明治一四年一一月一九日
○生糸紛議の和解 世に轟きたる生糸紛議の件に付き、兼て仲裁媾和に尽力ありし引取商総代木村・中村・堀越の諸氏をはじめ十名より左の約定書案を荷預所と外国生糸商へ送りて其の意見を問合されたり
    約定書
 外国生糸商人ト日本生糸商人トノ間ニ生ジタル紛議ノ義ニ付、日本
 - 第15巻 p.101 -ページ画像 
舶来品引取商人ヨリ仲裁申入レラレタル左ノ条々ヲ承諾候也
    第一条
 日本商人ハ便利ナル場所ニ於テ、共同倉庫一ケ所ヲ便利ニ建築シ、其規則章程及用意ヲ整フル等ノコトハ、日本売込人ト外国買入人トノ間ニ協議ヲ遂ケ、以テ相互ヒニ売買人双方ノ権利ヲ保全スルノ満足ヲ得、而テ生糸売込上一般ノ方法ヲ改良スルニ於テハ之ヲ承諾スヘシ
    第二条
 生糸見本ト均一ノ品ヲ渡スヘキ事
    第三条
 前二ケ条ノ事業整頓ニ至ルマテ生糸撿査ノ為メ売込人ハ外商ノ倉庫ニ持込ヘシ、外国買入人ハ其撿査ヲ完ク終ルマテ荷物預リ証書及ヒ火災保険ノ証書ヲ渡スヘキ事
    第四条
売買ヲナスニ当リテハ双方ノ記名シタル約定証書ヲ取替セ、其書面ニハ代価及撿査ノ為メ許シタル時間又売込人ヨリ至当ナル生糸ノ品位ヲ渡スヘキ旨ヲ記載スヘキ事
    第五条
 斤量掛渡ハ公平ニスベシ
    第六条
 紛議ヲ生ジタルトキハ双方ヨリ一人若クハ数人ノ裁判人ヲ撰ヒ之ニ従フベキ事
右に対し荷預所にてハ異存なきよしにて左の回答を為したり
 今般日本生糸商人ト外国生糸商人トノ間ニ生シタル紛議一条ニ付、諸君仲裁ニ御立入、右媾和ノ儀ニ付別紙趣意書相添御来諭ノ趣承諾仕候、依テハ右条款ノ趣意ヲ以テ双方約諾相成候上ハ一同異存無之候也
  明治十四年十一月十六日
又た外国生糸商も同しく異存なき旨を回答して会頭トム、トーマス氏より猶ほ左の如き書面を贈りたり
 昨夕商法会議所ニ於テ開キタル生糸聯合商会ノ会議ニ於テ左ノ通リ決議致候間拙者ヨリ御報告申上候也
 今ヤ引取商人ト外国臨時委員トノ間ニ於テ取極メタル約束箇条ヲ承諾ス
 右取極メタル約束書ハ左ノ如シ(前の案なり)
                  右会議会頭
  十一月十七日
                      トム、トーマス
    横浜引取商人総代
     中村惣兵衛殿始十名殿
右に付引取商諸氏より書面の写を荷預所へ送り外商の解合たる趣を報じたれバ、荷預所にてハ左の報道を東京始め各地方への取引先へ出したり、其文に曰く
    和解報道
 本年九月十五日当生糸荷預所開業以来当港外国生糸商人トノ間ニ生
 - 第15巻 p.102 -ページ画像 
シタル葛藤ノ儀ハ、要スルニ従来生糸取引上ニ就キ外商ノ専横ヲ抑制シ其弊害ヲ矯正シテ以テ公平至当ノ売買法ヲ定メントシ、然カシテ外商ハ飽迄旧慣ヲ保守シ我荷預所ノ規則ニ従テ之ヲ買ハザルベシト云フニ起リタルモノニシテ、我輩決シテ争ヲ求ムル者ニアラズト雖モ、万一此挙ニシテ蹶跌スルガ如キコトアルニ於テハ我邦ノ商権ハ殆ント回復スルノ期ナカルベク、実ニ貿易上ニ於テ不容易関係ヲ有スル儀ト思惟シ、終ニ之ニ応ズルノ策ヲ施シ正理ニ依リ公道ニ訴ヘ飽迄其目的ヲ達センコトヲ計画シタルニ、幸ヒ各地有志者ハ皆挙テ此挙ヲ賛成セラレ之ヲ今日ニ維持スルヲ得タリ、然ルニ当港引取商諸氏ハ此紛議ノタメ内外商業上ニ云フベカラザルノ損害ヲ生センコトヲ憂ヒ、彼我ノ間ニ媾和ヲ申込マレタルニ、外商モ亦漸ク我輩ノ主唱スル処果シテ正義ニ違ハサルヲ知リ、終ニ諸氏ノ仲裁ヲ容レ別紙約定書ノ如ク昨夜外商ノ総会ニ於テ之ヲ承諾シタルニ依リ、今十八日ヨリ此約款ニ基キ彼我ノ間取引ヲ開クニ至レリ、嗚呼此挙ヤ我輩不肖其局ニ当リ日夜汲々其事ニ従フヲ怠ラサリシト雖モ、各地有志諸君ノ賛成微カリセハ焉ゾ今日ノ好結果ヲ見ルヲ得ンヤ、今ヤ媾和ノ顛末ヲ報道スルニ当リ我輩謹テ玆ニ其厚意ヲ鳴謝スルコト如此 頓首謹言
                聯合生糸荷預所取締役
  明治十四年十一月            馬越恭平
                      朝吹英二
                      茂木惣兵衛
                      原善三郎
                      渋沢喜作
是にて久しき葛藤も爰に全く和解を見て昨十八日より従前の如く取引をなすに至れり、猶ほその悉しきハ本日の社説を見るべし


東京日日新聞 第二九八三号 明治一四年一一月一九日 生糸紛議ノ和解(DK150006k-0006)
第15巻 p.102-104 ページ画像

東京日日新聞  第二九八三号 明治一四年一一月一九日
    生糸紛議ノ和解
横浜ニ於テ内外商人ノ間ニ結デ久ク解ケザリシ生糸ノ紛議ハ全ク和解ニ帰シタリトノ報道ヲ得タルハ一昨夜ニテアリシガ、既ニ印刷ニ附シタル時ナリシカバ昨日紙上ニ於テ看者ニ報ズルヲ得ザリキ、左レバ是ヨリハ愈々双方売買ニ着手シ昨ノ寂寥ヲ訴ヘシ市場モ今ハ繁盛ノ景況ヲ現ズルニ至リシナラン、今此和解ノ顛末ヲ略記セバ去十五日ヲ以テ外商聯合ノ会議ヲ開キ、キンドム氏之ガ会長トナリ従来ノ顛末ヲ委ク報道シテ衆員ノ意見ヲ問フ、是ニ於テウオルシ氏(米一)ハ渋沢栄一・益田孝二氏ノ説ノ如ク中央市場ヲ設クルハ最モ宜シカルベシ、何トナレバ内外商人双方ノ権利ヲ保全シ壟断ノ弊ナク専売ノ患モ無ク貿易ノ昌盛ヲ永遠ニ致スニ足ル者ニシテ、前途ノ福祉ヲ享クベキ者ナレバ外商モ又奚ゾ之ニ従ハザルノ理アランヤトノ意味ニテ長キ演説ヲナシタリシカドモ、之ニ賛成スル者無クシテ廃案トナル、然ルニウオルタ氏(英一)ハ更ニ横浜生糸取引商総代中村・木村・堀越・三浦・杉村・大浜・本多・薩摩・前川・柿沼等諸氏ガ仲裁ノ意ニ随ヒ共同倉庫ヲ設クルノ制ヲ定メ、即チ別紙約定書ノ案文ノ如ク(別紙約定案ハ本日ノ
 - 第15巻 p.103 -ページ画像 
雑報ニ記スルガ如シ)スルコソ至極公正允当ノ事ナルベシト発言アリケレバ、此議ニハ賛成頗ル多ク多数ニ由テ共同倉庫ヲ設クル議ニ可決シ、而シテ後ウイルキン、ウオルタ、プンーゾル(百四十三番)ノ三名ヲ以テ委員トシテ引取商総代ノ仲裁人ト談判セシムルコトトシテ散会セリ、又前同様ノ紹介ヲ引取商総代ヨリ日本聯合荷預所ニ向テ申込アリシカバ我日本聯合商ニ於テモ承諾シタル旨ノ回答アリ(其回答書モ亦本日ノ雑報ニ記載ス、参看スベシ)
翌十七日ノ午後外商聯合ノ面々ハ再ビ商法会議所ニ集会シタリ、是ハ前ニ記セル三名ノ委員ト仲裁ヲ申込タル引取商総代トノ談判果シテ如何ナリシヤヲ聴クガ為ト聞エタリ、而シテ我仲裁引取商ハ聯合荷預所ニ於テモ一同異存無之旨ノ回答ヲ得タル由ヲ報道シタリ、ウイルキン氏ハ右ノ約束ノ通リ承諾スベシト発言シ、ウオルター氏ヲ始メ多数ノ賛成ニ由テ愈此約定案ノ如ク承諾スル事ニ決ス、バビール、キンドムノ両氏ハ共同倉庫ニハ不同意ナリトイヒテ、断然此聯合ヨリ退去シタリ、而シテ聯合外商ハ相議シテ曰ク、此聯合ハ解散スベキニアラズ、何トナレバ此聯合ヲ維持シ愈々約定ノ如ク実行セシムル事ヲ督励セザルベカラズ、委員モ亦其任ヲ解カズシテ日本商人ト協議談判スル等ノ事ヲ負担セシメザルベカラズト議決シタリ、又我聯合生糸商モ之ニテ和解スベシ、聯合ヲ維持シテ解散セザルベシト決セシハ去ル十五日ノ臨時会ノ決議ノ如シ(其議決ノ条々ハ載セテ去ル十七日ニ刊行セル本紙雑報ニ在リ)
如此ノ次第ナルヲ以テ生糸ノ紛議ハ全ク其局ヲ結ビテ和解調整シタルハ吾曹深ク仲裁ニ入リタル諸氏ノ労ヲ謝シ且ツハ紛擾ノ平穏ニ帰シタルヲ賀スル所ナリ、此共同倉庫設立ノ事ヲ行ハルヽニ至レバ我従来ノ目的ヲ達スルヲ得ベキモノタル吾曹ガ前ニ屡陳説スル所ノ如クナリ、而シテ差向キ現今ノ場合ニ在リテ約定書第三条以下ノ文面ニ記載スルガ如クナラバ、取引上ニ於テモ都合好ク之ヲ従来ノ形状ニ較ブレバ実ニ著ルキ改良ヲ致セリ、是他ナシ其能ク如此ナルヲ致セシ所以ノ者ハ実ニ内商聯合ノ功績ナリトシテ祝セザルベカラズ、又前途ニ於テハ約束書第一条ノ如クニ履行スルニ至ルヲ得バ日本商人ノ大勝利ト謂フ可キ事ドモナリ、其然ル所以ハ我生糸商ノ始メ聯合シテ荷預所ヲ設ケタル所以ハ、今マデ外商ノ占有スル所トナリタル商権ヲ奪還シテ之ヲ我ニ壟断センガ為メニハアラズ、素ヨリ彼我双方同等ノ権理ヲ保全シテ公平中正ナル売買ヲ為サント欲スルニ出タル事ナレバナリ
今ヨリ後チ外商ヲシテ彼ノ約定書ノ如ク実際ニ履行セシムルハ最モ緊要ノ事ナリ、我聯合ノ盟約ニ与カリタル所ノ人々ハ、諺ニ所謂勝テ兜ノ緒ヲ締メヨト謂フコトヲ遺忘スベカラズ、彼ノ約束ヲ実地ニ行フ事ナクシテ猶ホ従来ノ習弊ヲ沿襲スルガ如キコトアラバ、此二ケ月間多少ノ困難ヲ忍ビ若干ノ辛酸ヲ辞セズシテ外商ト対塁シ千計万慮セシ所ノモノモ全ク泡沫ニ帰セントス、就中要用トスルハ速カニ共同倉庫ヲ建築スルニ在リ、共同倉庫トイフモ中央市場トイフモ、或ハ取引所トイフモ、名コソ異ナレトモ其実ハ同ク生糸荷物請渡ノ場所タルニ外ナラズ、左レバ此倉庫建築ノ場所摸様等ヲ彼聯合外商ノ委員ト直チニ談判ヲ遂ゲ、又之ガ規則・方法・順序・手続等ヲモ遅滞ナク協議スルハ
 - 第15巻 p.104 -ページ画像 
今日ヲ以テ好機会ナリトス、若シ荏苒日ヲ送クルトキハ外商中ニモ異議多ホカルベク我聯合ニ於テモ自ヅカラ土崩瓦解ノ姿トナリ、折角約定ヲ結ビタルモ遂ニ何ノ所詮モ無キ事ト成リ果ベシ、山ヲ為クル九仭功ヲ一簣ニ虧クヲモ古人ハ之ヲ不可トセリ、何況ヤ此共同倉庫ノ事タル是ヨリシテマサニ山ヲ築カントスル場合ニシテ今ヨリシテ聯合ノ実効ヲ見ハサントスルノ時ナルニ於テヲヤ、故ニ吾曹ハ再ビ此紛紜ノ和解ニ至リタルヲ賀シ、併セテ和解シタル上ハ此機ヲ失ハズ速カニ共同倉庫ノ建築ニ着手シ、一日モ従来ノ目的ヲ達スル準備ヲ修整スルコトヲ忽セニスルナキヲ冀望スト云爾


