デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
1節 商業会議所
3款 東京商業会議所
■綱文

第21巻 p.597-613(DK210107k) ページ画像

明治34年2月6日(1901年)

臨時商業会議所聯合会ノ決議ニ基キ、是日栄一当会議所会頭トシテ、現時経済界ノ衰頽ヲ救済センニハ宜シク外債ヲ募集シテ内国公債ヲ償還シ、又私設鉄道ヲ買収シ並ニ幣制ヲ改革スベキ旨ヲ内閣総理大臣侯爵伊藤博文・大蔵大臣子爵渡辺国武・農商務大臣林有造・逓信大臣原敬ニ建議シ、翌七日貴族院議長公爵近衛篤麿・衆議院議長片岡健吉ニ請願ス。次イデ二十八日、大倉喜八郎等ト共ニ内閣総理大臣伊藤博文ヲ官邸ニ訪ヒ右ノ趣旨ヲ陳情ス。


■資料

東京商業会議所報告 第一〇〇号・第三―八頁 明治三四年二月刊(DK210107k-0001)
第21巻 p.597 ページ画像

東京商業会議所報告  第一〇〇号・第三―八頁 明治三四年二月刊
○第百七十二回役員会議 明治三十四年一月二十七日開
 出席者
  大倉喜八郎君     雨宮敬次郎君
  井上角五郎君     小野金六君
午前十時開議、左ノ事項ヲ協議セリ
 一 会員中村清蔵・長尾三十郎両君ノ建議ニ係ル経済整理ニ関スル件ニ付、実行委員選挙ノ件ハ次回ノ臨時会議ニ之ヲ提出スル事
 一 次回ノ臨時会議ハ来三十一日午後四時開会スル事
午前十一時閉会


東京商業会議所報告 第一〇〇号・第三―四頁 明治三四年二月刊(DK210107k-0002)
第21巻 p.597-598 ページ画像

東京商業会議所報告  第一〇〇号・第三―四頁 明治三四年二月刊
○第百一回臨時会議 明治三十四年一月三十一日開
 出席者
  井上角五郎君 ○外十七名氏名略
午後六時開議
渋沢会頭欠席ノ為メ大倉副会頭議長席ニ就キ、先ツ井上角五郎君ヨリ臨時商業会議所聯合会ノ議事ニ関スル報告アリ、猶審議ノ末該聯合会決議事項ノ処分ニ関シ左ノ如ク決議ヲ為セリ
 一 経済整理ニ関スル件
 一 国家経済ノ方針ニ関スル件
 一 協定税率ノ廃止ニ関スル件
 一 試掘鉱区課税ニ関スル件
以上四件ハ全然聯合会ノ決議ヲ是認シ、本会議所ニ於テモ其決議ノ趣
 - 第21巻 p.598 -ページ画像 
旨ニ基キ政府ヘ建議シ、議会ヘ請願スルモノトシ、其文章ノ起草ハ役員会議ニ一任スルニ決ス
○中略
右終リテ更ニ当日ノ議題ニ移リ、中村清蔵・長尾三十郎両君ノ建議ニ係ル、曩ニ本会議所ヨリ聯合会ヘ提出シテ其可決ヲ得タル、経済整理ニ関スル件実行委員選挙ノ件ヲ議シタルニ、審議ノ末委員六名ヲ選挙スルモノトシ、其中一名ハ渋沢会頭ニ是非就任ヲ請ヒ、其他ノ五名ハ議長指名スルコトニ決シ、即チ議長ハ左ノ諸君ヲ指名シタリ
                    馬越恭平君
                    長尾三十郎君
                    渋沢喜作君
                    中村清蔵君
                    小野金六君
○中略
午後六時五十分閉会


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK210107k-0003)
第21巻 p.598 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
二月六日 曇
昨夜ヨリ下痢症ニテ朝来出勤スルヲ得サルニヨリ、午後一時ノ郵船会社重役会及商業会議所臨時会ニハ電話ヲ以テ断リ遣シ、終日在宅治療ニ勉ム


東京商業会議所報告 第一〇〇号・第八頁 明治三四年二月刊(DK210107k-0004)
第21巻 p.598 ページ画像

東京商業会議所報告  第一〇〇号・第八頁 明治三四年二月刊
○二月六日、経済整理ニ関スル件ニ付、内閣総理・大蔵・農商務・逓信四大臣ヘ建議書ヲ進達ス(建議書ノ全文ハ参照ノ部第五号ニ掲載ス)


東京商業会議所報告 第一〇〇号・第八頁 明治三四年二月刊(DK210107k-0005)
第21巻 p.598 ページ画像

東京商業会議所報告  第一〇〇号・第八頁 明治三四年二月刊
○同月 ○二月七日、経済整理ニ関スル件外三件ニ付、貴族・衆議両院ヘ請願書ヲ進達ス(請願書ノ全文ハ参照ノ部第五号乃至第八号ニ掲載ス)


東京商業会議所報告 第一〇〇号・第一一―一二頁 明治三四年二月刊(DK210107k-0006)
第21巻 p.598-599 ページ画像

東京商業会議所報告  第一〇〇号・第一一―一二頁 明治三四年二月刊
 ○参照
○第五号
 明治三十四年二月六日及七日ヲ以テ経済整理ニ関スル件ニ付、内閣総理・大蔵・農商務・逓信四大臣及貴族・衆議両院ヘ進達セル建議請願書ノ全文ハ左ノ如シ
    経済整理ニ関スル建議(請願)
目下経済ノ萎靡衰憊ノ極ニ沈淪セルコトハ蔽フヘカラサルノ事実ニシテ、殊ニ民間ノ資本ノ如キハ比年益々欠乏シテ、各部ノ経済脈絡全ク其営養ヲ失シ、若シ一日ヲ緩フセハ或ハ将ニ不治ノ難症ニ陥ラントス斯ノ如キ場合ニ際シテハ須ラク速ニ之カ救治ノ法ヲ講セサルヘカラス其法他ナシ、外資ヲ輸入シテ左ノ二策ヲ断行スルニ在リ
  第一 内国公債ヲ償還スル事
  第二 私設鉄道ヲ買収スル事
目下経済界ノ萎靡衰憊ヲ根治スルノ法ハ之ヲ外ニシテ他ニ良策ナキヲ
 - 第21巻 p.599 -ページ画像 
信スルナリ、蓋シ此二策ヲ断行スルトキハ、能ク民間ノ資本ヲ充実ニシテ大ニ経済脈絡ヲ興奮スルノ効アルヘク、私設鉄道買収ニ至リテハ更ニ運輸機関ノ発達ニ裨補スル所少ナシトセス、若シ夫レ外資輸入ニ対シテ担保ヲ提供スルカ如キハ未タ以テ国家ノ信用如何ヲ云為スルニ足ヲス、要ハ只其輸入方法ノ便否如何ニ在ルノミ
今此二策ヲ断行スルニ当リ更ニ一時《(事)》ノ施設ヲ希望スルモノアリ、何ソヤ、即チ我カ幣制ヲ改良シテ硬貨主義ノ実行ヲ期スルコト是ナリ、思フニ現行貨幣制度ノ下ニ於テハ、硬貨主義ノ実際ニ行ハレスシテ金融ノ一張一弛其常ナク、動モスレハ財界ノ秩序ヲ擾乱スルコトヲ免カレス、若シ此際現行幣制ヲ改良スルコトナクシテ俄ニ多額ノ外資ヲ輸入スルトキハ、一時民間ノ資本ヲ充実ニシテ経済界ニ回春ノ効ヲ奏スルコトアルモ、幾許モナク其資本復タ欠乏シテ今日ノ萎靡衰憊ヲ再演スルノ恐ナシトセス、是亦深ク鑑戒ヲ要スル所ナリ、故ニ外資ヲ輸入シテ前ノ二策ヲ断行スルニ当リテハ、之ト同時ニ我幣制ヲ改良シテ硬貨主義ノ実行ヲ勉メ、要スルニ其根治ノ策ヲシテ完全ノ効果ヲ収メシメンコトヲ希望ス、然リ而シテ、前ノ二策ト云ヒ、将タ幣制ノ改良ト云ヒ、共ニ之ヲ実行スルニ当リテハ、予メ慎重ノ調査ヲ遂ケ、時ノ情況ニ応シテ緩急宜ヲ制セサルヘカラサルコト勿論ナリト雖トモ、此等ハ挙テ之ヲ当局者ノ施措ニ一任セント欲ス、希クハ閣下(貴院)之ヲ採納セラレンコトヲ
右本会議所ノ決議ニ依リ建議(請願)仕候也
  明治三十四年二月六日(請願ハ七日付)
          東京商業会議所会頭 男爵 渋沢栄一
    内閣総理大臣 侯爵 伊藤博文殿
    大蔵大臣   子爵 渡辺国武殿
    農商務大臣     林有造殿
                    (各通)
    逓信大臣      原敬殿
    貴族院議長  公爵 近衛篤麿殿
    衆議院議長     片岡健吉殿


