デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
9款 中央慈善協会
■綱文

第24巻 p.321-337(DK240042k) ページ画像

明治41年10月7日(1908年)

内外慈善救済事業ノ統制ヲ図リ中央慈善協会設立サレ、栄一、会長ニ就任ス。是日、麹町区飯田町五丁目国学院大学講堂ニ於テ発会式ヲ行ヒ、栄一、之ニ出席シテ一場ノ演説ヲ為ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK240042k-0001)
第24巻 p.321 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年       (渋沢子爵家所蔵)
五月十五日 晴 暖             起床七時 就蓐十二時
○上略 六時番町富士見軒ニ抵リ慈善協会設立ノ事ヲ談ス、清浦男其他久米・窪田・小川・井上・清野・留岡等ノ数名来会ス、食後種々ノ談話アリ、夜十一時帰宿
   ○中略。
五月二十八日 晴 暑            起床七時 就蓐十二時
○上略 午後五時華族会館ニ抵リ中央慈善協会設立ノ事ヲ談ス、清浦氏外七・八名来会ス、夜十一時王子ニ帰宿ス
   ○中略。
九月十九日 大雨 冷            起床六時三十分 就蓐十一時三十分
○上略 十一時半内務省ニ抵リ窪田・井上二氏ニ会シテ中央慈善協会ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十一月九日 晴 冷             起床七時 就蓐三時
○上略 午後三時銀行集会所ニ抵リ中央慈善協会ノ事ヲ協議ス ○下略
   ○中略。
十一月十五日 晴 冷            起床七時 就蓐十一時三十分
○下略 窪田静太郎来、中央慈善協会ノ事ヲ談ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK240042k-0002)
第24巻 p.321 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年      (渋沢子爵家所蔵)
九月二十三日 晴 涼
○上略 原胤昭氏ノ来訪ニ接シ中央慈善協会ノ事、感化救済事業講習会ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十月七日 曇 冷
○上略 午前十時皇典講究所 ○国学院大学内ニ抵リ感化救済講習会ノ閉会式ニ参列ス、畢テ午飧ヲ食シ、午後一時ヨリ中央慈善協会発会式ヲ開ク、一場ノ慈善演説ヲ為ス、畢テ発起人会ヲ開キ会長ニ推挙セラル ○下略
   ○発起人会ハ後掲「東京日日新聞」「慈善」等ノ記事ニヨレバ発会式ニ先立チテ行ハレタル如シ。


東京経済雑誌 第五八巻第一四六〇号・第六八四頁 明治四一年一〇月一〇日 ○中央慈善協会の成立(DK240042k-0003)
第24巻 p.321-322 ページ画像

東京経済雑誌  第五八巻第一四六〇号・第六八四頁 明治四一年一〇月一〇日
    ○中央慈善協会の成立
 - 第24巻 p.322 -ページ画像 
内外国に於ける慈善救済事業の方法状況及び其得失を調査して慈善団体の統一を期し、而して慈善団体と慈善家との聯絡を図り、以て慈善救済事業を指導奨励し、之に関する行政を翼賛せんとの主旨を以て起れる中央慈善協会は、十月七日午後六時より飯田町国学院大学講堂に於て其発会式を挙たり、渋沢男の開会の辞に次ぎ、幹事は会頭に渋沢男爵、副会頭に清浦子爵を推せりと報告し、田中宮相(代読)以下の祝辞・演説等ありて散会したり


東京日日新聞 第一一四二七号 明治四一年一〇月八日 中央慈善協会発会式(DK240042k-0004)
第24巻 p.322 ページ画像

東京日日新聞  第一一四二七号 明治四一年一〇月八日
    中央慈善協会発会式
清浦子爵・石黒・小沢・高木・後藤・渋沢・千家各男爵を始め外四十余名の発起に係る中央慈善協会の発会式を、昨七日午後一時より国学院大学に於て挙行したり、渋沢男発会の辞を述べて曰く、慈善事業は奨励すべきものなれど、秩序を紊り手段を誤まる時は、返つて人を怠惰ならしむる虞あり、故に其事業は組織的・経済的ならざる可からず云々と、次に係員は発起人会にて渋沢男爵を会長に、清浦子爵を顧問に、発起人一同を評議員に推戴する事となりたる旨を報告し、次で田中宮相代理井上参事官・小松原文相代理岡田文部次官・平田内相・岡部法相代理正親町秘書官等の祝辞朗読・後藤男爵・一木内務次官・有吉千葉県知事等の演説あり、最後に清浦子爵の閉会の辞ありて同二時散会せり、因に該事業に関する事績並に製作品等は昨日より内務省内に陳列し、午前九時より午後四時迄一般の従覧に供せり


