デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

6章 対外事業
1節 韓国
2款 京釜鉄道株式会社
■綱文

第16巻 p.387-391(DK160054k) ページ画像

明治32年12月28日(1899年)

是ヨリ先、栄一京釜鉄道起工準備資金ノ調達ニ奔走ス。是日陸軍大臣桂太郎ノ尽力ニ因リテ陸軍機密費中ヨリ金五万円ヲ貸与セラル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK160054k-0001)
第16巻 p.387-388 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三二年          (渋沢子爵家所蔵)
十二月二十二日 晴
○上略 午後四時桂陸軍大臣ヲ訪ヒ、京釜鉄道ニ関スル機密ノ談ヲ為ス、
 - 第16巻 p.388 -ページ画像 
○中略 大倉喜八郎来ル、京釜鉄道ノ事ヲ内話ス○下略
  ○中略。
十二月廿八日 晴
午前岩崎弥之助氏其他数多ノ来客ニ接ス、午前十時山県総理大臣ヲ訪ヒ、京釜鉄道ノ事ヲ話ス、更ニ桂陸軍大臣ヲ訪フテ同鉄道ニ関スル密事ヲ話ス、午後一時第一銀行ニ於テ重役会ヲ開ク、竹内綱氏来リ、京釜鉄道ノ事及大江氏身上ノ事ヲ内話ス、午後六時中村陸軍次官ヲ番町ノ宅ニ訪ヒ、京釜鉄道ニ関スル機密ノ事ヲ淡ス○下略
  ○中略。
十二月三十日 曇
午前○中略本郷ニテ中野武営氏ヲ訪ヒ、京釜鉄道ノ事及大江氏ノ身上ニ関スル事情ヲ談話ス、午後二時偕楽園ニ抵リ、浅野総一郎・斎藤精一二氏ト共ニ韓国鉱山ノ事ヲ談ス、大倉氏来ル、京釜鉄道ノ事ニ関スル証書文案ヲ協議ス○中略午後三時第一銀行ニ出勤ス、竹内綱氏来ル、京釜鉄道実測費貸付ニ関スル証書文案ヲ交付ス○下略
  ○右ノ日記中大江氏身上云々ハ、後掲「竹内綱渡韓日誌第一」ニ載セタル件ヲ云フカ。


雨夜譚会談話筆記 上・第一三七―一四一頁大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK160054k-0002)
第16巻 p.388-389 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  上・第一三七―一四一頁大正一五年一〇月―昭和二年一一月
  第六回 昭和二年四月廿六日 於飛鳥山邸
    鉄道会議と鉄道国有
先生「○中略 又曩に許可願を出して置いた京釜鉄道の方は中々許可がなかつたが、三十一年であつたか、伊藤さんが朝鮮へ行つて話してくれたので其力で許可された。然し之は資金も巨額を必要としたし、株式を募集しても中々満株にならないのに苦しんだ。ところが其の契約は三十二年に工事に着手すると云ふ条件があるから、若し着手しなかつたらば許可の権利を失ふことになつて居た。大に焦慮したが株の募集は出来ず、三十二年に到つて工事着手の資金に困り、五万円程の金をどうしやうかと予て京釜鉄道を早くやるやうにと云つてゐた桂さんに相談した。朝鮮の鉄道に関しては伊藤・井上等の人人は寧ろ反対であり、山県・桂等の人々は促進せよとて賛成した。私は伊藤・井上とは懇意であるが、此時の私の考は鉄道促進で、山県さんと同意見であつた。桂さんは私の話を聞いて陸軍の機密費の内から五万円を貸して呉れた。私はそれを受取るべく馬車で中村雄次郎さんの宅を訪ね、中村さんから五万円を受取つた。其日は大晦日であつたと思ふが、それで約束通り、兎に角三十二年に京釜鉄道工事に着手することが出来た。○中略
 京釜鉄道の為めに桂さんから借りた陸軍の機密費五万円は、後に払込を徴収して、資金が出来たから返済した処、桂さんも受取つても仕方がないから、東洋協会へ寄附しようと云ふことで、結局渋沢・大倉の名で同会へ寄附した。
○下略
  ○第六回雨夜譚会出席者、栄一・増田・渡辺・白石・小畑・高田・岡田。
  ○右雨夜譚会談話ニ大晦日トアルハ十二月二十八日ノ誤ナルベシ。日記三十
 - 第16巻 p.389 -ページ画像 
一日ノ条ニ其記事ナシ。又「三十二年ニ工事ニ着手ノ約束」云々ハ、京釜鉄道合同条約第十条ニヨレバ「三十四年九月八日」マデニ着手ノ契約ナリ栄一ノ記憶違ヒナルベシ。
  ○右ノ陸軍省機密費ヨリ支出セラレシ五万円ハ表面上ハ栄一及大倉喜八郎ヨリ出金シ発起人連帯ニテ之ヲ借入ノ形式ニセルコト、明治三十三年二月一日京釜鉄道株式会社発起人総会ノ報告ニ見ユ。同日ノ条参照スベシ。次掲「築京釜鉄道記」モ亦此ノ間ノ消息ヲ語レリ。