中外物価新報 第四五三号 明治一四年一一月一九日 【○久しく結んて解けさ…】(DK150006k-0007)
第15巻 p.104 ページ画像

中外物価新報  第四五三号 明治一四年一一月一九日
○久しく結んて解けさりし横浜生糸の葛藤も、引取商諸氏の尽力により漸く昨十八日媾和の結局を見るに至りたり、右に付き我生糸商人と外国生糸商人との間に取換はしたる、約定書及荷預所よりの和解報道書・生糸売込問屋よりの披露書等を、玆に記載して他日の記念に供せんとす
○中略
右は衆議差したる異論もなかりしと云ふ、尚ほ荷預所と協議の上確定に至るならん、偖今回の葛藤は実に開港以来商業上未た曾てあらさる大葛藤にて、終局何の時にあらんかと窃かに前途を顧慮せしは独り吾吾のみにあらさるべし、然るに引取屋諸君の尽力により今日斯く満足すへき結果を見しは荷預所役員諸君の百折不撓拮据励精せられしに因ると雖も、地方荷主諸君の確乎不抜の結合力あるにあらすんは安んそよく如此を得んや、冀くは売込問屋諸君は自今益す外国商人との交際を親密にし公平の取引を是れ務め、荷主諸君は此機を以て其主眼たる製糸を改良し仮令何れの市場に至るも真正の価格を以て自由に販売し得られんことを勉められよ、吾々慶賀の余り玆に其労を謝し併せて贅言を呈すること爾


中外物価新報 第四五三号 明治一四年一一月一九日 【本紙第四百五十号に…】(DK150006k-0008)
第15巻 p.104-105 ページ画像

中外物価新報  第四五三号 明治一四年一一月一九日
○本紙第四百五十号に横浜生糸荷預所に出頭して諸般の協議に与る各地方の荷主総代云々と記したる生糸糶市場設立の件に付、頃日横浜倉庫会社より当社に於て設立せし市場は、荷主総代の議決を待つに及はす、況や荷預所の認可を得る等の事は有間敷儀にして、事実相違の廉不少は至急取消すへしとて該社規則書・願書等を添へ厳重なる照会ありたれど、記者も倉庫会社の企あることは当時現に伝聞し居れど生糸聯合に関係あるにもあらされは未た世上に報道もなさゝりき、而して前に云へる糶市場なる者は倉庫会社とは全く別種の者にて生糸内外商人の葛藤結んて解けす、荷主惣集会にて直輸出と決せしに付聯合商人中にて交互貿易の途なけれは小数を所有する荷主等にて直輸出に不便なる事もあり、又品位を区分し相当の荷嵩に纏るには是非とも彼れと此れとを合すの手段もなかるへからす、相対にては相場上容易に折合六ケ敷けれは一時其等の便宜の為め糶市場を設立せんと決議せしにて荷預所の其要点を是認せしも此れか為め脱荷等出来さるや否を認めた
 - 第15巻 p.105 -ページ画像 
るものなり、而して即時にも実施すへき運ひなりしか適度此際に方り外国聯合生糸商の一人仲裁人を以て意見書を贈り、往復の末直ちに生糸の取組を為すに至り和解の端緒を開らきたれは、遂ひに糶市場設立の件は決せし儘にて見合せとなりたり、故に決して事実に相違あるにあらす、又横浜倉庫会社の事を云ひしにもあらさることは一読して明了なるへしと存すれとも、数多の看客中或は混同見僻め居らるゝものあらんかと斯くは記しぬ


東京経済雑誌 第八七号・第一三二四―一三二五頁 明治一四年一一月一九日 ○横浜の紛議将に和解に帰せんとす(DK150006k-0009)
第15巻 p.105 ページ画像

東京経済雑誌  第八七号・第一三二四―一三二五頁 明治一四年一一月一九日
    ○横浜の紛議将に和解に帰せんとす
横浜の紛議に付き渋沢・益田の二氏が曩きに米国公使館に於てウイルキン、ウヲルシの二氏と談議して、互ひに此紛議の和解に帰せんことを謀りたるよしは前号に於て之を報道せるが如し、然るにウヰルキン氏には去る九日に至り、氏は一個人たるの資格を以て其意見覚書を我が仲裁売込商へ送り、其翌十日より氏は我が預所と取引を初めたるを以て、爾来は外商中にて続々此例に傚ふものゝ多きよしは、当時の諸新聞に見へたる所なり、蓋し此紛議の初めて横浜に起るや、外商は傲然として日本商の聯合を軽視し、日ならすして瓦解せんのみと期したりしに、何んそ図らんや、爾来我商人の此挙を援くるものは全国に普ねく、其葛藤の益々久しきに渉りて愈々我聯合の勢気を加るの有様なりしかは、外商は私かに其心算の齟齬したるに困惑したれとも成るべくは己れに有利なる約条を定めんと勉め、徒らに虚勢を張りて纔かに其同盟を維持したるの際なれば、我東京商法会議所の媾和委員なる渋沢・益田の二氏が中央市場を設立して互ひに其商権を保護し其取引を便せんとの議を建てらるゝや、外商は概ね之に同意したるが如しと雖も、唯た二三外商の之を不可なりとするものありて、為めに未た此議に決するの順序に運はざるは、内外商估の為めに誠に歎すべきなり、然るに彼のウヰルキン氏が独り我商人と和解して、其取引を始めたるは、能く正理公道の存する所を知るものにして、真に好ミすへしと雖も、頑迷にして飽くことを知らざる所の外商に取りては之が為めに大に其勢力を失はざるを得ざるが故に、外商同盟の委員たるバビール、トーマス、キンドムの三氏は去る十一日を以て書をウヰルキン氏に寄せて、痛く其挙措を詰責したり、然るにウヰルキン氏は却て大に之を忿り、断然同盟を退去し、且つ直ちに其返書を送りて復た他の外商をして一言すること能はざらしむるに至りたり、左れは六十余日の久しきに渉りたる紛議も今や漸く和解の端緒に就きたるものにして、遠からずして内外の取引を開くに至らんこと其れ期待すべきなり


東京経済雑誌 第八八号・第一三五六―一三五八頁 明治一四年一一月二六日 ○横浜生糸の紛議終に和解に帰す(DK150006k-0010)
第15巻 p.105-107 ページ画像

東京経済雑誌  第八八号・第一三五六―一三五八頁 明治一四年一一月二六日
    ○横浜生糸の紛議終に和解に帰す
本年九月十五日を以て横浜聯合生糸荷預所を開業せしより、内外生糸商の間に一大葛藤を起し、益々結んで解けざること六十余日の久しきに渉りたり、此間各地の商人は挙て之を応援し、銀行者は其資力を尽して融通を開き、新聞記者は筆力を極めて此挙を賛助し、世人の之を
 - 第15巻 p.106 -ページ画像 
称揚するの声は全国に返響せしかば、流石に私利に汲々として其飽くことを知らざるの外人も、糧尽き矢折れて転々其出つる所に迷ひたるに、恰も好し我か横浜引取商中屈指の諸君の痛く此紛議の久しきに亘りたるを憂へて、双方の間に中裁せらるゝあり、且つ東京商法会議所の媾和委員に於ても最も和解の儀に尽力せられしかば、彼の外商に於ても喜んで之れに応するもの益々多く、終に和解の儀に一決したり、抑も我商人が初め生糸荷預所を設立したるものは、唯た従来生糸取引上に慣行せる外商の専横を抑制し、其弊害を矯正して公平至当の売買法を定めんとするに止るものなれば、彼れ既に一歩を退て正当なる取引法に一致する以上は、吾れに於ては別に望むべきものなしとて、終に去る十七日を以て双方和解して左の条々を結約し、且つ之に次て我連合商估は売込上の手順、売込方心得等の申合規則をも決定せり、蓋し此紛議の如きは結局双方の損失を招く者たるに過きざるが故に、吾輩は当初に於て此事を述へて、此紛議の速に和解に帰せんことを望みたるなり、然るに爾来此紛議は六十余日の久しきに及び、為めに大に内外の商売を衰枯せしめたるは、実に歎すべきの至りならずや、然れども是れ既に過去の事なり、今ま之を喋々するを要せざるなり、吾輩唯た望むらくは中外の商估に於て、今後は愈々正実を旨とし、毫も取引上に不正の事なからしめて、以て再び斯る紛議を我市場に発せしむることなからんことを、是れ冀望の至りに堪へざるなり、今回の紛議の起るや、或る豪富なる生糸商は決て此同盟に加はるを為さず、且つ曰く、我商估等は動々もすれば商権恢復とか正理公道とか唱ふれども其実は我商估に於ても欺詐を事となし、粗悪なる商品を売買し、実に其弊の云ふ可らざる者あるなり、既に余の如きは多年来外商と生糸を取引すれども、未た一度もペケに逢ひたることなし、左れば我商估等が数度のペケに逢ふ者は、畢竟其商品の粗悪なるが為めにして、其責は却て吾れにあり、然るに我不正を不正とせずして、徒らに外商の不正を匡正せんとするは、誠に片腹痛きこと共なりとて、私かに我商人の挙を嘲笑したる由なり、此言や或ハ其実を得ざるに非るべし、記して以て我商估の一針となさんとするなり、今ま玆に中外商估の約定書及び我商估の申合規則を挙くること左の如し
    約定書○前掲(第一〇〇頁)ニツキ略ス
    申合規則
今回内外商ノ紛議和解ヲ以テ其局ヲ結ヒ、彼我約定書第一款ニ基キ、追テ共同倉庫ヲ建設スルニ至ル迄ハ、其売買取引ハ外国商館ニ於テ行フベキニ付、此際我輩同業者ハ従前取引上ノ弊風ヲ破リ、大ニ売込方法ヲ改良シ、以テ外商ニ我輩業務ノ公正ナルヲ示シ、其信用ヲ博スルハ、荷預所設立ノ素志ヲ貫徹スルニ於テ、最モ緊要ノ策ナリト信スルガ故ニ、自今専ラ其売込ムベキ商品ニ不正ナキヲ期シ、其売込方ノ正実ナルヲ旨トシ、我輩同業者ハ玆ニ協議決定スル所ノ事項左ニ排記スルガ如シ
    売込上ノ手順
一各店ニ於テハ見本同様聊不同無之荷物ヲ以テ、売買約定ヲ成スニツキ、品位撿査ノ時日ヲ取極メ、則チ売買双方ノ記名シタル約定証書
 - 第15巻 p.107 -ページ画像 
ヲ為取換置ベシ
    売込方心得
一外商館内ヘ荷物引込ム時ハ、荷物預リ証書及ヒ該荷物ニ火災保険ヲ附シタルノ証書ヲ請取ベシ(但シ荷物引込ノ当日撿査ヲ終リ取引ヲ済マスモノト雖モ、荷物預リ証書ハ必ス請取ルベシ)
    荷造方
一提糸 一口ノ生糸十箇以下ハ平等ニ造リ、其内何レノ箇ニテモ一個ヲ見本トス、拾個以上ハ品位ニ従ヒ等級ヲ(一等・二等・三等)区別シ、等毎ニ一個ヲ見本トナスベシ(但シ四等・五等ノ疎製ノ品ハ除扣シテ別口トナスベシ、且ツ拾個以上トイヘドモ荷主ノ適宜ニ因リテ平等ニ造トモサマタゲナシ)
一器械糸 壱口ノ生糸五箇以下ハ平等造リニ壱個ヲ見本トシ、五個以上ハ品位ニ従ヒ等級ヲ(一等・二等・三等)区別シ、等毎ニ壱箇ヲ見本トス(但シ四等以下ニシテ度違ノ品ハ除扣シテ別口トスベシ、且ツ五個以上ト雖モ、荷主ノ適宜ニ因リテ平等ニ造ルトモサマタゲナシ)
一鉄砲造 地方ノ荷造問屋元銘ニ付一銘毎ニ一箇ヲ見本トス(但シ銘実相違アリ、或ハ上中下本数外ノ悪品アル時ハ、除扣シテ別口トナスベシ)
一掛田糸 其品名毎ニ区別シ、上中下一箇ヲ見本トナスベシ(但シ商標同一ナルモ品位ニ等差アルトキハ等級ヲ区別シ、等毎ニ何レノ品ナリトモ一個ヲ見本トス)
    荷渡方
一撿査期日ニ至リ、不得止事故アリト認ムルトキハ、或ハ期日ヲ再約スル事モアルベシ
 荷渡ノ際売買約定直段ヨリ聊タリトモ直引致間敷候事
 荷物貫目改メ受渡シ在リ目通リタルベシ(但シ金巾袋籠等其都度必掛改メ正目ヲ引去ルベシ)
一総体ノ品位見本ト異ナラザルニペケヲ出シ、直押シヲナシ、悪意故造我儘ヲ申募ル時ハ、相当ナル立会人ノ仲裁ヲ請フベシ、若シ買主至当ノ仲裁ヲ客《(容)》レス、暴為ニ募ル節ハ、以後仲間一同該商館ト取引致ス間敷事(但シ売人ノ粗漏ヨリ、万々一モ相違ノ品現出セル時ハ売込屋月番立会セ、其粗漏ノ廉ヲ謝シ、該品持帰リ、其理由各問屋ヘ報告スベシ)


