デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

6章 対外事業
1節 韓国
2款 京釜鉄道株式会社
■綱文

第16巻 p.473-503(DK160077k) ページ画像

明治36年12月28日(1903年)

政府ハ京釜鉄道ノ速成ヲ期シ、是日緊急勅令ヲ発シテ当会社ニ補助金百七十五万円ヲ交付シ、其社債一千万円ヲ保証スルト共ニ、会社役員組織ノ改正ヲ命ズ。仍チ栄一取締役会長ヲ辞シ、理事ニ任ゼラル。


■資料

官報 号外 明治三六年一二月二八日 ○勅令(DK160077k-0001)
第16巻 p.473-474 ページ画像

官報  号外 明治三六年一二月二八日
    ○勅令
朕枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ帝国憲法第七十条ニ依ル財政上必要処分ノ件ヲ裁可シ玆ニ之ヲ公布セシム
  御名御璽
   明治三十六年十二月二十八日
           内閣総理大臣内務大臣 伯爵 桂太郎
           海軍大臣       男爵 山本権兵衛
           農商務大臣      男爵 清浦奎吾
           大蔵大臣       男爵 曾禰荒助
           外務大臣       男爵 小村寿太郎
           陸軍大臣          寺内正毅
           司法大臣          波多野敬直
           逓信大臣          大浦兼武
           文部大臣          久保田譲
勅令第二百九十一号
第一条 軍備補充ニ要スル経費支弁ノ為、政府ハ一時借入金ヲ為シ、特別会計ニ属スル資金ヲ繰替使用シ、及国庫債券ヲ発行スルコトヲ得
第二条 京釜鉄道株式会社ノ線路工事速成ニ必要ナル資金ノ調達ニ便宜ヲ与フル為、政府ハ同会社ノ発行スル債券ニ対シ元利支払ノ保証ヲ為スコトヲ得
前項ニ依リ保証スヘキ債券ハ額面一千万円ヲ限リ、其ノ利子ハ一箇年六分以下トシ、其ノ元金ハ三箇年据置、爾後五箇年以内ニ償還スヘキモノトス
第三条 京釜鉄道株式会社ニ於テ工事ヲ速成スル為、特ニ要スヘキ費用ノ補償トシテ、政府ハ同会社ニ対シ百七十五万円ヲ補助スルコトヲ得、但シ已ムヲ得サル事由ニ依リ其ノ金額ヲ以テ本項ノ費用ヲ償フコト能ハサル場合ヲ生シタルトキハ、仍四十五万円以内ヲ補助スルコトヲ得
 前項補助金ヲ以テ補償スヘキ費用ノ支払ニ関シテハ特ニ詳密ナル監督規程ヲ設クルモノトス第一項ニ依リ補助スヘキ百七十五万円ノ財源ニ充ツル為、政府ハ一時借入金ヲ為スコトヲ得
第四条 第一条及第三条ノ場合ニ於テ一時借入金又ハ国庫債券ニ附スヘキ利子ハ一箇年六分以下トシ、償還期限ハ一時借入金ニ在リテハ二箇年以内、国庫債券ニ在リテハ五箇年以内トス
 - 第16巻 p.474 -ページ画像 
 国庫債券ニ関シテハ前項ニ規定スルモノノ外整理公債条例ヲ適用ス
    ○
朕京釜鉄道株式会社ニ関スル件ヲ裁可シ玆ニ之ヲ公布セシム
 御名御璽
  明治三十六年十二月二十八日
            内閣総理大臣 伯爵 桂太郎
            逓信大臣   大浦兼武
  勅令第二百九十二号
第一条 京釜鉄道株式会社ニ付テハ本令ニ規定スルモノヽ外、明治三十三年勅令第三百六十六号ノ定ムル所ニ依ル
第二条 会社ニ総裁一人、理事七人以内、監査役四人以内ヲ置ク逓信大臣ハ理事中ヨリ三人以内ノ常務理事ヲ命ス
第三条 総裁ハ会社ヲ代表シ其ノ業務ヲ総理ス
 常務理事ハ総裁ヲ補助シ、会社ノ業務ヲ分掌シ、総裁事故アルトキハ逓信大臣ノ定ムル所ニ依リ之ヲ代理ス
 理事ハ会社ノ重要ナル業務ニ参与ス
 監査役ハ会社ノ業務ヲ監査ス
第四条 総裁ハ勅裁ヲ経テ政府之ヲ命シ、其ノ任期ハ三箇年トス
 理事ハ百株以上ヲ有スル株主中ヨリ政府之ヲ命シ、其ノ任期ハ三箇年トス
 監査役ハ五十株以上ヲ有スル株主中ヨリ株主総会ニ於テ之レヲ選任シ、其ノ任期ハ二箇年トス
第五条 総裁及常務理事ハ在任中何等ノ名称ニ拘ラス他ノ職務又ハ商業ニ従事スルコトヲ得ス、但シ逓信大臣ノ認可ヲ得タルトキハ此ノ限ニ在ラス
第六条 総裁及理事ノ報酬及手当ノ額ハ逓信大臣之ヲ定ム
第七条 政府ハ京釜鉄道株式会社監理官ヲ置キ、会社ノ業務ヲ監視セシム
 監理官ハ何時ニテモ事業ノ施設ヲ監査シ、会社ノ金庫・帳簿及諸般ノ文書物件ヲ検査スルコトヲ得
 監理官ハ必要ト認ムルトキハ何時ニテモ会社ニ命シテ営業上諸般ノ計算及景況ヲ報告セシムルコトヲ得
 監理官ハ株主総会其ノ他諸般ノ会議ニ出席シテ意見ヲ陳述スルコトヲ得、但シ議決ノ数ニ加ハルコトヲ得ス
    附則
本令ハ発布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
京釜鉄道株式会社現在ノ取締役ハ本令ニ依リ総裁及理事ノ任命セラレタル日ヲ以テ其ノ任ヲ終リタルモノトス
現在ノ監査役ハ現行定款ニ定メタル任期間在任スルモノトス


朝鮮鉄道史 朝鮮総督府鉄道局編 第一巻・第一四八―一五六頁昭和四年一〇月刊(DK160077k-0002)
第16巻 p.474-476 ページ画像

朝鮮鉄道史 朝鮮総督府鉄道局編  第一巻・第一四八―一五六頁昭和四年一〇月刊
 ○第一編 第四章 京釜鉄道の速成
    第二節 京釜鉄道速成命令
     一、費用補助と社債保証
 - 第16巻 p.475 -ページ画像 
 明治三十六年秋冬の交東洋の時局愈々険悪の度を加ふるに及び、我が政府は外交上軍事上輸送機関の整備を必要となし同年十月末京釜鉄道の急設を行ふことに廟議一決し、十二月二日政府は曩に交附したる命令を改め、会社をして三十八年中に全線を開通せしめ、必要なる本線の延長若しくは支線の敷設に就ては、他日其の設計と資金調達の方法とを具して更に政府の認可を受くべきことを規定したるが、日・露の関係益々切迫を告げ、本鉄道の全通は到底曩の予定期限を俟つことを得ざるに依り、政府は再び命令を変更してその期限を短縮する事とし、之れに伴ふ諸般の準備を進むると同時に、十二月十六日尾崎・日下両取締役を召致し逓信次官田健治郎より鉄道速成案を内示して会社の意見を諮問した。然るに時恰も逓信省鉄道局長犬塚勝太郎は命に依り京釜鉄道工事視察のため渡韓し、竹内取締役も亦犬塚局長と行を共にし居たるが、召電により相携へて帰京したるより、同十八日田次官より更に内意を伝達したるに対し会社は熟議の結果同二十日竹内・日下両取締役を以て鉄道速成の件承諾の旨を政府に復申した。然るに政府は国家緊急の場合短時日を以て長区間の鉄道速成を遂行する事は一私設会社として到底至難の事業たるべきを慮り、会社の組織を改めて総裁以下の幹部役員を官選とし、一方会社の発行する債券に対し元利支払の保証を与へ又は其の敷設費に対し幾分の補助を為すを必要としたるが、次期帝国議会の召集を待つの余日無きため政府は財政上の必要処分として緊急勅令の発布を仰ぐこととなり、三十六年十二月二十八日枢密院会議に於て、京釜鉄道速成補助並に責任支出に関する御諮詢案全会一致を以て可決せられ、即日御裁可を経、勅令第二百九十一号を以て公布施行せられた。
○中略
 此の勅令に基づき政府は三たび曩の命令を改め、即日会社に対し遅くも三十七年十二月三十一日までに草梁・永登浦間の全線路を開通するの方針に依り、此の際更に工事速成の計画を立つべきことを命ずると共に、之れがため特に要する費用に充つため金百七十五万円を必要に応じて補給し、且つ已むを得ざる事由ある場合に於ては更に四十五万円以内を増給するの特典を与ふるの外、会社の発行する社債一千万円を限り政府が元利支払の保証を為すの義務を確認した。
○下略
     二、会社の陣容を一新す
○上略
 同日(十二月二十八日)大浦逓信大臣より鉄道作業局長官古市工学博士を京釜鉄道株式会社総裁に抜擢し、幹部役員も亦曩に逓信省官房長たりし仲小路廉及び嘗つて外務省・日本銀行等に歴任せる川崎寛美等の新鋭を加へて左の如く夫々任命せられたるが、会社創立以来尽瘁したる常務取締役日下義雄は此の時退職し、大江卓以下の各監査役は勅令附則に依り引続き監査役に在任することとなつた。
    総裁           工学博士 古市公威
    常務理事              仲小路廉
    同                 川崎寛美
 - 第16巻 p.476 -ページ画像 
    同          (常務取締役)竹内綱
    理事         (取締役会長)渋沢栄一
    同          (取締役)  前島密
    同          (同上)   閔泳喆
    監査役               大江卓
    同                 井上角五郎
    同                 小野金六
    同                 中山文樹
同時に会社は職制を改正して新に総務部を置き川崎常務理事を部長とし、其の他それそれ職員を任命し、玆に会社の陣容全く一新せられ諸機関の整頓を見るに至つたので、愈々速成事業に着手せむとするに当り古市総裁は左の訓諭を発して時局の重大を説き、一致協力献身奉公の赤誠を傾け其の使命に向つて邁進し、国家の期待に副はむことを社員に要求した。○下略


東京経済雑誌 第四九巻第一二一九号・第一七八―一七九頁明治三七年一月三〇日 ○京釜鉄道総裁の訓示(DK160077k-0003)
第16巻 p.476 ページ画像

東京経済雑誌  第四九巻第一二一九号・第一七八―一七九頁明治三七年一月三〇日
    ○京釜鉄道総裁の訓示
京釜鉄道会社にては工事速成の手配既に整ひたるを以て、久野技師以下五十名は工夫百四十七名を率ゐ、先発として去廿一日出立渡韓の途に上りたるが、古市総裁は社員一同へ左の訓諭を為したり
 京釜鉄道の速成は啻に日韓両国の利益上に於て必要なるのみならず今や内外の情勢は愈々其緊切を促がし、洵に一日を緩ふす可からざるの時機に際会せり、此を以て客年十二月緊急勅令を発せられ、政府は本鉄道速成の為めに社債金一千万円の元利支出の保証を為し、以て資金の調達を便にし、速成の為めに増額す可き費用の補給を為し、或は技術員を初め必要なる人員の補充に助成せらるゝ等、其他諸般の点に於て尠なからざる便宜を与へられたる上、遅くとも本年十二月末日迄には線路の開通を為すべきことを命令せられたり、重役一同に於ても此短日月の間に於て此重大なる任務を負ふこと固より容易の業に非ざるも、時局今日の場合到底遅疑す可きに非るを以て、一同断然意を決し、命令を拝受するに至りたる次第なれば、各員に於ても深く目下の時勢に鑑み、宜しく献身奉公の念を以て事に膺り、一致協力相互ひに誘導扶掖し、国家の為めに一日も速かに、開通の功を全せられんこと、深く希望に堪へざる所なり云々
吾人も亦総裁の訓諭の如く、今日の時局に顧み一日も早く開通の運に到らんことを希望して止まざるものなり、蓋し該鉄道は勢力の扶植上日韓の交誼上、暫時も猶予すべからざるものなればなり、久野技師人に語りて云く、余の目算にては期限短縮速成を見ること、多分八九月頃ならんと


