デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第24巻 p.50-68(DK240003k) ページ画像

明治9年5月11日(1876年)

是日栄一、養育院事務長ニ任命セラレ、引続キ当院事務ヲ主管ス。同月二十五日、東京会議所ハ其養育院行務ヲ府庁ニ還納ス。仍ツテ当院ハ東京府ノ経営スルトコロトナリ、同年六月東京養育院ト改称ス。


■資料

記事摘要(DK240003k-0001)
第24巻 p.50 ページ画像

記事摘要             (東京市養育院所蔵)
                    渋沢栄一
養育院並瓦斯場事務長申付候事
  明治九年五月十一日            東京府庁


記事摘要(DK240003k-0002)
第24巻 p.50 ページ画像

記事摘要               (東京市養育院所蔵)
                         会議所
行務還納之儀兼而申出候通来ル廿五日事務引渡可申、当日受取之者可差出候
此旨相達候事
  明治九年五月十五日
              東京府権知事 楠本正隆 印


会議所伺 第四号 自明治九年至明治一〇年(DK240003k-0003)
第24巻 p.50-51 ページ画像

会議所伺  第四号 自明治九年至明治一〇年   (東京府文庫所蔵)
             五月二十四日
知参事
                       第一課

                 二十四日達済
              養育院並瓦斯場事務長
                      渋沢栄一
              同副長
                      西村勝三
別紙之通会議所ヘ相達候条、此旨可相心得事
 (欄外朱印)                 長官
 取決
(別紙)
 - 第24巻 p.51 -ページ画像 
知参事                 第一課
 《(楠本)》
 (欄外)
 五月二十三日達済         会議所
今般行務還納候ニ付テハ、来ル二十五日午前第十時別紙之通受取之者出張為致候条、為心得此旨相達候事
(別紙)
          庶務
            東京府九等出仕  秋山則重
          修路事務
            東京府十一等出仕 富岡義和
            同        穂積敬重
            同        大西重明
          養育院並街灯事務
                     渋沢栄一
                     西村勝三
          金銀出納事務
            東京府大属    荒木功
            同十等出仕    伊藤徹
          商法講習所事務
            東京府十等出仕  藤田季荘
          墓地取扱事務
            区長       江塚庸謙
            区長       福地常存
            同        保阪豊和
一東京養育院
一東京瓦斯局
東京養育院及瓦斯課之儀ハ是迄東京会議所付属ヲ以取扱罷在候処、今般同所一切之事務還納相済候ニ付而ハ、向後書面之通名号相改申度、此段奉窺候也
                養育院瓦斯礦油灯
  明治九年第六月六日      事務長 渋沢栄一
                同
                 副長  西村勝三
    東京府権知事 楠本正隆殿      横浜出行《(附箋)》ニ付無印
               六月八日
知参事《(千田)》    第一課
 伺之通


東京日日新聞 第一三三五号・第四七〇頁 明治九年五月一八日 【来ル廿五日にハ、是ま…】(DK240003k-0004)
第24巻 p.51 ページ画像

東京日日新聞  第一三三五号・第四七〇頁 明治九年五月一八日
○来ル廿五日にハ、是まで東京会議所にて取扱ひ来りたる事務を(修路・ガス・ランプ街灯・商法講習所・上野養育院の如き)東京府庁へ御請取に相成るべき旨を御達しになつたと申すこと
○東京会議所の渋沢栄一・西村勝三の両君ハ改めてガス製造所・上野養育院の事務取扱を府庁より申付けられた
 - 第24巻 p.52 -ページ画像 


東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述 第六―七頁 大正一一年一一月刊(DK240003k-0005)
第24巻 p.52 ページ画像

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述  第六―七頁 大正一一年一一月刊
    三 余と養育院との関係は明治七年より
○上略
 其後営繕会議所は其名を東京会議所と改め、其議員は府より任命せられて府知事の諮問機関となつた、然かし、前に申した各種の直営事業は矢張り此新会議所に属して居つたから、諮問機関であると同時に執行機関でもあると云ふ奇観を呈したのである、当時余は其頃新設せられたる第一国立銀行の頭取を勤めて居たが、本業の傍ら時々会議所にも出席して居たのである、而して議員等は予ねて会議所が諮問機関でありながら執行機関であることを不可なりとして、遂に知事の同意を得て執行に関する実務は東京府の管理に属せしめ、会議所は単に知事の諮問に応ずることに改正した、而して余一人だけは一方議員として会議に与かると同時に、他方には養育院の院長、瓦斯局の局長、商法講習所の評議員に東京府知事から任ぜられて其実務に鞅掌したのである、明治十二年に府県会の制度が設けられ、又商法会議所なるものが出来て、講習所の仕事は商法会議所に於て監督し、瓦斯局は東京府の事務に移り、養育院も東京会議所の手を離れて府知事の管理となり特に院長を置きて其事務を担当することゝなつたのであるが、然かも之れに要する経費は矢張り共有金から支出して居たのである。


青淵先生公私履歴台帳(DK240003k-0006)
第24巻 p.52 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
同 ○明治一〇年十二月二十日 養育院並瓦斯局事務勉励候ニ付為慰労目録之通給与候事   同 ○東京府


事務撮要 明治九年(DK240003k-0007)
第24巻 p.52-54 ページ画像

事務撮要  明治九年        (東京市養育院所蔵)
子五月廿七日御達
養育院力役場ト称号之処、自今東京府土木掛工役場ト改称之旨右土木掛リヨリ口達有之候段、力役場ヨリ申越候事

