デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

7章 経済団体及ビ民間諸会
2節 其他ノ経済団体及ビ民間諸会
3款 日本経済会
■綱文

第23巻 p.27-32(DK230005k) ページ画像

明治30年5月3日(1897年)

是日栄一、日本経済会ニ招カレ上野精養軒ニ於ケル会合ノ席上、伊藤侯・大隈伯ト共ニ一場ノ演説ヲ為ス。

同年十二月十七日、同会主催ノ富士・八嶋両艦歓迎会ニモ招カレ、軍事ト経済ノ関係ニ就キ演説ス。


■資料

中外商業新報 第四五六三号 明治三〇年五月五日 日本経済会(DK230005k-0001)
第23巻 p.27-28 ページ画像

中外商業新報  第四五六三号 明治三〇年五月五日
    日本経済会
同会の予報の如く一昨日午後五時より上野精養軒に於て開かれたり、来賓には伊藤・西郷・蜂須賀の三侯、井上・大隈・樺山の三伯、伊東子、岩崎男、渋沢栄一、福島大佐等にして、会員の来会者百十数名なりしが、其席上を見渡すに孰れも朝野の大政治家・実業家及学者等の顔揃ひの事とて、互に胸襟を披て談論を試みられたる其趣は実に言ふへからさるの味ありしが如し、席上伊藤侯は晩餐将に了らんとする頃先つ起て曰く、今夕は諸君の御佳招を蒙り此席に列したるは予の深く謝する所なり、就ては予て御話もあり、かたかた今此の席に於て何か演説する筈なりしも、過刻突然威仁親王殿下に随従渡英の電命に接し両三日中には出発する事となりたれば、欧州に赴き帰朝後に於て何か土産話を諸君に述ぶることあるべし云々と述べ、次に主人席に居たる渡辺洪基氏起て来賓に対し挨拶を述へ、其次に大隈伯は今より廿五年前の財政より今日の財政に論及されしが、今其要旨を挙くれば今より二十五年前即ち明治五・六年頃の政府歳入総額は大約六千万円にして動もすれば歳出、歳入に超過するの勢ひ益々強く其困難なる事情は恰も今日の財政に彷彿たる趣ありたり、然れども当時の六千万円は現今の一億二千万円に相当するの実力ありしなり、故に此点より観察すれば我国の歳入大に増加せるが如しと雖も、其実際に於ては左まで増加したりと云ふべからず、然るに一方に於ては国運の進歩に連れて軍備拡張其他事業拡張の為めに歳出費額益々膨脹するに至れり、又殖産興業も愈々進歩発達して民力の豊富なること決して昔日の比にあらず、而して独り国庫の歳入は其割合に増加せざるなり、果して然らば今後の財政計画の方針は先つ入るを計て出つるを制すべきや、又出づるを計て入るを制すべきや、換言すれば国家を経営するに消極主義を執るべきや将た積極主義を執り国家必要の経費は増税手段に依るも之れを断行すべきや、此等の問題に付きて諸君の研究を求めたし云々との趣意を述べ、更らに井上伯を呼び起して演説を促かせしに、伯は維新以来の事歴を調査し他日意見を述ぶる所あるべしと簡単に陳しられ、渋沢栄一氏も亦た維新の経済を論し我国商人の地位及気風変遷の事実を論弁せられしに、伊藤侯は更に起て維新の理財事情を弁じ、大隈・井
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上・渋沢氏等と共に困難の地位に当りパークス等と談じ、商人に説諭し国家の理財上に関し苦心せし実情を述べ、夫より民力国富の増進したる事実より今日の現状に論及し、更に進んで外資輸入問題にまで及ひて其局を結べり、夫より又別席に移り我国政界の大建物たる伊藤・大隈・井上諸氏が維新前後互に相提携して国事に奔走せられし往時の失策談も続々出でゝ一層座興を添られしが、又之に実業界の泰斗たる岩崎男・渋沢氏等も打加りて互に旧を語り新を話し、満堂の和気靄然として快談時の移るを覚へず、斯くて賓主各々歓を罄して散会したるは午後十時過頃なりしと云ふ ○下略


東京経済雑誌 第三五巻第八七五号・第八一六―八一七頁 明治三〇年五月八日 日本経済会に於ける伊侯隈伯の演説(DK230005k-0002)
第23巻 p.28-29 ページ画像

