デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
2節 感化事業
1款 東京感化院慈善会
■綱文

第24巻 p.338-342(DK240043k) ページ画像

明治22年5月(1889年)

是月、東京感化院後援ノ目的ヲ以テ東京感化院慈善会組織サル。栄一其会計監督ニ就任シ、同三十七年十月辞ス。


■資料

東京日日新聞 第五二六二号・広告 明治二二年五月一六日 ○感化院慈善会義捐家人名(DK240043k-0001)
第24巻 p.338 ページ画像

東京日日新聞  第五二六二号・広告 明治二二年五月一六日
   ○感化院慈善会義捐家人名
     ○一時義捐の部
          一金弐百円       大谷光勝君
          一金百円        名村泰蔵君
          一金百円        三野村利助君
          一金百円        吉川泰二郎君
          一金百円        近藤廉平君
          一金百円        渋沢栄一君
          一金百円        川崎八右衛門君
          一金百円        大倉喜八郎君
          一金百円        森岡昌純君
○下略


執事日記 明治二二年(DK240043k-0002)
第24巻 p.338 ページ画像

執事日記  明治二二年        (渋沢子爵家所蔵)
五月二十七日 晴
  一金百円也
 右ハ感化院寄付トシテ、本日院長高瀬真卿氏ヘ相渡候事
○下略


東京日日新聞 第五三九八号 明治二二年一〇月二四日 ○東京感化院慈善会(DK240043k-0003)
第24巻 p.338-339 ページ画像

東京日日新聞  第五三九八号 明治二二年一〇月二四日
○東京感化院慈善会  東京感化院慈善会ハ、一昨廿二日午後二時より駒込吉祥寺に於て創立第一年の総会を開きたり、院長ハ先づ来会者を誘ふて今度新築せる学校・工場・視察所・家族室・運動場等を一覧せしめ、夫より吉祥寺に赴き四時開会し、高瀬真卿氏ハ感化事業の成績、感化院の出納決算、本年五月以来の慈善会の景況、新築工事の模様、並に慈善会の出納決算を報告し、畢つて慈善会委員渡辺洪基氏ハ起て選挙会を開く旨を述べ、直に選挙を行ひたるに左の通り選挙せられ、午後五時散会せしよし
 会長渡辺洪基○幹事小野田元煕 同木下広次 同古宇田義鼎 同高瀬真卿○会計監督渋沢栄一同石沢謹吾○会計委員関長膺○協議員大倉喜八郎 同川崎八右衛門 同安田善次郎 同今村清之助 同岡山兼吉 同山中隣之介 同茂木惣兵衛 同守田治兵衛 同渡辺治右
 - 第24巻 p.339 -ページ画像 
衛門 同田村利七


青淵先生公私履歴台帳(DK240043k-0004)
第24巻 p.339 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳        (渋沢子爵家所蔵)
 ○民間略歴(明治二十五年以後)
    慈善其他公益ニ関スル社団及財団
一東京感化院会計監督  卅七年十月辞
   ○東京感化院慈善会会計監督ノ誤ナラン。



