デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
29節 其他
3款 秀英舎
■綱文

第15巻 p.213-225(DK150017k) ページ画像

明治9年10月9日(1876年)

佐久間貞一・大内青巒等活版印刷ノ業ヲ創メントシ、栄一ノ援助ヲ以テ抄紙会社東京分社ノ機械ヲ借受ケ、秀英舎ヲ設立ス。


■資料

株式会社秀英舎創業五十年誌 第一―二頁 昭和二年三月刊(DK150017k-0001)
第15巻 p.213-214 ページ画像

株式会社秀英舎創業五十年誌 第一―二頁 昭和二年三月刊
    沿革略誌
 明治九年十月九日佐久間貞一・大内青巒・宏仏海及保田久成ノ四名金壱千円ヲ共同出資シテ高橋活版所ノ事業及設備ヲ買収シ、今ノ京橋区当時ノ東京府下第一大区八小区弥左衛門町十三番地ニ活版印刷ノ業ヲ創ム、是即チ株式会社秀英舎ノ濫觴ナリ、当時社名ヲ単ニ秀英舎ト称シ、四六判八頁掛手引印刷機械・半紙倍判掛手引印刷機械及半紙判掛手引印刷機械各壱台、並ニ四号・五号ノ活字若干ノ設備ヲ有スルノミニシテ、従業員亦二十余名ノ小数ニ過キサリキ
 今秀英舎創立ノ顛末及開業当初ノ状況ヲ窺知スル一好資料トシテ、創業発起者ノ一人大内青巒カ嘗テ識ストコロノ一文ヲ左ニ摘録スヘシ文ニ曰フ
 回顧スルニ明治八年ノ春神仏併合ノ大教院解散ノ時ニ当リ、其ノ曾テ発行シ来レル教会新聞ノ事業ヲ予輩同人ノ経営セル明教社ニ継承シ、予カ始メテ佐久間貞一・宏仏海二氏ト倶ニ其局ニ当リ、明教新誌ト改題シテ隔日発行仏教専門新誌トナスヤ、未タ其印刷機関ヲ設備スルコト能ハス、百事不便ニ困ムノ際、今ノ本舎(註京橋区西紺屋町ニ在リシ旧本店ヲ指ス)ノ附近ニ於テ高橋活版所ト称スルモノ僅カニ金一千円ヲ以テ其活字及ヒ附属ノ器具一切ヲ挙ケテ之ヲ他ニ譲ラントスト聞キ、速ニ往キテ之ヲ購求スヘキノ契約ヲ為シタレトモ、予等三人皆貧困ニシテ僅々一千金ヲ得ルノ途ナキニ窮シ、三人相携ヘテ保田久成君ヲ訪ヒ、同君ヲ誘ヒテ予等ト事業ヲ共ニセンコトヲ請ヒ、予等三人連署シテ証書ヲ同君ニ入レテ金一千円ヲ借ルコトヲ得テ始メテ印刷機関ヲ備フルコトヲ得タレトモ、尚ホ其機械甚タ小ニシテ新誌ヲ印刷スルニ足ラサルニ困メリ、時ニ第一国立銀行(註同行附属簿記講習所ノ構内ニ設ケラレタル王子製紙東京分社ノ印刷工場即チ今ノ東京印刷株式会社ノ前身ヲ指ス)ニ数台ノ好機械ヲ有セリト聞キ、予ハ幸ニ渋沢栄一君ニ一面ノ識アルヲ憑ミ往テ同君ノ援助ヲ請ヒタルニ、同君ハ直ニ快諾シ予ヲ其部下陽其二氏ニ紹介セラレ、同氏ノ周旋ヲ以テ一大機械ヲ借用スルコトヲ得テ爰ニ始メテ新誌印刷ノ設備完全スルコトヲ得タリ、抑モ此挙元来明教社ノ業務ト其経済ヲ異ニシ、予等四人ノ共同経営ニ過キサルヲ以テ別ニ舎名ヲ按シテ秀英舎ト称シ、又秀英ノ反切ナル生ノ字ヲ以テ記号ト為シタルカ如キハ皆保田君ノ発案ニ係ル所ナリ云々
○下略
 - 第15巻 p.214 -ページ画像 
   ○明治三十七年十一月三日刊「佐久間貞一小伝」ニハ右ニ関スル記事ナシ。



〔参考〕東京経済雑誌 第六〇巻第一五一三号・第七五六―七五九頁 明治四二年一〇月二三日 株式会社秀英舎(上)(DK150017k-0002)
第15巻 p.214-217 ページ画像