慈善 第一編第一号・第一一六―一一八頁 明治四二年七月 発会式以前の沿革(DK240042k-0005)
第24巻 p.322-327 ページ画像

慈善  第一編第一号・第一一六―一一八頁 明治四二年七月
    発会式以前の沿革
我邦慈恵救済事業の統一整斉を謀り、斯業の完全なる発達を期せんが為に、慈善家と慈善事業との聯絡及慈善事業相互の聯絡を図るの必要ありとし、之が中央機関として慈善協会を設立すべしとの議、夙に朝野有志の間に唱道せられしが、三十六年大阪市に於て第五回内国勧業博覧会の開設せらるゝに際し慈善大会を開催せられ、遂に慈善同盟会なるものを設立すべしとの議を決し、続て創立委員の選任を行ひたりき。其後創立委員は大会の希望を斟酌し、是を中央慈善協会と名付け翌三十七年四月を以て発会式を東京市に於て挙行せんとせしに、恰も三十七・八年戦役に遭遇したるを以て之を延期し、先づ戦時に於ける救護事業の研究を為し、当事者の参考に資するの急なるを認め、委員等は屡々研究会を開き、戦時救護に関する意見を発表したりき。
越て四十年四月に至り、創立委員久米金弥・窪田静太郎・井上友一・清野長太郎・桑田熊蔵・小河滋次郎・留岡幸助・安達憲忠・原胤昭等の諸氏は、之を清浦子爵・渋沢男爵両氏に謀り、爾来華族会館・学士会事務所等に於て協議会を開き、広く朝野の名士に発起人たらんことを求め、多数の賛成を得たるに依り、同年十一月九日銀行集会所に於て第一回発起人会を開会し協議する処あり。爾来準備中偶ま四十一年九月より十月に渉り、政府は感化救済事業講習会を開設せられ、多数の慈善事業者の上京したるを以て、之を機とし、十月七日発会式を挙
 - 第24巻 p.323 -ページ画像 
行するに至れり
    発会式以後の記事
四十一年十月七日午後一時、東京市麹町区飯田町五丁目国学院講堂に於て発会式を行ふ
 式を挙ぐるに先ち、発起人会を開き会則を議定し、役員の選任を為せり(会則及役員氏名は別に記する所の如し)
    発会式の状況
渋沢男爵は、評議員窪田静太郎氏の紹介に依り、本会設立の趣旨を述べて開会の挨拶を為せり。夫より宮内大臣田中伯爵(代読)・内務大臣平田男爵・司法大臣岡部子爵及小松原文部大臣の祝詞あり、続て逓信大臣後藤男爵・一木法学博士・有吉千葉県知事の演説あり、清浦子爵は来会を謝して閉会の辞を述べたり
 当日来会者へ贈呈したる紀念品は
 内務省より下附せられたる書籍
  「賑恤救済小史」「感化救済小観」
当日来賓の祝辞左の如し
      祝辞
近世世運ノ進暢ニ伴ヒテ、慈恵救済ノ施設漸ク多キヲ加フルニ至リシハ、誠ニ欣慶ニ堪ヘザル所、而カモ其施設経営ニ於テ、往々尚此ノ進運ニ伴ハザルノ観ナキニ非ザルモノノ如シ、是ノ時ニ当リテ、有志ノ諸氏相図リ、新ニ中央慈善協会ヲ設立シ、能ク其ノ弊源ヲ杜防シ、慈善事業ヲシテ将来ニ健全ナル発達ヲ遂ゲシメンコトヲ期セラルヽハ、尤時宜ニ適スルノ挙タリト謂フベシ、冀クハ本会ノ前途、益々隆昌シテ、克ク其目的ヲ達スルアラムコトヲ、玆ニ本日ノ発会式ニ際シ、聊カ一言シテ祝辞ニ代フト云爾
  明治四十一年十月七日
               宮内大臣 伯爵 田中光顕
      祝辞
感化救済ノ事業ヤ、モト甚ダ多岐ニ渉ルト雖モ、之ガ主要ノ事項トスベキハ、不良ノ徒ヲ化シテ善良ノ国民タラシムルニ在リ、無告ノ窮民ヲ扶ケテ、其自営ノ道ヲ得シムルニ在リ、遊逸徒食ノ輩ヲ導キテ、勤労ノ人タラシムルニ在リ、尚進ンデハ、社会ノ各方面ニ亘リテ、道徳及経済ノ上ニ国民生活ヲ高ムルヲ以テ、之ガ本旨トナサザルベカラズ故ニ其本義トスル所ハ、独リ個人各個ノ救済ト感化トノミニ止マラズシテ、実ニ一郷一邑ヨリ、延ビテ一国全体ノ健全ナル発達ヲ期スルニ有リ、念フニ我邦感化救済ノ事業ハ、今ヤ全国ヲ通ジテ各地ニ経営スルモノ、其数既ニ数百ヲ算ス、然レドモ、其実状ヲ察スルトキハ何レモ今後一段ノ改善ヲ加ヘテ、更ニ経営ヲ完ウスベキモノモ亦少カラズ就中各事業ノ間ニ相互ノ気脈ト連絡トヲ通ジテ之ガ統一ヲ図ルノ必要ナルハ、固ヨリ言ヲ待タザル所ナリ、況ンヤ、弘ク地方ノ訓盲風俗ト経済殖産トノ各方面ニ亘リテ之ガ改良ト進歩トヲ促カスノ方策ニ至リテハ、更ニ有力者ノ講究ニ待ツベキモノ多キニ於テオヤ、蓋シ我邦ノ救済制度ヤ、今尚初歩ノ時期ニ属スルヲ免レズ、是ヲ以テ、先ヅ欧米各国ニ於ケル救済諸般ノ事業ヲ参酌シ、其ノ長短ニ鑑ミテ宜シキヲ制
 - 第24巻 p.324 -ページ画像 
スルト同時ニ、更ニ経験精練ヲ積ミ、我邦ニ適応スベキ規摸ニ於テ、此ノ事業ヲ大成センコトヲ期セザルベカラズ、今ヤ中央慈善協会ガ、救済事業ニ関シテ広ク内外ノ範例トスベキモノヲ調査シ、進ンデ之ガ指導董督ヲナスヲ以テ自ラ任トナシ、玆ニ朝野有力者ノ発意ニ依リテ新ニ設立ヲ見ルニ至リタルハ、最モ時宜ヲ得タルノ挙ナリト謂フベク本会ガ、将来ニ永ク斯業ノ指導者誘掖者トシテ、之ガ発展ニ資スルノ多キハ、不肖ノ確信シテ疑ハザル所ナリ、玆ニ、本日ヲ以テ発会ノ式ヲ挙クルニ際シ、一言所感ヲ述ベテ祝辞ニ換フト云爾
  明治四十一年十月七日
               内務大臣 男爵 平田東助
      祝辞
文明ノ進歩ハ、個人ノ生存競走ヲシテ益々激甚ナラシムルコト東西各国ノ現況ニシテ、其趨勢年ヲ逐フテ愈甚シカラントス、此ニ於テカ生存競走ノ敗者ハ、不識ノ間ニ法禁ヲ犯シテ一身ヲ過リ、社会ヲ害スルニ至ル、是文明諸国ニ於テ各種ノ慈善団体ノ設備普ク行ハレ、此等薄幸ノ良民ヲ救済シ、健全ナル社会ノ発達ヲ期セントスル所以ナリ、然レドモ慈善ノ事タル易キニ似テ至難ノ業ニ属ス、其方法宜シキヲ得ザランカ、徒ニ惰民ノ依頼心ヲ増長セシメ、反テ健全ナル社会ノ発達ヲ妨クルニ至ル、況ンヤ一方ニ於テハ、不逞ノ徒、名ヲ慈善ニ藉リテ私慾ヲ充タサントスルモノアルニ於テヲヤ、中央慈善協会設立ノ趣旨ハ此ノ弊風ヲ一掃シ、慈善事業ノ本領ヲ発輝シ、以テ社会ノ発達ニ裨益セントスルニ外ナラズ、今ヤ我邦ニ於ケル慈善団体ノ設備固ヨリ少シトセス、然レドモ中央慈善協会ノ如ク其趣旨ノ普遍ニシテ、基礎ノ強固ナルモノニ至ツテハ、多ク其比ヲ見ザルベキヲ信ス、玆ニ本協会ノ成立ヲ祝スルト共ニ、将来ニ於ケル健全ナル発達ヲ祈ル
  明治四十一年十月七日
               司法大臣 子爵 岡部長職
      祝辞
感化救済不良ヲ訓ヘ無頼ヲ導キ、以テ各人各個ニ其処ヲ得シメ、国民ヲシテ健全ナル発達ヲ逐ゲシムルハ社会改良ノ本旨ニシテ、欧米各国ノ競テ之ヲ努ムル所ナリ、然リ而シテ此等ノ事業タル社会ノ進歩ト伴ヒ、益々複雑ニ赴クモノナルヲ以テ常ニ最適切ナル方法ヲ攻究シ、最有効ナル手段ヲ採択セザルベカラズ、荀モ一旦其途ヲ誤ランカ、動モスレバ依頼ノ観念ヲ助長シ、遊惰ノ傾向ヲ増進シ、却テ感化ノ真意ニ戻リ救済ノ本義ニ乖クニ至ルノ例少シトセズ、事ニ此ニ従フ者洵ニ其ノ始ニ於テ深ク戒慎ヲ加ヘザルベカラズ、近時我邦慈善仁恤ノ事漸ク世ノ留意ヲ牽キ、生存ノ競走未ダ欧米ノ如ク劇甚ナラズ、貧富ノ懸絶未ダ彼ノ如ク甚シカラザルニ方リ、広ク感化救済ノ方法ヲ研メ、弊竇ヲ未然ニ防ガントスルニ至レリ。曩ニ内務省ニ於テ其講習ヲ開キ、今又朝野ノ篤志者相集リ中央慈善協会ヲ組織シ、以テ各種感化事業ノ聯絡ヲ密ニシ、救済事業ノ統一ヲ期シ、益々斯業ノ改良進歩ヲ図ラントス、実ニ時ヲ得タルノ挙ト謂フベキナリ。自今以後世ノ慈善ニ志アル者、玆ニ其善良ナル指導ヲ得、施設一層宜シキニ就キ、自治自営ノ良民愈社会ニ充実シ、独立活動ノ気力益々社会ニ横溢スルニ至ラバ、啻
