デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

5章 農・牧・林・水産業
1節 農・牧・林業
4款 十勝開墾合資会社
■綱文

第15巻 p.591-606(DK150073k) ページ画像

明治41年8月(1908年)

明治三十六年ノ会社起業方法変更及ビ減資以来、漸ク其実績挙リ、明治四十年九月鉄道開通シテ初メテ発展ノ基礎ヲ得タリ。是月二十三日ヨリ三日間栄一親シク農場ヲ訪ヒ、会社使用人及小作人ヲ激励シ小作人一同ニ金三百円、又当農場教育費ニ金二百円ヲ寄附ス。以来年ヲ逐ヒ当農場ノ事業着着発展スルニ至ル。


■資料

農場経営ノ方法及其成績(DK150073k-0001)
第15巻 p.591 ページ画像

農場経営ノ方法及其成績     (十勝開墾株式会社所蔵)
○上略
明治三十九年ニ至リ鉄道工事進行シ農場附近ニ至ル、開通近キニアルヲ予想シ人気回復シテ秩序的ニ進行ノ緒ヲ開キタリ
明治四十年九月鉄道開通シ、玆ニ愁眉ヲ開クニ至リ続テ翌年八月ニハ渋沢男爵親シク農場ヲ巡視シテ職員ニ訓示シ、又小作人ニ慰撫奨励ノ言ヲ与ヘ同時ニ小作人一同ニ金参百円ヲ給与シ、又教育費ヘ金弐百円ヲ寄附セラレタリ、爾来年ヲ逐フテ小作人集リ農業ノ経験モ積ミ著々発展スルニ至レリ、然ルニ明治四十二年ニハ農場長小田信樹不起ノ病ニ罹リタルヲ以テ、其後任者ノ選定ヲ農学士内田瀞氏ニ依嘱シ、其推薦ニ依リテ吉田嘉市ヲ明治四十三年農場長ニ採用シテ経営ノ任ニ当テシメ、以テ諸般ノ整理ヲ為シ事業ノ速進ヲ謀リタルガ、牧場千弐百六拾弐町歩ハ成功検査ヲ経テ同年九月十三日附与ヲ得、又明治四十四年度ニハ畑地全部参千四拾参町歩ヲ成功シ付与検査ヲ受ケ、翌四十五年五月二十五日全地積ノ付与ヲ得ルニ至レリ
土地ノ全部付与ヲ受クルト同時ニ第二種・第四種小作契約ニ基キ墾成地ノ八割又ハ三分ノ一ツヽヲ譲与シタリ、其反別ハ第二種拾五町五段七畝壱歩、第四種八百参町八段六畝七歩其戸数壱百拾壱戸ナリトス
其譲与ヲ受ケタル者ノ中ニハ赤堀勇蔵・中田兼蔵・山本信・永田信平西村富三郎・林釞次郎・川本竹松・西倉四六・牧野幸十・牧野太之吉等何レモ村内ノ有力者トシテ村会議員、土功組合議員、学務委員、部長等ノ職ニアリ、公共ニ尽シ富モ亦万以上ニ達スル者尠ナカラス

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十勝開墾株式会社農場要覧 第一四―一七頁 大正七年八月刊(DK150073k-0002)
第15巻 p.592 ページ画像

十勝開墾株式会社農場要覧 第一四―一七頁 大正七年八月刊
    五、鉄道敷設と発展の緒
 交通の便其の宜敷を得ば其の地必ず発展すとは世界地図の吾人に教ふるところ、当会社農場も交通機関整備すれば将来必ず発展すべしとの確信を以て、只其の時期の到来を期待しつゝありしに明治三十九年に至り、鉄道工事は著々進行して農場附近に於ける敷設も亦近きにあることを予想し得らるゝに至りしかば、人気頓に昂り随つて農場の事業は秩序的に進捗の緒に着くに至れり。
 明治四十年九月、鉄道予定の如く開通しければ、従来密林鬱蒼として人跡を見ざりし広寞たる原野にも、幽邃閑寂、鳥の啼声すらも聞かざりし山間にも汽笛の響を聴くに至り、只管農場の将来を杞憂したる社員の胸に一道の光明輝き、皆愁眉を開くを得、昨の憂慮は夢と消え今や文明の利器鉄道に依りて将来の発展を期待するを得るに至り、洋洋春の如き前途を惟ひ、以て聊か過去の努力を慰撫したり。
 踰へて四十一年八月、渋沢男爵は此地に来りて農場を巡視し、親しく職員等を引見して懇篤なる訓辞ありしが、尚又小作人をも慰撫奨励して金三百円を給与し、更に其の児童教育費として金二百円を寄附せられたり。
 爾来年を逐ひ月を閲するに従ひ交通の便愈々良好となり、各地より集まり来るもの漸く増加し従つて開墾事業も進捗し農業の経験も次第に積みて著々発展の域に向進するに至れり。
    六、開発の実現と株式組織
 然るに一喜一憂は免かれざる所にして、事業創始の当初より苦心経営したる社長渋沢喜作氏は病を得て明治三十七年退社し、次で渋沢篤二氏社長の任に当り尽力せられしが、亦病を得て明治四十四年退社したるを以て、互選の結果植村澄三郎氏其後任となりたり。
 是より先き創始以来刻苦奮闘能く農場をして現状に支へしめたる農場長小田信樹氏は病を得て、明治四十三年五月享年六十有七にして死去したり。
 明治四十二年農学士内田瀞氏を顧問に招聘せしが、小田氏の病革まるに当て、内田氏の推薦に依り、吉田嘉市氏を後任農場長に採用して経営の任に当らしめたり。同氏就任するや精励事に当り、小作人を督励して開墾の進捗を計り、移民を補充し、又は道路を開鑿し、排水溝を増設する等起業方法に関する諸般の整理を為したるを似て牧場二百六十二町歩は成功検査を経て同年九月十三日附与を得、翌四十四年には畑地全部三千四十三町歩を成功し検査を経て、翌四十五年五月二十五日之が附号を受くるに至れり。斯の如く漸く秩序的に発展し来り、往時の苦心艱難は玆に昔譚となりて漸く成功の域に達するを得たり。○下略


