デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

6章 対外事業
2節 支那・満州
5款 湖南汽船株式会社
■綱文

第16巻 p.716-722(DK160116k) ページ画像

明治35年9月13日(1902年)

栄一、当会社創立発起人トナル。是日開カレタル創立総会ヲ以テ会社成立シ、相談役ニ就任ス。三十七年三月始メテ就航ス。


■資料

日清汽船株式会社三十年史及追補 第二七―三二頁 昭和一六年四月刊(DK160116k-0001)
第16巻 p.716-718 ページ画像

日清汽船株式会社三十年史及追補 第二七―三二頁 昭和一六年四月刊
 ○第一編 第二章 我社の前身会社
    第三節 湖南汽船会社
 揚子江に於ける外国航運の伸長は、一面に於て支那国権の喪失であつたが、其の反面に於て支那の経済的発達に資する所尠からず、此点は清国官民も認めざるを得ざる現象であつたと共に、列国の権益欲求は愈々其度を加へ、両者相俟つて遂に明治三十一年(光緒二十四年)七月清国は内河行輪章程を公布するに至つた。此の章程により、国内のみを航行する外国船は、税関に登録の手続により、開港場より内港即ち不開港地へ自由に航行し得るに至つた。即ち外国船の航行は最早開港間に限られざるに至つたのである。
 既に大東汽船・大阪商船の二社に依つて、支那国内に旭日旗の航行を見るに至つたとは謂へ、時に尚ほ後進の域を脱せざるは云ふまでもなく、対支経営の意気に燃ゆる我国が満足するには未だ程遠かつた折柄、挙国この内河行輪章程の効果に着目するに至つたのは、蓋し自然の趨勢であつた。此の結果注目の焦点となつたのは、古来両湖熟すれば天下足ると称せらるゝ大陸の中枢地であつて、就中洞庭湖の水運を有する湖南地方であつた。
 然し乍ら湖南地方は元来排外思想最も旺盛にして、加ふるに住民の性剽悍、当時欧米の宣教師さへ、其の足跡を印すること稀なる地方であつて、此処に汽船を進むるが如きは、全く決死の覚悟を要する所であつた。明治三十二年白岩氏の同志河本磯平氏が、航路開始の準備として調査の途に上り、漸く湖南に入つて風餐露宿五十余日、遂に日誌と水路見取図を遺して漢江の客舎に悶死せるが如き、事の至難を裏書するものであつた。
 斯る犠牲は反つて関係者を一層奮起せしめたのみならず、同年日本郵船会社々長近藤廉平氏は清国各地を巡遊視察して帰朝するや、東洋各方面航路と共に揚子江方面航路拡張の急務を当路の各大臣に建議するに至り、超えて明治三十四年同副社長加藤正義氏亦た此方面を視察して帰り、意見書を発表して事の一日も忽にすべからざるを説いた。玆に於て情勢漸く進展し、朝野有志の熟議する所となり、湖南汽船株式会社設立の機運漸く到つた。
 明治三十五年二月、岩永省一・原六郎・早川千吉郎・大谷嘉兵衛・大倉喜八郎・加藤正義・田辺為三郎・園田孝吉・中橋徳五郎・南郷茂光・安田善次郎・馬越恭平・益田孝・近藤廉平・男爵有地品之允・浅
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田正文・男爵渋沢栄一・白岩竜平の諸氏発起人となり、創立の議を決し、恰も開会中の帝国議会に建議したるに応じ、政府は同会社補助の議案を以て之に酬い、僅に三月七・八両日を以て貴衆両院の可決する所となつた。会社成立に先立つて議会が、之れが補助を決定するが如き、熾烈なる朝野の意気を反映するものであらう。次で同年四月十六日開催の創立委員会に於て会社定款其他を決定し、五月株式公募に着手したが、該募集書中
