デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

5章 農・牧・林・水産業
1節 農・牧・林業
4款 十勝開墾合資会社
■綱文

第15巻 p.566-591(DK150072k) ページ画像

明治36年10月28日(1903年)

出資社員更ニ脱退シ、会社ノ維持困難トナレルヲ
 - 第15巻 p.567 -ページ画像 
以テ、前年ヨリ起業方法変更、札内農場処分、第四種小作人規定等ヲ設ケ、栄一先導シテ積極的改革ニ努メシガ、是日第四回社員臨時総会第一総会ニ於テ、資本金三十六万円ヲ十九万円ニ減資シ、渋沢喜作以下五名ノ除名、残留社員六名ノ出資分担額等ヲ議決ス。栄一、大倉喜八郎ト共ニ監査役ニ選定サル。


■資料

十勝開墾株式会社農場要覧 第一三―一四頁大正七年八月刊(DK150072k-0001)
第15巻 p.567 ページ画像

十勝開墾株式会社農場要覧 第一三―一四頁大正七年八月刊
    四、社員の脱退と減資
 前述の如く事業経営の困難は、会社を維持する事の絶対に不可能なるものと思惟せし為めか、出資社員は続々として脱退し、遂に残留するものは僅かに男爵渋沢栄一・渋沢篤二・渋沢喜作・大倉喜八郎・植村澄三郎・和久伊兵衛の六氏となりたれば、更に資本金を十九万円に減じ、再び事業縮少の方針を立て、貸付地の一部を返還すると同時に移民奨励の目的を以て、明治三十五年四月一日より小作人規定を改正し、移民に土地譲与の方法を制定せり。かくして事業の範囲を縮少し積極的方針の下に事業の発展を期したる結果、漸次小作人増加し、事業進捗して稍々其緒に就きたるが、明治三十七年に至り端なく日露戦役に会し、壮丁出征の為め一時頗る困難を来したり。然れども各地に於て移民募集に努力し、開墾事業は依然として継続することを得たり


事業報告書 明治三五年(DK150072k-0002)
第15巻 p.567-568 ページ画像

事業報告書 明治三五年 (十勝開墾株式会社所蔵)
札内農場処分ノ事
一 札内農場ハ明治三十一年ニ着手シ同三十二年ニ第一種小作人四拾戸ヲ募集セシモ不結果ニシテ、同三十三年ニ於テ特別開墾法無保護小作人百七戸ヲ契約シ、同三十四年同小作人ノ不成績等毎年報告書ニ記載ノ如シ、而シテ本年度ニ於テ起業方法変更土地返還ノ儀取調ニ付テハ、同農場ヲ返地スヘキ目的ニ依リ三十三年ニ契約セシ小作人ノ契約不履行者ヲ調査シ解除スルニ方リ頗ル手数ヲ要シ、十一月ニ至リテ其処分ヲ了シ同場地積八百弐拾五万余坪ノ内百拾四万余坪ヲ契約地ニ存シ、貸付権利ノ移転ヲ出願セシメ七百拾壱万余坪ヲ返還地トス、玆ニ於テ同農場ハ全然返還ノ目的ヲ達セリ
一 同場着手ニ付テハ明治三十一年ニ於テ仮事務所及ヒ移民ニ給与スヘキ草小屋等四拾余棟ヲ造リ、且ツ移民食料等収容スル為メ弐拾余坪ノ倉庫ヲ建築シ、雑穀・塩味・雑品・種子等購入貯蔵シ、且ツ建築準備トシテ造材シ番人ヲ置キテ監守セシメタリ、然ルニ第一種小作人ノ移住ハ三十三年ニ於テ中止セラレタルヲ以テ雑穀等不要ニ属シ空シク貯蔵スルトキハ腐敗スルモノアリ、加之同原野ハ当時全ク無人境ニシテ人家ヲ距ル五里以上ニシテ年々猛烈ナル野犬ノ襲来アリテ危険ヲ感スルコト不少、遂ニ仮事務所・草小屋等ハ挙テ烏有ニ帰シ倉庫モ又安全ナラサルヲ認メ同年ニ於テ其旨ヲ上申シ、倉庫ハ帯広社宅ニ移シ雑穀其他ノ腐敗セサルモノハ売却シテ損失ノ幾分ヲ
 - 第15巻 p.568 -ページ画像 
補フニ至ル、然ルニ本年ニ於テ同農場ハ挙テ返還ノ議成リ、経済モ亦決算報告セシニ依リ其顛末槩述ス
起業方法変更土地返還ノ議北海道庁ニ出願ノ事
一 本年三月農場長上京ノ時明治三十四年八月十日北海道庁指令現行起業方法実施ニ就テハ、該起業配当定度ノ如ク年々経営進捗スルノ難キハ必竟資金減縮ノ致ス処ニシテ経費ト事業トノ権衡ヲ得サルニ起因スルノ議起リ、猶事業ヲ縮少シ土地ヲ返還シテ起業期間ヲ延期スルヨリノ外ナキヲ以テ、総会ニ於テ其議ヲ決シ而シテ詳細ノ取調ニ付テハ植村監査役ニ一任セラレ札幌ニ於テ取調フルコトトシ、四月廿二日農場長ハ東京ヲ辞シ同二十六日札幌ニ出張ス、之レヨリ曩植村監査役ハ札幌ニ帰ラレタルヲ以テ同所ニ於テ監査役ハ町村農場顧問役ト会シ変更ノ方法ヲ議シ、且北海道庁ニ交渉スル処屡々ニシテ其方針漸ク定マリ、先以テ返還スベキ札内農場移民ノ事業ヲ調査シ、返還シ得ラルヘキ土地ヲ査定スルヲ第一トシ然ル後事業ノ定度ヲ確定スルニ決シ、五月六日農場長ハ十勝国ニ帰場シ、爾来札内農場契約移民百七戸ヲ取調フルニ当リ、該移民等ハ其契約書ヲ利用シテ種々ノ奸計アルヲ発覚シ、之レヲ取調フルニ当リ或ハ跡ヲ潜メ或ハ逃走スルモノアリテ非常ノ日子ヲ要シ、漸ク十一月ニ至リテ大半ノ処分ヲ了シ、同月十五日農場長ハ札幌ニ出張シ植村監査役ニ復命シ、同所ニ於テ起業方法ヲ調定シ、現行弐千五百四拾八万八千五百七拾八坪ノ内札内原野ニ於テ七百拾壱万七千六百十七坪ヲ返還シ、残地積千八百九十七万〇九百六十一坪ヲ以テ起業方法ヲ小作自作牧場ノ三部ニ分チテ篇成シ、猶二ケ年ヲ延期シ、十二月二日社長ノ札幌出張ヲ待チテ認許ヲ得、道庁当局者ノ閲覧ヲ経タリ
○下略
右ノ通リ報告候也
  明治卅五年十二月       農場長 小田信樹
    十勝開墾合資会社
        社長 渋沢喜作殿


農場経営ノ方法及其成績(DK150072k-0003)
第15巻 p.568-570 ページ画像

農場経営ノ方法及其成績      (十勝開墾株式会社所蔵)
    第四種小作人規定 明治三十五年四月一日ヨリ実施
第一条 第四種小作人ハ十勝開墾合資会社農場十勝国上川郡人舞村原野ニ募集ス
第二条 第四種小作人ハ移住及ヒ開墾其他土地ノ収得ニ要スル諸費用ハ一切自弁トス
第三条 第四種小作人ハ会社起業方法ニ基キ一戸ニ付未開地壱万五千坪即チ五町歩ヲ割渡スベシ
  但シ土地ノ区劃ハ会社ニ於テ割渡シ、割付地ハ可成連接セシムト雖トモ土地整理上分離スルコトアルベシ
第四条 移住民ハ其家族ヲ分家スルカ又ハ附籍者又ハ家族中親権ヲ以テ出願スルトキハ、別ニ壱戸分ノ土地壱万五千坪ヲ割渡スベシ
第五条 割渡地一万五千坪ノ内弐割(参千坪)ハ会社小作地トシ初年開墾シテ会社ヘ差出スベシ、残地八割(一万弐千坪)ハ会社起業方
 - 第15巻 p.569 -ページ画像 
法満期ノ上土地ノ所有権ヲ譲与ス
第六条 小作地ハ小作ノ義務ヲ有シ移住ノ年ヨリ三ケ年目以後壱反ニ付金五拾銭ノ割ヲ以テ小作料ヲ徴収ス
  但シ小作料ハ五ケ年目毎ニ調査ノ上相当改正ヲ為スモノトス
第七条 割付地開墾成功期限ハ移住ノ年ヨリ五ケ年トス、且移住初年ニ於テ会社地ヲ成功シ漸次譲与地ニ及ブベシ、若シ満期全部ヲ成功セザルトキハ調査ノ上其未成功地ヲ返還セシムベシ
  但シ正当理由アル除地ハ本文ノ限リニアラス
第八条 小作地開墾ノ義務免除ヲ得ントスルモノハ壱反歩ノ開墾料金弐円五拾銭ノ割ヲ以テ会社ニ納付スベシ
  但シ本文ノ場合ハ其割附地ヲ壱戸分壱万弐千坪トス
第九条 開墾成功反別ハ其年十一月二十日限リ届出調査ヲ受クヘシ
第十条 全地開墾成功ノモノニハ会社起業方法満期ノ上土地ヲ譲与スベキ相当ノ約束証ヲ付与シ置クベシ
第十一条 成功地ハ会社ノ許可ナクシテ質入・書入又ハ他人ニ譲渡スルコトヲ得サルモノトス
第十二条 移住小作人ハ家族二人以上ニシテ戸籍謄本二通ヲ添ヘ直ニ全戸転籍移住スルモノニ限ル
  但シ分家其他ノ事故ニ依リ直ニ転籍シ難キモノハ詮議ノ上十ケ月以内ノ猶予ヲ与フルコトアルヘシ
第十三条 移住初年ニ於テ割附地内ニ六坪以上ノ住居小屋一棟自費ヲ以テ建設スベシ
第十四条 農業ノ外他ノ職業ヲ営マントスルトキハ会社ノ許可ヲ受クベシ
  但シ全戸ノ出稼ヲ許サス
第十五条 移住小作人ハ農場諸般ノ規定ヲ遵守シ会社員ノ指揮命令ニ違背スベカラズ
第十六条 小作人ハ移住ノ上小作契約書ヲ差出スベシ、其要領左ノ如シ
 一、移住小作人ハ開墾成功年限内農場外ニ於テ貸附地ヲ出願セサルコト
 二、小作人規定第六・七・九・十一・十四・十五条ニ違背セサルコト
 三、小作料ハ徴収期間内ニ現金ヲ以テ納付スルコト
 四、小作料ノ納付ヲ怠ルトキハ所有物品又ハ動物ヲ押収スルモ異議ナキコト
 五、本契約ニ違背シタルトキハ小作人ヲ解除シ農場ヲ退去セシム、此場合ハ自費成功地ニ対シ会社ハ壱反歩金五拾銭以上金七拾銭迄ノ料金ヲ付与スルコト
    但シ会社小作地ニ対シテハ本文料金ヲ付与セサルコト
 六、此契約ハ各自カ土地ノ所有権ヲ有スル迄ノ期間ヲ有効トス、其所有権ヲ譲与スル場合ハ更ニ相当ノ小作契約ヲ締結スルコト
    附則
第十七条 移住小作人ノ契約ハ其年移住スベキ小作人ニ限ルベシ
 - 第15巻 p.570 -ページ画像 
第十八条 本規定中第五条ノ割合第七条ノ開墾年限第八条ノ開墾料ハ会社ノ都合ニ依リ異動スルコトアルベシ、既ニ契約済ノモノハ関係セザルコト