東京経済雑誌 第六〇巻第一五一三号・第七五六―七五九頁 明治四二年一〇月二三日
  株式会社秀英舎(上)
 秀英舎は其創立の古き点よりして、其設備の完整せる点よりして、其事業の大規模なる点よりして、而して又社界に於ける信用の深厚なる点よりして、我邦活版印刷界の覇王と称せらる、去れば其事業沿革の如き、既に著書に雑誌に屡々世に紹介せられたるが故に、今更玆に区々の筆を弄するも畢竟蛇足に過ぎざる可しと雖も、特に余輩が秀英舎を逸する能はざる理由は、我社と秀英舎とは断たんとして断つ可からざる深き縁故を有するが為めなり、蓋し我経済雑誌社が明治十二年の創業以来三十年の星霜を経たる今日に至るまで、此週刊東京経済雑誌を初め、其他大小無数の出版物は悉く是れ秀英舎の印刷に成れるものにして、此長年月の間我社は只の一頁と雖も他印刷所の手に委したることなし、是れ素より我社の創立者故田口鼎軒博士と秀英舎の創設者たる故佐久間貞一氏とが極めて親友の間柄にて、鼎軒先生は秀英舎の事業を助け、佐久間氏は又我社の事業を援け、互に相済け相憐み、殆ど苦楽を共にし、一時我社の編輯局は秀英舎の一隅に在りしほどにて、縦令佐久間氏は悉く鼎軒先生の説に服せしに非す、時としては我誌上にて論戦の花を咲かしたることもありしほどなるも、其私交及び秀英舎と我社との関係は曾て渝ることなかりし特殊の情誼に依ると雖も、佐久間氏は去る明治三十一年を以て黄泉の客となり、鼎軒先生も亜で三十八年白玉楼中の人となりしを以て、若し彼我両社の当路者にして単に利害を以て離れ、損得を以て合するが如き軽薄心が露程にても存したらむには、両社の関係は復昔日の如くなる能はざるや必せり、然るに彼我の交情は今猶ほ旧の如く、我社の秀英舎を信頼すること篤きが如く、秀英舎も亦我社に対し多大の同情を寄せられ、雑誌の刊行に、将た図書の出版に、恒に多大の便宜を与へらるゝは、我社の感荷措く能はざる所にして、本誌が週刊雑誌として発行以来、未だ曾て発行期日を過るが如き不体裁を演ぜずして今日に至りしもの、其功の一半は秀英舎に頒たざるを得ざるなり、由来出版元と印刷所とは苦情の絶えざるもの、金銭の支払に付て之あり、印刷の工程に付て之あり、之が為め昨は甲の印刷所に托し、今は乙の活版所に嘱するは今も昔も変らざる出版界の実情なりとす、此間に在りて独り秀英舎と我社とが三十年来未だ曾て一回の紛諍なく、未だ曾て一片の暗雲なく靄々然として益々親睦するものあるは社会に向て吾人の私に誇りとする所なり、故に我社同人の秀英舎を見ること恰も我家の如く、其間毫も介在するものなし、余輩が今玆に秀英舎の事歴を繹ぬるは、恰も自家の経歴を叙ぶるが如き心地す、而かも我と彼とは事業の関係は密接なりと雖も、其本務の性質を異にし、其活動の方面を殊にするが故に、到底単簡なる数篇の記述を以てして同舎事業経綸の実相を罄す可きにあらずと雖も、聊か経営者苦心の在る所を世に示さんと庶幾ふのみ(一記者)
 - 第15巻 p.215 -ページ画像 
    〔一〕日本の印刷業と秀英舎
学者の鑿穿に随へば我邦印刷業の起源は今を去る千百三十九年前称徳天皇の宝亀元年三月百万塔中に入る可き陀羅尼経を刻して紙に印したるに在り、又活版と雖も今日に創まりたるにあらずして古くは植字板又は一字板などと称し、後に活字板と称するに至れりと云へり、蓋し印刷業の盛衰進否は一国の文野貧富を測量し得可き一の尺度とも云ふ可きものにして、文化にして発達せば印刷業も亦随て進歩す可きは当然の事なり、故に我国民と雖も支那又は印度の文明を吸収するに従て其印刷術をも伝習したるは疑なき所にして、縦令其方法技術に於て今日のそれとは霄壌の差あるにせよ、我祖先も印刷術によりて其智見を広め、其頭脳を開拓したるは素より多言を要せざるなり、然れども余輩は斯る古るめかしきことをほじくらんとするものにあらず、玆には只秀英舎が日本の印刷業に対し幾許の関係を有し、地位を保持するかを瞥見せんとするにあるのみ
之が為めには勢ひ先づ洋式印刷術の我邦に移入せられたる来歴を窺はざる可からず、抑々基督教伝来して西洋の文明を輸入し始めたるは足利の末世なるも、文字の形体組織を異にせる為め、其因て生ずる印刷術の如何なるものなるやを究めむと志したる者は尠かりしものゝ如く鉛製の活字を作り、以て西洋の印刷術を我が邦語に応用せんと試みたるは長崎の本木昌造と称する人にして、実に維新に程遠からぬ嘉永四五年の交なりしと云ふ、本木氏は世々蘭語の通詞なりしが故に彼は蘭書によりて活版印刷の方法を研究し、初めて流し込み活字を以て自著蘭和通弁の小冊子を印行したるが(嘉永四年)、鉛及印肉の不完全なりし為め印刷鮮明ならざりしを以て尚ほ鋼・銅・水牛等を用ゐて之が改良に苦心したるも、素より他に本職を有したるを以て充分なる成績を挙ぐる能はざりき、明治二年彼は長崎に一私立慈善小学校を設立し、其費用の一部を補はんが為め活字印刷業を開き、人を上海に派し英華書院に就て其術を学ばしめしも彼れ術を秘して伝へず、空しく帰ること数回なりき、偶々重野安繹氏が薩藩の為めに購入したる活字及印刷器の用を為さずして薩藩に在るを聞き、