デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第24巻 p.129-157(DK240012k) ページ画像

明治19年7月3日(1886年)

是日栄一、当院院長トシテ養育院慈善会設置ニ付キ東京府知事高崎五六ニ上申シ、許サル。仍ツテ翌二十年一月会員募集ニ着手シ、会長ニ府知事夫人高崎鷹子、副会長ニ栄一夫人兼子ヲ推シ、次イデ五月第一回慈善市ヲ鹿鳴館ニ開ク。爾後栄一屡屡其ノ総会並ニ慈善演劇会ニ出席シ、演説ヲナス。


■資料

養育院六十年史 東京市養育院編 第六三九―六四五頁 昭和八年三月刊(DK240012k-0001)
第24巻 p.129-132 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第六三九―六四五頁 昭和八年三月刊
 ○第八章 養育院の経済
    第三節 委任経営時代
    (イ)養育院慈善会の設置
 養育院は府の直営を離れ、これが経営を養育院委員に一任された。こゝに於て先づ資金の調達を江湖の慈善家に仰ぐの要を認め、明治十九年(一八八六)七月、養育院慈善会を設置して醵金することに決し左の通り上申して許可を得た。
    養育院慈善会規程之儀に付上申
 養育院慈善会規程草案、別冊之通委員会に於て議決致候間、御認可之上は、現今本院委員之妻其発起人に相立、会員勧募方に着手致候様仕度奉存候、且又向後此会に関する庶務は、本院に於て一室を貸与し為取扱候様致度、此段奉伺候也
  明治十九年七月三日      養育院長 渋沢栄一
    東京府知事 高崎五六殿
 第二二三六四号
  書面伺之趣聞置候事
   明治十九年七月七日    東京府知事 高崎五六
 - 第24巻 p.130 -ページ画像 
(別冊)
    養育院慈善会規程草案
 本会は、東京府養育院の資本を増殖して以て府内無告の窮民を収養救育するか為めに、婦人慈善会に倣ひ創設する所なり、蓋同院は明治六年の開創に係り、自来窮民を収養すること四千六百三十五人の多きに至り、其費用は累計して拾六万五千余円の巨額に上れり、其沿革は載て別冊に詳なるを以て玆に贅せす、顧ふに其窮民たる者、懶惰蠢愚薄命等其活路を失ふの因一ならさるへしと雖も、老て終る所を得す、幼にして依る所を失ひ、院中に収養せられ粗衣粗食饑寒を免るゝを以て大幸となす、其情態を見聞するに至ては豈痛歎愍惻に堪ゆへけんや、既に痛歎愍惻の情を発すれは又以て之を等閑に附し去る能はす、是則前に養育院の設あつて、後に此の慈善会の挙ある所以なり、夫東京の地たる面積大約三方里有余にして、此の裡に棲止する人民は、無慮九十有余万人となす、真に盛なりと謂ふへし然れとも此の九十有余万人の中、富貴なるものは少くして貧賤なる者多し、啻に貧賤多きのみならす口あつて糊するを得す、病ありて医するを得す、或は鰥寡孤独にして内生活の資なく、外救援の友なきもの其数亦甚た多し、現に養育院に在て纔に生命を繋く者は実に其十、一に過きさるなり、若し其窮民をして一も依る所なからしめは、恐くは人畜相食み、餓莩道に横らんとするも測るへからす、之を救恤して其依る所あらしむるは、只養育院の施済をして益々広からしむるに在るのみ、故に本会の目的は勉めて同院の功用を賛成して其資金を増殖し、他日貧院・貧病院又は幼稚院等を分設し、広く全府下の窮民を収養して、各々其所を得せしめんと欲するに外ならさるなり、嗚呼天の斯民を生する智愚強弱固より均しからす、随て貴賤貧富各々分るゝ所ありと雖も、饑て食する能はす、凍て衣る能はす、病て医する能はさる者を以て、尚之を天に委し恬然傍看するに忍ひんや、試に看よ富家一餐の食は貧児数十口の饑を救ふへく、貴家一襲の衣は窮民数十人の寒を防くへきに足るを、然は則吾人一飯の値を捐て半衣の費を抛ち、集腋成裘以て無告の民を餓寒の境に救ふて衣食再造の地に遷すは、彼の天の未た尽さゝる所を裨補するに庶幾からんか、冀くは本府慈善の閨閤、本会の企図を翼賛せられんことを
    規程
 第一 本会は養育院慈善会と称す
 第二 本会は会員三百名以上を以て組織し、其会員たる者朝野の閨閤たるへし
 第三 会員たるへき者へは、本会より其証状を送付すへし
 第四 本会は会員各自手製したる物品を便宜の場処に陳列発売し、其利益を以て養育院の資金を増殖するを目的とす
 第五 前条手製する物品の価は、三円より少からす拾円より多からさる高たるへし、而して其都合によりては通貨を以て物品に換ゆるも妨なかるへし
 第六 物品陳列発売済の後は其収支を決算し報告書を造り、会員一
 - 第24巻 p.131 -ページ画像 
同及会外の醵金者又は物品寄送者等へ頒布すへし
 第七 物品陳列発売の挙は毎年五月十三日に於て一回開設し、其日数は三日間より多かるへからす
   但開会期及日数は議定員会の決議を以て変更伸縮することを得
 第八 物品陳列発売施行の外、府内絶勝の地に会員休憩所を刱起し其収入を以て造資の補助となすことあるへし
 第九 本会員は、毎年一月総会を開き各員投票を以て議定員二十名を選挙し、又議定員の投票を以て会長一名・副会長一名を選挙すへし、但し此の両様の選挙は旧任者を再選するも妨なきものとす
 第十 選挙は皆投票の多数を以て決定し、其当任は被選挙者の応否に従ふ故に、第一高点の者応せさるときは第二・第三の点数を取るへし
 第十一 会長・副会長又は議定員の選挙を受けたる者は、都合を以て其事務を良人又は父兄・親戚等に委托するを得へし、但此の場合に在ては、其委托せし人名を本会に通知し置くへし
 第十二 本会の会議は会員総会・議定員集会の二法を以てし、開会の日時・場処等は総て会長より報告すへし
 第十三 会員総会は毎年一月開く者を定式会となし、臨機会長の見込を以て開く者を臨時会となし、其議決施行すへき事件は左の数目となす
   議定員を選挙の事
   本会事務の成績を報告する事
 第十四 議定員集会は、会長の見込を以て臨時之れを開くへし、而して其議決施行すへき事件は左の如し
   会長・副会長の改選に係る事
   本会組織及方法・順序等に関する事
   事務者の担当を定め、其酬労金又は手当を給付する事
   本会の出納事務を整理する事
 第十五 此の規定は、会員過半数の同議を以て何時にても更定増減するを得へし
         以上

 該会の会員募集方は、明治二十年(一八八七)一月二十一日を以て始め、同年四月中旬は会員数三百名以上に達したるを以て総会を開き議定員三十名を選挙し、当時の府知事高崎男爵夫人高崎鷹子会長に推選せられ、五月二十日より二十三日《(二十二日)》まで三日間、鹿鳴館に第一回慈善市を開催したるが、その純収益金六千五百六十一円五十六銭五厘は、養育院原資金として提供された。従来の寄附金は、概ね特志個人の施入に係るものなりしが、一時に斯かる巨額の収入を得たるは、全く該会の設立とその活動によつたのである。
 爾後該会長は東京府知事の交迭毎に、新知事夫人これに選任せらるるを例とし、創立以来毎年一回慈善市を開き、二十四年まで既に五回に上り、その収得金は挙げて養育院に寄与された。二十五年の如き金参千参百六拾余円の収得を寄与してゐる。その経済的貢献は偉大なも
 - 第24巻 p.132 -ページ画像 
のであつた、二十五年(一八九二)九月、米国世界博覧会婦人会職業部ヘルン・ヱム・バーカー女史より、養育院慈善会の事業沿革、その性質及組織等を照会し来りし際、これに回答したる所によれば、同年十一月当時は、現在会員六百七十九名を算し、職員は左の通りであつたが、年により多少変つてゐる。
 会長 富田縫子          副会長 渋沢兼子
  伊東遊喜子      橋本操子  穂積歌子  大倉とく子
  渡辺貞子       風間ひさ子 金沢隆子  伊達泰子
  田中伊与子      梅浦もと子 楠本とき子 安田ふさ子
  益田栄子  子爵夫人 松平鈴子  青地とく子 銀林かね子
  喜谷もと子      三井すて子 (以上議定員)
 明治二十六年(一八九三)十二月は浅草柳盛座に於て慈善演劇を開催し、引続き種々の計画を立て、屡次収得金を寄与せられたるが、その安房分院用地として千五百五十余坪を数回に於て購入寄附し、又四十四年(一九一一)十二月同分院後山地所を購入して寄附せられたる等、特筆すべきものがある。 ○下略


東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述 第一一―一二頁 大正一一年一一月刊(DK240012k-0002)
第24巻 p.132 ページ画像

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述  第一一―一二頁 大正一一年一一月刊
    六 養育院が私人の設立となる
 是に於てか、余は已むを得ず之れを私人の経営に移し、府より独立したる事業として継続せざるべからずと思ひ立ち、乃ち当時養育院に属したる財産の一部と、事業其物とを府より貰ひ受け、東京市内の有志を募りて、玆に私立の養育院を設け、従前の府立養育院の仕事を全然引受けて、窮民救助の任務に当ることゝしたのである。之れは明治十七年十二月《(十八年)》であつた。而して余は一面に於て篤志の貴婦人に依頼し養育院事業後援を目的とする婦人慈善会を起こさしめ、同会の挙ぐる収益を以て院の維持費を補助するの方法を採つた ○下略


東京府養育院第一回実際考課状 自明治一九年度至明治二四年度 第一―四頁(DK240012k-0003)
第24巻 p.132-133 ページ画像

東京府養育院第一回実際考課状 自明治一九年度至明治二四年度  第一―四頁
                    (東京市養育院所蔵)
    委員会決議ノ事
一明治十九年十月十九日、本院委員会ニ於テ決議セシ要件ハ左ノ如シ
○中略
一慈善会々員募集方ハ、該会規程ヲ印刷ニ付シ委員中ニ於テ略々申合官員・華族又ハ銀行・会社・商估・医師・神官・僧侶等ノ区別ニ依リ、夫々受持ヲ以テ誘導方ヲ担当シ、又一方ニハ府庁ニ依頼シ、貴顕方ハ勿論区郡長及其郡区内ニ於テ重立タル者ヘ入会方ノ誘導ヲ依頼スル等、其手続ヲ定ムル事
○中略
    御達並上申物ノ部
○中略
一七月三日、本院慈善会規程草案委員会ニ於テ決議セシニ付、御認可ノ上ハ委員ノ妻其発起人ニ相立、会員勧募方ニ着手シ、又向後此会ニ関スル庶務ハ本院ニ於テ一室ヲ貸与シテ取扱度旨ノ伺書ヲ東京府
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庁ヘ上呈シ、同月七日其允許ヲ得テ之ヲ施行セリ
○下略