雨夜譚会談話筆記 上・第三〇―三一頁大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK160077k-0004)
第16巻 p.476-477 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  上・第三〇―三一頁大正一五年一〇月―昭和二年一一月
  第二回 大正十五年十一月一日 於飛鳥山邸
先生「○中略井上○井上馨の心配で金が出来て其○京釜鉄道の工事は完成した。其時私は病気して居つたから、社長《(総裁)》には古市公威がなつた。穂積の
 - 第16巻 p.477 -ページ画像 
狂歌に(いそぎ候程に古市がして《(シテ)》となり)と云ふのがあつたが、これは京釜鉄道社長のことである。○下略
  ○第二回雨夜譚会出席者ハ栄一・敬三・増田・白石・高田・岡田。
  ○栄一ハ是年十一月二十一日ヨリ発病、翌三十七年二月末マデ臥床、三月六日国府津ニ転地、四月十五日帰京セルモ、四月二十七日再ビ発病シ、八月快癒ス。仍テ京釜鉄道株式会社ノコトニ与ラズ。
  ○古市公威ハ能楽愛好者トシテ知ラレタリ。


渋沢栄一書翰 木村雄次宛(明治三七年)一二月三一日(DK160077k-0005)
第16巻 p.477 ページ画像

渋沢栄一書翰  木村雄次宛(明治三七年)一二月三一日   (木村雄次氏所蔵)
○上略
京釜鉄道も一月より全通相成候由、永年之苦配漸く其効を奏し老生之愉快御察可被下候、但最終之事務ハ他人之手ニ成候も、右等ハ問ふ処ニ無之義ニ御坐候
○中略
  十二月三十一日
                     渋沢栄一
    木村雄次様



〔参考〕東京経済雑誌 第四九巻第一二一六号・第五―七頁明治三七年一月九日 軍備補充及京釜鉄道速成の緊急勅令(DK160077k-0006)
第16巻 p.477-479 ページ画像

東京経済雑誌  第四九巻第一二一六号・第五―七頁明治三七年一月九日
    軍備補充及京釜鉄道速成の緊急勅令
政府は旧臘廿八日、帝国憲法第七十条公共の安全を保持する為緊急の需用ある場合に於て、内外の情形に因り政府は帝国議会を召集すること能はざるときは、勅令に依り財政上必要の処分を為すことを得とあるに依り、勅令第二百九十一号を以て軍備補充並に京釜鉄道速成に関する財政上の必要処分を為せり、勅令の要領は左の如し
 軍備補充に要する経費支弁の為、政府は一時借入金を為し、特別会計に属する資金を繰替使用し、及国庫債券を発行することを得
 京釜鉄道株式会社の線路工事速成に必要なる資金の調達に便宜を与ふる為め、政府は同会社の発行する債券に対し、元利仕払の保証を為すことを得
 前項に依り保証すべき債券は額面一千万円を限り、其の利子は一箇年六分以下とし、其の元金は三箇年据置爾後五箇年以内に償還すべきものとす
 京釜鉄道株式会社に於て工事を速成する為特に要すべき費用の補償として、政府は同会社に対し百七十五万円を補助することを得
 但し已むを得ざる事由に依り、其の金額を以て本項の費用を償ふこと能はざる場合を生じたるときは、仍四十五万円以内を補助することを得
 補助すべき百七十五万円の財源に充つる為め、政府は一時借入金を為すことを得
 一時借入金又は国庫債券に附すべき利子は、一箇年六分以下とし、償還期限は一時借入金に在りては二箇年以内、国庫債券に在りては五箇年以内とす
即ち政府は此の緊急勅令に依り、軍備補充の為めには一時借入金を為し、特別資金を繰替使用し、及び国庫債券を発行するの権利を与へら
 - 第16巻 p.478 -ページ画像 
れたるものなり、軍備補充とは何ぞや、帝国の海軍力を増大ならしむる為め軍艦を購入するも軍備補充なるべく、韓国京城・釜山及び元山に於ける我が駐剳隊に増兵するも軍備補充なるべく、其の他動員令を発して、各師団を平時の編成より戦時の編成に改むるも軍備補充なるべく、要するに征露軍費を帝国議会に要求するに至るまでは、時局に関する軍事的経費は一切此の勅令に依りて処分することを得べきものなるべし、而して特別会計に属する夫の三種基金のみにても、其の金額は五千万円あれば、当分政府は財源に窮するの虞あるべからず、思ふに我が国民は必要なる経費は幾何にても支出し負担するを辞せざるべし、唯々其の効果の大なることを期せざるべからず
又政府は京釜鉄道速成の為には一千万円の社債に対して元利支払の保証を為し、更に百七十五万円と四十五万円との補助金を会社に下付するの権利を与へられたり、而して旧臘廿八日、勅令第二百九十二号を以て京釜鉄道会社重役の組織を変更し、即夜重役を左の如く任命せり
  総裁   古市公威   常務理事 仲小路廉
  常務理事 竹内鋼    常務理事 川崎寛美
  理事   渋沢栄一   理事 前島密
  理事   閔泳喆    監査役 大江卓
  監査役  井上角五郎  監査役 中山文樹
  監査役  小野金六
旧重役中尾崎三良・日下義雄・大倉喜八郎の三取締役は退任し、監査役は凡て従前の儘に据置けり、抑々京釜鉄道は卅四年八月始めて工事に著手したる以来今日に至る迄二年五個月の日子と、八百余万円とを投じて挙げ得たる成績は、全線二百六十余哩中開業せるは京城方面に於ては京城・水原間の二十一哩、釜山方面に於ては釜山・亀浦間の十一哩、合計三十一哩に過ぎず、全線路の敷設は前途尚甚だ遠しと謂はざる可らず、而して政府は先に卅八年末までに成功せしむるの計画を立てたりしが、今回は更に之を短縮して本年内に竣功せしむるの計画を立てたり、其速成計画に基ける本年の経費は社債一千万円に対する募集未済額六百万円を政府保証の下に募集し、別に政府より工事速成に伴ふ工費増加額として百七十五万円を補給し、五百万円は前期繰越と株主払込金に依ることゝし、此の総額千三百五十万円余を以て全体の工事を完成せしむる予定なり、而して鉄道作業局内の敏腕技師、特に各地出張所に於て実際の設計工事に著手しつゝある技師を選抜して同地に派遣し、大屋技師長監督の下に未だ精査を終らざる省峴・芙江間を主として、此延長百二十哩を二区に分ち、一区に各一名の技師主任となりて、其下に各六名の技師を置き、平均十哩位宛を分担せしめ、更に其下に各十八名の工事係及び同数の助手を使役せしめ、別に隧道・橋梁の如き特別工事の設計及び工事監督の為め技師一名、技手四名を置く筈なるが、目下従来の技師に依り工事に著手しつゝある釜山・京城両方面も全体の工事進捗する上に於て、大に其の設備を拡張せしむる必要あり、殊に全線中の最難工事たる省峴隧道の如きは、之が起工の緩急は材料の運搬と至大の関係を有し、工事に影響を及ぼすを以て、主任技師一名、技手四名を派遣し、新に鑿岩機を回送して工
 - 第16巻 p.479 -ページ画像 
事を急ぎ、遅くも六七月頃迄には開通せしむることゝなす筈なり、而して大屋技師長は測量隊を編成し、三月を以て全線の工事に著手する予定なるが、一年と云ふも冬期四ケ月は雪、夏期二ケ月は梅雨の為に工事を中止せざるべからざる有様なれば、実際の工事期間は僅に六ケ月位にして、此の短期間に全線完成を期するは極めて困難なるに、加ふるに釜山・京城の両方面共に運搬の便なく、洛東江・錦江何れも運搬用の船舶を容るゝに足らざれば、材料の輸送に就ては殆ど人肩を藉るの外なし、されば政府補給金百七十五万円の如き其の大部分は此の運搬費、並に将来不用に帰すべき仮橋梁架設費として交付するものゝ由にて、全体の工事に影響すること至大なれば、非常の決心を以て工事を急がざるべからず、工事未著手の部分に対し京釜鉄道現在の設計勾配六十分の一彎曲十五鎖を今回内地鉄道と同様勾配四十分の一彎曲十二鎖迄として設計することを許したるも、亦已むを得ざる次第にして、此等は完成の後漸次旧の設計に改むる筈なりと云ふ
抑々一たび露国の満洲に於ける経営の洪大にして永久的なることを視察せるものは、何人も露国が決して満洲より撤兵せざることを覚知すべし、況や日露交渉開始以来も露国は続々海陸の軍備を増加したるに於てをや、然るに我が政府は之を看過したるものなれば、開戦は到底已むを得ずと雖、我が外交は失敗に失敗を累ねたるものと謂はざるべからず、又京釜鉄道の成否は戦闘艦一隻を購入するよりも、一師団を増設するもより更に重要なる関係を有するものなれば、其の速成を図らざるべからざるや固より論なしと雖、兵火将に相見えんとするに臨みて俄に其の速成を企図するは、恰も盗賊を捕へて後に縄を造るが如し、是に於てか前記緊急勅令案の旧臘廿八日枢密院に諮詢せらるゝや外交及び京釜鉄道に関し川村伯・蜂須賀侯及び青木子等より続々政撃的の質問を発せられ、近年に稀なる活劇を演じ、政府当局者は殆ど答弁に窮したりしと云ふは蓋し事実なるべし



〔参考〕朝鮮鉄道史 朝鮮総督府鉄道局編 第一巻・第一六三―一六九頁昭和四年一〇月刊(DK160077k-0007)
第16巻 p.479-481 ページ画像

朝鮮鉄道史 朝鮮総督府鉄道局編  第一巻・第一六三―一六九頁昭和四年一〇月刊
 ○第一編 第四章 京釜鉄道の速成
    第三節 会社の経済
     三、新設計に要する予算
 会社は三十六年十二月二十八日の命令に基づき速成工事に着手するため鉄道技師工学博士大屋権平を入れて工事長とし、更に新計画を定めて精密なる設計及び之れに要する予算を調製したる処興業費総額二千九百五十万円に達し、資本金二千五百万円速成費補助金百七十五万円及び特別補助金四十五万円を以てするも尚ほ二百三十万円の不足を生じ其の調達容易ならざりしため三十七年七月五日其の補給を政府に請願し、且つ将来必要なるべき線路の改良は営業費を以て之れを施行するの認可を求めた。然るに政府に於て更に之れが審査を為したる結果、会社提出の新予算に対し七十一万三千九百八十一円を削減するを得たるも尚ほ当初の予算に比して三百七十八万六千十九円の増加を免れず。而して此の工事費の増加は線路速成(此の増加費用二百十万二千三百六十六円)と戦役に伴ふ物価騰貴(此の増加費用百六十八万三
 - 第16巻 p.480 -ページ画像 
千六百五十三円)とに原因するものにして其の必要は実に已むを得ざるものであつた。然るに三十六年勅令第二百九十一号を改正して再三補助金の増額を為さむことは政府の責任上之れが実行を困難とする事情あり、されど全部其の費額を会社の負担とせむか会社は資金調達の途なきため工事を遂行するを得ざるべく、利息を附して返済せしむる条件を以て一時貸下げを為すとも会社は将来に於て利子の負担に苦しみ延いて其の基礎を危くするの虞れがあつた。一考案としては会社に増資を行はしめ其の増加株式は政府に於て之れを引受け、明治三十三年九月二十七日附命令書に依る配当補給期間は之れを無配当とするの方法なきに非ざるも、臨時事件費を以て一私立会社の株式募集に応ずるは事頗る穏当を欠くの嫌ひありしに依り、結局政府は三十七年八月十三日百五十八万円無利子貸下げの指令を与ふるに至れるが、其の貸下げ条件は大要下の如くであつた。
 一、政府の貸付すべき金額は百五十八万円にして無利子とす
 二、明治三十七年七月一日より起算し五箇年間据置、爾後毎半期に五万円を返納すべし
 三、会社が其の利益を以て払込金に対し年六分の配当を為し剰余あるときは先づ社債利子に充当し、次に払込株金に対する二分を控除し尚ほ残余ある場合に於て五万円を限度として返納し、若し其の残額五万円に満たざるときは其の不足額を繰延ぶることを得
 四、年賦償還期間内に於て前項に依り毎期五万円の返納金を控除し尚ほ利益の過剰ありたるときは、三十三年九月二十七日附命令書第十条に依り其の過剰の一半を政府に納付すべし
    第四節 速成工事
     一、工事著手と其部署
 会社は工事施行に関しては臨時建設部を草梁に置きて速成作業全般を総括せしめ、三十七年一月二十三日従事員に関す規程を設け、建設事務を工事・材料購買及び材料配給の三に分ち、工事長に大屋権平、購買長に元京仁鉄道支配人足立太郎、配給長に会社技師長笠井愛次郎を配して各係を管掌せしめ、従前と同じく永同(停車場北端)を中心として南北両部に大別し、更に之れを十工区に分ちて工事を進むる事とし、建設事務所は草梁、永登浦の外新に南は大邱、北は鳥致院(後大田に移す)に設け、又同月二十六日永登浦及び草梁の両汽車事務所を工事長の管下に属し材料輸送の円滑を図つた。而して速成命令下附当時に於ける工事未着手の区間は省峴・芙江間百二十一哩にして同区間は三十六年七月既に其の実測に着手し十二月結了せるものなるが、速成工事を施行するためには更に改測をなすの必要を認め、直ちに之れを行ひたる結果先の実測に比し二哩五十一鎖の延長を見ることとなつた。
 やがて三十七年一月末此の至難事業の実際に当るべき技師久野知義同岡村初之助其の他の職員日本内地より来着し、久野技師は北部、岡村技師は南部の工事監督の任に就き、同三月改測の終了と共に次の如き部署に依りて工事に着手し、従事員は昼夜兼行鋭意努力して作業の
 - 第16巻 p.481 -ページ画像 
進捗を図つた。
○中略
 工事は着手以来異常の進捗を示したるも朝鮮の特徴たる雨季に於ては河川の氾濫のため多少の被害を免れず、加ふるに暑気酷烈なりしため従事員中罹病者続出して勢ひ工事の進行上影響を及ぼすべきを憂慮せしめたるも、当年の降雨量は例年に比較して割合に寡く、工事監督者を初め従事員一同の奮励と韓人労働者が能く温順にして指揮者の命に従ひ作業に服したる結果と相俟ちて工程意外に進捗を見、岡村技師の監督せる南部班は三十七年十月分担の工区たる省峴・永同間の工事を竣へ、更に永同・深川間六哩六十四鎖を北進して、当初の予定期限に先だつこと五十日なる三十七年十一月十日を以て、京城起点百二十七哩四十二鎖(深川停車場の南端)に於て南北軌条の聯絡接合を見るに至り、この重大なる時局に直面して京釜鉄道速成の至難事業を敢行し、国家の期待に副ふことを得たのであつた。
  ○京釜鉄道工事ノ着手順序・区間・距離・起工竣工年月ハ次ノ如シ。(昭和四年刊「朝鮮鉄道史」第一巻・第一八三頁ニヨル)

