デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

6章 対外事業
1節 韓国
3款 京仁鉄道合資会社
■綱文

第16巻 p.558-568(DK160090k) ページ画像

明治33年11月12日(1900年)


 - 第16巻 p.559 -ページ画像 

是ヨリ先七月八日、京仁鉄道全線営業ヲ開始シ、是日開通式挙ゲラル。栄一其ノ式典ニ臨ム。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三三年(DK160090k-0001)
第16巻 p.559-560 ページ画像

渋沢栄一日記 明治三三年         (渋沢子爵家所蔵)
十一月五日 晴
午前九時仁川港着、尾高・足立ノ二氏ヲ始トシ、第一銀行員及京仁鉄道会社員其他仁川商業者等来リ迎フ、郵船会社ノ小蒸気船成歓号ニテ上陸シ、駐車場前稲田ニ投宿ス、十時頃朝餐ヲ喫シ、直ニ領事館ヲ訪ヒ、伊集院氏ニ面話ス、領事館ヲ辞シテ京仁鉄道停車場内ノ事務所ニ抵リ、足立氏ノ案内ニテ場内各所ヲ一覧シ、来ル十日ニ開設スル開業式ノ手続ヲ協議ス ○下略
十一月六日 晴
午前八時仁川発ノ列車ニ搭シ、京城ニ赴ク、足立太郎同車シテ線路建設ニ関スル説明ヲ為ス、京城ヨリ来リ迎フル者、仁川ヨリ行ヲ送ル者一行十数人同車シテ各駅ヲ経、午前十時、京城ニ着ス、巴城館ニ投宿ス、此日京城西大門停車場ニ来リ迎フル者数十人、大江卓・大三輪長兵衛等モ来リ迎フ、安学氏韓国王ノ命ヲ以テ来リ迎フ、巴城館ニテ午餐ヲナシ、直ニ林公使ヲ本館ニ訪フテ京仁鉄道開業式ノ事ヲ談ス、午後領事館ニ抵リ、三増領事ニ面会シテ、京仁鉄道開業式ニ係ル手続ヲ協議ス ○下略
十一月七日 晴
○上略
此日夕方三増領事来訪、六時林公使来訪ス、京仁鉄道開業式ノ時日ニ関シ、閔丙奭ノ来書アリタレハ、直ニ国分書記官ニ依頼シテ之ニ回答セシム
十一月八日 晴
午前安学柱来ル、大江卓来ル、鉄道院技師金・朴二氏来リ、閔総裁ノ伝言ナリトテ開業式延期ノ事ヲ告ク、然レトモ時日切迫スルヲ以テ之ヲ拒絶シ遣ス、午後足立太郎来ル○中略此夕京仁鉄道開業式ヲ十二日ニ延引スル事ヲ定メ、直ニ再度ノ延期案内状ヲ発スル事トシ、且諸方ヘノ引合ヲ為ス○下略
  ○中略。
十一月十二日 晴
午前七時稷山金鉱ノ事ニ関シ、古田・前川・井上氏等ト協議ス、明日八十島ト元治トヲ一覧ノ為稷山出張《(ニ脱カ)》セシムル事ニ決ス、井上・前川ヨリ申出タル要務及古田担当ノ事務ニ付其要領ヲ指示ス、午前十一時京仁鉄道停車場ニ抵ル、此日ハ開業式当日ナルニヨリ足立支配人疾ク来リテ百事ヲ指揮シ、社員挙ニ《(テ)》之ニ尽力セシニヨリ、準備頗ル整フ、十二時頃ヨリ内外ノ貴紳陸続来聚シ、午後一時頃ニハ広大ノ構内ニ立錐ノ地ナキ程ナリキ、式場ヲ開キタルハ午後一時過ナリ、先ツ社長ノ式辞ヲ為シ、尋テ之ヲ韓訳セシモノヲ峯尾音次郎ニ朗読セシメ、更ニ市原氏英訳ヲ朗読ス、次ニ閔丙奭壇上ニ於テ祝詞ヲ朗読ス、韓人崔氏之ヲ和訳ス、儀式畢テ帝王車ヲ一覧シ、更ニ食堂ニ於テ立食ヲ饗ス、食卓上林公使ハ韓国皇帝ノ万歳ヲ三唱シ、朴斉純ハ我皇帝陛下ノ万歳ヲ
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三唱シ、社長ハ来賓ノ健康ヲ祝シテ万歳ヲ三唱シ、米公使アーレン氏ハ京仁鉄道会社ノ隆昌ヲ祝シテ万歳ヲ三唱ス、是ヲ以テ礼式全ク畢テ更ニ庭上余興ト設ケタル舞妓ノ手踊・手品・軍楽等随意縦覧セシム、午後三時頃全ク食事畢テ来賓徐ニ帰途ニ就ク、四時過帰寓ス○下略


