デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
5款 四恩瓜生会
■綱文

第24巻 p.289-292(DK240035k) ページ画像

明治32年6月(1899年)

是月、故瓜生岩子ノ生前ノ徳ヲ記念シ、慈善矯風ヲ目的トセル瓜生会、東京養育院内ニ創立サル。同年十月、当会ハ四恩会ト合併シテ四恩瓜生会ト改称ス。


■資料

瓜生岩子 奥寺竜渓著 第二七四―二八〇頁 明治四四年六月刊(DK240035k-0001)
第24巻 p.289-290 ページ画像

瓜生岩子 奥寺竜渓著  第二七四―二八〇頁 明治四四年六月刊
    一五、臨終
○上略
 後東京では瓜生会発会式は挙げられた。場所は日本橋倶楽部。発起人は土方・三島・板垣・岩佐・原・河野等の令夫人、賛成者は税所・海江田・下田等各社会の夫人・令嬢二百五十人以上。河野広中・大槻如電等も見えた。式場の正面には入龕の三尊を安置し、相並びて世尊の御像と岩子の肖像とを安置し、いとも荘厳である。 ○中略
 こゝに三十二年六月発表された瓜生会主意書を引く。岩子滅後の余香の薫しさ、梅花散りて猶香の残るやうである。
    瓜生会主意書
 今妾どもの瓜生会を起さんとするは、一昨年なき人の数に入りぬる瓜生岩女の、あたら志のほどを空しくせじとのわざなり。
 世はますます開け行けども、貧しきものゝ尽くる折りなかるべく、同じ人間と生れ出でつる身のたゞ貧しきが為めに、遂にはよしなき心をさへ起し、日の光をあふがぬさまとかはりはつるものゝ、なかなかに多くなりゆくも実に是非なきことになむ。ありがたき大御代にあひぬる身の、かゝる貧しき人をすくひたすけて、ともにめぐみの露にうるほふはこよなき楽にて、また同胞に対する妾どもの義務なるべしとぞおぼゆる、さればゆくりなき難義にかゝり、またはいまはしき疾病に犯されて、世にたつきなきもの、ことさら棄児または孤児などをひきとりて、はぐゝみそだつる慈善院を建て、あるはまた志あつき人々のものする慈善の事業をたすくるなど、これ岩女が一生涯東西に奔走せるところにて、これを知るたれかれの常にうれしくありがたく思ひつることなりけり。
 これら慈善の事業とゝもに、今の世になくてかなはぬことゝおぼゆるは、妾はじめ我大御国の婦女の淑徳のことにこそ。いしくも開けたる大御代なれども、人々の徳義の古にまされりとしも見えぬは、これみな明治の婦女の罪なるべく、国民の母たるべき妾とものふがひなきが為めなるべしとぞおぼゆる。今の世もなほ家庭はさらに改良せられしふしもなく、婦徳はますますおとりゆく折なれば、この家庭に成長する人々の心も行も、文明にそはぬごとく見ゆるも是非なきことにこそ。いで心あへる媛君夫人たちともろともにこの事を
 - 第24巻 p.290 -ページ画像 
かたりあひ、よりよりは師ともたのみつべき人の談話をもきゝてかたみに善をすゝめ、悪をいさむる婦人会を設けたきものになむ。これ妾どものひたに冀ふところにて、岩女はこの事のために老の身をいとはざりしなり。
 岩女のまだ世にいまそかりける折り、その志のほどをひろくなべての人にも諮れと、たれたれのひたにすゝめしをも強て従はず、おほかたの人を累はすに忍びずとて、根岸の里に、たゞさゝやかなる会をむすび、ひとりのみ一生涯これらの事に尽しつるが、今はこの会のことを知るものゝ極めて稀なるべく、行々は世の習はせとて、泡沫ときえうせんも計られず、さりとは御国の為め、人々の為めいと口をしめきわざなれば、今はとて、妾ども身のふつゝかなるをもかへり見せず、岩女の志をつぎて瓜生会を再興し、慈善と矯風との二つのことにつき、世の志あつき夫人媛君達にひろく計らんとて、かくはもの白すになむ。
  明治三十二年六月
               発起人(イロハ順)
           板垣絹子       岩佐徳子
           原礼子        大山捨松子
           樺山登茂子      河野関子
           後藤和子       西郷清子
           三島和歌子      土方亀子
○下略