東京経済雑誌  第三五巻第八七五号・第八一六―八一七頁 明治三〇年五月八日
    ○日本経済会に於ける伊侯隈伯の演説
日本経済会は去三日午後六時より上野精養軒に於て開きたり、会員の出席者百十余名、来賓には大隈・西郷・樺山・蜂須賀の四大臣、伊藤侯・井上伯・伊東海軍々令部長・福島陸軍大佐・岩崎日本銀行総裁・渋沢商業会議所会頭等にて、軈かて晩餐終らんとするや、伊藤侯先づ立て曰く
 予は今夕何か演説する都合なりしも、本日突然電報をもて有栖川威仁親王殿下の御渡英随行を仰付られ両三日中に出発することとなれり、今回は親王殿下の一属官たるに過ぎざれども、勅命なるが故謹で拝受せり、右の為め演説の材料を取調ぶるの遑なかりしも、欧洲に赴き新知識を得来らば諸君に土産話を為すべし、我輩は今出発するに際し、大隈伯の如き有力なる政治家が内閣に居らるゝを以て安心して洋行するを得るなり
と愛嬌一番するや、当日の主人公たる渡辺洪基氏は遅れ馳せに起て、我国の大政治家が斯く出席されたるは本会の名誉なりとて、謝辞を述べ、次で大隈伯は
 余は未だ海外に遊びたることなければ所謂新知識なるものに乏し、為めに諸君を益するの演説を為すこと能はず、依て廿五年前の財政と今日の財政とを比較して一言せんに、往年余が参議の職に在りし時、国庫豊かならさるに西郷(隆盛)・板垣なんどは金の取前少しと怒鳴出し、井上大蔵大輔に向ては金を出せと迫るより、余は此間に立ち西郷・板垣の諸君に向ては成るべく少しく金を使はしめんとし又井上君に向ては成るべく多く出さしめんとし、非常に苦心したりき、当時伊藤君なんぞは海外に在て新知識を得るに汲々たりしなり回顧すれば廿五年前の財政と今日の財政とは其境遇略ぼ相似たり、当時収支相償はずして租税を増課するか、或は公債を募集するか、二者其一を撰ばざる可からざりし、而して其財政若干なりやと云へば、六千万円なりし、今日は一億二千万円に膨脹せしと雖も、金銀比価の変動より之を論ずれば殆んど同額なりと謂ふべし、若し夫れ国力発達の点より云はゞ、工業の如きは著しき進歩を為したるものにて、就中紡績業は嘗て千錘か二千錘か三千錘なりしもの、今は百万錘の多きに達し、其他鉄道と云ひ、銀行と云ひ、将た海運と云ひ総て大に発達したるは国家の為め実に慶せざるを得ざるなり
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 翻ツて歳出の点を考ふるに、日清戦争の結果一躍して世界強国の列に入りたる以上は、陸海軍の拡張已むべからず、其他国勢の発達に連れ、国費の膨脹すること亦避くべからざるなり、官吏の俸給の如きも近年物価騰貴の点より打算せば決して多からざるのみならず、或部分の如きは却て少なしと謂ふべし、情勢誠に斯くの如くなるも財政の膨脹に対しては黙々に附すること能はず、或は大に倹約を加へて歳出を減ずるか、否らずんば増税をなして、以て歳入を増さゞる可からず、是れ官民共に攻究すべき大問題なり云々
斯くて大隈伯は井上伯を呼起して演説を促したるに、伯は只今語るべき材料なし、他日を期して維新以来の財政を調査陳述する所あらんと答へ、渋沢栄一氏は維新の経済に就き一言し、且つ当時商人の地位甚だ低くして、素町人と呼ばれ、政府の役人に向ては二室位ゐ隔てゝ事を訴へたるものも、今は大政治家と共に斯く卓を囲みて食事を共にし膝を交へて時事を談ずるに至りては、非常の変遷なりと述べ、会員中より今夕伊藤侯は大演説せらるゝ筈なりしに、一片の断りのみにては満足すること能はずとて、強て演説を請求する者ありしかは、伊藤侯再び起て
 維新の財政に就ては大隈・井上・渋沢諸氏と共に困難の局に当りしが、就中贋金の事に関しパークス等の談判に対して一方ならさる困難を冒したり、顧みて今日の財政を観察せば国力の膨脹と共に前途益々膨脹するが故、予め之に応ずるの策を講ぜざる可からず(中略)予と大隈伯とは固と同じ鍋の飯を喰ひし者にて、往年事を共にせしものなり、一朝政治上の意見相合はざるが為め反目するが如く見えしも、其実私交上に於ては更に変る所なきを、世人が我輩と大隈伯とが互に敵視し、相排擠せんとするが如く伝ふるは、全く両人を買被ぶり居るに座するならん云々
其れより又別席に移り、伊藤・大隈・井上諸公互に膝を交へて会員を相手に維新則後互に提携して国事に奔走せし際の失策談を語り出づるなど、隔意なく談笑し、賓主歓を尽して散会せしは十時頃なりき