〔参考〕弘道会雑誌 初編第三冊・第一五―一六頁 明治二一年四月 高瀬真卿氏の道徳事業(DK240043k-0005)
第24巻 p.339 ページ画像

弘道会雑誌  初編第三冊・第一五―一六頁 明治二一年四月
 ○高瀬真卿氏の道徳事業 道徳家の事業は一にして足らずと雖、世の不良の徒を感化して善良の国民と為すハ、最も道徳家の思念すべき所なり、然れども斯の如き事業に従ふて能く常あるものハ世に甚稀なり、東京感化院長高瀬真卿氏の如きハ実に其人と云ふべし、氏ハ明治十七年東京湯島両門町に私立感化院を設けてより、辛苦勉励数年一日の如く頗る其実効を奏せられたるものなれば、氏が同院につきて施されたる事業は誠に本会員の知らざる可からざることなり、抑氏は当時感化院を創立するの意もなかりしが、十七年の頃警視庁の監獄より依頼を受けて囚徒の教誨を担任せられたるに、其後放免となりたる幼年囚の往々氏の宅に尋ね来りしに、其内には家もなく親戚もなき者ありて、手離すときハ直に悪事をもせんようのものあれは、其二・三人ハ自宅に留置きて教育を試みたりしが、其後追々と同様の子弟増加し、中には相当の人より教育の善からぬ為め不良の子弟と為りたる者をも依頼せられ、十七年の冬にハ其数七・八名となりたり、時に氏が近隣の人々は氏が斯く不良の少年を寄宿せしむるを気支へて故障など云ふものありたれば、今の両門町の称仰寺を借り受け、始めて私立感化院といふ門標を掲げ、竹内樸卿氏と共に此の事業に従事したりしに、十八年の一日より神宮教院より毎月百円余の助成を受くるに至りたれば生徒の数は増して三十余となりたれども未だ資金饒からず、僅に谷干城・佐々木高行両氏の義捐によりて必要の資を支へたりしが、幾ならずして教院の助成金を受くる能ハざるに至り、殆ど廃絶を待つの外なきに至りたりしかば、氏は家族の衣類抔典して生徒が米塩の費に充てたれど、当時毎月の経費は百七十余円なるに其収入金は八十余円に過ぎずして、其余ハ悉く高瀬氏が補充したるよし、其困難の情察するに足るべし、されど暫にして漸く慈善家の寄附も多きを加へ、遂に今の東京感化院を成すに至りたりとぞ、次に氏が感化法の一斑を聞くに、道徳学・攻業・普通教育の三部より成り、毎月三聖殿の祭典を行ふ、三聖殿は孔子・釈尊・索剌底にして、同院の道徳学ハ此三聖人の遺教を守るものゝ由、其他氏が平生此の悪少年を感化するの困難なども聞き得たれど今玆に之を略しぬ、会員の人々能く其辛苦を推し給ふべし



〔参考〕東京日日新聞 第八〇八八号 明治三一年九月二七日 東京感化院(DK240043k-0006)
第24巻 p.339-340 ページ画像

東京日日新聞  第八〇八八号 明治三一年九月二七日
    東京感化院
同院は欧米各国に行はるゝ感化院の制度を参照し、我風俗習慣に基きて、素行の修らざる少年子弟等を預り、之れに教育を加へて善良の国
 - 第24巻 p.340 -ページ画像 
民たらしむる目的にして、社会の風教を維持し併せて犯罪を未然に防制する点に於ては必ずや欠く可らざる事業なるが、去る十八年十月創業以来会頭土方伯爵・副会頭黒田子爵を始め、会計監督渋沢栄一・幹事高瀬真卿の諸氏が非常に尽力せし結果として、本年七月の調査に依れば、最初よりの入院生総計三百四十三名に対し、現在生六十八名を引去り改良退院生二百七十三名の多きに達せり、右の中には今日已に官吏たるもあり、会社副支配人たるもあり、新聞記者たるあり、銀行員たるあり、前途益々多望なれば此際江湖慈善の諸紳士に向つて寄附金を募集し一層事業を拡張する見込なりと、因に記す、同社創業以来の寄附金は総計一万六千九百円と、宮内省御下賜金二千四百円なるが右金員中にて現今の如く豊多摩郡渋谷村御料地内に金一万一千円余を以て同院新築を為したるものなりと云ふ