東京日日新聞 第二九八五号 明治一四年一一月二二日 ○調和の祝辞(DK150006k-0011)
第15巻 p.107-108 ページ画像

東京日日新聞  第二九八五号 明治一四年一一月二二日
○調和の祝辞 去る十八日聯合生糸荷預り所の役員並に仲裁諸氏・各荷主等が横浜尾上町の富貴楼に調和の祝宴を開きたる折り、荷預所の社員坂本守太郎[阪本守太郎か?]氏が各地方荷造所総代に換りて左の祝辞を朗読せられたり
 明治十四年十一月十九日ハ如何ナル吉日ゾヤ、内外生糸商ノ紛議モ玆ニ全ク和解ヲ告ケ本日諸君ト共ニ大舶ヲ浮ベ外商権ノ回復ヲ祝セントス、抑モ此和解タルヤ荷預リ所諸君ノ耐忍能ク其衝ニ当リ余輩不肖モ亦日夜汲々其事ニ従フテ怠タラザリシト雖トモ、亦引取問屋
 - 第15巻 p.108 -ページ画像 
諸君ガ仲裁其当ヲ得ルニ非ザルヨリハ焉ゾ能ク今日ノ好結果ヲ見ルヲ得ンヤ、余輩謹テ各位ノ功労ヲ鳴謝セズンバアル可カラズ、依テ聊カ玆ニ媾和ヲ祝賀シ併セテ各位ガ功労ノ万一ヲ答謝スルコト如此
                各地荷造所総代ニ換リ
                      坂本守太郎[阪本守太郎か?]
又来栖惣兵衛氏が引取商総代に代りて祝辞を述べられ、朝吹英二氏が席上の演舌も有りしと云ふ、其会の摸様ハ定めて盛大なる事なりしならん、又本日ハ仲裁諸氏の催ほしにて町会所の楼上に祝宴を開き、各国生糸商人を始め内国生糸に関係ある人々を招待するよし


新聞集成明治編年史 (同編纂会編) 第四巻・第四九三頁 昭和一〇年六月刊(DK150006k-0012)
第15巻 p.108 ページ画像

新聞集成 明治編年史(同編纂会編)  第四巻・第四九三頁 昭和一〇年六月刊
  横浜生糸紛議
    仲直りの手打式
〔一一・二四○明治一四年朝野〕横浜生糸の紛議も、全く和解と為りしにより、右の仲裁に尽力せられたる引取商小野光景・木村利右衛門・杉村甚三郎の諸氏が総代となり、内外商人の和親を結ぶ為め、一昨廿二日午後九時より、横浜町会所に於て夜会を開かれ、其の席に列なるものは、内外生糸商人を始め神奈川県庁の官吏及び内外の新聞記者凡二百名計りにて、此夜公園にて絶えず花火を打ち揚げ、楼上には花柳の歌舞数曲を奏し、畢つて立食の饗応あり、木村利右衛門君は内外の賓客に向ふて、此の夜会を開くの主意を演説せられ、洋人の答詞もあり、目出度宴会にてありき。


東海経済新報 第四五号・第一六五二―一六五三頁 明治一四年一一月二五日 【久しく結んて解けざり…】(DK150006k-0013)
第15巻 p.108 ページ画像

東海経済新報  第四五号・第一六五二―一六五三頁 明治一四年一一月二五日
○久しく結んて解けざりし彼の横浜生糸紛議も前報紙上に記せし仲裁諸氏の尽力にて去る十八日全く媾和の局を結ふに及たり、右に付き我生糸商人と外国生糸商人との間に取換はしたる約定書及荷預所よりの和解報道書を玆に記載す
  ○「約定書」並ニ「和解報道」前掲(第一〇〇―一〇二頁)ニツキ略ス。


(阪本守太郎) 書翰 山中譲三宛 (明治一五年)七月一〇日(DK150006k-0014)
第15巻 p.108 ページ画像

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東京銀行集会所所蔵文書(DK150006k-0015)
第15巻 p.109 ページ画像

東京銀行集会所所蔵文書
 明治十四年十一月廿七日平清ヘ招待ヲ被ムリシモノ
第一銀行頭取     渋沢栄一
同 役員       佐々木勇之助
同 役員       須藤時一郎
同 役員       本山七郎兵衛
第三銀行頭取     安田善次郎
第五銀行支配人    市来広治
第廿銀行頭取     杉山勧
第四十五銀行頭取   朝比奈一
第六十銀行頭取    塩谷良翰
第百銀行支配人    高田小次郎
第百十二銀行取締役  田中洋之肋
第百十九銀行頭取   村瀬十駕
第廿七銀行頭取    渡辺治右衛門
安田銀行       安田卯之吉
 右同盟銀行
正金銀行頭取     中村道太
三井銀行       今井文五郎
同横浜支店      田村利七
第二銀行       下田善次郎
第七十四銀行     箕田長次郎
 右同盟外
銀行集会所      山中譲三
(以下別筆)
 但第三十銀行深川亮三氏ハ不参断アリシ由
右ハ十五年七月十日附ヲ以テ該荷預所阪本守太郎氏ヨリ取調方依頼ニヨリ、其十一日回報ト共ニ差廻シタル扣ナリ
                  (「東京、銀行集会所」罫紙)


東京日日新聞 第二九九一号 明治一四年一一月三〇日 広告(DK150006k-0016)
第15巻 p.109 ページ画像

東京日日新聞  第二九九一号 明治一四年一一月三〇日
    広告
横浜聯合生糸荷預所ニ於テ外国商人ト紛議ヲ生セシニ付、当集会所同盟各銀行ハ、右結局迄ノ間聯合組合人名外ノ荷受ト可相成生糸荷為替ハ一切取組サルコトニ決議セシ段広告致置候処、今回和解相整候ニ付爾後一般ノ取引差支無之候間、各地生糸製造及売買ニ従事セラルヽ諸君ニ此段更ニ広告候也
  明治十四年
                      東京銀行集会所
  十一月


東京銀行集会所半季考課状 第三回明治一四年七月―一二月(DK150006k-0017)
第15巻 p.109-110 ページ画像

東京銀行集会所半季考課状 第三回明治一四年七月―一二月
                   (東京銀行集会所所蔵)
    金融景況ノ事
当半季間金融ノ景況タル七月初旬ニ在テハ漸次繁忙ノ状アリシカ、中
 - 第15巻 p.110 -ページ画像 
旬ヨリ下旬ニ至リ復タ寛弛ニ属シ、八月ニ入リテハ稍繁忙ノ色ヲ呈シ金利亦随テ騰上セリ、且ツ下旬ニ及ンテハ時季ノ生糸出□《(荷カ)》ニ際シ追々引締リノ景況ヲ現セリ、九月初旬ニ於テハ前況依然タリシカ中旬ニ至リテ一旦寛ニ赴キ下旬復タ繁忙幾ント初旬ノ状況ニ一歩ヲ進メリ、十月ニ及ンテハ愈々必迫ノ色ヲ呈ハシ利息ノ割合ハ日々激昂ノ勢ヲ来セリ、是レ他ナシ、前月下旬横浜聯合生糸荷預所ニ於テ外商トノ紛事ヲ醸生セシニヨリ、各地方ヨリ横浜ニ輸送スル生糸ハ全ク其売買中止ノ姿ナルニ付、各銀行ハ其金融ノ壅塞センコトヲ憂ヒ勉テ荷為替若クハ貸付ヲ為シテ之ヲ開通センコトニ従事シタルニ原因スルナリ、十一月モ亦前況依然タリシカ、下旬ニ及ンテハ横浜生糸紛議和解ニ帰シ徐々生糸取引ヲ開キタルヲ以テ、之ヲ中旬以前ニ較スレハ僅カニ余裕ヲ生シタルモノヽ如シト雖トモ未タ利子ノ低落ヲ視ルニ至ラス、十二月ニ入リ当府下ノ金融ハ依然逼迫ナリシカ、各地方ヨリ国税徴収金ノ集リ来ルト前月生糸葛藤ノ和解ニ帰シタルト依リ、上旬ヨリ中旬迄ハ少シク余裕ヲ覚ヘタリト雖トモ、時已ニ年末ニ際シ商業決算ノ大節季ナレハ自ツカラ多額ノ金円ヲ要シ、殊ニ八九月頃ヨリ各商業共追々不景気ノ一方ニ傾キタレハ品物渋滞ハ本月ニ至リ益々甚敷、例年ヨリ一層切迫市中貸借ノ日歩ハ四五厘ナリ