第十一回東京商業会議所事務報告 第一―二頁 明治三五年四月刊(DK210107k-0007)
第21巻 p.599-600 ページ画像

第十一回東京商業会議所事務報告  第一―二頁 明治三五年四月刊
一経済整理ニ関スル義ニ付キ内閣総理・大蔵・農商務・逓信四大臣ニ建議、貴族・衆議両院ニ請願ノ件
本件ハ会員渋沢喜作君ノ発議ニ係リ、其要旨ハ、財界今日ノ極衰ヲ救済セント欲セハ、此際政府カ外債ヲ募集シテ内国公債ヲ償還シ、且ツ私設鉄道ヲ買収スルノ外良策ナシ、故ニ之ヲ商業会議所聯合会ヘ提出スヘシト云フニ在リ、仍テ明治三十四年一月二十二日第百回ノ臨時会議ノ決議ヲ経テ、之ヲ当時東京ニ開設中ノ臨時商業会議所聯合会ニ提出シタルニ、幣制改良ノ一項ヲ加ヘテ、之ヲ可決シタルニ付、更ニ同月三十一日第百一回ノ臨時会議ニ於テ其是認《(マヽ)》ヲ、建議書及請願書ノ起草並ニ提出方ハ、役員会議ニ一任スルニ決シタルニ付、其後役員会議ニ於テ起草ノ上二月六日附(請願書ハ七日附)ヲ以テ、左ノ如ク内閣総理・大蔵・農商務・逓信四大臣ニ建議シ、貴族・衆議両院ニ請願シタリ
 - 第21巻 p.600 -ページ画像 
   ○建議・請願書ハ報告所載ノモノト同一ニツキ略ス。


東京商業会議所報告 第一〇一号・第九頁 明治三四年四月刊(DK210107k-0008)
第21巻 p.600 ページ画像

東京商業会議所報告  第一〇一号・第九頁 明治三四年四月刊
○第百七十五回役員会議 二月二十八日開
 出席者
  渋沢栄一君 ○外八名氏名略
午後四時十分開議、左ノ事項ヲ決議セリ
○中略
 一 役員会議終了後、渋沢栄一・大倉喜八郎・渋沢喜作・井上角五郎ノ四君ハ相携ヘテ内閣総理大臣ヲ訪問シ、経済整理ノ件ニ付陳情スル事
午後五時閉会


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK210107k-0009)
第21巻 p.600 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
二月廿八日 晴
○上略 午後二時商業会議所臨時会ニ出席ス、役員改撰ヲ行ヒ会頭ノ再撰ヲ受ク、尋テ他ノ役員ノ撰挙ヲ為シ、其他ノ議事決了ノ上、更ニ新役員会ヲ開キ、経済ニ関スル協議ヲ為シ、直ニ伊藤総理大臣訪問ノ事ヲ定メ、大倉喜八郎・渋沢喜作・井上角五郎ト共ニ大臣邸ヲ訪ヒ、面会ノ上種々ノ談話ヲ為シ、夜九時兜町ニ帰宿ス
   ○中略。
三月二日 晴
○上略 午後二時過伊藤侯爵ヲ芝山内ノ宅ニ訪ヒ、過夕訪問談話セシ経済救治ノ件ニ関シ、更ニ意見ヲ陳ス ○下略
   ○中略。
三月四日 晴
○上略 芝山内ナル伊藤総理ヲ訪ヒ、昨日来ノ事情ヲ述ヘ、且曾テ建説セシ財政整理委員会設立ニ関スル方法ヲ討議スレトモ、総理ハ余ノ意見ハ採用ニ苦シム摸様ナリキ ○下略
   ○是ヨリ先明治三十四年一月、当会議所ハ渋沢喜作ノ建案ニヨリ本建議ト同様ノ儀ヲ臨時商業会議所聯合会ニ建案シ可決セラレタリ。本資料第二十二巻所収「商業会議所聯合会」明治三十四年一月二十三日ノ条参照。
   ○本巻明治三十三年六月五日、同年同月六日、同三十四年二月二十二日、同年十一月七日ノ各条、並ニ本資料第二十二巻所収「商業会議所聯合会」明治三十三年五月十七日、同年五月二十五日ノ条参照。



〔参考〕渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛 (明治三四年)四月一八日(DK210107k-0010)
第21巻 p.600-601 ページ画像

渋沢栄一書翰  阪谷芳郎宛 (明治三四年)四月一八日   (阪谷子爵家所蔵)
昨夜ハ御細書被下、財政整理問題ニ関する刻下之事情詳細ニ御申越被下拝承仕候、這般之大問題ニ付多少之物議相生し候ハ固より当然之事ニて驚くへき義ニハ無之と存候得共、老生ハ此問題を大蔵大臣ニ於て提出する之時機ハ、例之財政整理会成立之際ニ於てするを適当と相考居候ニ、右様突如と相発し候ハ何等之理由ニ候哉と相怪候次第ニ御坐候、併其提出之時日ハ兎も角も、既ニ整理方法として斯く措置せさるを得さるものとせハ、提出之遅速ニより其案を是非すへき等無之事と
 - 第21巻 p.601 -ページ画像 
存候、要するニ首相ハ如何なる覚悟を抱持候哉御察知有之度と存候、詰り政事界之風波ハ門外漢ニハ入説仕兼候ニ付、自身ニ於て道理と相信候処ニより、勉而静思熟慮之中ニ所信を行ふ外無之事と存候
右之段内々御答申上候 匆々不一
  四月十八日
                      渋沢栄一
    阪谷芳郎様
「小石川区原町百廿六」 阪谷芳郎様 御直展御答 渋沢栄一



