デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

9章 一般財政経済問題
1節 金本位問題
■綱文

第23巻 p.650-656(DK230066k) ページ画像

明治30年2月21日(1897年)

貴族院議長公爵近衛篤麿、幣制改革ニ関スル意見ヲ聴取スル為メ、斯道ノ関係者ヲ招キテ是日午後五時ヨリ貴族院議長官舎ニ於テ晩餐会ヲ催ス。栄一之ニ列席シ、金本位制採用ノ疑問ナル旨ヲ陳ブ。


■資料

東京経済雑誌 第三五巻第八六五号・第三三七頁 明治三〇年二月二七日 ○近衛公の晩餐会(DK230066k-0001)
第23巻 p.650 ページ画像

東京経済雑誌  第三五巻第八六五号・第三三七頁 明治三〇年二月二七日
    ○近衛公の晩餐会
近衛公は目下の大問題たる幣制改革に付、斯道に関係ある諸氏の意見を聞かんとて、去廿一日午後五時より晩餐会を貴族院議長官舎に開けり、来会者は松方大蔵大臣・谷子爵・田尻次官・富田鉄之助・添田寿一・阪谷芳郎・河島醇・渋沢栄一・荘田平五郎・山本達雄・益田孝・森村市左衛門・松本重太郎・田中市兵衛・浜岡光哲・山本・有賀両貴族院書記官等数氏にして、晩餐を終るや、主人近衛公の需に応じ、松方大臣は添田氏をして一場の演説を為さしめ、氏は予て調査したる書類に拠り経済上より金貨本位と為すの利を縷陳したり、次に渋沢栄一氏は四ケの点より金貨本位を採用するに付きての疑問を陳べ、更らに現内閣の財政企画が国力に比し膨脹に失したるを慨したるが、松方大臣は質問に答へんとて列国の大勢より東洋の形勢に説き及ぼし、海外貿易の不利・外資輸入の件に付き詳細に演説したるも、財政企画に付きては別問題なりとて更らに説明せざりし、次に谷子爵・河島醇の二氏意見を述べ、十一時頃散会したり



〔参考〕世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編 第四巻・第五八五―五九四頁 昭和九年五月刊(DK230066k-0002)
第23巻 p.650-653 ページ画像

