デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

6章 対外事業
1節 韓国
5款 韓国興業株式会社
■綱文

第16巻 p.600-610(DK160097k) ページ画像

明治39年6月(1906年)

是月八日、栄一第一銀行ノ要務ヲ帯ビ東京ヲ出発シテ韓国ニ渡リ、七月十八日帰京ス。此間六月十五日北韓兼二浦ニ赴キ、韓国興業株式会社ノ業務ヲ視察ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三九年(DK160097k-0001)
第16巻 p.600-601 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三九年        (渋沢子爵家所蔵)
三月六日 晴 軽暖              起床六時三十分就蓐十一時三十分
○上略
此日午前十時ノールヴヱー代理公使ノ来訪ニ接ス、韓国竜岸浦森林ノ事ニ関シ談話アリ、依テ尾高次郎ヲシテ其事ヲ支岐信太郎ニ伝ヘシム○下略
  ○中略。
三月十二日 晴 軽暖             起床八時就蓐十二時
○上略 本多岩次郎氏来リ韓国養蚕ノ方法ニ付種々ノ談話アリ、曾テ技師
 - 第16巻 p.601 -ページ画像 
林弾作氏派遣ノ時調査セシ報告書ノ写ヲ寄セラル○下略
  ○中略。
六月十一日 晴夕方雨 暑           起床七時就蓐一時三分
起床後日記ヲ調査ス、朝飧後数多ノ来人ニ接ス、殊ニ迫間房太郎来リテ韓国農事改良談ヲ為ス○下略
  ○栄一此日釜山ニ在リ。
  ○中略。
六月十五日 晴 暑              起床六時就蓐十一時三十分
起床後直ニ朝飧ヲ為シ兼二浦農場一覧ノ為ニ午前八時平壌発ノ汽車ニ搭ス、十時黄州駅ニ抵リ更ニ兼二浦行ノ汽車ニ搭シ十一時兼二浦ニ達ス、農場ノ農民数多来リ迎フ、尾高・宇都二氏ノ案内ニテ社員ノ合宿所ニ抵リ先ツ社員一同ヘ訓示ノ辞ヲ為シ、更ニ小作人・世話役及一般小作人中ノ重タル韓人六十名余ニ会社成立ノ趣旨ヨリシテ将来施設ノ方針等ヲ丁寧ニ諭示ス、畢テ社宅ニテ午飧シ、午後一時頃農場中ノ一邱ニ上リテ各農場ヲ一覧ス、四時帰社、午後五時過兼二浦発ノ汽車ニテ黄州ニ抵リ七時過平壌ニ帰宿ス、此日菊地理事官・山田財務官・茂木氏等同行ス、終日快談
  ○中略。
六月十九日 晴 暑              起床五時就蓐十二時三十分
起床後直ニ朝飧ヲ畢リ六時鎮南浦ヲ発ス○中略六時過出帆九時過兼二浦ニ抵リテ上陸シ興業会社事務所ニ休足シ午飧ヲ為ス、午前十一時過兼二浦発ノ汽車ニテ黄州ニ抵リ京城行ノ汽車ニ搭シ夜九時四十分京城ニ着ス○下略
  ○中略。
七月一日 雨 冷               起床七時就蓐十二時
○上略 午飧後市原・竹山・三島三氏ヲ会シテ向後銀行執務上ノ注意ヨリ外方接遇ノ心得方等マテ詳細ノ談話ヲ為ス、更ニ銀行事務外ノ諸務稷山金鉱ノ件、興業会社ノ件、人力電気《(マヽ)》ノ件及瓦斯事業其他ノ事共ヲ談話ス、三時伊藤統監ヲ訪ヒ告別シ、更ニ目賀田顧問・長谷川大将等ヲ歴訪ス○下略
  ○中略。
七月三日 曇 冷               起床六時就蓐十二時
○上略 三浪津ニ抵レハ鹿沼伝十郎来ル、共ニ釜山ニ抵ル、鹿沼ハ韓国興業会社々員ニテ養蚕業専門ノ人ナリ、車中地方養蚕桑樹ノ事ヲ談ス、聴クヘキモノアリ、六時三十分草梁ニ着ス○下略
七月四日 曇 涼
○上略 十時過大邱ニ抵ル○中略此地ニ人車ナキヲ以テ輿ニ乗リテ市中ヲ一覧シ、十二時頃達城館ニ抵リ地方有志ノ饗宴ヲ享ク、午飧畢リテ後一場ノ講話ヲ為シ専ラ韓国農事改良ヲ説ク、午後三時過大邱ヲ発シ三浪津ニ抵リ馬山浦行ノ汽車ニ乗替ヘ夜八時過馬山浦ニ着ス○下略