東京府養育院第二回実際考課状 自明治一九年度至明治二四年度 第四―六頁(DK240012k-0004)
第24巻 p.133 ページ画像

東京府養育院第二回実際考課状 自明治一九年度至明治二四年度  第四―六頁
                    (東京市養育院所蔵)
    慈善会之事
一慈善会創設ノ旨趣及開会ノ顛末ハ、同会報告書ニ詳記シアルヲ以テ爰ニ其要領ヲ略叙スレハ、会員募集方ハ明治二十年一月廿一日ヲ以テ始メトシ、該会規程及本院沿革書ヲ添付シ、所々ヘ紹介状ヲ配付シタリ
一同年四月廿一日慈善会員三百名以上ニ達シタルヲ以テ、京橋区木挽町弐丁目厚生館ニ於テ会員総会ヲ開キ、該会規程第九項ニ拠リ議定員三拾名ヲ撰挙シ、其議定員ノ互撰ヲ以テ会長壱名・副会長壱名ヲ撰挙シタリ
一同年五月二十日ヨリ二十三日迄三日間《(二)》、内山下町鹿鳴館ヲ慈善会物品販売場ニ充用シ開会セシニ、来観人壱万千七拾弐人ニシテ、販売方ヲ受持レタル貴婦人方ハ其労ヲ厭ハスシテ平素ノ美徳ヲ発揚セラレタリ
一同年八月前条開会シタルニ付、会員ノ出品物及会員外寄贈ノ物品其他補充品等ヲ販売シ、入場券料・寄贈金等ノ収入合テ金壱万八拾五円七拾四銭七厘ノ処、其内ヨリ補充物品ノ原価諸入費等ヲ引去、全収益金六千五百六拾壱円五拾六銭五厘ヲ本院原資金エ組入相成度旨計算書相添慈善会長男爵夫人高崎鷹子氏ヨリ交付相成タリ


時事新報 第一五七二号 明治二〇年四月二六日 婦人慈善会(DK240012k-0005)
第24巻 p.133-134 ページ画像

時事新報  第一五七二号 明治二〇年四月二六日
    婦人慈善会
同会員は、去る二十一日午後三時より厚生館に於て会議を開きしが、婦人の出席は六・七名にて他は皆な代理を差出したり、渋沢栄一氏は仮会頭となり、左の演説をなせり
 諸君、今日は養育院慈善会規程第九条に定めたる議定員の選挙会にして、而して此会の正員は都て閨閤なるに付御同様皆其代人たるに過ぎず、偖て今此開会に際して要旨の梗概を一言するは亦以て無用の弁たらざるを信ず、蓋し東京府養育院の沿革は、規程緒言に略言する如く明治六年本院創始以降一昨十八年迄に其収養する所の窮民は其数四千六百人余にして、之が為めに費消する所の金額は実に十六万五千円の巨額に上れり、然り而して爾来東京府庁に於ては本院独立のことを計画せられ、勉めて其原資を増殖し、昨十九年に於て其金額既に七万円余に達すと云とも、未だ以て爰に此会を設けて更に原資の増殖を謀る所以なり
斯くて議長は衆員に向て、今此会に必要なる議定員選挙のことは、今日此会に出席の諸員は七十六名にして総会員の数に対しては僅かに五分一なれども、既に此選挙のことを発起人へ委托の旨通知ありし会員百四十四名に及ぶを以て、之を合計せば二百二十名余の出席と看做すを得べし、故に今発起人等に於て仮に指定したる議定員の人名を誦読
 - 第24巻 p.134 -ページ画像 
し、諸君之れに同意せば之を以て此選挙のことを決定するものとせば如何との事に、一同異議なきにより、議長は左の人名を誦読し、一同異見なき旨を答へたり
 伊藤伯爵夫人・高崎知事同・三島通庸同・岩崎弥之助同・高嶺秀夫同・銀林綱男同・橋本綱常同・高木兼寛同・三井三郎助同・西村虎四郎同・伊達宗城同・渋沢栄一同・穂積陳重同・鍋島直大同・堀田正養同・中山孝麿同・沼間守一同・梅浦精一同・山尾庸三同・大倉喜八郎同・渡辺孝同・安田善次郎同・渡辺洪基同・松平定教同・川村伝衛同・福地源一郎同・川田小一郎同・小島信民同・芳川顕正同青地四郎左衛門同
右の常議員中の互選にて伊藤夫人を会長に、高崎・渋沢の両夫人を副会長に選挙せり、又同会の事務所は東京府庁内へ仮に設けられたりといふ、尤も同会は来る五月十三・十四日頃浅草伝法院に於て物品売捌を催ふす筈なりといふ


東京日日新聞 第四六三七号 明治二〇年四月二七日 ○慈善会議定員議決(DK240012k-0006)
第24巻 p.134 ページ画像

東京日日新聞  第四六三七号 明治二〇年四月二七日
○慈善会議定員議決 去る十一日、養育院慈善会の総会に於て議定員及正・副会長を撰定せし事は前号に記載せしが、議定員会議決議ハ左の如し
一会長を伊藤伯爵夫人、副会長を高崎夫人・渋沢夫人とす
一事務所を東京府庁の内に設け、此会に属する通常の事務を処弁す
  但議定員一同の会議を要することあらば、鹿鳴館を借用して其議場に充つべし
一慈善会列品場を浅草伝法院と定む
一列品売捌人は諸芸人に委托するものとす
一売品陳列の区画を六区とし、毎区凡十人の売捌人を置き(諸芸人)外に計算取締方として一名宛を置くものとす
一優待券ハ各会員及一時醵金者共、一名に付三枚宛を調成して配付するものとす
一通券二万枚を調成し、各会員及郡区役所等に頒布して売却するものとす
  但一枚の代価金二十銭とす
一開会当日ハ門前に掲示して、不体裁の者の入場を拒絶す
一売品ハ其商估に就て相当の物品を借受け、売捌済の上計算をなすものとす
  但場内に於ての売却直段ハ、原価の五割増より十割増まてとして其売得ハ本会の収益とす
  附其商估との間に於て原価を品定するハ、相当の撿査員を設けて之を点撿査定せしむ
一臨時急施を要することありて議定員中若干人の会同を望むときハ、会長・副会長より指名して其出席を請ふべし


時事新報 第一五八〇号 明治二〇年五月五日 養育院慈善会(DK240012k-0007)
第24巻 p.134-135 ページ画像

時事新報  第一五八〇号 明治二〇年五月五日
    養育院慈善会
 - 第24巻 p.135 -ページ画像 
同会の発企人一同は、一昨三日出品売捌等の事に関し鹿鳴館に於て協議を遂げたりしが、会長伊藤伯夫人は近来事務多端なればとて会長を辞したるに付き、副会長高崎夫人を会長に推挙し、副会長は二名の筈なりしが当分渋沢栄一氏の令室のみ一名とする事に決したり、同日は伊藤伯も同夜出席して、該会に関する意見を述べたるよし、又開場は愈々鹿鳴館と極まり、日限は二十日後三日間の筈なりといふ


時事新報 第一五九五号 明治二〇年五月二三日 養育院慈善会(DK240012k-0008)
第24巻 p.135 ページ画像

時事新報  第一五九五号 明治二〇年五月二三日
    養育院慈善会
同会は愈々去る廿日より鹿鳴館に於て開会せしに、初日は生憎雨天にて人出少なかりしが、廿一日は好天気を幸ひ参館者織るが如く、昨日は第三終りの日といひ、殊に日曜なりければ門前の車声は轔々として引もきらず、入口の群衆は混雑いはん方なく、横に押合、縦に浪打ち暫しが程は佇立して余儀なく機を待つの有様なりけり、扨館内に入れば階下には緑色掬すべき樹木の鉢植を置き、右の階段を上れば又盆栽を奇麗に列べ、夫れより第一区・第二区は衣服地及附属品、第三区より第六区迄は和洋細物・編物・玩弄物より、諸名家揮毫の扇子及団扇等を陳列し、第七区は即ち休憩所にて貴夫人・令嬢右に左に茶菓を勧む、凡て今回売捌の為め出席せる夫人・令嬢方は何れも客に接する事甚だ巧みにて、是は如何に、あれは如何に、一品にても周旋する有様は中々素人とは見えざる程なり、唯群衆の込合甚しく、熱し苦しと囁く人も少なからざりしが、慈善の為には斯くあるこそ却て祝ふへきことならん、因に云ふ、同会の縦覧人及び物品の売高は去る二十日は四百七十一人にて売高現金四百十余円・売買約定済二百余円、同二十一日は四千六百八十三人にて売高は現金千七百三十余円・売買約定済八百余円、又昨日は午後四時迄の入場者五千三百十四人の多きに及びたるよし


時事新報 第一五九六号 明治二〇年五月二四日 養育院慈善会(DK240012k-0009)
第24巻 p.135 ページ画像

時事新報  第一五九六号 明治二〇年五月二四日
    養育院慈善会
同会の三日間開会中入場人員は一万零四百五十五人、売捌きたる物品は陳列品の八分にして、実収の金額は四千零廿五円六十九銭五厘、外に約定済にて代価未納の分六百五十円ある由なるが、売れ残りの品物商店より仕入れの分は其商店が元価にて引受け、寄附に係はる分は渋沢・大倉等の諸氏が買入るゝ筈なりとか、又今回の開会中品物購買の最多額者は五百余円の渋沢栄一氏を始めとして、大倉喜八郎氏・川村伝衛氏・岩本五兵衛氏・伊達宗城氏等にして、仕入物品の中売れ方の割合最も善かりしは大丸のハンケチーフと、横山町播磨屋の小間物類なりしと云ふ
   ○明治二十一年以後四十一年ニ至ル慈善会関係ノ資料ヲ左ニ掲グ。


東京府養育院第三回実際考課状 自明治一九年度至明治二四年度 第四―五頁(DK240012k-0010)
第24巻 p.135-136 ページ画像

東京府養育院第三回実際考課状 自明治一九年度至明治二四年度  第四―五頁
                    (東京市養育院所蔵)
    慈善会ノ事
 - 第24巻 p.136 -ページ画像 
一明治二十一年三月二日鹿鳴館ニ於テ会員総会ヲ開キ、慈善会規程修正増補スヘキ条項ヲ会議ニ附シ、議案ノ如ク修正シ、因テ更ニ議定員二拾名ヲ改撰シ、並ニ議定員ノ互撰ヲ以テ会長一名・副会長一名ヲ撰挙セリ
一四月二十日ヨリ二十四日《(マヽ)》迄(廿一日ハ降雨ノ為メニ休会)三日間、上野公園内華族会館ヲ仮用シテ慈善会物品販売場トナシ開会セシニ、来臨者五千七百二十六人有リシ
一五月八日、浜離宮ノ御苑及御茶屋ヲ拝借シ、会員慰労会ヲ開キ、販売方担当ノ貴婦人及開会中出場周旋ノ労ヲ執リタル各位ヲ招請シ、会長ヨリ謝辞ヲ陳ヘタリ
一六月十五日、前ニ開会ニ当リ会員ノ出品物及会員外ノ寄贈品・其他補充品等ノ諸件ヲ販売シ、其入場券料及寄贈金ヲ合テ金八千七百九拾八円四拾四銭五厘ヲ得タルニ付、此内ヨリ補充物品ノ原価及諸入費ヲ引去リ、残額即純収益金五千弐百七拾円ヲ本院原資金ニ組入ヘキコトヲ、計算書ヲ添ヘ本会長男爵夫人高崎鷹子氏ヨリ交付セラレタリ


東京日日新聞 第四九一七号 明治二一年三月二九日 ○慈善会委員(DK240012k-0011)
第24巻 p.136 ページ画像

東京日日新聞  第四九一七号 明治二一年三月二九日
○慈善会委員  第二回東京府養育院慈善会の会長以下議定員の当撰を承諾ありしハ、会長にハ高崎男爵夫人、副会長にハ渋沢栄一夫人、議定員にハ岩崎弥之助夫人外十六名なりと云ふ


