デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第24巻 p.168-170(DK240015k) ページ画像

明治28年12月7日(1895年)

是日栄一、当院委員長トシテ、当院収容者中ノ罹
 - 第24巻 p.169 -ページ画像 
病者看護ノ為メ東京帝国大学医科大学派出医員ニ嘱託シテ、看護人ヲ養成センコトヲ東京府知事三浦安ニ上申ス。十六日許サル。


■資料

養育院六十年史 東京市養育院編 第四〇八―四一一頁 昭和八年三月刊(DK240015k-0001)
第24巻 p.169-170 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第四〇八―四一一頁 昭和八年三月刊
 ○第五章 東京市営時代
    第一〇節 看護婦及産婆の養成
○上略 本院の収容者中には常に罹病者多くして現実の一大病院なれば、これに与かる看護婦・看病人等は特殊の知能を具ふる要がある。為めに創立以来随時簡易の講習をなし、種々修練せしめたるも、罹病者の増加するに従ひ適当なる看護婦の養成方法を設くるの必要に迫つた。依つて明治二十八年(一八九五)十二月、渋沢委員長より左の上申を為した。
 甲第四十一号
 本院に於ては従来看病人養成の方法無之、看病人は幼童看護婦・看病人等の中文字を解し略適当と認むる者を選抜し、外療又は温度を量る等の至極簡易必要なる事のみを修練せしめて看病に従事為致来候処、斯ては看病上の事及ひ病室の整理も充分行届不申、且新築竣工移転の上は万般一層整頓致度候に付、今般医長三浦謹之助と遂熟議、先第一期看病人養成として大学派出の医員に嘱託し、看病人等男女八・九名を選抜して看病学相授け、適当なる看病人養成の方法相設度、尤も看病学の教授は三ケ月間にて相終り、余は実地練磨為致候儀に有之、就ては看病学授業中手当として一ケ月金五円宛三ケ月間、右嘱託医員へ支給候様致度候処、経費予算中右費目無之候間特別の御詮議を以て予備費より支給相成候様予め御許可相成度、委員会の議決を経て此段上申候也
  明治二十八年十二日七日
            東京市養育院委員長 渋沢栄一
   東京市参事会
     東京府知事 三浦安殿
  追て看病学相授候看病人は、予め満三ケ年間は自己の便宜を以て辞職不致旨誓約せしめ此段上申候也《(候脱)》
これに対し十二月十六日付を以て、東京市参事会東京府知事より左の通り指定された。
                        養育院
 明治二十八年十二月七日甲第四十一号上申、其院看護人養成に要する手当金、本年度其院予備費より支給の件聞届く、但伝習人名は予め届出つへし
  明治二十八年十二月十六日
             東京市参事会
                東京府知事 三浦安
 斯くて翌二十九年(一八九六)より、東京帝国大学医科大学派出医員に嘱託して、六ケ月間の教育を施したるが、往々医員の交代等あり
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て養成上充実せざる憾みある為め、明治三十二年(一八九九)十二月看護婦養成方を申請して認許を得、医科大学へ担任医員を嘱託したるに、十二月二十二日付を以て光田健輔・菅井竹吉の二名に担任申付けたる旨達せられた。こゝに於て看病法講習手続を定め、十二月下旬より該講習を開始したのである。講習年限は一ケ年とし、講習生には食料及制服を給して院内に宿泊せしめ、且つ講習生な年齢十八年以上三十年以下の女子とし、入学試験を行ふて合格者を選抜することゝし、又看護婦希望の者にして、年齢不足の者又は学力不足の者は、予備生とする制を設けた。これと同時に保姆講習生及同予備生制を設けて、保姆養成にも努めたのである。
○下略
   ○看護人ハ後看護婦ト改ム。明治四十二年迄ノ看護婦卒業生ハ明治三十四年五名、同四十年七名ナリ。明治三十五年ヨリ三十九年迄及ビ明治四十一年ニハ卒業生ナシ。(養育院六十年史第四一一頁)