竜門雑誌 第二一八号・第三七頁 明治三九年七月 ○青淵先生渡韓日誌梗概(DK160097k-0002)
第16巻 p.601-602 ページ画像

竜門雑誌  第二一八号・第三七頁 明治三九年七月
    ○青淵先生渡韓日誌梗概
青淵先生には第一銀行の要務を帯び去る六月八日出発渡韓、七月十八
 - 第16巻 p.602 -ページ画像 
日無事帰京せられしが其間日々の記事及視察談等は逐て詳細に本誌に掲載を乞ふこととなし、唯々此処には不取敢旅行中の経過を最も分り易きよう極めて簡単に摘録することゝなせり、読者諸君其心して一覧せられんことを望む(編者識)
○中略
同○六月十五日 快晴 午前八時二十分平壌発の列車にて兼二浦に於ける韓国興業会社業務の視察に赴かる、菊池理事官及財務官山田周蔵氏同行す、黄州にて乗換へ十時四十分兼二浦着、興業会社合宿所に入り少憩の後社員・常雇夫等を集め執務上の心得に付て訓示あり、次に同会社の事務所に到り同社小作人・検査員及小作組長等六十名(何れも土着韓人)を召集し、同会社の方針及各自の心得に就き懇篤なる訓諭的演説を為され、終りて合宿所に於て午餉の後尾高次郎氏の先導にて兼二浦の郊外一里通称尾高山の頂上に登り一望のうちに興業会社の領内を視察せらる、午後五時十分の滊車にて兼二浦発黄州にて乗り換へ八時平壌へ帰着
○下略


竜門雑誌 第二一九号・第二頁 明治三九年八月 ○青淵先生の韓国視察談(DK160097k-0003)
第16巻 p.602 ページ画像

竜門雑誌  第二一九号・第二頁 明治三九年八月
    ○青淵先生の韓国視察談
○上略
    △大阪朝日新聞(七月十三日掲載)
日本化せる朝鮮 今次韓国歴遊中に先づ感じたるは、韓国の進歩開発歴々として指摘し得べきもの少からざるの一事なり、然れども仔細に之を翫味すれば実は韓人の進歩せるに非ずして、戦勝の日本人が其の鬱勃たる鋭気を韓半島に注ぎ因りて以て扶殖し得たる日本的勢力の反影に外ならず、故に韓国若くは韓人が開発せられたりと云はんよりは寧ろ邦人の勢力が韓国を日本化せしめたるものと解する方妥当なれ
朝鮮は農国なり 予の見る所を以てすれば遠き将来は知らず、韓国は先づ当分農業立国の方針を以て、進むの外なかるべし、耕作すべき沃野、灌漑の用に足る清流到る処に存するのみならず、韓人は概して農耕に適し加ふるに気候は温暖なり、農国の要件を具備せるものならずや、之に反して工業の発達は韓国に向つて容易に望まれず、第一工業労働者の殆ど皆無なる事、第二石炭の欠乏の如き孰れも工業発達上の致命傷にあらざるはなし、是れを以て予は
韓国蚕業奨励 の一端として先づ予等の経営に係る韓国興業会社の所有に属する平沢の約千歩を始め三浪津・木浦・平壌方面の土地に桑樹を植付くるに決し、三浪津には今回二十五万本の桑苗を植付しめ漸次小作韓人の副業として養蚕業を起さんことを望み、他方に於ては同質の米豆を収穫して市場販売の便を謀らん為、種子を一定して小作人に配給し均等の品質ある収穫を得るに力めしめんとす、斯の如く自他共に農事改良に熱中して盛に韓国の富源を開拓せんことを望むと同時に予は韓国政府若くは我が政府に向つて注文なき能はざるなり○下略