東京日日新聞 第七六六一号 明治三〇年五月六日 渋沢栄一氏の演説(於日本経済会)(DK230005k-0003)
第23巻 p.29-31 ページ画像

東京日日新聞  第七六六一号 明治三〇年五月六日
    ○渋沢栄一氏の演説 (於日本経済会)
諸君、私も今夕此盛宴の席末を汚すやうになりまして貴顕諸公有力なる方々と共に、此一堂に歓を尽しますことは此上ない光栄でござります、有り難く御礼を申上げます、唯今伊藤侯爵・大隈伯爵から段々本会に対しての御説がござりました、就いて私にも一言を申述べろと云ふ御命令でござりますが、用意致す間とてもござりませんから、新説を以て諸君の御耳を新らしうすると云ふことは為し得られませんが、丁度今大隈伯が二十五年前の旧事を御談じ遊ばしましたが、私も経済上に就いて少しく旧事を、御跡を追ふやうではありますが、申述べたうござります
私が此日本の政府の官に就きましたのは明治の二年でありまして、丁度其官に就きましたのは大蔵省の徴税司で、其時に大隈伯・伊藤侯爵が居られました、それに井上伯此御三方で、此方々に随つて私も聊か
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官途に奔走したものである、其頃に既に大蔵省に於て此日本の将来の商売工業を発達させねばならぬと云ふので特に通商司と云ふものが置いてあつた、それは此伊藤・大隈両公抔の御計画になつたと想像するので、尤も其時にもさう伺ひましたが、或は海軍会社《(運カ)》とか為替会社とか何商社と云ふやうな種々な組立があつて、商売を勧めると云ふ形が直ぐに成立つた(此時渋沢氏の周囲に居る大隈伯等より種々話し懸くる所あり)丁度私は明治二年三年と其職に居りましたので、或はそれが其前からあつたのかも知りませんが、其時分に此方々が其職にござつて頻りに成立てねばならぬと云ふことを言はれたに相違ないやうに考へる
それらは先づ既往の事でげすからそれが何れであるかは暫く第二に措いて、其頃私は大蔵省の役人として即ち両公あたりの御命令に依つて通商司の始末を致した、其始末を致すと同時に東京の商売人の御方々に始めて面会を致した、今夕此処に御打寄りの御方も東京の商売人で其頃から殆んど三十年程経ちますが、商売人と云ふ名に於て今日と別はない、別はないが其明治二年私が大蔵省に出て商売人に応接した時の有様と今日とを較べると実に雲泥霄壌の差で、ナカナカ六千万の歳出が二億四千万になつた位のことではない
先づ試みに其時分の有様を申しますると、商売人が役人に対しますると必ず三間位隔てなければ挨拶が出来なかつた、一間位は跛つて出たもの(笑声起る)丁度先達大隈伯がホテルで御大老御老中の御講釈がございましたが、御大老や御老中に対ふと眼が潰れる程に商売人等は考へて居つた(笑声起る)私抔は成上りの大蔵省の平凡役人、明日役所を出れば手代に使はれるか使はれぬかも分らぬと云ふ様な役人が上席に就いて、コラと言つて叱り付けると恐れ入りましたと云ふ様な訳け(笑声起る)
其時分の商売人の教育はどう云ふ有様かと云ふと、先づ日常に申して居りますのが商売往来と云ふ書物とそれから塵功記と云ふ二つがある是れで商売教育が足りて居つた、商売往来・塵功記を読めば沢山だ、ヤア唐様の字を書いてはならぬ、四角な字を書くと眼が潰れると云ふ様な教へで成立つて居りましたのですから、果して今申す三間隔つて土下座をするのも適当な有様と申して宜しい訳で、故に其仕事の工合を見ても先づ今日と昔日とは斯様々々、今日は斯く変つたと云ふ事柄はチヨツト申せば紡績の器械の……先刻お話の千錘のものが百二十万錘になつたとか、或は船が恁麼に出来たとか云ふ事柄の一事に就いても大抵お推量になれるので、玆に喋々前後を敷衍して申す必要もないと考へます
夫程の差であつたものが今日は是れと入り換つて、明治二年の商売人と今日の商売人とは同じく此東京府下の商人として同じ有様でありながら、吾々が経済会と申して此処に打寄る場合に国務大臣にも御願ひすれば駕を枉げて御人来になつて、大政治家でも大豪傑でも吾々平凡町人素町人でも打寄つて歓を尽して話を仕合ふと云ふのは、何と経済社会の商売人の位が上がつたではありませんかナー(拍手)是れは実に欣ばしい話である、去りながら玆に一つ私が経済会諸君に一言の望
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みがある、それは何かと申すと、斯様に進歩は致したやうなものであるが、兎角に此経済上に取つて何時もあるやつでげすが、機軸の立つべきものが少いと云ふ恐がある、幸ひ当会の如きは学者もございませう、実業家は勿論ある、又教育家もございませう、政治家もございませう、種々な御方が相集つて居る此会でござりますから、どうぞ此経済上に就て一つの機軸になると云ふことを成るべく御注意がありたいと思ふ、果して此機軸にならうと思ふならば此上ない粋も抜かなければならぬ、委しい所も択ばなければならぬ、又相聚めて大成すると云ふことも努めなければならぬ、而して日本の経済社会に於ては成丈け堅き主義を以て、成るべく政治家も其方針でやつて貰ひたい、今大隈伯が今日の財政は此儘で宜いか或は寧ろ是れより縮めるか、此二つを聴きたいと仰つしやつたが、至極宜しい、私達も十分考を持つて斯様するが宜しいと御教へ申すやうに機軸を立つるに御努めなさるが宜しいと思ふ、経済会諸君に一言の希望を申述べて今夕の御礼を申上げます(拍手)
   ○右栄一ノ演説速記ハ「中外商業新報」ニモ掲載サル。