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 着手の順序    区間      距離     起工竣工年月                    哩鎖      釜山方面 自草梁   一〇、三三  三十四年十月起工 第一着手      至亀浦          三十五年十月竣工      京城方面 自永登浦  一一、四八  三十四年九月起工           至鳴鶴洞         三十五年十二月竣工      釜山方面 自亀浦   二六、三五  三十五年八月起工 第二着手      至密陽          三十六年十二月竣工      京城方面 自鳴鶴洞  二二、五〇  三十五年九月起工           至振威          三十六年十月竣工      釜山方面 自密陽   二五、四〇  三十六年四月起工 第三着手      至省峴          三十七年四月竣工      京城方面 自振威   四八、〇九  三十六年五月起工           至芙江          三十七年七月竣工 第四着手 釜山方面 自省峴   七七、三二  三十七年三月起工 (速成区間)    至永同          三十七年十月竣工      京城方面 自芙江   四六、一九  三十七年四月起工           至永同          三十七年十一月竣工      釜山方面 自釜山     、七八  三十八年十二月起工 第五着手      至草梁      京城方面 自永登浦   五、二〇  三十八年三月起工但し南大門停車場及一二の橋梁は三十六年七月起工三十九年一月竣工           至南大門 



  ○明治三十八年一月一日草梁・永登浦間全線開通シ、同年五月二十五日京城南大門停車場構内広場ニ於テ開通式挙行サル。昭和四年刊「朝鮮鉄道史」第一巻(第一八四―一九〇頁)参照。



〔参考〕日下義雄伝 同伝記編纂所編 第二六九頁昭和三年三月刊(DK160077k-0008)
第16巻 p.481-482 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕大浦兼武伝 香川悦次松井広吉共編 第八三―八四頁大正一五年三月再版刊(DK160077k-0009)
第16巻 p.482 ページ画像

大浦兼武伝 香川悦次松井広吉共編  第八三―八四頁大正一五年三月再版刊
 ○第六章 逓信大臣時代
    (六)
 京釜鉄道の速成は、日露戦役準備の一にして、卿の苦心また頗る大なるものあり、此の計画は、三十六年臘末の臨時閣議に於て決定せる所にして、当時京釜鉄道会社の新設すべき広軌線、全部二百七十哩の内、南端及び北端より、各三十哩は既に竣工したるを以て、工事中なる九十哩を急造し、更に残る百二十哩を一ケ年間に竣成せしむるを目的とし、資金としては会社未払込株金に相当する社債を募り、又速成に要する増資は、国庫より之を補ふこととし、又会社重役を官選として、工学博士古市公威氏鉄道作業局長を総裁に、竹内綱・仲小路廉中途より任官せしに付足立太郎氏之に代る川崎寛美の諸氏を常務理事とし、渋沢男・大倉喜八郎・閔泳喆の三氏を理事とす、当時経費の支出困難なりしも、更に至難なりしは工事とす、即ち鉄道作業局より有為の吏員・職工・工夫を選抜派遣したるも、未だ実験なき広軌鉄道を国外の遠域に急造するがため、卿の苦慮小ならず、三十七年九月には、自ら山之内一次鉄道局長・野村竜太郎逓信技師工学博士・堀貞秘書官の諸氏を随へ、古市総裁・大屋工事長権平氏工学博士を東道として工事を巡視し、到る処に出張員及び工夫を鼓舞し、備さに困苦を喫したりと云ふ○中略
 京釜鉄道の速成工事九十哩は、幸にして其の年天長節に至て開通し最大難工事たる省峴隧道長サ四千尺も、十二月五日開通したるを以て、三十八年一月一日全線営業を開始し、五月二十五日伏見宮博恭王親臨、京城南大門停車場に於て開通式を挙げ、卿も自ら之に臨めり○下略



〔参考〕東京経済雑誌 第四九巻第一二三〇号・第六八九―六九五頁明治三七年四月一六日 朝鮮の鉄道(上)(経済学協会に於て演説) 男爵尾崎三良君演説(DK160077k-0010)
第16巻 p.482-488 ページ画像

