デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

6章 対外事業
1節 韓国
1款 韓国ニ於ケル第一銀行
■綱文

第16巻 p.70-84(DK160013k) ページ画像

明治31年5月7日(1898年)

是ヨリ先二月、韓国政府刻印付円銀ノ通用ヲ禁止スルニ至ル。栄一四月二十三日名ヲ商工業視察ニ藉リテ韓国ニ赴キ、加藤公使ト共ニ之ガ解除斡旋ニ努メ、是日韓国皇帝ニ謁見ス。七月ニ至リ右禁令解除サル。


■資料

東京経済雑誌 第三七巻第九一七号・第四五五―四五六頁明治三一年三月五日 朝鮮に於ける極印付円銀の通用禁止(DK160013k-0001)
第16巻 p.70-71 ページ画像

東京経済雑誌 第三七巻第九一七号・第四五五―四五六頁明治三一年三月五日
    ○朝鮮に於ける極印付円銀の通用禁止
今回韓国政府にては極印付円銀の通用を禁止することに決し、既に我が政府へも通牒を発したる由にて、在韓国第一銀行支店より東京の本店へ電報達したりと云ふ、是れ頃日開業したる露韓銀行が韓国に於て貨幣鋳造の特権を得、而して同銀行頭取カプリール氏の如き、将た韓廷総顧問アレキシーフ氏の如き、共に極印付円銀の通用を禁止すべしとの説を持し、之を韓廷に建言したるが為にして、カプリール氏反対の意見は左の如しと云ふ
 第一 韓国に於て他国の貨幣を入れて法貨同様とする事は韓国の不利益なる事
 第二 極印付銀貨の通用は可なりとするも銀価下落より生ずる損失を受け且金銀価格の比準を失ふに至る事
 第三 若し該貨幣の通用已む事なくんば幾千年間と雖も第一銀行に於て引換を為す事
又アレキシーフ氏反対の理由は左の如しと云ふ
 若し日本政府にして無期限に交換の保証を与ふるに於ては韓国の法貨となすも敢て事に害なしと雖も、之が条件を附せざる時は銀価の下落と共に政府は理財上尠からざる影響を被るに至るべく、一般国民亦経済上至大の損害を免れざるべし、故に将さに来らんとする損害を予防するには該円銀の通用を禁止せざるべからず
抑々極印付円銀を韓国に供給するに至りたるは、在韓国第一銀行支店支配人土岐僙・西脇長太郎の二氏が、韓国の総税務司にして、度支部顧問たるブラオン氏と再三協議を遂げ、其の結果第一銀行が我が円銀に「銀」字の極印を付したるものは、関税に収入せらるゝこととなり第一銀行は我が政府より引換済となりたる円銀を得て之を韓国に供給
 - 第16巻 p.71 -ページ画像 
したるものにして、余輩は左に昨年九月廿七日附仁川海関長の答弁書を掲げて之を証すべし
 総税務司と、第一銀行との協議の結果、爾来第一銀行より供給する「銀」字の極印付の銀貨は海関税金に納入すべし、又墨哥其弗及び無極印付日本銀貨も総て従前の通り之を納入し、其の価格も以上三者皆同価格を以て納入すべし云々
故に韓国政府が極印付円銀に許したるは、関税の納入に之を使用することを得せしめたるの一事にして、其の世上に流通せるものは全く受授者の相対に基けり、而して其の世上に流通せるは韓国に完全なる貨幣なきに由るものなれば、苟も完全なる貨幣を発行せざる以上は、極印付円銀を関税の納入に使用することは禁じ得べしと雖も、世上の流通より排斥することは到底能はざるべし、知らず露韓銀行は如何なる貨幣を鋳造して韓国に供給せんとする乎
極印付円銀は一種の銀地金に過ぎざるものなれば、我か政府及び第一銀行は固より其の交換に応ずべきの義務なし、而して其の価格は世界の銀相場に由りて変動するの故を以て、之を公納に使用することを禁ずべしとせば、墨銀其の他の銀貨(我が無極印の円銀は除く)も亦之を禁ぜざるべからず、何となれば其価格の変動は極印付円銀と異なるべからざればなり、独り我が円銀は金貨交換の保証あるを以て、世界銀相場の影響を免かるべしと雖も、本年四月一日限り其の通用を禁止せるを以て、韓国を引上げて我が邦に帰来すべし、韓国政府及び露韓銀行は如何にして世界銀相場の影響を受けざる貨幣を韓国に供給せんとする乎