渋沢栄一書翰 大隈重信宛 明治三三年七月九日(DK160090k-0002)
第16巻 p.560 ページ画像

渋沢栄一書翰 大隈重信宛 明治三三年七月九日  (大隈侯爵家所蔵)
(別筆)
拝啓当会社鉄道全線二十六哩余之内仁川・鷺梁津間二十哩ハ既ニ昨年九月以来営業致来り候へ共、鷺梁津以北ニハ延長三百四十間余ニ出つる漢江橋梁之大工事有之候事故、其成功期日を誤ることなき様爾来百方之を督励致候義ニ御坐候処、幸にして如予期六月廿七日を以て全く工事竣功致候ニ付、即、昨八日より京城・仁川間全部之営業相開き申候、而して開業当日の成蹟ハ至て良好なりし旨昨夕足立太郎より電報を以て申越候、先年来此事業ニ付てハ不一方御配慮被成下候結果、今日の成功を見候段深く感謝罷在候、右御披露旁得御意度如此御坐候
                            敬具
  三十三年七月九日
                   京仁鉄道会社
                      渋沢栄一
    伯爵 大隈重信殿
           侍曹


竜門雑誌 第一五一号・第四三―四五頁 明治三三年一二月 ○京仁鉄道開業式の景況(DK160090k-0003)
第16巻 p.560-561 ページ画像

竜門雑誌  第一五一号・第四三―四五頁 明治三三年一二月
    ○京仁鉄道開業式の景況
京仁鉄道会社の開業式は、愈々去る十一月十二日正午、韓国京城西小門外京城停車場構内に於て挙行せられたるが、今其景況を記せんに、会場の入口には大緑門を造り、之に歓迎と題する大匾額を掲け、尚ほ其他の出入口には其れ其れ緑門の設けありて、無数の球灯は数限りなく縦横に吊し渡され立食場・余興場・来賓休憩場の設は更なり、朝鮮軍楽を始め日本芸妓手踊舞台の設けあり、社長たる青淵先生を始めとし社員一同は十時頃より参集して来賓の迎接をなし、内外の賓客は十一時頃より続々参集せしが、仁川港よりの来賓は十時廿分仁川発の別仕立滊車にて正午前式場に着し、余興場の内外は賓客を以て満されたり、来賓の重なる向は、韓国 皇帝陛下の勅使を始めとし、同国の大官にては清安君李載純・内部大臣李乾夏・度支部大臣閔丙奭・外部大臣朴斉純・農商工部大臣権在衡・学部大臣金奎弘・賛政尹定求・元帥府検査局総長李学均・農商工部協弁通信院総裁閔商鎬・内蔵院卿李容翊・賛政成岐運・平理院裁判長金永準・中枢院議長金嘉鎮・内官李秉鼎・漢城判尹李鳳来外各局長等七十余名にして、欧米人にては露国公使パヴロフ・英公使ガルビンス・独逸領事ワルベルト・米公使アーレン・宮内顧門《(問)》サンズ・通信院雇クレマンシー・仁川米領事ペン子ツト独逸名誉領事ウオルター・タウンセンドの諸氏外数名、清国公使徐寿朋・同参事官・領事呉氏等にして、本邦人にては林公使・山座国分両書記官・公使館附武官・三増領事・守備隊附将校・電信通信部員・郵便局員其他仁川京城居留の重立たる者五百余名出席し見物の韓人は停
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車場に充満せり、斯くて正午を報するや、一声の爆竹を相図に式場を開き、来賓一同は式場内に導かれたるが、軈て社長青淵先生には壇上に進み、本日の開業式に際し、内外の貴顕紳士諸君の斯く来会せられたるは実に光栄とする所なりと述べ、次て左の如き式辞を朗読せられたり
    式辞
 京仁鉄道の工事竣を告げ、本日を卜して開業の祝典を挙げ、内外貴紳の賁臨を辱ふす、本会社の光栄之に過ぐるものなし
 抑々本鉄道の起原は、米国人ゼー、アール、モールス氏大韓政府の特許を得て創始するに係る、後ち不肖等同志相謀り、氏と協議して其事業を承継し、会社を組織して工事を施行するに至り、当路諸君の親愛なる、常に会社を待つに至大の好意を以てせられ、遂に以て今日あるを致したるは、本会社の深く鳴謝する所なり
 夫れ交通機関の邦国に須要なるは敢て言を俟たず、就中鉄道の如きは其最たるものにして、鉄道の成るや、交通運輸至利至便なるを以て、荒野闢け、物産殖し、工芸興り、商業通じ、国家の富強増進する、期して待つべし、況んや大韓国の如き、大陸の一端を占めて海洋に斗出し、土壌膏腴、水陸天産の豊富なる疆域に於ておや、本鉄道は延長僅に数十哩に過ぎざるを以て、敢て交通機関として誇張するを得ずと雖、幸に大韓国に於ける斯業の嚆矢たるの栄を荷へり、而して将来鉄道の敷設は年を逐て進歩し、東西相連らなり、南北相貫ぬき、遂に辺隅遐陬に普及し、内は処として富源を開拓せざるなく、外は我日本を首め各国との通商盛んなるに至るは深く信じて疑はざる所なり、果して然らば此一小鉄道敷設も亦決して蕞爾たる小功に止らずして、庶幾くは大韓国の奎運を増進するの先導者たるを得む、是れ本会社微意の存する所なり、因て大に前途を祝して玆に開業式の詞を呈すること此の如し
  大日本明治三十三年十一月十二日
                京仁鉄道合資会社社長
                   男爵 渋沢栄一
右先生の式辞朗読了るや、峯尾音三郎氏は其韓訳文を、市原盛宏氏は英訳文を朗読せり、次で鉄道院総裁閔丙奭氏登壇祝辞を朗読し、和訳文の朗読ありて後ち、足立太郎氏壇上に進み、京仁鉄道起工以来の経過を報告し、於是式畢り、来賓一同は新造玉車の拝観をなしたり、玉車に対する欧米人と韓国諸大臣の輸したる好賞は最大なりき、此の間余興場の或る一個は韓国軍楽を吹奏し、或る一個は京城日本居留地民の寄附に係る芸妓手踊を、或一個は韓国演劇を開演し、木村煙草会社仁川支店の寄附に係る手品も亦之れと同時に開演し、四方八方に各種の技芸と音楽との起るあり、衆賓快を呼び、之れより予て用意の立食場に導かれ、数百の来賓何れも卓に就き杯を引き、痛飲淋漓の間に、林公使の食卓演説あり、次で外部大臣朴斉純氏・青淵先生・米国公使アーレン氏等の演説あり、其の都度日韓両国皇帝陛下及京仁鉄道の万歳を唱和し、充分の興を尽し、午後五時頃何れも散会せりと云ふ、聞く如此盛会は韓国建国以来未だ曾て見ざる所なりと

