デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

5章 農・牧・林・水産業
2節 水産業
8款 日本食塩コークス株式会社
■綱文

第15巻 p.681-682(DK150092k) ページ画像

明治40年1月(1907年)

是月栄一、当会社相談役トナリ、四十二年六月六日辞任ス。


■資料

竜門雑誌 第二二四号・第四〇頁 明治四〇年一月 ○青淵先生と日本食塩「コークス」会社(DK150092k-0001)
第15巻 p.681 ページ画像

竜門雑誌 第二二四号・第四〇頁 明治四〇年一月
○青淵先生と日本食塩「コークス」会社 関東州の貔子窩・双島湾・普蘭店三所に於て製塩の権利を得たる日本食塩「コークス」会社(三千町歩)は志岐組塩業部(一千五百町歩)及宅合名会社(八百町歩)と合同し資本金三十万円を二百万円に増加し、青淵先生を相談役に推選し支岐信太郎《(志岐信太郎カ)》・宅徳平両氏重役となりて業務の拡張を謀る筈なり


青淵先生公私履歴台帳(DK150092k-0002)
第15巻 p.681 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳          (渋沢子爵家所蔵)
    民間略歴(明治二十五年以後)
○上略
日本食塩コークス株式会社相談役 三十九年十一月 四十二年六月六日辞任
(欄外追記)
  〔四十一年二月廿日「大日本塩業株式会社」ト改称
○中略
  以上明治四十二年六月七日迄ノ分調


竜門雑誌 第二五三号・第四七―四九頁 明治四二年六月 青淵先生の各種関係事業引退(DK150092k-0003)
第15巻 p.681 ページ画像

竜門雑誌 第二五三号・第四七―四九頁 明治四二年六月
    青淵先生の各種関係事業引退
我青淵先生○中略本月六日○中略同日附を以て左記の如き辞任書及書状を発送せられたり
    辞任書
 拙者儀頽齢に及び事務節約致度と存候間、貴社「何何役」辞任仕候此段申上候也
  明治四十二年六月六日          渋沢栄一
    書状
 拝啓時下向暑の候益々御清泰奉賀候、陳は小生儀追々老年に及ひ候に付ては関係事務を減省致度と存し、今回愈々第一銀行及東京貯蓄銀行を除くの外一切の職任を辞退致候事に取極候に付、別紙辞任書差出候間事情御了察の上可然御取計被下度候、尤も右様役名は相辞し候へ共、向後とて従来の御交誼上必要に臨み御相談に与り候事は敢て辞する処に無之候間其辺御承知置被下度候、此段申添候 敬具
  明治四十二年六月六日          渋沢栄一
辞任せられたる各種事業の名称及職任左の如し
○中略
  大日本塩業株式会社同上○相談役
○下略

 - 第15巻 p.682 -ページ画像 

実業之世界 第六巻・第七号 明治四二年七月 余が今回辞任したる六十会社の運命観(男爵渋沢栄一)(DK150092k-0004)
第15巻 p.682 ページ画像

実業之世界 第六巻・第七号 明治四二年七月
  余が今回辞任したる六十会社の運命観(男爵 渋沢栄一)
○上略
    ○大日本塩業株式会社
          (明治四十一年十二月三十一日設立払込資本七十四万二千二百五十円配当年五分渋沢男は当会社の相談役)
吉川久七(専務取締役)と云ふ人が専ら経営して居る。私は深く事業の模様を知らないが志岐信太郎に頼まれて名前を出したのである。斯の次第であるから其の前途を予測する事は私としては六ケしい。