竜門雑誌 第二四三号・第四〇頁 明治四一年八月 ○青淵先生の北海道視察(DK150073k-0003)
第15巻 p.592-593 ページ画像

竜門雑誌 第二四三号・第四〇頁 明治四一年八月
○青淵先生の北海道視察 青淵先生には北海道及び奥羽地方視察の為令夫人・令息正雄氏・令嬢愛子氏同伴橋本明六・八木安五郎氏等を随
 - 第15巻 p.593 -ページ画像 
へ植村澄三郎・犬丸鉄太郎諸氏と共に本月十一日午後八時五十五分上野発の汽車にて出発せられたり、同一行は函館・小樽・札幌・旭川・十勝開墾会社農場・室蘭・夕張等の各地に於て関係事業の視察を為し再び小樽より函館を経て青森に上陸し三本木渋沢家農場を観、盛岡・松島・仙台等を見物して九月五日頃帰京せらるゝ予定なり。


竜門雑誌 第二四四号・第三七頁 明治四一年九月 ○青淵先生北海道旅行日誌概梗(DK150073k-0004)
第15巻 p.593 ページ画像

竜門雑誌 第二四四号・第三七頁 明治四一年九月
    ○青淵先生北海道旅行日誌概梗
○上略
八月二十三日 雨 午前六時三十分旭川発滊車に搭じ、午後一時四十四分清水駅に下車、旭川より携行したる腕車にて直に十勝開墾会社「ニトマツプ」農場を視察し、十勝川を渡舟して熊牛農場を視察しつゝ午後五時農場長社宅に投宿せらる
 此日佐々木氏は清水駅にて別れ直に釧路に赴き又犬丸氏は社用の為め旭川に滞留せらる
八月二十四日 曇 午前八時より腕車にて熊牛農場を巡視し正午一先帰宿、午食後牧牛馬を観、夕刻小田農場長の催に係る「アイヌ」の熊祭を見物せらる
 金弐百円を人舞村外一箇村教育費に寄附せらる
八月二十五日 曇 微恙の為め終日在宿せらる
 此日同社員一同及移住民総代に各訓諭の辞あり、植村氏は夕刻同社用を帯び清水駅を発して帯広に赴かる、但し明朝一行に合する予定なり
八月二十六日 雨 午前六時半雨中を冒して腕車にて事務所出発、同九時清水駅発特別車に搭じ釧路に向ひ午後四時着、直に同地に先着せる佐々木氏及区長秋元孝太郎氏等の先導にて市中を巡視せられ、午後六時より同地有志者の催しにて喜望楼に開かれたる歓迎会に臨まれ、一場の演説を試みられたる上午後九時旅館虎屋に帰り、此家に集合したる二十銀行釧路支店員の為に訓諭の辞ありたり
 此日犬丸氏は清水駅にて、植村氏は帯広にて一行に加はる