 「(前略)現今内ニ於テ為スベキ事業多々アルニ拘ハラズ、奮テ外ニ向ツテ困難ナル事業ヲ開始セントスルハ列国ノ支那ニ於ケル現状ニ対シ、聊カ我国運ノ伸張ニ裨益スル所アランコトヲ期シ、本事業ヲ経営仕候次第ニ御座候(後略)」
と声明せるも、亦た故無きに非ずである。
 斯くして湖南汽船会社は、明治三十五年九月十三日創立総会を開催して愈々成立、玆に五箇年に互る懸案は遂に実現するに至つた、会社の公称資本金百五拾万円(第一回及び第二回払込資本金合計七拾五万円)、額面一株五拾円であつた。創立当時の重役氏名は左の如し。
   取締役会長     加藤正義氏
   専務取締役     白岩竜平氏
   同         土佐孝太郎氏
   取締役    男爵 有地品之允氏
   同         中橋徳五郎氏
   監査役       大谷嘉兵衛氏
   同         田辺為三郎氏
 会社発起人或は株主として当時我国に於ける財界一流の士を網羅したが、就中特筆すべきは、畏くも 帝室に於かせられては内蔵頭名義を以て当社株式を所有遊ばされ、関係者をして感激措く能はざらしめた一事である。
 会社成立の後二日(九月十五日)にして逓信省は補助命令書を交附したが、補助の法式は従来の如き航路補助とは異り、
 会社設立登記ノ日ヨリ起算シ五箇年間、営業開始前ニ在リテハ払込株金ニ一箇年六分ノ利子ヲ交付シ、営業開始ノ後ニ在リテハ会社ノ利益一箇年六分ニ達セサルトキハ六分ニ達スルマテ其不足ヲ補給スヘシ。利子補給額ハ如何ナル場合ト雖モ、株金払込総額ノ一箇年六分ニ相当スル金額ヲ限度トス。
と云ふにあつた。而して政府は会社に対し、汽船三隻を以て湖南航路を経営すべきを命じ、又、株式は外国人をして所有せしむることを得ず、但し総額五分一以下は清国人に限り所有せしむることを得、と命令した。
 玆に於て会社は本店を東京市(日本橋区本材木河岸五十四号地)に置き、専用浅吃水船二隻の建造に着手すると共に、諸般の準備を進めたが、既述せる如く湖南省の排外思想強烈にして事容易ならず、或は長沙に波止場を購入せんとして妨害百出、遂に時の漢口総領事山崎桂氏自ら再三出張して辛うじて目的を達したるが如き○中略其の一例にして其他の苦心惨憺たるものを要し、漸くにして漢口に支店を、長沙に
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出張所を設置するを得た。
 此間新造船の工進み、明治三十六年末沅江丸及び湘江丸(共に九三五噸)の二隻竣工したるを以て、之を廻航し、愈々明治三十七年三月沅江丸を第一船として漢口―湘潭航路(二百四十六浬)を開始した。毎月八航海(但し減水期を除く)、途中長沙に寄港し、新堤・宝塔州・城陵磯・岳州府・蘆林潭・湘陰・靖港に停船したが、本航路は実に洞庭湖に於ける我国最初の汽船定期航海であつた。
 開航当時関係者は全く決死の覚悟を以て事に当つたが、不思議にも開航後は予期したる程の排斥を受けず、却つて地方民より愛好せらるるの結果を得、従つて貨客の輸送順調なりしも、如何にせん冬期減水期に際会すれば休航の外なく、業績は欠損を免れなかつた。然し之れ固より予期せる所であり、会社は之に屈することなく、更に明治三十九年大形船武陵丸(一、四五八噸)の建造を決し、其の工成るや廻航し翌四十年二月湖南航路に就いたが、時既に日清汽船会社創立の議熟せる際で、間もなく会社の一切を挙げて合同に参ずるに至つた。


