デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
29節 其他
2款 渋沢商店
■綱文

第15巻 p.201-212(DK150016k) ページ画像

明治21年7月24日(1888年)

神戸神栄会社社長伊藤長次郎、是日書ヲ栄一ニ致シテ、同社ト渋沢商店トノ生糸取引並ビニ生糸商況報告ノ交換ヲ依頼ス。此後ニ於テモ栄一渋沢商店ノタメニ尽力スルトコロ多シ。


■資料

(伊藤長次郎)書翰 渋沢栄一宛 (明治二一年)七月二四日(DK150016k-0001)
第15巻 p.201 ページ画像

(伊藤長次郎)書翰  渋沢栄一宛 (明治二一年)七月二四日
                    (渋沢子爵家所蔵)
拝啓酷暑之時分ニ押移候処愈高堂御揃御清健ニ被成御入候条奉賀候、陳者本年三月ニ貴地ヘ罷出屡々昇堂仕候節、渋沢君近頃如何商業ヲスルヤトノ御尋ニ付、拙者前年より摂州神戸之港湾ハ可然之良港将来見込アル地ト兼テ考へ候故、十九年春より山手通リ海岸辺之地所方々と買求メ、其中ニ栄町ニ小舎ヲ設立シ生糸委托販売之業ヲ始め申候段申上候て、至極宜敷精々勉励可然ト屡々被仰候、然ル処昨年秋迄ハ一向不振冬分より外国人サイトナル者ヲ生糸検査人ニ雇入行々隆盛之見込立かけ申候ニ就テハ、尊館横浜ニ於テ生糸之御商店ヲ十七八年以前より御設置有之喜作君之御監督ニ相成候と之事承居申候、誠ニ以幸甚之至何卒御面倒恐入候へ共、当神戸ニテ最初売買不行届之節ハ御商店ニ送り申候間其節ハ無御見捨御取扱相成度、猶神戸も追々隆盛之見込ニ候へ共目下之処ニテハ生糸貿易開始之事故百事御愛顧ニ預り度、就テハ只管御依頼申上度義ハ、神戸之商況も亦御参考迄ニ時々可申上候間、何卒横浜之商況時々栄町三丁目神栄会社へ御申越し被下度、自然外国之模様変動アル時ハシキウ電報ニて御通知被下候様奉願度候、右之次第渋沢君寔ニ御多事之御中ト奉察上候へ共御寸暇ニ御申上被下横浜御商店へ其事御伝へ被下候様奉願候、御商店ニ御承諾被下候ハヽ其趣ニ相心得度、猶其中拙者又ハ三宅忠蔵ナル者御商店ニ罷出御噺しも奉申上度候、先ハ右御多事ヲ不顧御依頼旁如此ニ御坐候
  七月廿四日               伊藤長次郎
    渋沢尊君
       御執事御中
 尚々神栄会社ナル物ハ当分望少之有テ始業仕候、御参考迄ニ定款奉入貴覧候、会社と申唱候へ共お金ハ拙者七分半忠蔵ハ三分位微々タル物ニ候へ共追々盛大ニイタシ度積りに罷在候
  ○有限責任神栄会社ハ明治二十五年五月ノ創立ニシテ、社長伊藤長次郎・取締人三宅忠蔵等ニヨリ組織サル。定款ニヨレバ「本社ハ専ラ生糸及其付属品ヲ取扱フ」トシ「売主買主ノ中間ニ立、双方ノ便利ヲ計リ貿易営業上斡旋スルヲ以テ目的トス」トアリ。事務所ヲ神戸区栄町通三丁目五番地ニオク。当初資本金十五万円ノ株式組織ナリシガ、後チ増資ヲ重ネ、大正九年ニ五百万円トナリ、岡崎藤吉ノ社長ニ移リ、貿易業ヲ廃シテ生糸一本ニ改メ、社名モ亦神栄生糸株式会社トナル。

 - 第15巻 p.202 -ページ画像 

(伊藤長次郎)書翰 渋沢栄一宛 (明治未詳年)七月一七日(DK150016k-0002)
第15巻 p.202 ページ画像

(伊藤長次郎)書翰  渋沢栄一宛 (明治未詳年)七月一七日
                    (渋沢子爵家所蔵)
呈寸簡得貴意候、時下大暑之節ニ押移候処愈無御障被成御入候条奉恭賀候、陳者春分ニ者不容易御厄介被成下、弊家郡之独立シタキ請願其筋ヘ内意御陳述も被下候御蔭ニテ、是迄ハ印南郡ハ加古郡長兼務ニ候処本月九日専任郡長被差向候小倉広太郎氏大阪府下大鳥和泉両郡書記勤メ候人ニ御座候、誠ニ以大安心郡中之者ハ雀躍仕候、全ク伊藤氏之御蔭と申唱ヘ僕之名誉無限候、実ニ尊君之御蔭故と難有奉存候、早速ニ御礼書可奉差上之処、新任之郡長日々相談之事も有之不計延日仕候何レ其中錦地ヘ罷出万々可奉申謝候へ共不取敢呈寸書御礼奉申上候、先ハ右多謝旁書余は得拝謁候条草々如此ニ御座候
  七月一七日                  伊藤長次郎
    渋沢尊公
       呈足下