之を求めて自ら文撰の業に当り、彼の我邦新聞事業の創始者たる陽其二氏と共に印刷を試みしが技術未だ拙劣を免れざりき、偶々米人ガンブルの英華書院より罷めて帰るに会し、米国宣教師フルベツキを介して之を聘し始めて活字鋳造及び電気版の業を起せり、其伝習生の一部は彼の設立せる長崎新町活版製造所に入り、一部は製鉄所(本木氏も其御用掛なりき)と共に工部省に属し、明治五年東京に移り勧業寮活版所となり、後左院中の活版課に合して太政官印書局となり、更に大蔵省紙幣寮と合して現今の印刷局とはなれり、而して彼は明治三年工場を自宅に設けて、活字製造に従事し、又五代友厚と謀り大阪大手町に活版所を開きしが、五年七月門人平野富二東京に来りて神田佐久間町藤堂邸に出張所を設く、是れ実に現在東京築地活版製造所の揺籃なり、次で国文社興り、遂に当秀英舎は佐久間貞一・宏虎童・保田久成・大内青巒の四氏に依りて明治九年十月九日を以て設立せられたり
然り秀英舎の創立者は前記四氏なりと雖も、就中最も多く創業事務に
 - 第15巻 p.216 -ページ画像 
関係し、且つ秀英舎の今日ある基礎を築き上げしは佐久間貞一氏なりとす、実に氏の秀英舎に於けるは之を例せば福沢翁の慶応義塾に於けるが如く、自ら開き、自ら指導し、自ら固くせしもの、氏は既に十年前の昔に簀を易えたりと雖も其事業其感化は今猶ほ現存し、舎運をして益々向上発展せしむる無形の指導者たること猶ほ義塾の福沢翁に於けるが如く、福沢翁なくんば慶応義塾なしと云ひ得べきが如く、佐久間貞一なくんば秀英舎なしと云ふも蓋し過言にあらざる可し、我社と鼎軒先生との関係も全く其揆を一にするものなり
偉大なる人格者たる佐久間貞一氏に率ゐられたる秀英舎は内に健全なる成長を為すと同時に、外日本の印刷業界に於て毎に先鞭を着けて斯業の発達に貢献し、遥に先進者を凌駕して今日の盛況を呈せり、今其二三の例を挙ぐれば蓋し左の如けん
 一、徒弟制度の完備を計り職工の技術奨励と人格修養とに注意したること
 一、数多の日刊新聞の印刷を引受け、新聞事業幼稚の時代に於て克く之を培養したること
 一、卒先して印刷機の原動力を蒸汽力に改めたること
 一、初めて公債証書の製版印刷を創めたること
 一、鉄工部を設て新式印刷機械の製造修繕を創めたること
宜なる哉、職工徒弟制度の完備せる点に於て、技術の練達せる点に於て、規摸の大にして設備の完整せる点に於て、将又活版印刷と名の付く者にして為し能はざる事なきの点に於て、秀英舎は全く斯界の独壇場に在ることや、若し夫れ其詳細の記述に至りては篇を重ねて読者に示す可しと雖も、創立以来を沿革の重要なる項目を掲ぐれば次の如し
 △明治九年十月資本金一千円の合資組織を以て東京京橋区西紺屋町に創立し秀英舎と称す
 △同十一年四月徒弟制度を設け徒弟を募集し寄宿舎に収容して学科及実技を伝習せしむ
 △同十二年十一月東京横浜毎日新聞(今の東京毎日新聞)の印刷を引受く、是より続々日刊新聞の印刷を依托せらる
 △同十四年一月資本金を一万円に増加す
 △同年七月鋳造部を京橋区山下町七番地に新設し製文堂と称し、活字類の鋳造を始む
 △同十六年三月印刷機の原動力を蒸汽力に改む、民間斯業者にして蒸汽力を用ひたるの嚆矢なり
 △同年四月職工間の矯風の為め貯蓄金規則に制定して勤倹貯蓄を奨励せり
 △同十七年末賞与金給与規則を定め、舎員・職工に利益の分配を為し労資協力の実を挙ぐ
 △同十八年十二月石版部を新設し泰錦堂と称し、石版印刷業を開始す
 △同十九年一月資本金を五万円に増加す
 △同年十一月牛込区市ケ谷加賀町一丁目十二番地に四千九百有余坪の敷地を卜し第一工場を建築す
 - 第15巻 p.217 -ページ画像 
 △同二十一年四月定款を改め会社組織と為し、有限責任秀英舎と改称し、資本金を十万円に増加す
 △同二十二年五月第一工場活版部に於て八時間労働の実験を為す、結果良好なりき
 △同二十四年七月職工・徒弟に夏季休暇を与へ相州逗子の海浜に休養せしむるの制を定む
 △同二十六年新商法の実施と共に定款を改め、株式会社秀英舎と改称す
 △同二十九年資本金を二十万円に増加し、本支店を増築し、諸搬の設備を拡張し、同時に第一工場構内に鉄工部を設け機械の製造及修繕を創む
 △三十一年十一月舎長佐久間貞一病歿し取締役保田久成之を襲ぐ
 △同三十三年四月大阪市築港公債証書の製版印刷を引受く、民間凹印刷の濫觴也
 △同三十六年一月資本金三十万円に増し諸搬の改良拡張を為す
 △同年四月細網写真版部を第一工場構内に新設し、写真製版に関する研究及需要に応ず
 △同三十七年二月舎長保田久成死亡し、翌三十八年一月取締役鈴木良輔之に代る
 △同三十七年六月工場規則其他の規則を改訂し、更に職工の負傷病疾を救護する為め救恤規則を制定す
 △同三十九年十一月鉄工部に於て英国式三十二頁の印刷機械を製造す、斯界未曾有の出来事といふべく、而して此の新鋳の機械が原形としたる英国製のそれよりも、実際に於て良好なりしは、以て同鉄工部の技術如何を推知するを得べし
 △同四十二年五月第一工場に凸版印刷部を開設す