明治九年五月廿六日決議  臨時会議     録事
  会頭
  副会頭
  議員
養育院入院之者増加之事
養育院入院之者ヲ現今五十人程増加ノ儀ハ、府庁ノ公達ニ従ヒ承諾シテ可然歟、尤モ府庁ハ過日ノ公達ヲ以テ既ニ一ケ年五千円ノ費用ヲ給スル事ヲ下議セラレタルニ付、向後該院取扱方及ヒ窮民授産方法・費用凡積リ・院中事務取扱規則等ハ行務専任之者ヘ申達見込為相立、右見込ヲ衆議シ、其節此院費金ヲ府庁ヨリ何程、人民共有金ヨリ何程トノ区分ハ議定シテ府庁江上申シテ可然歟
  但此度限リ増員相成、追而一切之日時相立候迄猶又増員等無之様可申立候事
 - 第24巻 p.53 -ページ画像 
                        会議所
窮民養育院入之儀過般来出願候者数十人有之、然ル処場所閊ヲ以テ不差許候得共、追々困難之旨申出向有之、難捨置義ニ付不取敢五十人ヲ目的トシ、家屋建増目論見至急取調可差出、此旨相達候事
  但追々場所替之筈ニ付建築方之儀モ取設《(仮)》ニ見込ミ相立可伺出事
   明治九年五月廿五日
              東京府権知事 楠本正隆 印

子六月四日              養育院々長
   事務長
院内婦人室新築
一受負金高百五拾円五拾銭也
 右者平家切妻造壱ケ所   此坪数拾七坪半 壱坪ニ付金八円六拾銭
 院内筆算所新築
一受負金高百六円六拾五銭也
 右者平家切妻造壱ケ所   此坪数拾三坪半 壱坪ニ付金七円九拾銭
一溜リ摸様替        凡拾円
右之通今般増築相成、窮民五拾名程入院可相成様御達ニ候処、転移前仮建之事ニ有之候得者夫々摸様替仕、従前溜リ続ニ相成候筆算所ヲ溜リトナシ、別ニ筆算場並婦人室御増設ニ相成候様仕度、此段相伺候也

子六月十二日御指令
 明治九年六月             養育院係
   長
   副長
院内仮建物之儀別紙之通御指令済相済候ニ付、本院ヨリ早々着手之儀達方取計、此段入撿覧候也
一金弐百六拾七円拾五銭 院内仮建物及模様替入用辻
    内
  金百五拾円五拾銭  婦人室拾七坪半
             但壱坪金八円五十銭
  金百六円六拾五銭  筆算教場拾三坪半
             但壱坪金七円九十銭
  金拾円
    是者間内所々摸様替之分
(別紙)
右者今般窮民五拾名ヲ目的トシ人院可相成ニ付家屋建増可申、尤追而場所替之筈ニ付仮設之積ヲ以至急取調可相伺旨御達ニ付、実際見分仕候処、従来之婦人室及筆算教場等者模様替之上窮民差置、右両室者仮建仕候方却而弁理之筋ニ而手軽出来可申見込ニ付、精々省略之上取調候処書面之通相成候間、前書金高ヲ以仮建取掛申度、至急御允裁被下置度此段上申仕候也
                   養育院事務長
  明治九年六月十日           渋沢栄一 印
 - 第24巻 p.54 -ページ画像 
                   同副長
                    西村勝三
                     横浜出行ニ付無印
    東京府権知事楠本正隆殿
 第八号《(太字ハ朱書)》
  伺之通
   明治九年六月十二日     東京府権知事 楠本正隆

子六月十四日御指令済御府ヨリ郵便ヲ以御達ニ付、即日増田充績江返達及候事
    役印調成之儀ニ付上申書
                     (朱印)
  印鑑 東京養育院事務長之印 東京瓦斯局事務長之印
右者今般東京養育院・瓦斯局事務私共ヘ正副事務長被命候ニ付而者、向後書面之通役印調成之上相用申度奉存候、此段奉伺候也
                 養育院瓦斯局
                   事務長
  明治九年六月十日          渋沢栄一 印
                 同副長
                    西村勝三
                     横浜行ニ付無印
    東京府権知事 楠本正隆殿
 第十八号
 書面伺之通
  明治九年六月十三日     東京府権知事 楠本正隆



〔参考〕事務撮要 明治九年(DK240003k-0008)
第24巻 p.54-56 ページ画像

事務撮要  明治九年          (東京市養育院所蔵)
子六月廿六日第六課江差出ス、右者去ル廿二日荒木大属ヨリ達ニ付差出ス
      記
               役付働方並病者
一金四銭六厘九毛         菜附壱人賄代
  但役付工業之分者壱人ニ付白米壱合増
一金三銭八厘弐毛         無菜壱人賄代
右之通御座候、尤米相場高下ニ随ヒ増減有之候事
      記
明治六年酉六月より同九年子五月迄
一金弐千六百八拾九円九拾九銭九厘五毛  施与金〆高
    此訳
  金千六百七拾八円拾弐銭七厘      会議所預ケ
  金千〇拾壱円八拾七銭弐厘五毛     施与金之内より相備置候分
     内
   金五百五拾円〇七拾七銭八厘九毛   工業資本金繰替
   金四百六拾壱円〇九銭三厘六毛    現在金
 - 第24巻 p.55 -ページ画像 

明治六年酉七月より同九年子五月迄
一金百八拾八円拾弐銭壱厘壱毛      窮民資本預ケ金

当五月分経費高
一金千三百九拾八円〇三銭三厘
    此訳
  金百九拾円              院長並属員月給
  金四拾五円五十銭           仲番門番小使月給
  金弐拾五円九拾九銭弐厘        府下病院賄代
  金五百五拾八円八拾六銭七厘      賄代
  金四百八拾五円九拾銭五厘       諸経費
  金九拾壱円七拾六銭九厘        薬品代
   但薬品購入出納詳細之儀者月末ニ至リ表ヲ以申上候ニ付、此廉相略申候 薬品購入出納調御達ニ付如斯