竜門雑誌 第二一九号・第七頁 明治三九年八月 ○青淵先生の韓国視察談(DK160097k-0004)
第16巻 p.602-603 ページ画像

竜門雑誌 第二一九号・第七頁 明治三九年八月
 - 第16巻 p.603 -ページ画像 
    ○青淵先生の韓国視察談
○上略
    △報知新聞(七月二十一日掲載)
○中略
将来は農業 さてかくの如く観察し来つて韓国の将来は何に依りて富ますべきかといふに、商業貿易にもあらず農業であらう、地味は一体に肥沃で播種すれば手を労せずして収穫がある、兼二浦・木浦等の数ケ所に設けられたる韓国興業会社の田園は頗る好結果を得つゝある、農民も正直で決して作物収穫を胡魔化す事なく、規帳面に会社に納める、京城辺の人民こそ信を置き難いが、内地の農民に至つては愛すべき性質を認めるのである
○下略


竜門雑誌 第二二〇号・第一―二頁 明治三九年九月 ○青淵先生の経済界前途談(DK160097k-0005)
第16巻 p.603 ページ画像

竜門雑誌  第二二〇号・第一―二頁 明治三九年九月
    ○青淵先生の経済界前途談
 本編は青淵先生が此程自由通信社員に談話せられ各新聞紙上に掲載せられしものなり
○中略
更に朝鮮を見んか個人としての鉄道並に銀行の事業は或程度までの成効をなしたるも、此上更に農業上の改良より水道・鉱山・材木等の前途亦実に我活動を要すべきもの甚だ鮮からず
○下略


竜門雑誌 第二二二号・第一―九頁 明治三九年一一月 ○神戸高等商業学校に於ける青淵先生の演説(DK160097k-0006)
第16巻 p.603-604 ページ画像

竜門雑誌  第二二二号・第一―九頁 明治三九年一一月
    ○神戸高等商業学校に於ける青淵先生の演説
 本編は去七月十一日青淵先生か韓国よりの帰途神戸高等商業学校長水島鉄也氏の求に応じ同校に於て演説せられたるものゝ筆記にして演説の要旨は商業教育及韓国近情に係れり、今同校々友会発行雑誌掲載の儘全文を転載す
○中略
昨年来土地に就て力を入れる様に成り韓国興業会社を起す事に成りました、思ふに彼の国は如何にしても商工業も勤《(勧)》めねばならぬが先づ農業も開展せねばならぬ、就ては合本法の点は出来得る丈け進めねばならないが、養蚕・棉花を奨むる事は、大に属望し得るに足るらしい、仮に此等の額が現今の貿易額の十分の五を増したならば、十分の五丈け吾等の貿易が韓国に対して進む事となる、其れ故に帝国として彼の国に対する経営は種々の方面にあるけれども、私は農にありと断定します
又た最後に望ましき事は従来我国の人が韓国に到つて経営するのは、『ブツタクリ主義』『一攫千金流』であつたが此れは宜しく無い、斯く今日の如くに統監府の在る処故国民と同一の考へで韓人に対して『腰掛主義』や『掠奪主義《ブツタクリ》』を廃めて『居坐主義《イスハリ》』『文明主義』になる事を奨めます(笑)
私の考へでは今四五年も経たならば今日の韓国の農業界は大に発達す
 - 第16巻 p.604 -ページ画像 
るだらう、果して然らば我国は夫れ丈け韓国に帝国の畑を増したと申しても過言でありません、且つ韓国人の多数は豪い性質ではありません、知恵が無いと言はざるを得ませぬが政治界の人及び商人でも京城辺で多方面に関係する人は別として、田舎の人も約束を重んじ従順な点は大に愛すべき事だと思ひます、此れは私が空に述べるのではありません、前述の韓国興業会社が土地を有して小作を為さしめ、何千人の人が約束を重んじて小作料を支払ふ事の醇朴なのを見て言ふのです将来帝国多数の人の仕向け次第で韓国を立派にする事が出来ない筈はありませぬ、私は唯一覧した事を一通り申し上げるばかりですから御参考にも成りますまいが、一応韓国の模様を御聞きに達したのであります(拍手大喝采)


渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK160097k-0007)
第16巻 p.604 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四〇年         (渋沢子爵家所蔵)
四月四日 晴暖                 起床九時就蓐十一時三十分
○上略 午後四時兜町ニ帰リ第一銀行ニ抵リ、韓国興業会社ノ重役会第一銀行ノ重役《(会脱)》ヲ開キ○下略
  ○中略。
四月十五日 曇暖                起床九時就蓐十一時三十分
○上略 午後二時同気倶楽部ニ抵リ日清保険会社発起人会ニ出席シ、会議畢テ馬越・日下二氏ト興業会社ノ事ヲ談ス○下略
  ○中略。
五月十六日 晴暖                起床七時
○上略 正午第一銀行ニ於テ午飧シ食後重役会ヲ開キ要件ヲ議決ス、四時頃ヨリ韓国興業会社重役会ヲ開ク○下略
  ○中略。
五月二十三日 曇涼               起床七時就蓐十一時三十分
○上略 十二時過第一銀行ニ抵リ重役会ヲ開ク、畢テ韓国興業会社ノ事ヲ談ス○下略


渋沢栄一書翰 野口弥三宛(明治四〇年)六月二三日(DK160097k-0008)
第16巻 p.604 ページ画像

渋沢栄一書翰  野口弥三宛(明治四〇年)六月二三日   (野口弥三氏所蔵)
○上略
  六月廿三日
                        渋沢栄一
    野口弥三様
        梧下
  尚々尾高も一昨日興業会社用向ニて貴地へ罷越候○下略


竜門雑誌 第二三二号・第四頁 明治四〇年九月 ○新協約と韓国の実業(青淵先生)(DK160097k-0009)
第16巻 p.604-605 ページ画像

竜門雑誌  第二三二号・第四頁 明治四〇年九月
    ○新協約と韓国の実業(青淵先生)
 此篇は京浜実業新報記者が先生の談話を筆記して同新報第五十九号(八月十五日発行)に掲載せるものなり
○中略
以上は即ち政治的方面に於ける、韓国の保護政策なるが吾人は進で実業的方面に就て一言する所なかるべからず。元来韓国は農業を以つて
 - 第16巻 p.605 -ページ画像 
主たる産業となすと雖も、吾人は寧しろ商業及び工業を以つて有望なりと認むるものなり○下略


竜門雑誌 第二三五号・第三一―三三頁 明治四〇年一二月 ○韓国興業株式会社黄州農場の景況(DK160097k-0010)
第16巻 p.605-606 ページ画像