〔参考〕東京経済雑誌 第六〇巻第一五一四号・第八〇五―八〇九頁 明治四二年一〇月三〇日 株式会社秀英舎(中)(DK150017k-0003)
第15巻 p.217-221 ページ画像

東京経済雑誌 第六〇巻第一五一四号・第八〇五―八〇九頁 明治四二年一〇月三〇日
  株式会社秀英舎(中)
    〔二〕佐久間時代
申すまでもなく凡ての事業は其主宰者一人の力によりて成敗する者にあらす、況んや印刷事業の如き多数の人の頭と手とを要する事業に於てをや、余輩は斯種の事業を経営する会社の首脳者は其事業経営の才幹を具備すると共に、部下を統御し使傭人を悦服せしむるに足るの徳器を体有し、恰も慈愛と威厳とを兼備せる一家の家長の如き感化を全従業員に及ぼし得る者にあらざれば完全なる成績を挙ぐること能はずと存ずるなり、此点に於て故佐久間貞一氏は秀英舎の主宰者として真に理想的の人物なりと云はざる可からず、余輩は今玆に其理由を細叙するの余裕を有せずと雖も、氏が在世中の最も大なる事業にして又最も成功せる事業たる秀英舎の歴史は之を説明して余りある可し、今日に於て秀英舎は法律上は無論のこと、社会上に於ても立派なる人格者となり了せるも這は其基礎已に成り、業務の成績赫著なるに至り始めて然りしものにして、其創業及経綸時代に在りては社会上の信用斯の如くなる能はざりしは更めて言ふまでもなかる可し、蓋し何れの事業
 - 第15巻 p.218 -ページ画像 
にても其幼稚なる時代にては、世間の信用は主として其経営の首脳者に関り、経営者と事業とは一にして二ならざるの関係を有するものなればなり、余輩は此理由よりして「秀英舎の佐久間か佐久間の秀英舎か」と呼ばれし時代ある可きを疑はざるなり、而して佐久間氏は秀英舎の事業の外に幾多公私の業務に関係を有したるも、実業家としては秀英舎を以て起り秀英舎を以て終れり、宜なり氏の小伝に秀英舎を以て氏が半生の心血を濺ぎて築き上げたる王国なりと云へることや、余輩が玆に佐久間時代と劃して説くも其意是に外ならず、いでや此王国が如何にして経綸せられたるかを観む
△創立の次第 故佐久間貞一氏が初めて印刷業に指を染めんと志したる動機如何と云ふに、氏が維新後幕臣の列を離れて実業に志し、西方天草島に往きて海人と伍し、東方蝦夷に入りて椎茸の裁培に従事し、天下に漂浪せるの際一英人の許に寓し、偶々欧洲の活版印刷術の事を耳にし、我邦旧式の木版は遠からず廃棄せられて欧洲式の活版之に代るの時代至る可きを念ひたりしが、明治六年の交氏が北海道より再び東京に流れ返り、一時の腰掛にとて大教院(教部省に属し神仏合同の事を司れるもの)に職を奉じたる時、宗教家の知己と共に布教の手段として「教会新聞」を起し、且つ之を欧洲式の印刷術を以て刷出することとし、自ら其経営に任じたるに起因すと云ふ、然るに政府は同八年大教院を廃したるを以て、氏も亦職を辞して再び民間の人となりしが、彼の「教会新聞」は分れて二となり、一は「明教新誌」となり、一は「開智新聞」となる、是に於て氏は同志宏仏海・大内青巒・保田久成の三氏と図り此二新聞を根拠として活版印刷業を起すに決し、資本金千円を四名の平等出資と為し、当時京橋区西紺屋町なる、某活版所を買収し、其儘四六判八頁掛、半紙判掛及半紙倍判掛の手引印刷機械三台と、四号・五号の両種活字若干とを以て明治九年十月九日営業を開始せり、固より蕞爾たる二個の宗教新聞(日刊にあらず)の印刷の外引受可き仕事もなかりしを以て業務の閑散と資金の欠乏を告ぐるは論を俟たず、事業経営の主任者たる佐久間氏の苦心は一通りならざりしなり、故に氏は記帳商談の余暇を偸みて工場に入り、時に或は活字拾ひと為り、時に或は「インキメン」と化し、時に或は解版小僧の用を弁じ、以て技上の智識を得ると共に出来得る限り経費の節約を謀りき、聞く創業の際彼の二新聞にては業務、収支共に不足を告げ、苦慮懊悩の折り偶々故中村敬宇先生の西国立志篇再版の挙ありて木版を改めて活版と為さんとの計画あるを聞き、氏は直に先生の許に馳せて語るに事情を以てし、其印刷を引受け此に始めて蘇生の思ひを為したりとは左もありしならん
