デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

8章 政府諸会
2節 博覧会
6款 東京勧業博覧会
■綱文

第23巻 p.623-627(DK230061k) ページ画像

明治40年3月20日(1907年)

是日、当博覧会ノ開会式上野公園ニ於テ挙行セラル。栄一、出品人総代トシテ一場ノ祝辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK230061k-0001)
第23巻 p.623 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年       (渋沢子爵家所蔵)
三月二十日 晴 寒              起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 午前八時朝飧ヲ畢リ、直ニ家ヲ出テ上野博覧会場ニ抵リ、午前十一時頃開会式挙行、出品人総代トシテ、式場ニ於テ祝辞ヲ朗読ス、畢テ場内ヲ一覧シ、園遊会場ニ抵リ、午後一時頃第一銀行ニ於テ午飧ス ○下略


産業工芸審査全書 高安亀次郎編 第一〇―一三頁 明治四一年一一月刊(DK230061k-0002)
第23巻 p.623-625 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

竜門雑誌 第二二七号・第三五頁 明治四〇年四月 ○東京府勧業博覧会の開会(DK230061k-0003)
第23巻 p.625-626 ページ画像

竜門雑誌  第二二七号・第三五頁 明治四〇年四月
○東京府勧業博覧会の開会 東京府勧業博覧会は三月二十日上野会場に於て開会の式を挙げられたり、当日は閑院宮殿下を始め奉り朝野の名士数万人の出席あり、午前十時堀事務長開会式の挙行を千家知事に申請して出品目録を捧呈し、次に閑院宮殿下の令旨あり、次に千家知事は式辞を朗読せられ、夫より松岡農商務大臣・斎藤東京府会議長・尾崎東京市長及協賛会副会長等の祝辞あり、次に青淵先生は、出品人総代として祝辞を朗読せられ、右にて式を終り、来賓は各館を順覧して園遊会に臨み、正午散会せり、当日先生の朗読せられたる祝辞左の如し ○前掲ニ付略ス
因に記す、青淵先生は個人としての出品者には非ざるも、自ら取締役として管理せらるゝ東京瓦斯会社・石川島造船所・大日本麦酒会社・東京帽子会社等より出品したる関係上、出品人一同の希望を容れ前記の如く総代として祝辞を朗読せられたるなりと承る
   ○栄一ガ取締役会長ニシテ出品セル会社ニハ尚ホ東京人造肥料株式会社・日
 - 第23巻 p.626 -ページ画像 
本煉瓦製造株式会社等アリ。(産業工芸審査全書及ビ竜門雑誌・第二三〇号)



〔参考〕内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題 永山定富著 第四三六―四四〇頁 昭和八年九月刊(DK230061k-0004)
第23巻 p.626-627 ページ画像