竜門雑誌  第二三五号・第三一―三三頁 明治四〇年一二月
    ○韓国興業株式会社黄州農場の景況
                  韓国興業会社員某氏報告
韓国興業株式会社第一号の農場たる黄州出張所にて明治三十七年以来買収したる耕地結数は千七百二十二結にして、此日本反別は約畑五千二百町歩水田百五十町歩に達し、其買収代価金三十三万二千三百七十円、此面積は黄州郡十八坊中松林・木谷・清源・九林・永豊・慕聖・高井・敬天・天柱・斎安・州南・都峙、三十二坊に跨り隣接の鳳山郡にて鐘岩・霊泉・嵋山・文井・沙院の五坊を包む、此各坊内には数個の村落ありて其の数一百十五唈となる、買収地の周回三十五里に拡り是を一周せば七日間を要すべし、農場内小作韓民の総数八千人兼家族を合すれば優に三万人に達すべし、一年の地租納額は一万三千六百円にして単に当農場のみにても会社は韓国第一の多額を納税するものと云ふべし、会社は農場内二里三里の間隔に於て、数箇所に倉庫を設置し、此の各倉庫に毎年収入する小作取立高は大豆一万二千五百石、籾千五百石以上にして日本貨に換算せば金九万三千円の巨額となる、蓋し邦人の韓国農事経営中一区画内に斯の如き大面積を管轄するものは他に其例を見ず、而して買収の面積一地方に集団して鉄道及び河川の便あるものも亦他に其比なし、当出張所の主任は法学士間崎道知氏にして古閑豊記・目黒銀治・萩原連の諸氏主任を補け、明治三十七年創業着手の際より引続き其管理に任じて今日に至れり、今回会社専務取締役尾高次郎氏は技師長小西文之進氏を帯同して農場視察のため三浪津・太田・平沢・木浦の会社各農場を経て最後に当黄州出張所に来られ、十日間滞在したるを機会とし十月二十一日小作人の重なる韓人監督員各村長百余名を事務所に召集し、本年小作取立に関する会社の大方針を発表し、且つ会社と小作韓民間に益々懇親の基を立てんが為め大祝宴会を開きたり、今其概況を記せんに当日天気晴朗にして恰も日本の四五月頃の日和に似て群鶴高く晴空に舞楽し、一群去て一群来るの状日本に於て到底観るべからざる光景なり、会社大倉庫の広庭三百坪を立食会場に宛て、入口に大緑門を作り日韓の国旗を交叉し種々なる装飾を施して韓人の眼を奪ふ計り、場の中央に長柱を建て、綱を四方に張りて之に多数の万国々旗を翻し、立食の卓を列ねて四方に幕を張れり、午後二時尾高氏特得の手術たる大煙火轟然一発中天に昇るを合図に、監督員韓人一同を事務所の庭前に整列せしめ、間崎主任開会の辞を陳べ、次に尾高専務取締役は各監督員が会社の招命を奉じ時刻を違へずして遠路来集せし労を慰め、会社が韓国の農事を経営するは単に会社一個の利益を計るに非ず、進で農事改良の模範を示し、韓国の農産物を増殖せしめて、日韓両国の幸福を計らんとするの目的なる事を説明し、将来永遠に小作人と会社と互に和親協同して福利を享受せざる可らずとの主旨を演説し、次に小西支配人は農業上の改良施設に関して簡単に説示するところあり、是より参集者一同を式場に案内
 - 第16巻 p.606 -ページ画像 
す、式場を入れば事務員へは会社より西洋手拭と茶菓とを各自に分与して帰村の際の土産となさしめ、余興には韓国古式の朝鮮楽隊及び韓人の綱渡り等あり一同卓に就きて酒杯を挙げ宴酣にして韓民の総代は杯を挙げて会社の万歳を三唱し、尾高氏は小作人一同の万歳を唱へて是に酬ふ、来集一同此声に和し和気洋々として益々興の深きを覚ふ、韓人の綱渡は一種の軽業なれども日本式とは甚だ異なり錨綱程の太縄を地上十五尺の高さに張り、軽業師は此綱を渡りて音楽につれ舞ふ事様々にして頗る面白き余興なり、此時会社は別に煙火二十一発を打上げたるが、此地方の韓人等は烟火なるものを初めて見るが故に、此不可思議なる光景に驚歎せざるものなく、この爆声を聞て遠近より来集せる韓人千五六百人に達せり、当日重もなる来賓は黄州守備隊長以下将校三名、黄州郡守・税務官・鉄道運輸課技師・黄州停車場駅長を初め財務補佐官・郵便局長等十七八名、黄州郡守は本日特に官妓三名を誘ふて献酬の間に斡旋せしむ、誠に黄州初めての盛大なる景況にして韓民の満足此上なく、斯の如く鄭重なる馳走に預りては光栄何ものかこれに如かん、付ては小作取立の際其他平日に於て一般小作民等を統卒し会社の為めに十分尽力して厚意に酬ひざるべからざる旨を異口同音に唱へ日没頃漸次退散せり
斯の如く地主たる会社は小作人を愛撫懐柔するに務め、小作人たる韓民は会社を信頼するが故に警察・教育・行政向の世話迄も会社にて取扱ふこととなり、地主と小作人間の情誼深厚の度、年一年に増加し来り、未だ一回も相互の意思疏通を欠きたる事なく、小作取立に付ても何等議論苦情の起りたる事なきは会社の経営指導其の宜しきを得て今日の成蹟を挙げたる所以なる可し