△事業の拡張 斯くて事業は創められたるが翌十年「かなよみ」新聞の印刷を引受くることゝなり、十二年故沼間守一氏が横浜毎日新聞社を東京に移し「東京横浜毎日新聞」を発行するに会し、氏に請ふて其印刷を依托せらる、是れ同舎が日刊新聞を印刊するの嚆矢にして、是より秀英舎の名は漸く人の知る所となり、舎運の前途漸くにして光明を認むるに至れりと云ふ、此頃よりして世人は印刷業の有用なることを知りて斯業漸く旺盛に赴かんとするに当り、氏は事業の規模を拡張
 - 第15巻 p.219 -ページ画像 
するの念禁ずる能はず、十三年遂に株式組織に変じて資本金を五千円に増加せり、而かも之迚充分なる能はざりしかば翌十四年に至り更に之を倍加して一万円と為せり、是れ秀英舎今日在るの基礎なりとす、而して其結果として現はれたるは活字鋳造部の創設にして製文堂の権輿となれり、蓋し此時まで活字鋳造は悉く之を平野活版所即ち今の東京築地活版製造所に仰ぎしものにて、活版所としては独立を欠けるものなりしなり、然れども当時多くの資金を之に投ずる能はず、僅に活字鋳造機械一台、字母及鋳型若干を備付けたるに過ぎざりき、尋で十六年には機械運転の人力を蒸汽力に改め、十七年には初めて女工を雇傭し、十八年には従来の洋灯を廃して瓦斯灯を設備し、玆に同舎の事業は全く面目を一新して文明的となれり、此年また泰錦堂と称する石版印刷所を興し、幼稚なりし我邦石版印刷術の発達を企図せり、斯く事業の整備に努力すると同時に資本金の猶ほ過少なるを感じ、極力増資計画に奔走の結果十九年資本金を五倍して五万円と為せり、是より同舎の事業は第二期に入れり
第二期事業の最先に現はれたるは牛込区市ケ谷加賀町なる第一工場の新設なりき、蓋し此工場設置は秀英舎事業の膨脹を意味すると共に佐久間氏の印刷業に対する理想実現の舞台なりき、何となれば従来の規模を以てしては生産力は最早其頂点に達し、且氏の理想とせる完全なる徒弟教育を行ふの余地存せざればなり、是より事業は駸々として進んで止まず、二十一年更に資本金を倍加して十万円と為し、翌二十二年佐久間氏は推されて舎長と為れり、二十六年には第一工場に製図部及分析部を設け、又鉛版部・電気部の工場を増築し、翌二十七年更に本舎の増築を計画し、当時横須賀造船所の外全国に類例なき骨鉄式構造の建物を落成せしめたり、是れ現在数寄屋橋の街頭に聳ゆる本舎なり、二十九年本舎工場の建築成《(落脱カ)》したるが此時第一工場は既に狭隘を感じ且本舎鋳造部・石版部共に更に一歩を進むるの要ありしかば、之が為めに増資の計画を為し同年三月の株主総会に於て二十万円と為すの件を決議せり、此年第一工場に鉄工部を新設し、印刷機械の製造修繕を為さしむ、是れ又同舎事業の一進境にして活版印刷業に関して略々独立して営業を為し得るの域に達せり、是に於て工場規則を始め諸他の規則を改正し技術部に拡張を為せり、三十一年第一工場に汽機汽鑵を据付け煙突新築工事も落成し職工寄宿舎も亦成り、国民新聞及毎日新聞の印刷も夫々其社の自営に移り、多年同舎が培養し来りし日刊新聞は全く自立の時季に入りて同社の手を離れたり、而も技術上に於ける進歩は著るしく印刷局の外未だ民間に於て為し得ざりし公債証書の如き凹版の製版印刷を成し遂ぐるを得たり、今や秀英舎の事業は其の規模に於て将た技術に於て殆ど間然するものなく、又社員及徒弟職工の待遇法に於て略々備はるに至り、之を約言すれば佐久間氏が二十年来不治の病躯を鞭ちて拮据経営し来れる事業は概ね其理想境に到達せるの有様なり、隴を得て蜀を望むは人情の常とする所、佐久間氏たるもの安ぞ之を以て満足し、更に加ふ可きものなしと思惟せしならんや遮莫また幾分か安堵する所ありしや必せり、図らざりき此年九月氏は宿痾再発して病床に就くこと二閲月、嘗て故鼎軒先生等が「佐久間君
 - 第15巻 p.220 -ページ画像 
をして一切の計画を成就し安心せしめたらんには数日にして死せん」と評したるの言をして讖を為さしめんとは、是より先き十月賞勲局は氏に「実業に精励し衆民の模範たるべき者」として緑綬褒章を下賜せられたり