(伊藤長次郎) 書翰 渋沢栄一宛 (明治未詳年)一一月一二日(DK150016k-0003)
第15巻 p.202 ページ画像

(伊藤長次郎) 書翰  渋沢栄一宛 (明治未詳年)一一月一二日
                      (渋沢子爵家所蔵)
伊藤長次郎 渋沢尊君 御執事
十一月十二日午前 六時発 〆

拝啓寔ニ其後は意外之御踈音ニ打過申候、御海恕可被降候、追々寒冷相増候処愈御清健奉賀候、陳は不珍敷候ヘ共塩浜蒸海老二百呈上候、日ヲ持ツタメ二度蒸ニいたし申候故能く洗ツテ御笑味被下度候、先ハ御伺旁草々如此ニ御座候
  十一月十二日              伊藤長次郎
    渋沢尊処
      御執事


執事日記 明治二二年(DK150016k-0004)
第15巻 p.202 ページ画像

執事日記 明治二二年            (渋沢子爵家所蔵)
五月十三日 晴
一君公○栄一ニハ午后七時御帰邸、于時渋沢作太郎並ニ上原・高山ノ両氏来邸、暫時御談話有之候事


(八十島親徳) 日録 明治三三年(DK150016k-0005)
第15巻 p.202-203 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治三三年   (八十島親義氏所蔵)
三月八日 曇
九時出勤、出勤中小石川原町邸ニ阪谷氏ヲ訪ヒ(風邪引籠中)竜門社ニテ青淵先生還暦祝賀資金募集発表方法ノ件、京仁鉄道ノ一節訂正増補ノ案、(キ)上原氏ヨリ申出(キ)ニ関スル一項ハ弐千部増刊ノ際穏カニ訂正ノ件等協議ス、五時帰ル、青淵先生今日モ尚皆川氏ヨリ帰宅ナシ
○下略
  ○中略。
三月十日 晴
 - 第15巻 p.203 -ページ画像 
九時出勤、青淵先生ニハ昨夜ヨリ又々風邪気ニテ本日引籠、依テ偕楽園ニ植村澄三郎氏ヲ訪ヒ本日ノ札幌麦酒集会断ノ旨ヲ申述フ、上原豊吉氏より今朝又々六十年史現在刊行未発売(博文館ニアル)ノ分ハ、例ノ喜作氏ノ件文意(キ)ノ不信用ヲ来ス恐アルニ付悉皆買潰シ度云々ノ話モアリシニ付、瓦斯会社ニ大橋新太郎氏ヲ訪ヒ相談セシニ買潰等ノコトヲナサストモ一枚丈修正ノ上印刷シテ差替フレハ宜シカラントノ気付也、依テ更ニ阪谷氏ト相談(電話ニテ)ノ上穏ニ改正ノ案文ヲ拵ヘ上原氏ニモ一応電話ニテ打談シ無異議トノ挨拶ヲ取リ至急印刷会社ヘ命シタリ、明日中ニ出来ハ引カエル都合ニ運フ筈也○下略


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK150016k-0006)
第15巻 p.203 ページ画像

渋沢栄一日記  明治三三年   (渋沢子爵家所蔵)
五月二十六日 晴
○上略 午後五時第一銀行ニ出勤ス、横浜渋沢商店主作太郎・書上・桃井及佐々木・市原・長谷川ノ諸氏来リテ糸方貸金ノ事ヲ談ス、夜共ニ会食シテ九時散会ス


(八十島親徳) 日録 明治三三年(DK150016k-0007)
第15巻 p.203 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治三三年   (八十島親義氏所蔵)
七月九日 晴
○上略
今夜横浜渋沢商店員諸氏ヲ帝国ホテルヘ招待セラルヽニ付招伴ヲ命セラレ五時頃一寸帰宅フロツクコートニ着換エ出向ク、渋沢作太郎・書上順四郎・川連惇次・笹沢・桃井・長谷川・佐々木・上原・西脇諸氏ニシテ主人・若主人・倉庫部伊藤・松平及予共惣計十四人ナリ、例年生糸店決算済後ニ定例トシテ青淵先生ノ催サルヽ慰労宴ナリ、本年ノ決算ハ例年ノ倍即六万余円ノ純益アリシト云フ
○下略


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK150016k-0008)
第15巻 p.203 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三三年   (渋沢子爵家所蔵)
八月二十一日 晴
○上略 三時第一銀行ニ出勤ス、横浜ヨリ桃井可雄来ル、渋沢商店ニ対スル取引上ノ事ヲ談ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK150016k-0009)
第15巻 p.203 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三四年   (渋沢子爵家所蔵)
三月十八日 晴
○上略 渋沢作太郎来ル、店員増給ノ事ヲ談ス、十二時海上保険会社重役会ニ列ス、畢テ末延氏ト経済上ノ談話ヲ試ム、四時第一銀行ニ出勤ス横浜丸喜商店及市原氏等ヘ書状ヲ発ス ○下略
  ○中略。
五月廿七日 晴
○上略 此日横浜渋沢商店ノ人々来リテ生糸ニ対スル前貸ノ事ヲ評議ス