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK160097k-0011)
第16巻 p.606-607 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四一年          (渋沢子爵家所蔵)
一月十六日 晴 寒
○上略 午後二時第一銀行ニ抵リ重役会ヲ開ク○中略畢テ韓国興業会社ノ重役会ヲ開キ要件ヲ議決ス○下略
  ○中略。
二月二十日 晴 寒
○上略 午後一時第一銀行ニ抵リ重役会ヲ開キ種々ノ要件ヲ議決ス、韓国支店ニ係ル重要ノ問題ヲ協議ス○中略韓国興業会社重役会ヲ開キ小西支配人ノ意見ヲ聞ク○下略
  ○中略。
三月八日 半晴 軽寒
○上略 十一時ヨリ韓国人七名来ル、蓋シ日韓興業会社ノ小作方事務員等ナルカ、今回会社ニテ此輩ノ勤勉ヲ慰籍ノ為メ出京ヲ命セシニヨリ、今日之ヲ招宴シタルナリ、尾高次郎・篤二等モ来会ス、夕方一同散会ス○下略
  ○中略。
三月十六日 雨 寒
○上略 十二時第一銀行ニ抵リテ午飧ス、食後韓国興業会社重役会ニ出席ス○下略
 - 第16巻 p.607 -ページ画像 
  ○中略。
十月二日 半晴 涼
○上略 午前十時第一銀行ニ抵リ重役会ヲ開キ○中略午飧後韓国興業会社重役会ニ出席シ将来ノ経営ニ関シテ種々ノ意見ヲ述フ○下略
  ○中略。
十一月五日 晴 冷
○上略 四時再ヒ第一銀行ニ抵リ重役会ヲ開キ要務ヲ議決ス、畢テ韓国興業会社ノコトヲ談ス○下略


(八十島親徳) 日録 明治四一年(DK160097k-0012)
第16巻 p.607 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治四一年      (八十島親義氏所蔵)
三月八日 晴 寒シ 日曜
○上略 夕刻韓国興業会社所有地部落世話掛数名ヲ若主人主トナリ兜町ヘ招カレ饗応セラル、蓄音機及幻灯等ニテ也、予ハ早ク辞ス○下略
  ○中略。
三月十四日 晴
○上略 夕韓国興業会社小作人取締韓人目下上京中ノ七名ヲ尾高専務ガ日本橋クラブニ招クニ付陪賓トシテ招カル○下略


渋沢栄一 日記 明治四二年(DK160097k-0013)
第16巻 p.607 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四二年          (渋沢子爵家所蔵)
三月十八日 曇 軽寒
○上略 午後一時第一銀行ニ於テ午飧ス、後同行重役会ヲ開キ要件ヲ議決ス、畢テ韓国興業会社重役会ヲ開ク○下略