△技術の進歩 手引印刷機械三台と二種の活字若干とを以て創めたる当時その技術の幼穉なりしは問ふを須ひず、十一年三月に至り内国製十六頁掛印刷機械一台を購入し、十五年二月英国製同機械を購入し、自家養成の職工も漸く其技術に熟し、初めて活版所らしきものとなりたるなり、是より幾なくして動力は蒸汽となり灯火は瓦斯を用ゐ、剰へ英国製三十二頁掛の印刷機械は続々購入せられ、第一工場には英国製十五実馬力二重膨脹蒸汽機械さへ備付けらるゝに至り、技術の進歩と共に工程の迅速となりたるを推知す可し、同時に活字鋳造部にありては「ホルニチユール」鋳造機械一式を購入し、又石版部をも創設したれば活版印刷上に裨補する所尠からざりしなる可し、二十年には電気版工場を創設し、米国製活字鋳造機械、欧文字母一揃同活字鋳型二個を購入して漸次欧文の印刷をも開始するに至れり、二十四年には仏国製大形蝋型圧搾機械を購入し、翌年電気版課を拡張し其一部に罫線課を設置せり、石版部に於ても続々新式の機械を購入して技術の上進を図り遂に三十一年十月には精巧なる凹版に成る富山県土木公債証書刷成したり、此時に当り従事せる職工千百余人紙を費すこと一ケ年六百噸、其刷出する所の書籍雑誌四百余種其部数凡そ五百万冊の多きに達したりと云ふ、又以て其進歩発達の著しきものあるを観る可し
△職工徒弟制度の整備 佐久間氏は活版印刷に従事する職工を以て是非共一定の教育修練を要するものとなし、斯業の健全なる発達は完全なる職工の教育に待たざる可からずとの見を持せるの人なりき、故に秀英舎の事業を興すや十一年徒弟制度を定め職工の養成を始め、翌十二年職工に年金給与の制を設けて職工保護の途を開きたり、尋で十六年には職工積立金規則を設け、十七年には女工の雇傭を創め、女工取締規則を制定し、又職工年末賞与金給与の制を定めたり、而して第二期事業拡張の手初めとして十九年第一工場の建築成るや職工教育に一歩を進めんとて大規模の徒弟養成を開始すると共に、丁年以上のものに短期徒弟の制を設け三ケ年契約を以て技術伝習を為さしめたり、又労働時間短縮の趣旨よりして二十二年五月より活版部に於て八時間労働の実験を為さしめ、翌年八月まで一年余の間実験を継続したるに、工程の成績頗る良好なりしも、職工に病者を生ずるの傾向あるを以て一時之を中止せり、若し斯る欠点なかりしならんには氏は欧米の例に傚ひ率先して八時間労働の制を肇めたるや疑なし、翌二十四年に至り職工及習業生に夏季休暇の制を定め、且つ新に養老積金規則を定め、職工積立金規則と共に爾後数々之を改正し、只管職工の風儀矯正、恒心涵養、労劬慰藉に資せり、凡て是等徒弟職工の養成保護に関する規定は氏が常に口にせる「秀英舎の徒弟は皆余が子なり」との温情より流露し来る制度にして、氏は啻に之を口にせるのみならず必ず之を実行せり、今氏が職工に対し同情ある一二の例を挙げんに、氏が舎長として受けし所の俸給の過半は之を職工に恵与し、自家は其事業の繁昌
 - 第15巻 p.221 -ページ画像 
より来る利益を以て満足したるが如き、又自己の病を養はんが為に熱海の海岸に温泉宿を購ひ、逗子の別荘を設けたりしが、職工の寒暑を避け又は痾を養はんが為め田舎に赴かんと欲する者ある時は、随意に之を用ゐしめたる如き是なり、其他氏が職工労働者に対する任侠義憤の精神は発して言論となり現はれて文章となる、而して之を自己の主宰せる秀英舎に於て実行せり、今の時に於て徒弟制度の完備せる克く秀英舎に及ぶもの他に之を求む可からざるなり、是れ全く佐久間氏の賜なりと云はざるべからず、固より一部の労働者間には他の讒陥によりて、氏を以て労働者の敵なりとの僻見を懐きしものなきにあらずして多少世に誤解せられしは免る可からずとするも、棺を蓋ふて事定まる、氏が没後に於て氏が真に「労働者の良友」たりしことは一般に認められ、「労働界の先哲」なる名を冠せらるゝに至りしを以て知る可し、尚是より的確なる証拠は氏の薫陶したる秀英舎には三十年来未だ曾て同盟罷工等の忌まはしき紛擾の起りしことなきこと是なり、今や氏の方寸に依りて養成教育せられたる数千の徒弟は東京市内を中心として我邦活版印刷の実務に鞅掌し、以て文化の伝播開拓に貢献しつゝあり、果して然らば佐久間氏の功業は単に一秀英舎の事業のみに留らざるなり、また偉ならず哉