〔参考〕東京経済雑誌 第四三巻第一〇六九号・第三四五頁 明治三四年二月二三日 ○経済整理意見書を読む(DK210107k-0011)
第21巻 p.601-602 ページ画像

東京経済雑誌  第四三巻第一〇六九号・第三四五頁 明治三四年二月二三日
    ○経済整理意見書を読む
国庫財政の整理は伊藤首相の唱道せる所なるが、東京商業会議所は経済整理を主張し、意見書を貴衆両院議員に配付して曰く、目下経済界の萎靡衰憊の極に沈淪せることは蔽ふ可らざるの事実にして、殊に民間資本の如きは比年益々欠乏して、各部の経済脈絡永く其営養を失し若し一日を緩ふせば、或は将に不治の難症に陥らんとす、此の如き場合に際しては、須らく速に救治の法を講ぜざる可らず、其法他なし、外資を輸入して左の二策を断行するに在り、(第一)内国公債を償還する事、(第二)私設鉄道を買収する事、目下経済界の萎靡衰憊を根治するの法は、之を外にして他に良策なきを信するなりと、余輩は我か経済界の萎靡衰憊の極に沈淪せることの事実たるを認め、其の速に救済せさるへからさることを思ふに於て、東京商業会議所と全く感を同うするものなり、然らは之を救済すへき適当の方法は果して如何、内国公債の償還も、私設鉄道の買収も、民間の資金をして増加せしむるの結果あるや論を俟たずと雖、公債償還及び私設鉄道買収の資金を外国より輸入する時は、其の取寄方は如何なる方法を以てするも、結局通貨を増加し、物価を騰貴せしむるを以て、経済界の変態は益々甚しからざるべからず、而して経済界の変態を厭はざれば、寧ろ制限外兌換券を増発して内国債を償還し、私設鉄道を買収するの簡便なるに若かざるべし、故に余輩は租税を増徴して、内国債を償還するにあらざれば、適当なる経済界の救済は得て望むべからずと、思惟せずんばあらざるなり
又意見書に曰く、右の二案を断行するに当り、更に一事の施設を希望するものあり、我が幣制を改良して、硬貨主義の実行を期すること是なり、思ふに現行貨幣制度の下に於ては、硬貨主義実際に行はれずして、金融の一張一弛其常なく、動もすれば財界の秩序を擾乱することを免かれず、若し此際現行幣制を改良することなくして、俄に多額の外資を輸入するときは、一時に民間の資本を充実にして、経済界救済の効を奏することあるも、幾許もなく其資本復々欠乏して、今日の萎靡衰憊を再演するの恐なしとせず、是亦深く鑑戒を要する所なり、故
 - 第21巻 p.602 -ページ画像 
に外資を輸入して前の二策を断行するに当りては、之と同時に我幣制を改良して、硬貨主義の実行を勉め、其の根治の策をして完全の効果を収めしめんことを希望すと、幣制を改良して硬貨主義の実行を期するとは如何なる意義なる乎、若し紙幣を全廃して、悉く正貨を流通せしめんことを期するものとせば、外国より輸入せる貨幣は多く内国に存在すべしと雖、其の得失は智者を俟たずして知るべし、即ち紙幣を以て正貨に代用するの利益は全滅すべきなり、若し又兌換券の保証準備制限高を縮少して正貨準備を増加し、若くは紙幣の発行を十円若くは五十円以上に限り、其の以下は悉く正貨を流通せしむるものとせば紙幣の流通高が減ずる丈け正貨の流通高は増加すべし、又日本銀行に於る正貨準備は増加すべしと雖、是亦正貨節制の利益を失はざるべからざるなり、斯く利益を失ふこと果して我が国庫財政の許す所なる乎又果して外国債を募集してまでも損失せざるべからざるの必要ある乎其の得失何ぞ智者を俟ちて後に知らんや



〔参考〕実業之日本 第四巻第二一号・第七―一〇頁 明治三四年一一月 根本的財界整理策(男爵渋沢栄一)(DK210107k-0012)
第21巻 p.602-605 ページ画像