 - 第16巻 p.562 -ページ画像 

中外商業新報 第五六四六号 明治三三年一一月二二日 京仁鉄道の開業式(DK160090k-0004)
第16巻 p.562 ページ画像

中外商業新報  第五六四六号 明治三三年一一月二二日
    京仁鉄道の開業式
京仁鉄道会社が去十二日韓国内外の貴顕紳士五百余名を招待し京城西小門外なる停車場に於て盛んなる開業式を挙行したる由は去十三日の紙上に掲載せしか、其後の詳報に由れば当日式場なる停車場の入口には大緑門を造り之に歓迎と題する大扁額を掲け尚ほ其他の出入口には其れ其れ緑門の設けありて無数の球灯は数限りなく百尺竿頭より縦横に吊し渡され立食場余興場来賓場休憩場の設は更なり朝鮮軍楽を始め手踊舞台の設けあり、渋沢社長以下社員一同は十時頃より参集して来賓の迎接をなし内外の賓客は十一時頃より続々参集せしが仁川港よりの来賓は十時二十分仁川発の別仕立汽車にて正午前式場に着し余興場の内外は人を以て満されたり、斯くて正午を報するや一声の爆竹を相図に式場を開き来賓一同は式場内に導かれたるが、軈て社長渋沢男爵は壇上に進み本日の開業式に際し内外の貴顕紳士諸君の斯く来会せられたるは実に光栄とする所なりと述べ次て左の如き式辞を朗読したり
○中略
渋沢社長の式辞朗読了るや峰尾音三郎氏は韓訳文を市原盛宏氏は英訳文を朗読せり、次で鉄道院総裁閔丙奭氏登壇式辞を朗読し和訳文の朗読ありて後ち、足立太郎氏壇上に進み京仁鉄道起工以来の経過を報告し了りて式を閉づるや、来賓は余興場にて手踊其他種々の余興を見物し、軈て用意の立食場に導かれ数百の来賓何れも卓に就き杯を引き、痛飲淋漓の間に林公使の食卓演説あり、次で外部大臣朴斉純氏・渋沢社長・米国公使アーレン氏等の演説あり、其の都度日韓両国皇帝陛下の万歳を唱和し充分の興を尽し、午後五時頃何れも散会せりと云ふ