東京経済雑誌  第四九巻第一二三〇号・第六八九―六九五頁明治三七年四月一六日
    朝鮮の鉄道(上)(経済学協会に於て演説)
                   男爵 尾崎三良君演説
前回に御約束申上げて置いたことでございますから、少しばかり御清聴を煩はします、尤も私は甚だ演説などゝ云ふことは訥弁で極めて御聴き苦しくありませうが、左りながら実際彼国に数々行つて多少自ら研究して参つた事でございますから、又御耳新しいこともあらうかと思ひます、今晩は段々田口君・木村君なども御演説がある趣でございまして、私共は却つて御邪魔になることでございますけれども、先つ後に真打が控えて居りますから、一つ前座として先生が出て来る間此席を涜す訳であります、どうぞ暫く御耐忍を願ひたい
韓国の事は近来追々我が日本国に取ては緊要な問題になりまして、諸君も是に御注目なされ、又追々渡韓して実地目撃した人もありますから、私が喋々申述べぬでも大概の事は御承知であらうと思ひます、併
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ながら此鉄道の事を御話をするに就ては、多少向ふの有様を少し申して置かぬと御分り悪いこともあらうと存じますから、少しばかり此韓国――特に韓国朝廷の有様、並に其役人共の事情を少しく御話をして置きたいと思ふ、実は韓国の人間は容貌骨格其他我が人種に能く肖て居ります、或学者の中には素と同人種であるといふ位に言ふて居ります、私共もさうであらうと思はるゝことが沢山あります、然るに古来其政治上の違ひからか、どういふ訳でありますか、其実際働く総ての事はまるで違ふ、殆ど我々の想像に及ばぬ位の違ひさであります、まあ其事を一々申せば余り長くなりますから成るべく省きます
先づ此朝鮮の君主といふ者はどんなものであるか、是はまあ近頃皇帝と自ら称して居りますが、君主の権といふものは所謂真の独裁であつて、もう政府の事から宮中の事から何から何まで君主が悉く躬ら指図する訳で、殆どまあ近く申せば台所の味噌醤油のことまで君主が指図するといふ位ひといふ有様で、尤も何々大臣とか言つて夫々役名は備つて居りますけれども、之に任ぜるといふことは一向無い、まあ勝手の善い時は、それは外部大臣に聞いて呉れとか、内部大臣に聞いて呉れと言ふが、其実は悉く君主の指図通りである、それ故に大臣などは位には備つて居りますけれども、自分の知らぬ内にいつの間にやら皇帝の命令で以て事が行はれて居るといふことが幾らも有る、其一例を挙げて見れば、近来白銅貨のことに付ては人民は非常に弊害を受けて居ります、成程白銅貨といふものを始めて韓国で発行することになつたのであります、典圏局《(圜)》といふものが出来て其処で日夜造つて居りましたが、是は御承知の通り僅か原価が七厘か八厘であつて之を五銭に通用するから非常な利益である、そこで典圏局《(圜)》では国王の手許に這入る利益が少なくない、去りながら是でもまだあきたらず、色々の人に内々言付けて白銅貨を鋳造することの免許を与へるのであります、現に日本人なども内々で皇帝の特許を得て大阪辺りに於て造りました、それで近来は殆ど価が半価になりました、五銭の物は二銭五厘位です、それでも原が七厘か八厘で出来ますから非常な利益がある、其一例を挙げて見ますと、先づ玆に百万円白銅貨の鋳造を許されると、其内五十万円は皇帝に差上げる、残り五十万円は自分で勝手に売つて宜しいといふやうな特許を得る、それは度支大臣も知らぬ、外部大臣も知らなければ、内部大臣も知らぬ内に、皇帝が御印を捺して私鋳権を許されて居る、さうすると先づ手附として千円なり二千円出して、今度は大阪で盛に鋳造してそれを彼の石油の箱に入れたり、或は俵の内又は種々輸入貨の箱の中に入れて輸入する、先づ一万円白銅貨が出来ると五千円だけ皇帝に上げて残り五千円は売るといふやうな訳でありますから、其内には又皇帝の特許を得ずにして居る奴がある、頓と其真偽が分らぬ、でまあ此弊が非常な影響でありまして、殆ど今日一円で約束した品物をもう十日か二十日経つと、白銅貨で一円払はれゝば其価は五十銭よりせぬといふことがある、それゆゑに非常に喧しくなりまして、日本でも緊急勅令が出て、日本人にして外国の貨幣を模造した者は罰するといふやうなことが出ました、それで韓国の皇帝から特許を得たものなら、是は不正な物で無い、一国の君主といふ者は貨幣を
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鋳造する権利を有つて居りまして何人に言付けても構はないからして果して偽造やら本造やら分らない、是は日本人ばかりでは無い、他の国の人も大分やつて居りますけれども、日本は土地の近く交通の便宜があるから其事が仕易くて多くする、まあそんなこともありまして、一向其役人が沢山揃つて居つても知らぬ内に、皇帝が善い加減のことを言付るやうなこともあります
それから近来問題になつて居ります森林伐採の件、是なども丁度私が明治廿九年に京城に行つて居りましたが、其時分にいつの間にやら露西亜人何某といふ者に、此鴨緑江地方の森林伐採と植附ける権を与へるといふやうな条約が出来ました、それはまあ私も其時分聞いて居りましたから当時是れは随分大変だからとして本邦へ通信した事もありましたが、其頃は誰しも余り心にかけなかつたと見えて輿論にもなりませなかつた、然るに此節に至りて始て起つた事のやふにさはぎ出しました、大躰外交の事はこんなものと見えます、しかし露国も其儘暫く其事を実際行はずに居つた、尤最初此権利を得た者は本統の露西亜人で無い、瑞西人か何かゞそれが為めに態々露西亜に帰化して、露西亜人の其名義になつて其特許を得た、所がまあ一向他の役人は知らぬ一向条約は得たが其儘にして居つて、去年に至つてそれを露西亜人が実行してドンドン材木を伐出して、竜巌浦に於て其材木の置場や何かを拵えたので段々是は不当の事をすると言つて取調べると、ちやんと条約に材木を伐出すこと、之が為め必要の土地を貸し与へるとか何とかいふことが書いてある、実は余り厳しく言へぬといふやうなことになつて居る、さういふやうな訳で君主といふ者は非常な権利が有る、それゆゑに大臣は一向どんな事をしやうが責任は無い、銘々其責を逃れやうとする、それから又一度び君主の気に入ると非常な登庸を得て権利を得る、それゆゑに皆君主の御気に入りさうなことを持つて行つて言ふ、それが都合好く御気に入ると直ぐに登庸して権利を与へる、それゆゑにまあ何んでもない宮内省の属官――判任官みたいな者でも何か御気に入ることを言ふと、直く御側に寄つて物事をする、大臣などは知らぬ内に其奴が色々の事をするといふやうな話になつて、夫々大臣なり係役人が有りながら知らぬ内に事が行はれるといふやうな訳で、又此大臣も色々の党派がありますが、其色々種類の変つた者を列べて置いて、さうして国王は窃かに又別の者を自分の心腹に入れて、どの党派にもひどい権利を与へないやうな趣向をして居る、それで以てまあ国王は自ら策の得たものとして居るのです、それ故にどうも日本で言ふやうな忠君愛国といふやうな精神が極く乏しい、まあ殆ど無いと言つて宜い位であらうと思ふ
それで其癖国王は非常に金を望ませらるゝ、向でも国王の気に入つて権利を得たいと思へば、金の儲りさうなことを持つて行くと気に入る近来李容翊といふ人が非常に権利を得てまあ色々他の大臣から是を斥けやうとして考へてもどうしても斥けられない、それはどういふ訳であるかといふと始終国王の利益になることを持込む、典圏局《(圜)》も李容翊のやつたことです、色々人民に利益のことを与へて遣ると賄賂を持つて来る、さうすると皇帝に先達て特許を与へられました者から斯うい
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ふ物を持つて参りましたと言つて差上げると、ホクホク喜んで自分の手箪笥へ入れて置かるゝといふやうな有様で、此李容翊といふ人はそれが長所です、自分は少しも取らないといふやうな訳で、兎角君主の弱点に附け込んで気に入るやうになつて、勢力を得やうといふやうなことばかり考へて居る、それから又地方官の任免などに至りますると皆金で買ふといふやうな訳で観察使・郡守又開港場に監理官といふ者がありますが、観察使などはまあ一万円二万円或は良い所の観察使になると三万円も出さなければなられぬといふ事であります、それから又開港場の監理官、まあ釜山の近傍に東莱府といふ所があります、是などは釜山を管轄して居りまして非常に利益になります、それで此東莱府の監理官などは二万円出してやつと監理官になつたと云例もあります、又郡守なども安い所が三千円、多い所は五千円といふやうな事です、そこで此郡守なり監理官なり又観察使なりが、何故そんなに金を沢山出して為るかと云ふに、是に任命されて其処へ行けば政府へ出す租税は極少なくて、人民から勝手次第に取り、そうしてそれで以て自分の懐ろに入れると云ふ訳になる、そこで余計人民から取れる官程まあ高いといふやうな訳で、是は随分ひどい話でありますから、日本などで聞いて見ると実に嘘のやうな話でありますが、実際其通りで、それ故にまあ日本で此朝鮮の国を改良するとか、行政を改良するとか云ふと第一にこんな事を止めなければならぬといふことは先以て人の脳裏に浮ふ、所がそいつが一番禁物で、そいつを廃めると言つたら忽ち王さんの気に入らない
此前廿七八年の戦争後、まあ彼の時は勢力を得て居つて清国を悉く逐出して仕舞つて、殆どまあ日本の権利に属して居つたから、何事でも日本の言ふ通り否でも応でも従はなければならぬやうになつた、それで内政に立入つて色々の事を改革しやうとした故に非常に日本人は嫌はれた、まあ是から何れ斯ういふことが起らうと思ひますが――今度も全く日本の言ふことを聞かなければならぬ事になつたから、若し此前やつたやうに内政にまで立入るといふことになつたら、又再び失敗しはせぬかと甚だ私共は懸念するのであります、兎角我国は古来外国と戦争して勝軍をしても外交政略で失敗すると云ふ例がある、先豊臣氏の征韓はあの通り八道を蹂躙したが外交の拙策で全く其功業を滅却した、又廿七八年の役も戦には全く勝たが、外交上の拙策より対韓政略では全くゼロで、鉄道事業の外何物も残らず、又此度も戦には勝には定て居るが、又候外交上にて失敗しはせぬかと、甚だ掛念に堪へない、此事に付別に意見もあるが是は他日諸君と共に研究することゝして今日は先此鉄道のことに付申し上たいと思ひます、廿七八年の戦争では全く朝鮮といふ国は、我邦の勢力の範囲内に属したのでありまして、其時に色々顧問官とか何とかいふ者が行つて沢山やり掛けたが、一も今日残つて居るものは無い、唯今日残つて居る物は唯一の鉄道事業であります