〔参考〕竜門雑誌 第二五八号・第五一―五四頁 明治四二年一一月 韓国産活牛の利益(DK160097k-0014)
第16巻 p.607-609 ページ画像

竜門雑誌  第二五八号・第五一―五四頁 明治四二年一一月
    韓国産活牛の利益
 本篇は韓国興業株式会社の寄稿に係り韓牛耕耘の利を説けるなり、掲げて斯業者の参考に資す
△牛一頭の耕耘力 近年農夫の労銀著しく騰貴せしを以て一般農家の収益は次第に減少し、本年の如く穀価下落する時は豊年却て凶作を意味するものあり、養蚕業の如きは最も人力を多く要する事業なるが故に繭価は以て労銀を償ふに足らす、之を営みて却て損失を招くの傾向あり、而も労銀の騰貴は今後尚底止せさる勢ありとすれは我農家は是非とも此高価なる人力を省略し之に代ゆるに低廉なる耕耘力を以てせさるべからず、我国に於て最も農業の発達したる九州及中国筋に在ては耕耘に活牛を使用するの風次第に流行するに至りしもの、蓋し牛耕が人力を省略すること多大にして農家の利益尠少ならさるに由らずんばあらず、是を実験に徴するに牛壱頭の耕耘力は克く強壮なる農夫五人の労力に対比することを得ればなり、然るに大阪以東関東及東北の諸国に於ては活牛稀少にして其市価甚貴く、一頭八九拾円以上弐参百円に達するが故に一般農家の資力を以てしては之を購求すること容易ならず、是に於て古来牛を耕作に応用せず、水田多き村落にて僅に馬耕の経験を知ると雖ども畑地多き里邑にては牛馬耕の方法すら全く忘却するに至りしなり
△九州地方と牛耕 九州及中国地方に於て、夙に耕牛の利を認めたる
 - 第16巻 p.608 -ページ画像 
は、同地方は比較的韓国に接近して便宜の地勢に居るか故に古来韓牛の輸入を行ひ、農家皆其利に頼り大に農業進歩の基を作りしは争ふべからざる事実なり、然るに大阪以東に於ては此韓牛の利益効用を解する者なく、関東より東北地方に至りては牛耕の意味を知る者すら稀なるは実に我国興業策の上に一大恨事たりし也、抑も耕耘に牛を使用するの利益彼の如くにして而して之を実用すること能はざりし理由斯の如しとすれば、若し夫れ活牛の代価にして馬匹よりも低く、一般農家の購買に適応するものならんには誰か之を使用するに躊躇する者あらんや
△農界の福音 然るに玆に我農界必至の困難を免かれ、低廉なる耕耘力を得らるべき福音を得たるを以て之を農業社界に紹介すべし、而して其福音とは即ち韓国産生牛を輸入して耕作を使役せしむる便宜の方法開けたること之なり、這般当会社に於ては韓国政府の命に拠り、釜山に於ける同国輸出牛検疫所の飼養管理方及び輸出船舶搭載方を引受たるを以て、試に本年一月韓牛数拾頭を茨城県結城郡大形村地方に送致し、同地の有志之を耕耘に使用せしに其効果顕著なりしかば、爾来三回の輸入を為し其数已に百頭に近く、同地方一般農家の嘖々たる賞賛を博しつゝありて、一度実地を目撃するときは其効用の偉大にして馬匹の如きは到底比較にも足らざるの事実に驚嘆せざる者なきに至れり、之れ豈農家の福音にあらずや、此の如く最初の試験に成効したるに依り、当会社にては此国家的利益を一般に普及するの目的を以て此頃結城郡より埼玉県大里郡八基村に二頭の韓牛を移送し、同郡内の有志百余名の参集を請ひ、実地の試験を行ひたるに是亦良好なる成蹟を挙け、啻に水田・麦畑に好適なるのみならず桑園の如き障害多き畑地に於て却て一層有効なる事実を示し、為に同地方にても早速韓牛輸入の計画を為すものあるに至れり
韓牛の効用斯の如く大にして而も其価格は如何、日本産活牛は壱頭八九拾円以上参百円にも達する高価のものなるに反し、韓牛は釜山に於て壱頭参拾円前後の価格に過ぎず、之を日本内地に輸入するも猶壱頭四拾円内外を以て需要者に供給するを得べし、今当会社が韓牛使用の効能として列挙する所を示せば左の如し
一、牛馬の力を農業に利用し人力を省く事は国利民福の基なり
二、耕作には韓国産の牝牛を用ゆること最も適当なり
三、韓国牛は水田・桑園・麦畑の耕耘に適し又荷車を挽き荷物を負ふことは日本馬よりも強く歩行は日本牛よりも速し
四、韓国牛の代価は日本産牛馬の代価の半額なり
五、韓国牛の性質は至極温和にして少しも危険なき故、婦人小児と雖ども一人にて自由に馭すことを得べし
六、韓国牛の平日飼養料は日本馬飼養料の半額にて済むべし
七、児犢生れる時は余分の利得となり、其年より児犢を農務に使役することを得べし
八、二・三年耕作に利用したる後食用肉牛として売る時は買入直段の二倍を得べく極めて利益なり
九、韓国牛の特徴は壮健・温順・機敏の三点に於て世界第一の称あり
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十、当会社は韓国政府の命により、韓国牛の検疫所飼養方並に輸出に関する事務を取扱ふことゝなれり
 以上の理由に拠り韓国生牛を日本内地に輸入し一般の興農策に資せんことを望むもの也
△耕牛又肉牛 右は当会社の広告せる要点なれども、此外馬耕との比較に於て馬は鼻取一人鋤方一人を要するも、牛は鼻取の人夫を要せざる故人手を省く趣旨に適せり、又馬には必ず蹄鉄を要するも牛は此世話を要せず、又馬は屠殺すれば価格なきに反し、韓牛は肉牛として売れば買収直段の倍額を得べきを以て、農家は平日使用せし上に二三年目には必ず三・四十円宛の不時の収益あるべき筈なり、故に多数の韓牛を買うて度々売却すること最も徳用とせざるを得ず、是れ農家第一の経済なり、又馬は性質驚き易くして、桑園の耕作などは絶対無効なり、見慣れぬ農夫の甚馭しがたき欠点あれども、韓牛は何人にても自由に馭し得るの利あり、又牛舎の副産物たる堆積肥料は農家の欠くべからざるものにして馬小屋の塵埃よりも一層良好なりとす
△韓牛は陸海軍の生命 吾人が日常食膳に供する牛肉に付ては消費者の多くは其産地の何地なるかに注意する者尠く、漠然日本牛なりと思意するならんも、実は其半数は韓牛にして東京市内に於て毎日百頭の生牛を屠るも其過半は韓牛なりと云ふ、由来韓牛は肉牛として頗る佳良なるが故に盛に中国筋より神戸市へ輸入するの例にして、彼の所謂神戸牛肉の声価を高めたるは一に此韓牛の事なりとす、故に今後も亦ますます其輸入は盛ならざるを得ず、若しそれ国家一朝有事の日は韓牛は実に我陸海軍の生命となるべきは日清・日露の戦役に際し証明したる所にして軍人社界の定論なれば統監府・韓国政府の方針も大に韓牛の改良繁殖を計り、以て日本輸送の源泉を豊富ならしめんとするにありと謂ふ
△国本培養の新紀元 韓牛の功能あること右の如し、故に本邦内各地方に之が輸入を盛にし之を使役して以て農家耕耘の経費を省くは国本の培養上正に一新紀元を画するの大策とも申すべく、実に勧業上の一大急務なると同時に軍事上平日より韓牛輸入の数を多くして、一朝事あるの日に備ふるは憂国志士の本意なるべし
尚韓牛の事に就て其詳細を知らんとする人は、東京市日本橋区蠣殻町一丁目三番地の当会社に問合はさば、当会社は喜んで之れが説明を為すべく又韓牛の購入並に其輸送手数の依頼にも応ずるもの也