韓国ニ於ケル第一銀行 第一銀行編 第四四―五二頁明治四一年八月刊(DK160013k-0002)
第16巻 p.71-74 ページ画像

韓国ニ於ケル第一銀行 第一銀行編 第四四―五二頁明治四一年八月刊
 ○第三章 韓国貨幣整理始末
    第三節 名義上ノ金貨本位制
前節ニ述ベタルガ如ク、我円銀ハ殆ンド韓国ニ於ケル本位貨タルノ実力ヲ有シタリシガ、当時露国ハ次第ニ韓国財界ニ其勢力ヲ伸張セントシテ、新ニ露韓銀行設立ノ計画アリ、且ツ三十年十一月「アレキセーフ」氏韓国財務顧問トナリテ、従来韓国度支部顧問及総税務司タル英人「ブラオン」氏ノ上位ニ居ルニ至リ、我貨幣ノ勢力日ニ増進スルヲ見テ頗ル之ヲ喜バズ、刻印銀貨ノ通用ハ第一ニ国家ノ体面ヲ汚シ、第二ニハ韓国ノ利益ヲ奪ハルヽモノナリト唱道シテ其流通ヲ阻害セントシ、韓廷亦之レニ動サレテ、何等ノ成算準備ナク本邦ノ貨幣条例ニヨリ光武五年(明治三十四年)二月十二日勅令第四号ヲ以テ左ノ貨幣条例ヲ頒布シ、次デ同月二十二日刻印銀貨ノ流通禁止ヲ告示スルニ至レリ
    貨幣条例(訳文)
 第一条 貨幣ノ製造・発行ノ権ハ政府ニ属スル事
 第二条 金貨幣ノ純金量目ハ二分ヲ以テ価格ノ単位ト定メ、此ヲ圜ト称スル事
   但貨幣算則ハ五十銭ヲ半圜ト称シ、百銭ヲ一圜ト称スル事
 第三条 貨幣ノ種類ハ左ノ如ク定ムル事
 - 第16巻 p.72 -ページ画像 
   金貨幣    二十圜
          十圜
          五圜
   銀貨幣    半圜
          二十銭
   白銅貨幣   五銭
   赤銅貨幣   一銭
 第四条 貨幣ノ式様品位量目ハ左ノ如クスル事
  本位金貨
   二十圜 径曲尺九分五厘
       量目 四銭四分四厘四毛四六「グラム」六六六五
       合性 純金九百分参和銅一百分
   十圜  径曲尺七分
       量目 二銭二分二厘二毛二八「グラム」三三三三
       合性 純金九百分参和銅一百分
   五圜  径曲尺五分六厘
       量目 一銭一分一厘一毛一四「グラム」一六六六
       合性 純金九百分参和銅一百分
  補助銀貨
   半圜  径曲尺一寸二厘
       量目 三銭五分九厘四毛二三「グラム」四七八三
       合性 純銀八百分参和銅二百分
   二十銭 径曲尺七分四厘
       量目 一銭四分三厘七毛七五「グラム」三九一四
       合性 純銀八百分参和銅二百分
  補助白銅貨
   五銭  径曲尺六分八厘
   量目 一銭二分四厘四毛一四「グラム」六六五四
   合性 参和銅七百五十分ニツケル二百五十分
  補助赤銅貨
   一銭 径曲尺九分二厘
      量目 一銭九分〇〇八八「グラム」二八〇
      合性 銅九百八十分亜鉛十分錫十分
 第五条 金貨幣鋳造ニ公差アリテ通用中最軽量目ハ二十圜金貨幣ハ四銭四分二厘トナリ、十圜金貨幣ハ二銭二分一厘トナリ、五圜金貨幣ハ一銭一分〇五毛マデニナル事
 第六条 金貨幣ハ其額ニ制限ナク法貨トシ、銀貨幣ハ十圜マデ、白銅及赤銅貨幣一圜マデニ限リ法貨トシテ通用ス、但与授者ガ互ニ相肯諾スル場合ニハ此限ニ在ラザル事
 第七条 金貨磨損シテ通用最軽量目ニ下リタル者、銀貨幣・白銅及赤銅貨幣ノ甚シク磨損セル者、其他流通ニ不便ナル貨幣ハ其額面価格ニ従ヒテ引換ユ、引換ノ規則ハ度支部大臣部令ヲ以テ定ムル事
 第八条 貨幣ノ形式分明ナラザルカ又ハ私造セル貨幣ハ通用セザル
 - 第16巻 p.73 -ページ画像 