当子六月廿三日調
一惣人員三百八拾弐人
    内
  男 弐百六拾九人     内自費拾人
  女 百拾三人       同三人
      此訳
                  男弐拾九人
  役付 三拾八人       内
                  女八人
                  男三拾五人
  病者 四拾七人       内
                  女拾弐人
                  男弐拾八人
  狂人 四拾八人       内
                  女弐拾人
                  男拾九人
  癈疾 三拾人        内
                  女十壱人
                  男拾弐人
  盲人 弐拾三人       内
                  女十壱人
                  男七人
  老人 拾六人        内       但七十年以上
                  女九人
                  男三拾三人
  幼者 四拾七人       内       但十五年以下
                  女十四人
      此内
                  男拾七人
   就学之者 弐拾壱人    内
                  女四人
                  男百六人
   就業之者 百三拾四人   内
                  女弐十八人
       此内
                  男弐拾九人
    紙漉   三拾三人   内
                  女四人
    髪結   弐人
    掃除方  三拾七人
    草鞋作  拾七人
    指物職  壱人
    簾編   壱人
    網漉   拾人
    煙管彫  壱人
    提灯ヒゴ 壱人
    小揚枝  弐人
    按摩   五人
 - 第24巻 p.56 -ページ画像 
     衣類洗濯女弐拾四人
      〆
一惣地坪八千六百七拾弐坪余
      此訳
            明治六年酉十一月中
   五千八百六拾九坪   護国院地所之内受取
            同七年戌十月中
   弐千七百六拾四坪半  東円院地所囲込
    但為引料金百五拾円遣ス
一建家惣坪八百三拾坪
      此訳
   弐拾弐坪弐合五夕   事務局    壱ケ所
   五拾九坪       賄所下屋共  壱ケ所
   百六拾弐坪      病室     三ケ所
   弐拾四坪五合     盲人室    壱ケ所
   七拾五坪五合     紙漉場    壱ケ所
   四拾四坪五合     工業場    三ケ所
   六拾六坪五合     婦人室    弐ケ所
   七拾壱坪五合     狂人室    六ケ所
   三拾三坪五合     浴室     壱ケ所
   拾四坪五合      門番所物置共 三ケ所
   七坪         □室《(欠)》 壱ケ所
   拾三坪五合      筆算所    壱ケ所
   六拾九坪       院長属員長家 弐ケ所
   百六拾六坪七合五夕  窮民溜    壱ケ所
  後△是者右百六拾六坪七合五夕之代価
  前△但金五百円ニテ護国院ヨリ買取之分
一構内長屋住居之者定詰被申付候ニ付宿料無之候事
一地所之儀者官有地第四種ニ而地租ヲ課セス区費ヲ出ス
一医員之儀ハ諸謝金等不差出候事
右之通
  六月廿六日                 養育院



〔参考〕事務撮要 明治九年(DK240003k-0009)
第24巻 p.56-57 ページ画像

事務撮要  明治九年        (東京市養育院所蔵)
明治九年七月十二日
                   養育院掛
   事務長
   副長
今十二日府庁ヨリ御達相成候ニ付左之名前之者出頭仕候処、別紙之通被仰渡候、此段御届仕候也
(別紙)
                      飯田直之丞
  東京養育院掛申付候事
    但月給金三拾円支給候事
 - 第24巻 p.57 -ページ画像 
   明治九年七月十二日        東京府庁

                      神保尹成
  東京養育院掛申付候事
    但月給金弐拾五円支給候事
   明治九年七月十二日        東京府庁

                      村上正名
  前文言之内附属申付候事
    但月給弐拾円支給候事
  前文言ニ付下略之
    支給金拾五円            大西栄之助
    同拾弐円              小原権三郎
    同                 白沢英安
    同                 長屋玄次郎
    同                 篠崎茂兵衛
    同                 辻喜平
    同                 柘植清蔵
    同                 中村寿政
    支給金七円             田中林右衛門
    支給金六円             月岡朗
    支給金七円             鈴木新造

                    会議所録事
                      増田充績
  養育院並瓦斯局掛兼勤申付候事
   明治九年七月十二日        東京府庁



〔参考〕事務撮要 明治九年(DK240003k-0010)
第24巻 p.57-58 ページ画像

事務撮要  明治九年        (東京市養育院所蔵)
子十月廿八日施与之儀ニ付事務長ヨリ左之通上申
                     岐阜県士族
                      宮島信吉母
                          こう
一金五円也
右者当養育院窮民共江前書之金額施与致度旨別紙之通申出、素ヨリ名誉之為メ差出候義ニ者無之候間、右之趣当院門前其外江掲示或ハ新聞紙等江公告相成候而者却而困却致候ニ付、当院限リ聞届候様仕度段申聞候ニ付、右寄特之次第者是迄之振合茂有之《(奇)》、御府御届不申上候而者難相成旨申諭候処、絶而難渋之段申聞候間勘弁仕候処、夫レカ為慈仁之厚志ヲ相妨施人ヲ相断候茂如何可有之哉ニ付、右様之類者向後本籍名前等承合詳細ニ留置、別紙案文之通書面為差出情願之趣者当院限リ承リ届候趣ヲ申達シ、此段御届申上置候様仕度奉存候、依之別紙相添此段奉伺候也
                     事務長
 - 第24巻 p.58 -ページ画像 
  明治九年十月廿八日           渋沢栄一
    東京府権知事 楠本正隆殿
(別紙)
 一金何円也
 右者当養育院窮民共江書面之金額施入仕度、尤名誉之為差出候儀ニ者無之候間御院限リ御承知被成、右之趣門前其外等江掲示並新聞等公告不相成様御取扱有之度候也
                     …………
  年号月日                何之誰 印
    養育院
        御中
 第八千百七十五号
 伺之通
    明治九年十一月六日    東京府権知事 楠本正隆