中外商業新報 第四七五六号 明治三〇年一二月一九日 日本経済会(DK230005k-0004)
第23巻 p.31-32 ページ画像

中外商業新報  第四七五六号 明治三〇年一二月一九日
    日本経済会
一昨十七日開会せる日本経済会の富士・八嶋両艦歓迎会は当日の主賓たる有馬八嶋艦長・斎藤富士副官、坂本・高橋両航海長を始め、機関長・軍医等を始め、来賓山県・西郷両侯、松方・大隈の二伯、伊東軍令部長・宮原造船大監・岩崎日本銀行総裁・渋沢栄一氏等の臨席あり会員は挙て出席し、尚昨今大坂より東上せる会外員の席に列せるあり総員百三十余名に上り、朝野の貴顕縉紳を一堂に会し近時稀に見る盛会なりしが、やがて午後六時半宴席に入り、渡辺国武子両艦歓迎の挨拶を為し、有馬八嶋艦長は三浦富士艦長微恙の為め本会の好意を空ふするに至りしは深く遺憾とする所なり、依て自分代て本会の鄭重なる歓迎を謝する旨を陳べ、次に大隈伯の演説あり、其要左の如し
 海軍と日本経済会、是れ尠くも日本海軍の起源に溯りて考ふるの必要あらん、四十五年前ペルリが日本に来りたるは開国の始、安政末年勝伯が咸臨丸に乗じて合衆国に航したるは日本海軍の起源にして恰も千八百五十五年のクリミヤ大海戦と前後し、普国の海軍此時に起りたれば、普国と我国とは殆んど同時代に海軍の発達を為せり、然れども普国の進歩は我国の及ばざる所なりしが、十九世紀末年の大海戦たる黄海の清国艦隊鏖滅導火となりて大に我海軍の拡張を促がし、近年世界に誇るべき有力なる富士・八嶋の強艦を我海軍に加へ、特に両艦廻航委員はスエスの難関を安全に通過して今日あるを致したるは国人の挙げて称賛する所なり、蓋し両艦の製造案は官民の軋轢より松方内閣に敗れ、伊藤内閣に於ては聖慮を累はすに至りたる非常の難産なりしも、竣工間もなく英国女皇陛下六十年祭に諸強国の軍艦に抜でて光栄の参列を為し、今日は東洋海上に栄誉ある大任を担ふに至れり、左れど平時に於ける海軍の任務は貿易の保護にあり、帝国国旗の下に安全に商権の拡張を保護するにあり、夫れ
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貿易は一国の命脈に関す、今や政府は五・六百万金を費やし航海補助を為さんと謀ることなるが、海軍は国の安全、国の発達、国の栄誉の為め其任務を全ふせざるべからず云々