農場事業報告書 明治三六年(DK150072k-0004)
第15巻 p.570 ページ画像

農場事業報告書 明治三六年 (十勝開墾株式会社所蔵)
一起業方法変更願許可ノ件
 起業方法変更土地返還願ニ付テハ昨三十五年度報告ニアリ、而シテ河西支庁ニ於テ本年一月再三調査ノ末同二月本庁ニ進達セラレ、同四月十五日付ヲ以テ左記ノ通許可ヲ受タリ
 北海道庁指令第一六二三号
              東京府武蔵国東京市日本橋区
              北新堀町九番地
              十勝開墾合資会社
                  社長  渋沢喜作
 明治三十五年十二月十八日願明治三十一年四月二十日指令第七二二号ヲ以テ、十勝国河東郡上川郡十勝川西岸字ケ子ニトマツプ中川郡札内川東岸札内原野ニ於テ畑及牧場目的ニテ貸与シタル未開地弐千五百四拾八万八千五百七拾八坪ノ内、中川郡札内原野ニ於テ七百拾壱万七千六百拾七坪返還、並ニ残地ニ対スル貸付期間二ケ年延期及起業方法書変更ノ件許可ス
  明治三十六年四月十五日
           北海道庁長官 男爵 園田安賢
    起業方法書○略ス


明治三十六年七月以後農場改革要書(DK150072k-0005)
第15巻 p.570-575 ページ画像

明治三十六年七月以後農場改革要書
                 (十勝開墾株式会社所蔵)
    十勝開墾会社ノ存廃及将来ノ方針
十勝開墾会社ノ存廃及将来ノ方針左ノ各項ニ付キ調査スルニ
 第一 地味気候 小生ガ信任スル農学士小川二郎ヲ派シ、大体ヲ踏査セシメタルニ、地味ハ中等ニシテ耕耘ニ適シ、其気候ハ水田ニハ適セザルモ、畑作即チ麦・豆ノ類ナレバ、石狩国中等地ト比スルニ足ラン、而シテ最モ適スルハ牛馬ノ牧畜ナルベシトノ報告ナリ
 第二 交通 現今ハ鉄道未タ通セズ、大津河口ニ達スルニハ十八里帯広市街ヘ六里ニシテ、極メテ悪路ナリ、故ニ作物ヲ市場ニ売ラン乎、運搬費ヲ差引クトキハ殆ント価ナキニ至ルベシ、然レトモ鉄道開通セバ、釧路港ヘ百二十哩許ニシテ達スベク其運賃概算ハ
     穀類一石ニ付  金三拾銭
     牧草一屯ニ付  金三円
    ニ過キサルベシ、故ニ鉄道開通スルニアラサレバ、生産物ニ価ヲ生セズシテ、需用品ハ高価ナリ、其開通期ヲ道庁長官ニ糺スニ、政府ノ財政方針変セザレハ、三十八年ノ冬又ハ三十九年春ニハ全通スベキ予定ナリト云フ
 - 第15巻 p.571 -ページ画像 
 第三 存廃 現今ノ財産ハ別紙調書ノ如ク、宅地及物件合金壱万九千八百円ト墾成地凡四百町歩アリト雖トモ、鉄路通セサレバ価ヲ生セズ、売ラントスルモ買手ナカラン、加之左記ノ負債アリ
     第一銀行  金五千五百五円 当坐借越
     製麻会社  金参千六百円  一時立替借入
     他ニ個人ヨリ金五百五拾円  一時借入
      合計金九千六百円
    故ニ廃セントセバ一時返却ノ義務アリ、且跡始末ノ処分ニ三千円位ノ費用ヲ要スベシ、然ラバ如何セン乎、鉄路開通迄現状ヲ維持シ、而シテ再議ニ付スル外ナカラント思考ス
 第四 方針 極メテ節約シタル方法ニヨリ、起業方法ノ計画ニ適スル丈ノ程度ニ止メ、而シテ移民ニハ土地ヲ分与シ、開墾費ヲ給セズ、牧馬モ亦社有ノ頭数ヲ減ジ、移民有ノ馬ヲ補助シテ頭数ヲ増シ、起業法ニ合適セシムルノ途ヲ講シ、牧牛ヲ延期シ、牧馬ニ変更スル等ナリ、然レトモ総計千七百万坪ノ地積ナレバ、其費用ハ毎年約六千円ハ必要ナリ、故ニ鉄道開通マテ費用ヲ概算スレバ左ノ如シ
     三十六年下半季    三千円
     三十七年       六千円
     三十八年       六千円
     三十九年       六千円
     計金弐万千円
    而シテ三十九年末ノ結果ヲ予想スレバ
     社有墾成地弐百弐拾町歩
     同 小作地五百町歩
      計 七百弐拾町歩
       平均一反ノ価五円トシテ三万六千円
       平均一反ノ小作料五拾銭トシテ三千六百円
     馬頭数百四十八頭
       平均一頭三十円トシテ金四千四百四拾円
     帯広市街宅地千六百弐拾坪
       建物共一坪六円トシテ金九千七百弐拾円
    総計金五万百六拾円ノ財産ヲ得テ、小作料又金三千六百円ヲ得ベシ
 第五 会社組織ノ変更 合資会社現在ノ出資者ハ左ノ如シ
     金五万円  内払込 金九千五百円 渋沢栄一
     金五万円  同   金九千五百円 大倉喜八郎
     金三万円  同   金五千七百円 渋沢篤二
     金三万円  同   金五千七百円 同作太郎
     金弐万円  同   金三千八百円 和久伊助
     金弐万円  同   金三千八百円 植村澄三郎
    計金弐拾万円 同   金三万八千円
    而シテ三十九年即チ鉄道開通マデ要スル払込金左ノ如シ
 - 第15巻 p.572 -ページ画像 
     金五千円内金三千円 農場   三十六年下半季
          金二千円 負債返却
     金九千円内金六千円 農場   三十七年度
          金三千円 負債返却
     金九千円内金六千円 農場   三十八年度
          金三千円 負債返却
     金九千円内金六千円 農場   三十九年度
          金三千円 負債返却
    計払込
     金三万弐千円内金弐万千円 農場
            金壱万千円 負債返却利子共
    従来ノ払込金ト併セ金七万円トナル
    之ヲ第四項ノ財産ト比較スレバ、約弐万円ノ損失ナルモ、鉄道開通シテ果シテ好果ヲ得バ、残余ノ未開墾地悉ク価ヲ生シ或ハ損失ナキニ至ルヤモ知ルベカラズ、故ニ現在出資者ハ三十九年末迄払込ヲ継続セラレンコトヲ希望スレトモ、変遷多シ、不幸ニシテ払込能ハサルニ至ラバ、払込金ヲ棄損セサルヲ得ズ、是レ組織ヲ変更シテ株式会社トナサントスル所謂ナリ
     金弐拾万円    此株数四千株 一株金五十円
      内
     金五万円     一株拾弐円五拾銭払込済
       内
      金三万八千円    現在出資共払込金《(者カ)》
      金壱万弐千円    棄損共払込金没収《(者カ)》ノ分ヲ以テ之レニ充ツ
    即チ現在合資会社ノ権利義務ヲ金五万円ニテ売却スルモノナリ、而シテ新株式会社ノ株式ヲ現在出資者ニ配当スルハ、合資会社ノ出資高ニ同シ
以上ハ現在セル書類ニ基キ調査セシ意見ノ大要ナリ、之レニ依テ存廃何レトモ決定セラレ度、但株式会社トナス為メニ要スル登記料金八百円ヲ別ニ要スルニ至ルベシ
別冊小田農場長ヨリ提出シタル意見書ヲ添ヘタリ、御熟覧ヲ乞フ、但其予算中ニハ小田自身ノ給料ヲ加入ナシ、実際ハ之ヲ要ス、故ニ八百円ト雑費トヲ加ヘ之ヲ千円トシ、農場費五千円合計六千円ヲ農場一ケ年ノ費用ト予算セリ
右御意見相伺候也
  明治三十六年八月二日
                  東京ニテ
                      植村澄三郎
    渋沢男爵殿
本按全体ニ於テハ全ク御同意ニテ、予算ノ成蹟ハ必ス期スベキモノト相信シ申候、但末段株式会社ニ組織変更ノ一事ハ当分御見合被下、可成是迄ノ有様ニテ継続致度ト存候事
                   栄一 (喜)
    明治三十五年度末財産目録
一金千六百弐拾円
  但帯広町東一条十一丁目成功宅地千六百弐拾坪
 - 第15巻 p.573 -ページ画像 
一金八百七拾八円弐拾九銭六厘
  但丸木舟・駄鞍・荷馬車・馬橇・手車・乗馬具・農用馬具
   農具・秣切機械・洋衡等百六拾八点
一金弐千六百六拾五円九拾壱銭八厘
  但事務所壱棟廿七坪七合五勺・浴室壱棟弐坪五合五勺・下雪隠壱棟壱坪五合・社宅壱棟弐拾坪・物置壱棟弐坪・売店一棟九坪・厩壱棟弐拾坪七合五勺・貸家弐棟七拾弐坪・雪隠壱棟壱坪
一金千弐百七拾弐円八拾七銭五厘
  但倉庫弐棟六拾六坪五合・帯広同壱棟弐拾五坪
一金六百六円
  但乗馬壱頭・農馬四頭・種牝馬三頭・仔馬三頭合拾壱頭
一金参百参円五拾六銭五厘
  但測量器簡測器三個外百拾六点
一金八百参拾六円弐拾三銭
  但繰替品勘定
一金壱万千四百六拾七円五拾壱銭
  但移住小作人貸与金証書ニテ
一金六拾円九拾弐銭九厘
  但仮払勘定
一金八拾八円七拾三銭弐厘
  但農場現金
合計金壱万九千八百円五銭五厘
外ニ
  墾成地参百七拾七町壱反九畝弐歩
右之通ニ御坐候也
                十勝開墾合資会社
                 農場長  小田信樹
    意見書
明治三十七年度以後農場維持方法ニ付テハ屡々御配慮ヲ受ケ、大体ノ方針ニ於テ御示ニ基キ、猶篤ト熟考致シ候処、誠ニ至難ヲ感申候、元来十勝国ノ現状ヲ考フルニ、人情ニ於テ自カラ地方ト其趣ヲ異ニスルモノハ、交通不便、市街未タ開ケス、百価流暢ナラサルニ因ス、殊ニ会社ハ創始ノ時ニ於テ、世間ノ耳目ヲ驚殺セシムル勇気ヲ以テ事ニ当リ、為メニ商賈等ハ会社ヲ以テ一ツノ財原ト称揚シ、玆ニ於テ経済上種々ノ弊害ヲ生シクルハ掩フヘカラサル事実トス、然ルニ年々資金ノ減退ニ伴ヒ、事業亦振ハス、常ニ退縮ノ方針ヲ取リ、時勢ノ日進ニ較フレハ、総テ反比例ニ立ツヽ世外ノ物議アルニモ不拘、忍耐経営シ来リタルモ、亦タ申迄モナキ事実ナリ、然ルニ事亦此極点ニ陥リ、将来ヲ計劃スルニ方リ、今復タ道庁ニ請ヒテ、事業ヲ縮少シテ資金ノ権衡ヲ得ントセンカ、故ニ再四ノ縮少延期ヲ請ヒ、現行法ハ本年四月異例ナル寛大ノ許可ヲ得タルモノ、何ンノ面目カアリテ復亦出願スルヲ得ヘキカ、仮令得ルモ通過スヘキ目的ナシ、然ラハ捨テ廃業センカ、兎ニ角一度整理セサルヘカラス、亦タ数千ノ費用ヲ要スヘシ、寧ロ一ケ
 - 第15巻 p.574 -ページ画像 
年金五千円ノ経費ヲ以テ、起業方法ノ責ヲ防クニ止メ、籠城ノ策ヲ講シ、三年ノ後汽車全通ノ時ヲ待チ、更ニ有望ノ事業ニ就テ拡張ヲ図ラハ、却テ策ノ得タルモノト云フヘシ、此場合ニアリテハ、過去三年間ハ事業ノ得失ヲ経験スルコト甚タ必要ノ時代ナリ、而シテ其籠城ヲ為スニ方リ、従来ノ組織ヲ改メ、各部ニ分チ、主任ヲ定メ、受負法トシ規定ヲ設ケ、技術者及機械ヲ備ヘ、成蹟ヲ挙ケシメンカ、其方法ヤ良シト雖モ、経費ノ許サヽル処トス、然ラハ経費ヲ流暢ニシ、彼是相補ヒ相待テ成蹟ヲ挙ケンカ、規定ノ行ハレサルヲ如何セン、今此両者ニ就キ実地ニ照シテ考フルトキハ、其結果ヤ甲ハ経済ヲ破リ、乙ハ規律ヲ乱ル、之レ管理上ニ於テ侮ルヘカラサル一大事トス、然リト雖モ之レヲ実地以外ヨリ観察スルトキハ、論スヘキ価直ナキ瑣事ニシテ、管理ノ如何ニヨルニ過キスト為ス、誠ニ遺憾トスル処ナリ、故ニ稍々実地ニ適用シ得ラルヘキモノトスレハ、則チ別紙答申書ノ如シ、而シテ其実施ニ方リ、開墾部ノ業ハ地形ヲ撰ミテ墾成シ、牧草ヲ播種シ、且経費ノ予算以外ニ出サルヲ務メ、素ヨリ収穫ノ責任ナシ、誠ニ簡易ナル仕事トス、若シ余裕ヲ生スルトキハ、機械良畜ヲ備ヘテ業ヲ進捗スルノミ、事務部ト雖モ大同小異ニシテ、之亦至難ト云フニアラス、特リ小作牧畜ノ両部ニ至リテハ然ラズ、今其困難ヲ詳述スルノ要ナシト雖モ、例ヘハ背水陣中糧食ニ欠乏シ、軍資ニ限リアルト一般ニシテ、殆ント見込ナキニ似タリ、之レ其事業ノ難キニアラスシテ、経費ノ制限ニ困シムナリ、此ニ於テ経費ノ運用ヲ流暢ニシ、各部ノ経費中余裕アルモノ及ヒ人畜機械ト雖モ亦タ相互ノ流用ヲ滑カニスル余地ヲ与フル必要ヲ生スルナリ、故ニ管理者ヲシテ全部ノ経済ヲ繰縦セシメ、本社ハ規定ニ基キ全部ヲ督励セラレナハ、経済ノ円滑ヲ保チ、事業モ亦渋滞ヲ生スル憂有之間敷ト被存候、之レ則チ別紙ヲ起案セシ精神ナリ然リト雖モ曩ニ示サレタル方針ニ就テ熟考スレハ、其精神ニ於テ或ヒハ副ハサルヤノ疑ヒアリ、故ニ意見書トシ御再考ニ供セントス 頓首
  明治三十六年七月
                  農場長 小田信樹
    十勝開墾合資会社
      監査役 植村澄三郎殿