〔参考〕養育院六十年史 東京市養育院編 第一九〇―一九四頁 昭和八年三月刊(DK240003k-0011)
第24巻 p.58-59 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第一九〇―一九四頁 昭和八年三月刊
 ○第三章 東京府営時代
    第二節 各種の増築及院内自炊施行
○上略
東京府の直営となりてより、十一年(一八七八)七月に至り、更に左の通り建増の計画をした。
    養育院内各室建増の儀に付上申
 一、凡金弐百五拾五円八拾七銭五厘  在来婦人室へ建増一ケ所弐拾弐坪弐合五勺
     但壱坪に付金拾壱円五拾銭の積
 一、凡金五百九拾壱円八拾五銭    新規筆算所壱棟建設四拾四坪五合
     但壱坪に付拾参円参拾銭の積
 一、凡金参百六拾壱円拾銭      在来病人室へ建継一ケ所弐拾三坪
     但壱坪に付金拾五円七拾銭の積
   外
 一、凡弐百円            在来各室押入模様替並境界溝其外諸費見積
    総坪数 八拾九坪七合五勺
    其計 凡金千四百八円八拾弐銭五厘
 右は目今本院内各室狭隘にて、既に広間溜り九十九畳所へ百七名程婦人室百九畳の間へ百三十三名程を容れ置候次第、其他病人室の如き是よりは較寛なるも、頭足相触るゝを患ひ候より不得止広間の側へ病者を為臥候程に致切迫候間、差当り婦人室並病室の分は在来の処へ建継致し、広間の方は従前建続の筆算所を溜りに相用、筆算所は別地に致建候方却て便宜に相成可申、実は昨十年中当院地所文部省御囲地に相成候上は何時移転可相成も難計候に付、所々増築致候も冗費に属し候半歟と存猶予相過居候処、当節に至り何分手狭にて
 - 第24巻 p.59 -ページ画像 
差閊、殊に逐日暑気の候に向候折柄流行病等の掛念も不少、其上当入院願出の者数多有之候由に付、差向移転の御都合にも不相成儀に候はゝ先つ前置の通り各室増築被成下候様仕度、大略建坪並に金額凡積を以て粗図(図略)相添奉伺候条、御許可次第入札の上取計可申、此段仰御允裁候也
  明治十一年七月一日    養育院事務長 渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿
これに対し九月五日付を以て、府知事より「書面上申の趣聞届候条、金員請取方の儀は出納課へ可申出事」と指令された。
 当時は百畳内外の屋内に、百人以上収容されてゐた、しかも入院者の増加により、更に建増の必要に迫られたのである。今日の所謂個別的小分室乃至家族主義による小家屋別居制の如きは、当時の経済に於て許さゞる所であつた。故に自ら建増の方法を取つて拡張したのである。
 次に小児を別居せしむる施設は、最も注意を値ひする。十一年四月渋沢事務長より府庁への上申は、当時の状態を窺はしむるに足るものがある。
    養育院内窮民小児の分別居為致度伺
 是迄入院の窮民共男女の区別有之候のみにて、成人・小児とも同居為致置候処、即今在院の小児男女合せて六十九人、其内就学の者四十人程有之、此中には可なり言語行儀にも正く往々成業の見込ある者も有之候得共、朝夕彼の懶惰文盲の窮民共と雑居致し其傍に嬉戯罷在候ては自然其風俗に慣習し、折角の教示も無詮のみならす、其母の職業を妨け又は工業場に立入候ては外職業の障碍とも相成候事に付、此際新に児室を設けて成人との雑居を禁止仕度、尤乳児の分を其母親と離居為致候に牛乳買入等の費用も不少に付先つ其儘に差置、其他は仮に筆算所の板の間へ畳を敷込之を其寝室に用ひ、広間の内拾弐坪は従来の敷居柱に添ふて板羽目の境界を付け、雨天の節抔は之を其逍遥所とし、夜間は以前の如く窮民共の寝所に致し置、又広間の西南隅より南の方二十五間竹柵にて境界し、庭先より往来不相成様総て手軽に間仕切等致し置可申、将亦右に付児守女両人程申付け昼夜寝食等の世話為致候様仕度、依之別紙(別紙省略)大略費用積書相添此段相伺候条、至急御裁可奉仰候也
  明治十一年四月二十二日
               養育院事務長 渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿
これに対し、府知事より四月二十九日付を以て「書面伺の趣聞届候条費用請取方の儀は出納課へ可申出事」と指令された。この大人と小児とを別居せしむることは、施設上の革新にして、一段の進歩を示したものである。
○下略



〔参考〕養育院六十年史 東京市養育院編 第一九六―二〇五頁 昭和八年三月刊(DK240003k-0012)
第24巻 p.59-63 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第一九六―二〇五頁 昭和八年三月刊
 ○第三章 東京府営時代
 - 第24巻 p.60 -ページ画像 
    第三節 癲狂者の収容
 養育院が初期に於て施設せる医療上の事項は、単に癈疾者の救恤関係のみならず、我が医学史との交渉あり、又癲狂者収容の如き、素と暫定の措置に出でたることなるも、これに与かれる事蹟と経過とはこれを詳かにする要がある。
 養育院が瘋癲者を収容したのは、当時未だ府下にその施設なき為であつた。然るに院内に於ける平病患者との関係、大学医学部医員と東京府病院医員との関係並養育院と府病院との関係等錯綜し来れるを以て、十二年(一八七九)四月、渋沢事務長よりこれに就て上申する所あつた。
 養育院へ入院の中瘋癲或は平病患者取扱の儀は、前年来引続き大学医学部の医員派出治療致来候処、追々府会の上権限御取定相成候に就ては、右瘋癲病の者は癲狂院御設置の上御移替可相成旨先般掛官より御談合も有之、右は御確定相成候儀に候哉、且平病の者治術の儀も大学医学部へ御府病院《(御断之上脱)》の医員派出相成、長病大患と診断の者は貧病院へ送致治療候方至当の儀と被存、然る上は本年七月より更に御改正相成可然哉、本院移転営繕の都合も有之候に付予め御伺定度此段上申仕候条、何分の仰御允裁候也
  明治十二年四月二日
               養育院事務長 渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿
これに対し四月三十日付を以て府知事より「書面伺の通、移転後は一時の軽患者のみを入院可為致儀と可相心得事」と指令された。
 斯くて従来養育院へ派出された大学医学部医員は、六月限り引払ひ東京府病院医員これに代ることゝなりて、府病院との関係は更に密接となつた。
                        養育院
 其院派出大学医学部医員の儀は本月限可引払に付、更に本府病院医員派出可為致条此旨相達候事《(候脱)》
  明治十二年六月十八日
                東京府知事 楠本正隆
この時に際し府庁より養育院十二年度定額が通達せられた。然るに当時の入院総員五百余名にして瘋癲者は既に六十八名に上り、経費益々不足を来すものがあつた。依て六月二十日渋沢事務長より左の上申を為した。これは当時の経営状況を明示して余りあるものである。
 今般本院十二年度定額御達相成奉拝承候、然るに本年三月以来入院者追々相増、現今入院の惣人員五百余名と相成居候に付、是を本年五月中の費額に割合せ概算仕候得は凡金壱万八千円余無之候ては支弁難相成存候に付、十二年度御達の定額に比較仕候得共金三千四百円余《(者)》の不足相立候、尤兼て御口達の趣にては瘋癲人の儀は別に其病院御施設の由に付、現今入院の瘋癲人凡六拾八名分壱人壱ケ年金弐拾六円八拾四銭と見積り、此費額金千八百弐拾五円拾弐銭を相省き候共、全く金千五百七拾五円不足相成、就ては右割合を以て算考仕候は別紙甲号の通りにて、現今入院の者六拾名計出院不為致候ては
 - 第24巻 p.61 -ページ画像 
難相成候共、其中貯蓄金有之者と雖も僅か金拾円内外にて、稼業自活の道無く出院為致候ては漸一両月を相立候得は素の貧民となり、是迄養育を受け候も水泡に属し兼て御達の趣意にも悖り候次第と奉存候、就ては向後入院の儀は当分の中一切差止、且院中諸費も精々省略を加候様注意は可仕候得共、到底前出計算の如くに候間、現在入院の人員を其儘に養育候ては或は本年御制定の定額にては若干の不足を可相生に付、右等は別に御支給の途を御開被下度、若又既に御決定の儀に付聊も御差操難出来次第に候はゝ、此際速に入院の窮民を出院せしめ候外無之候、依て甲乙詳細書相副此段相伺候、右は目下差当り候儀に付至急何分の御指揮奉仰候也
  明治十二年六月二十日
               養育院事務長 渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿

 甲号  比較詳細書
 本年五月分諸入費金千四百参円六拾銭九厘を以て壱ケ年総費額
 一、金壱万六千八百四拾参円参拾銭八厘
   外に
    金四百九拾弐円        営繕費
    金八百円七拾八銭八厘     被服費 但洗濯費を除く
  合計金壱万八千百参拾六円九銭六厘
    内訳
    金四千七百拾六円四拾弐銭六厘 諸給与 需用 営繕費
    金壱万参千四百拾九円六拾七銭 救育費
    此壱人分壱ケ年 金弐拾六円八拾四銭
 右を以て本年度定額金壱万四千七百弐拾六円に比較すれは
 金参千四百拾円九銭六厘を減す
   此内瘋癲人六十八人分壱ケ年費額
    金千八百弐拾五円拾弐銭也此分を引
    金千五百八拾五円八拾四銭全く減額
     此人員五拾九人、現今より減少すへき分
 乙号  十二年度定額
 一、金壱万四千七百弐拾六円
  内訳
   金四千七百拾六円四拾弐銭六厘 諸給与 需用 営繕費
   金九千参百九拾四円      窮民三百五十人分、壱人に付金弐拾六円八拾四銭、賄費被服薬価
   金六百拾五円五拾七銭四厘   物価騰貴 死亡費其他臨時之費用の予備とす
    甲号割を以て見れは
        凡六拾人   現今出院為致へき分
    乙号予備を以て見れは
        凡八拾弐人  現今より出院為致へき分
これに対して府知事より六月三十日付を以て、左の通り指令された。
 書面上申の趣は、癲狂人並に本府病院へ入院すへき患者は十二年度より総て病院の費用に属すへき筈に付、現今在院の者予算人員より
 - 第24巻 p.62 -ページ画像 
聊か超過候共、該年度中の費用を以支弁取計候様可致事
  但癲狂人等の儀は本月限り本府病院へ引渡方可取計候事
   明治十二年六月三十日
                東京府知事 楠本正隆
府知事は斯の如く東京府病院へ引渡方取計へき事を指令されたるが、同病院には未だ癲狂室の設備なく、これを収容することは不可能であつた。依て渋沢事務長より七月七日付を以て、左の上申を為すに至つた。
 本院癲狂人の儀は、去月限り本府病院へ引渡方可取計旨御指令の趣拝承仕候、然るに本府病院に於ては未た癲狂室等も営繕不相成儀に付、該院営繕向き出来迄は其儘当院に於て管理致置候様病院長申出候処、事実無拠儀に被存候間、客月限り一旦癲狂人悉皆病院へ引渡候手順を為し、更に同院より預置、該院営繕出来迄の処は従前の通り当院にて取賄、右に関する衣食及ひ薬餌並に看護人の諸費等総て該院より当院へ支弁可致儀に取極可然哉、此段相伺候、至急何分の奉仰御指揮候也
  明治十二年七月七日
               養育院事務長 渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿
これに対し府知事より七月十九日付を以て「書面伺の通可取計候事」と指令された。斯くて七月二十五日東京府病院より患者治療方並癲狂者に付養育院に照会あり、同日これに回答し、こゝに両者の間に約束が結ばれたのである。
 其御院患者治療方の儀は、兼て東京府より御達の通り七月一日以降当院にて担当治療致候に付ては、其関係別紙の通り取極候様致度候且癲狂者の儀も亦、当院にて癲狂院新築落成候迄は御院癲狂室借用致し、其費用は尽く当院より及御回致候に付、其処置は従前の通り御取扱の儀及御依頼度、右御依頼旁両件及御掛合候也
  明治十二年七月二十五日         東京府病院
    養育院御中
  追て二通約束書及御廻候に付、一通は押印の上御返却有之度候也
これに対する回答
 当院病者治療の儀は、予て東京府より御達しに相成候通七月一日以降貴院にて治療御担任に相成候に付、其の関係取極致し、且癲狂者の儀も貴院にて癲狂院御落成相成候迄当癲狂室借用、費用は悉皆貴院より御廻し、所置は従前の通取扱の儀御依頼相成致承知候、此段及御回答候也
  明治十二年七月二十五日       東京府養育院
    東京府病院御中
  追て約束書二通御廻しに相成押印の上壱通は御返却致候也
約束書とは即ち左の二通にして、一は養育院患者と病院との関係、他は癲狂者に関するものである。
    養育院患者と病院との関係
 第一条 病院は重患の者就中外科的患者の如き病患治癒す可きも、
 - 第24巻 p.63 -ページ画像 
養育院中にて治療するを得さるものを入院せしめ之れか治療を施し、養育院は軽患者、又は癈疾の類にて譬へ治療を施すも治癒の目途なきものを施療するものとし、互に其質を混錯せさるを肝要とす
 第二条 病院は医員を派出し養育院中にて行届く可き治療は尽く養育院にて為すものとす
 第三条 病院へ送付する重患者数月全癒せす、到底痼疾なる時は養育院へ還付す可し
   但し病院へ入院中の薬餌其他治療上に関したる諸費は悉皆病院費より支弁す可し
 第四条 病院へ送付したる患者の衣類は養育院にて負担し、夜具蚊帳の如きは病院にて之れを負担す可し、患者舁夫の如き送付費用は養育院より支弁し、還付の費用は病院にて支弁す可し
 第五条 医療用器械は、通常用器械購求小補修繕は養育院費より支弁すと雖も、高価を要する大器械の如きは病院在来のものを貸付す可し
    癲狂者に関する儀に付病院との約束
 第一条 東京府病院附属癲狂院築造の功未た竣まらさるを以て養育院内癲狂室を借受け、其処置の如きは従前の規模に従ひ来る七月以降の費用は衣食及看護人諸費とも尽く病院附属癲狂院費中より支弁するものとす
 第二条 自費入院の如きは六月已前と七月已降とを限り、其六月已前に属する不納は病院にて関せす
  右条々互に連署交換して後日の証に備ふ
                    東京府養育院
  明治十二年七月
                    東京府病院