実業之日本  第四巻第二一号・第七―一〇頁 明治三四年一一月
    根本的財界整理策(男爵渋沢栄一)
数年来我国の外国貿易は年々逆勢を呈し、正貨は続々海外に流出し、其結果勢ひ日本銀行をして金利を引上げしめ、従て全国の金利も亦昂進して其頂点に達し、百般の事業、悉く萎靡不振の域に沈淪したり、民間に於ては是れが為めに殆んど新事業の経営に着手するものなく、政府も亦内国市場は勿論、外国市場に於ても南阿戦争・北清事変等の影響を受けて、資金の繁忙、金利の騰貴を来したるが為め、公債を募集するの極めて不利なる窮境に陥りたるを以て、官民共に我国力の窮乏を痛嘆し、遂に財界の整理を絶叫するの已むを得ざるに至れり。而して其救治の方策として朝野の議論を顧みるに或は外資を輸入して内債を償還すべしと説き、或は鉄道を国有と為すべしと唱へ、或は外人に土地所有権を許すべしと論じ、或は政府の事業を縮少すべしと叫び或は協定税率を改正して関税を増徴すべしと説き、議論百出未だ其帰着する所を見ず。然れども吾人の所見を以てせば、我国力は未だ必ずしも窮乏せずと信ず。而して又斯等の方策たる財界整理の手段としては強ち一理なきにあらずと雖も、必ず其一を行ひ、以て其効果を完全に収むるものにあらざるべし。或は又議論として之を主張するを得べきも、実行すること能はざるものあり。若くは之を実行するを得るとするも、仮りに歳月を以てせざれば、果して成功するや否やを期すべからざるものあり。故に今日の問題は、寧ろ其捷径を取りて、斯の如き現況を来したる原因を窮め、之に対して容易に実行し得べき方策を計画するに在り。
然れども熟々過去数年間に於ける政府の財政々策を案ずるに、一言以て之を云へば、歳出入の権衡を保つに汲々是れ努め、彼の陸海軍拡張の如きも、之に応ずる歳入の増加を計るに尽瘁するのみにして、是れが為めに国民経済に如何なる反響を与ふるかを毫も念頭に置かざりしは、吾人の最も長大息に堪へざる所なり。抑も国民経済の発達は、国家財政の源泉にして、政府の歳入は其末流なりと云はざるべからず、
 - 第21巻 p.603 -ページ画像 
故に其源泉にして豊富ならざれば其の末流は潤沢なるを得ざるなり。然るに従来我政府の財政策を見るに、其源流を軽忽に附して其の末流を急要と為せり。是を以て経済界今日の不景気は、彼の民間当業者が自ら其資力の程度如何を測量せず、前後の思慮慎重を欠き、妄断にも其事業を拡張し、或は其技術の果して成功するや否やを詳密に講究せず、漫然其製造工業の経営に着手したる軽挙早計の譏は固とより免るを得ずと雖も、其最大原因は政府の急進過大なる事業拡張の影響に外ならず、即ち政府事業の激増は通貨の膨脹、物価の暴騰を促来し、加ふるに賃銀を騰貴せしめ、之が為めに民間事業者の予算は未だ其事業の成功の暁に到達せざる中途に於て、予想外の違算を生じて破綻失敗の悲運に遭遇したる者多しと云はざるべからず。夫れ斯の如く財界をして今日の状態に陥らしめたる原因は、悉く人為的に出でたるものなるが故に、之を整理し之を救治するとも、亦人為を以て強ち之を行ひ難きに非ず、何となれば今日の現況を来したる原因を概括せば第一政府財政の十年計画の為め急激なる事業拡張を来したること。第二日本銀行の営業方針其当を得ざること。第三民間事業者の軽挙妄動によりて漫りに事業を企てたることに基くものと謂ふべし。想ふに其第一・第二は主たる原因にして、第三は其原因ありたるか為めに、一の結果を来したるに過ぎず。然るに其結果は第一・第二の主因と相伴ふて、今日財界の変調を招致したる原因となりたるものなり。然るに第三の原因たる民間事業の勃興は、数年来引続きたる金利昂騰の影響を蒙り今や殆んど其迹を滅絶したる状態に立至りたり。故に目下の問題は、第一・第二の主因を全滅するか、又は中止するか、若くは其幾部たりとも一時中止若くは廃絶することを得ば、一陽来復容易に財界の景気を挽回することを得べし、而して是等の主因か本と人為に出てたりとせば、亦人為を以て之を其本に回復することは、敢て絶対的至難の事業にあらざるなり。請ふ吾人をして之を言はしめよ。
(第一)政府の拡張事業中比較的不急の者は此際断然中止若くは繰延策を実行せざるべからず。
夫れ今日民間事業界の趨勢を査察するに、金利騰貴金融逼迫の為めに新事業は絶へて其興起を見る能はず。従つて其結果労働者の手に入るべき賃銀は、勢ひ減少を免れずして、次第に商品の需要も亦減額を来したり。是を以て、経済界自然の原則順序より打算せば、最早物価下落・輸出超過・正貨流入・金利下落の好運期に到達せざるべからず。然るに事の実際に顧みば今日の事業界は非常の困難に陥り居るに拘はらず、依然其常道を外れて物価騰貴・輸入超過・正貨流出・金利昂騰の変調を呈せるは、是れ疑ひもなく官業拡張の経営、今尚継続せられて、其結果は絶へず巨額の通貨を民間に放下するが為めに外ならず。果して然らば、今日に於て斯の弊を掃蕩せんと欲せば、須らく拡張官業を中止若くは繰延べを断行するの外なかるべし、然りと雖も現に継続進行しつゝある拡張官業を、悉く中止若くは繰延べすること、事実上到底不可能のことたるを免れず。故に其事業の性質に鑑みて、須らく緩急軽重を考覈し、比較的不急のものは、此際断然中止若くは繰延策を実行せざるべからず。然るに若し夫れ斯のことにして、遂行する
 - 第21巻 p.604 -ページ画像 
能はずむば、数年来内外の市場に於て、公債募集に成効せざる我政府は、苦し紛れに直に日本銀行に命令して、御用金の調達を仰付け、左なきだに金融逼迫を告げ居る市場より、巨額の資金を捲上げ、益々其逼迫の境に陥らしめ、自ら進むで、其事業界の衰運を招くに於ては、我国の経済界は、到底順境の回復期を望むこと能はず。而して之が為めに、政府の予算は絶へず法外の違算を生ずるを以て、近き将来に於て、亦増税に重ぬるに増税を断行するも、遂に其不足を補充すること能はざるに至るべきを信じて疑はざるなり。
(第二)日本銀行の見返担保品制度を速かに廃止せざるべからず。
惟ふに我国経済界萎靡衰運の際に当りてや、頼りて以て其救助を求め大勢を既倒に挽回せんと欲して一道の光明なる希望を持するは、之を唯中央の日本銀行に竢つあるのみ。然るに斯の中央銀行が、其営業方針として、平時に於ては、見返担保品なる名称を附して、日本鉄道・関西鉄道・九州鉄道・山陽鉄道・甲武鉄道・北海道炭鉱鉄道及び日本郵船・大阪商船・東洋汽船等各会社の株券を担保に取りて貸出を為し而して経済界正に悲運の境に陥り、金融逼迫・金利騰貴の勢を来し、凡ての株券価格下落を来したる所謂有事の場合に於ては、日本銀行自ら其貸出を渋るの方針を採るは、是れ疑ひもなく、平時は中央銀行自ら努めて株券の騰貴を促すに拘はらず、有事の日には自ら進むで株券の下落を惹起すものなるを以て、紙幣発行権及び其他の特権を享有する中央銀行に於ては決して行ふべき所業にあらざるなり。試みに欧米諸国に於ける中央銀行の営業方針を考覈せよ、亦斯の如き例を発見するに苦まざるを得ず。然るに我国に於て独り斯る変体の実例を目撃するは、実に奇怪千万の至りなりと云はざるべからず。然りと雖も日本銀行に於ける此異例の営業行為は明治廿三年日本銀行条例改正以来明確に禁止する所なり。然るに見返担保附商業手形の割引なる名称を附し、其実際は株券を抵当に資金の貸出を為すこと、比年継続して止まざるのみならず、殊に日清戦後事業熱の勃興と共に、資金の需要頻繁を来したるが為め、益々株券抵当の貸出方針を取りたる如き、是れ豈に今日株券価格の下落を惹起したる一大原因にして、中央銀行の職責上、断して許容すべからざる所業にあらずや。然りと雖も翻つて顧ふに日本銀行が其営業方針として、不動産即ち土地家屋・鉱山等を見返担保品とし、或は根抵当として商業手形の割引を為したりと仮定せよ其結果果して如何。蓋し債務者たるもの、其債券弁済の期日に至り、其義務を果すことを得ば、其間に格別議論を要せざれども、若し然らずむば日本銀行は已むなく其抵当物を売却し、以て其義務を完済するの外、策なかるべし、然るに現今の如く経済界萎靡不振の場合に当りては、日本銀行其抵当物を売却処分せんと努むるも、昨日百万円の価格を保有したる土地・鉱山は今日掌を翻す如く忽ち一変して、五十万円の買手も見出すこと頗る困難なるは争ふべからず。斯かる事情の下に於て日本銀行は如何なる態度を取らむとするか、想ふに其土地・鉱山等の不動産を擁して、進退維れ谷まるの悲境に陥るの外なかるべし是れ固より極端の例にして、土地・鉱山なる財産と、株券なる財産とは其性質上亦大に径庭する所有りと雖も日本銀行か之を処分せんと努
 - 第21巻 p.605 -ページ画像 
むる場合に際し、断然之を処分し得ず、已むなく其貸付資金を固定せしめて、自ら金融の逼迫を招致するに至りては、動産・不動産は唯其程度の差異のみに過きずして、其実際の運用如何に至りては、毫末も異なる所あらざるなり。
其他の政策之を先きにしては、第一政府自ら生する所の収入を以て、其支出を償ふことを得べき事業は悉く之を特別会計とすること。第二一般の行政と其行政統治の性質を異にするものは悉く之を特別会計とすること。第三地方行政庁の事業に対する中央政府の補助を全廃すること。第四一二年の間政府の土木建築工事に関する経費を半減すること。第五官吏の俸給を増加し人員を減ずること。第六経常費中の項の流用を、各省大臣に委任すること等。之を後ちにしては、第一協定税率の廃止を図ること。第二土地所有権を外国人に許可すること。第三保証準備発行紙幣額を減ずること。第四災害準備基金法を拡張すること。第五艦艇補充の方法を立つること。第六航海奨励法を改正し、航路拡張の方針を一変すること等の議論あり。是等の中には早晩其実行を見ざるべからざる必要の政策条項ありと雖も、其根本的整理策にして其断行を見ること能はざらむか、此等幾多の政策は仮令之を実施するも、到底其効果を収むることを能はず。果して然らば宜しく其根本に立至りて是れが整理策を講するに於ては、是に附帯する其他の整理策の如きは、恰かも快刀乱麻を断つが如く、氷然解釈せられんのみ。豈に亦之を念頭に置くに足らむや。故に真に財界整理の難関を切抜けんと欲せば、須らく官民共に戮力協同、以て其根本の病源に向ひ、断然整理の斧斤を容るゝに努力せられんことを。(口述筆記)