四恩瓜生会 第一―八頁 (明治三五年八月)刊 【四恩瓜生会趣意書】(DK240035k-0002)
第24巻 p.290-291 ページ画像

四恩瓜生会  第一―八頁 (明治三五年八月)刊
    四恩瓜生会趣意書
世はますます開け行けども、貧しきものゝ尽くる折なかるべく、同じ人間と生れ出でつる身の、たゞ貧しきが為に、遂にはよしなき心をさへ起し、日の光りをあふがぬさまとかはりはつるものゝ、なかなかに多くなりゆくも実に是非なきことになむ、ありがたき大御代にあひぬる身の、かゝる貧しき人をすくひたすけて、ともにめぐみの露にうるほふは、こよなき楽にて、また同胞に対する妾どもの義務なるべしとぞおぼゆ。これら慈善の事業とともに今の世になくてかなはぬことゝおぼゆるは、妾はじめ我大御国の婦女の淑徳のことにこそ。いしくも開けたる大御代なれども人人の徳義の古にまされりとも見えぬは、これみな国民の母たる妾どもの罪なるべしとぞおぼゆ。今の世もなほ家庭はさらに改良されしふしもなく、婦徳はますますおとりゆく折なれば、この家庭に生長する人々の心も行も、文明にそはぬごとく見ゆるも是非なきことにこそ。いで心あへる媛君夫人だちともろともにこの事をかたりあひ、よりよりは師ともたのみつべき人の談話をもききてかたみに善をすゝめ、悪をいさむる婦人会を設けたきものになむ。
これらの事に老の身をいとはざりし瓜生岩女の志のほどを空しくせじとて瓜生会は起り、御仏の至教をあふぎ、慈悲忍辱の道に尽さんとて四恩会は企てられたり。両会の趣旨とするところ全く相等しくて、且つともに諮る媛君夫人達もおほかたはこの両会にかゝらふを以て、今
 - 第24巻 p.291 -ページ画像 
これを合せ、相分るゝの力をあつめて、等しく四恩にむくいまつらんとす。あはれ世の志あつき夫人媛君達、冀くはともにこの道に尽したまはらん事を。つゝしみてもの白す。
  明治三十二年十月
      発起人
    板垣絹子    岩佐徳子   井上敬子
    池田米子    原礼子    波多野為子
    星綱子     鳥尾太以子  大谷章子
    大内文子    小野とし子  岡崎房子
    田中伊与子   大草糸子   樺山登茂子
    矢野ゆか子   瓜生留子   栗塚竜子
    河野関子    松平寿満子  藤井やそ子
    安達和喜子   後藤和子   安藤操子
    三島和歌子   西郷清子   沢柳初子
    島地八千代子  下田歌子   渋沢兼子
    森文子     土方亀子   宏園子

    四恩瓜生会々則
一主義  慈善矯風の実を挙げ四恩の奉答を期する婦人の会合なり
一事務所 東京市小石川区大塚辻町十八番地に置く
一会員  婦人を正会員とし、男子を賛助員とす
一入会  希望者は本籍・現住所・族籍・氏名・生年月等を明記し事務所に申込まるべし
一会友  一時金品を寄贈せられし人を会友となす
一転居  改氏名・退会の際は事務所に届出らるべし
一役員  会長一名・副会長二名・会計二名・幹事五名、評議員・顧問・事務員各若干名を置く
一資金  株式会社東京貯蓄銀行に預託す
一例会  毎月廿日を定日とし講話・施斎を行ふ
一大会  春秋二季便宜の地に開くを例とす
○中略
      役員
 会長は伯爵夫人土方亀子氏逝去後欠く、副会長子爵母堂三島和歌子男爵夫人渋沢兼子


青淵先生関係事業調 雨夜譚会調 昭和三年六月一四日(DK240035k-0003)
第24巻 p.291-292 ページ画像

青淵先生関係事業調 雨夜譚会調 昭和三年六月一四日
                    (渋沢子爵家所蔵)
   四恩瓜生会
一、創立   明治卅二年六月
一、所在地  巣鴨の東京市養育院内(創立当時)
       小石川区大塚坂下町一三四(明治四十年より)
一、基本金  無シ
       事業資金としてハ、創立当時幾何かの金を会員及会友より得て之に充つ
 - 第24巻 p.292 -ページ画像 
       其後会員百数十名より各員一ケ月五銭の会費を徴収し
       ○中略
一、目的   瓜生岩子生前の美徳善行を永く表彰記念すると共に、社会の善良なる風俗の普及を図る
一、発起者  宮内大臣伯爵土方久元及夫人亀子
       伯爵三島通庸及夫人和歌子
       青淵先生及夫人兼子
       典侍税所敦子及同徳子等
一、青淵先生 発起人
  との関係 瓜生岩子の銅像建設委員長
       大正十一年七月より顧問
    瓜生岩子氏の人と為り及四恩瓜生会 (三輪政一氏談)
四恩瓜生会と渋沢子爵との関係を申上げる前に、瓜生岩子が生前に東京市養育院の幼童世話係長をして居つた事を申上げねばなりません。岩子は明治廿四年三月、養育院がまだ本所区長岡町に在つた時、院に這入つたのであります。彼が幼童世話係長に在る間は大変成績が揚り児童は大変彼に親しんで居つたとの事であります。程なく養育院を辞して明治卅年四月六十九歳を以て歿しました。それから二年を経て同卅二年六月岩子生前の善行美徳を偲び、一面には岩子が一方ならぬ昭憲皇太后の御寵遇を辱くして居た関係から、宮内大臣土方久元伯・税所敦子典侍其他貴紳淑女の方々が発起となつて、四恩瓜生会を設立なされたのであります。渋沢子爵は岩子生前の御関係もあり、又其人格に感ぜられて発起者の一員として会創立に御尽力になりました。其発会式は日本橋倶楽部に於て盛大に行はれました。そして事務所を養育院内に置き、事業としては毎月一回施斎を行つて養育院収容者に御馳走を行ひ、坊さん等を招いては法話を聞かせ、或ひは娯楽会を催したのでありますが、蓋し之れは岩子の遺志を顕彰するものではなかつたかと思ひます
○下略
   ○栄一ヲ発起人トスルハ誤ナリ、当会ノ創立ニ当ツテハ栄一及ビ安達憲忠・常盤大定等ノ尽力ニ依ルモノナレドモ、会ノ性質上之等ノ諸氏ハ何レモ皆表面ニ名ヲ現ハス事ハナカリキ。(昭和十一年六月五日、三輪政一氏談)