    起業方法ニ対スル資本調書
一金弐拾弐万弐千円            資本金額
    内訳
  金拾九万円     明治三十七年以後資本額
  金参万弐千円    社員棄権者没収金額
一金弐拾壱万八千弐百弐拾円七拾銭 事業地積配当金額
    内訳
  金拾九万七千〇五拾円七拾銭
    但貸付地千八百三拾七万〇九百六拾壱坪ノ処、耕地並ニ道路建物敷地千百八拾万七千五百弐拾五坪、此内百九拾五万四千九百九拾坪ハ明治三十六年迄ニ成功セシ分ヲ除キ、残地九百八拾五万弐千五百三拾五坪ニ対スル分
 - 第15巻 p.575 -ページ画像 
  金弐万千百七拾円
    但前同断ノ内牧場地三百六拾五万坪ノ内、百五拾三万三千坪ハ明治三十六年迄ニ成功セシ分ヲ除キ、残地弐百拾壱万七千坪、即チ明治三十七年以後成功スベキ土地ニ対スル分
差引金三千七百七拾九円三拾銭        残額
右之通ニ有之候也


渋沢栄一 日記 明治三六年(DK150072k-0006)
第15巻 p.575 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三六年       (渋沢子爵家所蔵)
八月廿四日 晴
○上略十時兜町事務所ニ抵ル○中略植村澄三郎来リテ十勝開墾会社ノ事及麦酒会社ノ要務ヲ談ス○下略
  ○中略。
九月三十日 曇
午前七時起床朝飧ヲ畢リ十時兜町事務所ニ抵ル、植村澄三郎氏来リ十勝開墾会社々員会ヲ開ク○下略


明治三十六年七月以後農場改革要書(DK150072k-0007)
第15巻 p.575 ページ画像

明治三十六年七月以後農場改革要書
               (十勝開墾株式会社所蔵)
  明治卅六年九月一日
拝啓愈御清安奉賀候、陳ハ第四種小作人規定変更ニ付キ御申出ノ義ハ一二ケ所修正ノ上決定致候間玆ニ御送付仕候、万一御差支之点モ有之候ハヽ御申出相成度候
又是迄数年度ニ割合ヒ一時ニ契約セシ事モ有之候ヘトモ、年々土地欠乏ノ場合一年毎ニ会社ニ所得スル割合ヲ増シ得ヘシト存候ニ付キ、右ハ明年ノ規定トシ明年分丈ケノ契約ニ止メ数年ニ割合契約ノコトハ一切ナサヽル事ニ御心得相成度候
又仮令明年ノ小作人規定ハ会社所有二割トセシモ、此後尚希望者アリテ三割四割ヲ会社ヘ差出スモ移住致度ト申出ルモノナシトモ限ラズ、此場合ニハ御如才ナク別紙規定五条ヲ臨機変更スル様致度存シ候間為念此段申添候也
                 業務担当社員
    農場長              渋沢栄一(印)
     小田信樹殿