東京商法会議所要件録 第四一号 明治一五年二月刊(DK150006k-0018)
第15巻 p.110 ページ画像

東京商法会議所要件録  第四一号 明治一五年二月刊
    明治十四年東京商法会議所事務報告
○上略就中玆ニ特書スベキ之件ハ横浜生糸紛議ニ関スル事務是ナリ、抑モ本年九月横浜生糸売込商ガ其売込法ノ悪弊ヲ改良スルノ目的ヲ以テ同港ニ聯合生糸荷預所ヲ創立シタルヨリ、忽チ中外生糸商人間ニ一紛議ヲ生シ、之カ為メ数月ノ間全ク其取引ヲ廃絶スルニ至リタリキ、蓋シ此事ヤ本会ニ於テ直接ノ関係ヲ有セズト云トモ、抑モ生糸ハ我国重要ノ国産ニシテ、其取引上ノ利害ハ全国商勢ノ進否ニ繋リ、実ニ傍観スベカラザルノ大事件ナルヲ以テ、十月十日臨時会ヲ招集シテ之カ応援方ヲ討議シタルニ、衆議ノ末終ニ正理ノ許ス限リハ之ニ応援スベシト一決シ、乃チ現任外国貿易事務委員ニ其方法ノ計画ヲ依托シ、委員ハ数回京浜ノ間ニ往覆シテ、或ハ海外諸国ヘ電報ヲ発シ、或ハ全国製糸者ヘ告知文ヲ頒布シテ、其聯合ノ気勢ヲ作興シ、其他各地商法会議所ニ通信シテ其応援ヲ怠ラザリシガ、終ニ十一月ニ至リ京浜紳商諸君ノ仲裁ヲ以テ漸ク其紛議ノ和解ヲ見ルニ至リタリ、此生糸紛議ノ事タル本年中ニ在リテ実ニ本会事務ノ要部ヲ占メタリト云フモ可ナリ
○下略


東京経済雑誌 第二三四号・第四五三頁 明治一七年一〇月四日 銀行局第四次報告 自明治十四年七月至同十五年六月(DK150006k-0019)
第15巻 p.110-111 ページ画像

東京経済雑誌  第二三四号・第四五三頁 明治一七年一〇月四日
  銀行局第四次報告 自明治十四年七月至同十五年六月
    第一款 総説
○上略上来論スルガ如ク本年度ノ商況ハ終ニ沈滞ニ陥リ更ニ活溌ノ象ヲ現ハサヽリシモ、十四年八月中横浜生糸荷預所創設以後内外商ノ間葛藤ヲ生セシヨリ、頓ニ東北地方ノ商局ヲ霍乱シ一時人心ヲシテ騒然タラシムルニ至レリ、抑生糸ハ我邦ノ首産ニシテ全国ノ輸出品ヲ挙テ其
 - 第15巻 p.111 -ページ画像 
右ニ出ルモノナシ、而シテ其価格モ亦遥カニ諸物価ノ上流ニ位スルヲ以テ其取引ノ伸縮ハ実ニ全国ノ商況ヲ動スニ足ルモノアリ、矧ンヤ荷預所ノ葛藤六旬ノ久シキニ亘リ生糸ノ販路ヲ遮絶シタルニ於テヲヤ、幾ント壱万余箇ノ生糸ヲシテ空シク横浜ノ庫中ニ委積セシメ、恰カモ数百万円ノ貨幣ヲ流通外ニ放擲シ、復タ使用セシメサルノ有様ヲ現ハシ、我商人ハ之ヲ支持スルニ金力ヲ以テシ以テ雌雄ヲ争ハントス、遂ニ一大商戦ヲ市場ニ現出セリ、是ニ於テ東京諸銀行ハ相聯合シテ荷預所ノ資本ヲ供給シ以テ我糸業ノ権利ヲ失ハサルヲ期シ、又以テ全国糸商ノ急需ニ応スルヲ務メ僅ニ之ヲ支持スルヲ得タリ、殊ニ産糸地方ノ銀行ハ外ニ回収スヘキ金員ナク、内ニ需要ニ応スル余資ナキニモ拘ハラス製糸家ハ新繭ノ価格近来稀ナル好景気ナルヲ以テ、荷物ノ底滞ニ屈セス益気勢ヲ張テ輸出ヲ試ミ屡其資ヲ求ムルモノ鮮ナカラス、既ニ輸送シタル荷物ハ販売ノ路ナキヲ以テ為換金ヲ回収スルニ由ナク、金融ノ窘迫名状ス可カラス、此際内国商人ハ漸ク内交易ノ不利ナルヲ悟リ頗ル外交易ヲ試ミントスルモノアリ、横浜正金銀行モ亦大ニ之ヲ誘掖シテ産糸地方ノ銀行ヘ資金ヲ給助シタルヲ以テ稍生糸ノ活路ヲ開キタルカ如シ、故ニ正金銀行海外荷為換ハ前年度ニ比スレハ四倍余ノ高ヲ増スニ至ル、十一月中旬紛議始メテ解クルト雖トモ外商尚ホ買収ノ意ヲ表セス嘗テ活溌ノ取引ナキ而已ナラス、十二月ニ入リ銀貨ノ価格俄然低落セシヨリ皆売扣ノ情況アリ、歳云ニ改マリテ取引尚ホ依然トシテ振ハス、而テ生糸ハ益其相庭ヲ堕シ銀貨モ亦常ニ低点ニ傾ク、是ヲ以テ荷主中生糸ヲ売却シタル後利息ヲ払フテ銀貨ヲ持堪ヘ為メニ二重ノ損失ヲ蒙ムリシモノアリ、三月ニ入リテ生糸ノ価格一層ノ低下ヲ来タセリ、当季ノ最低価格ヲ以テ前季ノ最昂価格ニ比スレハ幾ント四割余ノ差ヲ見ル、是ヲ以テ糸商ハ之ヲ支持スルニ力ナク遂ニ見切売ヲ為スモノ多ク、為メニ多少ノ購買者現ハレ外商モ亦漸ク買進ミノ状アルニ至レリ、蓋シ生糸荷預所ノ創設ハ外商ノ奸弊ヲ排斥シ以テ我商権ヲ恢復セントスルノ主旨ニ出ルモノニシテ、体面上遂ニ勝ヲ我ニ制シタルカ如シト雖トモ、対抗日ヲ曠フシテ徒ラニ商品ヲ滞積シ、為メニ大ニ商業ノ秩序ヲ紊リ内商ノ損害ヲ蒙ムル実ニ貲ラレス、銀行者モ亦タ其ノ金融ヲ蹂躙セラレ余毒延テ今日ニ至タリ猶ホ治スル能ハス、此ヲ我商業史上ノ一大変況ト謂ハサル可ケンヤ


竜門雑誌 第二二六号・第一―二頁 明治四〇年三月 ○二十五年前の経済界(青淵先生)(DK150006k-0020)
第15巻 p.111-112 ページ画像

竜門雑誌  第二二六号・第一―二頁 明治四〇年三月
    ○二十五年前の経済界(青淵先生)
 此篇は青淵先生が時事新報創刊二十五週年に就き同記者の請に応じて談話せられたる所にして本月一日即ち満二十五年当日の同新報紙上に掲載せられるものなり
生糸商と外国商館の紛議 二十五年前の事とし云へば何分にも歳月が長く経ちますので、追々に写真の影の薄くなる如くに記憶が薄らいで著しい事柄ならでは充分に記憶に残つて居りませぬ、従つて申上げる事柄は余程朧ろげになる虞れがありはせぬか、併し私が第一に記憶して居ることは明治十四年に生糸同盟荷預所を作つて外国商館と大紛擾を醸したことがあります、是れは其当時に於ける経済社会の一騒動で
 - 第15巻 p.112 -ページ画像 
其時分の人気を衝動せしめた、其起りは横浜で生糸の売捌に従事して居つた問屋連中が奮起したので主唱者は故人の原善三郎・茂木惣兵衛今尚ほ生存中の馬越恭平、それから朝吹抔も貿易商と云ふ名で顔を出された、斯う云ふ人達申し合せて、横浜の外商が生糸の売込方は甚だ専横である、第一に生糸を売る場合には商館に持つて行かなければならぬ、コチラの店で値段を定めて売ることは出来ぬ、仮令直段を定めても電信次第で本国へ電信を打つて景気の好い返電が来ると少し位品物が落ちても颯々と引取るが景気が好くないと云ふ返電に接すると約定した品物でもドシドシ破談して仕舞ふ、彼に利あつて我に不利なる取引の仕方であるから之を矯正したい、のみならず相談が出来て荷を引取つても船積までの保険は向ふでは附けぬ、去ればとて既に商館の倉庫に這入つて居るのだから無論コチラで保険を附けることは出来ぬ甚だしきは所謂信用取引で預証さへも呉れぬ、其他二三の不利なる取扱方があつたので数回掛合つたが同意しない、ソレでは取引をしないと云つた所が勝手にしろと云ふ専横な挨拶、サアカブカブで戦はなければならぬ篏目になつたが、悲しい哉荷主は如何にも金に急がれて容易すく断行することが出来ない、ソコで私共に二三百万円の金を融通して呉れろと云ふ相談があつた、第一銀行は今も生糸に対しては力を入れて居りますが其頃も大なる力を入れて居つた、私の親戚の渋沢喜作抔も関係したが、宜しい大いに力を添へて遣ろうと云つて時の大蔵卿たる松方さんに相談した、所が政府が表向き力を添へると云ふ訳には行かないが内々助力して遣ろうと云はれたので第一銀行・三井銀行其頃正金銀行は勢力はなかつた、それから第二銀行其他の銀行が同盟して生糸当業者に助力を与へ決して売るなと云つて睨合を始めた
丁度「ステーシヨン」を出ると橋がありますが彼の橋側に事務所もあり倉庫もあつて都合が好いと云ふので生糸同盟荷預所を設置して、此同盟に加はつた者は一切外国人に品物を売つてはならぬと云うて内外商人の対峙策を始めた、所が其中には海外から注文も来ると云ふ訳で外商も其始末に困つて余程弱つた、コチラも亦た大分弱つて仲間崩れが始まつた、いろいろ説得して骨を折つたが中々大騒動であつた、折柄其当時の有力なる貿易商たる英の三番館ウエルキン並にトーマス、ウオールス其外二三の貿易商が私共に会見を求めて是非和熟したいから調停して呉れと云ふ、亜米利加の公使抔も大分骨を折られて内外の商売人が二三回公使館に呼ばれて調停の意を伝へられた、其時は私共も調停者の一人であつたが、元来外国商人が無理なのであるから此処まで歩を譲らなければ折合ひは出来ませぬと主張した、結局数箇条の申合せ条件で折合ひが付いた、と云ふのはコチラも辛抱し切れぬからで完全の勝を制することは出来なかつたが、一旦引取つた荷物に対して預証を出すは勿論保険も付ける、それから返電の模様に依て破約或は価を上下せぬと云ふ条件で漸く折合ひが付いた、後で見ると物笑ひであつたけれども併し外国人の我儘を防禦する点に就ては多少の裨益なきにしも非ずで其時分の事柄であるからエライ道理ある事とも云はれぬが亦一概に乱暴な事をしたと許り誹る訳にも行くまいと思はれる
○下略

 - 第15巻 p.113 -ページ画像 

竜門雑誌 第二四八号・第三〇―三三頁 明治四二年一月 ○東京高等商業学校同窓会 横浜支部に於ける演説(昨年十月二日)(青淵先生)(DK150006k-0021)
第15巻 p.113-115 ページ画像