〔参考〕竜門雑誌 第二五九号・広告 明治四二年一二月 広告(DK160097k-0015)
第16巻 p.609-610 ページ画像

竜門雑誌  第二五九号・広告 明治四二年十二月

図表を画像で表示韓国生牛の利益

     韓国生牛の利益  一 生牛の力を農業に利用し人力を省く事は国利民福の基なり  二 耕作には韓国産の牝牛又は閹牛(牡に去勢を施したるもの)を用ゆること最も適当なり  三 韓国牛は水田・桑園・麦畑の耕耘に適し又荷車を挽き荷物を負ふことは日本馬よりも強く歩行は日本牛よりも速し  四 韓国牛の代価は日本産牛馬の代価の半額なり  五 韓国牛の性質は至極温和にして少しも危険なき故婦人小児と雖も一人にて自由に馭す事を得べし  以下p.610 ページ画像   六 韓国牛の平日飼養料は日本馬飼養料の半額にて済むべし  七 牛舎より生ずる堆積肥料を代価に積れば年中の牛の飼養料を償ふて尚余りあるべし  八 二三年耕作に用ひたる後食用肉牛として売る時は買入値段の二倍を得べく極めて利益なり  九 韓国牛の特徴は壮健・温順・機敏の三点に於て世界第一の称あり  十 当会社は韓国政府の命により韓国輸出牛撿疫所の飼養管理方並に其輸出に関する事務を取扱ふ          ――――――――――  右韓国生牛を御購求せられんとする御方は当会社へ御照会被下候へば一切の手続を最も御便宜に取計ひ可致候也        東京市日本橋区蠣殻町一丁目三番地                  韓国興業株式会社                         畜産部