デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

6章 対外事業
1節 韓国
3款 京仁鉄道合資会社
■綱文

第16巻 p.557-558(DK160089k) ページ画像

明治32年5月15日(1899年)

是ヨリ先、京仁鉄道引受組合、同鉄道ノ敷設工事ヲ其直営ニ移シ、是日組合ノ組織ヲ改メ京仁鉄道合資会社ヲ設立ス。栄一取締役社長トナル。


■資料

朝鮮鉄道史 朝鮮総督府鉄道局編 第四九―五一頁 大正四年一〇月刊(DK160089k-0001)
第16巻 p.557 ページ画像

朝鮮鉄道史 朝鮮総督府鉄道局編  第四九―五一頁 大正四年一〇月刊
 ○第一期 第一章 京仁鉄道
    第三節 京仁鉄道合資会社
 京仁鉄道引受組合ハ上述ノ如クモールスニ対スル当初ノ契約ヲ変更シ、工事未成ノ儘之カ引継ヲ受ケ、自ラ残工事ヲ施行スルノ運ヒニ至リ、已ニ韓国政府ノ承認ヲ得タルヲ以テ、組合組織ヲ改メテ合資会社トシ、三十二年五月十五日定款ヲ作製シ、同時ニ従来ノ組合委員渋沢栄一ヲ取締役社長ニ、益田孝及ヒ瓜生震ヲ取締役ニ選任シ、同十七日会社設立ノ登記ヲ経タリ、資本金ハ七十二万五千円、社員ハ従来ノ組合員十五名ニシテ、組合ノ権利・義務並ニ総支配人以下ノ職員ハ挙ケテ之ヲ会社ニ引継ケリ
 是ヨリ先渋沢社長ハ韓国ニ渡リテ親シクモールスノ工事状況ヲ視察シタルニ、其ノ経営方針ニ幾多ノ欠陥アリ、就中韓人夫ヲ虐使スルノ弊甚タシク、会社将来ノ信用ニ悪影響ヲ及ホスノミナラス、我半島扶殖ノ大義ニ悖ルヘキカ故ニ、会社カ工事ヲ施行スルニ当リテハ、断然此ノ如キ弊害ヲ廃絶セシムルノ必要ヲ感シ、足立支配人ヲ任命スルニ当リ、第一ニ韓人夫ノ傭役ニ意ヲ用ヰ、彼等ヲシテ能ク恩ニ感シ、安ンシテ業ニ従フヲ得シムルノ決心アリヤヲ確ムル所アリ、足立支配人亦其ノ趣旨ヲ体シテ事ニ当リシカハ、従事員ハ何レモ悦服シテ職ニ努メ、延テ従来ノ弊風ヲ一新スルニ至レリ、而シテ工事ハ三十二年一月一日ヨリ組合ノ直営ニ移リタルモ、時恰モ厳冬ニ際シ、事業ヲ休止スルノ外ナク、且ツモールスノ請負人タルコールブランニ対スル最後ノ計算ニ手数ヲ要シタルカ為メ、時日ヲ経過シ、漸ク三月中旬ニ至リテ職員ヲ現場ニ派シ、翌月四日ヲ以テ仁川ニ事務所ヲ開設シタリ ○下略


渋沢栄一 日記 明治三二年(DK160089k-0002)
第16巻 p.557 ページ画像

渋沢栄一日記 明治三二年        (渋沢子爵家所蔵)
五月十五日 晴
午前十時京仁鉄道合資会社公正証書作成ノ為公証人中沢文次ノ役場ニ抵ル、午後一時銀行ニ抵リ事務ヲ視ル ○下略


雨夜譚会談話筆記 上・第三二―三五頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK160089k-0003)
第16巻 p.557-558 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  上・第三二―三五頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月
  第二回 大正十五年十一月六日 於飛鳥山邸
○上略
敬三「京釜鉄道を敷設する時、朝鮮人の工夫を撲つては成らぬ、と先生が工事を請負はせる条件にせられたと云ふことですが」
先生「京仁鉄道の工事を足立太郎が引受けてやると云ふので、彼と固
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く「朝鮮人を撲らぬ様に」と約束した処、工事が終つてから「貴方の云はれた通り工夫を撲らないでやりましたから非常に成績がよかつた。撲るのは一時的によい様だが、結局はよくないことが判りました故、今後私は主義を変へます」などゝ云つて居た。私が之を感じたのは、京仁鉄道の敷設に際し、米人が朝鮮人を撲つて居るのを見て、よくないことだと思つたからである。明治二十七年日清戦争後暫定条約で日本は朝鮮の京仁其他二三線の敷設が出来る様になつて居た処、廿八年三浦(梧楼)が朝鮮の王妃を殺したので、朝鮮で日本人の暴虐を云々して信用しなくなつた。又国王からも嫌はれる様になり、鉄道の方は約束があつても運びがつかぬ。処へ米人ゼームズ、モールスが国王と約束して京城と仁川間の短距離であるが、鉄道敷設をすることになり、コールブランと云ふ土木請負師に工事をやらせた、然し材料が中々手に入らず、困難して売つてもよいと思ふやうになつたらしく、モールスが大川平三郎と懇意であつたから、其話をしたらしく、私の耳に入れたので、私は予て米国人にやらせるのは残念だと思つて居たから、時の外務大臣であつた大隈さんに「何かよい方法はあるまいか、モールスが譲るならやれるが」と相談し、政府援助の下にシンヂケートを組織し、三井・三菱・大倉・安田等が参加して之を買収することにした、そうして政府からは百万か百五十万かを借り、追つて株式会社にしようと云ふことになつた。其細い数字上の事は記憶して居ないが、兎に角斯くして引受けることにし、私は朝鮮へ行つたのである、で仁川から京城へ行く途中漢江の河を渡す鉄橋工事を見たが、コールブランの手で朝鮮人を使つてやつて居る。即ち其時は米人が監督し朝鮮人を使つて橋台を埋めて居た。処が其使ひ方たるや、まるで犬でも使ふ様子で監督の中には伊太利人も居たと云ふが、朝鮮人が少しのろのろやつて居ると足で蹴る、実に見て居つて気の毒に堪へなかつた、私は此時ほとほと感じたのであつたが、結局此買収談はシンヂケートが政府から百六十万円《(マヽ)》を借りて成立した。そして政府へは後に返したが斯く援助を受けたのは一時に金を払つて買取る為め、シンヂケートでも俄かに金が出来なかつたからである。其処で京仁鉄道の残りの工事を足立太郎に頼んだ、此人は日本鉄道に居た時から知つて居る人で、工事を依頼すると同時に「朝鮮人を蹴つたり、撲つたりしない様に、若し働かなければやめさしてよいから日本人の真意のある処を知らせることが必要だ」と約束したところが同人もよく約束をよく守つた、其後京釜鉄道も足立太郎に監督を頼んだが、同じ方針でやつたのであつて、此事は今思つてもよい事をしたと感じて居る」
○下略
  ○第二回雨夜譚会出席者ハ栄一・敬三・増田・白石・高田・岡田。
  ○引継工事ハ明治三十二年四月二十三日改メテ仁川ニ起工式ヲ挙行シテ開始シ、四工区ニ分チテ進行、同年九月十八日仁川鷺梁津間仮営業開始、翌三十三年七月八日京城仁川間二十六哩二十六鎖全通スルニ至ル。