 - 第24巻 p.325 -ページ画像 
ニ本会ノ目的ヲ達スルノミナラズ、洵ニ国家ノ幸福ナリ、一言ヲ叙シテ祝詞ニ代フ
  明治四十一年十月七日
                 文部大臣 小松原英太郎
    中央慈善協会趣意書
時運の進暢に伴ひ、文明の諸国は今や百方苦心して慈恵救済の道を講せざるなし、而して其要義とする所を推すに、何れも恤みて之を傷らさるを主とす、能く養ひ能く教へ、先づ自営自活の民たらしめ、然る後に救済の事や始めて完きを期することを得へし、若し惻隠の情に促されて徒らに一時の施与を試み、或は名利の念に駆られて故らに企画経営を濫りにするが如きあらば、延て惰民を助成し、独立自営の精神を傷害すること必ずや尠からざらん、是れ慈恵救済に就き最も慎重なる考量を要する所以なり
惟ふに我邦済貧恤窮の事たる、古来郷党隣保の情誼に依て行はれたり然れども其施設や多くは一時の施与に止まり、所謂恤みて傷はす、能く養ひ能く教ふるの真諦を発揮せるものに至ては殆んど之を見る能はず、近時々運の発展は各種の慈恵事業を勃興せしめ、其施設も亦漸くにして本来の真義に率由せんとするに至りしと雖も、其画策や尚ほ未だ深く世人の同情を鍾むるに及ばず、其活動も亦随ひて十分なる能はず、甚だしきは往々慈善を標榜して実行之に伴はず、却て之が為めに斯業の発達を妨ぐるものなきにあらず、且や篤志の資産家ありて或は斯種の事業を経営せんとするも、就て謀るべき機関なきが為め遂に其目的を達する能はず、或は資金を投して事業の補助を為さんとするも其撰択に苦まざるを得ず、是等の事情たる我邦に於て斯業の未だ振はざる主因たり、乃ち此間に処して慈恵救済の方法を講究し、一面には当事者を指導誘掖し、他面には慈善家をして其嚮ふ所を知らしむるは実に現下の急務なるべきを信ず、吾等因て自ら揣らず玆に中央慈善協会を組織して、先づ左に掲ぐる事項を遂行し、以て此急要に応せんとす、冀くは大方の諸彦時代の要求に鑑みて斉しく此挙を賛襄せられんことを
一内外国に於ける慈恵救済事業の方法・状況及其得失を調査報告すること
一慈善団体の統一整善を期し、団体相互の聯絡を図ること
一慈善団体と慈善家との聯絡を図ること
一慈恵救済事業を指導奨励し、之に関する行政を翼賛すること
    会則
第一条 本会ハ中央慈善協会ト称ス
第二条 本会ハ事務所ヲ東京ニ置キ必要ノ地ニ支会ヲ設ク
第三条 本会ハ自ラ慈善救済事業ヲ行ハズ、第四条ノ方法ニ依リ其健全ナル発達ヲ図ルヲ以テ目的トス
第四条 本会ハ目的遂行ノ方法トシテ左ノ事項ヲ行フモノトス
 一、内外国ニ於ケル慈恵救済事業ノ方法・状況及其得失ヲ調査スルコト
 二、慈恵救済事業ノ統一整善ヲ期シ、団体相互ノ聯絡ヲ図ルコト
 - 第24巻 p.326 -ページ画像 
 三、慈善団体ト慈善家トノ聯絡ヲ図ルコト
 四、慈恵救済事業ヲ指導奨励シ、之ニ関スル行政ヲ翼賛スルコト
 五、其他本会ノ目的ヲ達スル為メ、評議員会ニ於テ必要ト認メタル事項
第五条 本会ハ時宜ニ依リ慈恵救済事業ニ必要ナル講習ヲ為シ、又ハ会報若ハ雑誌ヲ発行シテ会員ニ頒ツコトアルベシ
第六条 本会ハ毎年一回東京又ハ便宜ノ地ニ総会ヲ開キ、左ノ事項ヲ行フモノトス
 一、前年中ノ事務及会計報告
 二、議事及演説講話
第七条 本会ハ会員及慈善団体ヲ以テ之ヲ組織ス
第八条 会員ヲ分テ名誉会員及正会員ノ二種トス
 名誉会員ハ慈善事業若ハ本会ニ功労アル者又ハ学識徳望アル者ヲ推薦ス
 正会員ハ会費トシテ毎年金参円ヲ納付スル者トス
 一時金五拾円以上又ハ五箇年間毎年金拾円以上ヲ寄附スル者ハ前項ノ会費ヲ要セズ
第九条 会員タラント欲スル者ハ住所・氏名及職業名ヲ記シテ申出ヅベシ、其後異動アリタルトキ亦同ジ
 慈善団体ニシテ入会セント欲スルモノハ代表者ノ名ヲ以テ申出デ、役員ノ承認ヲ経ルヲ要ス
 退会セント欲スルトキハ其旨会長ニ申出ヅベシ
第十条 慈善団体ノ経営健全ヲ欠クモノアリト認ムルトキハ、評議員会ノ議決ヲ経テ之ヲ除名スルコトアルベシ
 会員ニシテ会員タルノ名誉ヲ毀損スヘキ行為アリタルトキ、亦前項ニ同ジ
第十一条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク
 一、会長     一名
 二、副会長    一名
 三、幹事     若干名
  幹事中ヨリ幹事長ヲ置クコトヲ得
第十二条 本会ハ総裁ヲ推戴シ、顧問ヲ推薦スルコトアルベシ
第十三条 会長・副会長及幹事ハ評議員会ニ於テ会員若ハ慈善団体ノ代表者中ヨリ選挙ス
 幹事長ハ幹事ノ互選ニ依リ会長之ヲ嘱託ス
 本条役員ノ任期ハ四箇年トシ、再選スルモ妨ケナシ
 補欠員ノ任期ハ前任者の任期ヲ継承スルモノトス
第十四条 会長ハ本会ノ会務ヲ総理シ、本会ヲ代表ス
 副会長ハ会長ヲ輔翼シ、会長事故アルトキハ之ヲ代理ス
 幹事長ハ会長ノ指揮ヲ承ケ、会務ノ統一ヲ図リ、会長・副会長事故アルトキハ之ヲ代理ス、幹事ハ会長ノ指揮ヲ承ケ会務ヲ分掌ス
 役員会ハ会長・副会長及幹事ヲ以テ組織ス
第十五条 本会ニ評議員若干名ヲ置ク
 評議員ハ会員又ハ慈善団体ノ代表者中ヨリ会長之ヲ嘱託ス、其任期
 - 第24巻 p.327 -ページ画像 
ハ三箇年トス
第十六条 評議員会ハ経費ノ予算・決算其他重要ナル事項ヲ議決ス
 評議員会ハ必要ニ応ジ会長之ヲ召集ス
 評議員会ノ議長ハ会長之ニ当リ、其議事ハ過半数ヲ以テ決ス、可否同数ナルトキハ議長ノ決スル所ニ依ル
第十七条 事務処弁ノ為メ必要ト認ムルトキハ、会長ハ評議員中ニ就キ適宜委員ヲ嘱託スル事ヲ得、委員ハ会長ノ委嘱ニ依リ役員会ノ議事ニ参与シ、議決ニ加ハルモノトス
第十八条 本会ニ書記若干名ヲ置キ、手当ヲ給スルコトヲ得
 書記ハ会長之ヲ任免ス
 書記ハ役員ノ指揮ヲ承ケ、庶務・会計ニ従事ス
第十九条 本会ノ資産ハ会費及寄附ノ金員・物件等ニヨリ成立ス
 金員ハ銀行預金ト為シ、又ハ公債証書ニ替ヘ之ヲ保管ス
 会計年度ハ毎年四月一日ニ始リ、翌年三月三十一日ヲ以テ終ル
第二十条 本会則変更ノ議決ハ、評議員会ニ於テ評議員半数以上出席シ且出席員三分ノ二以上ノ同意ヲ得ルニアラザレバ、之ヲ為スコトヲ得ズ
    附則
第二十一条 本会創立ノ際ニ於ケル評議員会ノ事務ハ発起人ニ於テ之ヲ行フ
 本会設立ニ関スル費用ハ評議員会ノ議決ヲ経、本会ノ資産ヲ以テ之ニ充ツルコトヲ得
    ○本会ノ役員
  会長  男爵 渋沢栄一   顧問  子爵 清浦奎吾
  幹事長    久米金弥
  幹事     井上友一  原胤昭     留岡幸助
         中川望   窪田静太郎   桑田熊蔵
         安達憲忠  清野長太郎
      評議員
  一木喜徳郎 ○外三十六名氏名略