東京日日新聞 第四九三四号 明治二一年四月一九日 ○養育院慈善会(DK240012k-0012)
第24巻 p.136-137 ページ画像

東京日日新聞  第四九三四号 明治二一年四月一九日
○養育院慈善会  明二十日より二十二日まで三日間上野公園華族会館に於て開く、同会ハ既に令夫人・令嬢方の受持組合其の他諸般の準備方も整頓して開場を待たるゝのみと云ふ、扨其の準備の概略を聞くに、同公園内摺盆山下より会館に通る道路にハ西洋飾を設け、其傍に案内所を置き来客の紹介を為し、夫より入口にて通券を受取り入場為しむる都合にて、又同館ハ正面の広間左右の間を第一区より第六区に分ち、此を物品の売場とす、又楼上の一間を第七区茶店とせり、此場所ハ眺望最も妙にして坐ながら墨堤の桜花を看るべく、又房総の諸山をも一眸の中に攅むべし、されバ多くの椅子を列ね随意に休憩の用に宛て、又喫茶療渇の所とす、又此室にハ兼て渋沢院長より依頼せる府下の諸大家先生百余名の揮毫もありて、全紙・半切・扇面・短冊等を陳列し展覧に供し、且望の者にハ売渡す趣なり、又売物店の中にハ伊豆七島・小笠原島及北海道、其他九州地方等の物産にして珍奇なるものを撰み陳列す、其他第六区中にハ、レース教場より精巧なるレースを出品し同所生徒が日々出場売捌くとも聞けり、又寄贈品ハ総て其道に精しき商人をして評価せしめ、市中売買と差違なき価格を付し、又補充の為めに陳列する物品も夫々市中小売相場と同じき価を目的とする由なるが、或ハ中にハ小売よりも廉価なるもの有るならん、其売方も来客に対し強て押付る如きことハ毫も無し、至て高雅なる趣向の由又庭前にハ舞台二ケ所を設け、日々奏楽及舞曲を演し開会中興を添るの趣向なり、其次第ハ廿日・廿二日の両日ハ宮内省雅楽稽古所生徒、
 - 第24巻 p.137 -ページ画像 
童舞三・四齣宛を演し、其前后に陸海軍々楽隊吹奏楽あり、二十一日ハ同稽古所欧洲吹奏楽及音楽学校より欧洲管絃楽等を奏する由、此童舞てふものハ上代より伝る舞楽にして、古雅なるハ云ふに及バず、装束等も極めて見所多き者なりとかや、此三日の間楽譜の撰びハ伊沢音楽校長の手に出たりとか、扨物品売捌方を担当せらるゝ婦人方の組合ハ左の如し(尚当日に至り多少の繰替あるも知れず)、又同会の事務所ハ昨十八日より上野華族会館内へ移転せしと云ふ
第一区 吉田令夫人 井上令夫人   三島令嬢  松平令夫人
    穂積令夫人 銀林令夫人   同令嬢   大倉令夫人
    比企令夫人 西園寺令嬢   喜谷令夫人
第二区 渡辺令夫人 伊東令夫人   伊達令嬢  青地令嬢
    伊東令嬢  坂本令嬢    天野令嬢  同令嬢
    小島令嬢  町田令夫人   同令嬢   青地令嬢
    伊東令嬢  杉田令夫人
第三区 高崎令夫人 渡辺令夫人   太田令夫人 渡辺令夫人
    安田令夫人 伊集院令嬢   同令嬢   田中令嬢
    小原令嬢  広田令夫人
第四区 渋沢令夫人 梅浦令夫人   同令嬢   元木令夫人
    鳥海令嬢  清水令嬢    阪谷令夫人 大川令嬢
    大谷令夫人 大谷令嬢
第五区 益田令夫人 高木令夫人   中川令夫人 平島令夫人
    室田令夫人 同令嬢     牧山令夫人 同令嬢
    荒井令夫人 竹下令嬢    松本令嬢
第六区 松田令夫人 梅田令夫人   岡本令夫人 武藤令夫人
    田村令嬢  サンマース令嬢 同令嬢   大江令夫人
    保科令嬢  仲令夫人    仲令嬢   青木令嬢
    青木令嬢  望月令嬢    都甲令嬢  加藤令嬢
    後藤令嬢
第七区 石川令夫人 笹瀬令嬢    真淵令嬢  北見令嬢
    黒田令嬢  羽倉令嬢    同令嬢   林令嬢
    福田令嬢  小山令嬢    同令嬢   加藤令嬢
    南保令嬢  辻令嬢     小浦令夫人 牧令嬢


東京日日新聞 第五一七九号 明治二二年二月七日 ○婦人慈善会(DK240012k-0013)
第24巻 p.137 ページ画像

東京日日新聞  第五一七九号 明治二二年二月七日
○婦人慈善会 同会にてハ、明八日午後一時より鹿鳴館に於て、其定款第九項に依り議定員二十名の撰挙会を開かるゝ趣なり


執事日記 明治二二年(DK240012k-0014)
第24巻 p.137-138 ページ画像

執事日記  明治二二年          (渋沢子爵家所蔵)
二月八日 晴
一君公並奥様ニハ、午后一時ヨリ鹿鳴館ヘ被為入候、右ハ東京府養育院慈善会常議員撰挙ノ義ニ付御集会有之、同四時御帰邸ノ事
○下略
   ○中略。
四月十三日 晴
 - 第24巻 p.138 -ページ画像 
○上略
  一慈善会ノ事
一奥様ニハ、養育院慈善会上野公園地内華族会館ニ於テ今十三日ヨリ三日間開会有之ニ付、同場ヘ被為入候事
○下略
   ○中略。
四月二十九日 晴
○上略
一奥様ニハ、芝離宮ニ於テ養育院慈善会ニ関スル小集会有之ニ付、午後一時ヨリ同所ヘ被為入、同六時御帰邸ノ事
○下略


東京市養育院第四回実際考課状 自明治一九年度至明治二四年度 第九―一〇頁(DK240012k-0015)
第24巻 p.138 ページ画像

東京市養育院第四回実際考課状 自明治一九年度至明治二四年度  第九―一〇頁
                    (東京市養育院所蔵)
    慈善会之事
一明治二十二年二月八日鹿鳴館ニ於テ会員総会ヲ開キ、議定員改撰ノ投票ヲ為シ、又廿五日再ヒ同館ニ議定員補欠撰挙会ヲ開キ、並ニ議定員ノ互撰ヲ以テ会長一名・副会長一名ヲ撰挙セリ
一四月十三日ヨリ十五日迄三日間、上野公園内華族会館ニ於テ慈善会物品販売場トナシ開設シ、三日皆来会者満場極メテ盛会ヲ得タリ
一四月廿九日芝離宮ヲ拝借シ会員慰労会ヲ開キ、販売担当ノ貴婦人及場中周旋ノ各位ヲ招待シ、会長ヨリ謝辞ヲ陳ヘテ饗応セリ
一十月十四日、向ニ開会ニ当リ会員ノ出品、会員外ノ寄贈品、其他補充品等ノ均シク発売シタル金額及其入場券料・寄贈金ヲ合テ金六千参百五拾六円弐拾六銭七厘ヲ得タルニ付、此内ヨリ補充物品ノ原価及ヒ諸入費ヲ引去リ、残額即純収益金四千参百参拾九円五拾四銭八厘ヲ本院原資金ニ組入ヘキコトヲ、計算書ヲ添ヘ本会長男爵夫人高崎鷹子氏ヨリ交付セラレタリ


東京日日新聞 第五二三二号 明治二二年四月一一日 ○養育院慈善会(DK240012k-0016)
第24巻 p.138-139 ページ画像

東京日日新聞  第五二三二号 明治二二年四月一一日
○養育院慈善会  明後十三日より十五日迄三日間、上野公園内華族会館に於て開く同会の模様ハ、概ね昨年の例に傚ひ、第一区より六区迄を物品売場とし、楼上の一間を第七区茶店とし休憩所に充て、此室にハ大家の揮毫せし扇面等を陳列し展覧に供するよし、又六区中附属店を設け、レース教場より精巧なる「レース」を出品し、日々助教及生徒等出場し同品を売捌くよし、開会初日ハ海軍楽隊、跡両日ハ宮内省楽手欧洲の吹奏楽、余興にハ帰天斎正一《(奇天斎一カ)》の手品、中村一登久の水芸曲独楽、丸一千太郎其他種々《(丸一仙太郎カ)》の技術を演ずる由、其受持区の人名ハ左の如し
○第一区 子爵松平令夫人・子爵三島令夫人・同令嬢・松田令夫人・栗塚令夫人・飯島令夫人・島令夫人・銀林令嬢・森令嬢・金森令夫人・鹿島令夫人・羽倉令嬢・同令嬢
○第二区 渡辺令夫人・伊東令夫人・同令嬢・同令嬢・伊達令嬢・青地令嬢・町田令夫人・同令嬢・杉田令夫人・比企令夫人・小島令嬢
 - 第24巻 p.139 -ページ画像 
坂本令嬢・福井令嬢・小沢令嬢
○第三区 男爵高崎令夫人・渡辺令夫人・林令夫人・同令嬢・渡辺令夫人・中山令夫人・藤田令夫人・松尾令夫人・同令嬢・中林令夫人後藤令嬢・松井令夫人・田中令嬢・竹下令嬢
○第四区 渋沢令夫人・遠武令夫人・梅浦令夫人・元木令夫人・大谷令夫人・同令嬢・清水令嬢・伊藤令嬢・大川令嬢・雨宮令嬢
○第五区 益田令夫人・森村令夫人・風間令夫人・広田令夫人・室田令夫人・同令嬢・荒井令夫人・松浦令夫人・高田令夫人・金沢令夫人・田中令嬢
○第六区 大倉令夫人・高峰令夫人・穂積令夫人・岡本令夫人・サンマース令嬢・同令嬢・岩本令夫人・同令妹・加藤令嬢・望月令嬢・中村令夫人・山崎令夫人・下妻令夫人・橋本令夫人・小暮令夫人・飯塚令夫人・宮田令嬢・竹内令夫人
○第七区 石川令夫人・田中令夫人・林令嬢・上木令夫人・同令嬢・同令嬢・同令嬢・笹瀬令嬢・吉水令嬢・岩谷令嬢・山田令嬢・佐藤令嬢・小山令嬢・同令嬢・青木令夫人・池田令嬢・仲令嬢・真淵令嬢・深堀令夫人


東京日日新聞 第五三九四号・広告 明治二二年一〇月一九日 東京府養育院慈善会員及員外ノ閨閤各位ニ公告ス(DK240012k-0017)
第24巻 p.139 ページ画像

東京日日新聞  第五三九四号・広告 明治二二年一〇月一九日
東京府養育院慈善会員及員外ノ閨閤各位ニ公告ス
這回貴会々長ヨリ、本年四月上野公園華族会館ニ於テ収入セラレタル貴会第三次収益金四千三百三十九円五十四銭八厘ヲ本院ニ交付セラレタルニ因リ、忝ク之ヲ領存シ、来示ニ照ラシ該金員ヲ将テ本院ノ原資ニ組込ミ院資大ニ増殖スルヲ得、本院ノ幸慶不過之候、貴会慈善ノ美挙タルハ曾而敬服スル所ナリシガ、今回収入セラレタル第三次ノ金額モ亦数千円ノ巨数ニ至リシハ、実ニ閨閤各位其労ヲ厭ハスシテ益無限ノ愛恤ヲ施与セラルヽノ美徳ナリト感佩セズンバアラズ、因テ此ニ新紙ヲ以テ鳴謝仕候
  明治二十二年
   十月十八日
                東京府養育院長
                      渋沢栄一