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK160116k-0002)
第16巻 p.718 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三三年        (渋沢子爵家所蔵)
四月《(五)》七日 晴
○上略浜町常盤屋ニ抵リ白岩竜平氏ノ招宴ニ参列ス、園田・加藤・浅田・岩永・渡辺洪基諸氏来会ス、近衛公爵モ来会ス、清国湖南ニ於テ滊船航通ノ業ヲ開ク事ヲ談話ス○下略


渋沢栄一 日記 明治三五年(DK160116k-0003)
第16巻 p.718 ページ画像

渋沢栄一日記 明治三五年 (渋沢子爵家所蔵)
二月一日 雨
○上略午後二時帝国ホテルニ抵リ、白岩竜平氏ヨリ請求セラルヽ清国湖南航路開設ノ事ヲ談ス、来会スル者益田・大倉・馬越・園田・近藤・加藤・岩永・有地其他数名アリタリ、大体ニ於テハ開設ノ事ニ決シ、其施設ノ法案及順序ハ余ト近藤・加藤及白岩トニ於テ担当スルモノト定メ、散会セリ○下略
   ○中略。
三月七日
○上略日本郵船会社ニ抵リ、近藤・加藤・早川・園田・岩永・白岩ノ諸氏ト湖南航路ニヨリテ一ノ滊船会社組織ノ事ヲ議シ、其株式募集及役員撰定等ノ事ヲ協議ス○下略
   ○中略。
四月九日 雨
○上略三時日本郵船会社重役会ニ出席ス、湖南滊船会社ノ事、海事協会ノ事ニ関シ種々ノ協議アリ○下略
   ○中略。
四月十六日 晴
○上略十一時銀行倶楽部ニ抵リ湖南滊船会社設立ノ事ヲ談ス○下略
   ○栄一是年五月夫人同伴ニテ欧米漫遊ノ途ニ上リ、十月末日帰朝。
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青淵先生公私履歴台帳(DK160116k-0004)
第16巻 p.719 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
  民間略歴(明治二十五年以後)
○上略
 湖南滊船株式会社相談役 卅五年八月三十日
○中略
   以上明治四十二年六月七日迄ノ分調


中外商業新報 第五四七八号 明治三三年五月八日 清国湖南航路の開始(DK160116k-0005)
第16巻 p.719 ページ画像

中外商業新報 第五四七八号 明治三三年五月八日
    清国湖南航路の開始
今回清国湖南航路を開始するに就き大東滊船会社の白岩竜平氏は近衛公爵・曾我子爵・古市逓信次官・渋沢栄一・園田幸吉《(園田孝吉)》・加藤正義・岩永省一・渡辺洪基・浅田正文・有嶋武の諸氏を昨夜浜町常磐に招待して懇談する所ありし由


中外商業新報 第六〇二七号 明治三五年二月二六日 湖南汽船会社の創立(DK160116k-0006)
第16巻 p.719 ページ画像

中外商業新報 第六〇二七号 明治三五年二月二六日
    湖南滊船会社の創立
今回東京及大坂等の大資本家発起となり資本金百五十万円を以て湖南滊船株式会社を起し、清国漢口を起点とし岳州を経て長沙に至り、更に湘水を溯つて湘潭に至る距離三百廿五哩間の航行に従事せんとし、既に其筋に向て年六朱の利子補給を請願したる由なるか、差向き資本金八十五万円(或は其筋の注意に依り九十万円に改めたりとも云ふ)を払込み、七百噸の滊船三隻を新造して之に当らしむる筈にて、漸次航路を拡張し、沅水を溯り常徳に達すへき予定なりと云ふ、尚ほ湖南地方は四川に次げる豊沃の土地にして将来頗る有望なれとも、目下未た外国人の手を同地方の企業に下したるものなく、同地一帯の人民は頗る排外主義なるも、戦争以来日本には特に同情を表し、好んて日本人の企業を迎へんとするの傾向あるのみならす清国政府に於ても遠からず常徳及長沙等を開港するに意あるか如きを以て、一朝此間に滊船の航路を開くに於ては本邦より綿糸・綿布・海産物及雑貨等を輸出し湖南地方より米・麻・薬材・石炭等を輸入するの便宜大に開け、啻に彼我の貿易関係を密接ならしむるのみならす延ては同地方一帯の開発を幇くへき有益の航路なれは、政府に於ても不日愈々之か補給案を議会に提出するに至るへしと云ふ、右発起人の氏名は左の如し
 近藤廉平  加藤正義  岩永省一  早川千吉郎
 渋沢栄一  益田孝   園田孝吉  大倉喜八郎
 田辺為三郎 白岩竜平  馬越恭平  大谷嘉兵衛
 原六郎   中橋徳五郎 安田善次郎 浅田正文