 第九条 金ヲ輸納シテ金貨幣製造ヲ請求スル者アル時ハ政府ニ於テ其請求ニ応許スル事
 第十条 従来発行シタル一両銀貨幣・二銭五厘白銅貨幣・五分赤銅貨幣・一分黄銅貨幣ハ旧ニ仍リテ通用スル事
 第十一条 右新式金銀貨幣ノ発行及従来発行セル五両銀貨幣・一圜銀貨幣・当伍銭・一分葉銭引換、並ニ金ヲ輸納シテ金貨幣ノ製造ヲ請求スルコトニ関スル規則ハ度支部大臣部命ヲ以テ定ムル事
右刻印銀貨流通禁止ノコトニ関シ在仁川支店支配人西脇長太郎ヨリノ来書左ノ如シ(明治三十一年三月一日付)
 一翰啓上仕候、然者刻印銀貨ハ「アレキシーフ」「カブレル」等ノ反対アルニモ不拘度支部ニテハ納税ニモ之ヲ受取リ、一般円滑ニ流通致候事ハ前便申上候通ニ候処、去二十二日ニ至リ度支部ニテハ俄然納税ニ刻印銀貨ヲ峻拒スルニ至リシノミナラズ、公私共一般ニ其授受ヲ禁止シ、度支部ノ門頭及京城ノ四門ニ榜示シ、我公使館ニモ公然ノ通知ヲナシ(中略)元来此度ノ事ハ外交政略上ト露韓銀行ノ関係上深キ意味アルコトニ可有之、我公使館ニテモ外部大臣ノ通牒ニ対シテハ充分研究ノ上回答可致候筈ニ有之、又「ブラオン」氏ハ公使館等ノ声援ヲ得テ十分反対ノ抗議ヲ試ミ候筈ニ付、今後如何ニ成行可申哉今日ヨリ窺知シ難ク候得共、法令ヲ以テ禁止セザル限リ、又「ブラオン」氏ニシテ反対ノ意見ヲ有スル限リ、海関税ニ受取候事ハ無故障事ニ有之候云々
又同月七日付ノ来書ハ左ノ如シ
 貴方第九号御状拝見仕候、然者刻印銀通用禁止ノ理由ハ前便差出候新聞紙切抜ニテ御承知被成候事ト奉存候得共、度支部ノ門頭其他ノ掲示ニハ単ニ「日本円銀ニ小銀字ヲ刻シタルモノハ自今公私共ニ通用ヲ禁止ス」ト有之、我公使館ヘノ通牒ニハ「近来種々ナル外国貨幣流通シ識別ニ苦シム倦厭有之候ニ付、日本刻印銀貨ハ将来一般人民ノ通用ヲ禁ズ」云々ニテ極メテ薄弱ノ理由ニ候(中略)
以テ当時ノ情況ヲ知ルニ足ルベク、一方ニ於テ韓廷ハ我円銀ヲ排斥セルニ拘ラズ、他方ニハ総税務司「ブラオン」氏ハ故障ナク之ヲ海関税ニ収受セシムルノ奇観ヲ呈セリ
斯ノ如ク「アレキシーフ」氏ノ勢力韓廷ヲ圧シ、次デ同年三月一日ニ於テ露韓銀行モ愈々開店シテ露国ハ次第ニ韓国財界ニ其羽翼ヲ張ラントセシガ、露国政府ノ政策俄ニ一変シテ同月十八日ニ至リ突然「アレキシーフ」氏ヲ始メ其他軍部顧問数氏解任トナリ、露韓銀行モ亦未ダ事務上何等ノ発展ヲ見ザル内四月九日ニ於テ全ク閉鎖スルニ至レリ
露国ノ勢力ハ一朝ニシテ減退セシト雖モ、刻印銀通用禁止ノ問題ハ依然トシテ解決セズ、我政府ノ抗議モ民間人士ノ説明モ其効ヲ奏セザリキ、而モ自国ニ於テ之ニ代ハルベキ本位貨ヲ鋳造スルノ成算アルニアラズ、先キニ発布シタル貨幣条例ハ畢竟有名無実ニシテ曾テ一枚ノ金貨ヲ鋳造発行シタル形跡ナシ、而シテ渋沢頭取ガ三十一年五月韓国ヲ巡遊シテ帰国後ナシタル談話ハ当時ノ情況ヲ尽セルモノアリ、曰ク
   ○談話略ス。後掲「銀行通信録」ニ収録セラレタル栄一演説ノ最後ノ二項
 - 第16巻 p.74 -ページ画像 
(第八一頁)ニ同ジ。
次デ同年七月ニ於テ漸ク解禁令ヲ見ルニ至レリ