〔参考〕東京経済雑誌 第六〇巻第一五一五号・第八五五―八五八頁 明治四二年一一月六日 株式会社秀英舎(下)(DK150017k-0004)
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東京経済雑誌 第六〇巻第一五一五号・第八五五―八五八頁 明治四二年一一月六日
  株式会社秀英舎 (下)
    〔三〕現時の事業
△佐久間氏以後の主宰者 秀英舎は其建設者たる佐久間氏を喪ひてより既に十有一年を経過せり、此間佐久間氏の後を襲ひて舎長たりし保田久成氏も亦明治三十七年二月を以て不幸鬼籍に入れり、保田氏は佐久間氏に亜げる元勲にして其創立の際の如きは寧ろ氏の財力によりて始めて成立したるの有様なり、何となれば創立者四名の内氏を除くの外は出資の余裕なかりしを以て資本金千円は全部氏が一時立替たればなり、余輩は氏の人と為りに就て多く聞く所なしと雖も、克く佐久間氏の遺図を継ぎて益々舎運の発展を来せり、則ち氏の時代に於ける事業の主なる者は三十六年に資本金を三十万円に増加し諸般の改良進歩を謀ると共に第一工場に細網写真版部を設け鋳造部を大に拡張したるは其重要なるものにして、職工の養老積金規則を廃し更に職工奨励貯金及補給規則を制定し其他職制及執務上に多少改正を加へたり、又技術上に於ては佐久間氏終焉の際略々完成に近ける諸公債証書の凹版印刷は此に充分の成功を齎らし、大阪市築港公債証書を始めとし、山梨県土木公債証書・第一回勧業債券・長崎県公債証書・宮崎県土木公債証書・福井県土木公債証書・鹿児島県築港公債証書等を刷成して益々好評を博せり、三十六年大阪に於ける第五回内国勧業博覧会に於ては活字製造所製文堂の出品に係る活版罫線に二等賞牌を得、石版印刷絵端書には三等賞牌を得たり、然るに保田氏も在職七年にして病の為めに殪れたれば三十八年一月取締役鈴木良輔氏専務取締役兼舎長となり以て今日に及べり、鈴木氏も亦同舎元老の一人にして二十二年検査役に挙げられ、中途重役の任を辞せしも二十九年再び監査役に当選して
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以来今日に至るまで同舎の機務に当れり、氏は就職以来工場規則其他の規則を改正し、鋭意既定計画の遂行に務め苟も時勢の進歩に後れざらんことを心掛け居るものゝ如く、三十九年には鉄工部に於て英国式三十二頁掛印刷機械を製造し以て本邦に於ける印刷機械工業の進歩を示し、或は工場を新築、増築して印刷力を増加し、又技術部の整備を計りて三十九年東京勧業博覧会に於て製文堂の製作に係る活字に銀牌を贏ち得たり、然れども時は維れ日露戦役以来世間の不景気打続き随て印刷界も萎靡として振はざるの際なり、此圧迫に堪へずして昨年以来活版印刷所の倒産廃業するもの相踵げるにも拘らず、独り秀英舎が其影響を受けずして益々事業の発展を見、依然として一割五分の配当を維持しつゝあるは先人創業の功徳に負ふ所大なりと雖も、而かも復現主宰者の計画が機宜を過たざるに依ると云はざる可からず、然り而して余輩は同舎の現状を叙述するに当り、少しく内部の実務の状態に就て解説する所あらんとす
△活版印刷の実務 書籍雑誌を初めとし其他一般印刷物の出来する筋道を記せんに、先づ得意掛が引受けたる印刷物の原稿を工場監事に廻付し、監事は之により伝票を作りて各課へ通告するものとす、而して第一に植字課にて該原稿及附属物を受理して之を分選課へ送致し、分選課は之を採字して再び植字課へ廻付す、植字課は之を所定の版面に製し之を校正刷として校正課へ廻はし、校正課は之を原稿により校正して植字課へ送致し、植字課は之を訂正して、再び校正課に廻付すれば、同課より之を校正往復掛へ送致し同掛より其注文先に廻送し其校正を求む(校正を全部舎に依托せられたるものは勿論校正課にて責任を以て校正を了す)、斯くて得意先より植字の誤謬、脱漏若くは補正を朱書にて為したる校正刷を返送し来る時は往復掛に於て之を校正課に廻はし、校正課より植字課に、植字課より最初の分選課へ廻附し、玆にて校正の文字を採字して再び之を植字課に送り、斯くて最初の順序を経て校正課の手に入り、最後に注文先より校了と書して来るまで此事務を繰返す也、其度数は印刷物に依りて同一ならず、雑誌類は大抵初校若くは再校までなれども図書の如きは数回若くは十数回に亘るものありと云ふ、校正了る時は初めて之を印刷部(印刷部には紙裁・機関・製図・ルーラ製造の四課あり)に下版し、印刷部は受取りたる組版を印刷物の大小種類に依り夫々の印刷機械に附して印刷し終るなり、印刷せられたる巾広き紙は之を再び紙裁課に返送す、紙裁課にては之を所定の版の大さに裁断して更に製本部に送付し、注文の通りの「クロース」若くは仮綴として製本し、以て得意掛に引渡し玆に技術部の責任は終るなり、素より此間に於て鋳造部は活字及「ステロー」を供給し、写真細網版部は写真の製版に従事し、電気版部は母型の製作、銅版の製造を引受け、木版部は日本・西洋の両課に分れて木版を製作し、鉄工部及ひ木工部は夫々印刷及版木の製作に鞅掌して互に連絡を保てり、又石版部は彫刻・印刷・製版・意匠の四課に分れ、公債証書の如き精巧緻密なる凹版印刷に従事し、殆ど他の部分より独立せり、大凡印刷物は右の如き径路を往来するものなるが故、其複雑なることは到底禿筆の克く尽し得可きものにあらず、職工は各専門的に各
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方面の技術を練磨せるものなるが故に、千態万状とも云ふ可き筆者思ひ思ひの原稿に拠りて其実務を処理するの苦心困難は到底門外漢の窺ひ知る可きにあらざれども、多年練習の結果其操手の敏速熟練なる真に驚く可きものあるなり、筆者が宜い加減の宛字を書き、虚字を列べたるに、校正刷を見れば立派な真字になつて来るは敢て珍しからず、振り仮字(即ちルービー)の如きは三文々士よりも活版職工の方が先生なり、余輩曾て某活版所の印刷物を校正して以為らく、活版職工など云ふものは余程間の抜けた文盲のみにて寸分の油断もならぬものと思ひしに、秀英舎の校正を為すに及び較々其過れるを発見し、自家の原稿の書き方のマヅき為め却て累を彼等に及ぼし、気の毒と思ひしこと一再に留らざるなり、此他に活版に関する実際の技術に就て記す可きもの多々ありと雖も、紙面の余裕乏しきを以て遺憾ながら之を省略し、左に昨年度の報告書に拠り秀英舎の現況を窺ひ得べき諸計数を示して此稿を終らんと欲す
    現在機械個数
      十五馬力             壱台
 蒸滊機械
      三十馬力             壱台
  附滊缶                  三台
       三十二頁            三十台
       十六頁             七台
 ロール機械
       八頁              四台
       二十四頁            四台
 独逸式機械八頁               弐台
 フート機械                 拾五台
 ハンド機械                 拾二台
 鉛版鋳形                  五台
 プレツス                  拾参台
 鋳造機械                  参拾七台
  附鋳形                  百廿二挺
 彫刻機械                  弐台
 石版ハンド機械               弐拾弐台
 金刷機械                  弐台
 石版ロール機械               八台
 肉練機械                  三台
 飾罫製造機械                弐台
 石研器械                  壱台
 小形鑽孔機械                壱台
 十尺鉋削機械                壱台
 番号打込機械                壱台
 紙截器械                  四台
 ステルンプレス               弐台
 鉄盤                    七台
 旋盤                    六台
 フライホヰル                壱台
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 韛                     壱台
 回転砥                   壱台
 金敷                    弐台
 ホルマート鋳造機械             壱台
 手鋳込鋳造機械               三台
 罫突器械                  五台
 罫截機械                  壱台
 電槽                    六台
 裏削機械                  弐台
 金盤                    拾四台
 蜂巣盤                   壱台
 凸版製版用鉄盤               弐個
 円鋸                    壱台
 紙締                    拾七台
 刃研器械                  弐台
 写真版製造用スクリン            三個
 同レンス                  弐個
 同暗函                   三個
 同鋸器械                  壱個
 同印刷器械                 弐個
      八馬力              壱台
 瓦斯機関
      十六馬力             壱台
 卿筒                    弐台
    役員及職工数