〔参考〕感化事業回顧三十年 社会局編 第八―九頁 昭和五年三月刊(DK240043k-0007)
第24巻 p.340-341 ページ画像

感化事業回顧三十年 社会局編  第八―九頁 昭和五年三月刊
 ○第一章 感化事業の沿革
    一、感化法制定以前に於ける感化事業
○上略
 高瀬真卿氏が東京感化院を創立した当時の事情は、彼が明治二十二年感化慈善会に於ける演説の筆記によつて詳かである。同院は明治十八年十月七日の創立で、其の初めは市ケ谷の懲治監を御免になつた松岡藤太郎なる少年が、身を託する所がなくて高瀬氏の家に頼つたのに基く。高瀬氏は全くこの少年の身の振方には困惑し、已むを得ず自宅に引き取つたが、間もなく近辺の者が又一人始末に困る不良少年の預り方を頼んで来た。そこで高瀬氏は彼の組織してゐる心学会の会員に助力を請ひ、又友人等の寄附を仰いで其の資金を得、湯島両門町の称仰院なる古寺に「私立予備感化院」と言ふ表札を出して、新聞の雑報へも記事を書いて貰ひ、始めて公に感化院生を募ることになつた。かくて忽ち十四人の院生が集つた。当月の出納日記を見るに支出、家賃七円・賄料四十三円、雑費と合せて総計五十六円の会計であつたと見えてゐる。
 私立予備感化院はかくして創められ、同年中には二十五名を収容する有様であつた。而して翌十九年一月よりは神宮教院の助成金を得て神宮教院感化院と称し、同年十月初めて東京感化院と改称した。明治二十年三月一日に東京帝国大学講堂に於て仏国法学博士アツヘール氏は感化事業に関して講演を為したこと、或は翌年二月青山英和学校教授神学博士マクレー氏も亦同院の為に講演したこと等は、大いに斯業の研究を刺戟し、東京感化院は漸く世人の注目する所となつた。明治二十一年四月発行の「弘道会雑誌」初編第三冊の雑報に「高瀬真卿氏の道徳事業」と題して之を世に推賞し、次で同誌第九冊に同院の成績を報道してゐるなどその一例である。斯くて明治二十二年五月には東京感化院慈善会なるものが組織せられ、入会義捐金を募り、其の資金により同月本郷駒込曙町に家族室・工業所・教授所を新築して、同七月之に移転するの隆盛を見るに至つた。二十三年六月には宮内省より御下賜金の恩命を蒙り、同七月には皇后陛下よりの御下賜金の御沙汰
 - 第24巻 p.341 -ページ画像 
を受け、更に明治二十六年三月南豊島御料地内渋谷羽沢に於て、七千百八十二坪の地を東京感化院敷地として向四十ケ年無料拝借の恩命を拝し、同年九月より新築工事を起し十一月に至り家族寮二棟・学寮一棟等の工事を竣へ、同三十日こゝに移転することゝなつた。以後東京感化院慈善会の会長には名士相次いて之に当り、大いに感化院後援の実を挙げ、高瀬真卿及其子高瀬紹卿両氏相継いで院長の職に在つた。
○下略