朝鮮鉄道史 朝鮮総督府鉄道局編 第五八―六一頁 大正四年一〇月刊(DK160090k-0005)
第16巻 p.562-563 ページ画像

朝鮮鉄道史 朝鮮総督府鉄道局編  第五八―六一頁 大正四年一〇月刊
 ○第一期 第一章 京仁鉄道
    第三節 京仁鉄道合資会社
○上略
 営業開始ノ当時ニ於テハ鷺梁津仮停車場ト京城トノ間交通不便ナリシト漢江ノ舟運ニ依ル因習ノ廃セラレサリシトニ依リ、鉄道ヲ利用スル者少カリシカ、漸次其ノ利便ヲ知ルニ至リ、営業成績日ヲ逐ウテ良好トナリ、三十二年十二月末日ニ至ル百五日間ニ於ケル一日平均旅客数ハ三百六十六人ニシテ、韓人六割以上ヲ占メ支那人二割日本人其ノ他二割弱ノ割合ナリ、又貨物発送噸数ハ一日平均十一噸八分ニシテ、其ノ内六割以上ハ支那人ノ荷物ナリキ、而シテ一日一哩平均収入ハ七円三十九銭ヲ示セシカ、全通後ニ於テハ列車回数ヲ増加シ、貨物賃金ノ改正ヲ行ヒ、且ツ時機ニ応シ乗車賃金ノ割引ヲ為ス等、旅客貨物ノ吸収ニ努メタル結果、極メテ良好ナル成績ヲ現シ、一日一哩平均収入ハ一躍十六円三銭トナリ、全通前(三十三年上半期)ノ八円八十銭ニ比シ、八割五分ノ増加ヲ見タリ、三十四年ニ入リ運輸状態ハ更ニ好況ニ向ヒ、殊ニ貨物ハ漢江ノ結氷期間中鉄道ニ託送セシヨリ、荷主ハ其ノ利便ヲ覚知シ、解氷後ニ於テモ粗大ナル荷物ヲ除キ、他ハ概ネ鉄道
 - 第16巻 p.563 -ページ画像 
ヲ利用スルニ至リタルト、北清事変鎮静後ニ於テ、対清貿易ノ回復セルトニ依リ、貨物輸送数ヲ増加シタルヲ以テ、七月以後ニ於テ旱天打続キ、稲苗殆ント枯死セントシ、遂ニ八月二十五日防穀令ノ実施ヲ見貿易上唯一ノ商品ハ一時輸出ノ途ヲ絶チ、経済界不況ニ陥リシニモ拘ラス、三十四年中ニ於ケル収入ハ、一日一哩平均二十円五十一銭ヲ算シ、前年ノ十三円一銭ニ比シ七円五十銭ノ増加ヲ示セリ
 三十五年ニ入リテハ、前年凶作ノ影響ヲ受ケ、民間ノ資力全ク枯涸シ、白銅貨ハ濫発ニ次クニ偽造ヲ以テシ、金融界ノ紊乱、商業ノ不況其ノ極ニ達セシモ、鉄道輸送上ニ於テハ米穀不作ニ因ル外米ノ輸入アリ、且ツ京釜鉄道建築用材料ノ輸送漸ク頻繁ヲ加ヘタルト、下半期ニ於テ米作ノ豊穣ニ依リ幾分市況ノ回復セルトニ依リ、一日一哩収入ハ平均二十一円七十七銭ニシテ、前年ニ比シ尚一円二十六銭ノ増加ヲ見ルヲ得タリ、三十六年ニ於テハ米穀ノ輸出漸ク盛況ヲ呈シ、又一般購買力ノ増進ヲ見タル結果、貨物ノ輸送旅客ノ来往共ニ繁忙ヲ告ケ、上半期ニ於ケル一日一哩平均収入ハ二十四円九十一銭ニ上リ、前年同期ニ比シ約一割六分ノ増加ヲ見タリ
 一方会社ハ政府貸下金百八十万円ノ外、資本金七十二万五千円ヲ有シ、内既払込十一万千円ハ其ノ成立ノ際引受組合ヨリ引継キ、其ノ後三十六万二百五十円ヲ五回ニ分チ払込ミタルヲ以テ、京釜鉄道会社ニ買収セラレタル当時ノ未払込額ハ二十五万三千七百五十円ナリトス、三十二年下半期及ヒ三十三年上半期ノ利益金ヲ以テ、組合創立当時ヨリノ払込金積数ニ対シ年五分ノ配当ヲ為シ、爾後利益金ノ幾分ハ之ヲ工事補修ニ支出スル必要アリシ為メ、毎決算期ニ於テ払込金ニ対スル配当ヲ五分ニ止メタリシカ、上記工事費支出ノ要ナキモノトシ、会社ノ払込金額ニ政府貸下金百八十万円ヲ加ヘタル資金ニ対スル営業利益ノ歩合ヲ見ルトキハ、三十三年(上半期一部営業下半期ヨリ全通営業)ニ於テ約二分ナリシモノ、三十四年ニ於テ四分、三十五年ニ於テ四分八厘トナリ、三十六年京釜合併前ノ上半期ニ於テハ五分五厘ヲ示セリ、而シテ開業ノ当時ニ於ケル営業費係数ハ七十六ナリシモ漸次良好ナル成績ヲ示シ、合併前ニ於ケル営業支出ハ殆ント収入ノ半額ヲ以テ足ルニ至レリ