東京市養育院第五回実際考課状 自明治一九年度至明治二四年度 第一五―一六頁(DK240012k-0018)
第24巻 p.139-140 ページ画像

東京市養育院第五回実際考課状 自明治一九年度至明治二四年度  第一五―一六頁
                    (東京市養育院所蔵)
    慈善会之事
一明治廿三年二月廿六日鹿鳴館ニ於テ会員総会ヲ開キ、正副会長・議定員ノ改選ヲ行ヒ、会長壱名・副会長壱名・議定員拾八名ヲ選挙シタルニ、議定員中壱名ノ辞退アリシモ、欠員ノ儘開会スル事ニ決セリ
一同年五月十七日ヨリ十九日迄、芝公園弥生社ニ於テ慈善会物品販売場ヲ開設ス、三日間共来会者満場盛会ヲ極メタリ
一同年五月三十一日日本橋区蛎殻町友楽館ニ於テ慰労会ヲ開キ、販売担当ノ貴婦人及場中周旋ノ各位ヲ招待シ、会長ヨリ謝辞ヲ陳ベテ饗
 - 第24巻 p.140 -ページ画像 
応セリ
一同年十二月十五日純益金参千七百弐拾参円参拾九銭六厘、計算書ヲ添ヘ本会長高崎男爵夫人・副会長渋沢夫人ヨリ交付セラレタリ


東京日日新聞 第五五六二号 明治二三年五月一一日 ○慈善会の協議(DK240012k-0019)
第24巻 p.140 ページ画像

東京日日新聞  第五五六二号 明治二三年五月一一日
○慈善会の協議  東京府養育院慈善会の人々は、一昨日芝公園弥生社に参集して今回施行する諸手続を定め、渋沢栄一氏は出品売捌方の弊害、会員の注意等につき談話を為したり、又同会の入場切符ハ曾て報ぜし如く福引法の抽籤にて、当籤者に景物を与ふる由なるが、一等品は十円位の品にて都合百二十本ある由、又伊藤伯爵夫人は玩弄物数十品及び装飾品取扱等の人足を寄附し、伊勢国奄芸郡一身田常磐井敬子よりは若干円を寄送したり


東京市養育院第六回実際考課状 自明治一九年度至明治二四年度 第五頁(DK240012k-0020)
第24巻 p.140 ページ画像

東京市養育院第六回実際考課状 自明治一九年度至明治二四年度  第五頁
                    (東京市養育院所蔵)
    慈善会ノ事
一五月 ○明治二四年二日ヨリ三日間、例ニ依リ慈善会ニ於テ物品販売場ヲ木挽町歌舞伎座ニ開設セラレ、又演劇ヲ余興ニ供セリ
一右開会収入金ヲ以テ七月・十月ノ両度ニ金参千六拾七円四拾八銭五厘ヲ同会正副会長ヨリ交付セラレタリ


東京日日新聞 第五八五三号 明治二四年四月二九日 ○慈善会の繁昌(DK240012k-0021)
第24巻 p.140 ページ画像

東京日日新聞  第五八五三号 明治二四年四月二九日
    ○慈善会の繁昌
慈善会ハ近来追々下火になる傾きありしが、今度催ほす養育院慈善会には芝居と云ふ呼者ある故にや、切符の総数三千七百八十九枚にして一日目上等五百三十枚・中等七百三十三枚、二日目も一日目同断の割合にて配布せしに、入場申込者非常に多く、早や上等切符は一枚もなしとの事なり


東京日日新聞 第五八五八号 明治二四年五月五日 ○慈善会寄附金(DK240012k-0022)
第24巻 p.140 ページ画像

東京日日新聞  第五八五八号 明治二四年五月五日
    ○慈善会寄附金
本月二・三・四の三日間歌舞伎座に於て開きたる東京市養育院慈善会の余興演劇は千葉・福地・堀越の三氏が慈善会の依頼を受けて尽力したる由なるが、開会の日尚ほ浅きも千葉勝五郎氏より金百円、市川権十郎同・寿美蔵同・八百蔵同・新蔵同・猿之助同、女寅・中村勘五郎坂東秀調等より各金二百円を寄附したり、団十郎は無給にて勤むるゆえ、五百円許りの寄附に当ると云ふ


東京市養育院第廿一回年報 第一八―一九頁 刊 慈善会之事(DK240012k-0023)
第24巻 p.140-141 ページ画像

東京市養育院第廿一回年報  第一八―一九頁 刊
    ○慈善会之事
一六月 ○明治二五年廿四日ヨリ三日間、例年ノ如ク婦人慈善会ヲ木挽町歌舞伎座ニ開会シ、並ニ演劇ヲ以テ余興トナス
一此開会ニ於テ収入スル所ノ金弐千六百四拾円六拾八銭ヲ七月・十月両度ニ同会長富田夫人・副会長渋沢夫人ヨリ寄贈セラレ、市会ノ決
 - 第24巻 p.141 -ページ画像 
議ニ依リ領収セリ


東京日日新聞 第六一五三号 明治二五年四月二三日 ○歌舞伎座の慈善演劇(DK240012k-0024)
第24巻 p.141 ページ画像

東京日日新聞  第六一五三号 明治二五年四月二三日
    ○歌舞伎座の慈善演劇
東京市養育院慈善会の慈善興行は、来月一日より三日間午前十時開場す、里見八犬伝(神宮川の場・蟇六内の場・円塚山の場)、一条大蔵譚(檜垣茶屋の場・大蔵館の場)、源平魁躑躅(五条扇屋の場)の五幕にて、犬山道節・大蔵卿長成・姉輪平次(団十郎)、庄官蟇六・大江広盛(市蔵)、網干左母次郎(権十郎)、犬塚信乃・番場忠太(新蔵)、犬川荘助(芝翫)、浜路・桂子(女寅)、亀笹・堤軍次(猿之助)、八剣勘解由・扇屋上総(寿美蔵)、吉岡鬼次郎(八百蔵)、扇折小萩実ハ敦盛(福助)等なり


従明治廿六年四月至明治廿七年三月 東京市養育院第廿二回年報 第三七―三八頁 刊 慈善会ノ事(DK240012k-0025)
第24巻 p.141 ページ画像

従明治廿六年四月至明治廿七年三月 東京市養育院第廿二回年報  第三七―三八頁 刊
    ○慈善会ノ事
一第七回夫人慈善会ハ、本年 ○明治二六年六月十日帝国ホテルニ於テ会員総会ヲ開キ、正副会長及ヒ議定員ノ改撰ヲ行ヒタルニ、会長ニハ富田鉄之助氏夫人、副会長ニハ渋沢栄一氏夫人、議定員ニハ伊東方成・橋本綱常・穂積陳重・大倉喜八郎・渡辺洪基・風間信吉・金沢三右衛門・子爵田中光顕・梅浦精一・楠木正隆・安田善次郎・山県伊三郎・益田孝・子爵松平定教・青地四郎左衛門・喜谷市郎右衛門・三井三郎助諸氏各夫人、伊達令嬢泰子等当撰セラレ、尋デ開会ノ事ヲ議決シ 六月廿五日ヨリ三日間木挽町歌舞伎座ニ於テ開会、余興トシテ演劇ヲ催シ、三日共ニ来会者満員シ好結果ヲ得テ、其収入金ノ内収支差引残弐千六百四拾円六拾八銭ヲ、同正副会長ヨリ本院ヘ寄贈セラレ、市会ノ決議ヲ経テ之ヲ領収セリ


東京日日新聞 第六四九七号 明治二六年六月二〇日 ○かぶき座(DK240012k-0026)
第24巻 p.141 ページ画像

東京日日新聞  第六四九七号 明治二六年六月二〇日
○かぶき座 来る廿五日より廿七日まで三日間、連日午前十時より東京市養育院第七回慈善会を行ひ、其の余興演劇は第一岸姫松轡鑑(飯原館の場)、朝比奈義秀(新蔵)飯原兵衛(猿之助)同隼人之助(米蔵)百姓与茂作(松助)姫おそよ(秀調)飯原奥方藤巻(升若)範頼の息女司姫(女寅)、第二大杯觴酒戦強者(内藤邸の場)、井伊掃部頭(菊五郎)内藤紀伊守(寿美蔵)馬場三郎兵衛(左団次)平岡仁右衛門(左文次)、第三三国無双瓢軍配(江州八幡河原の場、堅田藁家の場)、斎藤利三(団十郎)同子息利光(新蔵)堀尾茂助(猿之助)斎藤の乳母芝生(寿美蔵)百姓大助(幡谷)、第四源平布引滝(九郎助住家の場)、斎藤実盛(菊五郎)瀬尾兼氏(左団次)百姓九郎助(市蔵)矢遠仁惣太(菊四郎)女房小よし(升若)小万(秀調)太郎吉(丑之助)葵御前(栄三郎)、第五六歌仙所作事(清元・常盤津・長唄はやし連中)、文屋康秀(団十郎)在原業平(菊之助)小野小町(米蔵)茶汲女(栄三郎)喜撰法師(菊五郎)等にて、桟敷一人に付一円五十銭・高土間一円十五銭・平土間一円・四等七十五銭・五等五十銭なり

 - 第24巻 p.142 -ページ画像 

東京日日新聞 第六五〇二号 明治二六年六月二五日 ○歌舞伎座に於ける慈善会(DK240012k-0027)
第24巻 p.142 ページ画像

東京日日新聞  第六五〇二号 明治二六年六月二五日
    ○歌舞伎座に於ける慈善会
東京府養育院第七回慈善会ハ愈よ今廿五日より三日間開場に付き、昨日も府庁より掛員出張して売品陳列中なるが、売店は九ケ所に設け、一店毎に国旗を交叉せり、又売品は玩弄物・造花・花籠・提籠・手文庫・団扇・菓子・帽子其他小間物等雑貨にして、店の合間には盆栽を陳列したり、又二階には食堂を設け階下には氷店の設あり、本日の初日には演劇観覧場所は悉く売切れ非常の盛況にて、明日は宮内省より女官十人計り来観ある旨通知ありたりと云ふ、尚三日間の受持貴婦人は左の如し
 穂積陳重氏夫人○穂積八束氏夫人○大倉喜八郎氏夫人○渡辺洪基氏夫人○金沢三右衛門氏夫人○風間信吉氏夫人○田中銀之助氏北堂○田中平八氏夫人○梅浦精一氏夫人○楠本正隆氏夫人○熊谷辰太郎氏夫人○山県伊三郎氏夫人○益田孝氏夫人○浅野惣一郎氏夫人○佐藤進氏夫人○阪谷芳郎氏夫人○森万助氏令嬢○藤田藤一郎氏夫人○令嬢○山本用千代氏令嬢


従明治廿七年四月至明治廿八年三月 東京市養育院第廿三回年報 第二四―二五頁 刊 慈善会ノ事(DK240012k-0028)
第24巻 p.142 ページ画像

従明治廿七年四月至明治廿八年三月 東京市養育院第廿三回年報  第二四―二五頁 刊
    ○慈善会ノ事
一第八回夫人慈善会ハ、廿七年四月十一日帝国ホテルニ於テ会員総会ヲ開キ、正副会長及議定員ヲ改撰シ、会長ニハ三浦安氏夫人、副会長ニハ渋沢栄一氏夫人、議定員ニハ岩崎弥之助・侯爵蜂須賀茂韶・西村乕四郎・穂積陳重・穂積八束・富田鉄之助・奥三郎兵衛・渡辺洪基・風間信吉・金沢三右衛門・園田安賢・梅浦精一・大倉喜八郎楠本正隆・安田善次郎・山県伊三郎・子爵松平定教・喜谷市郎右衛門・三井三郎助諸氏ノ各夫人、及伊達令嬢泰子等当撰セラレタリ、而シテ本年ハ養育院新築移転ノ為メ寄附勧誘ノ挙アリ、本会々員ニ於テハ無論応募スベキヲ以テ、第八回慈善会ハ特ニ開挙セサル事ニ議決シ、此事ヲ各会員ヘ通知セラレタリ