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK150073k-0005)
第15巻 p.593-594 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四一年       (渋沢子爵家所蔵)
八月二十三日 雨 冷
○上略 午後一時半清水駅ニ抵リテ下車シ是ヨリ十勝農場ヨリ迎ノ為メニ来レル人車ニテ原野ヲ徐行ス、清水駅ハ汽車釧路ニ聯絡後僅ニ成立セル市街ニテ住居僅少ナリ、農場ノ途中ヨリ雨降リ来リテ、行程困難ナリ、牧草地ヲ一覧シテ後十勝川ヲ渡リ午後五時農場着小田農場長ノ家ニ宿ス、夜農場員ヲ会シテ一場ノ訓示ヲ為ス
 (欄外)
 たち迎ふ人のこゝろにならひてや尾花もまねく里の夕暮
八月二十四日 曇夕晴 冷
午前六時起床入浴シ畢テ朝飧ヲ食シ農場内ヲ散歩シテ飼養スル牛馬ヲ一覧ス、十時人車ニテ各地ヲ巡回ス、午後二時家ニ還テ午飧ス、各農場ノ土地頗ル膏腴ニシテ将来灌漑ノ設備ヲナサハ水田トナルモノ多キヲ覚フ、午飧後放牧地ヨリ牛馬ヲ駆逐シ来ルヲ見ル、馬ハ百四五十頭
 - 第15巻 p.594 -ページ画像 
ニシテ牛モ六七十頭ナリ、共ニ一場ニ入レテ人ノ縦覧ニ供ス、頗ル壮快ナリキ、四時頃ヨリアイヌ人ヲ集メテ熊祭ノ古式ヲ行ハシム、アイヌノ老幼男女来会スル者三四十人、古老先ツ古食器ヲ陳列シ酒ヲ盛テ神ヲ祭ル、後一ノ熊児ヲ場ノ中央ニ置テ多数ノアイヌ之ヲ巡リテ且ツ歌ヒ且ツ踊ル、其間約一時半㝡後ニ場ノ中央ニ於テ熊ヲ絞殺スル真似シテ式ヲ畢ル、其様卑野ナレトモ亦古雅ノ趣アリキ、夕方ヨリ風邪気ナルニヨリ夜食後早ク就寝ス
 (欄外)
 あふものはみなあたらしき旅の空に布るき神代のさまも見るか那
八月二十五日 曇 冷
午前七時起床昨夜ヨリ風邪気ニテ喘息強ク発シ朝来疲労セシ為メ再ヒ褥中ニ在テ摂養ス、明日釧路行ノ汽車ヲ午前ニ発車スルコトヲ橋本ヲシテ清水駅ニ抵リ駅長ニ照会セシム、朝飧後植村氏・小田氏ト農場ノ事務及社員進退等ノコトヲ議ス、午後近地ニ於テ農具ノ使用耕耘ノ練習アリシモ風邪ノ為メ出張ヲ得ス、家ニ在テ日記ヲ編成シ且読書ス、夕方農場ノ雇員等ニ一場ノ訓示ヲ為ス、此日ハ聊カ熱気アルニヨリ終日褥ニ在テ療養ス、晩ニ至リテ軽快ヲ覚フ、夜食後早ク寝ニ就ク
八月二十六日 雨 冷
午前五時半起床風邪気稍快方セルニヨリ、雨中ニテモ当地ヲ発スルコトヽシテ旅装ヲ理ス、小田農場長ニ告別シテ六時四十分ニ出立シ八時半清水駅ニ抵ル、途中各村ノ小作人雨ヲ冒シテ行ヲ送ル、清水駅ニテハ戸長其他十数名来リテ餞ス、九時発ノ臨時汽車ニ搭シテ清水ヲ発ス犬村鉄太郎氏迎《(犬丸鉄太郎)》ノ為来会ス、清水駅ニテ山本・仲田等ノ諸氏ニ分袂シ十時過帯広駅ニ抵ル、植村澄三郎氏来リ迎フ、河西支庁ノ吏員来リテ行ヲ送ル、小田農場長・清水村戸長等ハ此駅ヨリ辞シ去ル○下略
八月二十七日 曇 暑
○上略 汽車ハ海ニ沿フテ進行ス、池田・帯広等ヲ経テ清水停車場ニ抵ル小田十勝農場長来リ迎フ○中略午後九時旭川駅ニ抵リ、三浦屋ニ投宿ス○中略夜小田農場長及植村氏等ト農場経営ノコトヲ談ス、石狩地方ハ土地膏腴ニシテ農事進歩シ、各村ノ人烟稠密トナリタレハ停車場ノ雑沓恰モ都会ニ似タリ、就中岩見沢ノ如キハ其繁盛大都近傍ニモ譲ラサルカ如シ


竜門雑誌 第二四四号・第五四―五七頁 明治四一年九月 ○北海道旅行日記(渋沢愛子)(DK150073k-0006)
第15巻 p.594-597 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

竜門雑誌 第二四五号・第四三頁 明治四一年一〇月 ○北海道旅行日記(承前)(渋沢愛子)(DK150073k-0007)
第15巻 p.597 ページ画像

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竜門雑誌 第二四四号・第四頁 明治四一年九月 ○北海道視察談(青淵先生)(DK150073k-0008)
第15巻 p.597-598 ページ画像

竜門雑誌 第二四四号・第四頁 明治四一年九月
    ○北海道視察談 (青淵先生)
 此篇は先生が今回北海道を巡視せられし見聞及所感の一斑にして九月十日の東京日々新聞に掲載せられしものなり
○中略
△十勝の豊沃と釧路 勝狩峠に上りて所謂十勝一円の沃野を見渡せば
 - 第15巻 p.598 -ページ画像 
農業国として同道将来の発展殆んど計るべからざるものあるを知るべし、又天然森林の幾十里に連亘するを見、且つ其山頂の隧道を縫ふて鉄路蜒蜿として山下に走るの状は、恰も米大陸ロツキー山鉄道の小規模なる者にして総ての事物皆大陸的光景を示し転た壮快の念に打たる○下略