〔参考〕金融六十年史 東洋経済新報社編 第四二六―四三五頁 大正一三年一二月刊(DK210107k-0013)
第21巻 p.605-609 ページ画像

金融六十年史 東洋経済新報社編  第四二六―四三五頁 大正一三年一二月刊
 ○第四編 第四章 日清戦時及戦後の金融
    明治三十三年第二次の反動
       (明治三十四年の恐慌及其後の金融)
 戦後第二次の反動の辿れる経路は猶ほ第一次の場合の如く、先づ株券の暴落に其兆を発し、次で物価の大騰貴に基く輸入の超過、之に伴ふ正貨濫出の影響、即ち金利の騰貴、一般物価の暴落を馴致し、信用を根柢より崩壊せしめて、遂に三十四年春季の金融恐慌を惹起し、無数の銀行の破産倒産を続発するの惨劇を実演するに至つた。
 株式の市価は三十二年三・四月頃を最高として爾来左の如き下落を告げ、三十三年五月に至りて低落の極点に達した。

            三十二年最高    三十二年七月     三十三年最低
                円        円           円
 関西鉄道株  (四月)  五七・七〇    三六・九〇  (五月) 三五・八〇
 炭鉱鉄道株  (九月) 一〇八・一〇    七七・一〇  (五月) 六五・七〇
 日本郵船株 (十一月)  七三・九〇    六〇・九〇  (三月) 六一・八〇
 鐘淵紡績株  (三月)  四八・五〇    三八・五〇  (三月) 二七・〇〇
 東京株式株  (四月) 二五五・二〇   一五五・六〇  (五月)一一二・四〇

 又右貿易を見るに三十三年には約八千三百万円の大入超を告げ、三十四年に於ても九月迄に約二千八百万円の入超を示し、其結果正貨は滔々として流出し、其流出高三十三年には四千五百万円に上り、三十
 - 第21巻 p.606 -ページ画像 
四年に於て、上五箇月間にて七百余万円に及んだ。当時の貿易を左に掲げる。

       商品輸出     商品輸入     商品入超  金銀出入 △入超▲出超
           千円       千円      千円         千円
 三二年  二一四、九二九  二二〇、四〇一   五、四七二    △ 八、九八五
 三三年  二〇四、四二九  二八七、二六一  八二、八三一    ▲四五、一八九
 三四年  二五二、三四九  二五五、八一六   三、四六七    ▲ 三、〇八八
 三五年  二五八、三〇三  二七一、七三一  一三、四二八    △三〇、一三二
 三六年  二八九、五〇二  三一七、一三五  二七、六三三    △ 八、八〇六

 されば正貨準備も、正貨の流出に比例して減少し、兌換銀行券発行高も著しく収縮した。今左に其計数を示さん。

                正貨準備          保証準備         兌換券発行高
                    円             円             円
 三二年八月末   一〇三、六九七、五二八   一一二、四五四、四七一   二一六、一五一、九九九
 三三年十一月末   六五、二四九、二〇二   一三五、四四七、八一二   二〇〇、六九七、〇一四
 三四年四月末    六〇、六三二、五一四   一二六、六二四、四八六   一八七、二五七、〇〇〇

 即ち三十三年十一月に至る五箇月間に、正貨準備は三千八百万円を減少して六千万円となり、遂に兌換銀行券発行高の三分の一以下に降つた。正貨準備が兌換銀行券発行高の三分の一以下に降れることは、我国に於ても此時を以て空前絶後とするが、蓋し世界に於ても、兌換制度史上の極めて稀らしき例であらう。而して此間に在て、日本銀行は左の如く頻に金利引上を断行した。

               貸付       割引
                銭        銭
 三二年七月六日       一・八〇     一・六〇
 三二年十一月十日      一・九〇     一・七〇
 三二年十一月廿七日     二・一〇     一・九〇
 三二年十二月十九日     二・二〇     一・九〇
 三三年三月二十日      二・四〇     二・一〇
 三三年四月十八日      二・六〇     二・三〇
 三三年七月十八日      二・七〇     二・四〇