明治廿九年度東京市養育院第廿五回年報 第二七―二八頁 刊 慈善会の事(DK240012k-0029)
第24巻 p.142-143 ページ画像

明治廿九年度東京市養育院第廿五回年報  第二七―二八頁 刊
    ○慈善会の事
一本院基本財産増殖の為に組織せられたる東京市養育院婦人慈善会に於ては、其第八回を開会の為めに本年 ○明治二九年六月八日本院内に総会を開き正副会長議定員の改選を行はれたるに、会長渋沢栄一氏令夫人、副会長には山県伊三郎氏令夫人、議定員には男爵岩崎弥之助氏侯爵蜂須賀茂韶氏・西村乕四郎氏・穂積八束氏・穂積陳重氏・富田鉄之助氏・奥三郎兵衛氏・大倉喜八郎氏・渡辺洪基氏・金沢三右衛門氏・男爵園田安賢氏・梅浦精一氏・男爵楠本正隆氏・安田善次郎氏・子爵松平定教氏・三井三郎助氏の各令夫人、侯爵久我通久氏令嬢等撰任せられ、本年の開会は秋季に開く事、開会期日は正副会長の意見に一任する事に一決せり、尋て正副会長は、十月九日より三日間木挽町歌舞伎座に於て開会し、余興には例の如く演劇を為す事とし委員を嘱托し、同九月廿五日より先府庁内に事務所を開設し、
 - 第24巻 p.143 -ページ画像 
十月六日事務所を歌舞伎座に移し万般の準備を為し、即同九日より開設せり、三日間とも会員の夫人・令嬢は素より会員外の人々来会者場内に充満し好結果を得たり、依て正副会長より収支差引残金弐千五百七円弐拾八銭を本院へ回送せられたるに付、本院にては夫々の手続を経て基本財産の内へ編入する事に取計ひたり ○下略
   ○明治三十・三十一年ノ資料ヲ欠ク。


渋沢栄一 日記 明治三二年(DK240012k-0030)
第24巻 p.143 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十四日 曇 寒甚シ
○上略 午前十時東京市役所ニ抵リ、松田市長ニ面会シテ養育院ノ事 ○中略 ヲ談話ス、且慈善会開設ノ事ニ関シテ安達氏其他ト協議ス ○下略
   ○中略。
三月十四日 晴
朝来喘息ノ発作アリテ帰京スルヲ得サルニ付 ○中略 終日褥中ニ在テ養痾ス ○中略
養育院幹事安達憲忠来リテ、慈善会ノ事ヲ談ス
   ○栄一、十二日ヨリ大磯ニ滞在ス。
   ○中略。
三月二十三日 晴
午後一時大磯発、皆川四郎氏同行ス、三時過東京着、直ニ帝国ホテルニ於テ開キタル養育院慈善会ノ総会ニ列ス、福地・浦田・安達等数氏ト開会準備ニ関スル要務ヲ談ス ○下略
   ○中略。
四月七日 雨
○上略 六時 ○午後慈善演劇ニ関シテ東京市吏員ト共ニ関係ノ俳優数人ト会話ス ○下略
   ○中略。
四月十五日 曇
午前十時宮内省ニ抵リ、香川太夫・山内助ニ面会シテ養育院慈善会ノ事ヲ話ス ○中略 午後一時三崎町東京座ニ抵リテ慈善会演劇ヲ観ル ○下略
   ○中略。
四月十七日 曇夜大雨
○上略 午後慈善会演劇ニ抵ル、此日ハ銀行各支店ノ支配人及本店ノ人々ヲ劇場招宴《(ニ脱カ)》セシヲ以テ、家人数名ヲ伴フテ其饗応ヲ為ス ○下略
四月十八日 稍晴
午前十時慈善会演劇ニ出席ス、此日ハ香川・山内、宮中ノ女官数名観劇ノ為東京座ニ来会ス、午後英国人ジユリース夫妻来観ス ○下略
   ○中略。
四月廿日 曇
○上略 午後三時東京座ニ抵リ養育院慈善会ニ出席ス ○下略
四月二十一日 曇
○上略 午後二時東京座ニ抵リ養育院慈善会ニ出席ス ○下略


明治卅二年度東京市養育院第廿八回年報 第六三頁 刊 慈善会の事(DK240012k-0031)
第24巻 p.143-144 ページ画像

明治卅二年度東京市養育院第廿八回年報  第六三頁 刊
 - 第24巻 p.144 -ページ画像 
    ○慈善会の事
第九回本院婦人慈善会は、四月十五日より廿一日迄七日間神田三崎町東京座に於て開会せられたるが、収支差引残金三千五十円を同会長渋沢かね子・副会長松田れん子より寄贈せられたり


東京日々新聞 第八二五四号 明治三二年四月二一日 東京市の慈善芝居(DK240012k-0032)
第24巻 p.144 ページ画像

東京日々新聞  第八二五四号 明治三二年四月二一日
    ○東京市の慈善芝居
目下東京座に興業中なる同芝居は歌舞伎・明治等の興行中なるに拘はらず日日立錐の地なき好況にて、両三年間中絶せし慈善事業の事とて陳列品も一際売行好く、之が売子の衝に当る貴婦人・令嬢等の奔走も左こそと察せられ、随つて係員等も一方ならぬ繁忙を極めつゝありといふ


東京日々新聞 第八二六一号 明治三二年四月二九日 東京座慈善演劇の結果(DK240012k-0033)
第24巻 p.144 ページ画像

東京日々新聞  第八二六一号 明治三二年四月二九日
    ○東京座慈善演劇の結果
曩に東京市が東京座に於て東京育児院の為めに夫人慈善演劇を催せし結果を聞くに、非常なる好景気なりしより、随て収入も多く諸雑費を差引三千余円の純益を得たれば、育児院に寄附す可しといふ


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK240012k-0034)
第24巻 p.144 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年       (渋沢子爵家所蔵)
三月二十二日 雨
○上略 午後二時東京府庁ニ抵リ ○中略 畢テ帝国ホテルニ抵リ養育院慈善会総会ヲ開ク、規程ヲ修正シ、来月三日ヨリ開会演劇ノ事ヲ協議ス ○下略
   ○中略。
三月三十一日 晴
○上略 宮内省ニ抵リテ ○中略 養育院慈善会ニ関スル演劇参覧ノ事ヲ香川大夫ニ依頼ス ○下略
   ○中略。
四月三日 晴
午前十時明治座ニ於テ催シタル養育院慈善会ノ演劇開場ニ付テ出席ス ○下略
四月四日 晴
○上略 午後五時慈善会ノ演劇ニ出席シ ○下略
   ○中略。
四月六日 晴
○上略 午後一時慈善会演劇ニ出席ス、此日ハ宮内省ヨリ香川・山内、官女三名来観セラル ○下略
   ○中略。
四月八日 晴
午前十時慈善会演劇ニ抵ル、此日ハ第一銀行本支店ノ人々二十名余ヲ案内シテ観劇セシムル筈ナリシニヨリ、終日劇場ニ在テ来賓ト共ニ劇ヲ観ル ○下略


(八十島親徳) 日録 明治三三年(DK240012k-0035)
第24巻 p.144-145 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三三年   (八十島親義氏所蔵)
四月八日 晴 日曜
 - 第24巻 p.145 -ページ画像 
本月三日ヨリ十日迄養育院慈善会演劇開会シツヽアリ、而シテ又第一銀行ニテハ今回各支店長会議アルヲ以テ、青淵先生ハ支店各支配人及本店役員中重立チタルモノヲ合セテ合計二十二・三人ヲ、本日ノ日曜ニ明治座ニ被招待 ○下略


明治卅三年度東京市養育院第廿九回報告 第九六―九七頁 刊(DK240012k-0036)
第24巻 p.145 ページ画像

明治卅三年度東京市養育院第廿九回報告  第九六―九七頁 刊
    ○第十回本院慈善会の事
三十三年三月廿二日帝国ホテルに於て慈善会員総会を開き、正副会長及議定員の改選を行ひしに、会長に男爵渋沢栄一殿令夫人、副会長に男爵千家尊福殿令夫人・大浦兼武殿令夫人・松田秀雄殿令夫人当選し議定員に挙げられたる令夫人・令嬢都合三十六名ありたり、而して同年四月三日より同月九日迄七日間、日本橋区久松町明治座に於て開会することゝ決し、のち同座附物品販売所を同会の販売所に充て、余興として芝居を興行することゝなせり
先是三月廿五日より同会の事務所を東京市役所内に置き、事務委員長を浦田治平君に、委員を各区長・市事務員・養育院職員に嘱托せり
四月一日より同会の事務所を明治座に移し、会場内外の装飾、寄贈品陳列其他諸般の準備を為し、同三日より愈開会、当日は同会の正副会長及議定員等早天より臨会せられ、午前九時より開場したり、今余興演劇の番組を挙ぐれば左の如し
  一番目 碁盤忠信源氏礎
 中幕   意中謎忠義画合
  二番目 御誂雁金染
 大切   滑稽安宅の新関
而して開会七日間の収入総金額壱万四千八百参拾五円六拾五銭六厘にして、支出総額金九千七百五拾五円参拾八銭六厘なり、即ち差引残金五千八拾円弐拾七銭、内金八拾円弐拾七銭は同会の準備金となし、他の五千円は悉皆本院へ寄附せられたり


東京日々新聞 第八五四二号 明治三三年四月三日 演劇だより △明治座(DK240012k-0037)
第24巻 p.145 ページ画像

東京日々新聞  第八五四二号 明治三三年四月三日
○演劇だより △明治座 いよいよ今三日開場すべく、昨日渋沢氏催しとなり、座付役者一同を岡田に馳走せりと


東京日々新聞 第八五四三号 明治三三年四月五日 演芸だより △明治座の慈善劇(DK240012k-0038)
第24巻 p.145 ページ画像

東京日々新聞  第八五四三号 明治三三年四月五日
○演芸だより △明治座の慈善劇 一昨三日午前十時に開場し、出しものゝすべてを演じ了り、夜の九時近き比閉場せり、慈善の為の劇なる為か、一つにも出し物の取合せのよきにもよるなるべし、当日は珍らしき上天気にて、人足の兎角に外出勝なりしにも拘はらず満場の大入にて、会員及び夫人等が担任せる運動場の各商品陳列場には可成の売高なりし如く、座の表に賁られし各国の旗章は、夜に入りて慈善会の文字を見はす入口の花瓦斯ともに景気を添へたり、又慈善会事務所は芝居茶屋日野屋に設けられあり、已に附込み済となりしは華族にありては井伊・細川の両家等、及日本橋の小間物商、麻布の質商、東京ビール会社、北東廓及《よしはらすさき》び各所の紅裙連などなりと
 - 第24巻 p.146 -ページ画像 


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK240012k-0039)
第24巻 p.146 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年       (渋沢子爵家所蔵)
十月十七日 雨
十月十七日以後ノ日記ハ、時務殊ニ多カリシヲ以テ終ニ之ヲ怠リタルヲ以テ、玆ニ其経過中要件ノ特書スヘキモノヲ摘載シテ他ノ備忘トス
○中略
十一月廿四日ヨリ廿六日マテ三日間養育院慈善会ヲ神田錦輝館ニ開キ三日トモニ出席シテ養育院ノ沿革・現況及将来ノ企望ニ就テ、長時間ノ演説ヲ為ス