世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編  第四巻・第五八五―五九四頁 昭和九年五月刊
 ○第十編 第一章 第三次伊藤内閣
    第三節 金本位制の実施
 日清戦争後に於て、我が財政史上の一大事業であり、幣制史上の一大改革であつたものは、三十年十月一日に実施された金本位制の採用である。公はこの金本位制を採用するに当つても、松方蔵相を援けて尽力する所が少くなかつた。
 我が国の貨幣制度は、四年に発布せられた新貨条例に基づく金銀複本位制を三十年九月まで施行して来たのであつたが、事実上よりいへば、それは単に銀本位制であつたといふのが適当してゐた。それは当時我が国の貿易は銀本位制たる清国をその主要顧客としてゐたのと、新貨条例に規定せられてある金銀の比価が実際の金銀相場よりも小であつたのと、この二つの理由から、我が国の貿易は金貨によるよりも銀貨による方が遥かに便利であり利益も多かつたので、自ら銀貨の流通は頻繁となり、従つて金貨の流通は不振となつた。而して金貨は漸次に市場より影を潜めて行つた。それで我が国の幣制は名は金銀複本
 - 第23巻 p.651 -ページ画像 
位制であつても、事実上に於ては一円銀貨を本位貨幣とするが如き銀本位制となつてゐたのである。
 然るに世界各国に於ける幣制の状況を見ると、六年(一八七三年)に於て新興独逸が金本位制を実施して以来、両三年の中に瑞典・諾威英国等が金本位制に移つた。米国も亦貿易弗銀貨を除く外は、弗銀貨の鋳造を廃止して金本位制を採用した。而して此等の国々は皆多額の銀を売却し始め、その他の欧米諸国に於ても皆排銀吸金のために汲々としてゐたので、銀貨は唯低落するのみであつた。為に金銀複本位をその幣制とする拉丁貨幣同盟の諸国にあつては、これに由つて非常の打撃を被つてゐた。六年以前には概ね金一対銀一五・五〇の割合を上下してゐた比価は、その後十二年を経た十八年(一八八五年)に及んで金一対銀一九・〇〇となり、二十四年(一八九一年)には金一対銀二〇・九一に低落し、更に二十六年(一八九三年)に至つては金一対銀二六・四九にまで暴落した。かくの如く銀価は年と共に低落して行き、而もその前途は頗る暗澹たるものがあつた。こゝに於て墺匈国は二十五年に金本位制に移つた。又二十六年には米国が一八九〇年(二十三年)に銀価の下落を阻止する為に制定してあつたシヤーマン条例(Sherman Act)を廃し、印度及び露国は銀貨の自由鋳造を停め、二十七年(一八九四年)に入つて波斯が銀貨の鋳造を止め、印度は銀の輸入に五分の課税をなし、而して二十八年には智利、二十九年にはコスタリカが相次いで金本位制に移り、露国は亦二十九年に於てそれに移らうとした。かゝる情勢の下に銀価は一層低落し、二十七年に平均金一対銀三二・五六、三十年に於ては更に下落して金一対銀三四・三四平均となりその年の下落の極点は金一対銀三九・七〇にも達した。但し二十八年及び二十九年に於ては銀価稍々昂騰を示し、二十八年に平均金一対銀三一・六〇、二十九年に於て金一対銀三〇・六六までになつた。これは要するに日清戦争の結果、我が国が清国より受領することになつた償金は銀計算に拠るであらう等の風説に依つての変動であつたが、償金は事実に於て英貨を以て受取ることになつたので、三十年には早くも前記の如く頓に低落したのである。
 かく世界各国が孰も競うて金本位制の採用に齷齪し、銀価が日に非況を告げたので、その影響は延いて東洋の銀貨国たる我が国にも波及して来たのは当然のことである。そこで我が国はこの危険を脱するためにその方法の調査研究に著手した。かくて二十六年に時の渡辺蔵相が設置した貨幣制度調査会が即ちそれである。その調査の結果、我が国は幣制を改革して金本位制を採用することに決定した。併し之を実行する為には相当の金準備が必要であつた。それを如何にして調達するか、それが政府の大きな悩みであつた。而も国内にはこの本位制の採用に異議を唱へる者が生じて来たので、政府はその決心に於て稍々躊躇の色を見せてゐた。折柄恰も日清戦勝によつて多額の償金を受領することになつたので、政府は之を利用して金準備を整へ、而して金本位制実施の資金に当てる方途を立てた。清国よりの償金は二十八年四月調印の下関条約、及び同十一月調印の遼東半島還附に関する条約の規定に基づき、英国金貨に換算して受取ることになり、その総額は
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庫平銀二億三千一百五十万両であつて、之を英貨に換算すると三千八百八万二千八百八十四磅余であつた。こゝに於て政府は直ちに田尻稲次郎以下数名に命じて、この金本位制実施の為の方法を調査立案せしめた。時に三十年一月で、蔵相は松方であつた。