〔参考〕財団法人錦華学院要覧 第一二―一五頁 昭和九年三月刊(DK240043k-0008)
第24巻 p.341-342 ページ画像

財団法人錦華学院要覧  第一二―一五頁 昭和九年三月刊
    ○沿革
本院創立ノ動機 本院創立者高瀬真卿氏ガ、明治十二年頃丸山作楽氏坂部寔氏等感化院ヲ設立セン事ヲ聞キ、又同十四年頃時ノ内務卿山田伯ガ感化院ヲ設立セン事ヲ太政大臣ニ建議セラレシ由ヲモ聞キ、果シテ斯業ノ国家ニ如何ナル関係アルヤ又社会的ニ何程ノ必要アルヤヲ研究セントシテ、同十五年仙台方面ヨリ東京ニ居ヲ移シ、同十七年ノ春ヨリ時ノ監獄局長石井邦猷君ニ屡々面会シ初テ欧米ノ監獄ノ事情ヲ聞キ、罪囚ヲ減少セシムルノ道ヲ講スルハ国家ノ急務ニシテ、其方法トシテ(一)出獄人ヲ保護シテ再犯ヲ防制スル事(二)不良少年ヲ矯正シテ犯罪ヲ予防スルノ二途ニ如カス、殊ニ不良少年ヲ感化スルハ今日ニ於テ最モ急務ナリト思ヒ、先以テ感化修身談三巻ヲ上刻シ、次テ感化啓蒙二巻ヲ刊行ス、同十七年五月鍛治橋監獄ニ時ノ副典獄朝倉氏ニ会シ、後教悔《(誨)》ヲ委嘱セラレ講筵ヲ開ク、次テ東京集治監・市ケ谷監獄石川島監獄等ノ教悔ヲモ委嘱セラレ大ニ囚人ノ教悔ニ勤ム、後感化教会ヲ起シ、府下各地ニ於テ道話会ヲ催ス、其発会式ニハ時ノ石井内務大書記官・小原内務権大書記官・谷干城将軍・中村弘毅元老院議官・城田薫元老院書記官等ノ参会アリテ、此ノ事業ハ二ケ年継続後弘道会ト併合ス、同十七年十一月感化心学会ヲ起シ、漸時其発展ヲ見ルト共ニ少年犯罪者ノ年毎ニ多キヲ加フルヲ思フ時、是カ匡救策ヲ講セント欲シ、心学会ノ同志ト謀リ之ヲ未然ニ防制セント其対策ヲ研究中、恰モ市ケ谷監獄ニ在リシ少年囚ノ来リテ衣食ヲ求ムルニ当リ、之ヲ自宅ニ収容シ、続テ二人三人、遂ニ通学者モ七・八人トナル、玆ニ於テ意ヲ決シ本院ヲ創立スルニ至ル
創立ハ明治十八年十月七日ニシテ、其始メノ仏国「メツトライ」ノ殖民感化院ノ組織及ヒ其法則ヲ参酌シテ、本郷区湯島称仰院内ニ私立予備感化院ト称シ、先ツ請願懲治ノ少年ヲ市ケ谷監獄ヨリ引取リ之カ教育ニ従事スルニ至ル、之レ実ニ我国ニ於ケル斯業ノ淵源トス
明治十九年一月ヨリ神宮教院ノ補助ヲ受クルニ及ヒ、神宮教院感化院ト称セシモ、其補助金ハ同年十月限廃止セラレタルヲ以テ玆ニ東京感化院ト改称シ、高瀬真卿独力之ヲ経営ス、明治廿二年五月本郷駒込曙町ニ地ヲ卜シ、生徒寮・工業所・教授所等ヲ新築シ、同年七月落成移転ス
明治廿三年五月本院後援《(二年)》ノ目的ヲ以テ慈善会ヲ興シ、資金ヲ勧募シテ事業ノ拡張ヲ計ル、慈善会ハ初メ時ノ帝国大学総長渡辺洪基君会長トナリ、法学博士木下広次君・古宇田義弼君・小野田元煕君幹事トナリ
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会計監督ニ渋沢栄一君・石沢謹吾君ヲ推薦シ、尚ホ協議員トシテ大倉喜八郎君・川崎八右衛門君・安田善次郎君・今村清之助君・岡山兼吉君・山中隣之助君・茂木惣兵衛君・田村利七君・渡辺治右衛門君ヲ推薦シ会務拡張ニ務メタリ、然ルニ同年七月渡辺洪基君全権公使トシテ海外ニ赴任セラレシヲ以テ、更ニ伯爵香川敬三君ヲ会長トシ、次テ同廿五年七月子爵川田景興君ヲ会長トシ、後同三十一年二月土方久元伯ヲ会頭ニ、子爵黒田清綱君ヲ副会頭ニ就任セラレ、爾来伯爵東久世通禧君・公爵二条基弘君其他知名ノ評議員等ノ後援ヲ得テ、斯業ノ発展ヲ計リタリ、而シテ大正十年ヨリ現在ニ至ル迄慈善会ハ中止ノ状況ナリ ○下略