竜門雑誌 第二四四号・第一三―一四頁 明治四一年九月 ○札幌に於ける演説(DK150073k-0009)
第15巻 p.598 ページ画像

竜門雑誌 第二四四号・第一三―一四頁 明治四一年九月
    ○札幌に於ける演説
 本篇は青淵先生が八月十九日札幌に於て、同地の重立ちたる人士百余名を同地豊平館に招待したる席上演説せられたる要領にして、同月廿一日の北海「タイムス」の掲載する所に係る
私は明治四年より本道に関係致したが、爾来年々其関係が多方面となり且つ歳々密接となつて来たのであります故、是非一度は本道に足を入れて見たいと思つて居りましたが、何分多忙の為め其目的を達せずして玆に三十年今回幸寸閑を得まして、親しく本道の実際に接触して年来の宿望を遂げたのは快事であります、尤も本道の事情に就ては是迄各種の報告又は人々の談話、新聞紙等に依りて承知致し色々に想像して居りましたが、扨一度足を本道に入れて親しく其実地を観察致しますに自分の常々予想したとは甚だ異なる点が多いので、私は今更の如く早く本道の実状を観察せなかつたのを深く遺憾に思ふのであります、例へば本道の富源である木材の如きも処々に木材会社が設置されて居るから余程伐り竭されたであろうと思ひましたが、今回来て視ますれば函館・小樽等の入口ですら尚ほ到る処鬱蒼たる森林の散見したのであります、又小樽築港に就ても今春長官の意見も伺ひましたが、当時私は膨大に過ぎはせぬかと思つた位である、然るに今其実際を視まして寧ろ其計画の遅きを認めました位で、同港は独り本道の良港のみでなく実に天下の良港であると言ふも過言ではない(夫れより男が本道に関係せる諸会社の由来、殊に製麻麦酒会社等の事業が如何に本道の拓殖に偉大の利益を与へつゝあるかを説き、次に米国の大北鉄道会社長ヒル氏の意見を引き)鉄及石炭は世界の文明を振動致しましたが此鉄や石炭所謂自然の物貨は決して無限の物では無い、而も人口の増殖は殆んど無限に増加し来るのである、本道に参りまして私は此説の理ある所を実見致したのであります、何となれば本道は由来天然の石炭又は水産等の大富源はありますが、之は漸次採掘し又採取し竭さるゝのである、然らば吾人は如何にして無限の富を得るかと云へば農業より他に之を認むることは出来ませぬ、殊に本道の如き広漠たる原野を有する土地に於ては益々産業の発展を図らねばならぬか、此土地なるもの其使用の如何に依て生産に非常の多寡を及ぼします、幸に近年人造肥料の製造等益々勃興して土地の生産力を増長するのであります、斯く申上げますと私は人造肥料会社を経営して居りますから自分の営業を広告する様でありますが決して自分一人の為でありません、全く本道の拓殖を進め延ひて国家の富を増進するものであります云々


竜門雑誌 第二四四号・第一五頁 明治四一年九月 ○旭川に於ける講話(DK150073k-0010)
第15巻 p.598-599 ページ画像

竜門雑誌 第二四四号・第一五頁 明治四一年九月
 - 第15巻 p.599 -ページ画像 
    ○旭川に於ける講話
 本篇は八月二十三日青淵先生が旭川に到着の日、同町有志者の懇請に依り其旅宿に於て講話せられたる要領にして、同二十五日の北海「タイムス」の掲載に係る
男爵は来会の諸氏に対し丁寧に初対面の挨拶し今朝札幌に於て有志諸君に談話せよとの事を聞しに付、旅行日取の都合上一泊の止むを得ざる次第何等の催なき様希望したれ共、有志諸君より先刻贈物を辱ふしたるは誠に感謝の至に堪へずと述べ、次で一行中植村氏の麦酒事業、佐々木氏の銀行事業、犬丸氏の肥料事業に従事し自己も亦多年之に関係し直接間接本道の事業に関係浅からざりしことを述べ進んで北海道の四十年間長足の進歩発達を為したるは全く外国関係即ち外国の刺激に基くものなり、自分の北海道と云うことを知りしは彼の水戸公蝦夷開拓の建白書を読みたるが始めにして其後洋行中露国との談判模様を聞き北海道拓殖の忽諸に附すべからざるを知りたり、爾来或は人の談話に依り或は各種の書物に依り北海道の事情を知りたるも今回始めて避暑旁々来道諸般の事物進歩著しく聞きしに優るあるに驚きたり、殊に上川は北海道に於て最も近く開けたるに拘らず今日の進歩発達を呈せしは畢竟各方面より聚まられたる諸君の御尽力に依る結果なるは申す迄もなしと雖も地味の豊穣なるも亦一大原因ならずんばあらず、左れば出来得る限り此地力を有効に発達せしむることに努めざるべからず、政府は本道交通機関を図り之に依て拓地殖民の業日を追ふて進歩したりと雖も道民にして之が機関を有効に利用せざれば切角の利器も終に何等用をなすなきに至らん、是を有効に利用するの途は種々あれども先づ農業を以て第一と為さゝるべからず、此を以て農業に従事するものは宜く其の地力を有効に発達せしむることに考へ之に肥料を施しては愈々地味の上進を図り、独り小豆のみに限らず独り大豆のみに限らず独り其他の作物のみに限らず麦酒用としての麦作を試み亜麻の耕作を為すが如きは亦地力を有効に発達せしむべき一助ならずや云々