〔参考〕養育院六十年史 東京市養育院編 第二一〇―二一九頁 昭和八年三月刊(DK240003k-0013)
第24巻 p.63-67 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第二一〇―二一九頁 昭和八年三月刊
 ○第三章 東京府営時代
    第五節 院内の工業施設
養育院に入れる窮民中、壮健にして労働し得るものは、創立直後日雇会社に遣はして労働に従はしめ、該会社廃止後は院外労働、即ち道路修繕及公園地掃除等に従はしめたる外、院内に種々の工業を施設して授産の趣旨を貫徹し、その所得賃銀を蓄積せしめたることは、既述を経たが、それ等の工業は専ら会議所経営時代、即ち上野に在りし当時の創設に係つてゐる。こゝには明治九年(一八七六)後半期より、同十二年(一八七九)八月に至る上野時代の工業施設に関する消長を叙する。
 明治九年五月現在に於ける院内の工業種類中、主要なるは紙漉三十三人・草鞋十七人・網漉十人等にて、他は僅か一人宛の作業に過ぎなかつた。然るに同年七月に入り、西洋マツチ(早附木又は摺附木とも称した)箱製作に従はしむることゝなり、マツチ会社新燧社と協議した。
 西洋マツチ儀今般新燧社に於て発明致し製作仕候趣に付、当養育院
 - 第24巻 p.64 -ページ画像 
窮民の内虚弱にて力役等に使用難致、徒手罷在候者共へ右小箱製造為仕候はゝ聊産業の一端にも相成候間伝習受試製致し候上、当七月より十二月迄を限り同社協議の上別紙の通条約書為取換製造方為取掛申候、此段御届申上候也
  明治九年七月八日        事務長 渋沢栄一
    東京府権知事 楠本正隆殿
右養育院と新燧社との間に結ばれたる約定は、左の通りである。
    条約書
 今般養育院窮民共産業の為め新燧社に於て製造いたし候摺附木箱を本年七月より十二月迄を限り窮民共へ為相仕立候に付、左の条々を約定せり
 第一条 早附木箱を相仕立候に付右諸色は一切養育院にて弁出いたし、一ケ月数弐万四千箱出来の上十日目毎に三次に廻送可申事
   但工事習熟の上右箱の出来高増加いたし候はゝ、其節に至り協議の上増可致事
 第二条 右箱代価の儀は一箱に付金四毛五糸の割合を以て月末に至り新燧社より可相払事
 第三条 右箱出来の上運輸費は養育院にて弁出可致事
 第四条 前書諸色の内青色洋紙の儀は新燧社より可相渡事
 第五条 前書の通り約定いたし候に付ては、満期に至り猶再約定等の儀は双方協議の上処置可致事
 右の条々双方協議契約いたし候処相違無之候に付、各押印の上此書面二通を作り、保証の為め一は養育院一は新燧社へ交付するもの也
                        養育院
  明治九年七月
                        新燧社
このマツチ箱張りは、近年まで東京の細民間に、妻女の内職として盛に行はれた仕事の一種なるが、養育院にては明治九年率先これに着眼して実施したのである。
 明治十年(一八七七)五月、養育院は大蔵省紙幣局抄紙部に交渉し同部に於て抄造する雁皮削製調整方を引受けることゝし、左の条約を結んだ。
    条約書
 今般大蔵省紙幣局抄紙部に於て、抄造用雁皮上野養育院窮民共削製調整方当分の内約定する条々左之通
    第壱条
 一、雁皮一日に元貫拾貫目宛、見本之通養育院にて極上白に削製調整する事
    第二条
 一、削製賃、雁皮元貫壱貫目に付金六銭の割を以て一ケ月両度に抄紙部より払渡すへき事
    第三条
 一、削製減し高の儀は其品位に因り双方削り上け試験の上割合相定め就約致し可申、右確定せし上は減し高割合より多けれは其不足の分購入代価を以養育院にて弁償すへし、減し高右割合より少な
 - 第24巻 p.65 -ページ画像 
く其多量の分は購入代価を以抄紙部にて買上くへき事
  但削り屑貫数の儀は品種善悪に因り多少ある故に是又双方試験の上割合相定可申事
    第四条
 一、右皮請渡しの儀は、初度に十日分再度より五日分宛逓送養育院に附し、削製整調の上右元貫数日割合を以順次壱度に三日分宛抄紙部へ納むる事
   但逓送の節車夫は養育院より差出し、賃銀元貫拾貫目に付金三銭五厘、削り屑皮干上け方の儀は養育院より乾上け逓送すへし此手数料及逓送賃として拾貫目に付金七銭抄紙部にて払ふへし尤雨天の節湿気にて増貫することあるに因て五日以上引続き降雨の砌は日送を以逓送の事
    第五条
 一、削製皮調整方粗濫に渉るか或は湿気ある時は返附再製する事あるへしと雖も、此逓送費は抄紙部にて相払はさる事
 右之条々決約致し候処相違無之、依て双方記名押印の書面弐通を製し、一は抄紙部一は養育院に交附し後証に備へ候也
  明治十年五月         養育院掛 飯田直之丞
                 同    神保尹成
                 抄紙部長 中村祐興
又明治十一年(一八七八)八月に至り、紙張匣製造を始むることゝし左の上申を為した。
 今般窮民共へ紙張匣製造為致度候に付計算仕候処、別紙積書の通り利益も有之売却等差支無之品に付、教師其外手伝等他人を交へ差向別紙積書の品張方而已為致、追々経木板合せ並裁染塗方等仕上け迄悉皆製造為致、尚馴熟の上一層上品出来候はゝ随て利益も相増可申候、依て右の品製造為致候に付別積書相添上申仕候也
  明治十一年八月一日    養育院事務長 渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿
この紙張匣百箱に要する費用総額は金九拾壱銭六厘にて、その仕上け売捌代金壱円五拾弐銭八厘となるを以て、差引残金六拾壱銭弐厘の利得ある見積りであつた。