竜門雑誌 第二五〇号・第二八―三三頁 明治四二年三月 ○開会の辞(青淵先生)(DK240042k-0006)
第24巻 p.327-331 ページ画像

竜門雑誌  第二五〇号・第二八―三三頁 明治四二年三月
    ○開会の辞 (青淵先生)
  本篇は青淵先生が明治四十一年十月七日、国学院大学に於て開会せられたる中央慈善協会の発会式に於て述べられたるものゝ筆記なり
閣下並に諸君、今日玆に中央慈善協会の発会式を挙行致すに就きまして、発起人より御案内を申上げて皆様の御参同を請ひ、多数の御来集を得て、此発会式の盛典を挙げ得られまするのは発起人一同の光栄此上もございませぬ。発起人の評議に依りまして、私は玆に総代として発会の辞を述べまする光栄を荷います。愚見を陳述する前に、先づ第一に閣下並に諸君の賁臨を辱ふしましたことを発起人一同に代つて感謝いたします
本会を設立いたしまする趣旨は、既に御手許へも差出してございます
 - 第24巻 p.328 -ページ画像 
る趣旨書に其要旨は記載してございまするで諸君は御了知下されたらんことゝ思ひまするけれども、斯る多数の御会同を期として尚更に趣意書に敷衍して、二・三不肖の考へて居りまする事を玆に陳述いたし試みたいと存じまする
元来一つの事柄を企てまして、其進行を図りまするには、当事者から考へますると、世間が十分同情を表さねば其事柄は完全に進み、穏健に拡張は仕兼るものでざいます。例へば玆に草木を植へる。この草木が自ら肥料を吸収して繁茂して参りまするけれども、尚ほ太陽とか雨露とかの助けに依つて倍々繁茂して行く如きものである。又言葉を換へて一例を申すならば、少しく理由は違ひますけれども、試みに演劇のことに就て譬へるならば劇道に当る者は看劇者に教へられるといふことを能く申します。故に慈善事業の如きも、社会に慈善事業の感念が強くなつて、其慈善事業の方法を十分に熟知され、其指導を受けるに於て初めて慈善事業が発達もし、完全の域に達するであらうと思ふのでございます。故に斯る事柄は其当事者自身が精神をこめ、久しうして屈せぬといふことは論を俟ちませぬけれども、唯単に其当事者の黽勉のみで其事業が十分に功を奏するといふものではない。即ち社会の太陽の光、社会の雨露の恩が其黽勉を大に増長せしむるのでなくてはいかぬと思ふのでございます。蓋し此中央慈善協会を設立するといふことも望むらくは此社会をして、慈善といふものは如何なるものであるか、慈善の性質はどう解釈して宜しいか、慈善の所作に就て一般に目もこへ耳も進みましたならば其事業も必ず進むであらうと思ひますので、中央慈善協会の将来は自らも進み社会も進むといふことに進路を取りたいと祈念いたすのでございます
第一に申上げて見たいのは此慈善といふ事業でございます。私は欧羅巴の学問に甚だ疎いので、之を英語に若くは独逸語に解釈して申すことは出来得ませぬけれども、漢籍で覚へて居りまする所では、孟子に「惻隠之心仁之端也」或は又「所以謂人皆有不忍人之心者今人乍見嬬子将入於井皆有怵愓惻隠之心」とある。総て物を愛するといふ至情からそこへ発動して捨て置けぬといふて、之を救済するは蓋し自然の至情であらうと思ふのであります。これは甚だ嘉すべきことである。即ち人の性は善なるものであるから、其善なるものが或困難の有様を見、或窮迫の事に遭遇すると、身を殺いてまでも之を救はねばならぬといふ感念を惹き起すのであつて、寔に美事と申してよい。又仏教の真理は存じませぬけれども、喜捨とか施与とかいふ事柄は私をして解釈せしむれば、詰り人の窮苦を憫み困厄を救ふといふ趣旨からして吾れに有る物をそこへ捨てゝ顧みぬ。其困厄を救ふ為めには之を与へて吝まぬ。尚ほ前申した惻隠の心と殆ど働は似たものではなからうか、又発動の機会も同じものゝやうに想像されるのでございます。で何れの説も最も喜ぶべきものである。去りながら其喜ぶべきもので嘉すべきではございまするけれども、唯単に「惻隠之心仁之端也」で或場合には努めて喜捨せよ、困難を見たら力めて施与せよといふ丈であつたならば、それは己れの心は慰むるであらうが、他の方面に働きかけた暁に如何なる結果を見るかといふことを、モウ一つ
 - 第24巻 p.329 -ページ画像 
考へて見たいのでございます。若しも惻隠の心が過ぎて喜捨施与に偏したならば、惰民を作るといふことにならぬとは申されぬのである。己れ自身の心に於ては誠に満足するのであるが、其結果は決して善事とも美事とも申せぬやうな有様になることは、世間往々其例を見ることである。果して然らば此慈善といふことに就ては、唯単に前に申す惻隠の心と喜捨の情ばかりで必ず世に益するといふまでに届くかといふことは、断言いたし兼るやうに思ふのでございます。
自己の心を慰むるに於ては甚だ宜しいけれども、世の公益を為すといふ点に至つては蓋し之は満足と申せぬやうに考へるのでございます。殊に此世の中が富も増し文明も進んで行けば、窮迫は先づ減じてよいといふ一通りの解釈は生じまするけれども、是は殆ど其一を論じて其二を究めぬ説に相成るのでございます。文明が進み富が増すほど貧富の懸隔が甚しくなるといふことは、洋の東西を問はず、時の古今を論ぜず、事実がそこへ証拠立てゝ居るやうに思はれます。現に此短かい期間我帝国の首府たる東京に於て一例を挙げて申しましても、証明されるのである。東京市の人口が百万乃至百二・三十万の時代、富の程度も今日よりは遥かに下級にあつた明治二十年頃の有様と、二百万以上の人口になつて、富の程度も数倍増したる今日と比べましたならば貧困の人の数が如何なる差を為して居るか、養育院へ行つて御覧なさると直ぐ分る。総計で五・六百人であつたのが今日は千六百余人の入院者がある。蓋し此養育院の千六百の入院者は皆養育院のみの力で救つて居るのではございませぬ。養育院の力で救ふのと、東京市から特に費用を出しまするのと、又東京府から費用を出すのと各種ございますが。其貧困者は一の養育院にして尚ほ三層倍になつて居る。