明治三十六年七月以後農場改革要書(DK150072k-0008)
第15巻 p.575-576 ページ画像

明治三十六年七月以後農場改革要書
               (十勝開墾株式会社所蔵)
拝啓予テ御内申御協議有之候当会社事業経営ニ付キ鉄道全通マテノ農場事務取扱ニ付テハ、別紙覚書ノ通リ施行致候事ニ決定相成候間玆ニ申進候、就テハ貴台ニ対スル農場長ノ辞令ハ追テ臨時総会ニ於テ定款変更ノ上御送付致候事ニ相成居候間右ニ御承知置可被下候、尚又農改革ニ付別紙覚書ニ基キ夫々御運相成度、従テ将来使用スベキ技士・事務員等ヘハ本社ヨリ辞令交付ノ必要モ可有之候ハヽ其人名・給料等御申出相成度候
右得貴意度如斯ニ御座候
 - 第15巻 p.576 -ページ画像 
  卅六年九月十九日
                 業務担当社員
                     渋沢栄一(印)
    農場長
     小田信樹殿
(別紙)
    農場事務取扱ニ係ル覚書
第一、農場経費ヲ一ケ年金六千円ト定メ、明治卅七年ヨリ汽車全通迄ヲ目的トシ専ラ守成ノ方針ヲ取リ現行起業方法ニ副ヒテ事業ヲ挙クル事
  但明治三十六年度ハ後半期ヨリ本項目的ニ従ヒ経費ニ節約ヲ加ヘ予算ヲ更正スベシ
第二、小作人ハ総テ第四種法ニ依リ無保護移住民ヲ募集シ、且割付地ノ内所有権ヲ譲与スル割合ハ時勢ニ応シ可成逓減スル事
第三、農場ハ事務所ヲ廃シ農家個人営業ノ態度ヲ取リ、庶務会計法ヲ簡単ニスル事
第四、事業ヲ左ノ四部ニ分チ各部ノ担当者ヲ定メ成蹟ヲ挙ケシムル事
 (一)開墾部 当部ハ起業方法ニ従ヒ自作部牧場部ノ開墾及耕種並ニ一切ノ事ヲ処理スベシ
 (二)小作部 当部ハ起業方法ニ従ヒ小作人ヲ募集シ、監督及事業ノ奨励且小作人ニ関スル一切ノ事ヲ処理スベシ
 (三)牧畜部 当部ハ起業方法ニ従ヒ牧柵建設及ヒ飼畜蕃殖其管理等一切ノ事ヲ処理スベシ
 (四)事務所 当部ハ農場ノ印章及諸帳簿ノ管理並ニ各部ニ属セザル事業・庶務ヲ処理スベシ
第五、農場ニハ場長一名・技士一名・事務員一名ヲ置キ、場長ハ全体監督ノ任ニ当リ技士事務員ヲ指揮シ、技士ハ事業ニ事務員ハ事務ヲ専ラトシ、能ク各自ノ職責ヲ尽スベキハ勿論各員協力シテ全体ノ事業ヲ成効セシムル事ヲ務ムベキ事
第六、農場長ハ第三項ノ方針ヲ以テ各部ヲ総括シ其成蹟ヲ調査シテ予算ニ基キ経費ヲ支出スル事
第七、各部ノ事業ハ緩急ヲ図リ受負法ヲ以テ成蹟ヲ挙クルモ防ケナキ事
第八、各部ノ担当者ニシテ予算以上ノ成蹟ヲ挙ケタルトキハ本社ニ申請シ相当ノ賞与ヲ為ス事
第九、事業ノ成蹟並ニ会計決算ハ暦年度ヲ以テ纏メ毎年二月十五日迄ニ報告スル事
第十、移民繰替品ヲ廃シ成規アルモノノ外一切貸与セザル事
    以上
右之通リ今般制定致候条各項ノ趣旨ニ基キ御施設有之度候也
  明治卅六年九月十九日
            十勝開墾合資会社
             業務担当社員  渋沢栄一(印)
    農場長
     小田信樹殿

 - 第15巻 p.577 -ページ画像 

明治三十六年七月以後農場改革要書(DK150072k-0009)
第15巻 p.577-578 ページ画像

明治三十六年七月以後農場改革要書
               (十勝開墾株式会社所蔵)
拝啓陳ハ去月三十日社員第六回通常及ヒ第四回臨時総会相開キ候処、通常総会ハ結了致候得共、臨時総会ニ於テハ出席社員定数ニ満タサル為メ、出席社員ノ一致ヲ以テ、別紙ノ通リ仮決議致候、就テハ設立契約証書第三十五条ノ規定ニ基キ更ニ来ル十五日午前十時東京市兜町渋沢事務所ニ於テ第二臨時総会相開キ、前仮決議ノ承認ヲ得度ト存候間御出席被下度、此段得貴意候也
  明治卅六年十月九日      十勝開墾合資会社
               業務担当社員 渋沢栄一
(別紙)
    第六回社員通常総会
一明治卅五年度事業報告及同年度計算書類ノ承認
    第四回社員臨時総会
本総会ハ出席社員定数ニ満タザル為メ、左ノ各項ヲ仮決議シ追テ第二臨時総会ヲ開キ確定スルコトヽセリ
    決議事項
(一)一現在業務担当社員三名ノ辞任ヲ承認シ、左ノ三氏ヲ其後任ニ撰定ス
    渋沢篤二、植村澄三郎、渋沢作太郎
(二)一監査役二名任期満了ニ付改撰ヲナシ、左ノ二氏ヲ撰定ス
    渋沢栄一、大倉喜八郎
(三)一設立契約証書第廿一条第一項ノ支配人若干名トアルヲ農場長一名ト改正スル事
(四)一本社ヲ東京市日本橋区兜町二番地ヘ移転スル事
(五)一現在出資未払社員ニ対シ、設立契約証書第十二条ノ規定ニ基キ、此際除名処分ヲナス事
(六)一資本金減少ノ件
   右ハ未払込除名処分ノ結果、現在資本額三拾六万円ノ内除名者出資分金拾七万円ヲ処分減少シ、残額金拾九万円ヲ以テ資本金トナス事
(七)一前項決議ノ結果設立契約証書第六条及第八条ヲ左ノ通リ修正スル事
   (第六条)当会社資本額ハ金拾九万円トナス事
   (第八条)各社員ノ出資分担額及ビ其氏名住所ハ左ノ如シ
       一金五万円也     渋沢栄一
       一金五万円也     大倉喜八郎
       一金参万円也     渋沢篤二
       一金弐万円也     渋沢作太郎
       一金弐万円也     植村澄三郎
       一金弐万円也     和久伊兵衛
                   (但各住所ハ省略ス)
         外ニ
一農場将来ノ方針ハ、監査役植村澄三郎氏提出ノ意見書○前掲(第五七〇―五七三頁)
 - 第15巻 p.578 -ページ画像 
 明治三十六年八月二日附ニ基キ、多少ノ修正ヲ加ヘテ之ヲ決定セリ
  右ノ通リ

拝啓陳ハ当会社東京事務所ノ義、兼テ御内報申上候通リ、東京市日本橋区兜町二番地渋沢事務所ヘ移転シ、同時ニ同事務所員松平隼太郎ヘ当会社事務取扱方嘱托シ、佐藤氏ヨリ事務引継キ候間、此段御通知申上候、尚業務担当社員モ改選ノ筈手続中ニ付小生ヨリ申上候、追テ当会社移転ノ登記其他ハ結了ノ上委細御通知可申上候、此段得貴意如斯ニ候也
              監査役 植村澄三郎(印)
    農場長
     小田信樹殿


明治三十六年七月以後農場改革要書(DK150072k-0010)
第15巻 p.578 ページ画像

明治三十六年七月以後農場改革要書
                 (十勝開墾株式会社所蔵)
  卅六年十一月四日
    小田信樹殿
                  東京本社
                    松平隼太郎(印)
拝啓予て申上置候本社第二臨時総会之義、都合上去月廿八日開会いたし、第一総会決議ヲ確定仕候、其要領ハ左ニ
 一業務担当社改撰左《(員脱)》ノ三氏就任ス
    渋沢篤二、植村澄三郎、尾高幸五郎(社長ハ渋沢篤二ニ互撰ス)
 一本社ヲ当事務所ヘ移転ノ事
 一設立契約証書第廿一条ノ支配人若干名トアルヲ農場一名《(長脱)》ト改正スル事
 一未払社員六名即チ渋沢喜作・長尾三十郎・渋沢作太郎・福田彦四郎・大崎宗恭及書上順四郎ヲ除名スル事
 一資本金現在卅六万円ノ内前記除名分十七万円ヲ処分シ、残額十九万円トナス事
 一監査役ニ渋沢栄一・大倉喜八郎就任ス
 一前項決議ノ結果設立契約証書第六条・第八条ヲ修正スル事
    外ニ
 一農場将来ノ方針ハ監査役植村氏提出ノ意見書ニ基キ、多少ノ修正ヲ加ヘテ之ヲ決定セリ
右之通リ有之候、前便申上候事ト重複候ヘトモ、重ネて申上次第《(候脱カ)》ニ有之候、前記ノ決議ニ基キ登記変更ノ手続ハ不残去月三十日ヲ以て結了いたし候間御承知置可被下候
尚又此回ノ変更ニ付道庁ヘノ届候書《(マヽ)》ハ植村氏不日札幌ヘ参ラレ候間其節提出候事ニ相成居候、多分同氏ハ十日頃出発被成候とノ事ニ承リ居候
先ハ右等御報告申上候也


渋沢栄一 日記 明治三七年(DK150072k-0011)
第15巻 p.578-579 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三七年       (渋沢子爵家所蔵)
 - 第15巻 p.579 -ページ画像 
四月十二日 曇
○上略 午後小田信樹・松平隼太郎来ル、十勝開墾会社ノ現況ヲ詳知ス、三時過小田・松平ノ帰京ヲ送ツテ停車場ニ抵リ夫ヨリ村内ヲ散歩シテ山際ナル滝ヲ観ル、午後五時帰宿揮毫ヲ試ム、夜読書ス


(八十島親徳)日録 明治三八年(DK150072k-0012)
第15巻 p.579 ページ画像

(八十島親徳)日録 明治三八年   (八十島親義氏所蔵)
二月廿五日 晴
○上略 十時出勤、目下十勝開墾社ノ小田信樹氏、三本木ノ木村銀平上京中ニ付昼飯会ヲ銀行クラブニ開カル、植村澄三郎氏ヲ相客シ男爵・若主人・尾高・松平及小生列席ス、昨年ハ稀ナル豊年ニシテ両社共当リ年ナリ、午后六時過帰宅


(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK150072k-0013)
第15巻 p.579 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治三九年  (八十島親義氏所蔵)
四月七日 晴
例刻出勤、朝十勝開墾会社ノ総会アリ、大倉・植村両氏其他兜町ヘ集合ス○下略


(八十島親徳) 日録 明治四一年(DK150072k-0014)
第15巻 p.579 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治四一年  (八十島親義氏所蔵)
四月六日 曇
○上略 夕ヨリ兜町ニテ若主人ノ催ニテ目下上京中ノ小田信樹・山本信等ノ十勝開墾社員ヲ招カレ之ニ植村澄三郎・尾高・橋本等ヲ加ヘ晩餐ヲ饗セラル、予モ亦列ス、十二時帰宅


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK150072k-0015)
第15巻 p.579 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
四月八日 曇 寒
○上略 午前十時兜町事務所ニ抵リ十勝開墾会社々員会ヲ開ク、開拓ノ実況ヲ主任小田信樹氏ヨリ聞知ス○下略
  ○中略。
四月十二日 雨 軽寒
○上略 午飧後小田信樹・山本某ト十勝開墾会社ノコトヲ談話ス○下略