〔参考〕東京経済雑誌 第四〇巻第九九七号・第六七三頁 明治三二年九月二三日 ○京仁鉄道の開業(DK160090k-0006)
第16巻 p.563 ページ画像

東京経済雑誌  第四〇巻第九九七号・第六七三頁 明治三二年九月二三日
    ○京仁鉄道の開業
去る十八日発時事新報着電に曰く
 京仁鉄道の仁川鷺梁津間(二十一哩七十三鎖)は本日より開通す、列車は予定の如く一時四十分にて着し、多少の動揺を免れざるも稍好成績と云ふべく、軌道は三尺八寸式(?)にて、車室は広く、且つ列車の中央を往復し得べく、又昨日仁川に於ける開通式は来賓数百名あり、頗る盛なりし
即ち朝鮮半島に於ける鉄道の嚆矢なり



〔参考〕東京経済雑誌 第四〇巻第一〇〇〇号・第八四〇頁 明治三二年一〇月一四日 ○京仁鉄道開業の景況(DK160090k-0007)
第16巻 p.563-564 ページ画像

東京経済雑誌  第四〇巻第一〇〇〇号・第八四〇頁 明治三二年一〇月一四日
    ○京仁鉄道開業の景況
去月十八日より開業せる韓国京仁鉄道仁川鷺梁津間の営業景況は左の
 - 第16巻 p.564 -ページ画像 
如しと云ふ

           乗客       荷物
             人        斤
 十八日       二〇八       ――
 十九日       三〇五      七一九
 二十日       三二三    一、五一七
 廿一日       二五一    九、六七八
 廿二日       三六九       不明

  右は各停車場を通算せしものにて、乗客の八分は韓人、又八分は三等客なり、荷物は金巾・糸・銅貨・鮮魚・酒・野菜・牛皮・昆布等なり
而して停車場は仁川・枢幌・牛角洞・富平・素砂・梧柳洞・鷺梁津の七箇所にして、此間通して廿一哩余にて、一時四十分間にて達するを得べく、其発車は仁川・鷺梁津共、午前午後双方より二回宛なりと云ふ、又鷺梁津より京城は数月の後にあらざれば開通の運に至らざるべきも、鷺梁津より漢江江岸迄殆と一哩の砂路には人車鉄道布設中なる由



〔参考〕東京経済雑誌 第四一巻第一〇一六号・第二五二頁 明治三三年二月一〇日 ○京仁鉄道社員総会(DK160090k-0008)
第16巻 p.564 ページ画像

東京経済雑誌  第四一巻第一〇一六号・第二五二頁 明治三三年二月一〇日
    ○京仁鉄道社員総会
去る三十一日兜町渋沢氏邸に於て開会、社長渋沢栄一氏議長となり、工事及営業の状況、収支計算を報告し、次に左の三十二年下半期利益金分配案を可決したり
                        円
 当半季利益金            九、四〇六・〇二〇
 繰越益金              五、〇四四・八六〇
  合計              一四、四五〇・八八〇
   内
  社員配当金(年三歩の割)    一一、一六二・五二〇
  次季繰越金            三、一八八・八六〇
右の景況より見れば、京釜鉄道の如きも将来必ず相当の利益を収め得らるゝなるべし