            種別
区分  役員及事務員 工場監事 技師及技手 舎工  雇工    女工 小使   計
本舎     二七    三    〇   五六  二三三   六七  三   三八九
第一工場   二五    四    壱   六四  二八二   九六  三   四七五
鋳造部     六    三    壱   二五  一〇二   五八  〇   一九五
石版部     四    三    五   一二   四七    四  三    七八
 計     六二   一三    七  一五七  六六四  二二五  九 一、一三七

    職工勤続年限表

 年数     男    女   習業生
五年以上   一一五   二二   一七
十年以上    四一    三    ―
十五年以上   二六    ―    ―
二十年以上    六    ―    ―
二十五年以上   三    ―    ―

    職工衛生状態
      四十一年度病性別人員表

                   主治医
 病名    棚谷  岡田  守山  野中  小沢  合計
消化器    四二  二二  五五  五〇  二五 一九四
循環器     三   〇   九   六   三  二一
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呼吸器    三〇  一三  八一  七六  一五 二一五
泌尿生殖器   九   三   四  一八   〇  三四
五管器    一〇   七  四三  一五   三  七八
伝染病     三   〇   三   九   一  一六
運動器     三   四   五   六   〇  一八
外傷性疾患  二七   三   五  一六   〇  五一
 合計   一三七  六七 二一二 二〇二  四七 六六五

備考 之を四十年度に比し総数に於て三十二人の増加を示し、又十二ケ月に平均すれば一ケ月五十五人四分となる、而して総数六六五人の中多数を占むるは消化器病一九四、呼吸器病二一五なりとす、かゝる状態は工場衛生上注目す可き点なり
    教育及救済機関
舎員及職工女工救済機関 秀英舎庭契会
職工の知徳及技術奨励の方法 提案法及技術研究会・講話会
    現在定期印刷物
百六十余種 二百余回(一月ニ付)