〔参考〕渋沢栄一 書翰 小田信樹宛(明治三九年)六月四日(DK150072k-0016)
第15巻 p.579-580 ページ画像

渋沢栄一 書翰 小田信樹宛(明治三九年)六月四日
                 (十勝開墾株式会社所蔵)
其後益御清適奉賀候、当春御出京中ハ多忙又ハ疾病等ニて染々拝話も仕兼等閑千万之段御海恕可被下候、此書状を以て御紹介申上候ハ穂積貞三と申老生之孫ニ有之、穂積陳重之三男ニ御坐候、昨年中学卒業後農学修行之為現ニ札幌農学校ニ入学罷在候得共、本年暑中休暇ニハ貴農場へ罷出実地拝見致度由ニ付、参上候ハヽ充分御引廻し被下学問と実地との関係丁寧ニ御説明御教示被下度候、同人ハ是迄只学校生活之儘ニ候間何等考案も有之間敷候得共、幸ニ完全之卒業を得候ハヽ或ハ貴農場抔ニ任用之途も有之候歟と存候ニ付、其辺も御含被下単ニ修学旅行之一書生と御看做無之、将来ニ属望候御見込ニて現況及未来之御計画等まて詳細ニ御垂示被下度候
 - 第15巻 p.580 -ページ画像 
老生も近日出立韓国ニ罷越申候、帰朝之期ハ七月中旬と存候、而して貞三貴地出張も或者其頃ニ相成可申歟と存候、右之段一書得御意度如此御坐候 拝具
  六月四日                渋沢栄一
    小田信樹様
        梧下
  尚々植村氏も此程札幌ニ罷越申候、頃日ハ三麦酒会社合併後之取扱ニ付頻ニ多忙之由ニ御坐候、為念申上候也
十勝開墾会社 小田信樹様 親展 東京 渋沢栄一
「三九」 六月五日 「七月一日入手」 穂積貞三 持参



〔参考〕竜門雑誌 第二二五号・第二五―二八頁 明治四〇年二月 ○北海道移住民の概況(穂積貞三)(DK150072k-0017)
第15巻 p.580-583 ページ画像

竜門雑誌 第二二五号・第二五―二八頁 明治四〇年二月
    ○北海道移住民の概況(穂積貞三)
 本篇は札幌農学校に修学中の穂積貞三君より本社々長へ送られし同君夏季休暇中十勝方面旅行日記中の一節なり
○中略
北海道六千百三十方里、之を我帝国全部二万七千六十余方里に比して人甚だ之を重大視す、然れども此地積の何程迄が利用せられ居るやを問ふ者少なきは甚だ誤れる者に非ずや、一反歩の良く耕されたる地は一町歩の荒蕪の地に勝れるは何人も良く之を了解する所に非ずや○中略若し利用せられざる土地多しとせば、北海道如何に大なりとて何ぞ喜ぶべきことあらん、皮相観者或は単に北海道は六千方里ありとて満足し居れども、今日利用せられつゝある土地は実に其幾分に過ざるなり(現に北海道の傾斜二十度以内の殖民適地は二百七十七万町歩にして既成地積は百九十四万町歩中官有二十五万町歩民有四十五万町歩貸付中七十八万町歩処分済百四十八万町歩等なりとす)然も此所に人の知らざる隙に此利用せられざる土地即ち荒蕪の土地を変じて利を生ずる田となし、金を生む畑となしつゝある者あり、誰ぞ、日夜拮据黽勉以て北海道六千余方里をして有名無実ならざる六千余方里たらしめむと勉めつゝ有る者あり、誰ぞ、他なし是れ幾多の移住者に外ならざるなり。」
○中略
開墾の順序
僕は今朝食を済ましたばかり「スケツチブツク」片手に此一種謂はれぬ趣味を持つた自然に対して及ばずながら後日の思出に其幾分かを此紙上に写し採らんとて出で立つたのである。
所は十勝国人舞村(十勝川に沿ふ一帯の農場)非常に大なる段立の最下部に位するので何方を向ひても一帯の高地がぐるりと立て廻はして
 - 第15巻 p.581 -ページ画像 
居る、只妙に思れるのはと云ふと例が余り適切な様で無いけれども彼の雛段を見上げた時の様に一定の距離例へば十五町とか二十町とか平坦地面が有つて急に殆ど直角的に一丈位高くなり、又平坦又断崖と云ふ誠に平凡な景色、そして彼所に二三軒此所に五六軒と移住民の家屋が先づ五人囃又は矢大臣左大臣と云つた様に規則正しく肩を並べて居る、そして其御内裏様の背後に立てらるべき金屏風の役は遥東北に聯なり聳ゆる十勝連山が務めて居る其中でも一峰孤立して真白に見へるのが十勝岳であつて、都ならば屋上の鬼瓦だに火焔を吐かんず此七月の末に猶此一帯の峰々は尽く白粧して将に昇らんとする東天の旭日に対して幻の様に美く彩色せられて居る、数町左手に茂れる一帯の樹林の中には種々の鳥々は塒を放れて思思の歌を唱つて居る、雨降らんとする時先づ其声ありと聞き伝へたる「カツコー」鳥さへも何の夢に迷はされてか頻りと啼いて居る、心酔へる想しつゝ我は猶も畦間を辿り辿るのであつた。
農場の自作部の手無豆畑の間を縫ふて「ルーサン」牧草地を右に今や小作地に入り込むのであつた。
 北海道に移住して同じく農業を経営するにも自作農者と他作農者の二種あります。農政の上から見ると此自作農者の多きは喜ぶ可く、他作農者の多いのは望ましからぬ事だとか申します、自作農者とは自ら土地を有し自ら此れを経営する者であります、従つて其土地を愛し最も慎重に此れを経営します、故にアーサーヤングと申す人が此自作農者の勤勉を見て「所有権の力は能く砂石を黄金に変ず」と申したそうです、故に此種の農者が多ければ多き丈其農業界は健全に総収入は大なのであります。某書で見ましたが仏国が農業国として天稟の肥沃気候の良好を能く利用し農業の大進歩を致したのは、一は革命の為めに大地主廃滅して自作農制の起りたる為めであり、反対に伊太利の土地瘠薄にて其農業上至大の困難を感ずるのは羅馬帝政時代に於る、土地兼併、自作者の減滅より来た結果であると申します。
 一面小作農者とは資本と土地を有し他作人を入れて此を耕作せしめ其小作料等で経営する地主の事であります、其小作人は其土地は自分のものでないから所謂砂石を黄金になす迄に熱心でない、其他諸種の原因で此を国家の為に採らざる農者とか申す人もありますが之は弊害のみを見て其優れる点を認めぬ議論であります、世の中には資力があつて労力なき又労力あつて資力なき者もあります、此等は共に農業を経営する事は出来ぬのであります、故に資本家が地主となり労力を有する者小作人となり相助けて農場を経営せねばならぬ此は又甚だ必要なのであります。殊に北海道の様な新開地に於ては此小作農者大地主の必要を認めるのであります、而して本道の小作農者にも二種あり一は普通小作、一は開墾小作であつて開墾の初めから資本主が土地の貸下を得て此を開墾する為めに府県から小作人を募集し之をなさしめるのであります、今私の居る十勝国人舞村字熊牛十勝開墾会社も此一つなのであります。
見渡せば園圃涯りなき此一劃遥か十勝川を越へて対岸の「ニトマツ
 - 第15巻 p.582 -ページ画像 
プ」高原も霞む様に見えて居る彼所に一群此方に一群馬を督して「カルチベーター」を以て唱ひながら働いて居る
 本道農業に於ける耕作法は此較的粗放であつて動物が又農具を使用する事は本州などより一般に進んで居ます、道庁に於て普通の移住者に貸付くる地積は一戸分五町歩であつて其二割は薪炭林風防林等として存置するを得る制になつて居ります、又小作農法を営む者も小作人には大抵一戸五町歩を貸付するのを普通とします、従て十中八九程は「プラウ」「ハロウ」「カルチベーター」の類を具へて耕し整地し又除草して居ります。
僕は暫く此様を見て歩いた時某小作人の家の傍に六七十とも見ゆる老人の「日向ボツコ」しながら頻りと何か造りつゝあるを見出したので近寄つて共に座し極大体の移住の模様を聞く事を得た、彼れの話はかうである。
 『過ぎた事思ふと全く夢で御座りますよ、はい私は越後の者で一家と申しては私に悴夫婦に孫一人と此四人暮しで御座ります、余儀無い事で国の家は潰れます、親類はなし、私途方に暮れましたのですよ、時に此会社の方が御来臨で世話してやるから十勝に来いと申されます、私思つたです、彼の熊が住むと申します蝦夷が嶋に行く位なら死んでしまいましやうと、而し種々御話を伺ひますと北海道だとて鬼が嶋と云ふでもなし又良い所もある、物は試しとな斯う思つて大奮発で此所に参りましたはもー早や一寸七年になります。有難い事で御金は拝借する滊車は割引が出まして(移住者に対しては官設、関西、日本其他数個の鉄道会社は連絡して切符を出し青森より函館又は室蘭への郵船会社も之に連絡するのです、北海道の滊車は移住民に対しては総て無賃であります)どーにかこーにか此所に住込みましたが其当時の苦労は実に御話には成りませんよ、扨此所で初め五町歩の地面を拝借して私は此農場の二種小作人となりましたのです。』当十勝熊牛農場では一種より四種までの小作人の階級があつて、一種小作人とは本州其他の極貧者を移住せしめた者で会社に於て其衣食住家等全然保護を与へる者、第二種小作人とは食料だけ給与し住込当時一家に就き五町歩を貸付くる、其土地成功(全部開墾)の後此三分の一を与ふるもの、第四種は資力ある農民を入るゝ場合に一切移住の事を自費にて支弁せしめ、成功の後其七割を与ふる者、此四種小作人の如きは余り移住せしめざるを会社の得策とするけれども場合に由りては余儀ないのであります、土地を分与するのは小作人の土着心を起す為めであります。(第三種小作人は目下其移住者なきに付略之)
 会社では移住当時に小作人一家に付五町歩を貸付け、小作人は初年に一町五反歩、二年目三年目に一町歩、四年目に一町五反歩開墾して全部成功せしむるのであります。
 勿論腕さへあれば必ず四年間でなくても良いので三年間に仕上げても良いのである、そーして全部(五町歩)を仕上たものは更に又会社から五町歩借りる事が出来る、現に小作人の中には非常な勉強で二三十町歩持つて居る者があります。
 序でに一言しますが此辺の移住民を世話する会社では小作人一戸を移
 - 第15巻 p.583 -ページ画像 
住さすのに大抵六十円を要します、移住当時は小作人は手中無一物の者が多いのでありますから種代として八円、小屋掛料として五円、当分の食料代拾五円、農具料六円、移住旅費及雑費之に加ふるに移住当年に開墾すべき一町五反歩は会社の方にて耕しやる、此費用として二十円を要する次第であります。
 是等の貸したる金額は概ね三年乃至五年据置き後に年賦にて一部を償還さす者で後に云ふ開墾料中から差引く事もあります。(未完)