〔参考〕中外商業新報 第五四二〇号 明治三三年二月二七日 京仁鉄道の招待会(DK160090k-0009)
第16巻 p.564-565 ページ画像

中外商業新報  第五四二〇号 明治三三年二月二七日
    京仁鉄道の招待会
 京仁鉄道合資会社員渋沢栄一・益田孝・大倉喜八郎・中上川彦次郎諸氏及其他の合資社員主人となり、昨二十六日午後五時より是迄同鉄道に対し尽力せられたる在朝在野の人々数十名を帝国ホテルに招待し晩餐会を開きしが、当日出席中の重なる人々は、大隈伯を始め高平内務次官・松本鉄道作業局長官、松尾理財・阪谷主計・内田通商の三局長並に近藤郵船会社長・加藤同副社長、京釜鉄道発起人竹内・大江・尾崎・佐々等の諸氏三十余名にして、席定まるや渋沢社長は社員一同を代表して、去三十年中同組合を組織して米人モールス氏より同鉄道引受の契約を結び、超えて昨三十二年一月に至り同鉄道を引受け、昨年九月十一日を以て全線二十六哩の中仁川・鷺梁津間二十哩間の営業を開始するに至れる顛末並に同鉄道の現状を述べ、最後に少数の合資
 - 第16巻 p.565 -ページ画像 
社員が外国に於ける事業に対し此の如き好結果を得たるは偏へに朝野諸名士の有力なる後援ありしが為めなる旨を陳べて謝意を表し、次に之に対する大隈伯の挨拶あり、了て更に渋沢社長の紹介により同社の支配人足立太郎氏は同鉄道の工事並に営業の実況を演述し、右了て散会したるは同九時過なりしといふ○下略
  ○右晩餐会ニツイテハ、本節第二款「京釜鉄道株式会社」明治三十三年二月二十七日ノ条ニ掲ゲタル栄一ノ「日記」(第四〇〇頁)参照。



〔参考〕東京経済雑誌 第四二巻第一〇三八号・第五九―六〇頁 明治三三年七月一四日 ○韓国京仁鉄道の全通(DK160090k-0010)
第16巻 p.565-566 ページ画像

東京経済雑誌  第四二巻第一〇三八号・第五九―六〇頁 明治三三年七月一四日
    ○韓国京仁鉄道の全通
方今我国民の海外に到りて事業を経営せるもの極めて多し、然れども本邦の資金を以て、本邦商事会社の名を以て、外国に鉄道を布設せるものは、韓国に於る京仁鉄道を以て嚆矢と為すべし、此の鉄道は総延長二十六哩余にして、軌道は広軌式(四呎八吋半)を採用し、工費は総額二百数十万円に達せり、鷺梁津・仁川間に於ける部分開業の実蹟に徴するに、一日一哩の収入は平均十円内外に及びたり、而して鷺梁津・京城間に横はる漢江の架橋落成し、愈々去る八日を以て全線開通したる由なれば、今後の収入は十二三円を下ることなかるべしと云ふ之を我が内地の鉄道に比較するに、官設各線の一日一哩の収入は平均十四円余に過ぎざるを以て、韓国の鉄道にして一日一哩の収入十二三円に達するは非常なる好景気と謂ふべきなり
抑々京仁鉄道の布設権は明治廿七年時の全権公使大鳥圭介氏が韓廷と締結したる暫定合同条款を以て我に獲得したるものなりしが、爾後我が政府外交の失敗よりして、比の布設権は米人モールスの手に帰したり、モールスは横浜港二十八番館米国貿易商会の持主なり、此の時に於ける我が邦の内閣は伊藤内閣にして、之に代りたる松隈内閣は、如何にもして京仁鉄道の布設権を我に恢復せんとするに際し、モールスは其の資金を米国に於て募集したるに、応募者少なくして其の目的を達すること能はず、来りて之を我が邦の資本家に謀り、資本家は更に之を松隈内閣に謀りしかば、内閣は京仁鉄道の布設権を我に獲得するは此の時に在り、機失ふべからずと為し、横浜正金銀行をして金百万円をモールスに貸付けしめ、モールスは之を以て鉄道を布設し、完成の後之を我が資本家の「シンヂケート」(岩崎・三井・渋沢・安田・大倉・今村諸氏の組合)に譲渡すべしとの契約を為し、政府は正金銀行に対して其の貸付けたる百万円の保証に立ち、他日如何なる間違ありとも、正金銀行には損失を掛けざるべしとの契約を結び置き、而して後日に至り政府は償金より繰替へて之を正金銀行に渡したり、斯くて其の後に至り、モールスは更に八十万円の追加を請求し、若し日本に於て之を承諾せざる時は、前日の契約を取消し、更に仏国人と其の契約を結ぶべしとの事を申込み来れり、是に於て政府は正金銀行をして貸付けしめたる百万円の事後承諾を求むると同時に、八十万円の支出を帝国議会に要求し、帝国議会は政府の処置は憲法違反なるにも拘らず、断然之を承諾し且協賛を与へたり、而して八十万円の支出と同時に、我が資本家の「シンヂケート」をしてモールスより京仁鉄道布設
 - 第16巻 p.566 -ページ画像 
に関する一切の権利を譲受けしめ、其の結果として昨年一月より全然我が手に其の工事を引継き、同年五月更に組織を変更して京仁鉄道合資会社と為し、本社を東京に置き、総支配人足立太郎氏韓地に出張して一切の事業を督励し、社長には渋沢栄一氏、取締役には益田孝・瓜生震の二氏之に当れり
余輩は京仁鉄道が本邦人に依りて経営せられ、本邦人に依りて営業せらるゝを悦び、玆に聊か其の顛末を記して祝意を表す、唯々其の資金の大部分は国庫より出で、資本家の嚢中より出でたる所僅々に過ぎざるは遺憾にして、為に未だ充分に此の事業の完成を誇るに足らずと雖も、将来に於ては京仁鉄道の成功が模範となりて、我が資本家も奮ひて資金を海外に放下するに至るべき歟