 更に明治十二年(一八七九)三月に至り組糸器械工業を施設した。その作業と使途とは、左の上申書が能くこれを説明してゐる。
 一、金弐拾五円也
   是は組糸器械工業相試候目的高
 右は当府士族出野経文儀米国製の組糸器械に模倣し、一種小形の組糸器を新製致し候ものにて、本邦従来の組糸の如く数本の糸を一条の実体に組立候ものには無之、一条の糸を一本の空体に組成せし所謂「ナイキ」打又は「メリヤス」織に類し、細大適意に製造し得へき至極軽便の品に付、今般窮民共産業の為め右器械を以て組糸の工業為相営申度、依て少々試験候処精にしては絹糸にて軍服の飾紐をも造り、又粗にしては綿糸にて灯心及括縄の代用に致し、何れも可なり売捌け、且相応の手間賃にも相当り往々産業の一部に相成可申
 - 第24巻 p.66 -ページ画像 
と奉存候間、差向木綿糸其他の代金凡弐拾五円程を目途として試に製造為致度、尤時宜により追々数通の品種為組立候見込に有之、就ては此工業費の分は施入金より資本として御下渡相成候内を以て支弁致し置き、且経文儀は当分の内右器械製作方並取扱等の教示を為受候為め、折々致出張候日のみ前文工業費の内より金五拾銭の日当を致支給候様仕度、尤夫々繰業相熟候迄の処相雇置候積りに御座候依之別紙大凡積書相添此段相伺候間、早々御裁可被下度候也
   明治十二年三月五日   養育院事務長 渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿
三月八日付を以て「書面上申の趣聞届候事」と指令あつた。この糸組業の内、灯心積書によれば、元価計金参円拾銭八厘にて出来上り代価金六円拾五銭なれば、差引益金参円〇四銭弐厘となる計算であつた。
 因に在院窮民等の工業授産積金は、出院の上独立活計の為めにするものなれば、明治十二年五月より駅逓局に預くることゝした。又明治十二年八月に至り機織工業を施設することゝなつた。斯業を設くるに至れる理由として、左記上申書の趣旨は今日に於ても依然注意を値ひするものがある。
 窮民工業の儀は一時の流行品或は器械等に多量の金円を要する事業は難被相行儀にて、其物品売捌方必需なるを専一と為し、且は所謂内職と云へる職業にては到底自活独業の道難相立者に付、其事業容易にして又自活を為し易きを主と為し候事業に追々着手為致度存候処、別紙木綿機織の儀は其資本容易にして必需の品に有之候故売捌方にも差支無之、且自活の手間賃とも相成候儀にて殊に本院に於ても年々被服用数百端を需用仕候儀に付、右を以て被服に相用候節は両全の益とも相成、窮民に於ても一の授業を得候儀に付今般新規着手仕度存候、勿論元資其外器械買入等費用の儀は工業資本金の中より仕払、右利益金を以て消却の方法相立可申と存候、依て詳細書相添此段相伺候也
  現今場所狭隘に付先つ土台着手仕、猶移転の上増加致候積りに相定候也
   明治十二年八月二十一日   養育院長 渋沢栄一
     東京府知事 楠本正隆殿
これに対し、府知事より九月十八日付を以て「書面伺の通聞届候事」との指令があつた。
 今より五十年乃至六十年以前の本邦工業界は、殆んと皆な手工業時代にあり、工場制の発展は、三十七・八年(一九〇四―〇五)日露戦役後に属するのである。然るに明治十一・十二年(一八七八―七九)の手工業時代に於てすら、窮民他日の独立活計に適する仕事に付き、院当事者が選択に悩んだことは院内工業の施設の消長がこれを物語つてゐる。もし精巧の機械を設備して工場組織に倣へば、自ら大量生産となりてこれが販路の開拓に専心し、他と競争せざるを得ない。しかも当時の出院は十五円内外の蓄積高を標準としたれば、彼等は出院後夫等高価の機械を購求されぬ為め、一種の分業的職工となる外なく、到底独立活計を立て難い。又手工業と雖も流行の変遷あり、且つ種類
 - 第24巻 p.67 -ページ画像 
によりては、既に多少工場制の組織に進展せんとする気運にあつた。而して近来産業革命の勢滔々として底止する所を知らず、如今、一般中小商工業者の圧倒せらるゝ時代となつた。故に窮民出院後の独立活計に資する所謂授産の意義を有する院内の工業問題は、一層困難の事態に陥らざるを得ない。養育院の創業時代に於ても既にその徴候の萌してゐたことが看取される。現下本邦の社会事業中、授産場なるものが挙げて不振の状にあるは、決して偶然でない、この点に於て養育院院内工業の消長は、多大の実物教訓を提供してゐる。
 明治六年(一八七三)より十二年(一八七九)に至る上野時代は、院内の工業として叙上の如く新施設多かりしが、同年十月神田に移転以来、明治二十三年(一八九〇)市営時代に入る約十年間は、経費節約と事業縮小との為め、上野時代に於ける或種の工業を因襲したるに止まり、新施設として挙ぐべきものは殆んどない。これ主として財政関係によるが、上野時代と神田時代との盛衰はこれによりても判然してゐる。比較的順調を辿れる明治十一年(一八七八)中の養育院作業状況調査は左の如き数字を示してゐた。
              円             円
  稼高      二、六五二   仕入元高  一、三七二
  器械代へ操戻     八五   純益    一、一九四
  積金        一八九   預金      四五〇
  割渡        五五四
 右稼高中、紙漉の壱千五拾五円は第一位を占め、公園地掃除の五百六円これに次ぎ、張文庫の弐百四拾四円、諸雑業百弐拾七円、役附手当百弐拾六円等更にこれに次ぎ、その他は悉く百円以下であつた。しかも当時一般の経済事情よりこれを見れば相当の成績と推定される。