第一銀行五十年史稿 巻五・第五〇―五二頁 大正一二年刊(DK160013k-0003)
第16巻 p.74 ページ画像

第一銀行五十年史稿 巻五・第五〇―五二頁 大正一二年刊
 ○第二編 第五章 日清戦後の発達
    第三節 韓国中央金融機関
○上略
かくて明治三十年十月廿六日始めて刻印付円銀三万円を日本銀行より受領し、之を釜山・仁川の両地に送りしに、大に商人等の歓迎する所となり、流通円滑なれば十一月仁川へ二十万円、釜山へ五万円を送付せり、韓国の度支部及海関皆頗る好感を寄せ、市場の利便尠からず、本行の努力空しからざりしに、端なくも露国はこの流通を阻害せんと企てたり、露国の東亜発展策は虎視眈々常に満韓に垂涎したれば、十一月韓国政府を威脅し、アレキシーフを同国財政顧問となし、又英人ブラオンが財政顧問にして総税務司を兼ねたるを奪はんとし、一時韓帝をしてブラオン解雇の詔勅を発せしめたれども、英国政府の強硬なる反対によりて目的を達すること能はず、露国は尚屈せず、三十一年二月には露韓銀行を京城に起して、韓国における財政経済上の実権を掌中に収めんとす、よりて先づ本行の扶殖せる勢力を顛覆せんことを謀り、アレキシーフは露韓銀行頭取ブリール《(カブリール)》と共に韓国政府に入説して、刻印付円銀の流通を阻害せしかば、同国政府は其月二十二日に至り、納税に刻印付銀貨を拒絶し、尋で公私一般の授受を禁止せり。されど総税務司ブラオンは之を海関税に収納せしかば、同一政府にして一方には之を禁止し、一方には之を収納するの奇観を呈せり。かゝる折しも英国は露国の傍若無人なる態度を憤り、我国と共に対抗し、韓廷における非露国派の勢亦回復せしかば、露国も形勢を察してアレキシーフの職を解き、翌四月には露韓銀行をも閉鎖して、韓国干渉の手を収めたり。然れども刻印付円銀通用禁止の令は依然として尚存す。刻印付円銀通用禁止令の出でし時、加藤公使は直に同国政府に抗議しブラオンまた内より之を助けたれども、容易に目的を達する能はざりしかば、頭取渋沢栄一は四五月の交名を商工業の視察に藉りて韓国に赴き、加藤公使と共に斡旋頗る力め、或はブラオンと会見し、或は韓国各大臣に説き、皇帝にも謁見奏上するなど、非常なる努力によりて漸く解禁の約束を為さしめたる後帰朝したるが、七月に至り同国政府は前令を解除し、半歳に渉れる紛擾始めて解けたり。
○下略


中外商業新報 第四八九八号 明治三一年六月八日 漢城飛信(二)(DK160013k-0004)
第16巻 p.74-77 ページ画像

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渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(明治三一年)五月八日(DK160013k-0005)
第16巻 p.77-78 ページ画像

渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(明治三一年)五月八日 (八十島親義氏所蔵)
○上略国王へ之謁見も昨日相済申候○中略総而当国之事ハ実地見聞之人ならてハとても其想像を為し得へきものニ無之候、他日帰宅之際ニ詳話可仕候
取込中平安之二字申入候まて 匆々不一
 - 第16巻 p.78 -ページ画像 
  五月八日
                          栄一
    親徳殿


渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛(明治三一年)五月八日(DK160013k-0006)
第16巻 p.78 ページ画像

渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛(明治三一年)五月八日 (阪谷子爵家所蔵)
○上略目今韓国之形勢ハ我邦ヘ之依頼心頗る多く、上下ともニ種々企望之事共申出候景況ニ御坐候、依而老生ハ勉而穏和之主義を取り、例之極印銀之事も可成彼之感情を損せす、詰り自ら貿易上之利益を理会して禁止之令を解候様為致度と現ニ尽力罷在候、殊ニ京城着後窮民救恤之事、又ハ王妃之墓前ニ参詣し、且花瓶奉納之事、又ハ諸学校一覧之事抔も精々韓国之政府又ハ人民之感情を緩和し弥増依頼心を生し候様仕向罷在候
国王謁見之際ニハ別ニ経済上之談話ハ無之候得共、今日ニも誰か其命令を請特ニ老生ニ相談被致候由ニ御坐候間、其際ニハ可成丁寧深切ニ当国之理財経済ニ付而之意見申述候心得ニ御坐候○下略
  五月八日
                      渋沢栄一
    阪谷芳郎殿


竜門雑誌 第一二一号・第二―三頁 明治三一年六月 青淵先生朝鮮視察談(DK160013k-0007)
第16巻 p.78-79 ページ画像

竜門雑誌 第一二一号・第二―三頁 明治三一年六月
  青淵先生朝鮮視察談
○上略
    円銀通用問題
京城在留中加藤公使の照会《(紹介)》によりて国王陛下に謁見を賜はりたり、陛下に付ては坊間種々の評言もあれど余は隣交国の君主に対し兎角の噂を申上るも恐れ多ければ之を略すべし、かくて加藤公使は余が財政経済上幾分の経験ある者なればとて御下問の次第もあらば仰せ付らるべし云々と言上し、陛下は追て臣僚を遣はし諮訽する所もあるべしと仰せられ、其後沈相薫・愈箕煥[兪箕煥]等三四の人々旅館に就き種々諮詢することもありしかど、概して経済の知識頗る幼稚にして、余が三四回の面会に言を尽して利害を説き奨励勧誘したるにも拘はらず、兎角要領を得ざる勝なりしは遺憾に堪へず、殊に余か今回渡韓の用向中重なるは我刻印付円銀の通用を復活せしめんとするに在りしを以て、此点に付ては特に意を用ゐ懇々勧誘したることなりしが、元来韓国の幣制は極めて不完全にして、同国在来の貨幣は所謂常平通宝なる銅銭あれども到底之のみを以て貿易其他の用を充すべきに非ず、其後我一円銀の流入して一般に使用せらるゝに及び、同国の貿易は着々進歩し、更に明治廿七年頃に及び初めて幣制を確定し新銀貨を鋳造することとなりしも、其定率は我一円銀貨と殆ど異なることなく、只名称上に於て一円を五両とする位に過ぎざりしが、偖て此の新銀貨も中々鋳造の場合に至らず、従て我一円銀の通用は依然として変ずることなく、寧ろ日清戦争後は一層其利便を感ずるに至れり、而るに彼政府は何と考へたるか、過般彼の露人アレキシーフ氏の来りて財務顧問となるに及び、氏の言を用ゐて全然我刻印付円銀の通用を禁止するの法令を発布したり
 - 第16巻 p.79 -ページ画像 
聞く所によれば、此の際同国財務の局に在りし英人ブラオン其他二三の人々は大に反対の意見を主張したる様なりしも、政府要路多数の人人は本邦幣制改革と共に円銀は全く廃貨と定められたるものなれば、日本に於て廃止されたるのを韓国に用ひるは不可なりとか、或はまた一国の貨幣は必ず其国に於て製造せざれば不可なりとか、随分馬鹿らしき考へを以て深く事の利害をも顧みず此る命令を発布したるものゝ如し、然れども今や同国の経済場裡より全く我円銀を排斥するが如きは到底出来得べきに非ず、現に税関の如きは此の禁令出たるにも拘はらず依然円銀を受取居る次第にして、其他にも尚盛んに流通せられ、刻印なき分とても亦随分巨額の流通ある所以なり、然れども此禁令にして遂に解除せらるゝことなく、而かも我円銀の引換期限愈々切迫し来りて、金銀の差交換に利あるが如き時ある《(ら)》んか、当時彼国に流通し居る無刻印の円銀は続々として我国に回収せられ、其結果は彼国の貨幣怱ち欠乏を来し、貿易其他に不便を感ずるは勿論、惹て同国経済界に一大紊乱を来さしむるも知るべからず、円銀禁止令の結果は実に如此憂あるを以て、余は懇々彼国当局者に向ひ右禁止令解除の必要を説述したるも、不幸にして彼等の経済智識は容易に貨幣の学理等を会得するに足らず、一国経済の浮沈に関する大問題をも兎角其浅見陋識によりて所置せんとするの懸念あり、尤も右禁止令解除のことに付ては余か数回の勧誘に多少利害を知得したるか故か、将た余の熱心に免じて一概に拒絶する訳にも行かずとの義理的感情を起したる為めか、兎も角余が言を容れ不日該禁止令解除の運びを附くべしと返答したり
○下略