〔参考〕東京経済雑誌 第四二巻第一〇五〇号・第七六一頁 明治三三年一〇月六日 ○京仁鉄道開通後の京城商況(DK160090k-0011)
第16巻 p.566-567 ページ画像

東京経済雑誌  第四二巻第一〇五〇号・第七六一頁 明治三三年一〇月六日
    ○京仁鉄道開通後の京城商況
京仁鉄道は去る七月八日を以て全線の運転を開始するに至りしが、開通日尚ほ浅き今日に於ては未だ京城の商況に差したる影響を及すに至らずと雖も、早晩同地の商況に及すべき影響は蓋し左の如くなるべしと云ふ
 一、貨物の運賃に及ぼす影響 鉄道開通前に在りては京仁間貨物の運輸は一に漢江の水運に依り、其間競争者なかりし為め、本邦の運賃に比すれば驚くべき高価を示し、殊に漢江結氷中凡三ケ月間は牛車馬背に依らざるべからざる等より自然遅緩にして且つ高価なる陸路の輸送を為さざる可らざる等の不便尠からざりしを以て、一般に鉄道の速成を希望し、全通の暁は貨物の運賃非常に低廉となるべしと予期したるに拘はらず、今や鉄道全通せるも貨物の運賃は水運に依ると大同小異に規定せられ当初の予想と反対せしかば、至急を要する貨物又は最も浸水を恐るゝ紡績糸の如き物品を除きては別に鉄道に依托するものなく、折角待設けたる鉄道も運輸上何等の便益を与へずとて一時は物議を生じたる次第なりしが、終に過般来在京城本邦商人も京仁鉄道会社と交渉の結果、或る種類の貨物に対しては来る十一月末日迄幾分か割引することゝなりたり、之を要するに滊車の運輸は敏速に且つ安全なるを以て自ら貨物を吸収するに至るべく、左すれば水運営業者は勢ひ運賃を低減して之と競争せざる可らず、斯の如くにして京仁間の運賃は漸次低廉に赴くべきは数の免れざる所なり
 一、物貨に及ぼす影響 従来当地に於ける輸入品の売価は仁川に比し京仁間の運賃差額以上の割高に当るを常とせしか、今後運賃の低減せらるゝに随ひ自然幾分か下落するなるべく、全通後の今日に於ては当地の需用者は高価なる物品にして至急を要せざるものは多く幸便に托して仁川より購求するの傾向を生じたり、其他未だ著しき影響を呈せすと雖も、実際当地の商人は多少顧客を失ふの恐れあるを以て、早晩当地の物価は仁川の相場に接近するに至るへし
 一、金融に及すべき影響 滊車開通前に在りては漢江結氷中は凡そ三ケ月間水運杜絶せらるゝを以て、一時に多額の資金を投して貨物
 - 第16巻 p.567 -ページ画像 
(重なる貨物は冬期中最も売口好き紡績糸・明太魚、或は石油等の類)を取寄せ置かざる可らざりしか、全通後は其の必要なきを以て金融上尠からざる便利を得るならん、是れ滊車全通の金融に及ぼすべき特殊の影響なり、又た我邦より輸入する荷為替の如きも従来仁川迄取組み来りしか、今後は当地にて直接に荷受を為すの便を得べし
 一、日清商人の貿易上に及すべき影響 従来我商人と清国商人とは各其取扱品を異にし、同一商品に就き競争する者殆と無かりしか、日清戦役の際彼等の逃避により彼等の専売に帰し居たる金巾木綿の如き一時本邦商人の手に移り、南大門通りの大街に日本商店の比軒するに至りしか、媾和後清商の再来と共に競争の結果、一旦収得したる商権を漸次彼等に恢復せられ、従て南大門通の日本商店年々衰微の地に陥り、店舗の如きも終に清商に売渡すに至れり、之を要するに清商は一般に信用あり且資本豊富なるを以て、今後鉄道を利用して紡績糸の直輸入を計り、或は石油の販売を試むるに至るやも保し難し、是等は早晩競争上に来るべき影響として本邦商人の予め注意を要する事なるべし