中外商業新報 第六〇六八号 明治三五年四月一七日 湖南汽船会社発起人総会(DK160116k-0007)
第16巻 p.719-720 ページ画像

中外商業新報 第六〇六八号 明治三五年四月一七日
    湖南滊船会社発起人総会
湖南滊船会社発起人総会は昨日午前十一時より銀行倶楽部に於て開会せられたるか、来会者は渋沢創立委員長を始め、加藤正義・田辺為三郎・益田孝の三創立委員及馬越恭平・早川千吉郎・岩永省一・浅田正
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文・園田孝吉等の諸氏なりしか、先つ加藤正義氏より今日迄の経過及結果を報告し次に創立委員より提出したる定款を是認し、且左の件々を議決したり
 一、本店の位置を日本橋区本材木河岸第五十四号(大東滊船会社同居)とする事
 一、株式申込期日を五月廿日より六月十日迄の見込とする事
 一、証拠金の額を二円づゝとする事
 一、株式第一回の払込金額を十二円五十銭とし払込の期日を七月廿五日より同卅一日迄とする事
 一、株主募集事務取扱銀行を第一・第三・十五・三井・三菱・帝国鴻池・住友・百三十に選定する事
 一、設立費の額を三千円以内とする事
基より発起人株数の決定をなしたるが、当日の出席者、及び安田・大倉・中橋等諸氏の引受高は左の如くなりと云ふ
 千株宛   安田善次郎 中橋徳五郎
 三百株宛  大倉喜八郎 渋沢栄一  加藤正義
 二百株宛  園田孝吉  益田孝   浅田正文
       田辺為三郎 馬越恭平  早川千吉郎
       岩永省一
次に応募高の募集に超過したる場合に当り之を決定するの方法に就いては按分法も抽籤法も両なから弊害あるに依り、兎に角其節に至り発起人に於て適当の処分をなすことに一決し、午後三時頃散会したる由尚ほ発起人全躰の引受株は概ね五千位なれとも今後発起人に加はるべき見込の人々多数あり、又発起人以外にて譲りたる株数を引受くべき交渉等も之ある由なれは実際市場に募集すべき分は案外小額となるやの摸様なりと云ふ


東京経済雑誌 第一一二九号・第七七六―七七七頁明治三五年四月二六日 潮南汽船会社発起人総会《(湖)》(DK160116k-0008)
第16巻 p.720 ページ画像

東京経済雑誌 第一一二九号・第七七六―七七七頁明治三五年四月二六日
 ◎潮南滊船会社発起人総会《(湖)》 該会社発達人総会は去る十六日午前十一時より銀行倶楽部に於て開会、渋沢栄一・加藤正義・益田孝・馬越恭平・早川千吉郎・田辺為三郎・園田孝吉・浅田正文・岩永省一諸氏の来会あり先づ加藤正義氏は其経過及び結果を報告し次に創立委員の提出せる定款を是認し、且つ左の件を議決したり
○中略
夫より発起人引受株数の協議を為し其内引受高の確定せし分は安田善次郎・中橋徳五郎(千株宛)大倉喜八郎・渋沢栄一・加藤正義(三百株宛)園田孝吉・益田孝・早川千吉郎・馬越恭平・田辺為三郎・浅田正文・岩永省一(二百株宛)等にして午後三時頃散会せる由


中外商業新報 第六一〇四号 明治三五年五月二九日 湖南航路現況(DK160116k-0009)
第16巻 p.720-721 ページ画像

中外商業新報 第六一〇四号 明治三五年五月二九日
    湖南航路現況
清国湖南航路には目下漢口を起点として洞庭湖を過ぎ湘水を溯り同河畔の湘潭に至る滊船航運業者は二会社あり、一を両湖輪船公司と云ひ一を長清輪船公司と云ふ、両湖輪船公司は清暦光緒廿四年六月の設立
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にして湘泰(四〇噸吃水五尺)湘清(一七噸吃水四尺五寸)永吉(六〇噸吃水四尺五寸)の小滊船三隻を有し、長清公司は光緒廿五年九月の創立に係り問津(五〇噸吃水五尺)楚宝(五〇噸吃水五尺)の二隻を以て同航路の使用に充つ、而して其寄港地は漢口・京口・宝搭州・新提・岳州・蘆林潭・湘陰・靖港・長沙・湘潭の各港なるか、其営業者は何れも清人に属するを以て万事不規則なるを免れす、従て其滊船発着日割の如きも到底確実を期する能はすと雖も、両湖公司に於ては目下大概六日に一回、長清公司に於ては八日に一回宛漢口・岳州の両地を出帆せしめ居れりといふ