此鉄道事業は明治廿七年の戦争があつて、支那人を逐出した跡で朝鮮国と我邦と締結した条約があります、其条約は暫定条約、即ち暫く定めるといふ条約、其暫定条約の中には、何やら色々の箇条が有ります
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が、其重もなる箇条の中に京城より仁川に至る鉄道、京城より釜山に至る鉄道、此二つは将来日本政府又は日本臣民に於て之を経営すべしといふ条約が有る、所が今申す通り色々内政の事には無暗と立入つたけれども、肝腎な鉄道のことは一向手を着けて居らなかつた、若し此時直ぐに鉄道に手を着けて居つたならば、もう京釜鉄道――京城より釜山に至る鉄道は疾うに出来上つて、今日は非常な便利を得て居るだらうと思ひます、頓と其方には手を着けなくつて、唯此行政の事とかいふものは日本流にやらうとして、却つて実利実益になる事は先づ捨てゝ居つたやうな気味があります、所が是は其後も段々論がありまして、諸君も御承知の通り朝鮮に対する政略といふものが変つて、一時はまあ終に北守南進といふやうな論が有つて、もう北の方の事は捨てて仕舞つて、南の方を重んずるが善いといふ説が熾にあつた、そんな事があつて色々のまあ外交上の手違ひといふか謬といふものがありまして、日本が段々嫌はれて、終には明治廿八年の末か又は翌年の春であつたか、終に朝鮮国王は露西亜の公使館に這入り込んで仕舞つたやうな訳で、それからといふものは全く日本の勢力といふものは地に堕ちて仕舞つて、何事も露西亜の公使に聞かなければ出来ない、さうして廿七八年にあれ位大騒ぎをして、数億の金を使ひ数万の人命を擲つて贏ち得た所の勢力が、僅かの為めに全く朝鮮ではゼロになつて仕舞つたといふ訳で、然る所が明治廿九年の五月か六月頃に至りまして、亜米利加人のモールスといふ者が、朝鮮国より此京城から仁川に至る鉄道即京仁鉄道敷設の特権を得たといふことを聞きました
一体此暫定条約に京仁鉄道・京釜鉄道は日本政府又は日本臣民に於て敷設するといふ条約が有りますから他国臣民に之を特許するといふことは、殆ど条約違反と言つても宜い位のものでありますから、其当時日本政府から韓国政府に詰問したことがある、此暫定条約にある京仁鉄道を何故亜米利加人に許したか、斯ういふ詰問をした、さうすると向ふの申分には成程暫定条約はあります、左りながら其条約を結んで以来殆ど三年になる、無論三年にはなりませぬけれども丁度足掛け三年になります、然るに未だ貴国政府、若くは臣民に於て著手をなさらぬ、此条約は所謂暫定――暫く定めたのであるから永遠に拘束される義務は無い、是に於て自ら手も着けず他にもやらせぬといふのは無理ではないか、それで亜米利加人に許した、尤もこんな返答は韓人自ら言ふ気遣ひは無い、何れ尻押が有つて言はせたに違ひ無い、所が又聞く所が京釜鉄道もどうやら他国人に許しさうな……其頃仏蘭西人が京城に行つて頻りに運動をして居るといふことで、それは仏蘭西人のグリローといふ人である、是は私も面会した、御承知の通り彼の三国同盟の一国であります仏蘭西は、それ故に露亜西の公使に依つて頻りに運動して、京釜鉄道の敷設権を得むことを主張して居る、我々は之れを聞いて甚だ憤慨に堪へぬ、此京釜鉄道をも外国人の手に取られたならば、全く日本の勢力といふものはもう韓国に於ては何にも無いといふことになつて仕舞ふ、是では成らぬ廿七八年にあれだけの騒動をやつても何の為めにも為らぬ、是非是だけは喰留めなければならぬといふ論があり、我々有志家の内で相談をして政府にも段々申しました
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政府は中々今の北守南進論といふものが熾で、そんなことはやりさうも無いから、我々人民で之をやるが宜いといふことを主張いたしまして、其頃幸い百五十余人の賛成者がありまして、丁度明治廿九年の七月でございましたが、日本橋倶楽部で発起人総会を開ました、終に其総会の決議に依つて一面は政府に建白して、是非此鉄道は我邦で経営しなければ今に外国人に取られて、再び我邦に収めることは甚だむづかしい、若し是を取られたならばもう韓国に於て我が勢力は残らぬことになるのであるから是非やらなければならぬ、で我々が発起を致しまして京釜鉄道会社といふものを設立して之を経営することに致したい、就ては韓国政府に此事を我々が行つて請求する、就てはどうぞ我政府から其事を韓国政府に紹介をして貰ひたい、斯ういふことをまあ請願いたしました、所がそれは善からう、まあ其時に色々論もありましたが、まあそれだけの事はやるが宜からうといふことで、其時丁度発起人総代として選ばれたのが、私に大阪の大三輪長兵衛君、此二人で渡韓することになりました、又一面には其頃全権公使に任ぜられた原敬といふ人が出立する、此原敬氏に能く言ふてやるからと云ふことで、丁度其年の七月の十三日でございました、私が東京を立つて彼方へ行きました、原敬君は私共と二三日前後して彼方へ参りまして、向ふへ行くや否や全権公使に依つて其旨を朝鮮政府に紹介して貰ひ、それから原氏と私と大三輪氏と三人で外部衙門に行きまして外部大臣李完用といふ人に出遇ひまして、此度び我々が京釜鉄道会社を発起して此鉄道を敷設することを経営したい、是は既に明治廿七年の暫定条約で我邦の政府、若くは臣民に於て之を経営するといふことになつて居るから、無論御異存はあるまいと思ふが、それに付てはどうぞ特許条約を致したい、斯ういふことを申込みました
所が其時外部大臣が申されました、それは無論の話で、あれだけの条約が有る以上は之を我国で拒む道理はありますまい、左りながら私一人で此御即答を申す訳には行きませぬから、尚ほ皇帝に申上げ、又同僚とも相談の上に確答を致しますと申しました、是は大変都合が好いと思ひました所が、其後五日経つても十日経つても、何たる返詞が無い、屡々催促しますと、今日は寄合が出来なかつたとか、皇帝に申上げられなかつたとか、何とか彼とか口実を設けて一向確答をしない、それから此方の条約……又其モールスの京仁鉄道の特許を得た時は皇帝へ五万弗献上したといふことがある、それで此方は此通りにせなければならぬと言ふでは無いが、其特許条約に准じ何程か都合のよき修正を加へ之を原案として提出し尚ほ是に修正意見が有るなら直ぐ言ふて欲しい、どうか速に許可条約を取極めたい、といふことを申込んだが、唯請け込んで一向返詞をしない、其内一方から段々其頃の内情を立入つて探て見ると中々むづかしい、丁度御承知の通り皇帝は露西亜の公使館に居られる、中々日本人に許しさうも無い、又各大臣――外部大臣もどうも皇帝に申上げられない、日本の事を言ふと忽ち逆鱗に触れるといふので申上けられない、併しさうは言へないから、いつでも何とか事を仮托けて唯延ばして居る有様である、段々公使から迫り我々から迫り、種々雑多に迫つた所が、漸く二月程経つて向ふの言分
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には、何分今南方は東学党が蔓つて穏かならぬ、それゆゑに此南方の京釜鉄道敷路に方る地方に此事を始めたならば、忽ち日本人と朝鮮人との衝突が始つて、両国の平和を害するやうにならうと思ふから、どうぞ暫く待つて呉れいといふ返答であります、其時段々話しました、決してそれは心配に及ばない、今此特許を得たからと言つて直に着手する訳では無いから、特許を得て構はないぢやあないかと言つたが、何分まあ待つて呉れ皇帝が露西亜の公使館に居られるので何とも致し方が無い、然る所が其時外部大臣李完用が申すには、今此事は早速貴方へ御許し申すことは出来ぬが、併ながら之に依つて外国人の請求を拒絶することが出来ました、それゆゑ外国人には決して許しませぬから、それだけはどうぞ御安心下されい、と申しまするのは前にも申上げました仏蘭西人のグリローといふ者が行つて居つて、頻りに京釜鉄道敷設権を得たいといふことを、私共が行つた当時露西亜の公使に依つて迫つて居つた所が、韓国政府では随分持余して許さなければなるまいと思ふ位であつたが、其時は既に日本と条約をしてあるから是はどうも他に許せないと言つて見た、所がそんなら京仁鉄道はどうである、あれも日本と条約が有るけれども今度亜米利加人に許した、シテ見れば是を今日許さぬといふ謂はれは無いと云ふので、殆ど之を拒むに言葉無くして困つて居つた、併し此亜米利加人に許したのは、日本で一向着手しさうも無かつたから許した、京釜鉄道は現に今日本人が来て請求して居るから、今日許す以上は彼の方へ許さなければならないといふので、仏蘭西人の請求は拒絶することが出来ました、是は全くあなた方が御出でになつた為めに之を拒絶することが出来たのであるから、今日あなた方の御望み通り特許は出来ませぬが、他の国にもう許さぬといふことだけは確かになりました、それだけはどうぞ御安心下されいと言ふ位のことで、成程其仏蘭西人のグリローには、私も会ひました、所がグリローはもう京釜鉄道といふものは日本人に先鞭を附けられたので、仕方が無いから終に義州線といふものゝ権利を得やうとした、義州線は御承知の通り京城より義州に至る所の線路であります、さういふ訳で何とも其時急に運ばぬものでありますから、致し方がありませぬで私共は此京釜鉄道発起人代理人といふ者を京城に置きまして一旦帰朝いたしました、其代理人は即ち五十八銀行支配人に託しまして、是を等閑にして置くと又どんな事をせぬとも限らぬから、月に一度づゝ出来ても出来なくても韓国政府に催促することにしました、彼の事はどうである、あれはどうするといふことを絶えずやるといふことにして置きました、それでまあ一時中止して居つたです
(以下次号)