日本銀行沿革史 第一巻・第九七―九八頁 大正二年一一月刊(DK160013k-0008)
第16巻 p.79 ページ画像

日本銀行沿革史 第一巻・第九七―九八頁 大正二年一一月刊
  明治三十一年
    六月
十四日 従来第一銀行在朝鮮支店ニ於テ取扱ヘル兌換券、政府紙幣及鎖店銀行紙幣と銀貨トノ交換事務嘱託ヲ解除シ、之カ交換基金トシテ無利息ニテ貸付シタル十五万円ノ返済ヲ受ク


会議録第一号 従明治廿四年二月至同卅五年十二月(DK160013k-0009)
第16巻 p.79 ページ画像

会議録第一号 従明治廿四年二月至同卅五年十二月 (東京手形交換所所蔵)
    ○東京交換所第三十二回定式集会録事
明治三十一年六月七日午後五時ヨリ、東京交換所組合銀行第三十二回ノ集会ヲ開キ、来会シタルモノ三十三名ナリ
○中略
夫ヨリ、渋沢氏ハ今回在朝鮮第一銀行各支店巡視ノ途次同国当路者ニ談話シタル貨幣ニ関スル一条《(場)》ノ演説アリテ後晩餐ヲ了シ、八時半散会セリ


銀行通信録 第一五二号・第一〇〇七―一〇一四頁明治三一年七月刊 【左の演説は渋沢栄一氏…】(DK160013k-0010)
第16巻 p.79-82 ページ画像

銀行通信録 第一五二号・第一〇〇七―一〇一四頁明治三一年七月刊
 左の演説は渋沢栄一氏か韓国旅行後、第一回は去月七日東京交換所組合銀行定式会ニ於て演説されたるものにして、主として刻印附一円銀貨を朝鮮に流通せしむる事に関し、第二回は同月十五日有志者
 - 第16巻 p.80 -ページ画像 
か同氏を招待せる会場に於て演説されたるものにして、重に沿道の見聞及対韓の意見等に係る故に、前後を通観すれは同氏旅行中の全班を知るに足らん、而して該二回の演説は、当所員の筆記せるものを渋沢氏自身に丁寧なる校閲訂正を加へられたるものなり
    韓国に於ける極印附円銀に就て(第一回の演説)
                       (渋沢栄一)
○緒言 余が今回の旅行に関しては何れよりも請托若くは依頼を受たることなく、唯余が管理せる銀行の支店即ち韓国釜山・仁川・京城の三ケ所に於ける我第一銀行支店の事務を巡視する胸算を以て出発せしなり、此等の支店を同地に開始せるより既に二十年を過き、且同国海関の収入を取扱ふことも已に十四五年となるか故に、今回此行を企て之を巡視せんとしたるのみ、然れども苟も足を同地に入るゝに就ては又多少の感なき能はさるなり、而して目下我国と朝鮮との間に横はれる問題は、通貨即ち刻印附円銀のこと是なり
○韓国幣制の紊乱 従前朝鮮には常平通宝とて我銅銭の如きもの通用されたりき、然るに各所の税関に於ては総ての関税を徴収するに此等の貨幣を以てするは頗る不便なり、殊に朝鮮の執政者に在ては貨幣の道理に暗き故に、先年大院君の時代には当百銭を鋳造し、又閔泳駿が政事を掌れる時に当ては五文銭を鋳造して更に不便を商売に与へたり、斯の如く往々私利の為めに貨幣を鋳造する如きことあるを以て、一般民衆の不便不利は云ふ迄もなく、同国の貿易が伸張せさる所以は実に貨幣の不完全なるに因りてなり、故に日本の一円銀貨は何人か之を教示するともなく五七年来自然通用さるゝに至り、従て我日本銀行兌換券も通用し来りたり、是れ一面より見れは、実に彼我貿易の進歩を証明するものと謂つべし
○日本貨幣流通の状況 日本貨幣の流通は廿七年以来非常に増加せり、是れ全く戦争の当時我貨幣の同国に投入せるもの多きと、又貿易の増進に伴ふて之を使用するの便なるを以て愈々之を多用するに至れるとの結果なるべし、昨年の冬頃同国に於ける各商業会議所が調査せる所に依れは、日本貨幣の流通高は三百万円乃至三百五十万円位の銀貨及紙幣ありと云ふ、然れども此高は未だ以て充分に其需要を満足せりと云ふべからず、開港場以外の地に於ては尚常平銭が通用されつゝあるが故に、其通用国内に普及せりと云ふべからざれども、又適当の分量を越へたるにもあらざるべし