〔参考〕竜門雑誌 第二二六号・第二四―二九頁 明治四〇年三月 ○北海道移住民の概況(承前)(穂積貞三君)(DK150072k-0018)
第15巻 p.583-586 ページ画像

竜門雑誌 第二二六号・第二四―二九頁 明治四〇年三月
    ○北海道移住民の概況(承前)(穂積貞三君)
さてどうも国では先祖伝来とも申します様な田で仕事し慣れた私共は此神代其儘と云ふ様な草茫々立木だらけの土地に来ましたので、実に初めは先づどう仕様と思ひ迷ひましたですが先づ何より家を作らねばなりませぬ、小屋掛料として五円頂戴致しましたから是に三間に二間半の家を造りました、堀立小屋と申しまして地を掘り丸木を建て柱とします、これに梁桁を渡して柾・笹・萱等で屋根を葺き四方を囲ひ床には板蓆を敷き雨露だけは凌げる様でしたが今考へても良くまああれで暮せたと思ひますよ、強い雨や風では一堪りもありませんでしたよ、
 (僕ニハ二日前「ケネ」原野ニ今年移住シタ小作人ヲ訪フタ時見タ彼ノ粗末ナ小屋―馬小屋ヨリ酷イト僕ハ思ツタソレガ眼ノ前ニ浮ンデ来タ)
でも其小屋に二年程住みましたですよ、私等は兎も角孫が可愛想でなりませんでした。
まあ此様に小屋掛が済み直ぐ開墾に着手しました、私の初めて入つた時などは此辺も全く樹林地でしたから開墾も仲々骨が折れまして、未だ雪深い頃から立木を伐り倒し始めました。
 (樹林地ヲ開墾スルニハ先ヅ立木ヲ伐倒サネバナラヌ、多クコレハ積雪ノ間ニ行フノデ倒シタ木ハ薪炭トシ良質ノモノハ木材トシテ利用スルノデアリマス、又木質不良デ良材ニナラヌ場合トカ又ハ伐ツタ木ヲ地上ニ放置スルノガ地面ヲ塞ゲテ不利益ナル場合ニハ焼払ヲ行フ、又樹木ヲ伐リ倒シテル隙ナキ時ハ樹幹ノ周囲ヲ伐リ廻ハシ木皮ヲ縦幅一尺位輪状ニ剥ギ取リ自然ニ枯ラシ後ニ木ニ上ツテ枝ヲ落ス法モアリマス、此等ハ前ニモ云ツタ如ク積雪ノ間ニヤルカラ雪ガ消ユルト田畑ノ中ニ高サ四五尺ノ切株ガ多ク林立シテ初メテ見ル人ナドニハ誠ニ奇異ニ思ハレルモノデアリマス、此切株ハ根抜器械デ取リ去ル事モアリ又米国ナドデハ「ダイナマイト」デ之ヲ粉砕シ同時ニ土地ヲ耕スト云フ一挙両得ノ策ナドヤルト云フ話デアリマス)
兎に角木は倒し之を片付けまして次に下草を除き去りました、やはり焼払ひます、そこで参つた初年の事ですから会社の方で一町五反歩は耕して下さいます、それで先づやつと私共の生活の土台が出来上つた時は誠に愉快でありました、新墾地特に樹林地は割合作が宜しいです新墾地に適します作物は大豆・小豆・菜豆・粟・黍・玉蜀黍・蕎麦・菜種・馬鈴薯などです、私は大豆・小豆を作りました、此辺りでは五月の十日頃から七月の十日の間に種を下しますで、一方では開墾しな
 - 第15巻 p.584 -ページ画像 
がら一方では耕作する、此初めの年が一番困難しますよ
 (諸君此移住当時ノ困難ハ実ニ諸君ノ御想像以外ダト信ジマス、彼等ハ何ヲ食シテ居ルト思ハレマスカ、僕ハ聞テ驚キ見テ驚キマシタ彼等ノ食ベテ居ルモノハ款冬(フキ)ノ葉茎デアリマス、之モウマク煮テ四五本食ベルナラ悪クモナイガコレヲ我々ノ米ノ代リニ食シテ居ルノデス、款冬ヲ根カラ抜キ来リ葉茎ノ皮ヲムキ水ニ曝シ之ヲ乾シテ細ク刻ンダモノコレガ彼等ノ四度、四度(毎日四度ヅヽ飯ヲ喰フ)食ス総テノ御馳走デアツテ何一ツ余菜ノアルデハナシ(尤モ少シ楽ナモノハコレ七分ニ南京米三分位又ハ半々マデ用ヒテ居ル)汽車ノ便ナキ北海ノ内地何ガ有ロー筈ガナイ僕ハ思ツタ斯様ニ貧乏デハナラヌト、此食デドーシテ充分働ケル者デセウー、又此時代ノモー一ツ困難ハ前陳ノ如キ貧乏デアルカラ、其日ノ入用ニ差支ヘル食ハ今ノ「フキ飯」デ過ストシテモ何ノ彼ノト日用品ガ要ル、之ヲ買フニハ銭ガ要ル、銭ガ要ルトテ畑ノ豆ヤ芋ハ秋ニナラネバ金ニ化ケヌ、ソレ迄其日々々ヲ如何シテ暮ス、彼等ハ余儀ナク出面取(日傭取)ニ出ル、例ヘバ近所ノ鉄道工事トカ道庁ノ道路工事ナドアレバ此ニ行ツテ働キ弐拾銭、参拾銭ノ金ヲ得テ其日ヲ過ス、二日程スルト又無一物、又行ク、遂ニハ其日ノ内ニ金ガ取レルカラ此方ガ面白クナリ之ニ身ガ入リ其結果ハドーナルト思ハレマス、大切ナ畑ノ方ハツヒツヒ御留守ニナリ気ガ付ケバ既ニ遅レタリ雑草一面、今更泣イテモ間ニ合ハズ秋ノ収穫ハ零ニ帰スル次第デアリマス
 デアルカラ小作人ヲ入レタ会社ナドハ余程考ヘ物デアツテ今此所ニ広イ牧草地ガアル「モーワー」ト云フ器械デヤレバ百四町歩位苅レルト知リツヽモ、小作人ニ前陳ノ様ナ悲ヲサセヌタメニヤハリ昔流ニ小作人ヲシテ鎌デ幾日モ掛ツテ苅ラセルソシテ半日例ヘバ午前中ハコレヲ苅ラシテ其日ニ不自由ナイダケ日給ヲヤリ、午後ハ安心シテ自分ノ畑デ働ケル様ニシテヤルケレドモ牧草ノ方ハコンナ呑気ナ事シテ居ル間ニ雨ガ降リ全部コレヲカラスト云ツタ様ナ事ガアツテ仲々地主タルモノ遣リ悪クイ所デアリマス、中ニハ秋収穫ノ後コレヲ売ル迄待タンデ今ドーシテモ若干ノ金ガ欲シイト云フ時ニ自分ノ畑デハ大凡何程収穫ガアルト予算シテソレヲ夏ノ中ニ売ル、即チ今其金ヲ手ニ入レ秋ニナツタラ収穫ノ品ヲ渡スト云フ理、コレヲ青田ト云ツテ秋ニ売レバ百円ハイル物ナラ今ハ八拾円デナケレバ売レヌ即チ小作人ハ弐拾円損ヲスルノデアリマスガソンナ事云ツテ居ラレヌ時ニハ此様ナ苦肉策ヲヤルノデ有リマス、此ヲ以テモ諸君ハドンナニ此我ガ同胞ガ苦ンデ居ルカヲ御察シ出来ルデアリマシヨー
 兎ニ角小作人一般ニモツト有福ナラシメネバナルマイト思ヒマス)
私は運よく始めの年に当てましたで大助りに二年目から開墾料は取れるし土地には慣れる、今ではやつと馬四頭も飼ひますし誠に有難いことで、食物なども少しは貯へますし、一二年不作でも先づ困りません程になりましたよ
 (開墾料トハ小作人ガ土地ヲ開墾スル其広サニ応ジテ地主ヨリ支給スル者デ其難易ニ依リ異リマス、当会社ナドデハ草原一反歩ニ付壱円参拾銭樹林地参円薄林壱円七拾銭宛支給シテ居リマス、但食料小
 - 第15巻 p.585 -ページ画像 
屋掛料ハ別トシテ種代農具料等初メ借リタ金額ヲ漸次此中カラ差引ク事アルハ前ニ申シタ通リデアリマス、次ニ会社ガ小作人カラトル小作料ハ移住初年ヨリ三年目カラトリマス、此小作料ヲ徴収セズニ働カス年限ヲ鍬下年限ト云ヒマス、前ニ申シタ四種小作人ハ此鍬下年限ヲ長クシテ五年目カラ小作料ヲ徴収シマス、小作料モ土地ノ良否ニ由リ異リマスガ平均一反歩ニ付キ五拾銭位デアリマス
 北海道ニハ限ラヌケレドモ此種ノ開墾会社ガ創立三四年間ニ倒レル者ノ多イノハ此所ニ其一源因ガアルノダソウデス
併し此の少し楽になつたといふ奴が誠にいけません者でしてな、此所でやりそこなふ仲間が大分ありますよ、遊びますですな。
 (実ニ此事ハ注意スベキ事デアリマシテ之ニツケテモ小作人一般ノ教育ヲ盛ンニシ道徳心ヲ高メネバナラヌト思ヒマス、此北海道ハ冬期長ク彼等ハ退屈ノ余ニ人ニ誘ハレテ賭博ニ手ヲ出シ、一年間額ニ汗シタ其結果モ一夕ノ中ニ失フ様ナ事ガ甚ダ多イ、農家ハ真面目デナクテハナラナイ、其ガ此様ナ一攫千金ト云フ様ナ僥倖心ヲ抱タナラバ一家一村破滅ノ基デアリマス、此農場ニモ簡易教育場ガ三ケ所モアツテ此等農家ノ子弟ハ皆朝ニ先生様ノ御話ニ其耳ヲ清メ夕ニ帰レバ父兄ノ此不徳ニ其耳目ヲ汚ス、苟モ「家庭ハ最強ノ教育場」タル以上ハ彼等ハ善ニ感化サレルカ悪ニ感化サレルカハ諸君ノ御判断ニ任ス、又一ツハ飲酒ノ癖ガアル者ガ多イ事デアリマス、一日ノ汗ヲ後ノ小川ニ流シサテ一家打寄ツテ夕顔棚下ノ一二杯是レハ決シテ悪クモアルマイ、誠ニ云ハレヌ美シイ所ガアルガ度ヲ過スニ至ツテハ許ス事ハ出来マセヌ
 前ニ申シタ様ニ会社ガ不便ヲ忍ンデ態々仕事ヲ設ケテ其日ノ日給ヲ切手ニシテ与ヘ、之ヲ月末ニマトメテ金ニ代ヘテヤル方法ニシテ居ルノニ小作人ハ此心ヲ知ラナイノカ其切手ヲ受取ルト其帰リニ酒屋ニ立寄リ(農場内ニ一軒何ンデモ売ル家ガアル)切手デ酒ヲ買ツテスツカリ飲ミ尽ス、月末ニハ酒屋ガ切手ヲ沢山ニ持ツテ事務所ニ金ヲ受取リニ来ルトイフ馬鹿ゲタ事実ガアル、一方小作人ノ妻子ハ如何、夫ガ帰ツタラ油ヲ買フ彼ヲ買フト心待ニ待ツテ居ル、サテ油壷提ゲテ夫ノ帰宅ヲ迎フレバ当ノ主人ハ懐中無一物、酔眼朦朧千足鳥ニ節面白ク
  「情けないかな土百姓に生れいやなふき飯喰ひなれた」
 ト謡ヒ謡ヒヤツテ来ル、妻君如何ニ温順ナリトテモ此所ニ一場ノ犬モ食ハヌ事件出来シナイ筈ハナイ、ドウシテモ農場管理者ノ責任トシテハ小作人ノ風儀ヲ上ゲネバナルマイト思ヒマス
私共は幸ひそんな仲間にも入らずやりましたで御覧の通り人並みにやつて居ります、もー入つてから七年になりますが未だ畑に肥料はやりませぬ
 (新墾地ニ至リテハ三年乃至五年ハ無肥料ニテ充分ノ収穫アリ、肥沃ナ土地デハ十年間モ無肥料デ耕作シテ相当ノ収穫ヲ得マス、併シ出来ルナラ肥料ヲ用フル方利益多イノハ勿論ノ事デアリマス)
老人ノ談話ハ未ダ尽キソウニモ無カツタガ彼ノ所謂孫デアロウ十歳許
 - 第15巻 p.586 -ページ画像 
リノ男ノ子ガ「ヂーチヤン」ト呼ブ声先ヅ聞エテ小サナ足音ガ近ヅク家ノ障子ガ開イテ小サイ可愛イ影ガ現ハレル、ソシテ其目ニハ僕ガ鬼ノ様ニデモ見エタノデアルカ、其足ハ最早一歩モ進マズ卑怯ニモソロソロ退却シ始メルノデアツタ、逃ゲナガラ又「ヂーチヤン」ト響ク、「ヂーチヤン」ハ漸ク立上リ余ニ一揖シテ家ノ方ニ行ク。
気付ケバ既ニ夕刻デアツタ、遠ク太陽ハ将ニ没スルバカリ鴉ノ一群其後ヲ慕フカノ様ニ西ヘ西ヘト飛ビ過ギル、僕ハ家路指シテ畦間ヲ南ヘ辿ル、一日ノ労働ニ手足ハ真黒ニ汚レテハ居ルガ又何物カ心ニ安キ所アルカノ様希望ニ満テル顔シテ其楽シキ我家ヲ指ス、小作人ノ幾群ガ東ヘ西ヘ南ヘ北ヘソウシテ「ヲツカレ」ノ挨拶ハ各所ニ衝突ヲ起シテ居ル、僕ハ猶南ヘ急グ四辺ハ漸ク暗クナツタ、忽チ南ヨリ一群ノ足音笑声ト共ニ北ヘト急グ、余ニ近キ傍ヲ通ツテ余ノ肩後ニ遠ザカリ行クヤガテ此静寂ヲ破ツテ彼等ノ追分ノ一節
  「百姓可愛や鍬とる手にも帰りや眠らす孫もある」
他ノ声ガ負ケジト続クノデアル
  「百姓可愛や浮世の黄金土の下から鍬で掘る」
余韻ハ長ク後ハ静カニ観《(顧カ)》ミレバ村落ハ杳然チラチラト人家ノ灯……僕ハ期セズ
  「田に畑に打出の鍬の小槌哉」
ナル句ヲ思出スノデアツタ、ヤガテ事務所ノ灯ガ見エル、何処トモナク梟ノ鳴音ガ渡ル、四顧烟ノ如ク一点二点星ハ輝ヒテ北海ノ天地ハ誠ニ平和ナモノデアツタ。 (完)