〔参考〕東京経済雑誌 第四九巻第一二三一号・第七三六―七四〇頁明治三七年四月二三日 朝鮮の鉄道(中)男爵尾崎三良君演説(DK160077k-0011)
第16巻 p.488-494 ページ画像

東京経済雑誌  第四九巻第一二三一号・第七三六―七四〇頁明治三七年四月二三日
    朝鮮の鉄道(中)
                   男爵 尾崎三良君演説
所が此間に京仁鉄道の事が起つて参りました、京仁鉄道は愈々日本人の手に取らなければならぬといふ議論が此間に起りました、其始めはどういふことかと申しますと、確か明治三十年即ち其翌年のことであ
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つたと思ひます、小村外務次官より――其時分には、次官でありました、私に面会したいと言はれましたから、其官邸に行きますと、此頃亜米利加のモールスと云ふ人が京仁鉄道を韓国政府より特許を得て経営し掛けて居る、是を日本人の手に取つたらどうだ、是はどうしても日本人の手に取つて置かぬと、非常に他日困ることが出来ると思ふ、又京釜鉄道事業の上にも此線路が外国人の手に在ると非常に困ると思ふ、斯ういふ話でありました、それはどういふ訳かと云ふと、モールスも実は自分にそれだけ金が有つてやる話では無い、亜米利加へ帰つて亜米利加の資本家を説いてやる積りであつた、所が亜米利加では朝鮮といふ国はどういふ国で、果して京仁鉄道に利益が有るものであるか一向分らぬ、それゆゑに資本が出来ない、そこでモールスは非常に困つて居る、所か此モールスの条約といふものは、契約の日より一年内に工事に着手し、着手の日より三年内に全線を完通するといふ条約で、此期間が若し後れたならば此条約は無効になるといふことになつて居る、そこでモールスが条約したのは明治廿九年の五月か六月でありますから、三十年の五月までに是非着手しなければ其権利を失はなければならぬ、それで亜米利加から技師を傭ふて着手して居つた、所が金が続かぬものでありますから、是を日本人に売りたいといふことでありまして、外務次官に話したものと見える、それで今なら随分相談が仕宜いがといふことでありました、それから京釜鉄道発起人の重もなる人と相談を致しますと、そりやあ是非一つやらうぢやあないかといふことで、其頃相談したのが渋沢・前島・中野・大江・竹内といふ人が五六名寄つて相談をして、是非是れは一つ我邦に取りたい、是を取らにやあどうも他日困ると云ふから、渋沢あたりに三井・岩崎あたりを説いて貰ひました、迚も是は僅か二十六哩余の鉄道であるけれども、我々の手で是を買ふことはむづかしい、是非先づ資本家に相談をして、資本家が奮発して呉れなければと云ふから、あこらの連中に話した所が、中々彼の先生達が容易に応じて呉れない、何とも致し方が無い
それから其時の内閣は即ち松方内閣でありまして大隈伯が外務大臣でありました、是はまあ両伯共非常に此事を主張されて、政府の目的は日本人の手に取らなければならない、又大隈伯は一体三井・岩崎は金を持つて居ながらこんな時に奮発しなけりやあ役に立たないぢやあないかと云はれたがそれにはちがいないが、中々我々が言つても容易に応じて呉れない、それから終に一日大隈伯の官舎へ重もな人を招かれて是非一つ是はお前方が奮発してやらなけれはならぬといふ説諭を受けたです、其時に出席したのが三井・岩崎から代理者――本人は出ませぬ、益田とか或は荘田平五郎の両人が出て来ました、それに渋沢・大倉・安田・原六郎などゝいふ人が何でも十名ばかり出て来まして、さうして例の大隈伯の雄弁で殆ど権柄づくといふやうな具合で是非やれといふやうな具合であつた、所が実は此時の事を今日の時局に引当てゝ考へると、殆どまあ寒からずして肌が戦慄する位の心持が致します、と云ふものは是を日本で躊躇して居つたらどうであります、日本人は之を引受る事は出来ぬとなつたらどうでありませふ、亜米利加人
 - 第16巻 p.490 -ページ画像 
は何んでも金を出す人に売り渡すに違ひない、若し是が露西亜の手にでも渡つて居つたら非常な困難であらうと思ふ、所が幸ひ此時大隈伯からの説諭に依つて、資本家も是を買受けやうといふことになつた、所が随分資本家に取つても此時はやり苦しい場合であつたらうと察せられます、何金は僅かで、資本が二百万円位で、銘々が奪発すれば十万円かそこらで、三井・岩崎といふ連中に取れば何でも無い、併ながら此時は諸君も御承知の通り随分閣外に朝鮮の鉄道に反対する人が甚だ有つた、それゆゑ懸念して居つたらうと思ふですが、終に当時の内閣の言ふことでありますから、それに従ふことになりました、尤も此時の此資本家の考は、決して是で利益を得やうといふことは毛頭思はなかつた、詰り国家の為めに幾らか献金でもする積りで掛つたのであります、此時に段々此線路を取調べた者も有り、又実際此線路を私共も一遍通つて見たのでありますが、中々利益が有りさうにも見えぬ、誠に寥々たるもので、旅客貨物などで迚も営業費だけも償へまいといふ論がありました、私も一遍通りましたが、道は非常に悪い、殆ど修繕したことも無い、道があるやら無いやら分らぬ所を、轎に乗つて通りましたが、私が行つた時は丁度朝の七時に仁川を立ちまして京城へ夕方の七時に着くといふ訳で、其間妙な四人舁の轎に乗つて従者や荷物・通弁等は皆馬にて附いて居る、僅か京城から仁川まで日本里数にして九里であります、其間をまるで一日掛りました、途中に漢江といふ大河があつて渡船が二隻しかないそれで一行十人斗り渡るには初に渡る船がかへるのを待たねばならぬ、それゆゑ此渡しを渡るのに小一時間掛るといふのでやつと京城に着いた、其時の入費がどうであると申しますと、私共は極質素にして行つたですけれども殆ど十二円位掛りました、デ其旅の間に出遇ふ旅人といふ者は極僅なもので、まあ十人と出遇つたか出遇はぬ位であるから、是へ迚も鉄道を敷いても営業費は償ふまいと言ふ位でした、併ながら私の考では、鉄道が出来たらもう少し往来も多からう、貨物も来やうから、営業費が償はぬことはあるまいが、迚も資本に対し五分の利益六分の利益はあるまいから、損をせぬやうにやらなければならぬといふ考で掛つたのであります
それからまあ此資本家が寄つて、どういふ方法にして是を買収しやうかといふ相談を致しました、所がまあどうしても此人達が一のシンヂケートを作つて、さうして買ふといふことにしやうぢやあないかといふことの相談が纏りまして、それからモールスに段々交渉を致しました、其交渉の事を専ら担当しましたのは渋沢さんであります、終に交渉の結果米金百万弗で買はう、売らうといふことになりました、それは丁度三年の後に全線完通して、機関車何台、客車が何台、貨車が何台、是に相応する物を添へて百万弗で引渡さう、斯ういふ約束になつた、其時手附として十万弗、我が二十万円であります、此先き此契約不履行の場合に於ては――買手が不履行の時は手附金はお流れ、若し売手の方モールスが是を不履行をした時は、其十万弗にもう十万弗添へて此方へ寄越すといふ相談であります、其条約の中にはまだ色々の約束があります、其工事の間は此方から技師を出して監督させる、ひどい粗造な事をされては困るといふやうな箇条もある、偖此シンヂケ
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ートに誰が這入るといふことに付て色々議論がありまして、結局まあ十五人に割当てやう、二百万円を十五人に割当るといふことになりました、其内で三井の方から三つ分這入る、岩崎の方から三つ這入る、渋沢が一つ、大倉が一つ、安田が一つ、原六郎が一つ、原善三郎といふ人があつたと思ひます、それから大阪から一人入れるが宜いといふので松本重太郎を入れるといふこと、それから私共にも這入れと言ふ所が私共は迚もそんなえらい資本家と一緒に這入ることは到底出来ないから、それだけは御断りをすると言ふた、所がそれはいけない、 体貴様達が言出して、さうしてこんなひどい目に遇はせる、そふして肝腎の貴様達が今更いけないと云ふて逃るといふ事は出来ないといふえらい厳しい話で、併しそれは誠に無理なことで、比丘尼に何とやらで到底無理な訳でと段々話をした、終に話合の結果我々七人して一人分持たうといふことになりました、其七人は前島密・私・竹内・大江卓・大三輪長兵衛それから中野武営・三枝守富といふ人がある、此三枝といふ人は大隈伯の代理者といふ積りで、大隈伯に私も斯ういふことになりましたから、あなた方も、一つ這入つて貰ひたいと申した所が、それはお前方がさういふことなら私が名を出すのは困るから、私の代理者を出さうと云ふので三枝と、此七人で一つ這入りました、併ながら七人が皆持つ訳に行かぬから、前島氏を我々の総代として出すことになりました
そこで初め二十万円、手附金として皆なに割附けて我々も幾らか出しました、デ是で条約を取換せました所が、一年も経たぬ内に、彼のモールスから百万円金を貸して呉れいといふことを言出した、どういふ訳かと云ふと、亜米利加から技師を傭つて事業に着手したが、どうも金が足らぬから、どうか百万円貸して呉れなければ事業を進行することが出来ない、それからシンヂケートの連中が寄り会してどうしたものだらう百万円金を貸せと言ふ、でモールスの言ふには決して唯借りやうと言ふでは無い、三年の後まで相当の利子を出すからどうぞ貸して呉れ、所がそれはどうも約束とは違ふ、出来上つた上は金を二百万円遣つて、鉄道はすつかり此方の物とする、出来上らぬ内に百万円でも五十万円でも貸すといふことは出来ないといふ論があつた、所が其ことをモールスに言ふと、モールスが斯う言ふ、そりやあもう出来ぬと仰つしやれば致し方が無いから、私はどうも罰金を十万弗出して此条約を破るより外仕方が無い、それはどういふ訳かと云ふと、実は他に買手が出来た、もつと沢山出す買手が出来たのである、併ながら是は初めからあなた方と御約束がある、是より余計になつてもあなた方が履行さへして呉れゝば無論他へは遣らぬ訳である、けれども奈何せん今我々の方でも百万円の金は無い、それでは已むを得ず此条約を破棄して、条約の所謂手附金と、十万弗を出すから止して呉れと言ふ、さあそれから又会合して相談してどうしやうと言ふことになつて、随分中には仕方が無い罰金を取つて止さうぢやあないか、さうすれば僅か一年経たぬ内に手付金が倍になつて来るといふやうな話もあつた、所が我々が主張したのはそれは我々共の初めの精神といふものはさういふ訳では無い、是は是非日本人の手に取らなければならぬと云ふの
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で掛つたことで、決して、儲けをしやうといふことから掛つたのではない、かう如何程金が儲からふが外へやる事は出来ぬといふた、併し金が無ければ仕方が無い、お前等が金を出すか、そりやあ、迚も出来ない、それぢやあ仕方が無いぢやあないかと言ふやうなことで、そんなら先づどうぞ暫く待つて呉れ、どうとかするからと云ふので大隈伯の所へ駈附けて、斯ういふことになりました、是はうつちやらかして置くと余所へ取られて仕舞ふかも知れぬといふ話をすると、そいつは困つた話だが、何でも余所へ取られぬやうにしなければいかぬ、それぢやあどうかしてやらなければいかぬといふので、終に百万円政府から無利息で貸すといふことになつて、終に此シンヂケートが百万円借りて、それをモールスに貸した訳であります
それから段々事業が進行して往く内に、又もう八十万円貸せと言ふ、どうも勢ひ止めれは向ふに取られるといふので、又是も先の流儀で政府へ頻りに泣附いた所が、どうも仕様がない八十万円出せと云ふことになつて、是は諸君御承知でありませうが、百八十万円無利息で貸したといふので、其次の議会で事後承諾を求めた所が、其時は格別議論も無く議会では滞り無く承諾をしたやうであります、其時の話を聞きますと、星亨なども其時委員であつて、大隈伯は我々の反対者であるが此仕事は能く出来たといふことで、是を承諾しやうぢやあないかと云ふことで承諾になつた、右の如く金を借りてはモールスに注いでやらせる、所が又一面には、此方から技師を出して向ふの工事を監督して居る、所が向ふの工事といふものは極粗末な工事で総てが亜米利加流で、固より建築の上は此方に引渡すのだからといふ気味がある、日本から出て居る技師は此方の手に入れる物だと云ふ考がある、技師と技師と銘々考が違ふ、それで毎日毎日向ふの技師と衝突して一向事業が運ばない、モールスも喧嘩ばかりして事業が運ばないで三年では出来上らない、出来上らぬと此方に罰金を取られるし、困つた話だ、又此方も実に困つた話で幾ら監督して居つても、此方の思ふ通りには出来ぬですから、寧そ此処で御互に事業の部分を区別して、是までは是だけといふやうに、区別をして是で引渡さうぢやあないかと云ふ論が調ひまして、終に工事を途中から此方へ引請ることになりました、其出来た所は何処まで出来て居りましたか、そこは宙に覚えませぬが何でも中途で此方へ引取りまして、さうして此方の手ですつかりやりました、土工や何かも粗造な所は悉くやり直しました、又橋桁の台なども元の台では何でも低くて、洪水の時は忽ち橋が支へるので、何でも十二尺か何ぼー上へ上げました、又煉化なども初めの予定より余程高く築きました、それゆゑに先づ完全の物が出来たと云ふて宜しい、それで初めは二百万円で済む積りでありました所が、どうもそれで足らないで終に二百二十七八万円掛つた訳になつて居ります、そこで其内百八十万円政府から借りて居ります、それからシンヂケートで出した金が四十七万二千円何ぼーになつて居る、それで出来上つたのです、此線路は全線仁川から京城まで二十六哩半であります、是に今申した二百二十七万円掛けて居りますから、一哩八万三千五百円程になります、此間に漢江の鉄橋がございまして、此鉄橋の長さが二千尺ござい
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ますから、随分是には掛つて居ります、是ばかりでも三十八万円程掛つて居る、それで土地は極平坦で、トンネルは一つも無い、又土地買収の費用も要らず、土地は韓国政府から唯得ましたといふことであります、それゆゑにもうちつと廉く出来なければならぬのが、八万三千余も掛つたといふのは随分割合に高く附いて居る、それで是はモールスが幾らか儲けたといふことであります、縦令少々は儲けられても是が我邦の手に帰したといふのは、今日に於ては、非常に我邦の利益であらうと思ひます、まあ此京仁鉄道は我が日本人が海外に事業をした殆ど初めと言ふて宜からうと思ひます、幸ひに非常な好結果を得まして昨年あたりは一哩の収入が二十二三円に上つて居る、所が此度の開戦後には三十五六円から四十円、時としては五十円以上に上ることがあるさうでございます
是を昨年の営業報告に拠りますと営業費を差引いて十三万円程利益が残つて居る、今年は十五六万円は残らうと思ひます、デ、此鉄道は初め殆ど営業費を償ふまいかと心配した位のものが今日は斯の如き好結果を得て、啻に商業上利益上の結果としてもまあ非常な好結果を得たと云ふて宜からうと思ひます、又是から若し京釜鉄道と連絡さへすればまだ殖えやうと思ふ、是を二百三十万円として六七分は毎年儲かるだらうと思ふ、斯の如く単に商業上の点から見ましても、此鉄道といふものは非常な好結果を得ます、所が今日は軍隊輸送の為めに非常に便利を得て居る、まあ此度京城へ上つた兵隊が一師団あつたさうですが若し此鉄道が無かつたらどんなものでありませう、道路は今申す通り険悪の所があり、おまけに隅田川を二つ合せたやうな川があります是を陸行して軍隊が行くと言つたら、どないにしても三日掛ります、其上途中に宿舎をする家も無い、野営をせにやあならぬやうな訳でまあ非常な困難であらうと思ひます
又万一是が外国人の手に這入つて居つたら如何であります、もう一層適切に言へば是が対手国の手に有つたとしたならば、迚も今日の如き機敏の働きは出来まいと思ひます、シテ見れば此鉄道といふものは非常に我邦に取つて功を為したと言つて宜からうと思ひます
此事に付て想ひ出したことがあります、先年千田某といふ人が広島県知事をして居りました時分に、宇品の築港をされました、其宇品の築港は政府から幾らか補助がありましたが、県費を以て重もにしたといふことであります、所が初めの予算より非常に高く附いて、其当時県地の人民からも非常に攻撃があり、政府でもどうも余計な事をして金を使ひ過ぎたとか何とか云ふことで非常に此千田といふ人は不首尾でそれから到頭広島から宮崎県へ転任された、是はまあ鹿児島の人ですから免職にならずに済んだといふことで、それがまあ宮崎と云つては御承知の通り僻地で、広島から宮崎では貶謫の意味を含んで居るといふので、非常に不首尾不名誉の地位に在つた、所が二十七年に兵士が出立するのに宇品の築港が非常に役に立つて、此時どうも千田は非常に先見があるといふので、是れ全く千田の功であるといふので、それが為千田は男爵に叙せられ、勲等も一等進んだといふことがある、シテ見ると此京仁鉄道なども、是は我田に水引みたいな論といはれるか
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もしらぬが、随分千田に劣らぬ功を為し居ると思ふ、此鉄道はどうしても僅かの距離でもあるし又我が日本人が海外に於て仕事をして居るのに、京釜鉄道と同じ様な事を別々にやつて居るといふことは甚だ妙ではないか、合併するが宜からうといふので昨年合併の相談が起りまして、終にまあ買収することになつて京釜鉄道と合しましたが、京釜鉄道と合した代価が六十四万円、是を其シンジゲートの出資者に支払ひまして、それから百八十万円といふ政府の借金は是を二十ケ年賦に返還する、其借金は、其儘京釜鉄道に負担するといふことになりました、そこで此シンジゲートの人は四十七八万円出して六十四万円でありますから随分好き利益に当りますが、併し今日となつては京釜鉄道は此合併の為めに非常な利益であります、それで此京仁鉄道の株主は非常に是を売ることを惜んで、動もすれば止めやうといふ論もありましたけれども、何分政府に百八十万円の恩典を受けて居る、其政府の説諭を受けたので承知しましたが、売る方では非常に惜み、京釜方にも随分高過ぎると云議論もありましたが我々は何でも今の内に合併して置かないと、後には益々むづかしくなるだらうといふ考がありました、果して其通り今日は非常な好成績を得て居る
今此精算を見ますと六十四万円、其上に政府へ上納金といふものが幾らかあります、それは十一万円か幾らかありますが、此金は社債を起して支弁しました、此社債は年々まあ減らして行く積りで、今の所ではちよつと宙では覚えませぬが、七十何万円かの借金があります、それに百八十万円は二十ケ年に政府へ返して行けば宜いので、今日ではカツカツ一杯に元金を返して行かれます、それで段々返して行きまして、殆ど二十年経てば政府の金も返し、此借金も皆返して仕舞つて、京仁鉄道といふものはまるで金無しで京釜鉄道の財産になるやうになります、是は非常に京釜鉄道に取つて利益の物になります、是までは京仁鉄道のことであります(以下次号)