左様に貧困者が殖へたが、東京は甚だ貧困に陥つたか、否東京は大変に富んで居る。富も増した。文明も進んだ。貧困者は多くなつたといふならば、即ち文明が進み富が増せば貧困者が殖へるといふことは、私の言葉が誣言でないことが分るかと思ふ。而して慈善の事に付て近頃追々に世の中に此美挙を唱ふる人が多くなりましたのは、我々多少其事に関係いたして居る者の最も喜ばしく感ずる所でありますけれども、併し少しく是は差障りの言葉に相成るか知れませぬが、前に申す通り唯惻隠の心とか或は喜捨施与といふ其一に依つて発動された丈の慈善の方法は、決して此組織的・経済的に働かれて居らぬといふことを、残念ながら申上げざるを得ぬのでございます。殊に慈善には随分口汚なく例を論ずるといろいろございます。斯る多数のお集りの席で申すは少しく憚ることでございまするけれども、悪くすると時々に見る事でございますから序でながら陳述いたしますが、思ひ付き慈善といふのがある。人にいはれてヒヨツと思ひ付いて慈善をする。これは悪いことはないが、チヤンと統一して統計を取られぬ。或る場合には沢山やつたり、或る場合には少しもやらなかつたり、又必要の者にやらずして不必要の者にやつたりする。之を思ひ付き慈善といふので、決して是は組織的・経済的慈善とは申せぬと私は思ひます。又名聞慈善といふのもあります。左まで親切に此困難を救はうといふほどの深い念を有たずにマア乃公の顔でたゞも置けまい。斯うしてやらうといふ、ソ
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ンナ慈善であれば、之を名聞慈善と称さねばならぬのでございます。慈善心の無いに比べては勝ることは万々である。然しながら前に申す組織的・経済的に此名聞慈善が働けるかといふと残念ながら否とお答する外ない。其他まだ慈善の悪例を挙げると種々ございますが、マアそれ等は皆略しましても、どうしても此慈善といふことをして真に有効ならしむるには、経済的慈善たらざるを得まいと思ふのでございます。で此中央慈善協会が、果して其真理を見開き其必要の事が履行せられるや否は今日期し兼ますけれども、中央慈善協会の発意は蓋し此慈善をして、如何にも道理正しく、組織的に、経済的に、進歩拡張して行きたいといふ考へでございます
今一ツ申上げたいことは、此慈善事業といふものは勿論仁愛の情慈悲の心から発動して実地に行ふに過ぎませぬからして、全く個人的のものに相違ない。去りながら既に組織的にと希望しますると、政治と相俟なければ十分なる効果は得られまいと思ひます。維新以後この慈善事業も追々進んで参りましたけれども、蓋し急を先にして緩を後にするは世の政務を処するの常である。如何に大政事家と雖も、先づ必要の事から先に料理してござるといふことがあるから、比較的此慈善の事柄などに付ては、政治上からは後廻しに相成つて居ると申さねばならぬと感ずるのであります。然るに既に必要を認められて感化法も布かれました。又此感化救済に付きましては此程来講習会も開かれて、今日来会の多数の方は其講習の為に御参集のお人々である所を以て見るも、即ち政治上此慈善を必要視して、慈善に就て追々に施設せられる所あるの気運に会したと申して宜い。斯る場合にこそ前に申す個人個人の発動の善心が、丁度この政治上の施設と相俟つて之を調和して行くことであつたならば、更に宜しきを見るであらふかと感ずる次第でございます。是此中央慈善協会の最も重要の時機なりと考へた所以でございます
要点は前に陳述いたしました二・三に止りますが、玆に此中央慈善協会の今日発会式を挙げるに至つた経過を簡単に申上げて此辞を終らうと存じますが、元来前に申上げましたる趣意からして、本会の如き機関をどうか成立いたしたいといふことは識者間に従来唱へられて居つたことでございます。偶々三十六年に大阪に於ける内国勧業博覧会の開設に際して、全国の慈善事業大会が開かれました。其会合は二日間であつて、其出席者中から我邦の慈善事業同盟会といふものを組織しやうといふ提案もあつたのでございます、大阪に於ける慈善事業に関係ある人々が、其席で委員撰任の事を委托されて委托を受けた大阪慈善団体から委員を上京させた、ところが其当時東京で救貧防貧事業等に関する制度を其筋で研究されて居つた、で同情を表する朝野の諸氏が東京及び此附近に於て慈善事業に従事する人と謀つて創立委員若干名を推薦して其創立に関する一切の事を委托しました、其委員諸氏は爾来数回評議をして、三十七年に愈々東京市に於て大会を開かうと考へつゝありまする時に恰も三十七・八年の大戦役が起つた。故に其発表を見合せて、唯戦時中に慈善研究会の名を以て戦時に於ける救済事業の統一等のことを発表し、其戦争の為めに影響を蒙る細民の状況を
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調査して、之を救済するといふ方法を劃する丈に致して居りました。爾来歳月を経て追々に時機の熟し来つたことを認めました為めに、殊に今回政府で感化救済事業の講習会を開催されて、此事業の経営者諸君が上京になつて長い間其方法に就ての講習を受けられる。頗る好い時機と考へまして、前に申す三十六年から経営いたし来つた事を玆に愈々発表いたして、此会を産み出すことにしたが宜しからうといふ事に一決いたした次第でございます。此会の要点は、既に趣意書が諸君のお手許に差出してございますから、定めて御一覧下されたであらうと考へます。而して夫れに附加へて、二・三言私の重要と感じまする愚見を陳述いたしました。而して今日に到りました経過は前来陳述いたした通りでございまするで、仰願くは最初に申上げました通り、此会をして大木たらしむる程に繁茂せしむるは、即ち此太陽の光雨露の恩でございます。一般に社会が此会を十分に必要視し、且つ之を誘導して下さらねば、決して此会が大に発達することは出来ぬのであります、未だ至つて幼弱でございますから、呉々も十分此の会の御哺育を満堂の諸君に懇願いたします(拍手)