 民間金利も中央銀行の利率の上進に伴ふて上進し、三十三年下半季に於ては三十一年の最高率の程度若くは其以上に昇つた。
 転じて物価を見るに、日本銀行指数は三十三年の二月に於ける一九二を最高として、爾後急転直下し、三十四年五月には一七一となり、実に二一の低落を示した。
 斯の如く株式は激落し、金利は暴騰し、一般物価は下落し、更らに三十三年上半季末頃より、北清匪乱の暴発するありて、我対清輸出製造業に打撃を与へた。是等内外の事情の為めに、商品市場の渋滞益々甚しく、信用の根柢漸く動揺するを免かれなかつた。惟ふに三十年乃至三十一年に於ける株式の暴落、投機熱の潰敗に基く財界の瘡痍、殊に金融業の負へる傷手は頗る重くして、固より尚ほ癒ゆるに至らぬ。而して更らに再び此激烈なる反動に遭ふ。何うして能く其の圧迫に堪へ得よう。かくて遂に各地に銀行の破綻を続出せしめ、所謂三十四年春季の恐慌を誘発した。
 既に三十三年に於て、金融の如何に逼迫を極めたかは、日本銀行が七月迄に三回の利上を行ひ、日歩二銭七厘なる最高点に達した事実に
 - 第21巻 p.607 -ページ画像 
依ても、十分に伺ひ得るが、更に北清事件費の為に、兌換銀行券の増発を促がし、遂に限外券税を八分に引上げても、尚その増発を抑え得なかつた。而して例により金融逼迫に対する救済運動が、従来よりも一層大規模に、即ち全国的に行はれるに至つた。斯の如く物情騒然たる際に方て、三十三年十二月廿五日、熊本第九銀行の支払停止が起つた。其原因は株式下落による損失であつた。而して同行の破綻は延て九州一帯の金融市場に影響し、熊本貯蓄銀行亦た同日を以て支払を停止し、百五十一銀行は俄かに取付に逢ひ、久留米の六十一銀行亦た危機に頻せりとの風説起り、信用地に墜ち、同方面の手形は一時流通を止め、商業は皆現金取引に変じ、人心恟々、預金の取付は遂に福岡馬関の諸銀行に蔓延した。九州に継で恐慌の襲ふ所となつたるは横浜・東京及関東地方にして、即ち三十四年一月六日、不評判なりし蚕糸銀行(横浜)の破綻を露はしてより、蜚語流説紛起して、第二・七十四東京貯蔵横浜支店等最も甚だしく預金の取付に会ひ、三月頃迄は物情不安の裏にあつた。而して横浜の恐慌は延いて東京及関東地方の銀行に影響し、東洋貯蓄銀行の動揺となり、愛国銀行の破綻となり、又た埼玉粕壁銀行の支払停止を見るに至り、機業の困難と相合して、一時両毛地方の手形は流通中止の姿となり、是より東京・横浜間の諸銀行中、平生営業の面白からざるものは、世人の疑惑益す深く、東京商業及新橋銀行の休業に続て、二月中の如きは確実なる大銀行さへも多少の取附を見た程であつた。
 他方、大阪及堺方面にも恐慌起り、其程度就中甚だしく、実に恐慌の中心を為した。其動機は北村銀行(三月二十八日)及七十九銀行(四月十六日)の破綻にして七十九銀行の破綻は直ちに同日に於て同行に関係最も深き難波銀行の休業となり、人心俄かに疑惧の念に襲はれて十七日には恐慌全市を掩ひ、左の諸銀行は激烈なる取付に逢ふた。
  前島銀行・西六銀行・百五十二銀行・高知銀行支店・古市銀行・湖亀銀行・大阪三商銀行・加島銀行・天満銀行・大阪商業銀行・藤本銀行・天王寺銀行・福永銀行・逸見銀行・日本貯金銀行・旭銀行・大阪貯蓄銀行・五十八銀行等
 而して大阪に於ける恐慌は又延いて近隣なる堺に及び、同市の指吸貯蓄銀行・大西銀行等の諸銀行も亦た取付に逢ふた。
 然れども、日本銀行は此形勢に処し、大阪銀行家と協力して之が救済に任じ、幸ひに週日を出でずして恐慌を鎮静ならしむるを得た。当時恐慌救済資金として、日本銀行大阪支店の貸出高は、実に七百万円に及びたりと謂ふ。当時、預金取付の如何に甚だしかりしやは、左の日本銀行大阪支店の調査に係る預金の引出及再預入に由て、其一般を窺ふを得る。

               受入高                  払出高
                                                   残高
          公衆預金     銀行者預金       公衆預金     銀行者預金
              円         円          円         円         円
四月十六日 三、六四〇、九二〇   四六八、一九〇  三、六〇二、七七〇   四二五、七〇〇 六二、七〇五、一〇〇
同十七日  三、〇〇八、〇五〇   三八三、一三〇  三、八二三、八八〇   九六一、一九〇 六一、三一一、四三〇
同十八日  三、三六〇、三五〇   三七五、〇二〇  五、〇〇一、一六〇   八七四、五五〇 五九、二〇七、八二〇
同十九日  二、六九九、六二〇   三三九、一二〇  三、〇四二、〇五〇   二八九、三八〇 五八、八八二、三五〇
同二十日  三、三〇五、一七〇   二九七、五一〇  三、一五九、六六〇   三四七、三〇〇 五八、九八八、三七〇
 - 第21巻 p.608 -ページ画像 
 合計  一六、〇一四、一一〇 一、八六二、九七〇 一八、六二九、五二〇 二、八九八、一二〇         ――

 斯くて四月十六日より二十日に至る五日間に、預金の払出されたるもの二千一百五十二万余円、即ち一日平均四百万円の取付けに逢ひたるものにして、而して此間に預金の払出超過となりて、減少せる高三百六十五万余円に上つた。亦た以て当時の形勢を推知するに足らう。
 大阪の恐慌は其影響忽ち四方に及び、独り上記の堺及大阪地方に止まらずして大和地方に及び、奈良市の奈良商業銀行は十七・八日頃より激烈なる預金の取付に遇ひて、十九日遂に其支払を停止し、之と前後して三十四銀行支店・郡山六十八銀行支店・奈良銀行・奈良貯蓄銀行等皆取付に遇ひ、二十日より二十二日に至る三日間に、奈良市各銀行総預金三百万円の中其三分の一を引出された。其他、桜井銀行・田原本銀行・中和銀行等は皆其支払を停止した。然れども二十二日には人心漸く落付き二十三日には殆んど鎮静に帰した。又、大阪七十九銀行の破綻は延いて讃岐に及び、讃岐銀行及讃岐貯蓄銀行の支払停止となり、京都にも蔓延して、百三十銀行支店・四十九銀行支店等に取付起り、二十日に川越銀行の支払停止に次で、古橋銀行・相楽銀行・城南銀行及其附近の銀行皆若干の取付に逢ひしが、何れも大事に至らなかつた。併しながら、関西貿易会社の内部困難の事情世間に伝はり四月三日解散を決議するや、延いて京都市の金融界に大恐慌を起すに至つた。
 其他、三州の豊橋銀行の四月二十二日支払を停止するや、其影響延いて名古屋に及び、二十三日の如きは各行共に尠なからざる取付に遇ひ、又た三重県の恐慌は桑名百二十二銀行の支払停止(一月廿三日)を為せる以来、桑名商業銀行の如きは度々取付に遇ひ、伊勢に於て、山田銀行及度会商工銀行の二行が四月末及五月初に於て突然休業して人心を疑惧せしめ、又た長崎地方に於て一・二銀行の支払を停止するものあるに至つた。斯くて三十四年春季の恐慌は、九州に起り、大阪を中心として、殆んど全国に亘り、炎々として燎原の勢を成したるを見る。
 金融の恐慌に次で又た商工界の困難続出し、既に述べた関酉貿易会社の倒産を始め、大阪石炭商の破綻、同地洋反物商の困難等名状し難きものがあつた。其他、京都の日本石鹸会社は其工場を閉鎖し、東京の深川木場材木商は資金の融通困難の為めに殆んど挙げて破綻を生じ又機業界の如きは、一方には原料買入の負債を負ひ、他方には製品の始末に苦しみて遂に投売を為すもの続出し、為めに相場は大下落を告げ、休業するもの頻々相次ぎ、京都附近・大和・河内等を始め、名古屋・武州両毛地方等漸く危機に切迫した。また神戸に於ける燐寸業者各地の陶磁器・煉瓦・硝子製造業・鉄工所等亦皆機業界に次ぐの悲境に陥り、財界の困難頗る惨憺たるものがあつた。
 併しながら五月を以て恐慌は全く鎮静に帰し、而して此恐慌を以て日清戦後、約五億の償金及外債金の流入に由て煽揚せられたる投機熱の病根は、これを掃蕩するを得たと雖、同時に激烈なる沈衰時代に入り、一般消費は極度に減少し、商業は極度の不振に陥り、生産は極度の縮少を余儀なくせられ、而して信用は極度に縮少せられ、金利は未
 - 第21巻 p.609 -ページ画像 
曾有の高率を示し、東京金利の如き三十四年に於ては最高三銭七厘に達し、最低と雖尚ほ三銭を降らなかつた。
 併し、幸にして三十四年八・九月頃より、輸出大に増進し十月より輸入著しく減退して、月に七・八百万円の輸出超過を告げ、先づ貿易の方面より回復の動機を招致した。又た銀行預金は日に月に集積し来りて、資金の潤沢、金融の緩漫を馴致した。更らに三十五年に入るや正貨は多少ながら月に流入して我正貨準備を増加した。斯くて一度頽敗せられたる信用は、不知不識の間に著しく回復し、遂に同年三月十九日に至り、日本銀行は貸付・割引共に二厘方、六月二十六日に至り更らに二厘方の引下を行ひて、貸付を二銭三厘、割引を二銭となし、殊に九月末、日本興業銀行の手を経て、五千万円の公債を海外に売却するや、これ勿論政府の財政資金にして、直接民間の金融に資するものではなかつたと雖、尚ほ之に由て大に日銀の正貨準備を厚くした。斯くて、日銀は三十六年三月十八日迄に更らに三回の金利引下を行ふて、貸付一銭七厘、割引一銭六厘となし、玆に再び最低率を示すに至つた。勿論民間金利も亦た之に応じて低下し、三十六年に於ては、東京市場の貸付日歩最低一銭一厘といふ未曾有の低率を示した。
 即ち三十六年に於ては、貸付日歩一銭一厘の低率を示し当座預金の如き実に最低三厘となり、斯の如きは実に未だ曾て見ざるの低率だ。之が為めに、株券を騰貴せしめたと雖、未だ著しく財界の活動を鼓舞するには至らなかつた。
 蓋し三十五・六年に於て斯の如く金融の緩漫、金利の低落を告げたる所以は他なし、(一)戦後勃興せる事業の整理時代にして未だ新規の計画盛んに起るに至らず、(二)商業振はず、(三)物価は低徊し、約言すれば産業の不活溌に原因する。だが産業をして斯く不活溌ならしめたる一大原因は、実に財政の圧迫にあることを忘れてはならぬ。
 蓋し戦前二十六年の歳出は八千四・五百万円を出でなかつたと雖、戦後の二十九年には一躍二倍して一億六千八百万円となり、三十四年には二億六千六百万円、三十五年には二億八千九百万円に増進した。而して此間に国民の租税負担は八千万円より二億二千万円、即ち実に三倍に近き増加を成した。只夫れ此財政の圧迫は盛んに償金及外債金の流入ありたる当時に於ては、之に伴ふ消費の増進・通貨膨脹・物価騰貴等の好景気の蔭に隠れて、一向に其痛苦を感ずるに至らなかつたと雖、併し外金の流入全く其跡を収め、反動的沈衰に陥れる三十四年以降に於ては、其苦痛は猛然として財界の上下を圧迫した。是れ恐慌後、其回復の殊に遅緩にして、爾来久しく沈衰を脱し能はず、竟に未曾有の金融緩漫・金利低落を現出するに至つた所以である。然れども此間に於て既成の事業は着々進捗し、国力充実の成果も亦見るべき者ありしは言を待たぬ。