中外商業新報 第六一三〇号 明治三五年六月二八日 ○湖南汽船会社創立委員会(DK160116k-0010)
第16巻 p.721 ページ画像

中外商業新報 第六一三〇号 明治三五年六月二八日
    ○湖南滊船会社創立委員会
湖南滊船会社にては昨廿七日創立委員会を開き、加藤正義・安田善次郎・益田孝・浅田正文・近藤廉平及白岩竜平の諸氏出席の上、株式募集の結果に関するの件並に今後の方針に就て協議する所ありしに、議論頗る多く何等の決定を見さりしか、何れ来月二日発起人総会を開きて協議することとし散会したりと云ふ



〔参考〕近衛篤麿公 工藤武重著 第三六七―三六八頁 昭和一三年三月刊(DK160116k-0011)
第16巻 p.721 ページ画像

近衛篤麿公 工藤武重著 第三六七―三六八頁 昭和一三年三月刊
 ○第九章 拾遺雑纂
    南清航運事業助成
日清戦後、公の同憂の徒白岩竜平、南方支那水路航運の事業を企て、公の援助を懇請す。公以て亦是れ清国を啓発し、其文明を利導し、施いて同文親交に資するの効果鮮からずと為し、快然として之を諾し、百方力を之に仮す。先づ大東汽船会社を起し、日清合辦の下、僅少の資を以て杭蘇鎮江の航路を開き、以て附近の運輸交通に便にす。経営者更に危険を冒して湖南の航路を調査し、政府保護の下、洞庭方面の航路を開き湖南汽船会社の名を以て、盛に事業を経営す。爾来益々航路を拡め、資金を増し、後年既設会社を統一して日清汽船会社を結び長江一帯及湖南洞庭の航路を其手裡に収む。公の此事業に力を仮すこと頗る多く、会社の創設拡張より、資本家の糾合勧誘に至るまで、煩を厭はずして其事に当り、一意事功の成果を祝福す。○下略



〔参考〕支那近代の政治経済 日華実業協会編 第四〇三―四〇四頁昭和六年一二月刊(DK160116k-0012)
第16巻 p.721-722 ページ画像

支那近代の政治経済 日華実業協会編 第四〇三―四〇四頁昭和六年一二月刊
 ○第一編 第十章 第四節 航運業
    第一款 航運業の沿革及現状
 支那の沿岸に所謂近代式汽船の現はれたのは一八三五年英国船ジヤーデン号を以て嚆矢とし、其後阿片戦争を経て米仏の汽船も亦支那に来航し、支那在住外人の為め郵便物等の運送を取扱ひ、一八六五年に至り英人は早くも香港・広東・澳門汽船会社を設立したが、其後引続き英人経営の下に支那航業会社・印度支那航業会社等続々設立せられた。支那に於ける汽船業の嚆矢は、一八六二年に資本金壱百万両にて設立された上海汽船会社で、米国商Russelが代理店で支那人も株式を所有し、其後資本を倍加し長江及北支航路をも経営したが、一八七
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一年(○清同治同十年、明治四年)招商局の設立と共に同局に買収された。爾来二十余年間支那の航運業は前記香港・広東・澳門汽船、支那航業印度支那航業及び招商局の四会社の独占する所となつた。其後一八七五年(明治八年)に日本郵船会社は米国太平洋汽船会社の上海横浜間航路船を買収し、同航路を継続することゝなり、更に日清戦争の結果下関条約に依り支那内河航行権を獲得したので、大東汽船・湖南汽船大阪商船会社等が新に長江本支流航路を開始し、支那航運業に一新機軸を開いた。斯くて内外交通の便益増大するに伴ひ、仏独の各国も支那沿岸及び揚子江の航運に加はり各国航運会社の競争愈々激烈となつた。そこで支那航運界に絶大なる勢力を有する英国船は長江航路及沿岸諸航路に於て支那側招商局と共同計算のもとに他社船の圧迫に努めたが之に対抗する為め、我が大阪商船・日本郵船の二社は一九〇九年長江航路に有せる一切の権利を挙げて合同し、更に之れに湖南汽船及び上海・蘇州間等小蒸汽船業に従事せる大東汽船会社をも合併して四社合同の日清汽船会社を組織し、漢口―常徳航路・九江―南昌線等の新航路を開始し、その面目を一新した。○下略