〔参考〕東京経済雑誌 第四九巻第一二三二号・第七八四―七八七頁明治三七年四月三〇日 朝鮮の鉄道(下ノ一)男爵尾崎三良君演説(DK160077k-0012)
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東京経済雑誌  第四九巻第一二三二号・第七八四―七八七頁明治三七年四月三〇日
    朝鮮の鉄道(下ノ一)
                   男爵 尾崎三良君演説
是から京釜鉄道の続きを少しく述べますが、京釜鉄道の事業といふものは丁度前に申上げました通り、明治二十九年に端緒を開きまして、韓国に於ては当時丁度露西亜が勢力を得て居る時でありますから、何とも致し方が無い、所が其内に韓国に於ても段々変革を来しまして、何分露西亜の国は自分の権内に属したものでありますから、非常に圧迫して、何でも彼でも露西亜が権勢づくめに圧附けるといふことになつたものですから、韓国皇帝も非常に嫌やがつて、是は矢張しまひには露西亜にどんな目に遇ふか知れない、又其内に日本派の人が有つて善い加減に露国公使館を御引揚げなさい、一国の君主として公使館に御居でなさるのは怪からぬといふことを段々と奏上する者もあつて、終にまあ露西亜の公使館を出て自分の宮殿へ還られることになりました、所が丁度それは明治三十一年で、其時の全権公使は加藤増雄といふ人であります、其頃も矢張大隈伯が外務大臣でしたが、矢張頻りに
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公使に向つても此京釜鉄道の権利を早く取るやうに尽力せよと屡々訓令せられ、さうすると其年の九月に愈々露西亜は恐ろしい、まだ日本の方が宜からうといふ論が段々行はれて、さうして此京釜鉄道の特許権を得ることになりまして、京釜鉄道発起人代理が向ふの農商工部大臣と条約を取換はせました、それが今日の京釜鉄道の起つた根本になつて居ります
其条約に拠りますと、停車場及線路敷地は悉く韓国政府より無代価で下渡す、それから総て此鉄道に属する物品土地何に限らず鉄道に属する物は無税といふまあ特権を規定してございます、それから此鉄道は調印の日より三ケ年内に着手する、それから十年以内に、全線完通する、斯ういう箇条になつて居ります、其他にも色々箇条はありますが重もなるものはそんなものです、所が丁度其箇条が出来て、偖是から愈々やらなければならぬといふことになりました所が、御承知の通り明治三十一年の暮から三十二年三年といふものは金融が非常に逼迫の時であつて、株券なども皆下落して居る、諸君が御承知の通り郵船会社の株などでも四十五円か六円位になつて居る有様で金が無い、どないに安い利息でも一割は出さなければならぬ、少し高ければ一割二分も出さなければ無いという時であります、仲々新規の事業には金を出しさうも無い、そこで是は迚も尋常一様ではいかぬ、政府の保護を受けなければ迚も成立たぬ、それから当時の総理大臣山県侯爵に建白をしまして、此京釜鉄道というものは、我が権利として取つたのであるが、此事が出来ぬ以上は我々発起人の不面目は勿論の話である、それのみならず日本の不面目である、若し是が出来ず、万一其内に条約の期限が過ぎて権利が他の国の手に遷る様な事があらば如何である、それこそ日本といふ国は韓国に勢力が無いやうになる、然らば是は我が手で成立せしめにやあならぬが、それには今日の場合どうしても株主を募ることは出来ない、是は是非政府の特別に御保護を得なければならぬということ段々請願いたした、所が山県総理大臣も、それは尤もだ、どうか是はせにやあならぬ、其当時の内閣は松方伯が大蔵大臣で桂伯が陸車大臣といふ訳で、皆我々の同論であつたのです、是非是れは一つ成立たせにやあならぬといふ意嚮は充分にあります、それゆゑに我々も力を得て充分奔走した、所が随分是に反対の論者が閣外に有つたです――随分有力なる反対があつた、それゆゑに仲々急に運ばない、が兎に角是はやるものとして、先つ線路の踏査をしやうぢやあないかといふことになりました
それから大江卓氏が技師を連れて線路を踏査されました、それが明治三十二年の春であります、さうして一面には政府に向つて是非会社を成立する為めに保護を受けたいと熱心に運動をしました、所が今申す通りの次第で、政府には充分にやらうといふ考はありますけれども、仲々急に運ばない、それからまあ丁度三十三年の春でした、諸君も御記憶でありませうが、是はどうしても議会から一つ促さうといふことで、衆議院でも貴族院でも、京釜鉄道は国家必要の事業であるから速成せしめなければならぬが、政府は宜しく相当の保護を与へて之を成功せしむべしといふ建白をしまして、続いて海外に於ける鉄道を敷設
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する会社に対して勅令で以て商法の除外例を設くることを得るの法律案を提出し両院とも之を議決しました、そこで政府も是だけ両院一致した以上は、もう是はやらなければならぬといふことで漸く政府に於ても決意せられた
それから併しどういふ具合にして是を保護したら宜からうということで、余程是は細密に渉らねばならぬ、又濫になつてもいかぬといふので、政府に於ては京釜鉄道商議委員といふ者を拵へ、大蔵・外務・逓信三省から此人を出しまして、京釜鉄道発起人と此委員と交渉しまして、斯ういふ具合にしたら宜からう、あーいふ具合にしたら宜からうと、成るべく都合の好いやうなまあ審査を致しました、其内に踏査はしたけれどもまだ実測をしないから、早く実測せぬといふと此条約期限の三年以内に着手することはむづかしいから、実測に出掛けたが宜からうといふことで、まだ政府の特許保護条件は極らぬけれども実測しやうといふので、其時大江・竹内・大三輪の三氏に笠井技師が出ました、是が技手といふやうな者を大分連れて行きまして実測を致しました、所がまだ会社は成立たぬものですから、もう之に要する金が必要である、此時に五万円位の金はどうしても用意せにやあならぬといふことで、我々発起人が責任を以て第一銀行から五万円の金を借りることに致しました、さうして此実測を致しました、其内に政府に於ても此方の創立委員の我々と協議の上漸く保護条件が極りました、其保護条件の重もなるものは、十五ケ年間株金に対して年六分の利子を補給する、それから又社債を募る場合には社債に対して年六分の補給を与へる、斯ういふことになりました、其他色々の箇条もありますけれども、重もなるものはそれです
所が是は金のことですから議会の協賛を経なければならない、依て此補給の件は議会の協賛を経て始めて有効とするの条件を附したる命令が下つた、それは明治三十三年の九月山県内閣が更迭する四五日前、辞表を出す際に是をやつた、次の内閣は伊藤内閣です、所が山県内閣の引継を受けた所が斯ういふことがある、是はどういふものであらうといふ随分論もあつたけれども、仕方が無いといふことで渋々それも承諾をされたものと見えます、それから愈々政府の特許条件も極つたから、株主を募つて会社を設立せにやあならぬ、斯ういふことになりました、所が仲々まだ当時といへども六分の利息で満足する者は誰も無い、まあ御承知の通り明治三十三年頃は日歩三銭とか二銭八厘とかいふ時分でありますから、仲々年六分位で誰も株に応ずる者は無い、然らば金融の裕かなる時節を待つかといふに待つ訳には行かぬ、三年以内に着手しなければならぬ、是非やらなければならない、何でも国家の為めであるからと頻りに説諭を致しましたが、何分東京では纏らぬ、といふものは随分有力家の反対があるものですから大きな華族などは容易に動かない、第一毛利・島津両家などは一つも株を持たぬ、それから他の大きな大名華族などへ行つても、毛利さんなどが国家の為め率先してやりそふなものたといふ訳で、皆首を傾けて一向応じて呉れないといふ有様であります、是は迚も東京ではいかぬから地方へ出やうといふことになつて、我々は地方へ行つて頻りに国家事業とい
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ふことを説きました、まあ私は其時中国を受持つた、岡山・広島・山口等へ参りました、日下氏は京阪及東海道地方を受持ました、それで地方へ行つて話しました、是は国家事業である、それを政府がしないといふことはそれには色々の事情があつて外交上の都合などもある、それゆゑに六分の補給がある、若し此事が成立たぬ時分には、二十七八年にお前等の兄弟、其他在所から段々戦役に出て色々討死した人もあり、金を沢山投じたりしたことが皆無効になる、朝鮮といふ国は終に余所の国に取られて、終に其余波が我国の独立も危険に陥り飛んでもないことになる、それであるから是非是は国民の義務として此株を持たなければならぬ、多く持つには及ばない、一株でも、二株でも宜い、国家に尽す念慮があるなら各々分に応じて持つが宜いと説いた、所が案外地方では応じました、所が最初十万株募れば宜いのに二十一万株から応募者がある、其時発起人が三万三千三百株でありまして、是れは減ずること出来ないでそれを差引いて後十七万何千株といふ内から、其残り六万何千株を募入することにしたものですから、殆ど申込の三分の一を募入しまして、余は皆返して仕舞ふといふのでございます、実は此時分一方には金利が一割もするといふのに、六分の補給で是だけ出来たといふのは、畢竟国家の為めといふので、地方の人民も感動されたことゝ見えます、終に明治三十四年の四月中に一株に付て五円づつの払込を促したのが十万株に対し五十万円です、御承知の通り株といふものは、さう期限通り屹度払込むものでありませぬ、五月・六月と掛つて漸く五十万円集りました、六月の下旬に創立総会を開いて会社を設立することにして、我々は取締役に選挙されました
所が三十三年の九月に三ケ年の期限を以て着手する条約を締結してありまして、韓国へ我々即ち竹内と予と両人が渡りましたのは七月中旬であります、所が韓国へ行て先づ以て停車場用地、線路用地を韓国から引受けなければならぬ、此事に付ては随分骨を折りまして仲々容易に纏らなかつたのをやつと纏めて、丁度京城から六里程ある所の永登浦といふ所で起工式を行ひまして、始めてそれから着手するといふことになりました、それは三十四年の八月二十日でございます、丁度其年の九月八日になれば期限になりますので、僅か半月かそこら程前にまあ着手することになりました、そこで無効になるの災難を免れたのであります、其起工式の時には我公使・領事其他重なる官民各国の公使・領事も喚び、又韓国の大臣などは皆喚びました、又皇帝から御名代と云つて皇族が出て来る、随分盛にやりました、それからまあ其九月に至りまして、釜山の方面からも着手するといふことになりまして此方も同じく起工式を行ひました、両端から追々やつて行くといふことになりました
こゝでまあちよつと此鉄道の概略を申上げた方が宜しかろうと思ひますが、此鉄道は初めて踏査した時には二百八十七哩といふ予定でありましたが、其内に段々実測の結果、彼方を縮め、此方を縮め致しまして、現今では二百六十九哩になりました、それから随分トン子ルも沢山ございまして、一番長いトン子ルは三千九百六十尺、それから二千尺、千五百尺のは幾個もある、二三百尺のトンネルは余程沢山ござい
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ます、河は大きなものが三つ程ございますが、まあ漢江、是は京仁鉄道の橋を利用します、それから洛東江《ラクトウ》、それから錦江といふのがあります、此二つは大河で、是も鉄橋が入用で、随分此京釜鉄道工事といふものは容易な場所ではありませぬ、けれどもまあ極難工事といふのでもない、中庸位のものであらうといふことであります、所が此資本金の集りましたのは今申す通り僅か五十万円でありますから、仲々是で以て進んで行くことはむづかしい、其時此五十万円の内既に十五六万円程といふものは使つて居る、と申しますものは創業の為めの費用として五万円程使つて居ります、それから先刻申しました実測等の為めに七八万円使はなければならぬ、其他皇帝とか韓国の大臣あたりへ贈物をした、それ等に十五六万円の金を使つて居る、本統に事業に使ふのは僅か三十四五万円でありまして、到底足りませぬから復た三十四年の冬に全国に向つて第二回の株の募集をするといふことになりました、其時私は韓国から九月に急いで帰つて十月に又出掛けました、私が受持つたのは富山高岡から福井・石川・敦賀・岐阜・滋賀・和歌山・奈良それから高知・徳島・高松・丸亀・松山・宇和島・今治・西条・岡山・高梁・広島といふやうな訳でまあずつと廻りました、此時には三十万株を募集するといふことでありました、所が三十三万五六千株出来ました、是もまあ非常な好成績でありました、此度は別に減らさぬといふ予告をして置きましたのです、之に対し五円つゝの払込をさせて是が百六十六万円余、之を前のに合せまして二百十余万円の金が出来た、是でまあ段々進行いたしました
所がまあ此間に仲々之を進行するに付ては非常な又故障があつて韓国の宗廟に近い所を通ることはならぬとか何とか云ふことで、中には親露派といふ露西亜に親しい派があつて、日本の事業と云へば何でも妨害するといふやうなことで非常な面倒なことがありますが、まあそれを一々申上げますと長くなりますから此辺で略して置きます(未完)