社会事業 第一一巻第一二号・第九八頁 昭和三年三月 子爵渋沢栄一氏を中心とする座談会(DK240042k-0007)
第24巻 p.331 ページ画像

社会事業  第一一巻第一二号・第九八頁 昭和三年三月
  子爵渋沢栄一氏を中心とする座談会
      ――昭和三年二月二十三日午後三時より同六時まで社会局分室会議室に於て――
○上略
原 慈恵会や社会事業協会なんかの関係も
渋沢 私が社会事業協会に関係したのは、清浦さんが命令なさつたからお引受けしたまでゞすよ
○下略


財団法人中央社会事業協会三十年史 中央社会事業協会編 第一九―二〇頁 昭和一〇年一〇月刊(DK240042k-0008)
第24巻 p.331-332 ページ画像

財団法人中央社会事業協会三十年史 中央社会事業協会編
                        第一九―二〇頁 昭和一〇年一〇月刊
 ○第一部 第一章 協会の組織まで
    三 中央慈善協会の結成
 かくの如く戦役中は一時会の結成発表を見合せて居つたのであるが戦後約二年を経過した明治四十年四月に至り、創立委員たる久米金弥窪田静太郎・井上友一・清野長太郎・桑田熊蔵・安達憲忠・留岡幸助原胤昭等の諸氏は創立の事を、重望を負ふて平素斯界に拮据して居られた清浦子爵・渋沢男爵の両氏に謀り、屡々評議会を開いた末、広く斯業に理解ある朝野の名士に発起人たらんことを懇請し、同年十一月九日東京日本橋の銀行集会所に第一回の発起人会を開き、創立の手続き及順序等に就いて協議したが、時恰も内務省の主催を以て明治四十一年秋季を期し、東京に第一回感化救済事業講習会を開催する計画が熟して居つて、地方より有力なる斯業の従事者が上京する都合になつて居たので、官公私各方面の名流と事業家と一堂に相会し、賑かなる発会式を挙げることに決定し、終に明治四十一年十月七日に当時麹町区飯田町に在つた今の国学院大学の講堂に、鐸声高く鳴つて発会の典
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を行ひ得たのである。此の時の内務大臣は男爵平田東助氏であつたので、同大臣は勿論、文部大臣小松原英太郎氏・司法大臣岡部長職氏・逓信大臣後藤新平氏・内務次官一木喜徳郎氏等が出席して親しく演説を述べ、宮内大臣田中光顕氏からは特に書面を以て祝辞を寄せられたのは、洵に当日にふさわしい荘重の光景であつた。協会設立の趣旨と開会の挨拶は渋沢男爵が、閉会の辞は清浦子爵が述べられた。
 此の日発起人の決議として可決確定したのは左の諸件であつた。即ち
 会長に渋沢男爵を、顧問に清浦子爵を推戴すること。
 幹事には創立委員九名を嘱託し、幹事長には久米委員を推すこと。
 常務幹事には原胤昭氏を推すこと。
 評議員には一木喜徳郎氏外三十名を推すこと。
 年四回雑誌「慈善」を発行すること。
○下略



〔参考〕我国に於ける社会事業統制機関に就て 窪田静太郎述 第一八―二八頁 昭和三年三月刊(DK240042k-0009)
第24巻 p.332-337 ページ画像