〔参考〕稿本日本金融史論 滝沢直七著 第六八一―六八九頁 大正元年一〇月刊(DK210107k-0014)
第21巻 p.609-613 ページ画像

稿本日本金融史論 滝沢直七著  第六八一―六八九頁 大正元年一〇月刊
 ○第三編 第三章 第四節 第十二款 明治三十四年の恐慌
    第七項 伊藤内閣の瓦解
北清事件費としては既に三十三年度に於て三基金中より二千万円、普
 - 第21巻 p.610 -ページ画像 
通歳入より二百万円を支出したるを以て足れりとせず、なほ三十四年度に入りて概算二千三百五十万円を要す。然かも既に基金には現金を存せず、保有の有価証券は内外の金融状況がこれを売出すことを許さず。こゝに於てか三十四年度の本予算の外追加予算として北清事件の為に増税及一時借入金の計劃を提出せざるべからざるに至つた。臨時事件たる北清事件に対し経常的増税を行ふの理由薄弱なりしが故に、北清事件・基金塡補及公債事業費充用の三件に訴へて増税の名義を得議会に提出したのである。増税は酒税の増徴・麦酒税の新設・砂糖消費税の新設・国税定率の改正及葉煙草専売率の引上等である。この増税にてはなほ千七百六十八万円の不足を生ずるを以て、これを日本銀行より一時借入金を為さんとするにあり。衆議院にあつては政府党たる政友会過半数を占め、憲政本党も賛成したから通過したけれども、貴族院はこれに反対し、委員会は否決し、本会議もまた否決せんとし貴族院は二度停会を命ぜられ、四元老の調停はあつたが、確執して相譲らず。貴族院に対する大詔の煥発となり、再調査に附し、委員会も本会議も共に叡旨を奉体して増税案に協賛を与へたのである。
然るに愈々その予算を施行するに及びて、大蔵大臣渡辺国武は事業繰延の議を提出したり。これ実に金融変態の影響にして、当時金融の状態は官業の影響によるもの甚大、互に因となり果となり、戦後経営以来今日に至つて、金融の状態は到底官業の持続を許さず、事実上官業の繰延を要することは当時の経済には然るべきことであつた。渡辺蔵相は説明して曰く、
 公債募集は経済市場の状況到底応募の見込なきのみならず、国庫内他の資金より繰替ふるの計劃を定むるも亦た至難の状況なるを以て従来の如き方法を以て公債募集を達すること能はず、左りとて其一部を日本銀行より一時借入れんか、日本銀行と雖ども目下の状勢之に応ずること甚だ困難なるは明かにして、若し強て断行せんとせば勢ひ再び多額の制限外発行を為すの外なきに至り、今や日本銀行は鋭意兌換券の廻収に力め、経済界の健全なる回復を図りつつあるに何の日にか経済界をして順境に向はしむるを得んや、且本年度の予算に於ては北清事件費の為め一千余万円の借入金を為すの予定なれば、此上更に多額の借入金を為すが如きことあらんか、唯徒に通貨の膨脹のみを来たし、物価をして下落せしむること能はず、其の極今日の経済界をして益々困難せしむるに過ざるは勿論、目下の如き経済界に於て長く継続せんか、財政の基礎亦決して確立すべきにあらざれは、一方に於て経済界の根治を為すの急なるを認めざるべからざると同時に、戦後政府事業の大なる所より動もすれば経済上恐るべき悪結果を生ぜしめたるは争ふべからざる事実なれば、今は此等政府事業の収縮を図り、徐に整理を図るの必要なる時たるを以て一時已を得ず既定事業費の繰延を決行し、一面には至難なる公債募集を見合せ、一面には政府事業の為め経済界の恢復を遅緩ならしむるの弊を救ひ、大に財政経済の根拠を強ふするの策に出づるの外他に機宜に通ずるの道なし………」
と。今三十四年後に於て公債募集の切迫せるものを挙ぐれば、
 - 第21巻 p.611 -ページ画像 