竜門雑誌 第二四四号・第一七―一八頁 明治四一年九月 ○青森歓迎会に於ける演説(DK150073k-0011)
第15巻 p.599-600 ページ画像

竜門雑誌 第二四四号・第一七―一八頁 明治四一年九月
    ○青森歓迎会に於ける演説
 本篇は青淵先生が九月一日青森有志家の催に係る歓迎会の席上演説せられたる要領にて、同三日以後の同地東奥日報の所載に係る
○中略
△政府と北海道 私共の見るところでは北海道を進歩せしむるには交通機関を発達せしめて民業を盛大にするにあると思ふ、彼れも政府之れも政府と常に政府の干渉誘導を被りて居るうちは真正の進歩は覚束ない、事物の真正の進歩は自修的奮発にある、たとへば教育にしても所謂注入的では駝目で開発的でなければならぬ、即ち外から引き伸ばさるゝのでなく内から生長するのでなければならぬ、北海道も最初は只政府の手で飴を伸ばすやうに伸ばして居たもので、其為め真正の進歩、内部からの発達を見ることは出来なかつた
△岩村長官の相談 明治十九年に道庁は成立して岩村通俊氏は最初の長官になりました、其の時である、岩村長官は重なる実業家二十四五
 - 第15巻 p.600 -ページ画像 
名を集めて相談があつた、私も其中の一人で相談に与りました、其相談といふのは北海道の拓地殖民を発達せしむべく如何に経営すべきかといふ相談なので即ち幕府時代に於ても露国との関係上又下田・函館両港の開港問題などに就ても北海道を等閑視しては居ない、明治政府も開拓使を置いて十箇国の富源を開拓することに努めたが何うも発達をしない、其効果は実に少いやうだ、今度自分が行つて如何なる方針を取りて然るべきか、遠慮なく意見を洩らされたいといふのでした
△私共の意見 其際私共の陳べたる所見の大要は鉄道を敷設して交通を便にすること、漁業税を減じて水産を盛んにすること、農業は麦と大豆のみでは困るから規模を大にすると共に副業的工場を起すこと、其他鉱山牧畜等の民業を盛にして北海道民をして自修的奮発せしむるにあり、約していへば従来の政府本位を変更して実業本位にするにありといふにありました、私共の北海道に対する所見は斯の如くなりし故に先刻申したる炭礦会社・製麻会社・麦酒会社等を起したのも又関係したのも其主意からで即ち北海道の民業を振興せしめて富源を開拓し以て道民の独立自治の念を発達せしめんとするにあつた、今回各地を視察したるに或るものは想像以上に盛大になつて居る、兎に角北海道の事業は順当に進歩して居ると評して然るべしと思ふ、と共に私共の最初岩村長官に陳じたる所見に大なる誤はなかつたと感じました
○中略
△十勝原野 旭川から向ふ帯広駅の手前に私は一の農場を有つて居りますからそこに参りましたが、十勝原野は未だ石狩原野の如く開拓せられて居りません、若し此広漠たる十勝原野は開拓せらるゝに至らば北海道の富を増すこと頗る大なるものならん、私は偏に此の原野の開拓を祈りつゝ釧路に出て夫れより室蘭に至りました
○下略


竜門雑誌 第二四四号・第二一頁 明治四一年九月 △仙台に於ける演説(DK150073k-0012)
第15巻 p.600 ページ画像

竜門雑誌 第二四四号・第二一頁 明治四一年九月
    △仙台に於ける演説
 本篇は九月五日青淵先生が仙台有志者の懇請に依り、同地県会議事堂に於て談話せられたる要領にて、同六日同地河北新報の掲載せるものなり
○中略這般の北海道視察談に移り○中略同道各地の短評を試み
 石狩地方は土地膏腴に耕作法これに適し、その開拓事業は見る目に最も愉快を感ぜり○中略
と同道の発達の意外に大なるに驚き、北海道の今日あるは畢竟本州に於ける実業の発達これを刺激せるに外ならず、一国の発達は自然の富源の外実に人力の精苦に待つこと大なりと、談は何時か我国の財政問題に移り○下略


竜門雑誌 第二四四号・第二二―二三頁 明治四一年九月 △東北談(DK150073k-0013)
第15巻 p.600-601 ページ画像

竜門雑誌 第二四四号・第二二―二三頁 明治四一年九月
    △東北談
 本篇は東北新聞の記者が北海道旅行の帰途松島に立寄れる青淵先生を同地松島「ホテル」に訪ふて聞き得たる談話なりとて、本月六日
 - 第15巻 p.601 -ページ画像 
の同紙に掲載したるものなり
○中略
△北海道漫遊談 ○中略十勝の農場も年と共に開拓せられつゝあり北海道の将来は農業に鉱産に工業に将た漁業に貿易に倍々多望といはねばならぬ、加ふるに肥料・製麻・麦酒・製糖事業等も亦決して看過すべきものでないと思ふ○下略