 我が国に金本位制を採用することは至当の成行といはねばならぬ。されど当時の我が国実業界の情勢から之を実際問題として見る時は、これが為に被る実業界の打撃は非常であり影響は甚大であることは明かであつた。殊にその頃勃々として振興の機運にあつた紡績事業に於て特に甚だしい。そこで実業界方面よりは盛んに金本位制に反対を唱へ、或は時機尚早を叫ぶ者が囂々として起つた。加之、政府部内に於ても之に雷同して反対論や尚早論を口にする者が少くなかつた。かゝる反対の輿論と金準備の方途に悩んだ政府は、一時この問題を抛擲せねばならぬかの如くに見えた。併し日清戦争の償金によつて漸く一方の難問題を脱出し得たので、政府当局者たる松方は、こゝに公 ○井上公等の少からざる援助の下に、万難を排して、断乎我が国に金本位制を布くことに邁進し、而して田尻等の調査復命書に基づいて、三十年二月二十五日に貨幣法その他附属法案を閣議に提出してその承認を得たのである。
 公はこの年二月初めには、伊藤と共に京都にあつたが、同七日に伊藤と別れて、十日の夜帰京し、その翌十一日には、公の帰京を渇望してゐた松方より幣制問題に就いての相談を受けた。併し公はこの問題が問題であつたので、十分慎重の態度を持し、又伊藤・大隈等の意見も一応叩く必要があるとして、即答を避けた。而して公は十四日に至つて左の如き松方との会談顛末を伊藤に報じ、併せてその帰京を待望した。
 別後八日は名古屋え一泊候而、九日晩ハ興津え一泊、十日夜帰京仕候。十一日、松方伯より電話ニ而至急談話致度との事ニ付面会候処彼の貨幣制論を咄露候故《(マヽ)》、如何にも方今之形勢ニ付而は、金貨本位之方可然哉にも多少推考候得共、只一会之高説を承り候ノミにて全然御同意トモ難申、多少時日を経テ従来前途ニ付、考按を要スベキ一大重要ナル事件ニ候故、財料《(マヽ)》モ取調度、又経済上ニ考按を保持スル知友にも推究致度と答置申候処、実は既ニ伊藤侯えも両三日前一書を差出シ候而、是非御帰京を促シ置候次第ニ有之、勿論重大事件故、伊侯並ニ閣下え篤と御相談を遂ゲ候積ニ候故、御帰京早々御妨申タル次第との事ニ候。就而は実ニ国家将来之為、一先御帰京被成候而、御会得被成候事柄ト奉存候。平日意見之合不合抔之係ル場合ニモ無之候間、何卒御苦労千万ニ候得ども、一御憤発被成候様奉万祈候。其内大隈えモ面会候而、同氏之異見モ内々承り置候積ニ御座候。(中略)何日頃其地御発足ニ候哉、内々御洩被成下候ハバ幸甚之至ニ御座候。伊藤公爵家文書
伊藤は亦松方の書信に接して、同十九日に一応大磯まで帰り、直ちに上京した。以来公は伊藤・大隈等と協力して、極力松方を援助し、松方は専ら之に頼つて遂に前記法案を提出するに至つたのである。
 松方はこの法案が閣議の容認を経て、三月一日に之を第十帝国議会
 - 第23巻 p.653 -ページ画像 
に提出した。かくて金本位制採用の法案は原案のまゝ貴衆両院を通過したので、松方はその月の二十六日に御裁可を経て、直ちに貨幣法及びその他附属法律案として公布し、而して同年十月一日より実施することにした。同時に従来の兌換銀行券条例及びその他関係法規は総べて金計算に改正し、更に一円銀貨及び流通不便の貨幣引換の為に、貨幣整理資金特別会計を置いて新貨幣法の実施に著手した。而して従来は本位貨幣としての資格のあつた貿易銀は三十一年四月一日限、政府並びに国立銀行発行の紙幣は三十二年十二月三十一日限、孰もその通用を禁じ、以て我が国の幣制は名実共に金本位制となつた。これが即ち現行の貨幣法である。
 我が国は、公等の啻ならざる尽力に依り、かくの如くにしてその幣制上に一大転機を劃した。併し諸制度の改革に当つては、その程度に大小はあつても、兎に角動揺を伴ふのは自然の数である。この金本位制の実施に際しても、産業界は為に大打撃を被り、経済界も亦為に金融梗塞し、貿易界は唯逆調をのみ続けた。三十年の財界第一次の変動といふのが即ちそれである。政府は低資の融通その他有らゆる方法を講じてその緩和に努めたけれども、その影響が絶大であつただけに、急に挽回すべくもなかつた。そして三十一年に蔵相となつた公が之に関して施した救済策は既述の如くであるが、兎に角一部の犠牲を忍び反対の輿論を押切つて、国家将来の為に断乎として金本位制を確立したので、後年日露戦争に際して、財政経済上に多大なる便益を得たのである。当時この改革に尚早論を唱へた渋沢も、青淵回顧録中に「幣制改革に就いては、私も熱心に時期尚早を主張し反対した一人であるが、後日に至つて熟慮するに、反対を唱へたのは全く私の短見であつた。」と述べて、公等の先見の明に敬服してゐる。その他の反対論者や尚早論者も亦恐らく渋沢の如く後日に於て自らその非を悟り、而して公等の業績に感謝を捧げた者が少くなかつたに違ひない。伊藤侯爵家文書・明治三十年幣制改革始末概要・本邦通貨の事歴・金融六十年史・青淵回顧録。