(八十島親徳) 日録 明治三六年(DK150016k-0010)
第15巻 p.203-204 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治三六年   (八十島親義氏所蔵)
十二月十三日《(一月)》 快晴
九時過出勤、午前十一時五十分ノ汽車ニテ若主人ト共ニ横浜ニ至ル、
 - 第15巻 p.204 -ページ画像 
昨年五月以来匿名組合ノ組織トナリタル渋沢糸商店ノ視察ノ為也、予ハ今回ヲ始メテトス、先第一銀行ニ至リ石井支配人其他ト会シ弁当ヲ食シ二時(キ)商店ニ至ル、渋沢作太郎氏・書上順四郎氏、桃井可雄氏等ト会見、近況ヲ聞キ、糸ノ見本、荷造リ、庫入ノ模様等ヲ見ル ○下略
  ○中略。
一月廿二日 晴
○上略 午後五時ヨリ深川邸ニ至ル、桃井可雄氏(キ)ノ計算書提出ノ為来訪ニ付夕食ヲ供シ且其説明ヲ聞カルヽニ付、予モ若主人ノ命ニ依リ参リシナリ ○下略
  ○中略。
四月四日 晴
午後二時十五分ノ汽車ニテ王子ニ行ク
今日ハ渋沢(キ)商店主店員ヲ主トシテ王子ニ招カル、即作太郎・書上・桃井・笹沢其他、又第一銀行石井・大沢・同本店佐々木・西脇・西園寺・荒井・仲・石井、(キ)東京店ノ上原、鳥羽倉庫ノ利倉、元方ヨリモ予等出席ス、先ツ庭園大山辺ニテンプラ屋ヲ設ケ、点灯後ハ表坐敷ニテ配膳、円遊一座ノ余興アリ、九時半一同退散 ○下略
  ○中略。
四月廿七日 晴
○上略
午後四時ヨリ若主人ト同行深川渋沢商店ニ至リ、店主作太郎氏モ出京中ニテ上原・鳥羽等ト帳簿ノ附キ合ハセヲナシタリ、右ハ昨年来両渋沢家ノ組合営業トナリタルニ付毎月計算表ヲ差出サシムルニ対シ、一先ツ其元ヲ帳簿ニツキ合ハスベク男爵ヨリ命セラレシニ依ルナリ、七時帰宅 ○下略
四月廿八日 曇
午前九時新橋発ノ汽車ニテ若主人ト横浜ニ至リ、渋沢生糸商店ニ臨ミ在荷ノ検査其他諸計算表ト帳簿トノ附合ヲナス、店主渋沢作太郎氏・書上・桃井諸氏応接セリ ○下略
  ○中略。
六月廿九日 晴
九時出勤、本日午後六時ヨリ同族会ヲ招集セラレシカ、他ノ来客輻湊シ、殊ニ渋沢喜作氏北海道製麻会社社長トシテ一己ニ社金費消ノ件ニ関シ、渋沢作太郎・書上・桃井氏等ヲ召換セラヽ《(レ)》シ要事ナドアリシヲ以テ、来会ノ同族諸氏ハ只徒ラニ男爵ノ手ノ明クヲ待チ、漸ク午前一時ヨリ始マリ、終リシハ二時半東ノ空稍白マントスル頃ナリ


(八十島親徳) 日録 明治三七年(DK150016k-0011)
第15巻 p.204 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治三七年   (八十島親義氏所蔵)
六月廿八日 曇
今日ハ深川若主人横浜(キ)商店帳簿検査出張ニ付同行ス、予ハ品川駅ヨリ八時五十五分乗込ム、午後六時帰宅 ○下略


渋沢栄一 日記 明治三八年(DK150016k-0012)
第15巻 p.204-205 ページ画像

渋沢栄一日記 明治三八年   (渋沢子爵家所蔵)
六月八日 晴 西風
 - 第15巻 p.205 -ページ画像 
○上略 午前十一時第一銀行ニ抵リ事務ヲ視ル、午飧後重役会ヲ開ク、畢テ丸喜原店《(糸)》ノ事ニ関シ作太郎・書上・桃井ノ諸氏ニ営業上ノ注意ヲ縷述ス、午後五時相共ニ銀行倶楽部ニ抵リテ午飧《(マヽ)》シ、夜十一時王子別荘ニ帰宿ス


(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK150016k-0013)
第15巻 p.205 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治三九年   (八十島親義氏所蔵)
二月六日 晴
○上略 渋沢倉庫部事務所新築落成今日移転式ヲ行フ、男爵始尾高氏及予臨席ス ○中略
帰路若主人及尾高氏ト共ニ(キ)店ニ立寄ル


渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK150016k-0014)
第15巻 p.205 ページ画像

渋沢栄一日記 明治四〇年          (渋沢子爵家所蔵)
一月六日 晴 軽暖                起床六時四十分 就蓐十一時三十分
○上略 桃井可雄来話ス、昨年生糸販売ノ景況ヲ詳説セラル ○下略
○中略。
五月十九日 晴 軽暑               起床八時 就蓐十二時
起床後庭園ヲ散歩シ、本日ノ来客ニ対スル設備ノコトヲ家人ニ指揮ス ○中略 三時頃ヨリ第一銀行本支店ノ行員及丸喜商店員等多人数ヲ招宴ス中川碁伯其他種々ノ余興アリ、一同歓ヲ尽シ夜十一時散会ス
頃日来ノ所労聊怠リタルヲ以テ此日ハ終日来客ニ接遇スルヲ得タリ
○中略。
九月十一日 曇又雨 冷              起床六時三十分 就蓐十二時
○上略 五時浜町常盤屋ニ抵リ、丸喜商店ノ宴会ニ出席ス、一場ノ謝詞及懐旧演説ヲ為ス、杯盤中種々ノ余興アリ、賓主皆歓ヲ尽シ、夜十一時半王子ニ帰宿ス