〔参考〕竜門雑誌 第二五一号・第二二―二六頁 明治四二年四月 ○所感を附記して評議員諸彦に質す(穂積貞三君)(DK150072k-0019)
第15巻 p.586-589 ページ画像

竜門雑誌 第二五一号・第二二―二六頁 明治四二年四月
    ○所感を附記して評議員諸彦に質す (穂積貞三君)
万物は「自然」ならざるべからず、「不自然」は頓て滅亡を意味す、余は此の厭ふべき不自然を竜門社々則中に発見す。
何ぞや、曰く、其第二条に於て特に「商工業者の智徳を進め」云々とありて、農なる一活字を惜まれたる是なり、此事甚だ細事に属するが如きも、本竜門社が青淵先生の常に唱道せらるゝ主義に基づき活動せむとするものなる以上、今此一活字の脱略は頓て大なる誤解を後世に醸す事無きを保証し得ざればなり、況んや其社員中五十名に近き農業関係者を含有せる竜門社の社則としては決して尽せりと云ふべからざるなり。
抑も我国が農業を以て立国の大本とすべきや、将た商工業を以て立国の基とすべきか、又此三者相並行して以て立国の大計を全ふし得べきやは、目下の大問題に属す、此種の問題は既に外国に於ても古くより甲弁乙駁、即ち時に仏国のコルベルト一派の「コルベルチズム」(重商主義)として顕はれ、後其反動は「ヒジヲクラット」(重農主義)として来り、クエースネー、ツルゴー氏等の熱心に唱道したるもの是なり、後独に「カメラル、ヰッセンシヤフト」あり、英にアダムスミス系の「オーソドツクススクール」起り。次に「ヒストリカルスクール」
 - 第15巻 p.587 -ページ画像 
之を継ぐ、如斯相論じ相争ふて今日に到る、しかも其発見し得たる事実は曰く「不可解」のみ。否、不可解には非れども其国状に由り異り時勢に由りて異らざるべからざる此種の問題を、一定義中に尽さむとして得ざる勿論の事なればなり。
翻て是を我国に観るに立国未だ日浅くして従て学者間に此重要なる問題も等閑に附せられつゝあるの観なきに非ず。然るに社会の気運は反之人心漸く膨脹的なる商工業の花々しさに打たれて、今や重商工業主義に傾かむとする趨勢あるは近時都会熱の盛なる勃興を以ても亦其一斑を伺ひ知るを得るなり。是れ喜ぶべき現象か、果た悲むべきか。
商工業立国論者は是を以て喜ぶべき現象なりとして曰く、農業は大なる地積を要す、而して我彊土良く三千八百五十五万町歩内外に過ぎず今仮に我国全土を挙げて是を米又は棉の如き一種の作物のみに使用するも、其又収穫は一ツの印度・支那又は合衆国に及ばざるべし、然るに一方に我国は海国にして、近時海運の進歩は著く、各種の原料を低廉なる価額を以て海外より仰ぐを得るに到れり、然ば農産品の供給は寧ろ之を他国より仰ぎ、我国民は全力を挙て其製造に従事し、以て工業品として輸出せば国家を富ましむる上に於ても、上乗の策たるを失はず、況や我国は商工業国として絶好なる地位と素質を備ふるに於てをや、何を苦むで薄瘠の地表三寸に対し何百万の農民の「エネルギー」をして、其幼稚なる鍬鋤の先端より徒に消散せしむるの愚を学ばむやと、是れ更に一面の真理たると同時に他面に於ては阿世曲学の大愚論たるを失はざるなり。
抑も経国の眼目にして単に富国の事のみとせば、是れ誠に上乗の策たるを疑はず、然れども是には一方に、より大なる国務の存することを忘るべからざるなり、誠に商工業立国は其性質上富国には便なる方針なりと雖も、以て一国存立の基礎を確定し永劫渝ることなきを望むは木に由つて魚を求むるの轍たるを失はず、其の主義が経済上に於て盛衰枯凋の速なる短所を有するは歴史の能く是を示す所にして彼の「カーセージ」、「ヴヱニス」の如き都市国家が、一朝にして滅亡の悲運に相遇したるを見ても明なり、是れ此等の国家が自国の土地生産を忘却して徒に富を外国貿易にのみ求めたるの結果に外ならざるなり。
又一方に商工業立国は其都会にのみ不権衡なる繁栄を来し、地方をして極端なる疲弊に陥らしめ、経済界をして余りに「センシチプ」ならしめ、国民の健全なる体力と習慣を傷け、国力の中心たる中等社会の滅亡を来し、結果は引て貧富の差を過大に至らしめ従て国力を消磨せしめ、以て消極的に国家の瓦解を来すは又「エジプト」「ギリシヤ」の歴史の証する所なり。斯く商工業立国は大なる利と害とを併有せるものなれば、これを以て唯一の国是となすは甚だ危険の事なりとす、然ば何を以てして此欠点を補充し、以て益々商工業の完全なる発達を期す可きや、曰く農に外ならざるなり。
農業は其性質上富の増進力に於ては大に商工業に劣れるを以て、これ又唯一の国是となすを得ざるは明なりと雖も、国家の真髄たる精神的又物質的方面に貢献する上に於ては或は彼に優れる点の存在するには非るや。彼商工業論者は単に商工農三業を生産事業としての価値を示
 - 第15巻 p.588 -ページ画像 
す「バランス」上に秤量して以て其軽重を云々すれども、此三業共に国家に対しては猶他に大なる意味の存する事を忘るべからざるなり。
而して此三業中農は最も造富力に於て劣れるだけ、他方面に於ては最も大なる関係を国力の上に有するなり、就中其商工業と異る所以は、一つに農業の客観的性質に在りと信ず、即農業が国家及社会に及ぼす「感応」と国民に及す「感応」と是なり、是は今此所に詳記する必要を認めざれとも概説すれば農は人口移動上、地価及財政、国際上、軍隊上、政治上、宗教道徳上等に大関係ありて、この間の消息は一国の富如何とは自ら関係の異るべきものたるなり。
又主観的性質に於ても農業は国家を成す創始にして商工業は其第二次産物に外ならず、即「イレー」氏の如き経済学者は物質生産の順序発達に由り経済歴史を分類して一、遊猟漁業時代。二、遊牧時代。三、農業時代。四、手工時代。五、商工業時代とせり、是れ誠に生産業進歩の順序を示す者なれども、直ちに以て経済状体《(態)》の順序となすは誤れり。換言すれば、是に由り直ちに農業時代は既に全く去れりとなすは大早計と云はざるを得ざるなり。
二十世紀の世界的経済界に於て一国家が其完全なる発達を望まば、彼の経済上に於る「国粋主義」を出来得る限り進歩せしめざるべからず此「国粋主義」の強行には通商貿易を盛ならしむると同時に、国内の農業をして大に盛ならしめざるべからざるは論を俟たざるなり。
要するに農業は国家の基本たるべき性質を有するものにして、国家の根茎に外ならず、即ち国家てふ一樹を地上に固定せしめ、これに最必要なる水分と従て営養分とを供給し、商工業は其枝葉となり、其葉面に行はるゝ同化作用・吸収作用は根よりの水分を待つて始めて有勢に行はれ、是に盛なる生長発育の材料を供す、根茎枝葉全くして始めて妖麗の花あり人を酔はしむ、これ軍人に喩ふべきか。
一樹の全き成長繁殖にして既に各機関の完全なる発達を要す、況や一国の発達繁栄をや。
故に我国、現今の状態より見るも、是を歴史に徴するも農工商業併立を以て最良の国是となすべく、何れを偏重するも得策に非ざるや疑なし、故に政府の保護政策も亦此三者に対し一視同仁たるべく、個人も又人類の先天的固性たる自己中心を投て農工商業者間互に均一の尊敬と理解とを保たざる可らざるなり、余は前陳せる如く我が国気運の趨勢の近時漸く古の「コルベルチズム」に傾かむとするを憂ふる者、今や此所に先輩二十名の評議員諸先生が熟議制定せられたる竜門社新社則中、最も重要なる社の主義方針を示す第二条に於て、由来雪月花の如く自ら相放つべからざる対句をなせる「農工商」なる文字より特に農の一字を脱せられたるを見るに及びては、これ或は上来述べ来りたる世運の発現にして外ならざるやを怪まざるを得ず、よし然らずとせば誠に其何が故たるかを了解に苦む所なればなり。
想ふに其言よく商工業者の智徳を増進せしむる青淵先生の高徳にして又農業者を同化せしめずと云ふ事あらむや、しかも現今我国の農業道徳なるもの大に発達の必要あること「商工道義の観念」に於ると同様に急なる以上、此特に商工業者と制限せられたるは、当世一流の実業
 - 第15巻 p.589 -ページ画像 
家たる青淵先生の主義唱道の下に建設せられたる実業家間稀に見るの大集団の規則としては少しく範囲狭小に失するの嫌なきか。社則は元これ形式に過ず、内容に於て三業併重の実あれば敢て細則に拘泥するなかれと云ふ者あらば、余は是に寧ろ社則を造らざるの勝れるを云はむとする者なり。一旦名文として表はれたる以上は其所に又一点の疑を許さゞればなり。
余農業に志すを以て此社則の為めに継子扱さるゝを憂ふるのみには非ず、世の偏見を打破せむには此種の集団率先して農工商三業鼎立の是良国是たるを示さゞるべからざるを想ひ、其手段としては社の事業として此三業に従事せる者に対し均一に其徳性の涵養を勧むべき必要あるを信じ、敢て感想を附記して以て評議員諸彦の宏量に訴へ、此際農なる一活字を添補せられむことを希ふ者なり。
此事誠に一活字の死活問題に外ならざれとも頓ては何十万の農業者をして商工業者同一の自由を以て高大無辺なる青淵先生の高徳の下に浴し得るの幸を得せしむると否との問題に帰着するを以て余の浅学を省みず燕雀の喋々を学ぶものなり、終に望み敢て牛車に対し斧を挙ぐる蟷螂が一寸の心にも、それ相応の理窟はあるものなる事を量せられよ。