次に阪本富士航海長は航海中の概況を述べ、スヱス運河の通過は世人の称揚する程の難事にあらざりしこと、運河会社は拡張浚渫の事に従事し既に其全部の修工を結了し、幅員を百二十五呎、深さを三十呎に改築したるを以て、両艦の通過には欧洲人も左程注目したりといふにもあらず、現に英濠航海には五百四十呎一万噸の定期船常に通過せり故に吾々の効績として見るべきなしとて、頗る謙譲の辞を以て詳細に航海中の模様を陳べ、更に語を転じて
 スヱス運河は両艦の通過に依りて同一程度軍艦の通過は平気なるを証拠立てたり、殊に既に東洋に於て強力なる此二艦を浮べたる以上はスヱスを通過すべき者は直に東洋に向ひ、然らざれば喜望峰を迂回しても東洋の権力平均上我海軍に比較する艦隊の浮べらるゝこと遠きにあらさるべく、東洋の局面益々多事に向ふべきを以て、本会は勿論国人は是に対する覚悟なかるべからず、又平時に於ける海軍は其任務たる商権の保護は充分意を致し復遺憾なからしめ、洋の東西南北に我国旗の光栄を保つを期すべきを以て、協力して海軍拡張に尽力せられんことを希望す
 と説き、最後に渋沢栄一氏軍事と経済の関係に就て説て曰く
 軍事は破毀若しくは防禦を意味し、共に国財消費の性質を有し、実業家の蓄財とは相乖離するが如き考を為さしむれども二者決して相反する者にあらず、野蛮時代に於てすら富国強兵を唱へたり、富国は経済、強兵は軍事を意味す、従来軍事と経済の関係は互に反対の方向に進まんとするの傾ありて、相密接して国事を経営するの観念に乏しかりしが如く、而して是昔時より然らしめたる者なるも古は武士といふものあり、商業と軍事とは全く反対の位地にありて近くべからざる者たらしめ、此風習より徳川幕府に至りては商業は全く度外視せられ、国の成立に商業は不必要の者の如く断定せられたるも、世界の大勢は長く軍事のみを以て成立するを許さず、殊に今日に於ては昔日の思想を打破して復一方に偏するを許さず、軍事と経済と相待て国の発達を企図せざるべからざる者と為せり、我々実業家は此心を以て今後実業の発達と軍備の充実を謀らんとす、左れど現今の実業界は両艦がスヱスの難関を通過せんとして英国を発せる当時の如く既に目前に一大難関のあるあり、故に務めて危難なく此難関を通過して両艦同様の栄誉を担はんことを希望しつゝあり云々
と、是にて演説を終り、松方首相は起て両陛下の万歳を三唱し、次で両艦万歳、日本経済会万歳声裡に会は閉ぢられ、散会したるは午後八時過なりし
   ○日本経済会ハ明治十八年八月十六日創立サレ、事務委員ハ柳谷謙太郎・若山儀一・犬養毅・柴四郎・和田垣謙三等ナリキ(東洋経済新報社版「索引政治経済大年表」ニヨル)。以後屡々会合ヲ催セル如ク、明治二十年代ノ「中外商業新報」ニハソノ記事ヲ掲ゲタレド、解散ノ時期ヲ詳ニセズ。