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK150016k-0015)
第15巻 p.205 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四一年         (渋沢子爵家所蔵)
十二月十九日 半晴 寒甚
○上略 午前十一時二十分新橋発ノ汽車ニ搭シテ横浜ニ抵ル、香上銀行支配人ジヨンス氏ノ招宴ニ依ル、同業者其他会スル者十数名、午飧畢リテ横浜支店ニ立寄リ、丸喜糸方ノ人ニ来会シテ生糸商業ノ概況ヲ聞知シ、午後四時半新橋着 ○下略


渋沢栄一 日記 明治四二年(DK150016k-0016)
第15巻 p.205 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四二年         (渋沢子爵家所蔵)
六月二十八日 雨 冷
○上略 四時兜町事務所ニ抵リ ○中略 五時渋沢作太郎氏及糸方米方主人等来会ス、共ニ晩飧ヲ食シ事務上ノ要件ヲ談話ス○下略


(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK150016k-0017)
第15巻 p.205 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治四二年     (八十島親義氏所蔵)
六月二十八日 曇夜雨
○上略 兜町ニ出勤、夜渋沢商店ノ連中ヲ招カル、洋食、円喬ノ話



〔参考〕中外商業新報 第三五七〇号 明治二七年二月二日 ○依田亭の宴会(DK150016k-0018)
第15巻 p.205-206 ページ画像

中外商業新報  第三五七〇号 明治二七年二月二日
○依田亭の宴会 深川なる渋沢商店並に蠣殻町の一、本印其他重なる
 - 第15巻 p.206 -ページ画像 
仲買諸氏主となり、昨夕浜町の依田亭へ此程より滞京中なる大阪の阿部彦太郎、越中の関野善次郎・馬場道久及当地の松沢与七・浜野茂の五氏を招待し、盛宴を開き種々なる趣向もありたるが、賓主孰れも胸襟を披きて高談快飲更の闌るを知らず各々歓を尽くし散会せりと、此会合に専ら斡旋せしは渋沢商店の上原氏なりといへり



〔参考〕中外商業新報 第四六七一号 明治三〇年九月八日 ○生糸続て売行く(DK150016k-0019)
第15巻 p.206 ページ画像

中外商業新報  第四六七一号 明治三〇年九月八日
    ○生糸続て売行く
一昨六日夕景渋沢商店より信州凡二百個を取入れたる乙九十番は昨日亦引続き商談を運びて遂に茂木商店より竜上館・明十社八百六十弗、伊奈社八百七十弗、七曜星八百五十弗を初め凡百八十個、甲州矢嶋社金八百六十弗、同銀八百四十五弗を初め凡百四五十個の手合を為し、尚同館は原商店よりも白鶴・東英を八百五十五弗に引込等頗る気勢好く買進み、又八九十番は座繰格安物を、百九十八番及生糸会社は欧洲向中細物を買入れたる等、夕景迄に千個以上の商内ありて随分活溌なる荷動ありたり
されば出来直は案外安からさりしも、其安からさりしか為めにや乙九十番の外は二百十六番か信州物に買気を呈せるのみにして他は大に買気を萌せる向なく、殊に定期市場は現物所有の売物の為めに抑へられて伸ひ兼ねたれば、商内の多かりし割合に市場賑はざりし由、前途如何にや



〔参考〕東京経済雑誌 第四〇巻第一〇〇五号・第一一一一―一一一二頁 明治三二年一一月一八日 渋沢商店の米作予想(DK150016k-0020)
第15巻 p.206-207 ページ画像

東京経済雑誌  第四〇巻第一〇〇五号・第一一一一―一一一二頁 明治三二年一一月一八日
    ○渋沢商店の米作予想
本年の米作に就ては従来の見込区々として一定せず、今農商務省が九月五日及び同十五日に発したる予想高を、平作及び昨年に比較すれば左の如し
                           石
 三十一年産額           四七、三八七、六六六
 平年産額             三九、九四〇、二一三
 九月五日農商務省予想       四一、八四一、九九三
 同十五日農商務省予想       三九、一四九、六〇〇
然るに世間にては或は三千五百万石、或は又三千六百万石に過ぎずと云ひ、兎も角も農商務省調査よりも不結果なるべきを予推せるが如くなるが、今又米穀取扱商店として最も経験信用ある渋沢商店は左の如く予測したり
    三十二年米作予想歩各《(合)》

図表を画像で表示三十二年米作予想歩各《(合)》

                                            割 神奈川・島根・大分・宮崎・沖縄                         一〇・〇 秋田・山形・新潟                                 九・五 長崎・佐賀・福岡・熊本・鹿児島                          九・二 福島・宮城・岩手・青森                              八・七 東京・埼玉・栃木・千葉・茨城・群馬・長野・山梨・京都 大阪・奈良・兵庫・和歌山  八・五 富山・石川・福井                                 八・四 静岡・愛知・岐阜・三重・滋賀・岡山・広島・山口・鳥取               八・〇  以下p.207 ページ画像  徳島・香川・愛媛・高知                              七・五 北海道                                       未詳  平均                                      八・六四五 