明治卅四年度東京市養育院第三十回報告(DK240012k-0040)
第24巻 p.146 ページ画像

明治卅四年度東京市養育院第三十回報告
                   第一一三―一一六頁 刊
    ○慈善会の事
○上略
三十四年十一月二十四日より二十六日迄三日間、神田区錦町錦輝館に於て第十一回慈善会を開会したり
○中略
先是十一月七日、今度開会する第十一回慈善会開催の件に付養育院に於て議定員会を開きたり、而して今回醵捐の挙は十一月二十四日より二十六日迄三日間神田錦輝館に於て之を行ふ事とし、同館楼上を以て寄贈物品及養育院製造品等の販売所に充て、余興には同館会場に於て各種の演芸を催ふす事に決定したり、於之東京市役所内にては諸般の準備に忙はしく、十一月七日より同所内に事務所を置きて専ら開会の用意に着手せり、尚這回に於ける事務委員長には市助役浦田治平氏を委員には各区書記及市事務員・養育院職員諸氏に嘱托したり
十一月二十三日、事務所は更に会場たる錦輝館内に移され、会場内外の装飾は勿論、寄贈物品・養育院製品の陳列、販売店其他諸般の準備も略整頓を告げたり
明くれば二十四日は快晴にして一天些の雲翳もなく、最早本会委員及会場内周旋を委嘱せし諸員も出張して、入場者は開場前已に続々として来場せり、乃ち午前九時開場して余興も倶に始まれり、猶渋沢養育院長は三日間共同院の歴史及慈善会成立の由来を演述せられ、将来倍本会の趣意に対して弘く同情賛助を希望せられたり、今余興演芸の種目を挙ぐれば左の如し
  常盤津    太神楽曲芸
  義太夫    滑稽落語
  長唄
二十五日には宮内省より御下賜金参百円を下附相成たり、而して開会三日間の総収入額は金七千百拾弐円弐拾九銭弐厘にして、支出総額は参千百〇七円八拾壱銭九厘なり、即差引残金参千四百〇四円四拾七銭参厘は内金参千百五拾円を養育院に寄附して、弐百五拾四円四拾七銭参厘は準備金として同会に保管せられたり


東京日々新聞 第九〇三七号 明治三四年一一月一七日 第十一回東京市養育院慈善会(DK240012k-0041)
第24巻 p.146-147 ページ画像

東京日々新聞  第九〇三七号 明治三四年一一月一七日
 - 第24巻 p.147 -ページ画像 
    ○第十一回東京市養育院慈善会
予て前号にも報道せし如く、同慈善会は来る二十四日より向ふ三日間神田錦輝館に開会する由にて、已に数千通の案内を発したるが、余興には三日間共、物真似・落語・竹琴・西洋奇術・常盤津・曲芸・義太夫・長唄等あり、大切には所作事等もありて頗る賑はしかるべしと云ふ、入場券七十銭にして東京市及ひ区役所・錦輝館にて発売す


東京市養育院月報 第一一号・第四―七頁 明治三五年一月 ○婦人慈善会に於ける渋沢男の演説(DK240012k-0042)
第24巻 p.147-150 ページ画像

東京市養育院月報  第一一号・第四―七頁 明治三五年一月
    ○婦人慈善会に於ける渋沢男の演説
 左の一篇は本院々長渋沢男が、昨年十一月廿四・五・六の三日間、本院の為めに神田錦輝館に開かれたる、第十一回婦人慈善会に於て演説せられたるものなり
満場の淑女紳士諸君、本会が明治十八年以来、養育院資金増殖の為めに、開会せられしこと爰に十回、昨年までに寄贈せられたる金額は三万九千三百二十余円に相成りまして、尚今回も斯く皆様が同情を表せられて、お集り下されましたのは、深く感謝するところでござります此同情を寄せらるゝ諸君に向ひまして、お礼を申上ぐると同時に、養育院の沿革及び現況の概略と併せて将来の希望をも申述べて、清聴を煩はしたいのでござります
養育院の創立は、明治五年十月でありますが、それより少し前、露国の皇族が我東京へお出でになるに就きまして、市内に多数の乞丐の徒が漂泊して居つて、如何にも市の体面に関するといふので、一時之を収容致して、其節の非人頭車善七に預けましたところが、之を解放すれば何の効もないので、当時市の共有金を管理して居た営繕会議所へ時の府知事大久保一翁氏から、其処分法を諮問になりました、此営繕会議所の管理する共有金と申すは、今より百年程前、幕府の老中松平越中守定信が、江戸の町法改正の結果、備荒貯蓄として積立てしめた俗に七分金と唱へて居たもので、其金の性質は、元来天災時変に際する貧民救助の目的に出たもので、火災・水難其他の窮民救助は始終致し来つて居たのであるから、之を以て斯る窮民を救助するは正当の事であるといふので、該会議所は、壮者は之に職業を授け、老者・幼者不具癈疾の輩は相当の場所を設けて之を救養し、特に幼年の者は教育の法をも設くべく、其費途は七分金から支弁するが宜しいといふ、三策を立てゝ諮問に答へました、ソコで府知事は之を採用して、只今の帝国大学の地が旧加州邸で、不用に属して居たから、指向き之に収容致したのが百四十余人といふ数でありました、次で上野の護国院を買入れて之に移り、営繕会議所の管理に属して居りました、是が養育院の濫觴でござります、私は明治七年に会議所の頭取に推されまして同所を管理する事と相成りまして以来、或は院長として、或は委員長として、廿八年来関係致して居るのでござります
明治十二年に、地方議会が開かれるに付きまして、同院も地方税の支弁に移りましたが、是まで老幼不具癈疾の輩と共に、瘋癲者も百余人収容してありましたが、府に於て瘋癲病院を別置されたので、瘋癲病者は皆是に移すことゝなりました、丁度養育院が分家した体で是が只
 - 第24巻 p.148 -ページ画像 
今の巣鴨病院でござります、斯くて十四年までは無事に経過しましたが、十五年に養育院廃止論が府会に起りました、それは窮民救助は惰民養成の基となるといふ論拠でありました、是は一応尤な論ではありますが、私は明治七年以来其局に当つて居りましたから、如何にしても養育院を廃することは出来ぬという感が深うござりました、若し之を廃すれば、七・八十の頼べなき老病者や、幼者は之を如何に処置すべきか、又世の中が如何に進みましても、斯る致し方のない人々は絶へず生じて参ります、之を処置致さねば餓莩途に横はるといふ惨状は目前に顕はれ来るのでありますから、廃する事は到底出来ぬと考へもし主張も致しましたが、府会に於ても委員が出来て調査の結果、斯様な老幼不具ばかりの者を院外に出たすことは出来ぬといふことで、其年は無事に終りましたが、翌年又廃止説が出て、今度は出院せしめ得らるゝものは出院せしめ、新には入院せしめずして、明治十七年限り廃止する事に極りました、ソコデ此大都会にせめて一ケ所位は、遣り所のない老幼の収容所がなくてはならぬと考へましたから、時の府知事芳川顕正君等の尽力を仰ぎまして、其頃同院の敷地となつて居た、神田和泉町の地所の売却代、又は廃止論以来勧誘せし寄附金等合して六万円ばかりの資金が出来ましたから、本所長岡町に廉価な地面を買入れ、粗末な新築をして、五万七千円程の原資金を残し、明治十八年一月一日から、前入院者老幼百五十人を引受けて、長岡町へ移転して独立の養育院となりました
此時に、朝野の貴婦人・令嬢方は、大に同情を表せられて、養育院の資金を増殖せねばならぬといふので、此慈善会が企てられたのでありまして、開会毎に三千円以上五・六千円の金を寄贈せらるゝことになつたのでありますが、之れ誠に感謝に堪へぬところでござります
又た畏くも 皇后陛下にも、右の事情を聞こし召されて、同十八年以来同院へ年金を賜はり、又本会へも御代理の女官を派遣せしめられて物品御買上の栄を賜はる例になつて居ります
それより明治廿二年市制が施行せられて、同院も市の所属となりましたが、市制中市の財産を管理する上に於きまして、寄附者が使用の目的を指定したものに対しては、目的外に使用することはならぬ事になつて居りますから、養育院の窮民救助の目的に成りたる資産は、他に動かすべからざるものとなりましたゆへ、同院の基礎もこゝに確定したのでござります
又明治卅三年七月から、養育院の一部に感化部と申すものを置く事と相成りました、是れは養育院が多年種々の老幼者を収容するに就きまして、世の中には親も親戚もない幼年の者とか、又は親や親戚はあつても、養育や教育の義務も尽して呉れない為めに幼年者が乞食体のものとなつて、市内を彷徨する内に、掏摸とか窃盗の子分とかになつて終には犯罪者に悪化しつゝある者が、中々少なからぬといふ事実を発見致しまして、是は捨てゝ置けぬことである、是等の者は一日も早く収容して未た悪化せぬ者は、夫々身の振り方を付けて遣り、悪化したる者は相当の教育を以て之を矯正する法を設けたならば、犯罪の予防上、余程有益な事であろう、慈善といふ方面よりは寧ろ国家の為めに
 - 第24巻 p.149 -ページ画像 
何とか処置を付けたいと申すことは明治廿七年頃から、種々に内談を
致して居りましたが、其頃同院も移転の考で小石川大塚辻町へ新築して居りましたから、夫も是もといふ訳には参りませぬ故遷延して居る内、三十年に 英照皇太后が崩御あらせられて、各府県へ救恤資金を下附せられました、此資金の下付を願ふて、右等の者を収容感化するの方法を設けるといふ事は、御上の御趣意にも叶ふ義かと存じまして市参事会へ申立て、府知事と交渉の結果、終に同院の一部として感化部なるものを設置し、浮浪の幼年を収容する事となりまして、新築等も成就致し、先づ五十人丈を入院せしむる事として、着手致したのが即ち昨年七月でござりました、開院以来昨年十二月までに、各種の窮民で入院せしめた者の数が、一万三千四百三十八人、出院した者が五千八百六十人、死亡者が六千八百十六人でありますが、此死亡者の割合に多数なのは瀕死の病者、又は老年の者が多数なるゆへでありますから、同院の扱が悪いから死者の数が多いと申す訳ではないのであります、右収容の為めに費したる金額は、創立以来本年三月までに四拾弐万六千四百九拾五円十六銭三厘でござります、以上は沿革の大要であります
現況はと申すと、本月本日の現員で窮民が弐百六十六人、内男が百六十一人、女が百五人、行旅病人が二百三十一人、内男が百六十四人、女が六十七人、棄児・遺児・迷児が二百三十三人、内男児が百三十人女児が百三人、感化生が四十四人、惣員七百七十四人でござります
又基本財産は、公債証書又は現金等が、廿五万円余で、地所が一万二千三百余坪、建物が二千余坪であります、若し動不動産まで時価に積りましたら五十万円からになりませうが、利子の生ずる基金は二十五万余円に過ぎぬのでありますから、中々思ふやうには参らぬのでござります
尚将来の希望を申述べますと、現況で申上げた通り行旅病人・窮民・孤児・感化生と此四種類の者七百余人を同院内で部分けをして、在院せしめてあるので、病院と、救貧院と、孤児院と、感化院と、大体四種に分つの必要があろうと考へる、少くも之を各部に分類して、収容するやうに致さねばならぬことは夙に考へては居るのでありますけれども、未だ基本金も之に対しては僅少のものでありますから、之を実行することは容易に為し能はぬ事でござりますが、爰に最も急いで分割せねばならぬのは感化部であります、前にも申した通り此種の者は普通の児童とは全く其性質を異にして居りますので、仮令居住は別にしてありましても一構内に置いて其効を遂げやうといふことは、啻に労多くして功を奏することが少ないのみではありませぬ、其間に種々なる困難があるのでござりますから、是丈は差向き是非とも別置したいと考へまして、種々評議を致して目下市参事会へ上申中でありますが、之を別置しますれば一の進歩であると心得ます、爰に別して同情を乞ひたいのは院に在るところの三百余人の孤児でござります、是等の者は養育すべき親も身寄りもない者共で、幼少なのは乳飲児から大きいので十四・五位までの者が居りまして、中には盲人もあれば唖もあり、白痴もあつて、乳飲児は他に里に預ける、学齢以下の者は幼稚
 - 第24巻 p.150 -ページ画像 
園風の事にして遊戯を教へるとか、学齢以上の者は院内の学校で普通教育を授けるとか、盲人・唖生は盲唖学校へ通学せしむるとか、或は女子には裁縫・編物・機織・糸繰りなどを授けるとか、男児には指物とか、板削り・箸削り・草履製造などそれぞれ業務の素養を与へて、望人があれば養子女に遣るとか、雇預けにして職業を授けるといふやうに、それぞれ方法は付けて参りますけれども、中々未だ完備と申す場合には至らぬのでありますから、皆様の同情を乞ふて漸次に完備せしめたいのでござります、兎も角も斯る哀れなる無邪気の児童をしてそれぞれ其処を得せしむるのには、爰にお集りの淑女紳士諸君に此状態を能く知て頂いて、応分の助をして頂くといふことが大切でありますから、斯く清聴を煩はした次第でござります