〔参考〕竜門雑誌 第四六四号・第六―七頁 昭和二年五月 諸々の回顧(五)(青淵先生)(DK160090k-0012)
第16巻 p.567-568 ページ画像

竜門雑誌  第四六四号・第六―七頁 昭和二年五月
  諸々の回顧(五)(青淵先生)
    私の関係した鉄道に付て
○上略
 日清戦争後、日本は朝鮮に対して大いに威力を増した。従つて朝鮮と暫定条約で以て鉄道の敷設の権利を得たのでありますが、廿八年三浦公使が、朝鮮の王妃を殺した為めに朝鮮王は甚だしく日本を嫌がるやうになりました。それで日本の方から仕事を持ちかけるキツカケがなくなつて居た時、米人ゼームス・モールスが東洋で事業を起さうとして渡来し、遂に朝鮮王と鉄道敷設の契約を為し、コールブランをして京城・仁川間の鉄道工事を始めさせた。処が廿九年頃モールスとコールブランとの契約がよくなかつたと見え工事が進まないので困却し権利を売つてもよいとモールスが大川(平三郎)などに話したから、大川が其事を私の処へ云つて来ました。是より先私は朝鮮とは暫定条約も出来て居るのに、鉄道を外人の手で敷設するやうでは困ると、時の外務大臣たる大隈さんに話し、自分等の手でやり度いと、廿九年前島密・大江卓・竹内綱等と共に主唱となり、廿九年冬か三十年かに京釜鉄道敷設の願書を出して置きました。然るに此鉄道は距離も長く従つて資金も多額を必要とするのであるが、モールスのやつて居る京仁鉄道は短距離で二百万か二百五十万位で出来るものであり、工事も既に始めて居たから、之を京釜鉄道の仲間とは別に、一つのシンジケートを作つて買収しようとの議を進めました。参加者は三井・岩崎・安田・大倉・今村等で、之を大隈さんに話した処、結構であると云ふので買収の契約をしました。但しモールスの手で工事が半分位は出来て居たから、その金を支払つてやらねばならぬのに、此の資本が一時に出せない関係上、政府の金を百万円ばかり無利息で借入れて支払ひ、
 - 第16巻 p.568 -ページ画像 
残りは依然モールスの手でコールブランに工事をやらせ完成してから渡すと云ふことにしました。当時私は朝鮮の金融と運輸とは日本人の手でやらねばならぬと考へて居りました。処が内閣が更迭して伊藤さんを総理とする内閣が成立し、井上さんが大蔵大臣になりました。ところが井上さんと私とは前から極く懇意な間柄であつたのに、此の京仁鉄道買収に関し「政府の資金を融通すると大隈が約束したのは不法である」と云ひ、之を破棄しやうとしたから、私は大蔵大臣邸に井上さんを訪ねて、大議論をやり、遂に「国家には代へられぬ、重大事件を看過しやうとするならば、今後貴方とは交際しない」と云ひ放つた処、井上さんも「交際しなくともよい」とて絶交までにならうとしました。其処で私は此事を伊藤さんに話した処、伊藤さんが「まあ怒つてくれるな」と云ひ、結局伊藤さんの心配で借りることが出来たのであります。斯くて政府の援助は受け得たが、コールブランの工事が捗らないので、中途から足立太郎をやり、三十三年の十一月に完成しました。私は完成前三十一年に渡韓し、開通式の時にも、重ねて行つたが、王様の名代も来て中々盛大でありました。誠にこれは波瀾も多かつたが意義のある鉄道であります。
○下略



〔参考〕渋沢栄一書翰 石井健吾宛(明治三三年)一〇月三日(DK160090k-0013)
第16巻 p.568 ページ画像

渋沢栄一書翰  石井健吾宛(明治三三年)一〇月三日  (石井健吾氏所蔵)
拝啓益御清適奉賀候、然者李大王対コールブラン氏之件ニ付佐藤弁護士より提出之答弁書一覧之為め御廻付被下忝奉存候、右ニ付而ハ過日証人として区裁判所へ罷出、同弁護士にも会見いたし候ニ付玆ニ本書返却仕候、先方へ御厚意之段宜敷御謝詞頼上候 匆々不一
  十月三日                  渋沢栄一
    石井賢契
       座下



〔参考〕渋沢栄一 日記 明治三四年(DK160090k-0014)
第16巻 p.568 ページ画像

渋沢栄一日記 明治三四年           (渋沢子爵家所蔵)
二月三日 晴
○上略 直ニ帝国ホテルニ抵リ京仁鉄道会社社員ニ於テ開会スル余ニ対スル慰労会ニ出席ス、午餐中種々ノ談話演説等アリテ頗ル歓ヲ尽ス ○下略