〔参考〕公爵松方正義伝 徳富猪一郎編 坤巻・第七一八―七二四頁 昭和一〇年七月刊(DK230066k-0003)
第23巻 p.653-655 ページ画像

公爵松方正義伝 徳富猪一郎編  坤巻・第七一八―七二四頁 昭和一〇年七月刊
 ○第二篇 第九章 公と金貨本位制の実施
    六 公と金貨本位制実施の効果
 公が幣制改革案を建て、金貨本位制を採用せんとするや、政府部内に於ても、民間に於ても、群議百出、異議を挟むものが尠なくなかつた。而して公は反対論者に対し、諄々として、其の利害得失を説き、之が疑惑を釈くに余力を遺さなかつた。
 政府部内に於て、金貨本位制に反対するものは尠なくなかつたが、其最も有力なる反対論者の一人は、元老政治家として朝野の間に声望を有していた伊藤博文であつた。伊藤の反対理由は、首として我が日本には金鉱乏しく、金の産額が極めて僅少であると云ふ点であつた。公は之に対し『金山の欠乏を嘆ずること勿れ。海外の貿易品は、渾て是れ我が金山では無い乎』と云ふてゐる。
 然るに、伊藤は、公の真意の在る所を解せず、尚ほ且つ安心せざるものゝ如く、依然として反対の説を持続してゐたが、其後、公が欧米
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回覧を終りて帰朝したとき、伊藤は公に対し『卿の金貨本位論は、其の正鵠を得てゐる。貨幣法の改革は、其宜きを得たものである』と称讃してゐたのみならず、公衆に対しても宣伝してゐた。
 井上馨は当時伊藤の如く、公然反対論は主張しなかつたが、さればと云つて賛成論にもあらず、其中間にありて、可否を断ぜざるが如くであつた。
 民間に於ける反対論者の急先鋒と云ふべき巨頭は、福沢諭吉であつた。公は福沢が其の自ら経営しつゝある『時事新報』に由りて、反対論を宣伝するに於ては、其の影響少小ならざるものあるを以て、一夜自ら駕を枉げて福沢を訪ひ、互に膝を交へて、幣制改革の利害得失を極論する所あつた。其の談論は、娓娓として竭きず、薄暮晩餐後より始まり、翌午前二時に及んだが、終に福沢をして反対論を唱道すること無からしめた。
 実業家方面に於ても、亦た異議者が頗る多く、其能く金本位制の真意義を理解するものが尠なかつた。外山脩造の如きは、到底不可能なることを説いてゐたが、公の説を聞くに及んで、始めて諒解したと云ふ。安田善次郎は、公に対し『若し金本位制にして実現するに於ては予は公の為に純金の等身像を製造して之を贈らん』とまで広言した。
 其後、公が帝国ホテルの集会に於て、安田と邂逅するや、公は之に揶揄して『足下は嚮に予に対して、金本位制の実施せらるゝに至らば予の為に純金の等身像を贈るべきことを誓約した。今や金貨本位制は実施された。其約の実行は果して如何。併し等身像は巨額を要するを以て、予は之を受くるに忍びざるものである。故に寧ろ極めて細小なるものを以て満足せざるを得ぬ』と云ふた。安田は答ふる所を知らず苦笑するもの稍々之を久うし、唯だ其の頭顱を掻くのみであつた。左右怪んで其故を問うた。公は之に告ぐるに、曩日、安田が金本位制の実施を機として、純金の等身像を進呈すべしと約束したることを以てしたので、聞くもの始めて其の消息を知ることを得た。此の如く実業界の先達者たる安田の如き人物でさへ、金貨本位制実施の不可能なることを信じてゐたに拘らず、公の遺算なき計画と献身的努力とが、終に能く百難を排して、此の大業を成就し、安田をして一言無く茫然自失せしめたことは、痛快事と云はねばならぬ。