築京釜鉄道記 竹内綱手記(DK160054k-0003)
第16巻 p.389 ページ画像

築京釜鉄道記 竹内綱手記         (竹内広氏所蔵)
京釜鉄道線路ノ実測且鉄道起工諸般準備ニ付韓廷ニ交渉ノ為メ委員及測量技師技手ヲ渡韓セントス、右渡韓ニ対シ委員等ノ苦心セシハ渡韓ニ要スル経費金ノ準備ナリ、先キニ米国人モールス氏ノ京仁鉄道ノ特許ヲ得ルヤ金貨五万弗ヲ宮中及関係諸大官ニ納金セシノ前例ニ依リ、京釜鉄道ハ京仁ニ十倍スルノ大鉄道ナレハ百万円ノ納金ヲナスヘシト韓廷内部及合同条約周旋者ノ切望頻リナリシカ為メ、駐韓林公使等ヨリモ其注意アリシモ会社ノ設立前ニ於テ納金ノ出所ナキニ依リ、此ハ会社創立後ニ於テスルモノトスルモ此般委員ノ渡韓ニ付キテハ少クモ実測等ノ諸経費ト共ニ金拾万円ヲ準備セサルヲ得ストノ議(ヲ決シ頗ル尽力スル所アリシモ遂ニ果サス幸ニモ渋沢・大倉両氏其出所ナキニ至リ《アリシモ意ノ如クナラス》)遂ニ線路ノ実測費ヲ節減シ五万円以内ヲ以テ之ニ充ツルモノトシ、委員一同ノ責任ヲ以テ渋沢・大倉両氏ヨリ金五万円ヲ借入レ、漸ク委員ヲ渡韓セシムルニ至レリ、之カ為メ技師長笠井愛次郎ハ無報酬ヲ以テ線路実測及鉄道ノ設計ニ従事セリ


京釜鉄道株式会社創立事務所日誌 明治三四年(DK160054k-0004)
第16巻 p.389 ページ画像

京釜鉄道株式会社創立事務所日誌  明治三四年
                     (竹内広氏所蔵)
五月十三日 月曜日 半晴
○上略
一予而渋沢・大倉両氏ヨリ借用アリタル金四万九千五拾参円拾九銭ハ本日右両氏ヘ返却セリ○下略


(竹内綱)渡韓日誌 第一(DK160054k-0005)
第16巻 p.389-390 ページ画像

(竹内綱)渡韓日誌 第一        (竹内広氏所蔵)
(京釜鉄道会社ノ創立セラレントスルヤ)余ハ友人大江卓近年失意ノ境ニ在ルヲ以テ会社ノ主幹タラシメント欲シ、明治卅二年韓国京釜線路ノ踏査ニ臨ミ大江ヲシテ技師ヲ率ヒテ渡韓セシメタリ、此般モ(韓廷ニ条約ニ拠リ線路用地ノ請求及ヒ線路実測等ニ付委員ヲ渡韓セシムルニ当リ)大江ヲシテ其任ニ当ラシメ、大三輪長兵《(衛脱)》ヲ以テ副タラシムルニ決シ、日ヲ期シテ発セントスル(其数日前)ニ際シ桂陸軍大臣余ヲ招キ秘カニ告ケテ曰ク、曩キニ大江ノ線路踏査ヲ了シ帰朝スルヤ、其報告書ニ我参謀本部ノ機密(ニ派遣スル大沢大佐ノ名ヲ掲ク実ニ粗忽《ヲ漏泄スル如キコトアリ不注意》)ト云フヘシ、此般モ亦大江ヲ以テ渡韓ノ主幹トナス(山県総理《内閣》)ノ懸念スル所ナリ、望ムラクハ子ヲ労セント、余之ヲ聴キ頗ル窮(セリ之ヲ渋沢・尾崎ニ謀ル両氏モ亦其処分ニ窮セリ然レトモ総理ノ注意モ拒絶スヘカラス於是テ《シ熟考スヘシト答エ置キ》)余ハ大江ニ面シ告クルニ其実ヲ以テシ余ノ意見ヲ陳シテ曰ク、君ノ渡韓ハ既ニ世上ニ発表セリ今ニ及テ中止セン
 - 第16巻 p.390 -ページ画像 
歟君ノ面目ヲ如何ニセン、然トモ内閣ノ意(ニ背セン歟京釜鉄道会社ハ政府ノ特別ノ保護ヲ請ハサルヲ得ス於是乎《モ亦背クニ難シ》)窮セリト謂フヘシ、已ムナクンハ余此行ノ主幹トナリ二君ト共ニ渡韓セント、大江之ヲ聞キ快諾ス、是ニ於テ桂陸軍大臣ニ余ノ主幹トシテ渡韓ニ決スルヲ告ケ且曰ク、余ノ韓国ノ事情ニ通セサル両氏ノ助力ヲ得サレハ或ハ事ヲ誤ラン、請フ両氏ノ余ニ同行スルヲ許セト(是ニ於テ山県総理モ強イテ両氏ノ行ヲ止メス余始メテ渡韓ス《内閣モ亦之ヲ了ス》)実ニ明治卅三年二月廿七日ナリ