即ち之に由りて平年作に割当つるときは左の如くなるべしといふ
                           石
 平年作              三九、九四〇、二八三
 三十二年米作予想         三四 五二八、四六五



〔参考〕東京経済雑誌 第五五巻第一三九二号・第一〇三九―一〇四一頁 明治四〇年六月一五日 東京に於ける米の需給(五月下旬調)(DK150016k-0021)
第15巻 p.207-209 ページ画像

東京経済雑誌  第五五巻第一三九二号・第一〇三九―一〇四一頁 明治四〇年六月一五日
    東京に於ける米の需給 (五月下旬調)
                     渋沢商店調査
本年の端界目の過不足に就きては、早くより当業者間の大問題にして而かも相場は不足を意味して、定期市場の先物は非常の上鞘を仕払ふの常なりし、然るに天災の初期に入らんとする今日に至りて、反て其鞘を縮めんとする姿勢を示せり
右は畢竟昨秋持越米の欠乏と、関東及三陸其他の劣作を気構へ新米の初めより所謂先き高の念強かりしが、現今各集散地は殊の外多額の在米を有し、恰も供給過多の現状を呈したるより玆に至りし事歟と思はる景況なり
斯る状況に付、今後の需用と供給の多寡に係る見込は、此際最も必要の事柄なれども、拠る所なく漠然其多少を想像するに止り、今算を採り数字を並へ、之を計上するが如きは到底及ばさる次第にて、彼の収穫高の見込より数層の難事たり、依て玆に既往の統計を基礎として、各地方の状況に拠り調査の手続きを列記し、仮りに其数字を以て例題を挙け、各位か調査上の便に供するの目的を以て、左の如く東京に於ける需給の関係を表示せり、尤可成丈け事実的思想を以て計上したり
  明治四十年五月半より九月末に至る
                東京に於ける需給調例題
    ○需用
一東京市消費高           九拾参万千五百石
 東京市の人口現在二百三十万人と見積り(其筋の戸籍調査に拠れは二百〇六万余人)一人一日三合割一箇月凡二拾万七千石の概算なり
  但し本年の状況に拠れは今後他へ再輸出あるへきを予期すべしと雖も、之を既往に見れは比較的小量なるものなるが故に略して計上せす
    ○供給
一関東地廻りより          拾四万弐千五百石
 東京府・埼玉県・千葉県・茨城県、一府三県下の平年産額凡四百万石、昨年は一割五分減収(其筋の調査は一割強)此石三百四十万石と概算し、内二割を東京へ供給するものと見込み、此高六拾八万石又此内新米の初め(昨年十月)より既に供給したるもの約五十三万七千五百石を引去りたるものとす
  但し供給高を収穫高の二割と見込たるは、平年にして三割を供給する余裕ある場所柄とせり、然るに昨秋の劣作に加るに新米を早喰せしを以て、昨年度の産米供給額は非常に減殺せらるへき筈な
 - 第15巻 p.208 -ページ画像 
りと雖も、米価と麦価は恰も反比例にして自ら格安なる大麦の消費を増加すへきか故に、米の供給多きを見込たり
  新米の初めより既に供給したる高を約五十三万七千五百石と概算したるものは、昨年十月より本年五月半まで七箇月半に東京市中の消費高概算百五十五万二千五百石の中、深川市場より供給したるもの約七十七万五千石、鉄道便に拠り各地より供給高概算二十五万石(約五十万石の内半高地廻米として除く)の二口を引去りたる残高五十二万七千五百石を、悉く地廻り米の供給と見做し、外に深川へ入庫したる地廻り米約一万石を加へ、合高五十三万七千五百石と仮算せり
  地廻り米の積出高又は東京市中へ輸入高とも従来拠る所なく、従て之か統計したるものなし、依て東京市中の需要高を基として各方面よりの供給高を概算し裏面より既往の供給高を求めたり
一大阪以西の各地より          拾参万五千石
 前五箇年の平均輸入高約四十万五千石にして、最多額は明治三十六年度の約九十二万石なりとす、本年は前五箇年平均高の二倍則八十一万石と見積り、内新米の初めより既に輸入したる高約六十七万五千石を引去りたるものとす
  但し九州地方は昨秋米の豊作に加ふるに粟・甘藷等も亦増収するを得たるを以て、米の供給自ら増加すへきに反て米価は騰貴したり、米価の騰貴は関東及三陸地方の劣作に基因するものとのみ思惟し、恰も倖僥したるものゝ如き一般の気配なりしか故に、本年も又昨秋の如く底を払ふに到るへき景勢なるを以て、仮令昨秋新米を早喰したる事実ありと雖も、本年度は前五箇年平均高の二倍を供給し得へきも見込みたり
一北国各地より             六万三千石
 前五箇年の平均輸入高は約二十九万三千石なりとす、本年は之に一割を増し約三十二万石と見積り、内新米の初めより既に輸入したる高約二十五万九千石を引去りたるものとす
  但し昨秋は通して平年作にして最も早くより新米を消費したるか故に、本年度の供給力は夫丈減殺せらるへき筈なりと雖も、比較的生産費は低きに居り、独り米価の割合高かりしか為めに本年も亦揮つて売尽すへきを予期し(既に高岡は五月限の渡米に不足を告け九州米一万余石を該地へ輸入せりと)平均輸入高に対して単に一割の増加を見込みたり
一東海道各地より            七万石
 前五箇年の平均輸入高は約二十二万二千石なりとす、本年は之に三割を減し約十五万五千石と見積り、内新米の初めより既に輸入したる高、約八万五千石を引去りたるものとす
  但し昨秋は通して平年作弱にして而かも新米の早喰あり、各種の事業旺盛にして自ら土地の消費を増加しつゝあり、加之相州地方の劣作尻を補ふもの少しとせす、故を以て前五箇年の平均輸入高に対して単に三割減を見込込《(衍)》たり
一三陸地方より             …………石
 - 第15巻 p.209 -ページ画像 
 前五箇年の平均輸入高は約六万七千石なりとす、而して該地方は一昨年及昨年に渉る凶作にて殆んど供給するの余力なきを見込みたり
  但し昨年十月より本年五月半迄に深川の入庫高は僅に五千八百六十七俵(四斗入)外に十二月乃至二月中に隅田川及秋葉原停車場へ鉄道便に拠り輸入ありしと雖も、些少にして数ふるに足らす、依て今後も殆んと輸入の見込なきを予期したり
一鉄道便に拠る各地より          四万五千石
 一箇月の輸入予想二万石、今後四箇月半の積数九万石にして、内半高を地廻り米と見做し、之を引去りたるものとす
    要計
                          石
 輸入合高               四五五、五〇〇
 外に五月十五日調査現在高       五〇〇、〇〇〇
 合計供給高              九五五、五〇〇
 内消費高               九三一、五〇〇
 差引九月末残存高            二四、〇〇〇
 以上の概算に拠れる九月末の残存高二万四千石は、僅に数日の消費を支ふるに過きす、而かも輓近商取引の膨張したる度合より之を想察すれは、仮需用の為に寧ろ不足を意味するものと云ふを得へし、加之前掲の如き輸入高に達するときは、各生産地は殆んと米の欠乏を来し、昨年より以上の払底を告くるに至らんも、未た知るへからす、果して然らんには之か需給の調和は、勢ひ相場の作用に待たさるへからす、而して其相場作用の関係は素より知るに由なしと雖も今之れを理想に求むるに現今の相場を仮りに至当の標準とし、価五分昇るに従ひ供給二分五厘を増加し、之れに反して消費二分五厘を減するの割合を以て、強ひて玆に算出すれは即ち左表の如し