竜門雑誌  第二四八号・第三〇―三三頁 明治四二年一月
    ○東京高等商業学校同窓会
     横浜支部に於ける演説(昨年十月二日)(青淵先生)
○上略
 それから今一つ此横浜に因んで二三のお話を致しましやう、其の低い商売人が外国との貿易の有様はどうであつたかと云ふと、種々なる方面にいろいろな取引があつたから、それを綜合して申す程の事も出来ませぬ、併し程度の低かつた時の商売は、斯く苦難であつたと云ふことの、二三の御参考になることを玆に申述べたいと思ふのでございます、先刻談話室で諸君との雑談中に御話したことでありますけれども、私が銀行者になつたのは明治六年八月であります、七月の二十九日に第一銀行が東京に於て開業した。其同時に、横浜にも支店を出した、それから幾年経ちましたか、確に覚えて居りませぬけれども、何でも四五年過ぎてゝございます、横浜の支店に於て一の最も不愉快なる事件があつた、それは此横浜に其頃バジーといふ商館があつた、多分独逸の商館でありましたらう、其の商館と第一銀行の支店と為替取組の約束をしたことがあります。バジー商館が三丹若くは京都最寄で屑物を買うて海外に出す商売であつた、三丹ばかりでなく何処からでも買ふのでありますが、三丹地方が割が安いと云つて買ひに行く其の買ひに行くに就て現金を持て行くのは都合がわるいから、第一銀行に為替の取組を約束したいと云つて来た。横浜正金銀行などは勿論無い時分のことで先づ第一銀行の方に頼んで来た、其取引の時にどう云ふ事があつたかと云ふと、随分ひどい話である。バジーといふ人に斯う云ふ事を言はれた。屑物を買つて京都の支店に持つて来ると、京都の第一銀行支店で電信為替を組んで其荷物を横浜まで送つてよこす、併しバジーは京都で金を払はんければならぬけれども、京都に金を持つて行くのは手数だから、横浜と電信為替の約束をしたい。でバジーの注文は、京都の方へ荷物を持つて来たならば金を出して呉れろ、出して呉れたならば横浜で金を払ふ、斯ふ云ふ注文を言つて来た。第一銀行の方では若し品物の良いか悪いかゞわからない、お前の手で買つたにせよ、果してお前が引取るか引取らないかも分らない、荷物が来て後にこんな品物では金を払はぬと言はれた時にはあとで金の払ひ人がない。電信為替を渡した人は資力の無い人である、故にバジーの方から横浜支店へ金を入れたら京都の支店で金を払はうと云ふ、所がどうしてもそれでは承知しない、それだと取も直さず、日本人を信用して金を先に渡す訳になる、だからそれはいやだと云ふ。私の方では安心がつかぬから渡さぬと云ふ。段々押合つた末に何と言ふかと思ふと、一体東洋へ来て西洋人が商をするのは、東洋人に対して信用手続になることは甚だ困るのである、吾々の仲間でさう云ふ信用取引は東洋に向つてはせぬと云ふのが定であるのだから、縦令銀行であつても今の通りにすると、取も直さずそれだけの物はお前方を信用した訳になるから出来ぬといつた。それから私は大に憤つて、実に怪しからぬ事を言ふ人だ、お前のやうな人なら総て取引をせぬと言つて、其談判を止
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めんとしたら、向ふが一歩譲つて来て、兎に角それでは困るから先に金を入れる、前に言ふたことは私が唯他の例を言ふたので、第一銀行に対してはそれを主張はせぬから取引を続けてくれと、斯う云ふ事を言はれたことがございますが、其時は実に昔の攘夷鎖港の考が起つて来て、是だから夷狄だ醜虜だ怪しからぬ外国人共だといふ念を起したのであります。併しそれはバジーばかりで他の方面には無かつたかと云ふと、総てあるのです、生糸の売込が皆其方法であつた、向ふの倉庫に荷物を引込んで受取をよこさぬ、さうして向ふの電報の模様に依つて引取る品物を定める。日本の主な生糸の外国人との取引は、殆と糶呉服屋が品物を持つて行つて、顧客の家に預けて来ると同じことの取引だつた。是では困ると云つて段々申合せて、どうかして此弊風を改正したいと心配したが、なかなか出来なかつた。とうとう其結果が――生糸の取引上に就て外国商人との大衝突を惹起した、それは明治十四年に生糸荷扱所と云ふものを作つて、遂に横浜の日本商売人と、西洋商売人とが取引を中止して、八月頃から十一月頃まで三月ばかり生糸貿易を中断した。其時の騒動は種々なる新聞にも書立てられ、なかなかの大混雑であつたです。併し其頃の生糸の出高は五万梱位のものでありましたらう、且つ其価も一梱二百五十円位の相場であつたからして、其の集まる金額は今の如き大金ではなかつた。大金ではなかつたが、金融の根本となる銀行者は中々苦心した。日本商人の主張は是非引込んだ生糸にはちやんと預証書を出せ、而して之に火災保険を付けろ、それから其取引は、双方立会の上で定めるやうにせよといふが主なる条件で、何でも四つか五つの箇条であつた。所が先方は承知しない、それぢやアお前方には生糸は売らぬ、と云ふのが抑々の起りで、売らぬと云ひ買はぬ云ふ。品物はどしどし地方から来る。金の都合が附かにやア困るから金は貸してやつて呉れと云ふ、売込商売をする取引店、即ち原の店とか茂木の店とか、其他の各店ともに金融の都合が付かなくちや困ると云ふて銀行者に迫る、銀行が種々工夫して其金を続けやうと云ふので、今日集会して居る此場所です、此場所に荷物を積堆して金融をした、総額が二百何十万円ばかり貸出しました。併し段々さうして居る中に、向ふも辛抱強く一つも買ひに来ない、もう向ふが恐入つて来るだらうと思ふとなかなか来ない。此方も我慢して、大きい店は皆覚悟して、先方の来るまで我慢せいと云ふのでやつて居つたが、とうとう生糸生産地の者から崩れ掛つた、崩れてしまふと困ると云ふ中に和解が入りました、亜米利加公使のビンガム氏が亜米利加三番のトーマスオールス氏と英吉利の三番のウヱルキン氏といふ二人を招集して、私と益田孝氏とが公使館で会合して、それからとうとう生糸の保険は付ける、受取証書は出す、三つばかり向ふに当方の主張を聴かせる訳にして、併ながら先々の通りに荷物を商館に引込むとなつたのですから、つまり云ふと此方の言ふ通りにも行かなかつた、但し行かない筈だ、取引すべき生糸の検査所がなかつた。検査所は追つて出来るから其検査所が出来たら其場所で取引をする、それ迄の間は引込む、引込むに就ては受取証は出す、火災保険は付けると云ふだけに譲つて其和解が出来た。是が明治十四年の此場所に於ける荷
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扱所の騒動といふものであります。三十年も過去つた事だから、もう此処に御列席の御方には、或は祖父様に聴いたと云ふ位の話でありませうけれども、随分其事は、海外貿易上の主なる騒動であつた、而して外国人との取引の、前にも申しましたやうな殆と国体にも関係する如き観念を以て、どうか之れを改良したいと云ふ意念が、少しく無謀ながらさう云ふ方法で出たので、結果追々に此生糸検査所も出来ると云ふことに相成つたのでございます。其他に種紙を焼いてしまつたなどゝ云ふやうな、随分馬鹿げた貿易品の取扱もありましたけれども、是等はあまりさう喋々お話する程の事でもございませぬ、つまり既往の商売に於て、商売人の位地の低かつたと云ふ事、取引上の甚だ不整頓であつたと云ふこと、又其時分は外国商人から踏付けられた有様、左様な苦みがあつたと云ふ一二の例に見ても、当時の商業の困難なる事は御推察が出来るであらうと思ふのでございます。


竜門雑誌 第二九三号・第二二―二六頁 大正元年一〇月 ○生糸貿易の過去現在及将来(青淵先生)(DK150006k-0022)
第15巻 p.115-116 ページ画像

竜門雑誌  第二九三号・第二二―二六頁 大正元年一〇月
    ○生糸貿易の過去現在及将来(青淵先生)
 本篇は本年五月四日大日本蚕糸会総会の講演会に於て青淵先生が講演せられたるものにて、九月一日及十月一日発行の同会々報に連載せるものなり(編者識)
○中略
△明治十四年の紛擾事件 今日横浜で生糸を買取る商館は内外の商店で有力なものがたんとございますが、其頃の生糸の購買者は総て外国人ならざるなく斯う申すと何やら昔の攘夷家になつた口吻で諸君の誤解を来たしては相成らぬが、明治十三四年頃の生糸貿易の有様は対等貿易でなかつた、先づ信州・奥州・上州等の各所の製糸家が横浜に生糸を持つて参る、横浜の取引店、即ち委託販売店でありますが、今日本会の理事たる原君の先代は善三郎君と言はれて、重立たる委託販売店でありました、又理事の一人たる益田君の管理する三井物産会社も其委託店の一でありました、ところが此頃の取引の仕方は生糸荷物を外国商館に引込んでも受取証書も与へず、火災保険もして呉れない、荷物を引込まして置いて、本国へ電信を打つて景気が好いと早く受取り景気が悪いと拒斥する、此拒斥を「ペケ」と称へる、さう云ふ取引であるからどうしても売買の有様が割が悪い、之を改正したいと外国商館に向つて種々引合を致しましたけれどもなかなか承知せぬ、遂に売込商店一同申合せ、此方法を改良せぬければ生糸の売買をせぬといふて、生糸荷預所を作つて一種の金融法を立つて外国商館と相対峠したこちらの注文通りにならなければ売らぬといふ、外国商館ではそんな我儘をするならば買はぬと互に相睨合つたのが八月から十一月頃までであつた、今日は極く詳細なる数字を覚えて居りませぬが、其為に各地から集るものに金融が付かぬければ荷物を其処へ留めて置く訳にいかないから、余儀なく金融を便利にせぬければならぬので、御承知の通り其頃の銀行業は此等の金融に対する事を大に尽力致しました、併し乍ら銀行の力が不充分なるが為めに大蔵省に願つて金融の助力をして戴いて其集り来る荷物に一時の荷為替金を融通して彼れと相対峙し
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て其解決を待つたのであります、結局十一月の末に至りて亜米利加公使の「ジンガム」と云ふ人が大層心配して、此様な有様にて内外の為めに重要なる生糸に付て葛藤を継続するのは実に惜しいから何とか仲裁致したいと云ふことで、益田君と私とは直接の相手でなかつたから亜米利加公使から相談されました、又外国人では英吉利一番の「ウルキン《(ウイルキン)》」と云ふ人と、亜米利加の商人の「トマスウォールス」と云ふ人と都合四人仲裁の位置に立つて日本商人と外国商館とに調停を試みまして種々の骨折で漸く生糸荷預所と云ふものゝ団体を解いて従来の有様に依つて売買すると云ふことに相成りました、其時に協定した条件は第一引込んだ荷物には必ず外国商館にて火災保険を付け、第二外国商館の蔵に入れたる生糸には預り証書を出す、第三取引所の事は場所が無くては困ると云ふことから追つて場所を建築したら其通りにしやうと云ふので、詰り双方の申分を折衷してどちらにも、少々の道理ありとして調停したのであります、其時の売買は日本人の手では一梱でも買ふと云ふことが無かつたから、大層力んで見たけれども、結局は所謂大山鳴動して鼠一疋を出すと云ふ有様であつて我々の心配が其為に充分なる効を奏させなかつたのであります、それは明治十四年の事でありました、其頃の輸出の高はどの位でありましたらうか、十三年に三万余梱でありましたから、多分五六万梱に進んだかも知れませぬが当節の売買の微々たることは察知せらるゝのございます。