〔参考〕公爵桂太郎伝 乾巻 徳富猪一郎編 第八七三―八七五頁大正六年二月刊(DK160054k-0006)
第16巻 p.390-391 ページ画像

公爵桂太郎伝 乾巻 徳富猪一郎編  第八七三―八七五頁大正六年二月刊
 ○第四章 山県内閣時代
    五 対韓問題と京釜鉄道
○上略
京仁鉄道の買収に踵て、京釜鉄道補助金問題の定れるも、亦公等の力に由れり。京釜鉄道は明治廿七年八月の、日韓暫定合同条款に由りて敷設権を我に収めしも、内外の事情未た会社の設立を見るに至らす。
三十一年九月に及ひて、始めて韓国政府と京釜鉄道発起人との間に、京釜鉄道契約の調印を見るに至れり。此契約に拠れは、契約調印の日より、三箇年以内に起工せされは、無効に帰するの虞あるを以て、発起人等は政府の補助を得て、其の事業を完成せんことを期し、一面には政府に請願し、他面には貴衆両院議員に交渉したる結果、第十四回議会に於て、京釜鉄道速成に関する建議案の提出と為り、其の可決を経。政府は直に、外国に於て鉄道を布設する帝国会社に関する、法律案を提出し、是れ亦両院を通過したり。当時政府部内の一部、及ひ有力者間には、阿多曼銀行の例に倣ひ、欧米資本家と合同して会社を起し、該鉄道を敷設経営せんとするの説を唱ふるものあり。該鉄道の布設は、日露の国交を沮害するの虞なしとせすとし、其の速成に躊躇するものあり。又財政当局側に於ても、帝国財政の状態に鑑み、補助金の下附を難んする色ありしが、山県首相及ひ公等は、首として其の必要を唱へ、閣議を決定し、会期漸く迫りたるに拘らず、外国に於ける鉄道敷設に関する法律案を、提出するに至りしなり。
又京釜鉄道発起人は、一方に於て、政府並に帝国議会に対し、交渉すると同時に、三十三年二月発起人総会を開き、実地測量に着手せんか為に、委員並に技師を派遣するの議を決し、其の経費五万円は、創立委員長渋沢栄一、及ひ大倉喜八郎の負担に決したり。然るに、当時渋沢は五万円を得るに苦み、政府と交渉する所ありしも、更に其の要領を得さりき。是に於て、渋沢は屡々山県及ひ公に面し、其の事情を陳して、懇請する所ありしに、公終に之を諾し、五万円を調達して刻下の急に応し、渋沢は其の金額を以て、線路の実測、其の他の経費に充て、該鉄道創立の基礎を全うすることを得たりと云ふ。
其の後、該鉄道の工事は、社債の募集困難なりしか為め、遅々として進まさりしも、三十六年末対露問題の切迫するに方り、公か内閣総理大臣として、工事速成の計画を立て、終に其の完成を見るに至りしものは、職として公か該鉄道の外交、軍事、並に経済上に於て、特殊の必要なるを認識し、之と同時に堅志力行、群議を排して之を遂成し
 - 第16巻 p.391 -ページ画像 
たるに由らすんはあらさりし也。