去る明治廿七年八月、同国に於て貨幣制度を定め、本位貨幣五両銀、其他補助貨幣一両銀・白銅銭・赤銅銭等を鋳造せり、然れども其本位貨幣を鋳造せしは僅に五万円位といふことにて、今日は何処にか散逸し、日本貨幣のみ大に流通せり
○刻印円銀(一) 然るに我幣制は昨年十月を以て金貨制度に改革されたれば、在韓の我貿易商の大に憂慮したるところのものは、即ち貿易の媒介として重要の地位を占むる一円銀貨にして金貨引換の為に日本に引上けられんか、又再び不便なる常平通宝を通用するの不得止に至ること即ち是なり、故に此事に関し各商業会議所は一問題として研究を怠らざりき、右の如き憂慮は金銀の比価に差違を生し、為に変動を
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及ぼすのみならず、延て日韓貿易の前途に沮害を加ふべきは当然なるべきが故に、余は夙に円銀を永く同地に流通せしむるの必要なるを感せり、故に屡々知己の人とも此事を諮りつゝありたるに、朝鮮各貿易場に設立せる商業会議所も亦之と同しき意見を有し、我財務当局の諸氏も此事に関し余に諮られたる処ありき、結局朝鮮に於て通用する円銀に刻印を加へて流通せしめば可ならんと言ふ事となれり
○刻印附円銀(二) 刻印附円銀を韓国に流通せしめんには、先つ海関税の収納に用ひしめ、次て又政府の収入に用ひらるゝに至れば可ならんと信し、先総税務司ブラウン氏に此事を以て相談せるに、氏も同様の感を有せるが故に、海関は之を用ゆる様になさんとて此事に決定せるも、直に之を行はんとするには刻印銀と通常の一円銀貨即ち金貨に交換し得る貨幣との間に相場を立つることの困難ありたりき、故に昨年は先つ対等に取引し追て相場取引にせんとて、漸く事の端緒を得たるに至りたる時、偶々露国よりアレキシーフ氏来りたれば、従来韓国度支部顧問及総税務司として各税関に己の弟子分を置きて税務総括の任に当れるブラウン氏の上に、突然アレキシーフが度支部全権となりて、刻印銀に対し非難を試み、第一に国家の体面を汚し、第二には韓国の利益を奪はるゝものなりとの論を唱へ、甚しきは露国にて製造せる貨幣を通用せしめんとの噂さへありたりき、然るに韓人は事実上の利害及財務の真理を攻究する者もなく、唯々刻印銀を排斥せんとせり斯くアレキシーフの勢力熾なりしかば、従て初当之が通用を許したるブラウン氏は殆んど其地位すら失はんとせしが、英国より故障を入れたるを以て、漸くブラウン氏は僅に其地位を全ふするを得たり、其後は円銀の事に関し我より要求を強める程却て其反動を起すが如き勢となり、終に省令の如きものを以て刻印銀の通用を禁じたり、唯税関に於ては依然之が混用を許しつゝあれども、度支部に於ては之を収納することを拒み、其他一般韓人間に通用せざるに至れり、是れ本年二三月頃の状態なりき
○韓人の貨幣の道理に暗き事 円銀の通用禁止は日韓貿易上に大関係を有するものなれば、余は今回の旅行を好期とし、如何にもして其禁を解かしめんと心掛けたりき、幸に余が着韓の当時は已にアレキシーフの雇を解きたる頃なりしかば、大に露風を脱し、其余焔すら已に止みたるが如きも、貨幣の問題は其儘に依然たる有様なり、何故に然りやと云ふに、韓国の当路者其他一般の人民が貨幣の真理を解せざればなり、彼等は恰も貨幣を以て、法律などを作為するものゝ如く思惟し、嘗て本位貨幣と補助貨との区別すらも知らざるなり、故に貨幣の鋳造は唯当路者が利益するものとなす感念を有する位なれば、アレキシーフの唱へたる第一国辱論、第二国損説は頗る同国人の注意を喚起し、日本の古物なる銀貨を韓国に通用するは其利益を日本に奪はるゝものなり等の意味より、其通用禁止を不可となさずして貿易上の不利益の如きは毫も顧みざるなり、玆を以て余は及ぶべき丈け自分の事務視察の余暇を以て、此問題に付同国の当路者と協議せんとしたるなり