竜門雑誌 第四五六号・第九六―九八頁 大正一五年九月 ○青淵先生説話集其他(DK150006k-0023)
第15巻 p.116-117 ページ画像

竜門雑誌  第四五六号・第九六―九八頁 大正一五年九月
 ○青淵先生説話集其他
  国家的にも個人的にも大切なる蚕糸業
○上略
    △生糸取引上の大改革
○中略
 そして其の時に問屋として盛なのは内地商では原善三郎と茂木惣兵衛の両氏で、輸出商は外人ではスイス人の甲九十番のシーベル商会で大体外国人に勢力が多かつた、生糸の取引なども問屋が生糸を持つて行くと輸出屋があづかる、之れと云ふ値段と定めず保険もつけず、至てあいまいの中に問屋が生糸を外国人にあづけて置くので先の相場が上りそうだと生糸を引き取り、下りそうだからペケをくれると云ふ誠に不合理の取引方法であつた為めに、日本人側から取引の期日及値段の決定と保険をつけるようにと正当なる意見を陳述したが、なかなか聞入れないので遂に大喧嘩となつた、恐らく内外人の生糸取引上の大喧嘩であつたであらう。然し日本人側には生糸を売らねばならぬ弱味即ち金融上の力がない、何とかせねばならぬとの事で、私などに申込んで来たから、自分もそれは正当な主張であると云ふて、大いに日本人側の尻押をした、其の方法として共同荷預所なるものを作り政府其他から約三百万円程の金融を用意した、其の時分でしたからなかなか大金でした、八月から十一月まで三ケ月間喧嘩をしたが纏らないので米国の公使のビンアン氏が仲裁に這入つて、先方はウヰルキンとトーマスの両君、日本側では益田孝君と私とで調停役をつとめた、当方の
 - 第15巻 p.117 -ページ画像 
希望が或程度まで認められて大騒動もどうやら方づきましたが、兎に角に我が国生糸取引上の一大改革であつた。其の実情を知つて居るのは当時横浜の三井物産支店長をして居られた馬越恭平君位のものであらう、何んせ明治十四年と言へば今から五十年前の事である。思へば古い昔の話である。
○下略


竜門雑誌 第四七五号・第八九―一〇〇頁 昭和三年四月 生糸経済座談(DK150006k-0024)
第15巻 p.117-120 ページ画像

竜門雑誌  第四七五号・第八九―一〇〇頁 昭和三年四月
    生糸経済座談
 日本産業界の恩人たる渋沢子爵は本会○横浜生糸経済研究会の事業を賛助せらるゝ意味に於いて、昭和二年十月三十日午前九時本会同人たる横浜高商の井上亀三・森田優三・井上鎧三の三学士を飛鳥山の自邸に引見せられ、約二時間に亘つて明治蚕業史ともいふべき有益なる談話を試みられたのである。因つて本会は当日東京朝日新聞社速記者吉田七郎氏をして右座談を速記せしめて玆に掲載するのである。従つて文責は固より本会に存するところである。
  尚本会は老子爵の好意に対して深厚の謝意を表すると共に此挙を斡旋せられたる横浜渋沢義一氏及河杉信勇氏の尽力に対して深甚なる感謝を致すものである。
○中略
 私が扱つたうちで生糸に関して一寸問題となつて記憶に残つてゐるのは、明治十四年に名前は忘れたが、甲九十番と言つてシーベルフランとか何とか商館の名でしたが、それが横浜に於ける主なる生糸の買人でした。それが一軒ではないけれども主としてそれが大抵主唱者のやうな訳で、殆ど跋扈して居りました。横浜の生糸の売買の習慣といふものは取りも直さず、好く私共の家等で出入り呉服者が半襟や何かを持つて来る、『お気に入つたのを取つて呉れ』といふ。『それで幾つだけ取つた。』『ヘイ有難う』と残りを持つて帰る。本当の商売ではないが、生糸の売買が斯ういふやうな遣り方であつた。初めがそんなことで商売が成立つてゐたものであるから、その悪弊がちやんと残つて居り、何時かこれを改めて見るといふのではなくそれが習慣となつて存してゐたので、横浜の今の原富太郎さんの親の善三郎さんといふ人それから亡くなつた茂木惣兵衛さん、渋沢喜作さん等の主だつた売込商店、今の問屋といふ連中が、これは実に馬鹿らしい、情けないからこれを直したいが、直すには却々骨が折れる。甲九十番といふのが鼻息が荒く、うつかりなことを言ふと、そんなことなら買はぬと言はれるかも知れぬ。その時力がないとヘイ恐れ入りましたと引下るやうでは残念だといふので、その頃馬越恭平氏が物産会社の主脳者で、矢張りその一人だつたと思ひます。その他にも吉田幸兵衛さん等といふ人もありましたが、何しろ明治十四年の事ですからはつきり記憶しません。そこで私に相談して来たのは渋沢喜作さんであります。喜作さんは私と兄弟同様の間柄で、原善三郎さん、茂木惣兵衛さんといふ人等は生糸については立派な商人であつたから、至つて懇意にしてゐた。殊に第二銀行といふことについては私が第一銀行を造つたから、兄弟
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分のやうな間柄でありました。それでこの不利益極まる取引の習慣を改良しようといふことになつたが、それには随分困難の伴ふことを覚悟しなければならず、こちらの要求を容れない場合は大いに奮張る力がなければならぬので、当時大隈さんにある場合には少し金を貸して貰はなければ困るといつたら、いよいよ改良が出来るならばやつて見るもよからうといふ内意を受けて取り掛つた。果して予想通り先方ではそんなことなら買はぬと言つた。そこでこつちも買はぬなら売らぬといふことで突張り出した。さうすると横浜の問屋はよいが問屋へ持つて来る生糸商売人が困つた。附いて来た為替を払はねばならぬ。
 地方の銀行や金貸しはそんなことを知らぬからそれは困る、何故早く売らぬか。斯ういふ訳で売らぬ。売らないなら金を返せといふやうなことになつた。その金の融通を付けなければならぬとこのことが生ずるだらうといふので已むを得ぬからその場合にはどの位だつたか数字は覚えないが、二百万円まではよいとか、三百万円まではよいとか第一銀行が幾ら出さうとか、銀行同志がその事を申合せた。政府はそんなことに力を入れてくれないから、生糸荷預所といふものを造つて荷を預かつて金を貸す。横浜の橋の際に一の場所があつて、それを用ひて荷預所として、銀行が出張して、荷預りの切符を出せば金を出してやるといふことになつた。倉庫と金融とをやつたのです。何でもそれが九月頃から十一月頃まで、殆ど二ケ月か三ケ月続いた。それで睨み合ひ、争ひが結んで解けず、頻りに新聞も多少評論していろいろ言ひ合ふ有様となつた。それから遂に十一月の何日だつたか忘れたが、アメリカ公使にウインガムといふ人があつて、この人がどういふ訳であるか、余りにそのことが愚であるから仲裁したいといふて顔を出した。外国人でイギリスのその時分の英一番といつてゐたか、何処の商館であつたか、何でもウエルキンといふ人があつた。それからアメリカのトーマス・ウオールスといふ人とこの二人とアメリカのウインガム公使が相談して、どうしても喧嘩させて置くのは面白くない。日本から相当の人を出し、お前方も力を入れて調停すればよいぢやないかといふ注意から、双方で調停役を依頼した訳である。私共は益田孝君に相談をした。何せ其の儘に置くことは、第一に貿易品の渋滞を来たす訳で、双方共困るから解決出来るやうにするがよいといふので、双方共に直接事業に関係がないから、申さば中間に入つてこゝらで折合ふといふことに糸を買ふ人に計つたがよからうといふことになつた。所が重要な問題は日本側からいふと糸の問屋に来た品物の見本を見てこれで幾らと値を決めるけれど荷物は俺の方の倉に入れる、拝見と唱へて改める。買人の方の随意でこちらの都合にはいかない、十日でも十五日でも置かれる。その間はたゞ放つて置く。預り証書も出さなければ火災保険も付けぬ。そんな馬鹿々々しい事があるものか。荷物を入れたら確かな預り証書を出せ。荷物は火災保険に付ける方がよい。さもないと殊によるとこういふ不都合がある。後に海外の景気がよいと余計取り悪いといふと約束の分の僅かの分しか取らぬ。景気が悪いと難癖をつけて良くないといつて刎ねる。さういふやうな随意な受渡しをされた日には売人損で買人都合といふことになるから、それでは
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困るからといふと、相手の言分は、荷物を入れる場所がないではないか、俺の倉より外ないから俺の倉に入れろ。それから改めないで唯取るといふことは何が入つてゐるか判らぬ。第一目方にしてもどの位の水分が含まれてゐるか判らんし、船の都合もあるからお前方の勘定通りにはいかない。その日に取るといふてもちやんと荷渡しの出来やうな場所がないぢやないか、と買方の方の反駁だ。
 それで兎に角預り証を出す。火災保険だけはやる。その他のことは決める訳にはいかぬ。いよいよ品物を本当に取引する場所が出来た上のことにしようと、大体そんなことで折合ひ、ウインガムが仲裁に入つてこゝに漸く仲直り、荷預所を止め生糸を段々引込むといふことになつた。然しそれでは勝つたとはいへず、寧ろ敗けた方であつたが多少効能はあつたやうであります。それから後の生糸の商売といふものは今までのやうに横浜で乱暴に買ふといふことはなくなり、追々日本に於ても物産会社とか原とかいふやうな有力なものが自身輸出するやうになり、生糸合名会社も出来、生糸の海外輸出状況は寧ろ日本側が強いやうに変化して来たから、その問題があつたために相当効果があつたとも言ひ得るのであります。何しろその時の騒動は大変なものでした。大変心配もしました。
 私は事件の主脳者といふ訳ではないが、何しろ勧進元をしたのですから、銀行ではその時何でも六百万円ばかり出しました。今日では六百万円なんかそれ程とも思はぬかも知れぬが、その頃の六百万円といへば今日の何千万円といふものに相当するのですから心配したのも無理はありません。大蔵省に金を貸して貰ふと交渉に行きましたが、大隈さんは既に辞されて松方さんになつてゐましたので却々うまく交渉が運びませんでした。その時の政府の更迭は普通のそれとは少し変つてゐて何でも薩長関係で威張つて他の藩の人を追出し、大隈さんが改進党で議会を造るといふことを薩摩や長州の人と相談せずに自分で世間で公表したといふので、大隈は実に怪しからぬ無礼だといふのでした。大隈さんに代つた松方さんは堅いことばかり言つてゐて金は出さぬし、糸屋の方からは責められるし、殆んど困り果て泣くばかりにして松方さんを説得して二百万円程融通して貰つたのでしたが、あの時程心配もし苦しんだことは覚えて居りません。結局は前に述べたやうなことで解決がついた訳でした。その時の苦しみは実に容易なものではなかつたが、多少とも商権回復の一段階になつたと言つてもよいと思ふのであります。
 今横浜で(喜)と申して渋沢義一さんの経営した生糸問屋がありますが義一さんの父喜作さん、これは○中略私とは死生を共にした間柄であり私が銀行屋になつてゐたので、銀行から金を貸さうからお前は生糸の荷為替の取扱をするやうにして、生糸の輸出に対する内地から横浜に出る一つの取扱ひを商売とし、そればかりでは困るから冬は米と二つの商売をやつたらよからう。金は私の方で考へるからどうかといふので、利益を一緒にするのではなく別にして取引をやらうといふ事になつて、第一銀行から私が金融して始めたものでやり損ひもあつたりしたが、到々悴の作太郎さんが暫くやつて、今では義一さんが問屋を専
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心やつて居ります。○下略
 当時は未だ為替などといふものが発達してゐなかつたものですから地方から東京へ荷物を出すには非常に不便で、従つて費用も余計掛るといふので今のやうな趣向にしたので、地方からの荷物が東京へ出るには非常に楽になり、(喜)の店に行けば為替は何時でも取れるといふやうになり、殊に上州の糸は東京に出るのが大変に便利になつたのであります。これは第一銀行がその資金の融通に専心努めたのでありました。又銀行が地方の製糸家に金を融通するのは直接製糸家にするのではなく、中間に問屋があつて、問屋が借りて地方に、例へば岡谷、片倉とか林組といふやうな向に問屋から金を出しその代り荷物は問屋へ持つて来て売る。それで口銭を取るといふやうなことにしたのでありました。
 生糸業者の救済といふことはずつと以前はどうか知らぬが、近頃は大正三年です。欧洲大戦で俄かに生糸が買止められ、ひどく安くなりさうな有様なので、何とかしてこれを防禦してやらなければなるまいといふので、一種の救済法を立てたがよからうといふので、私共はその時分には前のやうな関係は持つてゐませんでしたが、昔からの関係などで幾らか相談相手に出掛けて生糸救済の会社が出来たのであります。その以前の荷預所なども生糸救済の一つといふことが出来るのであります。昔はこれも自力でやらうとしたのでありますが、しかし今日では品物が余計になつたので日本銀行で大いに力を入れたならば単に政府とのみいはずに民業でやつていけないことはなからうと思ひます。日本銀行を財源にして第一銀行が金を借りてやつたならば、その救済は出来るが、さういふ仕組が完全につかないのに一方の発達が強いものでありますから、どうしても救済の必要に迫られるといふことになるのであります。
○下略
  ○本記事ハ「生糸経済研究パンフレツト」ヨリ転載シタルモノナリ。