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 米価         供給額                              需用額       差引残高 五月上半平      今後の輸入額    五月十五日                 今後の消費額    九月末深川 均標準相場      米価五分昇     深川倉庫在高      二口合高      米価五分昇     倉庫残存高 より五分増      に従ひ供給                           るに従ひ消 の割合        二分五厘増                           費二分五厘            加する割合                           減する割合       円銭         石         石           石         石         石 標準 一五、九八   四五五、五〇〇   五〇〇、〇〇〇     九五五、五〇〇   九三一、五〇〇    二四、〇〇〇    一六、七八   四六六、九〇〇   五〇〇、〇〇〇     九六六、九〇〇   九〇八、二〇〇    五八、七〇〇    一七、六二   四七八、五〇〇   五〇〇、〇〇〇     九七八、五〇〇   八八五、五〇〇    九三、〇〇〇    一八、五〇   四九〇、五〇〇   五〇〇、〇〇〇     九九〇、五〇〇   八六三、四〇〇   一二七、一〇〇    一九、四二   五〇三、〇〇〇   五〇〇、〇〇〇   一、〇〇三、〇〇〇   八四一、八〇〇   一六一、二〇〇    二〇、三九   五一五、六〇〇   五〇〇、〇〇〇   一、〇一五、六〇〇   八二〇、七〇〇   一九四、九〇〇    二一、四一   五二八、四〇〇   五〇〇、〇〇〇   一、〇二八、四〇〇   八〇〇、二〇〇   二二八、二〇〇 






〔参考〕銀行通信録 第一四二号・第八二―八五頁 明治三〇年九月 【左の一篇は東京廻米…】(DK150016k-0022)
第15巻 p.209-212 ページ画像