 但だ関西実業家の巨擘たる藤田伝三郎が、公に対し『金貨本位制にして実施さるゝに於ては、予が所有の銀鉱は下落すべく、個人としての損害は少小ならざれども、国家将来の利益の為に成功あらんことを希望す』とて、賛成の意を表したことは、万緑叢中の紅一点とも云ふべしだ。彼が二月二十四日附にて公に贈つた書中にも、左の如く云ふてゐる。
  予て御計画之幣制改正も追々御調査相済、近々御発表に相成候由誠に経済界之幸福と奉欣賀候。過日田中市兵衛より、大阪には紡績業者等之反対説無之哉との問合有之候得共、当地には格別価値ある反対論は無之。尤も改制の意味を会得せずして、彼此質疑を起すもの位は有之候得共、至極穏和之模様に御座候間、其辺は御放心被下度候。
 - 第23巻 p.655 -ページ画像 
亦た以て大阪実業家の幣制改革に対する意嚮如何を卜することが出来る。公は晩年、金貨本位制反対運動の経過如何に関し、左の如く語つてゐる。
 貨幣改正法案は、幸に貴衆両院を通過した。それから直ぐ実行に取掛るやうな訳であつたが、元の銀貨の引換へ方や、総ての準備を遂げ、何等の苦情も混雑もなしに、全く無事に決行が出来た。其結果は出来て見ると、銀の相場が貨幣の制度に合つて居る。世界中の銀の相場に合せた所で、貨幣を造つたものであるから、混雑が無かつたことゝ思ふ。それで貨幣が十円のものが二十円と云ふことに声だけなつたけれども、是は経済上に利益があつたと思ふ。玆に十円の物がある、之が二十円と云ふと、二十円では高いぢやないかと、斯う頭に感ずる。声だけでも二十円と云ふより十円の方が廉いと云ふ観念があるものである。貨幣は大きくするより数を多くして、小さくする方が宜いと云ふは無理ならぬことゝ考へ、其時、好時機と思ふて日本の貨幣を小さくした。
 実際はそれで都合よく行はれたが、其後、反対は非常なものであつたけれども、其の反対者と云ふものは、国家の為に意見を立てゝやつたことであるから、互に謗るでもなければ、罵るでも無いが、第一に反対した人は伊藤公で、是は非常な反対であつた。井上侯は初めから談じて、余り異論はなかつたやうだが、漸次反対が強くなつたから、先づ延ばした方が宜しいではないかと云ふ説になつたが、『延ばすことは出来ない。今時日を延ばせば、またどう云ふ時勢になつて、行ふこと能はざる場合に陥るかも知れないから延ばすことは出来ない』と云ふた。伊藤は『金本位にしてはいかぬ』と云ふ。是れこそ国家の為の見込みであつたらうと考ふるけれども、予に向つて面のあたり其説を立てたことは無い。山県公が其頃、首相と為つて居たが、山県の所へ行つて『どうも一体財政のことは、松方が金貨本位にしたのは悪い』と言はれたと云ふことを予が鎌倉にゐた時、山県が来て話したから『是は善いことを知らせて呉れた、尚ほ研究しませう』と云ふて、早速、東京に帰つて来た。伊藤公はまだ東京に居らるることゝ思ふたが、もう大磯に帰られたと云ふので、井上の所へ参り『さて斯う云ふ事を山県から聞いたが、是は此儘にして置く訳に行かない、国家の為に互に皆其の得失を考へてすることであるから、予は卿及び伊藤公と三人相会し、互に研究して見やうぢやないか』と云ふと、井上が之に同意し『それは宜い、研究しやう、自分が伊藤にも之を言ふから』と云ふことで『それでは、成るべく速に会見したい、若し予と其の研究をせぬ中に、伊藤公が公衆に向つて演説になるやうであつては、致し方がない、予も国家のため見込があるから、公衆の前で已むを得ずして述べなければならぬと云ふ訳になる、そこを承知して貰ひたい』。井上は『宜しい、異議は無い』と云ふことであつた。それから段々『早くやらうではないか』と井上に催促したけれども、結局其の会合が出来ずして済んだ。
○下略
 - 第23巻 p.656 -ページ画像 