我国に於ける社会事業統制機関に就て 窪田静太郎述
                          第一八―二八頁 昭和三年三月刊
    第一回全国慈善同盟大会
 そこで明治三十六年四月、大阪中島公会堂に全国慈善同盟大会を三日間開催し、大阪市長鶴原定吉氏・同商業会議所会頭土居通夫氏が開会の挨拶をなし、大会の議長には谷頭辰兄氏(当時大阪慈恵院長・大阪慈善新報主筆)が勤め、講師としては高島平三郎・寺田勇吉・原胤昭・矢野毅・五十嵐喜広の諸氏が勤められ、各地の団体代表者、其の他約二百余名が出席して斯る種類の会合の第一回としては予期以上の盛会を見た。而して此大会は別項の如き規定・会則を決議して、愈々全国慈善同盟会を創立することゝし、創立委員としては谷頭辰兄・小橋実之助・加島敏郎の三氏を選任した。依つて右三氏は打連れて上京して庚子会々員と会合し、その委任された全国慈善同盟設立に関する一切の事項を、庚子会々員に委託することゝなつた
 この委託を受けた会員は窪田静太郎・留岡幸助両氏の名を以て、明治三十六年六月八日午後神田区一ツ橋なる学士会館に有志家の会合を催し、且つ引続き明治三十八年中迄に数次の会合を催したが、当時の記録を抜萃して聊か参考に資せんとする
    中央慈善協会創立ニ関スル記事
      第一回ノ会合
 明治三十六年四月十一日及十二日大阪市ニ於テ開催セル全国慈善事業者大会ニ於テ、全国慈善同盟会設立ノ議ヲ決シ、会則十六箇条、別項参照ヲ定メ、創立ニ関スル百般ノ事務ハ委員十五名ヲ挙ケ之ニ附託スルコトトナリ、大会ノ主催タル大阪慈善団体ハ創立委員ノ選定其ノ他創立準備行為ヲ委託サレタルヲ以テ、其ノ団体中ヨリ谷頭辰兄・加島敏郎・小橋実之助ノ三氏ヲ委員トシテ出京セシメタリ。委員ハ東京ニ於ケル有志ノ人々ト協議シ、窪田静太郎・留岡幸助両氏ノ名義ヲ以テ、六月八日午後五時東京市神田区一ツ橋外学士会事務所ニ於テ有志者ノ集会ヲ催セリ
 - 第24巻 p.333 -ページ画像 
 此日出席者ハ
   何礼之氏     久米金弥氏   窪田静太郎氏
   原胤昭氏     高瀬真郷氏   土田弘敏氏
   伊東寿右衛門氏  松井茂氏    田中太郎氏
   池山栄吉氏    山本徳尚氏   谷頭辰兄氏
   加島敏郎氏    大久保好氏   小橋実之助氏
   留岡幸助氏    清野長太郎氏  相田良雄氏
 ノ十八名ニシテ、大阪委員谷頭辰兄氏大阪ニ於ケル全国慈善大会ノ状況ヲ報告シ、此ノ大会ニ於テ全国慈善同盟会設立ノ議ヲ決シ、其ノ創立ニ関スル事務ヲ大阪ノ慈善団体ニ委托セラレタリ、然ルニ大会ノ決議ニ依レハ、同盟会ノ本部ハ東京ニ置クコトトナルヲ以テ、創立委員ハ東京在住ノ人ヲ多ク選挙スルヲ至当ナリト認メ、其ノ協議ヲ遂ケ創立ノ事務ヲ委託センカ為、自分等三名ハ大阪慈善団体ノ総代トシテ出京セシモノナレハ、其ノ目的ヲ達セシメラレンコトヲ希望スト述ヘ、窪田静太郎氏ハ只今谷頭君ヨリ話サレタル通リ加島君先日来出京シテ心配セラルヽニ依リ、取敢ヘス経験アル方々ノ御会合ヲ請ヒタラハ如何ト存シ、留岡君ト私ノ名義ヲ以テ今夕御集会ヲ願ヒシト挨拶シタリ
 夫ヨリ協議ヲ始メタルニ
  一、此席ニ於テ慈善同盟会設立ノ必要ヲ認ムルヤ否ニ就テ、論議スルノ余地アルヤ
  二、大阪ニ於ケル大会ニテ議決シタル会則ハ動スヘカラサルモノナルヤ、又会ノ名称ハ改ムルヲ得サルヤ
  三、会則第四条ニ調査スルモノトスト在リ、同盟会ノ行動ハ調査ニ限ルヤ
  四、創立委員十五名ヲ挙ケ云々トアリ、其員数ハ十五名ニ限ルヤ
 等ノ質問出テ、其ノ第一項ニ対シテハ一箇人トシテハ其ノ必要ヲ認ムトノ説、本日出席者ノ大多数ヨリ唱ヘラレタルカ、大阪委員ハ右ノ質問ニ対シ左ノ如ク答ヘタリ
 慈善同盟会設立ノコトハ大会ニ於テ可決シタルモノナレハ、之ヲ設立スルコトトシテ協議アランコトヲ望ム、会ノ名称及会則等ニ就テハ十分ナル審議ヲ為スノ暇ナク、只設立ヲ可トシ、大体ノ規定ヲ為シタルノミニテ、固ヨリ目的ハ慈善事業ノ完全ナル発達ヲ期スルニアレハ、名称又ハ会則ニ於テ適当ナラス又ハ不完全ナリトスル点ハ創立委員ニ於テ適宜取捨変更スルモ毫モ差支ナク、又創立委員ハ十五名ト定メタルモ、都合ニ依リテ之ヲ増減スルモ敢テ大会議決ノ趣旨ニ悖ラス、云々ト答ヘ、且大会ノ節地方ニ地方委員ヲ置キ、以テ本部ト地方トノ聯絡ヲ保チタシトノ希望アリシト述ヘタリ
 右協議ノ結果ニ依リ
 日本慈善同盟会ヲ、中央慈善協会ト改称スルコト、及創立委員ハ大阪委員ノ推選ニ委スルコトト決シ、大阪委員ハ左ノ六名ヲ推選シ、他ハ該委員ニ一任スルコトトシ散会セリ
               創立委員 久米金弥氏
                    窪田静太郎氏
 - 第24巻 p.334 -ページ画像 
                    留岡幸助氏
                    原胤昭氏
                    土田弘敏氏
                    相田良雄氏
                以上
      日本慈善同盟会々則(大阪ニ於ケル全国慈善大会ニテ議決セルモノナリ)
 第一条 本会ハ日本慈善同盟会ト称ス
 第二条 本会ヲ東京ニ置キ各地ニ支会ヲ設クルコトヲ得
 第三条 本会ハ慈善事業ノ健全ナル発達ヲ図ルヲ以テ目的トス
 第四条 本会ハ目的遂行ノ方法トシテ、左ノ事項ヲ調査スルモノトス
   一、内外ニ於ケル慈善事業経営ノ方法及其ノ得失
   二、内外ニ於ケル慈善行為ノ状況及其得失
   三、慈善団体ト慈善家トノ間ニ聯絡ノ途ヲ開キ、其聯絡ヲ永続セシメ、双方ニ利便ヲ増進セシムル方法
   四、各支会ヨリノ報告
 第五条 本会ノ機関トシテ雑誌ヲ発行シ会員ニ頒布スルコトアルヘシ
 第六条 本会ハ毎年四月東京又ハ便宜ノ地ニ総会ヲ開キ、左ノ事項ヲ決行ス
   一、前年中ノ事務及会計報告
   二、議事及演説談話
 第七条 本会ハ慈善事業ニ篤志ノ者及慈善団体ヲ以テ組織ス
 第八条 会員ヲ分ケ左ノ二種トス
   一、名誉会員 慈善事業ニ経験アルカ若クハ徳望アル士女ヲ推薦ス
   二、正会員 慈善事業ニ志アル士女若クハ団体ノ代表者
 第九条 本会ニ正副会長各一名及幹事若干名ヲ置キ、会員中ヨリ之ヲ選挙ス
 第十条 会長及幹事ノ任期ヲ四箇年トス
 第十一条 会長ハ本会ヲ統理シ及総会ヲ招集シ議長タルモノトス
 第十二条 幹事ハ会長ノ旨ヲ受ケ事務ヲ分掌ス
 第十三条 本会ノ経費ハ、有志者ノ寄附金及会員ノ出金ヲ以テ之ニ充ツ
 第十四条 本会ニ必要ナル各種ノ規程等ハ幹事ニ於テ設置シ、会長ノ承認ヲ得テ施行スルコトヲ得