渋沢栄一 日記 明治三五年(DK240012k-0043)
第24巻 p.150 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年         (渋沢子爵家所蔵)
四月十二日 晴
○上略 午後二時半養育院ニ抵リ慈善会開会ノ事ヲ議決ス、兼子来会ス、議事後院内ヲ巡視ス ○下略
   ○中略。
四月廿二日 晴
○上略 三時歌舞伎座ニ抵リ慈善演劇ヲ一覧シ ○下略
   ○中略。
四月廿八日 曇
○上略 此日午後三時ヨリ慈善会ノ演劇ニ出席ス
   ○中略。
五月七日 晴
○上略 十二時築地精養軒ニ抵リ、三好退蔵氏ノ催フセル送別会ニ出席ス千家府知事・浦田助役及養育院幹事等来会ス、食卓上一場ノ慈善問題ニ関スル談話アリ ○下略


明治卅五年度東京市養育院第卅一回報告(DK240012k-0044)
第24巻 p.150-151 ページ画像

明治卅五年度東京市養育院第卅一回報告
                   第一五八―一六三頁 刊
    ○慈善会の事
○東京市養育院慈善会  は明治十八年本院基本財産増殖を計らん為め有志婦人諸姉の組織せられたるものにして、爾来本年度迄に開会したること拾弐回、而して寄附の金額は五万余円に達したり、今爰に第拾弐回報告書の大要を摘記せんに
明治三十五年四月十二日第拾弐回開会の件に付、養育院に於て議定員会を開き左の如く決定せり
 一 本年開会すべき第拾弐回慈善会は春期に於て開会すること
 一 会場は京橋区木挽町歌舞伎座に於て、四月二十二日より向一週間之を行ふことゝし、同座三階を以て寄贈品及養育院製造品等の販売所に充て、余興として少年俳優の演劇を行ふこと
 一 四月十二日より東京市役所内に今回の事務所を置くこと
 一 本会に於ける事務委員長を浦田治平氏に、委員を各区書記・市事務員・養育院職員諸氏に嘱托すること
 - 第24巻 p.151 -ページ画像 
即四月十二日より東京市役所内に臨時事務所を開き、専ら開会の準備に着手せり
本会の入場券は特別券及一等より五等迄の六種にして、特別券は之を会員に、其他の入場券は一般の有志者に頒布したり
四月二十一日、事務所を更に会場歌舞伎座に移し、陳列販売店其他諸般の準備をなせり
二十二日、晴、前日来の準備全く整頓して、予て本会委員及会場周旋を委嘱せし諸員も早朝より出張し、入場者は開場前続々来場し、乃ち午前十時開場して余興も同時に始まれり、而して本日より引続き興行する余興演劇番組は左の如し
 一 菅原伝授手習鑑
 一 花見時廓の鞘当
 一 和田合戦女舞鶴
 一 大杯觴酒戦強者
 一 蘆屋道満大内鑑
 一 紅葉狩
二十三日、曇後晴、本日宮内省皇后職吏員臨場ありて、金参百円下賜相成りたり
二十四日、雨       二十五日、晴
二十六日、雨       二十七日、雨
二十八日、晴、本日本会を閉場す
○中略
    婦人慈善会寄贈金


  年号    回数   金額          会長       副会長
                  円
 明治二十年  初回   六、五六一・五六五  高崎五六夫人   渋沢栄一夫人
 同二十一年  二回   五、二七〇・〇〇〇  同上       同上
 同二十二年  三回   四、三三九・五四八  同上       同上
 同二十三年  四回   三、七二三・三九六  同上       同上
 同二十四年  五回   三、〇六七・四八五  蜂須賀茂韶夫人  同上
 同二十五年  六回   三、三六八・三七九  富田鉄之助夫人  同上
 同二十六年  七回   二、六四〇・六八〇  同上       同上
 同二十九年  八回   二、五〇七・二八〇  渋沢栄一夫人   山県伊三郎夫人
 同三十二年  九回   三、〇五〇・〇〇〇  同上       松田秀雄夫人
                                 千家尊福夫人
 同三十三年  十回   五、〇〇〇・〇〇〇  同上       大浦兼武夫人
                                 松田秀雄夫人
 同三十四年  十一回  三、一五〇・〇〇〇  同上       同上
 同三十五年  十二回  四、三〇〇・〇〇〇  同上       同上

○下略


渋沢栄一 日記 明治三六年(DK240012k-0045)
第24巻 p.151-152 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年         (渋沢子爵家所蔵)
三月三十日 晴
○上略 午後一時兼子ト共ニ養育院ニ抵リ、慈善会開設ノ事ヲ協議シ、畢テ院内ヲ一覧シ ○下略
   ○中略。
四月十六日 雨
○上略 川上音次郎・安達憲忠・長谷川寿太郎等養育院慈善会ノ事ニ関シ来話ス ○下略
 - 第24巻 p.152 -ページ画像 
   ○中略。
五月十二日 曇
○上略 安達憲忠氏来リ養育院慈善会ノ事ヲ談ス
五月十三日 雨
○上略 三時東京市役所ニ抵リ、養育院ノ事務及慈善会ノ事ニ関シ市長及助役ト協議ス ○下略
五月十四日 曇
午前七時朝飧ヲ畢ル、八時安達憲忠来リテ慈善会演劇ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
五月廿一日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ、安達憲忠来リ、養育院ノ事及慈善会ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
五月廿九日 曇
午前八時朝飧ヲ畢リ、十時宮内省ニ抵リ ○中略 更ニ香川太夫ニ面会シテ養育院慈善会ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
六月三日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ、安達憲忠・平沢道次等来話ス ○下略
六月四日 晴
○上略 午後二時明治座ニ抵リ、養育院慈善会ノ演劇ヲ観ル ○下略
六月五日 晴
○上略 三時慈善会演劇場ニ出席シ ○下略
六月六日 曇
○上略 三時慈善会演劇場ニ出席シ ○下略
   ○中略。
六月十日 晴
○上略 午後五時慈善会演劇ニ出席シ ○下略


(八十島親徳) 日録 明治三六年(DK240012k-0046)
第24巻 p.152-153 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三六年     (八十島親義氏所蔵)
六月四日 晴大風
○上略 午後一時ヨリ盛三郎同伴、明治座ニ養育慈善会川上演劇ヲ見ル、狂言ハ江戸城明渡シ及マーチヤント・オブ・ベニス法庭ノ場也、初日ナレトモ半数以上ノ入リニシテ、中々の景気也 ○中略 午後九時四十分ハネ同道シテ帰ル、男爵・同夫人等モ役員トシテ臨場セラル
六月七日 日曜 晴
○上略
十二時半ヨリ出カケ明治座ニ至ル、樹次郎ヲ誘引シ例ノ川上慈善芝居ヲ見ル為ニシテ、兜町ノ長谷川・中の・増田等ト茶屋橋本ニカヽリ、土間ニテ見ル、本日ハ第四日目ナルガ満場溢ルヽ計ノ入リニシテ、幕合モ短クナリ、七時半ハネタリ ○中略
本日ハ青淵先生ガ伊藤侯ヲ伴ヒ来ラレ、其他穂積陳重博士・同夫人・同令嬢二人・八束博士・同夫人・浅の泰次郎・渋沢従五位・橋本悌三郎・朝山義六夫人・諸井時三郎等諸氏、伊藤登喜造・福島甲子三氏等
 - 第24巻 p.153 -ページ画像 
来観セルニ会ス ○下略


東京市養育院月報 第二七号・第一二頁 明治三六年五月 ○東京市養育院慈善会(DK240012k-0047)
第24巻 p.153 ページ画像

東京市養育院月報  第二七号・第一二頁 明治三六年五月
    ○東京市養育院慈善会
該会は三月三十日本院内にて総会を開き、五月下旬或は六月上旬に開会し、其余興には新派演劇を催ふす事とし、其交渉をば本院長渋沢男爵に依頼する事を議決し、男爵も之を諾して当時在阪中なりし川上音二郎氏に照会せるに、氏は直に之を甘諾すると同時に、百方奔走尽力して全国各市に於ける新派俳優座頭大合同の一団を以て、江戸城明渡と題する好題目及人肉裁判を演ずる事に一決し、来る六月四日を以て日本橋明治座にて一週聞愈開会する事となりたり、本会より会員諸君其他の向々へも、各区役所に依頼し切符を持参致すべければ、開場当日は奮て御来会あらん事を乞ふ、尚当日の販売店へは養育院児童の製品たる造花・編物・指物・状袋・麻裏・押絵、其他の物品を、令夫人令嬢等が販売せらるゝ筈なれば、随意に御購求あらん事を乞ふ ○下略


東京市養育院月報 第二八号・第一二―一三頁 明治三六年六月 ○東京市養育院婦人慈善会(DK240012k-0048)
第24巻 p.153 ページ画像

東京市養育院月報  第二八号・第一二―一三頁 明治三六年六月
○東京市養育院婦人慈善会 同会は予定の如く本月四日より一週間、日本橋区明治座に於て開会せられたり、余興も已報の如く、江戸城明渡し七幕及び人肉質入裁判にして、初夏軽衫の好時節とは云へ、前後二日を除きては、満場殆ど立錐の余地なく、桟敷より立見の場所に到る迄悉く来賓を以て充さるゝの盛況を呈せり、又物品販売店は各令夫人・令嬢が販売の労を取られたる事とて、売捌高も非常に好成蹟にてありき、以上の如き有様なるより役員の多忙言はん方なし、従て慈善会員其他来賓諸君に対し、自然充分の礼を尽くす能はざりしこともあらんかなれど、其は本会の旨趣に対し何卒宥恕を賜はらんことを希願す(慈善会)
   ○明治三十七・八年ノ資料ヲ欠ク。


(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK240012k-0049)
第24巻 p.153 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三九年     (八十島親義氏所蔵)
十一月廿九日 晴
○上略 男爵ハ去廿四日来連日歌舞伎座ニ出テヽ慈善劇ノ為ニ演説セラル今夜モ其為早ク同座ニ赴カル、阪谷氏及夫人モ亦男爵ニヨギナクセラレ同座ニ赴カル


