デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
3款 東京商業会議所
■綱文

第20巻 p.572-574(DK200066k) ページ画像

明治28年6月27日(1895年)

是ヨリ先当会議所、第二回商業会議所聯合会ノ決議ニ係ル生糸検査所設置ノ件ヲ調査中ナリシガ、六月十八日法律第三十二号ヲ以テ生糸検査所法制定セラレ、横浜及ビ神戸ニ生糸検査所設置セラレタルヲ以テ、是日ノ会議ニ於テ調査ノ必要ナキ旨ヲ議決ス。栄一会頭並ニ商業部長トシテ之ニ与ル。


■資料

第三回東京商業会議所事務報告 第三九頁 明治二七年四月刊(DK200066k-0001)
第20巻 p.572 ページ画像

第三回東京商業会議所事務報告  第三九頁 明治二七年四月刊
一 ○上略 横浜・神戸両港ニ於ケル生糸ノ撿査所ノ設置 ○中略
 本件ハ第二回商業会議所聯合会ノ決議ニ起因シ、役員会議ノ提案ニ係リ ○中略 其調査ヲ商業部ニ附託シ ○下略


第五回東京商業会議所事務報告 第六〇―六一頁 明治二九年四月刊(DK200066k-0002)
第20巻 p.572 ページ画像

第五回東京商業会議所事務報告  第六〇―六一頁 明治二九年四月刊
一横浜・神戸ノ両港ニ生糸検査所設置ノ儀調査ノ件
 本件ハ前回ニ報告シタル如ク第二回商業会議所聯合会ノ決議ニ係リ商業部ニ於テ調査中ノ処、其後同部ニ於テ調査ノ末、左ノ如ク報告書ヲ提出シタルニ付、之ヲ明治二十八年六月二十七日第四十五回ノ臨時会議ニ附シ其可決ヲ得タリ
    横浜・神戸ノ両港ニ生糸検査所設置ノ件調査報告
  本件ハ第二回商業会議所聯合会ニ於テ決議ノ結果ニ依リ、曩ニ本部ヘ其調査ヲ附託セラレタルニ付、爾後本部ニ於テハ篤ト調査中ノ処、本件ハ曩ニ衆議院ニ提案セラレ、本年二月中既ニ両院ヲ通過シ本月十七日附ヲ以テ法律トシテ発布セラレタルノ今日ニ於テハ、之カ得失ヲ研究スルノ必要ナシト議決致候、此段及御報告候也
   明治二十八年六月十九日
                商業部長 渋沢栄一
    東京商業会議所会頭 渋沢栄一殿
  ○本巻明治二十六年九月二十二日ノ条参照。



〔参考〕法令全書 明治二八年 内閣官報局編 刊 法律第三十二号(官報六月十八日)生糸検査所法(DK200066k-0003)
第20巻 p.572 ページ画像

法令全書 明治二八年 内閣官報局編 刊
法律第三十二号(官報六月十八日)
    生糸検査所法
第一条 生糸検査所ハ横浜及神戸ニ之ヲ設ク
第二条 本邦製産ノ生糸ヲ売買スル者ハ内外人ヲ問ハス検査所ニ対シ生糸ノ検査ヲ請求スルコトヲ得、但シ検査料ヲ徴セス
第三条 生糸検査所ハ農商務大臣ノ所管トシ、此ノ法律施行ニ関スル細則ハ同大臣之ヲ定ム
 此ノ法律ハ明治二十九年四月一日ヨリ施行ス
 - 第20巻 p.573 -ページ画像 