〔参考〕日本魂 第二巻第一二号・第二一―三五頁 大正六年一二月 国家的観念の最高調(男爵渋沢栄一)(DK230066k-0004)
第23巻 p.656 ページ画像

日本魂  第二巻第一二号・第二一―三五頁 大正六年一二月
    国家的観念の最高調 (男爵 渋沢栄一)
           ……大正六年剰ます所僅かに一箇月
           ……如何に旧を送り新を迎ふべきか
○上略
○私の不明と松侯等の先見 先憂後楽は志士仁人の口にすべきことで決して浮躁軽薄の徒の与り知るべきことでない。それならば憂ふる者の凡ては志士仁人であるかというに、必ずしもさうではない、私の憂慮は、敢て私の為に憂ふるのでなく実に邦家の為に憂慮するのであるが、是れとて杞憂に属することが間々あるので、自分ながら、後で成程と思ふことがあり、又然うであつたかと笑話に終るやうなことも少くないが、それとて、其の当時に在つて見れば、真個に偽りのない憂慮である。蓋し前述《(途カ)》を憂慮して各種の施設計画を為すは、一種の警告を意味するものであつて、人心を策励する上には極めて必要な事柄である。是れに就て私の思ひ出すのは、過般東京銀行倶楽部に於て催した金貨本位二十年記念会であるが、私は此席上に於て、二十年前に於ける私の憂慮が、今日となつて見れば、全然杞憂であつたことが、明瞭となつて、当時に於ける私の不明を忌憚なく告白すると同時に、松方侯等の決心が如何にも立派であり、且つ先見であつたことを知り得らるゝと共に、私は貨幣制度に関して、二三の失策談などを試み、如何にも当時自分の不明・取越苦労が、今更ながら気恥かしく感ずる。併し、それが全然杞憂に終つたことは、国家の為に洵に結構であると申した訳けである。同時に貨幣制度に関する私の不明は、関係者たる松方侯等の先見を意味する訳けであるから、同席上に於ける私自身の不明なり失策なりの告白は、間接に松方侯等の先見を称揚したことになる。
○金貨制度と私の憂慮 思へば恰度明治四年、我が国は始めて金本位制の実行せんとしたる際、私は其の起草者の一人であつたが当時四個の国立銀行設立せられたものゝ、動もすれば取付に遭つて、兌換の実行に窮するの有様であつた。其の後明治九年、政府紙幣を以て兌換に着手したる当時、松方侯は現金を以て兌換を遂行するの最も有利なることを説かれ、次で明治三十年、松方侯の金貨本位制度を実施せられんとするや、私は極力之に反対したに拘はらず、侯の金本位は着々成功を告げ、越えて四十一年、朝野を挙げて兌換の危機、国内正貨の払底を絶叫し、私も亦故井上侯等と同様憂慮に堪へなかつた者であるが最近数年間に正貨充実し、今日の如く兌換制度の確実を見ることになつたのは、松方侯以下、我が貨幣制度に尽された諸子の功労を感謝すると同時に、其処には私自身の失敗歴史の歴然掩ふことの出来ないものがある。
○下略
   ○大正六年十一月一日東京銀行集会所ニ金貨本位実施満二十年記念会開催。同夜銀行倶楽部ニ開カレタル晩餐会ニ於テ、栄一右ト同様ノ演説ヲナス。
   ○本巻所収「貨幣制度調査会」ノ各条参照。