銀行通信録  第一四二号・第八二―八五頁 明治三〇年九月
 左の一篇は東京廻米問屋なる渋沢商店が既往の米況に就きて調査したる者にして、当業者は勿論経済事情に注目する人々の参考とも為るべき者なれば、玆に転載することゝせり
    三十年間の米況
明治元年に於ける江戸の米価は一年平均一石六円(安直は其三月にして平均三円七拾銭なりし)にして、之を慶応二三年の壱石六円乃至七
 - 第15巻 p.210 -ページ画像 
円に比すれは殆と半価の下落を示したり、蓋し慶応年間は内訌の為め人心堵に安んせす産業萎靡し殊に米穀の生産力も大に減額したるか上に、運輸の途絶へたる等の支障ありて江戸の相場は比較上割高なりしも、彼の維新革命の秋に際し総て有る物は売却して之を金に換へ置くの安全に如かすと云ふは一般の人気にて、自然貯米を売出すより供給多きに過き勢ひ米価も亦(明治元年)格安なりしなり、然るに同年は雨天勝にて意外の凶作となり、加ふるに紙幣の発行あり次て戦乱治り維新の大業漸く緒に著き、民間の景気俄然回復して需用急なるより玆に供給の不足を感し、明治二三年の交には已に壱石拾円台に騰貴したり、而して当時外国との貿易未た盛ならさるも内地の米価騰貴と貨幣の割合不同にして彼の南京米と称する外国米を輸入して我国の貨幣を輸出する外国人多く、其交易のみにても壱千九百万円の巨額に達したるに、同年豊作の結果として同五年は一石四円より三円五拾銭の暴落を見るに至れり、爾来市価漸く回復するの気運に際し同六年に地租を改正せられ之と同時に三井・小野組等をして地方に米を買入しめ以て下落の予防を怠らさりしかは、格別の変動もなく当時之か為に米価の下落を促さゝりし、越て同七年に至り佐賀の乱に次て台湾の役あり人気大に動揺し米価は忽ち八円弐拾銭に騰貴し、翌八年に至りては士族の家禄奉還の影響にて景気を添へ辛くも高価を持続したりと雖も、畢竟佐賀の乱、台湾の役或は秩禄公債等の為めに全く一時の仮需用を増加せしめたるものにして、真個の需用供給の変化より来したる騰貴にあらさりしを以て忽ち下落を促したり、此時に方りて彼の地租改正の影響も加はりたれは明治九年より十年に渉りて米価は五円内外にして其当時地方の金融必迫して地租上納季節に至れは少しく運輸不便の地方の如きは壱石弐円台の取引さへあるに至れり、玆に於て政府も地租納金抵当米法を設け、預米規則を発布し、或は常平法を設けて政府自ら地方に米を買入る等百方苦慮したると、米価も亦自然の回復期に向はんとするに際し、西南の乱紙幣増発等の影響より米価は頻りに奔騰して十一年に平均六円五拾銭となり十二年は平均八円となり(此年十月々尾深川倉庫在米僅に四万俵内外にて平均相場九円なりし)遂に十三年十二月に於て拾弐円五拾銭となり実に未曾有の暴騰を呈したり、当時政府は常平倉を開きて頻りに其米を売出し或は定期売買市場を停止し、又下米建の売買を為さしめ呼直を低からしめたりと雖も其効を奏せさりき、要するに紙幣下落の反響と地租の改正にて米は全く農家か自由を得自ら消費額の増加を来したるの結果に外ならさりし、銀紙の差あるに関せす米価の騰貴に促かされたるか、当時農家生計の程度は頓に著しく高まりし為めに一時社会は好景気を示めしたるか、爾後米価は漸く下落の傾向を現はし此の米価の下落の為め金融上の関係より勢ひ地方に売米の多きを致し、遂に十六七年の交には殆んと一石四円の低位を示すに至れり、然るに十七年の凶作にて十八年には七円内外に回復したりと雖も、是より先きに兌換銀券発行の準備として金札引換公債に大蔵省証券の発行ありて紙幣の引上け急にして、終に銀紙の差全く平価に復すると共に米価及一般の物価下落甚たしく、殊に地方の困難は年一年に甚たしきを加へ往々土地さへ売却する者あるに至
 - 第15巻 p.211 -ページ画像 
れり、斯る時に方りて個人としては勢ひ過量の米を売却するは勿論、又一方に在ては年々米価の下落と兌換制度とに促されて歳久しく共有したる備荒貯蓄米を売払ひ(公債証書等に代へ)たり、斯の如き状況なれは供給過多の結果として廿一年には四円七拾銭(七月)迄低落せり、故に或る地方の如き壱石弐円台を示したりき、壱石の米を収穫せんには三百坪(小作使用)の地積を要して天候も亦順にして而も営々労々力を至さゝるへからす、而して其価を問へは弐円乃至三円と云ふ之れ豈引合ふものならんや、左れは勢ひ生産額減して需給の権衡を失し相場は自然高きに向はさるを得す、而して海外への輸出米も亦廿一年より二十二年に渉り毎年七百四拾万円の多きに達せり、是に於て乎世間一般の景気復た回復し、需用の漸く急を告くるの秋に当りて、明治二十二年の不作は米価騰貴の導火線となり実に破竹の勢ひを以て沸騰するに至れり、此相場は翌二十三年六月に於て拾弐円と云ふ稀有の市価を現出し為めに各地不穏の状を呈せり、玆に及んて政府は大に驚き外国米を買入又は内国米の定期売買に外国