〔参考〕竜門雑誌 第四八一号・第一八一頁 昭和三年一〇月 青淵先生から養蚕のお話を拝聴して(渋沢治太郎)(DK150006k-0025)
第15巻 p.120-121 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第一八一頁 昭和三年一〇月
  青淵先生から養蚕のお話を拝聴して(渋沢治太郎)
○上略
    ○金融機関の完備に尽力した
私○栄一は其翌年大蔵省をやめて第一銀行に関係したが、生糸貿易の必要を感じ、且つて日本の物産を盛んにするには、先づ金融の道を図らねばならぬ、何事によらず米でも繭でも生糸でも金融と運輸ほど大切なるものはない、就中海外貿易には海外為替程大切なものはない、然るに我が国には未だ此の方面の機関が完備して居らない、之れでは産業の発展はむづかしいと信じた。そこで、極力此の方面に力をそゝぐように努めた、それ故此の方面には相当に尽力したつもりである。以上の事から考へて見ても私は蚕の飼方から糸の事貿易の事の三段をやつたのであるから、言はゞ農工商に通じて居る訳である、そして今から考へて見ると、其の当時海外に輸出した生糸の分量三万梱で誠に微々たるものであつたものだか、昨年の如き七十万梱の生産と聞いて
 - 第15巻 p.121 -ページ画像 
転た今昔の感に堪へないものがある。
○下略



〔参考〕(芝崎確次郎)日記簿 明治一四年(DK150006k-0026)
第15巻 p.121-122 ページ画像

(芝崎確次郎)日記簿  明治一四年   (芝崎猪根吉氏所蔵)
第一月十九日
○上略
主君横浜ヘ御出張之積、品川益田氏泊ニ相成、明朝横浜ヘ御出之よし右帰宅之上奥方ヘ上申仕候
第一月廿日 晴
今朝例刻出頭無事、主君午後一時前浜より御帰京○下略
  ○中略。
第一月廿六日
○上略 主君横浜行、夜ニ入御帰リ○下略
  ○中略。
五月十八日 晴
○上略 主君別荘より十時御出頭、正十二時汽車ニテ横浜ヘ被為入候○中略主君夜ニ入十一時御帰館
  ○中略。
六月七日 雲雨降
○上略 主君王子別荘より第十時御出頭被遊、同四十五分之汽車ニテ横浜ヘ御出張被遊候○下略
  ○中略。
六月廿四日 晴
○上略
主君王子別荘より直ニ横浜江御出張相成、午後五時半御帰
○下略
  ○中略。
七月七日 雲
○上略
主君横浜ヘ出張御泊リ相成候
  ○中略。
八月十九日
○上略
主君午後二時汽車ニテ横浜ヘ被為入候事
  ○中略。
八月廿四日 晴大暑
午前十一時出頭、主君ニハ同時御出頭被遊、午後二時ニテ横浜ヘ御出張、夜ニ入九時御帰館
○下略
  ○中略。
第九月一日
○上略
主君早朝横浜ヘ御出張被遊候
  ○中略。
 - 第15巻 p.122 -ページ画像 
九月十五日 晴
○上略 主君十二時汽車ニテ横浜ヘ御出張被遊、夕刻御帰京○下略
  ○中略。
九月廿八日 薄雲
○上略
主君ハ午前四十五分之汽車《(マヽ)》ニテ横浜ヘ御出張相成候
  ○中略。
九月三十日
○上略
主君午後より横浜ヘ御出張被遊、夜ニ入御帰途峰須賀家ヘ御廻リ○中略夫より亦品川益田先生ヘ被為入、同所ヘ御泊リ相成候事
明治十四年第十月一日 薄雲
○上略 主君品川益田氏泊ニテ九時御出頭被遊候○下略
  ○中略。
第十月五日 晴
○上略
主君ニハ十二時之汽車ニテ横浜ヘ御出張、四時半ノ汽車ニテ御帰館被遊候
  ○中略。
第十月十二日 晴
本日例刻出頭之際、主君より横浜ヘ出張致シ候間佐々木氏ヘ昨夜談合致シ候糸之返金高取調方並福しま仙台ヘ電報相掛ケ候哉通声方被命、直ニ出頭同人ヘ伝言致シ候
○下略
  ○中略。
第十月廿五日 雨降
○上略 主君十二時出、横浜ヘ出張相成候○下略
  ○中略。
第十一月廿七日
○上略
主君平清ニ招待ヲ受、同所ヘ夕刻被為入、十時御帰館相成候
  ○中略。
第十二月一日 雲
例刻出頭午後主君横浜ヘ御出張相成候○中略主人横浜御帰館相成候○下略



〔参考〕青淵先生六十年史 (竜門社編) 第一巻・第八五三―八五四頁 明治三三年六月再版刊(DK150006k-0027)
第15巻 p.122-123 ページ画像

青淵先生六十年史 (竜門社編)  第一巻・第八五三―八五四頁 明治三三年六月再版刊
 ○第十六章 開港場貿易習慣改良
    第三節 生糸聯合荷預所
○上略
明治十四年十一月十七日和解全ク成リ翌十八日ヨリ取引ハ平常ノ如ク回復セリ、而シテ荷預所ハ翌年六月三十日ニ至リ解散セリ、其解散ニ先チ、荷預所発起人等ハ共同倉庫ノ設立ニ就テ頗ル尽力スル所アリシモ、其設立ハ資金三拾余万円ヲ要シ協議容易に纏マラサルヲ以テ、委員トシテ原善三郎・茂木惣兵衛・平沼専蔵三人ヲ選挙シ追テ取調フル
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コトヽナシタリ
此合生糸荷預所《(聯脱)》ノ業務成績ヲ見ルニ、開業九箇月間ニ倉入倉出ノ生糸各二万二千五百五十八個ニシテ、其貸付金総高ハ紙幣三百九拾五万千五百拾四円銀貨七拾三万七千百三拾円ナリ、内倉入荷物抵当貸付紙幣三百八拾壱万四千百三拾五円銀貨七拾三万七千百拾三円直輸出荷為換貸付拾三万七千三百七拾九円ナリ、荷預所株金ノ払込高ハ五万三千弐百円ニシテ収入ト諸経費ト差引紙幣壱万八千弐百八拾九円銀貨六拾壱銭ノ純益ヲ生シタリ、荷預所ノ資金ハ第一国立銀行・第二国立銀行・三井銀行ノ三行カ主トシテ融通シ其他ノ諸銀行モ助力ヲ与ヘタリ、三銀行ハ荷預所ニ向テ明治十四年九月一日ヨリ翌年四月三十一日マテ七箇月ノ期限ヲ以テ弐百万円マテヲ融通スヘキコトヲ予約シ、日歩ハ三銀行ハ四銭八厘ヲ以テ荷預所ニ貸出シ、荷預所ハ五銭ヲ以テ貸付スルコトヲ内約セリ、而シテ当時政府ハ紙幣消却ノ処分ニ着手シ銀貨ヲ吸収スルコトヲ力ムルノ際ナルヲ以テ、三行ハ政府ヨリ紙幣ヲ借リ受ケ荷預所ニ貸出シ、荷預所ハ之ヲ以テ荷為替貸付ヲナシ銀貨ヲ以テ三行ニ返納シ、三行ハ更ニ之ヲ政府ニ上納シ資金融通ノ便宜ヲ得タリ