東京市養育院月報 第六九号・第一四頁 明治三九年一一月 ○東京市養育院慈善会(DK240012k-0050)
第24巻 p.153-154 ページ画像

東京市養育院月報  第六九号・第一四頁 明治三九年一一月
○東京市養育院慈善会 明治二十年来年々開会して、毎会数千円の金額を本院基本財産中へ寄贈せらるゝ養育院婦人慈善会は、今回其第十四回を挙行する事となり、去る十月二十五日本院に於て総会を開き、会長には渋沢男爵夫人を選挙し、副会長には千家府知事夫人及び尾崎市長夫人を、議定員には蜂須賀侯爵夫人外四十四名を推薦し、夫々承諾を経て、十一月二十四日より七日間歌舞伎座に於て開会する事に確定せり、余興としては演劇を催ほし、又た同座三階には特に販売店を設け各令夫人・令嬢の製作にかゝる物品、現今有名なる諸大家の揮毫
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寄贈にかゝる書画、並に本院児童の製作品及び各有志諸氏より寄附にかゝる物品等を陳列販売するの手筈なり、而して同会規定に依り依託せられたる委員長は渡辺市助役にて、委員は市役所各課長・各区長・本院幹事・其他市区及び本院の吏員にして、会に関する凡ての事務は歌舞伎座内慈善会事務所・各区役所並に本院にて取扱ふことゝなせり尚ほ今回の余興演劇に関しては大河内輝剛・手塚猛昌・岡本貞烋の三氏、会長渋沢男爵夫人の依頼を甘諾せられ、一方ならぬ斡旋の労を執られたるは、関係者の特に感謝する所なりとす(十五日記)


東京市養育院月報 第七〇号・第一三―一四頁 明治三九年一二月 ○東京市養育院婦人慈善会の景況(DK240012k-0051)
第24巻 p.154 ページ画像

東京市養育院月報  第七〇号・第一三―一四頁 明治三九年一二月
○東京市養育院婦人慈善会の景況 同会は予報の如く十一月二十四日より一週間木挽町歌舞伎座に於て開会せられたり、本会は辱なくも宮内省より三百円の御下附金あり、余興も既報の如く太閤記及中将姫・吹取妻・アラビヤ夜話等にて、就中中将姫の一幕は満場の喝采を博し毎日桟敷より立見の場所に到る迄立錐の余地を剰さず悉く来賓を以て充たさるゝの盛況を呈したり、又荒木寛畝・荒木十畝・村瀬玉田・跡見玉枝・松本楓湖・渡辺省亭・望月金鳳・橋本永邦・佐藤紫煙・馬杉青琴・奥原晴翠・佐竹永湖・佐竹永陵・端館紫川・尾形月耕・川端玉章・跡見花蹊・平林探溟・高橋玉淵・野口小蘋・野口小蕙・森脇雲渓佐竹永村・野村雪江・島崎柳塢・小坂芝田・武村耕靄・益頭峻南・畑仙齢・小堀鞆音・佐久間鉄園・梶田半古・久保田米斎・在原重寿氏等の諸大家が本会の為め書画揮毫の労を執られ、之れを販売部にて売捌きしかば、之れ亦一段の光輝をはなち、売捌高に於ても非常の好成績を博しぬ、以上の如き有様にて、実に未曾有の成功を得たるは慈善会長始め役員一同の深く謝する所なり、因に今回の純益金は収支差引六千五百円余の巨額に達せり


渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK240012k-0052)
第24巻 p.154 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年         (渋沢子爵家所蔵)
十月三十日 曇 冷               起床六時三十分 就蓐十二時
○上略 午飧後養育院ニ抵リ慈善会開設ノ事ヲ協議ス、又院内ヲ一覧 ○下略
   ○中略。
十一月十七日 曇 冷              起床七時 就蓐十二時三十分
○上略 午後五時一同散会ス、後直ニ馬車ヲ馳テ新富座ニ抵リ、養育院慈善会演劇ニ出席ス、兼子同伴セリ、夜十時過演劇畢テ、十二時王子ニ帰宿ス
   ○中略。
十一月十九日 晴
○上略 午後四時過ヨリ慈善演劇ニ抵リ夜十時王子ニ帰宿ス
十一月二十日 晴 寒              起床七時
○上略 五時半新富座ニ抵リ慈善会演劇ニ出席ス ○中略 九時再ヒ演劇場ニ抵リ、夜十一時帰宿ス


(八十島親徳) 日録 明治四〇年(DK240012k-0053)
第24巻 p.154-155 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四〇年     (八十島親義氏所蔵)
十一月廿三日 微雨 新嘗祭
 - 第24巻 p.155 -ページ画像 
○上略 午後綱町渋沢邸ヲ訪フ、令夫人ニ面会、将ニ新富坐ニ於ケル養育院慈善演劇ニ出懸ケラレントスル処也 ○下略


東京市養育院月報 第八二号・第一二頁 明治四〇年一二月 ○本院婦人慈善会(DK240012k-0054)
第24巻 p.155-156 ページ画像

東京市養育院月報  第八二号・第一二頁 明治四〇年一二月
○本院婦人慈善会 東京市養育院婦人慈善会は、十一月十七日より一週間京橋区築地新富座に開かれ辱くも宮内省よりは金参百円の御下附ありたり、余興は伊井・河合の一座の女夫波(十四場)及び喜劇子は鎹(三場)にて、何れも満都の人気を博し、連日盛況を極め、桟敷高土間は勿論、立見の場所に至るまで悉く来賓を以て埋められぬ、販売店には本院児童の作製品を陳列し、一方の階上には殊に本会の為めに揮毫の労を執られたる荒木十畝・村瀬玉田・跡見玉枝・松本楓湖・望月金鳳・橋本永邦・佐藤紫煙・馬杉青琴・奥原晴翠・佐竹永湖・佐竹永陵・端館紫川・尾形月耕・川端玉章・跡見花蹊・高橋玉淵・森脇雲渓・野口小蘋・野村文挙・野村雪江・島崎柳塢・小坂芝田・武村耕靄益頭峻雨・小堀鞆音・佐久間鉄園・在原重寿・山岡米華・平林探溟・小室翠雲・小林呉嶠・畑仙齢・佐竹永村・湯原柳畝・桜井雨峰・豊田天来等諸画伯の揮毫を陳列し、慈善会員たる諸夫人・令嬢等売店を受持たれて周旋頗る努められしかば、売捌高に於ても従来曾て見ざるの好成績を呈し、実に空前の大成功を以て無事終了を告ぐるを得たり。尚ほ今回の純益金は収支差引約壱万円の巨額にして、其内訳左の如し
    △収入の部
一金壱万七千参円参拾六銭   総収入
   内訳
  金弐千八百弐拾壱円五拾銭    会員寄附金
  金壱千九拾円五拾壱銭      売店収入
  金参百円            御下賜金
  金参千六百六円弐拾銭      一時寄附金
  金九千百八拾五円拾五銭     入場券売上金
    △支出の部
一金七千拾参円六拾六銭壱厘  総支出
   内訳
  金七拾弐円八拾八銭五厘     通信費並ニ集金手数料
  金弐百弐拾参円         印刷費
  金七百八拾九円七拾七銭五厘   売店仕入
  金四拾円四銭          備品及消耗品
  金四百九円八拾九銭       賄費
  金百九拾壱円参拾銭       装飾費
  金参千弐百円          演劇費
  金六百七拾九円九拾九銭四厘   寄附金及入場券売上手数料
  金五拾五円六銭         車賃
  金弐拾六円九拾参銭弐厘     人足賃
  金千弐百六拾九円七拾八銭五厘  雑費
  金五拾五円           残務整理費
 差引残
 - 第24巻 p.156 -ページ画像 
  金九千九百八拾九円六拾九銭九厘


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK240012k-0055)
第24巻 p.156 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年         (渋沢子爵家所蔵)
十二月二日 晴 寒
○上略 午後四時過明治座ニ抵リ、養育院慈善会演劇場ニ出席ス ○下略
十二月三日 晴 寒
○上略 七時明治座ニ抵リ、慈善演劇ヲ観ル ○下略
十二月四日 晴 寒
○上略 四時過明治座ニ抵リ、慈善演劇ヲ観ル ○中略 八時ヨリ再ヒ明治座ニ抵リ、兼子同伴ニテ演劇畢テ王子ニ帰宿ス
十二月五日 晴 寒
○上略 明治座ニ抵リ、養育院慈善会ノ演劇ヲ一覧ス、舞台ニ出テ一場ノ謝詞ヲ述ヘ、且養育院ノ事ヲ演説ス ○下略
十二月六日 晴 軽寒
○上略
安達憲忠氏来リ、養育院慈善会ノ事ヲ談ス ○下略
十二月七日 晴 軽寒
○上略 七時明治座ニ抵リ、養育院慈善会ノ演劇ニ於テ一場ノ演説ヲ為ス ○下略


東京市養育院月報 第九四号・第一五頁 明治四一年一二月 ○本院婦人慈善会(DK240012k-0056)
第24巻 p.156-157 ページ画像

東京市養育院月報  第九四号・第一五頁 明治四一年一二月
○本院婦人慈善会 東京市養育院婦人慈善会は十二月二日より一週間日本橋区久松町明治座に於て開かれ、辱なくも宮内省より金参百円の御下附ありたり、余興は川上音次郎氏の率いる革新劇第一・二団の合併にして維新前後六幕及び喜劇唖旅行の一幕にて連日盛況を極めたり院長渋沢男爵及田川市助役は幕間を利用して、本院の過去現在の歴史及将来の希望並に慈善会の組織・経歴、院資増殖会の設立、之に対する希望等を詳細に演説せられ満場の同情を求められたるに、拍手喝采急霰の如く暫時は鳴りも止まざりき、販売店は本院児童の製作品を陳列し、一方の階上には特に本会の為めに揮毫の労を執られたる村瀬玉田・跡見玉枝・松本楓湖・望月金鳳・橋本永邦・佐藤紫烟・馬杉青琴奥原晴翠・佐竹永湖・佐竹永陵・端館紫川・尾形月耕・川端玉章・跡見花蹊・高橋玉淵・森脇雲渓・野口小恵・佐竹永村・野村文挙・野村雪江・野口小蘋・島崎柳塢・武村耕靄・益頭峻南・佐久間鉄園・在原重寿・山岡米華・平林探溟・小室翠雲・湯原柳畝・村上委山・諸星成章・木村杏雨・井上雲陵・立岡快雪・中村金城・牧野永照・近藤樵仙根本樵谷・五島耕圃・根本雪蓬・畑仙齢・小林呉嶠・石川迪圃・小堀鞆音・桜井雨峰・川村天香・川村雨渓・寺崎広業・尾形月三・登内景淵・安田鞆彦・金井一章・橋本秀邦・橋本正素・越塚友邦・山脇荷声池上秀圃・今井爽邦・川合玉堂・生出大癖・梶田半古・島内松南・山内多聞・高橋広湖・長安雅山・尾竹竹坡・高森酔巌・中倉玉翠・吉原雅風・山田敬中・町田曲江・藤野美成・中島光村・島田雪信・坂巻耕漁・吉川桃客・椎名仙山・田中鉄斎・高橋南湖・福田麦仙・尾竹国観等諸画伯の揮毫を陳列し、慈善会員たる諸夫人・令嬢等も其間に立ち
 - 第24巻 p.157 -ページ画像 
て周旋頗る努められしは銘謝に堪へざる所なりとす


竜門雑誌 第二四七号・第六六頁 明治四一年一二月 ○養育院の慈善演劇(DK240012k-0057)
第24巻 p.157 ページ画像

竜門雑誌  第二四七号・第六六頁 明治四一年一二月
○養育院の慈善演劇 東京養育院の慈善演劇は、予報の如く十二月二日午後三時より明治座に開催せられたり、当日同座には交叉するに国旗を以てし、青淵先生・田川委員長・安達養育院幹事を始とし、当番貴婦人の評議員としては堀越・西村・原等の各夫人西桟敷に控へて斡旋に努め、土間・桟敷等十分の入りにて初日より非常の盛況なりき、演劇は川上革新第一軍の「維新前後」並に第二軍「唖の旅行」を順演せしが、共に看客の喝采を博し十時半頃無事に演了せしが、同興業は一週間にて終了せり