デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
5款 四恩瓜生会
■綱文

第24巻 p.300-301(DK240038k) ページ画像

明治41年4月19日(1908年)

是ヨリ先明治四十年、当会ハ小石川区大塚坂下町百三十四番地ニ会堂ヲ建設シ、養育院内ヨリ移転ス。是日、会堂開成式催サレ、栄一之ニ出席シテ一場ノ演説ヲ為ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK240038k-0001)
第24巻 p.300 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
四月十九日 晴 暖
○上略 午飧後兼子ト共ニ四恩瓜生会々堂開成式ニ出席ス、堂ハ巣鴨監獄署前ニアリ、来会スル者数百名、会長ノ代理トシテ一場ノ演説ヲ為シ午後五時王子ニ帰宿ス ○下略


東京市養育院月報 第八三号・第二〇頁 明治四一年一月 ○四恩瓜生会の発展(DK240038k-0002)
第24巻 p.300-301 ページ画像

東京市養育院月報  第八三号・第二〇頁 明治四一年一月
○四恩瓜生会の発展 毎月二十日本院に於て開催する四恩瓜生会は、多年諸種の慈善事業に尠なからざる援助を与え来たりしが、逐年有志婦人の同情を博し、従つて資金も増殖したりしかば、爰に其事業を一層発展すべき機会を得て、不取敢貧民救済の問題に就き実地解決を試むるの手段として、第一着手として市内の貧民窟附近に一の会堂を設
 - 第24巻 p.301 -ページ画像 
け物質的及精神的に彼等を救済し、以て本会の素願を全せんことを期し、昨年八月府庁及市役所に向つて曩に東京府勧業博覧会に使用せし建設物の寄贈を請求せしが、已に夫れ夫れ処分済の後とて其意を果さず、僅に市の厚意に依つて市名誉員休憩所に使用せし古材木の払下を許可せられたり、於是再協議の結果、巣鴨監獄署正面通路に瀕したる小石川区小石川大塚坂下町百三十四番地、俗に五十軒長屋と唱ふる貧昆窟に接近したる地を卜し、会堂及教誨師住宅を建築することとなり昨年十一月工事(建坪三十二坪)に着手したるが、今回竣工したりしより、本院教誨師蓮岡法麟氏を聘し愈々実地の運動を開始せり、而して本会の希望及将来の理想と為す所は会堂を一の教訓所となして、貧民の子弟を精神的に感化すると同時に、場合に依りては講談師又は浪花節の芸人を招きて彼等に娯楽を与ふるの場所たらしめんとするに在り、尚ほ本会の発展に伴ふては貧民の貯金を監督し、或は低利に資金を貸与し、飽くまで抜苦与楽の実を挙げんことを希望しつゝあり、兎に角本会這般の活動は単に貧民の福音たるのみならず、追つては広く社会全般に貢献する所あるべきを信ず。


青淵先生関係事業調 雨夜譚会調 昭和三年六月一四日(DK240038k-0003)
第24巻 p.301 ページ画像

青淵先生関係事業調 雨夜譚会調  昭和三年六月一四日
                    (渋沢子爵家所蔵)
  四恩瓜生会
○上略
    瓜生岩子氏の人と為り及四恩瓜生会 (三輪政一氏談)
○中略
明治四十年に会の事務所を現在の場所たる小石川区坂下町に移し、其建物は同年上野公園で行はれた東京勧業博覧会の名誉職室の材料を貰ひ受けて造りました。
明治四十二年四月は岩子の十三週年を迎へて、廿六日養育院の巣鴨分院に於て追弔会を催しました ○下略


四恩瓜生会一覧 第二―四頁 昭和三年八月刊(DK240038k-0004)
第24巻 p.301 ページ画像

四恩瓜生会一覧  第二―四頁 昭和三年八月刊
○上略
一明治四十年 上野に開かれたる東京勧業博覧会の府市名誉職休憩所(三間に二間半ブリキ屋根)の払下げを受け、之を現在の地に移して会堂となし、講談集会、慰安娯楽等の催しを為すことゝなる
一、同年 同地に二戸建一棟約二十七坪の貸長屋を建て、之を基本財産と為す
一、明治四十一年 不就学児童教育の目的を以て夜学部を設く、大正四年廃止(廃止の理由は附近の小学校に於て昼間通学不可能の子弟の為に夜学部を設けられ其必要を認めざるに至りたる為め)
○下略