〔参考〕大日本蚕史 (佐野瑛著) 正史・第六九四―七〇二頁 明治三一年八月刊(DK150006k-0028)
第15巻 p.123-126 ページ画像

大日本蚕史 (佐野瑛著)  正史・第六九四―七〇二頁 明治三一年八月刊
 ○総論 第壱編 第五章 今世史
    第壱節 明治前紀(明治元年ヨリ明治十九年ニ至ル)
○上略
此事件中各地ノ荷主総代トシテ奔走セシ者左ノ如シ
  地名    姓名        地名      姓名
 上州    沼賀茂一郎     同       共盛社
 同     山田平八郎     同       大盛社
 同     市村愛三      同       潤盛社
 同     村木孝助      同       衆広社
 同     鈴木小十郎     上州      竹内勝蔵
 同     岩崎弥三郎     同       竹内常七
 同     小野長次郎     同       上原清七
 同     江厚由平      甲州      内田作右衛門
 同     中島金平      同       依田孝
 同     有賀柔五郎     同       若尾逸平
 同     平取藤平      埼玉      岡戸勝三郎
 同     茂木半三郎     同       新井源右衛門
 信州    鷹野正雄      八王子     川原塚長五郎
 同     田中忠七      同       林嘉平
 同     成沢万五郎     同       宮田伝七郎
 甲州    広瀬慶次郎     越後      八木卯兵衛
 濃州    田中新七      奥州      古関直紹
 宮城    岡崎堅守      同       早川景矩
 前橋    桃井社       同       宗像善吾
 同     昇立社       同       小林弥八郎
 同     交水社       前橋      明練社
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 前橋    共等社       同       桐華組
 同     高聞社       同       北精撰社
 同     敷島社       同       清益社
 同     天原社       同       日盛社
紛議中特ニ同所ニ資金及物品ヲ供給シテ応援セラレタル各銀行左ノ如シ
 東京    第一国立銀行    横浜     第二国立銀行
 同     第三国立銀行    同      三井銀行
 同     正金銀行      同      安田銀行
 同     第五国立銀行    同      第三十国立銀行
 同     第四十五国立銀行  同      第六十国立銀行
 同     第百国立銀行    同      第百十二国立銀行
 同     第百十九国立銀行  同      第廿七国立銀行
紛議中特ニ書ヲ寄セテ賛成且応援ノ意ヲ表セラレタル各地製糸家会社銀行及有志諸君左ノ如シ
  地名    姓名        地名     姓名
 濃州    濃厚会社      長野     山五組商会
 白河    製糸会社      濃州     濃明会社
 長野    惟精社       須賀川    蚕糸勧興会社
 三春    三盛社       長野     友誼社
 愛知    山口製糸場     磐城     正製社
 信州    半田敬作      同      真製社
        外拾三名     但州     拡産社
 岐阜    濃北会社      豊州     熊谷直詹
 飛州    高陽会社              外二名
 信州    大井栄作      岐阜     振業会社
        外四十二名    野州栃木   清水安平
 福井県勝山 製糸会社      同      上原与平次
 岩代    木村半兵衛             外六十七名
 同     大鐘具       下野上都賀郡 湯沢松郎
        外十二名     東京     千里健三
 丹後    小室守蔵      東京     通運会社
 信州    松村一郎      山梨     商法会議所
 同     塩沢佐七      朝鮮     商法会議所
 同     唐木銀三郎     福井     商法会議所
        外三名      長野     商法会議所
 岩代掛田  柳策        山梨県    雨宮彦兵衛
 信州    大洞善次郎     千葉県    板倉直胤
 同     長谷川範七     但馬国    北垣伝右衛門
        外五十三名    同      中沼槙蔵
 岐阜    熊谷孫六郎     武州     生改改所《(糸カ)》
 但州    諸仲買仲間     信州     振育社
 遠州    熊谷三郎馬     愛知     愛知物産組
         外八名     同      日進社
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 信州    吉池直輔      信州上田   中山彦輪
         外廿一名    信州稲荷山  小出八郎右衛門
 磐城    野村政平      静岡県遠江  岡田良一郎
         外一名     岐阜     安達弥七郎
 信州松代  島田喜太郎     長野県信州  直輸同盟会
 同     永島忠次郎     信州上田   佐久間喜三郎
 同     平出平兵衛     神戸     貿易会所
 同     佐藤鹿之助     信州     味沢清八郎
 飛州    佐山社       長野県    小出直左衛門
 羽前    長沢惣右衛門    東京     松尾徳二郎
         外七名     同      横山貞秀
 信州    黒岩喜兵衛     広島     加藤増次郎
         外四名     信州     塩尻銀行支店
 西京    住友製糸場     同      第六十三国立銀行
 遠州    寺田彦八郎     同      第八国立銀行
 同     山崎百四郎     同      松本銀行
 同     松本文治      須賀川    第百八国立銀行
         外十四名    信州     上田銀行
 宮城県宮城 遠藤敬止      同      第二十四国立銀行
         外五十名    同      第十九国立銀行
 兵庫    篠原幸四郎     久留米    第六十一国立銀行
 滋賀    森野甲之助     東京     中牛馬会社
 同     商法会議所     福岡     商法会議所
 岡山    商法会議所     大阪     商法会議所
葛藤中金員又ハ物品ヲ贈リテ慰問セラレタル各地有志諸君ノ姓名左ノ如シ
 丹波国篠山                自立社
 豊前国田川郡香春村            津田幾造
                        外弐名
 京都室町三条上ル             塚本武右衛門
                        外四名
 信濃国下伊那郡              生糸製造人一同
 岡山県下岡山               岡山商法会議所
 磐城国                  宗田美助
 福岡県下福岡博多町対馬小路        伸峰籠
 同 大名町三十四番地           八尋道
 福島県代国二本松町有志総代《(岩脱)》   加藤賢輔
 同                    安部井芳蔵
 信州埴科郡坂本駅             古谷重雄
                        外四名
 筑後久留米第六十一国立銀行        岡田助夫
 同                    井山富門
 福岡県久留米               厚生社
 武州秩父郡皆野              竜門社
 - 第15巻 p.126 -ページ画像 
 信州上田常田町辰野基方          辰野賢弥
 越後国小千谷保進社            喜多村正雄
 備中国笠岡山陽精糸会社長         森田佐市
 広島銀山町綿会所             加藤増次郎
 在東京                  郡山軍助
                        外十名
 神戸                   堀内信
                        外十三名
 東京                   清水九兵衛
                        外二名
 兵庫                   北村正造
                        外二名
 神戸                   光村弥兵衛
 同                    美好谷長八
 東京                   本村金之助
                        外十二名
 堺                    商法会議所
  ○聯合生糸荷預所ノ後身タル共同倉庫ニツイテハ本資料第十四巻第三章第二十六節第三款「倉庫会社並ニ均融会社」明治十五年七月二十八日ノ条(第二九五頁)参照。



〔参考〕蚕糸之横浜 第一四―一五頁 大正一五年四月刊(DK150006k-0029)
第15巻 p.126-127 ページ画像

蚕糸之横浜  第一四―一五頁 大正一五年四月刊
 八月○明治十四年に至り横浜生糸売込商は開港以来の生糸売込の慣習を一変せんと欲し、結合して本町六丁目八十四番地に聯合生糸荷預所を設置し、九月十五日を以て開業す。十三日発起者より荷預所設立の要旨を外商へ通牒せり。畢竟従来の取引法は生糸を外国商館に引込むも受取証も与へず、火災保険も附せず、其上本国へ電信を打ち、景気佳ければ早く受取り、景気悪しければペケとして拒絶さるゝを以て取引の公平を期せんが為め売込商は一定の場所に売場を設け、玆に外商の来つて買入るべきことを要求せるものなり。外商は之を不満足として同月二十日日耳曼倶楽部に集合し、荷預所規則に従ふは危険の虞あり、該社より生糸を買入るは甚だ不安全と決議し、九月二十一日会長ウイルキンより渋沢喜作・原善三郎・茂木惣兵衛・朝吹英二・馬越恭平の諸氏へ宛回答あり。爾来再三応答を為し益々結んで解けず。其軋轢彼我の新聞には其是非を喋々し或は広告文を全国に配付し一大葛藤を醸生し、数月の間取引中絶し、為めに市中に金融閉塞し殆んど衰頽の景況を現出せしが、各地銀行の低利貸付の報陸続新聞に掲載せらるゝに至り、其勢ひ更に甚しくして容易に解けざるの景況なりしが、遂に米国公使より渋沢栄一・益田孝両氏に計り外国人側より英一番のウルキン《(ウイルキン)》と米国商館のトーマスウオールス両氏を挙げ、四人仲裁の位置に立ち、尚木村利右衛門氏等東奔西走し、漸く十一月に至りて和解の局を結び、生糸荷預所は撤廃せり、然れども是が為め因襲の久しき陋習の幾分を矯正し、将来取引を鞏固ならしむるに至れり。同月二十二日彼我親睦の宴を町会所に開き、其以来久しく停滞せし生糸売買も従前に
 - 第15巻 p.127 -ページ画像 
復し、地方荷主も稍々愁眉を開き市中の衰況挽回して漸次商況活溌となるに至れり



〔参考〕新聞集成明治編年史 (同編纂会編) 第四巻・第四八二頁 昭和一〇年六月刊(DK150006k-0030)
第15巻 p.127 ページ画像

新聞集成 明治編年史(同編纂会編)  第四巻・第四八二頁 昭和一〇年六月刊
  横浜生糸競売場
    朝吹英二の発議で設立に決す
〔一一・一○明治十四年朝野〕昨日横浜よりの報に、嘗て朝吹英二氏の発議にて、商法会議に於て議決になりたる生糸買売所(一説競売場)は不日設立になるとの事。○目下生糸の在荷高は、一万二千六百箇なりと聞く。○生糸荷預所は本日臨時会議を開きたり、右は除名されたる同伸会社より売込問屋中へ詫書を差出だしたるに付てのことなりとか。
○同会社が独乙人へ生糸を附託したるより、外国商は我も々々と該社へ赴き生糸を買はんと言ひ入れ又我が生糸商は予て該社へ託し置きたる荷物を取戻さんと掛合中の由なり。



〔参考〕新聞集成明治編年史 (同編纂会編) 第四巻・第四八二頁 昭和一〇年六月刊(DK150006k-0031)
第15巻 p.127 ページ画像

新聞集成 明治編年史 (同編纂会編)  第四巻・第四八二頁 昭和一〇年六月刊
  朝吹英二等発起で
    生糸糶売会社設置
〔一一・二○明治一四年朝日〕朝吹英二・小野光景・朝田又七等諸氏の発起にて今度糶売会社を横浜に設立し、盛に内外人の物品を公売する目的なりと云へり。又生糸荷預所は其目的の達する日までは飽まで今日の結合を解かず、悉皆直輸出する事に決議せし以上は、勿論居留地外商人と取引を致さゞる故、自然相場等もなき姿となるべきに付、此糶売会社へ依頼して特別に生糸の糶場を一ケ所設くべき旨の相談もありて略之に決したる由。



〔参考〕新聞集成明治編年史 (同編纂会編) 第四巻・第四八二頁 昭和一〇年六月刊(DK150006k-0032)
第15巻 p.127 ページ画像

新聞集成 明治編年史 (同編纂会編)  第四巻・第四八二頁 昭和一〇年六月刊
〔一一・九○明治一四年東京横浜毎日〕曾つて掲げし如く朝吹英二氏の案に出でたる生糸糶売所は、横浜税関内の倉庫会社と極まり、其手配も整ひたれば、両三日中に開場に至るべしと云ふ。



〔参考〕新聞集成明治編年史 (同編纂会編) 第四巻・第四八四頁 昭和一〇年六月刊(DK150006k-0033)
第15巻 p.127-128 ページ画像

新聞集成 明治編年史 (同編纂会編)  第四巻・第四八四頁 昭和一〇年六月刊
    横浜生糸紛議に対する地方の激励
〔一一・九○明治一四年郵便報知〕此程高松商法会議所会頭鈴木伝五郎より東京商法会議所へ左の如く通報ありしと
 貴簡拝誦仕候処貴所益御静謹被為渉《マヽ》、横浜在留ノ外国商人紛紜ノ儀ニ付国権拡張ノ為大御憤発ノ由、独リ当会議所ノ大慶而已ナラズ三千有余万ノ兄弟姉妹モ亦必ズ同感タルコトヲ確信罷在候、固ヨリ当会議所ニ於テモ驥尾ニ附キ荷預所ニ応分ノ助力致度候間、自然金力ヲ以テ応援致シ可然場合ニ立至リ候節ハ応分ノ出金可致、尚其他応援方ノ儀ニ付御明案モ有之候得バ御垂示有之度候、先ヅ不取敢当会議所ノ会員ハ荷預所ノ主義ヲ賛成シテ讃岐全国ヲ演説シ、我地方ノ有志ヲ鼓舞シテ相互ニ盟約スル事左ノ如シ。
 - 第15巻 p.128 -ページ画像 
    盟約書
 第一条 同盟ノモノハ横浜在留ノ外国商人又ハ其名義、或ハ其他ノ名義ヲ以テ各地ヘ派遣セル手代若クハ其手先ト見認ルモノヘ、御互ニ生糸ノ直取引ヲナサザルハ勿論ノ事、苟モ日本人民ノ名義ヲ有セルモノニシテ、今回紛紜ノ局ヲ結バザル内、斯ル不都合ノ所業ヲナセルモノハ、啻身アルコトヲ知テ国アルコトヲ知ラザル利己主義ノ親玉ニシテ、万物ノ霊タル人類必要ノ愛国心ヲ有セザル禽獣同様ノ徒ナレバ、斯ル賤劣ノ徒トハ長ク絶交シ万般ノ取引ヲナサザル事。
 第二条 若シ前一条ニ違背スルモノ有之トキハ、同盟一同其違背者ト取引ヲ為サヾルハ勿論、長ク絶交可致事。
 右謹デ盟約ス
  明治十四年十一月五日
  ○表面上ノ仲裁者タル引取商ハ中村総兵衛・木村利右衛門・堀越角次郎等ナリ。
  ○聯合生糸荷預所問題及ビ当時ノ生糸貿易ノ状態等ニ就イテハ本資料中ノ記事以外ニ、左ノ資料アリ。
    横浜市史稿(産業編、第四三五―四五〇頁 昭和七年一一月刊)
    生糸貿易之変遷(明治三五年一二月刊)
    生糸恐慌対策史(昭和六年三月刊)
    横浜開港五十年史(明治四二年五月刊)
    日本蚕糸業史(第一巻 昭和一〇年二月刊)