〔参考〕横浜市史稿 同市役所編 産業編・第五二四―五二八頁 昭和七年一一月刊(DK200066k-0004)
第20巻 p.573-574 ページ画像

横浜市史稿 同市役所編  産業編・第五二四―五二八頁 昭和七年一一月刊
    横浜生糸検査所と絹業試験所
 生糸検査所法は、明治二十八年、法律第三十二号を以て発布せられ同二十九年四月一日より実施された。当初生糸検査所は横浜・神戸の両市に設立され、横浜は同年八月五日、市内本町一丁目一番地に検査事業を開始した。而して神戸は同港より輸出せる生糸が極めて少なかつたので、其検査を請求する者が甚だ稀であつたから、特に之を存置するの必要がないとの理由で、其後三十四年三月限り、之を閉鎖することに為つた。
 生糸検査の事業は、伊・仏両国は素より其他の欧米諸国に於ては夙に設置せられ、生糸貿易機関として必要視されて居たので、我が政府も明治十四年の頃より、海外蚕糸検査所の来歴及び其生糸市場に於ける成績などに就いて種々調査する所あつて、之が設立の案を起草し、又同十六年、農商務省に生糸改良諮問会を開かるゝや、会衆中に其設立を建議した者もあつたので、其後に至り前記の如く実現を見るに至つたのである。而して時の農商務省蚕茶課長岡毅が横浜生糸検査所長に、又同省技師高橋信貞が同所検査部長に任命せられた。又曩に仏国に留学し彼地の製糸業及び生糸検査の事業を研究して帰朝した円中文助、其他北海道札幌農学校出身の足立元太郎、農商務省より芳賀権四郎などが相続いて技師として就任し、先づ仏国里昂検査所の検査方法に倣つて検査規則及び方法を考究し、里昂より各種の検査器械を購入して設備を整へたが、其当時は外国商館に品位検査器械を装置して自ら検査を為し、又当業者間にも未だ充分検査の必要を感得せなかつた為め、検査請求件数も微々であつたが、其後漸次此機関の利用を知悉し且つ輸出生糸の増加に伴うて検査事業の繁忙を加ふるに至り、数回の拡張を行ひ来つたが、而かも驚くべき長足の発達をして来た我が蚕業の現状に伴ひ、設備は之に応ずることが出来ず、殊に先年来数次、内外当業者の会員に由つて生糸取引法を正量売買に改めんとの希望に対し之に応ずる設備の完成を企図して居た矢先き、会々第二回帝国蚕糸株式会社解散の際、利益金中より百二十万円を生糸検査所拡張費に百八十万円を新設倉庫建築に使用すべき希望条件を以て、政府に寄附したので、前記の百二十万円に更に国庫より八十万円を支出し、合計二百万円と倉庫新設費とを併せて、三百八十万円を計上し、議会の協賛を経て、大正十二年度に於て拡張工事に著手せんとしたが、不幸にも九月一日の大震災に逢ひ、計画一時挫折の已むなきに至つた。震災直後、蚕糸を以て生命とする横浜市民は直ちに起つて蚕糸貿易復興会を作り先づ生糸貿易の復活を計つた。生糸検査所は内容の大部分は焼失したけれど、幸に建築物が存在した為め、直ちに修理復興を急ぎ、京都府生糸検査所より器械を借入れ、一方には焼残つた器械を修繕し遂に翌十三年二月より検査事務を再開するに至つた。一方神戸市に於ては直ちに生糸輸出を行はんが為め、市立生糸検査所を新設し、福井県生糸検査所より器械を借入れ、是亦、翌十三年一月より検査事務を開始した。
 - 第20巻 p.574 -ページ画像 
 斯くて横浜に於ける生糸貿易は殆ど復活し、諸種の機関は稍々復旧したので、愈々大正十四年度に於て、生糸検査所は前計画を継続し、五百万円の予算を以て市内北仲通五・六丁目に亘る旧横浜裁判所・横浜小学校・横浜絹布倉庫・横浜蚕糸倶楽部・絹業試験所農林省・神奈川県輸出絹物検査所等の敷地跡を購入し、総坪数九千四百余坪の地域を劃し、宏壮の庁舎及び倉庫の新築を了し、欧米各国に其比を見ない最新式の設備を整ふるに至つた。
 大正十五年三月二十七日、法律第三十五号を以て発布せられた輸出生糸検査法が、昭和二年七月一日より施行せられ、輸出生糸の全部に対して、強制正量検査を行ふに至つた。又内外に於ける生糸の需要供給者間の懸案であつた生糸格付方法確定の為め、本所は多年生糸の品位検査方法に就いて研鑽の結果、玆に其完成を見るに至つたので、昭和六年三月二十八日、法律第二十六号を以て、曩に発布せられた輸出生糸検査法を改正し、構内敷地に急遽増築を行ひ、大規模の品位検査設備を完成し、同七年一月一日より、新検査法の下に所謂第三者格付検査をも強制する事となつて、玆に始めて生糸貿易開始以来継続した旧商習慣を革新し、国立生糸検査所なる公設機関に因つて施行せられた公正無私の検査格付の下に、安んじて生糸の商取引を行ひ得る事と為つた。創立以来の所長の氏名、並に新任年月は次の通りである。
  (所長)         (就任年月)
  岡毅          明治二十八年七月
  酒匂常明        同 三十四年六月
  紫藤章         同 三十五年三月
  今西直次郎(所長心得) 同 四十三年九月
  紫藤章         同 四十五年七月
  本間啓太郎       大正六年十一月
  芳賀権四郎       同 八年七月