○刻印円銀に関する協議 然るに、韓人は余が旅行を見て如何に思惟せしや知らざれども、余の着韓を聞き来訪する人毎に種々なる事柄
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を持込みたり、或は京釜鉄道に助力せよ、或は日韓銀行を起せよ、或は朝鮮銀行に助力せよと云ひ、或は又某種の事業に対して資金を供給せよと云ひ、或は貨幣の鋳造に対し日本より地金を輸入されよ抔と云ふが如く、各種の人々より相談を受けたれども、元より余が素志にもあらざればよき程に挨拶して、着後二三日を過き七日を以て国王に謁見せり、其結果国王は商議委員を命して余と経済上の事を会談することゝなれり、玆に至り漸く事実上の談話となり、其月十日を以て軍務大臣閔泳綺・外務協弁兪箕煥の二氏と我公使館に会見し、余は貨幣の事に関し種々の注意を与へたるに、彼等は従来の貨幣即ち刻印銀にては未た充分ならさるが故に更に日本より地金を借入れたし抔の注文ありたり、故に余は貨幣は貿易の高に依るべきものにして人口の高を標準とすべきにあらざる所以を説き、又朝鮮にて貨幣を鋳造せんとするには先つ自国へ造幣局を置き、国民をして貨幣の品位量目等を了知せしめ、貨幣の信用を保持せざるべからず、現に日本にては毎年造幣局にて大試験を行ひつゝあること抔を説き、仮りに若し地金借りたりとて其鋳造を自国にて行ふを得す他国に依頼する如きことあらば、日本貨幣を用ふると毫も異ることなかるべし、故に其意念は頗る可なれとも今遽に之を実行し難きを如何せん、故に今日の計は寧ろ極印附銀を用ひるの便にして且利あるに若かざるべしとて、日本にても嘗て外国貨幣を用ひたるの例あれども是が為め毫も国威を損し国利を失ひしことなきなりと反覆説明するも、容易に彼等の脳裏に入らざりし、翌十一日に至り、余は加藤公使と共に安䮐寿の家に於て再ひ度支大臣沈相薫・軍務大臣閔泳綺・外務協弁兪箕煥及安䮐寿の四氏と会話し、反覆弁論の末終に彼等は余の説に同意するに至りたり、然れとも円銀の通用禁止を解くには国王の裁可を経ざるべからざれば、尚多少の時間を要すべし、之と同時に補助貨の鋳造は尚当然必要の事なれば之を為さしむべく、次に韓国に於ても日本の如く中央銀行の設立を必要とするが故に其設立に付て相当の助力を与へられたし、且将来韓国に興起する種々の実業に対しては安全にして利益ありと見定めし事には資金の供給を望むといふ彼等の請求は、余も勉めて之を助成すべき旨を答へて、其談判を了せしなり
余が今般の旅行に於て各支店の事務を巡視せるの外、貨幣問題に関し韓国の人々と会談せしは前述の通りなり、此他韓国の人情風俗又は将来我邦人の対韓政策等に付ての愚見は、他日再び之を陳せんと欲す
   ○右ハ「竜門雑誌」第一二二号(明治三十一年七月)ニモ収録サル。



〔参考〕東京経済雑誌 第三七巻第九三一号・第一二六〇―一二六二頁明治三一年六月一一日 日露新協商と渋沢氏の来韓(在朝鮮 鬒南逸人)(DK160013k-0011)
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