   種別        前年度繰越高     三十四年度予算高     計
                  円           円           円
 事業公債     九、九三〇、六一六  一一、八一二、四二四  二一、七四三、〇四〇
 北海道鉄道公債  一、〇〇〇、〇〇〇   一、〇〇〇、〇〇〇   二、〇〇〇、〇〇〇
 第一期鉄道費   三、二九六、七五〇  一三、九五〇、〇〇〇  一七、二四六、七五〇
 台湾事業公債   七、三八八、六〇〇   四、一〇〇、〇〇〇  一一、四八八、六〇〇
  合計     二一、六一五、九六六  三〇、八六二、四二四  五二、四七八、三九〇

従来の政府は公債買入償却法を利用し予算に定めたる公債償還金を以て大蔵省預金部の公債を買入償還し、更に預金部をして新公債を引受けしめた。而して三十四年度の公債償還金は百四十余万円なりしを以て、右の如き慣用手段を以てするも四千四百余万円は公債を募集しなければならぬ。これ渡辺大蔵大臣が金融の状況に観て不可能の事なりと為せし所のものである。
然れども渡辺大蔵大臣が事業繰延を主張するに至りしは、三十四年度の予算案の議会を通過してより僅に旬日後の事である。然かも貴族院に勅語さへ賜はりて、議会の協賛を経ながら、今更これを他日に繰延んとす、無責任なる行動と云はざるべからず。憤然として反対論は朝野に紛起したり。内閣に於て内務大臣末松謙澄・逓信大臣原敬・司法大臣金子堅太郎・農商務大臣林有造・文部大臣松田正久の五大臣は反対したのである。更に大蔵大臣は卅五年度以降公債支弁の事業は一切これを中止し、以て経済界の景気を恢復し、公債募集の好機に達するを待つべしと主張するに至り、五大臣またこれに反対し、政友会党員は事業繰延に対する大蔵大臣の責任を処分せんことを伊藤首相に迫り伊藤内閣は終に瓦解するに至つた。
  第十二款《(三)》 戦後金融の変態よりの復旧
    第一項 政府事業繰延
政友会内閣即ち伊藤内閣の瓦解に就いて論ぜしが如く、内国に於ける金融の状況は公債の募集を許さず、これが為に伊藤内閣は遂に瓦解してしまふた。これに次て組織せられたる桂内閣は三十四年度予算を如何に実施したか。
この時に当り公債五千万円を米国に売却せんとして不調に終り、我が金融界の人気は一層消沈し、株式市場はこれが為に諸株の下落を来たし、愈々金融界をして消沈せしめたりしが、この間に立て桂内閣は公債支弁を要するもの五千万円あり、内外共に資金を吸収し得べき望無し。桂内閣の起つに当りこゝに財政の方針を一新して金融緩和を主眼としたのである。これ前内閣に於ける渡辺前蔵相の意見と同一にして金融状態に影響せられて財政方針こゝに革りたりといはなければならぬ。桂内閣にして公債募集を中止せんとする、政府は節約に努めざるべからず。こゝに於てか渡辺前蔵相の意見に依り前内閣に於て事業を繰延べたりしもの九百万円は固より繰延を実行し、なほ三千万円の事業繰延または節約を決定し、三十五年度予算に於てまた金融を主眼とした。而して三十五年に於てもまた公債を募集することなくして一切の経費を支弁することゝし、真に必要止むべからざるものゝ外消極主義を採て、資金の有らん限りは公債償却を行はんとするの方針に出て既に述べし如く、従来公債償還を為すも預金部の公債を銷還し、これ
 - 第21巻 p.612 -ページ画像 
を利用して更に新に公債を引受けしむるの方便を採りしを以て民間の金融には潤沢を及ぼさざりしが故にこれを民間に銷還することにし、財政の方針努めて金融の緩和を謀つたのである。これよりして財政は截然として立直り、金融に対する圧迫は頗る減少し、少なくも将に金融を圧迫せんとせし財政の圧力はこの時に於て消失し、戦後六個年間金融を変態に陥らしめた動因数多の中、財政関係方面により来りし金融の変態も、この時よりして金融と財政と調和せんとしたのである。
○中略
    第四項 五分利公債五千万円の海外売出
先きに外債の不調となりし以来外資輸入を説くこと尠なからざりしが日本興業銀行の仲价により三十五年九月大蔵省預金部所有の帝国五分利附公債額面五百万円の売出は成立し、十月二日発表せらる。先づ政府はこれを日本興業銀行に売渡し、興業銀行は更に香港上海銀行に売渡し、香港上海銀行はベアリング商会と共同の上倫敦に売出したのである。これ日本興業銀行創立の目的をば実際に施したる最初のものである。同行は開業当初より外国市場との関係を密接ならしむるに勉めたる結果、少額づゝ外国人より公債の注文を受け、中には巨額の注文に接し、売買の点に一致せず売出の成立せざりしが、遂に九月末成立せしものであつて、即ち売出の要件は左の如くであつた。
 一、公債代金は東京に於て日本興業銀行より日本政府に附すべきこと
 二、公債の換算比価は我一円を英貨二志〇片半の割合にて計算すること
 三、倫敦に於ての売出価格の額面以上なるべき事、即ち我額面千円を前記の割合に換算する時は百〇二磅一志八片となる
 四、日本政府の日本興業銀行より東京に於て受取るべき公債代金は額面千円に付九十八磅なること、即ち是を前記の割合にて換算すれば額面百円に就き九十六円となる
 五、但し百九十六円の手取は一定の為替相場を控除しての勘定なるも、若し此一定の為替相場より昂低あるときは其昂低の差丈は日本政府の責任たるべきこと
 六、利札は明治三十五年分として十月・十一月・十二月、三ケ月分を添附すること
この売価の利廻は五分二厘に相当し、四分利附英貨公債の利廻四分七厘八毛に比すれば割高なるを免れざるものであつた。
然れども二十九年度より三十四年度までに至る公債募集の困難より募集遅れとなりしものは、
                            円
   三十四年度迄募集予定額    二二六、六一二、四四〇
 同     既発行額面      二〇二、八八四、六五〇
 同     実収額        一八一、八六三、五四〇
    額面残高           二二、七二七、七九〇
    額面ト実収トノ差       二二、〇二一、一一〇
      合計(募集ヲ要スル総額) 四四、七四九、九〇〇
となり居れり。然るを預金部所有の公債五千万円を売却したるにより
 - 第21巻 p.613 -ページ画像 
新に右の四千四百万円を発行し、預金部は更にこれを引受け、以て三十四年度までに募集未済となり居りし公債は全く募集せらるゝに至つたのである。而してその処分は、
 公債売却金(額面)      五〇、〇〇〇、〇〇〇
 此売却金           四七、五〇〇、〇〇〇
 内
  償金部へ返却金       一四、七三九、七九三
  台湾銀行返却金        六、四〇〇、〇〇〇
  一般会計返却金        六、八九九、八五五
  公債事業繰延支弁金     一六、七〇九、二五二
  合計            四四、七四八、九〇〇
 差引残金            二、七五一、一〇〇
となる。以て金融方面より見て財政上より来る圧迫に対し尠なからざる安心を与へたるものといふべきものである。