竜門雑誌 第二四四号・第三二―三三頁 明治四一年九月 ○北海道視察談(DK150073k-0014)
第15巻 p.601 ページ画像

竜門雑誌 第二四四号・第三二―三三頁 明治四一年九月
    ○北海道視察談
                 九月十二日本社月次会に於て犬丸鉄太郎君演説
○上略 お急ぎの旅行ではありながら、青淵先生も札幌には中三日間御滞在になりまして、人に接し物に接して十分に御観察になりました、農科大学及農園の御視察には殆んと半日を費されましたが農圃の中を馬車に乗りて馳け廻るのでございます、由来北海道の農場は米国風の大農経営でありますが、以て北海道に於ける農場の一斑を御推察になり得るかと存ます、此大学の旧称札幌農学校時代には私も在学致しましたので、今回久々振で北海道に参り殊に札幌に至り、大学なり農園に御同行致しました時には其発達に驚くといふよりも、寧ろ所謂俯仰今昔の感に堪へませんでした○下略


竜門雑誌 第二四五号・第三三―四一頁 明治四一年一〇月 ○北海道視察談(承前)(DK150073k-0015)
第15巻 p.601-602 ページ画像

竜門雑誌 第二四五号・第三三―四一頁 明治四一年一〇月
    ○北海道視察談(承前)
                 九月十二日本社月次会に於て犬丸鉄太郎君演説
それから旭川を出ますると美瑛《ビエイ》といふ原野があるのであります、此処には渋沢喜作翁の開墾地も以前あつたのであります、其処を通過しまして○中略十勝の方へ出て参りまして、清水駅といふ所から二里ばかり参りますと、青淵先生の熊牛農場でありますが、私は社用の外に旅宿などの用意があります為めに、此農場の方には参りませぬで、直ちに十勝の中心地なる帯広へ先へ出ましたので是は見ませぬ、此五千町歩の大農場に付ては何れ橋本さんから委しいお話があるだらうと思つて居ります、十勝は今申すやうに一望平原のやうに見えまするけれども中に這入て見ると、恰も六機山脈のやうに平地がある高台がある又平地があるといふやうな工合で、高台といふのも内地で云ふ高台でなく高い平地で、低い所は皆沖積地でありますから、所謂肥沃の地として既にナカナカ手が着いて居ります、高台の方は些か地味も劣り水利の便も悪いために、到底見込のないものとして久しく抛棄されてあつたのですが、近来十勝の原野も良い所が段々少くなりまして、どうしても高台を開かなければならぬといふやうな傾向からして、これは手前味噌のやうですが、此地方へ加燐酸石灰を用ゆるといふことが始まりまして、之を一反歩に対し僅か目方にしますれば五貫目程、金額にしますれば一円以内の金でございますが、其位のものを投じますと所謂河床地と同じやうな作物が得られるといふ実蹟がありましたので、其為ばかりでもありますまいが、近来此高い所も非常に開墾の気運が向いて居ります、是が全く開けることになりますと此十勝の原野は石狩
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の原野より大きいのでございまして、東西凡十五里南北三十里殆んど四十万町歩の耕地が其処に現出する訳であります、北海道の中でも地味の肥沃に於ては石狩原野を除きますれば、先づ十勝の原野か天塩の原野でございますが、従来石狩原野のことは能く人が申しますが、十勝原野のことを口にする人は甚だ尠くありました、それが昨年九月鉄道の開通と共に、十勝原野は大に世人の注視を惹き将来一層発展するであらうと思ひます、追々開墾が出来まして之が行き渡りますれば、大経営の農場を各地に見るに至るであらうと思ひます。○中略先刻申しましたやうに稲作の如きも頻りに奨励されて居りますが、成程一方から云へば喜ぶべきことゝ思ひます、何れの殖民地と雖ども之を開発するには資本と労力といふものが一番大切なるものであらうと考へます併し資本と労力を得る為めには土地の価が増さなければならぬ、此点からして水田か出来るといふことは喜ぶべきことでありませう、又収穫も内地から較べますれば少うございますが、大概一反歩平均一石二三斗から一石五斗位は取れるのでございます、北海道の人は二石取れるの二石五斗取れるのと申しますが、平均はさう取れませぬと思ひます、併し北海道の土地の価から云ひますれば余程利廻りが宜いのです其為に水田が開けるのでありますが、併し此水田は日本風に皆集約的で労力を要することが非常に多い、之を亜米利加のテキサス或はルイジヤナ等で遣つて居る大仕掛の農法で遣りましては収穫が少いのであります、どうしても日本風の集約的農法で遣るより外仕方がない、所謂一人で五反歩或は七反歩より耕作は出来まいと思ひます、さうなると折角北海道の進み掛けて居りまする開墾といふことは、或は第二位に置かれるやうになりはせぬかと思ふのです、北海道は成るべく今日は土地を余計拓く、所謂耕地が沢山出来るといふことが必要であらうと思ひますが、其耕地を拓くよりも是までの耕地を水田にした方が利益になる、斯ういふことになりますと、先づ開墾は止めて是まで開墾した所を水田にしやうといふ風に陥りはせぬか、勿論其人一人に就ての収入は増加して宜いかも知れませぬが、大体北海道の拓殖事業としては余りに重きを置きますことは如何のものであらうかと思ひます、殊に前年も彼の東北地方に恐ろしき類例がありましたが、若も気候の不順の為め、或は霜が早く降つた為めに、稲の生育を妨げまして不作に終るといふやうなことがありましたならば、北海道の農民は時には餓孚道に横るといふやうなことが出来はしまいかと思ひます、或は畑の一部分を水田にするといふことは遣つて宜いかと思ひますが、全然水田に変るといふことは殆んど危険であらうと思ひます、矢張従前の如く一反歩に当る収入は比較的に少くとも裸麦とか小麦とか大麦とかいふやうな、寒気なり霜に抵抗し得る力の強いものを作つて、水田は当にせぬといふ方が安全であり、又大体の北海道を早く開拓するといふ点に於て利益ではないかと思ふのです、が北海道の気運は余程水田熱が盛でありまして、是は一方喜ぶことでありませうが、非常に歓迎して之を奨励するはどうであらうかといふことを私は申して帰つたのであります。
○下略