〔参考〕竜門雑誌 第二六三号・第二二―二四頁 明治四三年四月 ○社則第二条改正の提議に就て(社長渋沢篤二)(DK150072k-0020)
第15巻 p.589-591 ページ画像

竜門雑誌 第二六三号・第二二―二四頁 明治四三年四月
    ○社則第二条改正の提議に就て (社長 渋沢篤二)
私が此際特にお話したいと思ふのは竜門社の社則第二条に「本社は青淵先生の常に唱道せらるゝ主義に基き主として商工業者の智徳を進め人格を高尚にするを以て目的とす」とある。夫れに就て昨年四月の竜門雑誌に掲載してある通り本社の評議員たる穂積陳重君の三男で当時東北帝国大学の農科に在学中なりし故穂積貞三君が一篇の意見書を寄せられた。其大意は社則第二条に竜門社の目的が書いてある。即ち青淵先生の唱道せらるゝ主義に基きて主として商工業者の智徳を進め人格を高尚にするを以て目的とすとあつて『農』といふものは殆ど除外してあるやうに見える。これはドウ云ふ訳かと云ふ質疑的の意見であつた。其後渋沢元治君が北海道に出張して穂積君に遇つた時にも其質問が出た。如何にも尤もな事だと思つたが能く研究して見やうと云ふことで其儘になつて居つた。
所が穂積貞三君は昨年十月不図病に罹つて逝くなつて了つた。ソコで渋沢元治君が貞三君の霊前祭の時に、かねて貞三君は「主として商工業の智徳を進める」と云ふことを気にして居られた。自分も尤もな説と思つたので何れ帰京の上社中の人に諮つて是非『農』の字を附け加へて貰ふやうにしたいと云ふことを誓ふと云ふ程の大袈裟の事ではないが、ソウ云ふ問題の出たときには原案者たることを辞さぬと云ふ約束をしたから何とか研究して貰ひたいと云ふ。それで始めて其事が社中の一問題となつたのです。
私も始め一寸考へて見た。成程「主として商工業者云々」と云ふと農業抔に関係して居る人を取除けたやうに見えぬでもない。ソコで此規則を拵えることに就て最も力を尽された八十島幹事に諮つた。所が八十島幹事の言ふにはこれは一面そう云ふ風に見えるかも知れぬけれど
 - 第15巻 p.590 -ページ画像 
も「主として商工業者云々」と書いたのは、特に商工業者の智徳を進め人格を高尚にすると云ふ必要を認めたからで決して農業を度外視した訳ではない。言ひ換ゆれば農業道徳と云つて宜いか或程度までは相応に発達して居るけれども、商工業者の智徳を開発する必要は尚大にあると認めたから「主として云々」と云ふ字を入れた。嚮に社則編製の当時にも其議論があつたけれどもそう言ふやうな訳で決して『農』を取除けだとか又は忘れたとか云ふ次第ではないと云ふ説明も聞いた訳である。
併し既にそう云ふ質問も起つたのであるから一遍評議員会にかけて見たいと云ふことを私も思ひ、原案者たる渋沢元治君も主張さるゝので評議員会にかけて相談した所が此問題は其事を気にして居られた穂積貞三君が既に故人になつて見ると情に於てはエライ差障りのない者ならば『農』と云ふ字を入れたい。併し大切なる社則を変更することであるから特別委員を選定して尚ほ慎重に詮議し、而して青淵先生の意向も聞いた上にしても遅くはないではないかと云ふ阪谷評議員の説であつた。至極尤もであると云ふ評議員全体の意見で私と尾高次郎君、渋沢元治君、八十島・杉田両幹事が特別委員となつて其問題を研究することになつた。
其後段々寄々相談の末本年三月二日に特別委員会を開いた。八十島幹事は転地療養中の為め欠席し、渋沢元治君も出張されて出席しなかつた。それで尾高次郎君と杉田富君と私と寄つて相談した。但し其前から八十島君からは前に申したやうな説を聞いて知つて居りますし、原案者たる渋沢元治君の議論も前から聞いて居つた。要するに渋沢元治君は穂積貞三君から其話があつたので自分も気が付いた「主として」と云ふ字は「商工業者」にかゝつて居るか但しは「智徳を進め云々」云ふ方にかゝつて居るか。若し「主として」と云ふ字が商工業者にかかつて居るとすれば農業者も網羅されて居る訳であるが「智徳を進め人格を高尚云々」と云ふ方にかゝつて居ると解釈すれば、農業と云ふものは取除けられて居る訳である。両者孰れにかゝつて居るか夫れを研究して貰ひたい。併し此問題が評議員会の議に上り特別委員まで選定されて慎重に研究された事であるから万一採用にならぬでも故穂積貞三君は地下に在つて満足せらるゝことであらうと云つて他へ出張されたのです。夫等の点に就て尾高評議員及び杉田幹事と段々詮議の結果解釈の仕様によつては渋沢元治君の言はれるやうにも取れるけれども併し「主として商工業者云々」と云ふのは総ての中に於て最も急務である所の商工業者の智徳を進むることを主とすると云ふ意味で斯く書いたので決して「智徳を進め云々」と云ふ方に「主として」がかゝつて居るのではないと思ふけれども併し既にそう云ふ質問も出で、商工業者以外の者が疑惑を懐くやうな事があつては甚だ遺憾である。就ては青淵先生が常に唱道せらるゝ「実業」と云ふ字に改めてはと云ふ説もあつたけれども「実業に従事する者云々」では文章の力も失せて仕舞ふし殊に「主として」と云ふ字が「商工業者」にかゝつて居ると見做せば無論農業者も其他も其中に含まれて居ると云ふことは明白である。且本社の憲法たる社則の改訂は差支なき限りはそう軽々に行ふ
 - 第15巻 p.591 -ページ画像 
べきものでないから右の如く解釈の立つ以上是れは改正する必要を認めず、但し其質疑に対しては相当の方法を以て雑誌に説明し第二条の解釈を明らにして置くことが必要であらうと決議したのであります。夫れから三月廿九日に評議員会を開いて第一問題として提議し自分が特別委員長として委員会の決議を報告し、評議員全体も段々考へて見たが特別委員の報告が至当であらうと思はれると云ふことで全会一致を以て改正する必要を認めない、併し夫れだけの事は然るべき方法を以て竜門雑誌に於て一般に説明して置く方が宜からうと云ふことに確定された訳であります。依つて私が評議員会の決議に基いて本問題の経過を述て会員諸君に告ぐる次第であります。