内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題 永山定富著
                          第四三六―四四〇頁 昭和八年九月刊
 ○第六編 第二章 万国博覧会の前駆としての主なる内国博覧会
    一、東京勧業博覧会
 明治三十六年開設の第五回内国勧業博覧会の成功は、日本に於ける博覧会熱の旺盛を見るに至り、国内到処に之が計画開設を策するの状勢となつた。即ち府・県単独に、又は数府県聯合に、或は又民間諸団体の協同により、中央・地方を通じて殆んど之が開設を見ざるの年次無き盛況を呈するのであつた。中に在りてその規模成績に徴して、重要なるものゝ一として最初に数へらるべきは、明治四十年東京市に開設せられたる東京勧業博覧会である。
 本博覧会は東京府会の主唱決議により計画せられ、日露戦役に得たる我国の地位に鑑み、産業上の進歩発達を期すると同時に、之を以て第五回博覧会開設の年たる明治三十六年より五年後の、明治四十一年に予定せらるゝ第六回内国勧業博覧会の準備たるべしとの目的を持つたものである。本会の会長は主催者たる東京府知事千家尊福之に当り民間の諸有力者之を援助し、実際の事務は殆んど府の吏員によつて遂行せられ、会期は同年三月二十日より七月三十一日に亘る百三十四日間であつた。
 会場は上野公園を以て之に充て、総面積五万一千八百十二坪を占め之を第一・第二・第三会場に分ち、主なる出品陳列館十二棟・五千八百八十二坪を建築し、道路・庭園・上下水・衛生・娯楽・警備等、主催者として準備すべき一切の施設を合せて、五十九万一千百十余円の建築費を投じた。出品は主催府の外、一道庁・二府・四十三県の参加により、出品人員一万四千八百七十六・出品点数九万三千八百五十四出品価格概算百七十万三千余円の数字を得たが、外に台湾製品・外国製品特許品等として出品者二千四百五十四人・出品点数一万四千四十五点、官庁出品其他として農商務省・陸海両省・統監府・東京市・日本赤十字社・帝国海事協会の分があり、戦後第一の博覧会としては頗る充実せるものであつた。
 出品の部類別は第一部教育学芸より、第十九部陸海軍用品及武器に及び、之を第五回内国勧業博覧会の第一部農業及園芸・第十部美術及美術工芸なるに比して、各部の分化細別を行ひ、大に製造工業の発達による内容の豊富を示して居る。而して以上の部別に基く百七十三類の出品は、夫々各陳列館に排置せられた。
 審査は、審査総長子爵曾禰荒助の下に十二部長を置き、審査官・審査嘱託・補助書記等六百六十一人によつて施行せられ、総出品に対し名誉金牌一九・名誉銀牌一一五・一等賞四二二・二等賞一、〇三八・三等賞二、二八二・褒状四、〇二五・協賛賞一一一・合計八、〇〇九の授賞をなし、外国出品に対しては、調査規程を設けて之を調査研究し、自営陳列館につきては特に調査員を置きて、其結構・按排・装飾
 - 第23巻 p.627 -ページ画像 
等につきて調査し、優秀なるものに対しては感謝状を贈つた。
 会期中出品の売約は、数量に於て二七、四八六点、価額に於て二四九、〇一二円余に上つた。又売店設備は従来に見ざる多数に達し、不忍の全池畔を繞りて開店し、営業者二百四十四名に及び、主として各府県生産品を陳列販売した。
 本会の観覧は、通常券一枚拾銭・小児券五銭・日曜券拾五銭並に小児券七銭として発売し、夜間入場券は、午後五時以後を金五銭とした斯くて会期中三、四二四、三四三枚の有料券発売に対し三四〇、二四〇円八五銭を総収入としたが、会期間の総入場人員は、有料無料を合して六、五七四、二一二人にして、内無料入場者は二七二、九七四人である。
 本会の経費は、当初三十二万円の予定であつたが、規模計画の拡大に伴ふて次第に増加し、総支出額百拾壱万円に及び、収入は入場料其他を併せ総額四十五万円に過ぎなかつた。即ち本博覧会は、経営上其収入は支出の半に及ばざるに拘はらず、主催者たる東京府は「本会ノ為メニ百拾壱万余円ヲ投ジタレドモ、其収入ニ於テ四十五万余円ヲ得タレバ差引経費ノ約半額ヲ補フヲ得タリト言フベシ。殊ニ本会ノ開設ハ実業発展ノ上ニ於テ資スル所尠カラザルヲ以テ、其効果ハ他ノ半額ニ対シテ必ズ倍蓰スル所アリシハ疑ヒヲ容レズ」として、博覧会開設の効果の単に収支の平衡のみによるべきに非らざるを高調して居る。
 本会の規模施設の大要は、以上に於て略尽されて居るが、本会の開設は、先きにもいへる如く、日露戦役直後の計画として、誠に機宜に適せるものといふべく、戦勝祝賀の気分も加はり一地方庁の主催であり乍ら、殆んど全国的の事業として経営せられ、予想外の盛況を呈し当時予期せられたる明治四十五年開設の日本大博覧会の前駆者としては極めて有意義のものであつた。又本会の施設中にありて、特に見るべきは、観月橋を架して不忍池並に池畔を最も有効的に利用せると、第三会場全部を挙げて、運動競技に充てたことである。
 開設地たる東京市は、本会の計画に対し又非常なる関心を表はし、出品其他の援助施設に関し、委員会を設置し、市費拾弐万円を出して諸般経費に充て、且つ更に五万円を出して協賛会の活動を扶け開設地たるの責務負担に任じた。
 本会の協賛会は其盛況に資するの目的を以て、東京市を中心とする有力者によりて組織せられ、市の補助金の外に参拾万円の寄附金を得て其活動の資に充て、博覧会々期中接待・娯楽・演芸其他諸般の施設を担任し、従来に見ざる活躍振りを発揮し、博覧会開設の別働機関として不可欠ものたるを実証するのであつた。