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竜門雑誌 第五四二号・第三三―三七頁 昭和八年一一月 青淵先生の北海道旅行に随行の思出(植村澄三郎)(DK150073k-0016)
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竜門雑誌 第五四二号・第三三―三七頁 昭和八年一一月
  青淵先生の北海道旅行に随行の思出(植村澄三郎)
    先生北遊の由来と十勝開墾会社
 渋沢先生が北海道漫遊を試みられたのは、明治四十年の八月から九月にかけての事であつたが、尤もこれは漫遊とは云ふものゝ、決して遊山旅行と云ふやうな意味ではない。第一は、その頃北海道の十勝に在つた開墾会社の農場を視察し、その序に道内各地の民業に就いて、実地に見聞しやうと云ふ目的で行かれたのであつた。
 この開墾会社と云ふのは渋沢先生の外に、大倉男や自分なども出資して設立したもので、その由来を話すと随分古い事だが、――兎に角渋沢先生が慶喜公に従つて京都に滞留して居られた頃、公の添書を貰つて江戸に小田又蔵と云ふ者と会見せられ、大に国事に奔走せられたことがあつた。が、それは姑く別として、その又蔵の息の永之助、後に信樹と云ふ者が、今謂ふ開墾会社の農場長を勤めて居たと云ふ関係であつた。
 その開墾事業と云ふのは、明治三十二三年頃から着手して居たのだが、何分交通不便の当時のことだから、鉄道が開通したら是非一応視察に行きたいと、予てから期待して居られたのである。その鉄道が四十年に開通したので、愈々その年の八月に渡北せられたと云ふ訳である。時に先生は齢既に古稀に達せられて、銀行や会社などの責任の地位から退かれた時であつたが、それで居て尚ほ湯治や避暑などに安閑として居たくないと云ふので、炎暑の候をものともせず、この視察旅行に出掛けられたと云ふ訳である。
 随行は御令室の外に正雄氏、明石氏夫人、それから専ら事務の方を担当する為めに、増田明六君がお供をすることになつて、私は謂はゞ東道の主人と云ふ格であつたが、尤もその頃人造肥料会社の取締役をして居た犬丸鉄太郎君が、その肥料会社の工場が函館に在つたと云ふ関係で、同地迄出迎へた上、一行に加はつたのである。
 ところが愈々函館へ着いて見ると、毎日訪客攻めに会はされた上、請はるゝ儘に商業会議所や特殊学校やその他で演説される。それが午前中に二回午後に又二回も引廻されると云ふ風で、早朝から深更迄全く寸暇もないやうな多忙振りであつた。
    低脳児の魚は釣れない
 当時函館の商業会議所の会頭をして居た遠藤吉兵衛と云ふ人が――今は故人となつて居るが――丁度先生と同年輩であつたが、『これだけ御多忙では御健康に障りはしませぬか』と云ふので、大いに心配して呉れて、『これから札幌へお出でになるのなら、幸ひ途中に大沼公園と云ふのがありますから、そこで緩り御休養になつたら宜しからう』と勧めて呉れた上、同氏の長男を態々案内に立たせたのである。
 そこで先生も同君の好意を多とせられて、遽にその地で一日の静養を採られることになつたのだが、そこには可なり大きな湖水があつてその中に松島の小さいやうな島があつたので、差当り舟遊を試みて、その島廻りをやらうと云ふことになつた。
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 この島は日本海々戦の大勝を記念するの意味で、東郷島と名付けられて居るさうだが、恰も昼餐時分であつたので、直に網を引いて生魚料理を食膳に供すると云ふやうな有様であつた。尤も魚は多くは鯉や鮒などで、釣が出来ると云ふことであつたから、――元来自分は好きな道のことでもあるし、従つて予て釣の用意をして行つたので、早速糸を垂れた。尤も獲れるものは小鮒や沙魚のやうなものばかりで、左程興味は感じなかつたが、それでも兎に角頻りに釣れた。
 すると先程からジツトそれを見て居られた先生は、御自身にもやつて見たくなられたものか、私にも一本貸せと云つて、早速太公望を試みられた。そこ迄は宜いが、先生は掛るとソツと引揚げられるものだから、どれも是も皆水際で逃げてしまふ。そこで私が玆ぞとばかり、『私は何をしても先生には叶はぬが、釣だけは私の方が上手です。今日現に実証しました』と、大いに得意になつたところが、先生も亦済したもので、『イヤそうじやない。モー少し利巧な魚なら釣れるのだが、余りに魚の方が低脳児過ぎるよ』と曰はれて、果ては大笑をしたことがあつた。
    農場で慶喜公添書の所在判明