〔参考〕養育院六十年史 東京市養育院編 第六二八―六三一頁 昭和八年三月刊(DK240003k-0014)
第24巻 p.67-68 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第六二八―六三一頁 昭和八年三月刊
 ○第八章 養育院の経済
    第二節 府営時代
○上略
 然るに十年も定額を超過し、十一年も亦超過の徴候を示したる為め府庁は十二年度経費を掛念し屡次予算調を提出すべき旨を以てした。これに対し渋沢事務長より提出したる文書は、当時の情勢を明示してゐる。
 当院明治十二年度の諸経費予算の儀に付ては、兼て御達も有之候に付篤と審案仕候処、元来当院に於て府下貧窶困阨の者を養育致し候は所謂一時の御処置より因襲し以て今日に馴致せし事に候得共、即今地方の費途供給の方法も御釐革相成候時機に際し候に付ては、先以該院大体の基本御決議御座候を須要の事と奉存候、抑窮民救助の事は慈善の美事たるは論を俟さる儀に候得共、既に御府又は府民一般の協力を以施設候には府下全般に対し普及の筋に相成候間、先つ其貧困者の差等を設、其界限に応して入院差許候様可致哉に候得共左候ては現今困窮人夥多の折柄終に際限相立申間敷して、到底有限の力能く無限の需に応し兼可申事と奉存候、然則該院の場所広狭に従ひ可力及丈入院せしめ候歟、是以其費額の予算は均しく相立兼候
 - 第24巻 p.68 -ページ画像 
次第に候、就ては向来の儀は先つ其年度に於て給与し得らるへき金額を議定し、其額に基きて大抵の人員を限り、而して其限内に於て予め窮民の差等を設け追々入院差許し、且其惣体の費額中には彼是増損等に於ては施設上の便宜に任せ取扱候を以稍適当の方法と奉存候、何卒前陳の趣旨御採用被下其費額御予定有之度奉存候、依て御参考の為め去明治九年より十一年迄三ケ年間の仕払諸実費、及右三ケ年の実歴に従ひ当十二年度の費途概算をも取調差上候、早々何分の御指揮御座候様仕度奉存候、此段上申仕候也
  明治十二年二月十日    養育院事務長 渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿
 右調査概略
  明治九年度経費  合金壱万三千四百七拾円六拾六銭五厘
  明治十年度経費  合金壱万三千六百七拾七円弐拾四銭七厘
  明治十一年度経費 合金壱万五千百五拾八円九拾五銭八厘
   但し是は七月より十二月迄経費半季分を一倍して仮に十一年度を立以下是に倣ふ
  右三ケ年度平均合金壱万四千百〇弐円弐拾九銭
  明治十二年度経費予算書 合金壱万六千三百五拾弐円八拾四銭
即ち入るを定めて出るを制し予定額によりて人員を限定する趣旨なるが、入院者増加の為め一月の経費既に超過し二月は更に増加し、旧定額を以てしては不足を生ずるが為めこれが増給を上申するに至つた。
 当院諸経費の儀、一月より六月迄の処一切旧に依り精々節省可致旨本年一月十五日達相成敬承仕候、然る処入院人数の多寡により賄費其他諸仕払の分元より一定不仕儀は勿論、殊に当節米価諸品共沸騰の折柄、既に一月中在院の人数三百八・九十名前後にて各項の仕払高合金千百六拾五円余に有之、然るに当月に至り追々人員相増、凡四百余名の入院に相成候事故猶入費高も相嵩み可申、就ては即今の処何様省略為致候共迚も旧額にては諸仕払相成兼候間、右不足の分御増給被下度、尤自今入院の者差止め置き猶在院の者をも強て出院為致候様取計候はゝ、敢て旧額に依り不引足訳も有之間敷候得共、右様残酷の所置に渉り候も本院の主義に無之と存候間、此段予て上申仕置候条何分の御指揮被下度候也
  明治十二年二月二十六日  養育院事務長 渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿
これに付府知事より三月四日付を以て「書面上申の趣無余儀事情に付本年度不足の金額取調更に可伺出事」と指令された。依て三月十四日不足額調を提出したるがその額は千〇弐拾七円〇六銭弐厘であつた。
○下略