米の代用を命する等、百方輸入を奨励し以て米価の下落を希図したるの結果は、海外貿易に於て、輸入の超過弐千五百万円となり、続て経済市場に恐慌を来し、民設鉄道買上論をさへ喋々するの時に際して米作は非常の豊作を告け米相場著しく低落して、廿四年には七円内外を往来し、廿五年より廿六年は七円乃至八円の相場にて漸く落付くことを得たり、夫れ斯くの如く明治の始めに在つては維新大業の為めに及ほしたる変動にして勢ひの然らしめたるものと云ふへし、然れとも爾後の廿年間に於ける変動の甚たしきものは之れ皆商政を誤りたるの結果にあらさるなき乎、蓋し当時経済思想乏しきか故にて即ち運輸金融等の機関備はらさるに米納を金納に改め、米価下落して後預り米の規則或は常平法を設けて以て米価を支配せんとし、或は無職の士族に公債証書を一時に下附し或は紙幣を出し過し、又は俄に引上け或は定期米の公共市場を停止し、又は米商会所条例を改正し禁止的の重税を課し其取引に官吏の立会を要し、又は日本米の取引に外国米の代用を命し政府自ら外国米を輸入して既に廃止したる常平法を復た行ふ等其他枚挙に遑あらす、而して米価騰貴の原因如何又は下落の理由如何と真面目に議論したる当時の人気をして、今より之を追想すれは笑止と云ふの外なき有様なりし、然り而して其後政府の干渉も漸く度合を減し経済市場も漸次に回復し運輸交通益々頻繁なるに随ひ、米の消費も共に増加しつゝありしとき恰も廿六年の米麦の不作なるに加へ銀貨の低落は米価騰貴を促し、廿七年の征清事件は又米価を高むるの動機となりしか、戦争の当時は自ら勤倹貯蓄の念を生せしめたると軍費募集等の影響にて騰貴せんとする米価も為めに其機なかりしか、戦勝又戦勝終に馬関条約を締結するに及んて一般の景況非常の勢ひにて膨脹せしかは、米の需用も自然増加したるに、恰も二十九年の不作は遽かに米価をして一層騰貴せしむるの一大発動機となり、玆に著く速力を加へて沸騰したる結果か即ち現今の状況にて、正米及定期米も共に拾弐円台を呼ふに至りしなり
之を明治元年の相場に比すれは二倍六七割の騰貴なりと雖も、昔日運輸不便の地方に在ては三倍乃至四倍の増価なるを以て到底比較上計算
 - 第15巻 p.212 -ページ画像 
の及はさる所なりとす、如斯騰貴を致したる所以を更に約言すれは、貨幣の制度を改正したると、貢米の金納に改まりてより農家自ら消費の増加を来したると、殊に廿七八年後は地方の消費著く増加し産額之れに伴ふこと能はさると、運輸の便利と金融の円滑なると、倉庫の増設ある等金融機関漸く発達するに従ひ仮需用者の常に多きを為したること等は最も主たる因由なりとす
 因に曰ふ明治十二年十月々尾深川倉庫の現在米四万俵内外の時は其の相場壱石九円なりしもの、本年五月末の在米は八拾四万八千余俵にして(一時九拾七万俵となりし)米価拾弐円以上なり、以て人為の膨脹力より来したるもの又少しとせす
  ○明治二十一月五年東京廻米問屋組合ヨリ印行セラレタル「東京廻米問屋玄米品評会要件録」(土屋喬雄氏所蔵)ニヨレバ渋沢喜作ハ右品評会ノ委員長タリ、同会ノ大要左ノ如シ。
   会場地名  東京府武蔵国深川区小松町七番地
   会名    東京廻米問屋玄米品評会
   開場    明治二十一年五月五日
   閉場    明治二十一年五月十七日
   褒賞贈与式 明治二十一年五月十八日
   出品区域  日本全国
   出品人員  二百八十五人
   出品員数  四百五十三種 壱万八千九百六十一俵
   出品種類  内国産米
   右出品員数四百五十三種ノ中渋沢商店ヲ受託人トスルモノ実ニ百二十ヲ占ム。
   五月十八日褒賞贈与ノ式ニ於ケル委員長ノ祝詞左ノ如シ。
       祝詞
    我東京廻米問屋組合員ハ本月五日ヲ以テ玄米品評会ヲ開設シタリ、本会ハ汎ク各地ノ産米ヲ集メ之ヲ品評シテ需用者ノ希望スル所ヲ示シ、併セテ各米産地進歩ノ実況ヲ対照シ、大ニ我米産ノ改良ヲ図リ、以テ商売ノ発達ヲ希フニ外ナラス、然ルニ各地ノ出品者ハ厚ク我々ノ希望ヲ賛助シ此会ニ出品スルモノ実ニ四百五十三口ノ多キニ至ル、我々何ソ深ク其厚意ヲ謝シ且其殖産ニ熱心ナルヲ喜ハサルヲ得ンヤ
    本会審査員ハ我組合員及ヒ仲次人等ノ内米穀ノ事ニ経験アル者数名ヲ撰ミ特ニ其任ニ当ラシメ、審査細則ニ循ヒ少量ノ見本ニ拠ラス各種三十俵以上ノ毎俵ニ就キ丁寧周密ニ審査ヲ遂ケ、且農商務省ヨリ派遣セラレタル審査官ノ監督ヲ受ケ品位ヲ評定シタルモノナレハ、其品評ニ於テ敢テ過誤ナキヲ信スルナリ、今審査員ノ報告ニ拠リ其点数ヲ算シ褒賞贈与ノ式ヲ挙行ス、此時ニ当リ農商務大臣閣下其他各位ノ臨場ヲ辱フシ本会ニ一段ノ光栄ヲ添ヘタリ、我組合員等深ク感謝スル所ナリ、爰ニ賞状ヲ贈ルニ臨ミ聊カ此会ノ顛末ヲ述フ
                     委員長 渋沢喜作
   渋沢喜作商店ノ所在地左ノ如シ
    日本橋区坂本町八番地