 扨てその大沼公園を引上げて、小樽・札幌と旅程を進められたが、到る処同様に演説や訪客で多忙を極められ、汽車中から纔に見物をせられると云ふやうな有様であつた。が、何分にも炎暑の折柄のことゝて、随行の親族の方々も、お供して居る吾々も殆ど参つてしまつて、一同が居睡を始める。それで先生から『遠藤君や植村君迄居睡りをするやうでは、ドウも困るではないか』と、お叱りを蒙つたこともあつたが、何を云ふにも先生独りは、その酷暑の折柄にも拘らず、然も長い汽車旅行の間、欠伸一つせられず、始終端然として居ずまゐを壊されたことすらないと云ふ風で、その根気の強いのには全く感服の外はなかつた。
 のみならず函館に到着して以来、旅館に於ても朝は必ず五時にコツソリと起床せられて、庭上を散歩せられる。側の者が驚いて飛起きると、『イヤ皆の者に気の毒だから密に起きて来たのさ』と云つて笑つて居られると云ふ風であつた。兎にも角にも齢古稀に達して、尚ほこの钁鑠たる元気振りには、寧ろ驚嘆の外はなかつた。自分も今やその七十歳に達し、当時を回顧して、誠に申訳のないことだと、衷心慚愧に堪へない次第である。
 そのやうな道中を経て愈々十勝の開墾会社を訪れ、前に話した農場長の宿舎に宿られることになつたのだが、何分にも不便利な地方のことゝて、差当り困つたのは食物のことであつた。それで農場では態々帯広から料理人を呼寄せたりなぞして、出来るだけ手厚く歓待しやうとしたのだが、ところがそれが甚だ先生のお気に入らない。『こんな心尽しをして呉れるよりも、是非農場の産物で以て、この辺の農家で常用する通りの食事を受けたい』と云つて肯かれない。
 そこで農場の方でも已むを得ず、その通りの食物を拵へることになつたのだが、それが粟と馬鈴薯とで作つた団子のやうなものか、又は南瓜と馬齢薯と、そこへ少々の米を混ぜた粥で、随行の人達は随分弱
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つて居たやうだつたが、先生は至つて満足さうに、大にそれを摂られた。
 ところがこの農場へ来て、農場長の小田信樹と色々のお話があつた末に、前に話した慶喜公の添書が、今尚ほ小田家に保存せられて居ると云ふことが解つて、始めてそれが世間へも知れるやうになつたと云ふ訳で、現にその添書の写真が『慶喜公伝』の中に登載せられて居ると云ふ次第である。
    山路の徒歩で喘息再発
 それは姑く措いて、先生は先づその辺の農家の状況を巡視せられた上、愈々農場を視察に出掛けられることになつたが、何しろ山坂の道を登らなければならないので、遠方から人力車を呼寄せて、先生や家族の人達はそれを乗用せられることになつた。併しそれでも急坂に差蒐つてどうしても車の通らない所があつたので、その辺では徒歩で山路を登られたが、それがお体に障つたものか、折悪くも持病の喘息を発せられて、これには一同大に心痛したのである。
 と云ふのは、元来その地方には医者が居ない。居るには居るけれども、極めて未熟なもので、到底その診療に委ねると云ふ訳には行かない。医者も亦その積りで、『喘息ならば海岸へお出でになれば治る』と云つて、頻に勧めたので、そこで帯広から釧路へ直行せられたのであるが、果して海岸地帯へ行かれると、段々と病気が恢復して、釧路へ著かれたら殆ど全快せられたので、一同も漸く安堵したのである。
 が、困つたことには、相変らず土地の有志の歓迎攻めが、何処に行つても盛なことで、釧路でも電報で先触れがあつたものか、盛な出迎へを受けたばかりでなく、病中の故を以て断つたにも拘らず、何としても先方で承知しないものだから、その夜再び演壇に立たれた。併し幸にも喘息の方はその儘治まつたので、釧路で一泊の後室蘭へ行かれる予定であつたが、それでも大事をとつて、釧路から汽車で丁度一時間程の処に、登別と云ふ温泉があるのを幸として、そこで一日静養せられた。そこへ犬丸君が函館から尋ねて来るし、訪客は再び多くなつて、又忙しくなつたが、それでも静養中のことゝて、私達が将棋をさして居ると、先生が傍から頻に口出しをしたり、批判されたりしたことを記臆して居る。
 それから翌日室蘭を視察せられた上、同地でも一泊せられ、翌朝汽船で森へ渡り、そこから再び汽車で函館へ出られた上、帰途に就かれたのであつた。その十勝農場で詠まれた歌や旅行記などは、今でも王子の文庫に残つて居るし、又その旅行日誌は明石氏の夫人が、竜門雑誌に投ぜられたことがある云々。 (談話筆記、文責在記者)


永田信平氏及宮沢藤五郎氏談話(DK150073k-0017)
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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。