 第十五条 各地方ニ支会ヲ設ケントスルトキハ、会則ヲ定メ本会長ノ承認ヲ受クヘキモノトス
 第十六条 本会ニ入会シ若クハ退会セントスルトキハ、其ノ事由ヲ記シテ会長ニ届出ツヘシ
        附則
 本会創立ニ関スル百般ノ事務ハ、委員十五名ヲ挙ケ之ヲ附託スルモノトス
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      第二回ノ会合
○中略
      第三回ノ会合
 七月廿一日午後二時学士会事務所ニ於テ開会ス、出席者七名
   池山栄吉氏   原胤昭氏   久米金弥氏
   小河滋次郎氏  桑田熊蔵氏  窪田静太郎氏
   相田良雄氏
 大阪ニ於ケル大会ニテ議決シタル会則ニ就テ協議セリ、其ノ主要ノ点ハ左ノ如シ
  第二条 本会ヲ東京ニ置キ、各地ニ支会ヲ設ク
  第四条 本会ハ目的遂行ノ方法トシテ、左ノ事項ヲ行フモノトス
   一、内外国ニ於ケル慈善事業経営ノ方法及其得失調査
   二、内外国ニ於ケル慈善行為ノ状況及其得失調査
   三、慈善団体相互ノ聯絡ヲ図ルコト
   四、慈善団体ト慈善家トノ聯絡ヲ図リ、其聯絡ヲ永続セシメ、双方ノ利便ヲ増進セシムル方法
   五、慈善事業ヲ奨励シ、慈善事業ニ関スル行政ヲ翼賛スルコト
  第五条 本会ノ機関トシテ雑誌ヲ発行シ会員ニ頒布スヘシ
  第八条 会員ヲ分テ名誉会員・特別会員・正会員ノ三種トス
  第九条 本会ニ正副会長・常務委員長各一人、及評議員・常務委員若干名ヲ置ク
 等ニシテ、団体ノ会員ニ付スヘキ名称、及会員ノ納付スヘキ会費ノ額等ニ就キ協議シタルモ、未タ決セス、次会ニハ毎月機関雑誌ヲ発行スル見込ヲ以テ、収支予算ヲ調製スルコトトシタリ
 何礼之氏ヨリ会ニ関スル注意書ヲ寄贈セラレタリ
 久米金弥氏ハ、英国ニ於ケル中央慈善協会要領ヲ抄訳シ寄贈セラレタリ
      第四回ノ会合
○中略
      第五回ノ会合
 明治三十七年二月十二日(金曜日)ノ午後五時、神田一橋外学士会事務所ニ於テ開会ス
  出席者
   久米金弥氏  窪田静太郎氏  桑田熊蔵氏
   安達憲忠氏  原胤昭氏    池山栄吉氏
   加島敏郎氏  相田良雄氏
(中略)
 一、中央慈善協会ノ発表ハ、時局ノ発展ニ伴ヒ当分時機ヲ待ツコト
 一、右発表ノ時期ニ至ルマテハ慈善研究会トシテ慈善協会設立ニ関スル事務ヲ取扱ヒ、特ニ戦時慈善ニ関スル事項ヲ研究スルコト
 一、市内応召者家族ノ中救助ヲ要スヘキ人員ヲ調査スルコト
 一、癈兵院及愛国婦人会ノ事ニ関シテ佐藤少将ニ談話ヲ乞フコト
 一、松井・清野・水野・有松・有吉ノ五氏ニ出席ヲ求ムルコト
      第六回ノ会合
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○中略
      第七回ノ会合
五月十七日(火曜日)例刻学士会事務所ニ於テ開会ス
  出席者九名
          清野長太郎氏   井上友一氏
          留岡幸助氏    安達憲忠氏
          久米金弥氏    原胤昭氏
          池山栄吉氏    窪田静太郎氏
          相田良雄氏
 外ニ  川崎卓吉氏出席ス
 一、清野氏東京府下及近府県ニ於ケル軍人家族救護ノ状態ニ就キ、其ノ重複・遺漏・欠欠アルコトヲ比較証明シ、其ノ統一ヲ図ルヘキコトヲ論ス
 一、留岡氏時局ニ於ケル慈善団体統一ニ関シ東京府知事・東京市長其ノ他ニ就キ意見ヲ叩キ、交渉ヲ試ミタル顛末ヲ語ル
 一、原氏細民生活状態ニ関スル調査ヲ報告ス
 一、決議事項
  先ツ戦時慈善事業統一ニ関スル意見ヲ新聞紙ニ登載シ、世論ノ趨向ヲ見テ着手スルコト
  意見書ハ清野・留岡両氏ニ起草ヲ託スルコト
 一、久米氏ハ井上伯爵ニ慈善事業統一ニ関スル意見ヲ述ベ、且伯ノ意見ヲ聞クコトヲ担当セラル
 一、清野・留岡両氏ニ於テ担当セラレタル戦時慈善事業統一ニ関スル意見書左ノ如シ
      軍人家族救護団体統一ノ急務
  日露戦ヲ開キテ以来、挙国奉公ノ精神鬱勃トシテ表ハレ、出征軍人ノ家族ヲ慰撫救護シ以テ国民後援ノ実ヲ全フセンコトヲ期ス、小ニシテハ隣佑相扶ノ誼トナリ、市区町村兵事議会ノ設立トナリ、大ニシテハ軍人家族援護会ノ創始トナリ、愛国婦人会・軍人遺族救護義会ノ拡張ト為リ、慰撫救護ノ途、整備周到毫モ出征軍人ヲシテ後顧ノ憂アラシムルモノナキカ如シ、然レトモ熟ラ其実際ニ就テ之ヲ稽フルニ、市区町村ノ救護規約ハ区々ニシテ或ハ絶対ノ本籍主義ニ依ルモノアリ、或ハ現住主義ニ則ルモノアリ、而シテ愛国婦人会其他ノ救護団体ニ至リテモ亦各其ノ主持スル所アルヲ以テ、随テ一方ニ重複ノ給与ヲ受クル者アルト共ニ、他方ニハ斉シク櫛風沐雨戦地ニ奮戦セル軍人ノ父母妻子ニシテ一モ救助ヲ得ルノ途ナク、生活ニ苦シメルモノ亦少シト為サス、遠ク例証ヲ求メサルモ、近ク東京市内ニ於テ、亦各区独立シテ互ニ相聯絡スルノ途ヲ講セサルカ為、現ニ此実例ヲ見ルニ至レリ、其弊ヤ重複ニ救助ヲ受クルモノハ却テ為ニ懶惰ニ流レ、独立自営ノ元気ヲ銷磨シ、国家将来ノ為頗ル寒心ノ至ニ禁ヘサラシムルモノアリ、而シテ其救助ヲ得サル者ニ至リテハ縦令食ヲ乞フテ道路ニ徘徊スルニ至ラサルモ、困窮逼迫名状スヘカラサルノ惨状ヲ呈スルモノアルカ如キ、是豈等閑ニ看過スヘキノ事ナランヤ、謂フニ叙上ノ弊害ト欠点トヲ匡正シ以テ完全ニ救助ノ目
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的ヲ達セントセハ、之ニ対スル統一機関ヲ設ケ、以テ各箇団体ノ連絡ヲ通シ之カ調和ヲ図ルハ策ノ最モ得タルモノナルヘシ、然ルニ世間各種ノ戦時救護団体カ意ヲ受救者ノ状態如何ニ注カス、漫ニ救助ヲ行ヒ、甚シキハ甲乙相競フノ極、竟ニ済フヘカラサルノ弊害ヲ醸成スルニ至リ、或ハ区々一小利害ノ為ニ各自其主張ヲ更メサルモノアルカ如キ、吾人ノ以テ甚遺憾トスル所、此他救護団体統一ノ必要ナル理由ニ至テハ一々枚挙スルニ遑アラス、是レ吾人カ特ニ救護事業統一整善ノ挙ヲ以テ、時局ニ処シ最急ノ要務タルヲ唱フル所以ナリ、聞クカ如クンハ政府ニ於テモ深ク救護団体ノ統一調和ノ必要ヲ認メ屡次訓示セラレタル所アリト云フ、希クハ識者玆ニ察スル所アリ、以テ此種救護団体ノ連絡ヲ完成セラレンコトヲ
 ○下略



〔参考〕青淵先生公私履歴台帳(DK240042k-0010)
第24巻 p.337 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳
    民間略歴(明治二十五年以後)
一、中央慈善協会会長 同 ○明治四一年九月  大正十三年組織変更