〔参考〕東京経済雑誌 第四九巻第一二三三号・第八三四―八三八頁明治三七年五月七日 朝鮮の鉄道(下の二)男爵尾崎三良君演説(DK160077k-0013)
第16巻 p.498-503 ページ画像

東京経済雑誌  第四九巻第一二三三号・第八三四―八三八頁明治三七年五月七日
    朝鮮の鉄道(下の二)
                   男爵 尾崎三良君演説
終に明治三十五年十二月に出来上つて汽車を運転し初めたのが京城の方面で十一哩、釜山の方面で十一哩、二十二哩程出来ました、デ此ことばかりで言へば非常の緩慢で、一年経つて僅か二十二哩といふのは……随分それで誹もありましたが、初めの内は中々むづかしいのです
別して此京城方面になると外国人の持つて居る地面、又日本人の持つて居る地面などは中々容易なことでは議論が纏りませぬ、韓人の持つて居るのは理窟も何にもない圧制でドシドシやりますが、外国人の持つて居るのと、日本人のは中々そんなことではいけない、まあさういふ訳で非常に時日を費しました、京城を離れると韓人ばかりですから極く事が為し易い、それからまあ一昨年より引続き昨年へ掛けて段々出来ました、昨年の冬中に出来たのが丁度ちよつと五十哩程出来て居ります、合せて双方から七十一二哩出来て居ります、其上昨年の春か
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ら取掛つて土工をやつて居ります部分が先づ七十哩程あります、是は今年追々出来上つて今年の五六月頃鉄条を敷設することに致してあります、是が出来上るとちよつと百四十何哩が出来ます、さうしますと百四十何哩残つて居る訳でありますが、是は元来――三十八年には出来上るといふ予定であります、尤も私共は成るべく早くしたいといふ積りで、それと同時に株主に払込を促さなければなりませぬが、それもむづかしいから外債を募つてやりたい、尤も政府も初めからさう考へて、外債でも起す時には必ず政府が元利の保証に立つといふことは殆ど黙契になつて居つたのであります
そこで一昨年の四五月頃でございました、渋沢氏が欧米漫遊に行かれる、丁度好い機会であるから、英国辺りの資本家に就て一つ外債の話をしやうといふことでありました、それからどうしても外国人に話すには、政府の保証が無ければ京釜鉄道会社はどんなものであるか分らぬ、朝鮮に鉄道を造るからと云ふだけでは到底外国人は応じない、是非政府の保証をして貰はなければならぬと云ふので段々政府に其事を交渉しました、所が政府もそれは是非やるから倫敦へ行つたら其事を一つ相談するが宜いと斯う言ふ話しでありました、それから渋沢氏がそれでは一つ相談して来ませう、併ながら愈々保証をして下さるといふことが明言が出来ぬと困る、そりやあするのだから其積りでやつて行つたら宜からう、所がまあどうも是までの例に依ると其間に政府が更る、又誰が異論を言つたといふやうなことで、折角相談はして来たか政府の保証は出来なかつたと云ふことになると実にそりやあ我々が困る、又自分も其だけの位置に在る以上はそんなその子供が使に行つたやうなことは出来ないからそれだけに極りが附いたら、どうか書附でも貰ひたいといふことを渋沢氏が言ふと、書附を遣らぬでも己れの言つたことは信じて呉れたが宜いぢやあないかといふ話で、此間に於て渋沢氏は極多忙の中で十分手を尽されました、此政府の顛末及閣議の情況等詳細なる事は暫く明言する事は見合せ他日又委しく御話しする、余り内部の事に立入り過ぎるの嫌あるに依り機会もあろふとぞんじますが結局兎に角一つ相談して来い、そこで出来るやら出来ぬやら分らぬのに、政府で保証するといふことは早計だか先づ彼の地で相談の上、出来そふにあれば電信をよこせ、其時返電をやればそれが立派な証拠になるではないかとの事、まあ不充分の話であるがどうも仕様が無い、それより上のことは出来ないといふことで、まあ一つ行つて相談して見るといふことで、それから之を相談するに付ては京釜鉄道はどういふものか知らせぬければならぬといふので、俄かに定款を翻訳したり、政府の命令を翻訳し、それから韓国の特許条件の翻訳――悉く英文に翻訳してそれを持つて行きました
其時それでは愈々出来さうなら電報を寄越せ其電信に返電をやれば夫れで立派な証拠でないかといふことになつた、随分それは容易ではありませぬでした、それから彼方へ行かれまして、丁度倫敦へ着いた時は七八月の暑い時分でありましたが、向ふの人に話をすると政府で保証するなら応じもしやう、それから五分で九十何ぽんどいふ位で大抵纏りさうである、そこで政府へ電報を遣つた所が一向返電が無い、幾
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ら経つても返電が来ない、そこでまあ我々の所へも渋沢氏から斯ういふ電報を遣つて居るが、あれの返電をきかなければ私は余所へ行くことも出来ぬで困るといふから、我々も政府へ交渉談判をしました、あれは何とか返電を遣つて呉れぬと困る、それは、今遣る訳には行かない、今に閣議がある、明日閣議に掛けると云ふやうな話で、翌日行くと又何とか彼とか言つて居る、そんなことで到頭一月程掛りました、其為めに電報はまあ随分沢山往復して、電報の料だけでも随分使つたといふ話である、所が結局もう今それは極められぬといふ話(大笑)兎に角まあ其話は止めずに何時でも継続の出来るやうにして帰れといふ位の話です(大笑)まあ仕様がない、脅迫する訳にも行かず、是だから困るといふやうな訳で、渋沢氏も其冬何でも十月か十一月に帰りまして、実に困つた、夫れが為め暑い最中倫敦で一ケ月斗ホテルで立往生と云有様かなわぬとかいふ話で渋沢氏も是には余程迷惑せられた趣、泣く子と地頭の譬への如く泣ね入りといふ外仕様が無い、若し其時に外債でも出来たならば、それは一昨年の夏ですからどんな仕事をして居つても――今日出来ぬでも今年中位には出来上る事に成て居るに違ひない、所がそんな訳で行違つて出来ない、それから去年の春でしたか此論が段々世間に広まつて、どうも政府が保証に立つの千万円の裏書をして余所から借りるなんてそんな不都合なことは無い、日本国内でそんなことはやるが宜い、千万円位のことを政府が保証をするなんてそんなしみつたれたことは無いとか、成程議論は至極ですか出来やあしない、到頭まあ是非政府から保証するといふことにして貰ひたいといふことで一昨年の冬でした俄に喧しく言つた、それから命令が出来て千万円まで保証する、所か此社債は日本興業銀行が発行してさうして京釜鉄道に貸附ける、斯ういふのでこいつは困る、それも政府から利息さへ余計出して呉れゝば宜いが、政府から出して呉れる補給は六分で、興業銀行が中へ這入れば此中から幾らか歩合を取られるからして何も興業銀行が中へ這入る訳は無いといふ議論があつて、世間でも喧しくなつた、興業銀行が何の為めに其中に這入るかといふ議論が世間で喧しくなつて、終に政府も拠ろなく興業銀行といふことを削ることになつた、そんなやうなことで昨年五月臨時議会があつて、其臨時議会でも興業銀行を削る削らぬといふことに付ては随分喧しい論がありました、それでまあ閣外の有力者の内でも、興業銀行を何の為めに中に入れるかといふことの論があつて、終に削ることになりまして其命令が改正になりました
さうして昨年の五月にそれを出すといふ所が、五月には兎に角むづかしいことを言つてゴタゴタ言ふので、政府がそれを出さぬ内に議会は閉会になつて、到頭社債も出来なくなつた、それから大蔵大臣が日本銀行へ殆ど命令的に、是非京釜鉄道の社債に応ずる様に尽力せよといふことで、此時分にも政府の保証が無ければならぬといふやうなこともありましたが、結局日本銀行が中に入て尽力したのであるから政府が保証をした訳である、それから四百万円もあれば此年一杯はそれで済む訳で、其中にもまだ色々に論かありますが、終に昨年の八月でしたか、四百万円だけ各銀行を集めて社債に応ずるといふことになりま
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した、十五銀行・三井銀行・三菱銀行・第一銀行・第百銀行・安田銀行・第三銀行・帝国商業銀行・興業銀行それから正金銀行其他横浜左右田銀行等が銘々に別けて、少ないのが二十万円、多いので五十万円といふ訳で、皆分けてやつとまあ去年の八月の末でしたか出来ました
それまでまあ事業をやつて居つた所が、それにした所が何でも早くしろといふことでありましたが、幾ら早くしても明治三十八年一抔でなければ出来ない、第一トン子ルを今やり掛けて居る省峴のトン子ルが一番長いのであります、是は三千九百六十尺ある、丁度是は去年から掛つて去年一抔に二千二百尺斗穿た、今年の十一月には貫通する積りそれが貫通しなければ向ふへ行くことは出来ない、それを無理にやらうとすれば山上を行かなければ行けない、同時に非常な入費倒れで、是を貫通して行くといふ趣向になつて居りました、所が昨年の十二月押詰つてから、時局切迫して来たから是非三十七年中に此線路を仕上げろ、是を三十七年中に仕上げるに付てはどうしても臨時に特別の入費が掛るであらう、それには政府は百七十五万円余掛ければ出来るといふ調であるからそれでやれ、それだけの金は政府から補助する、それから社債千万円は丁度昨日(三月二十五日)衆議院で事後承諾になりました、二百九十号でしたかの勅令、あれで以て社債の保証を与へると云ふことになりました、それと百七十五万円の補助を与へる、是でまあ是非やれと云ふです、是までの設計は幾らか変へて宜しい、是までの設計は六十分の一急勾配があります、余は多く百分の一になつて居る、それも四十分の一までは縮めても宜しい、又曲線も十五鎖になつて居るが、是も十二鎖になつて宜しい、其他橋は仮橋で宜しい、だから是非三十七年中にやれと云ふのです、逓信大臣の調べた所では斯ういふ具合に省略すれば三十七年中に出来る、百七十五万円は其代り補助をする、且是が三十七年に出来上らなかつた時は百七十五万円に対して法定の利息を附けて返せ、斯ういふ条件であります、それゆゑに我々はまあ逓信省で御調べになつて出来ると仰つしやりや出来るでせう、決して出来ないとは言はぬからして精々やりませう、それで此百七十五万円下さるのは宜いが、万一一日でも遅れたら利息を附けて返せといふことは困る、どうも我々も素人で屹度責任を持つて出来るといふことは決して請合はれない、あなたがたが出来ると仰つしやればやりませう、併ながら出来ない時は已に消費した金は利息を付て返せといふ話になると、そりやあ株主の懐を当てにせねばならぬゆゑ我々が専断に御請合は出来ない、是非一つ御請をするには株主臨時総会を開いて株主の承諾を受けなければ我々は請けられませぬ、イヤ時局切迫して居るのでそんな暇は無いといふ話で、まあ頻りに押問答をして居りました、所が到頭もどかしいと思つたか、俄に政府から役人を任命するといふことになりまして、俄にまあ古市鉄道作業局長が出て来てやる事になりまして、我々は責任を免れて誠に結構な訳でありますが、併し後が出来るかどうか分らぬけれども、それから先きは向ふの話であります
所がまあ段々聞いて見ると矢張り其命令を政府から出して是に対し今の重役が御請を出した、所が中にはどうも是は我々が請けられぬ、請
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けた所が履行は出来ないと言ふ者もあり、又株主の中でもお前等は何んでそんなものを請けたかと言ふやうな訳で、揉めて揉めて非常に揉めた末、まあ兎に角到頭請けたのださうです、請けた所が技師などの考では、どんなことをしても出来ない、そりやあどないに気張つた所が――損も構はずドンドンやつた所で来年の五六月までに出来れば余程早く出来たので、それより上はどうしても出来ない、是非政府が早くやれと言ふなら本統の鉄道でない、土工ビル――軽便鉄道のやうなものでどんなになつても……二十五分の一位の勾配にすれば出来る、其話ならば我々がやつて居る時も既にしたのです、斯ういふ趣向にすれば出来る、けれどもそれでは鉄道として――決して鉄道としての運搬力といふものは無い、縦令四十分の一にしても仮りの話で、本統の鉄道にするには迚もそれでは出来ない、今日では仮線でも宜いといふことになつて中百二十哩の内前後二十哩だけ本統にして、中の八十哩だけは仮線にして極細い土工ビルのやうな物を敷く、又軌道も極く狭くするといふことになつた様子ですが、此鉄道は元と広軌道でレールも七十五ポンドを用ひ極堅固な建設であるが、之を十八ポンドのレールに三呎の狭軌にするといふ事、併し是は他日になれば全く仕直なければならぬ、尤もそれは材料の運搬は容易になるでせうが、百七十五万円で出来るか出来ぬか是は疑問です、どうなるか知れませぬ
それからまあ此鉄道は非常に是まで節約して廉く出来て居るです、今日までの設計通りで行くと一哩六万二千円位の割合で出来ることになる、尤もそれは停車場何かの設備は極粗末になつて居る、それも充分の物にした所が二千万円なら釜山から京城まで全線出来上るといふ積りであります、所が今日は中々そんなことではいかぬやうです、尤も百七十五万円のお土産があるといふことで、ドンドンやつて居るですが、併し其百七十五万円で出来るかどうかどうもそれより高く附かうと思ふ、現に会社員の給料技師等の手当にしても是まで我々のやつて居る時には月に五六千円で済んだんですが、此節は聞いて見ると殆ど四、五倍も掛るさうです、月々此分のみにても、三、四、五万円はかゝるといふ、万事がそんな具合で大袈裟になつた、それで今日までやつて居る所は安き請負に引渡してありますけれども、是等は後から来た者が高い賃金を貰ふてやるですから、必ず増してやらなければならぬ、随分是は初め極節倹をして来ましたか、高くなるだらうと思ひます、是が出来上つた上でないとそんなことは分りませぬけれども、大略そんなやうな訳で、京釜鉄道は兎に角早くせにやあならぬ、晩くしてはいかぬとか何とか論が出来ることになつたんですが、それは即ち我邦の権利に属せしめた上の話であつて、是が余所の国の権利に属したるものならはそんなことも何もありやあしない、併し是が日本人の手で日本人の物になるといふことは、即ち我々が初め発起した精神が貫徹したですから、我々はそれで満足せにやあならぬと思ふです
そこで尚ほ韓国の鉄道といふものは、是で済むかと言へば是ではいかぬ、まだ是から進んで義州にもやり、それから営口までもやらなければなるまいと思ひます、其事に付ては既に是も設計した者がありますから、諸君は御覧なさりたけりやあ是を御目に懸けても宜しうござい
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ます、是はまだ実測は致しませぬ、けれども京城から義州までの間が此踏査に依りますと、先づ二百九十哩、義州から営口までが先づ二百哩、線路は二つ比較線があります、短い方が百八十六哩、長い方が二百哩、まあ平均して百九十哩と見て宜からうと思ひます、合せた所で四百七八十哩で営口まで達します、営口まで達すると直ぐに支那の関外鉄道と連絡します、又それから先は北京までずつと行けるのです、四百七八十哩を此で完成すれば、釜山からずつと北京まで行ける、又一面には東清鉄道を利用すれば、即ち露西亜を経て欧羅巴へも行けるといふことになるです、此線路はまだ充分の測量ではありませぬから確定したことは申上げられませぬが、余程平坦で京釜鉄道から見ると比較的善い線路で、従つて工費も廉く行く、我々の見込では三千五六百万円から四千万円の間で是が敷けやうと思ひます、まあ是非一つ今度露西亜との戦争終局の時になれば、必ず是等の権利を得やうと思ふどうぞ是は一つ輿論でゞも我々の手でやりたいと思ひます、どうぞ諸君に於ても是は御記憶に存して戴いて、輿論を以てゞも是までやることに充分の勢力を添えて是の成功することを我々は望む次第であります、甚だ長くなりましたが、猶まだ色々此事業に付御話しもあるが、あまり長くなりますから今日は是で終局としまして又他日機会を得て申上度と思ひます(拍手)