デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
2節 感化事業
2款 東京市養育院感化部井之頭学校
■綱文

第24巻 p.343-382(DK240044k) ページ画像

明治33年7月22日(1900年)

是ヨリ先明治三十年一月、英照皇太后崩御ニ際シ東京市養育院ヘノ御下賜金ヲ基金トシ、同年十月院内ニ感化部ヲ設置スルニ決ス。翌三十一年二月、三好退蔵ヲ顧問ニ嘱託ス。同三十三年二月、感化部ノ建築竣工シ、是日、開始式ヲ行フ。栄一、之ニ出席シテ一場ノ演説ヲ為ス。


■資料

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述 第二〇―二三頁 大正一一年一一月刊(DK240044k-0001)
第24巻 p.343 ページ画像

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述  第二〇―二三頁 大正一一年一一月刊
    十 感化事業の開始
 明治二十六七年から八九年の頃、即ち日清戦役の前後に掛けて、東京市内に浮浪少年が沢山に出来た、之れが又た少なからず本院へ収容されるやうになつて来た、而して此種の少年が入院して従来の収容者たる通常の孤児と接触するの結果、善良なるものも間々悪化の傾を生ずるの事実を認めた、余は此現象を見て当時の職員等と共に一方ならず心配し、何とかして此浮浪少年若しくは不良少年の感化教育を行ひたいものと考へた、其れに就ては第一に資金が要る、夫れで何か好い機会に資金を集めたいものと心掛けて居ると、畏れ多い事ながら、明治三十年の一月に 英照皇太后が崩御になり、其れが為め全国各府県に慈恵救済資金の御下賜があり、東京府も亦た其恩典に浴した、因りて本院は同年五月二十日市参事会に対して右御下賜金中東京市に属すべき分を、本院感化部設置の為め養育院基本財産として特に府より交付せらるゝやう取計らはれたき旨と、同時に院内に感化部設置の事を承認ありたき旨とを具申した、然かるに幸にして其目的は成功して、同年七月二十八日知事より右恩賜の慈恵救済資金中市部に属すべき配当額一万六千九百八十五円は養育院基本財産として管理することを許るされ、次で同年十月二十五日市会に於て本院感化部設置の議が可決された、之れで本院に感化教育の設備を行ふことの端緒は得たが、未だ資金が不足であつたから更に感化部の為めの寄附金募集を為して、幸に七万有余円の義捐を得たので、明治三十二年中に本院内に感化部建物増築の工事に着手し、翌三十三年二月竣工して其年七月より感化事業を開始することゝなつた、之れが本院感化部の濫觴である ○下略


渋沢栄一 日記 明治三二年(DK240044k-0002)
第24巻 p.343 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十二日 晴
○上略 午後一時深川区ニ於テ区会ヲ開ク、且此会合ノ序ヲ以テ養育院感化部寄附金ノ事ヲ区会議員ニ委托ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK240044k-0003)
第24巻 p.343-344 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
三月十七日 曇
 - 第24巻 p.344 -ページ画像 
○上略 十時養育院ニ抵リ委員会ヲ開ク、三好退蔵・浦田・長谷川ノ諸氏来会ス ○下略
   ○中略。
六月六日 曇
○上略 午後東京市役所ニ抵リ、市長及浦田氏ニ養育院ノ事並感化部ノ事ヲ談話ス、利光・中島ノ諸氏傍ニ在テ之ヲ賛助ス ○下略
   ○中略。
七月二十二日 曇
午前八時養育院ニ抵ル、感化部開始ノ式ヲ挙ク、府知事千家尊福・市長松田秀雄祝詞ヲ朗読ス、畢テ慈善ニ関スル一場ノ演説ヲ為シ、并テ養育院及感化部ノ今日ニ至レル沿革ヲ叙ス、三好退蔵・清浦奎吾・土方久元氏ノ演説アリ、午後会畢テ ○下略
   ○中略。
八月二十三日 晴
午前八時大塚養育院ニ抵ル、感化部体育ノ事及学校新築ノ事ニ関シテ三好退蔵氏・安達憲忠・山本徳尚氏等ト協議ス ○下略
   ○中略。
九月三十日 曇
午前萩原源太郎氏・戸波留郎氏・大原春次郎氏等来話ス、戸波氏ハ養育院感化部ヨリ軍事体操ノ事ヲ托スルニ関シテ来話スルモノナリ ○下略


青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第五五九―五六二頁 明治三三年六月再版刊(DK240044k-0004)
第24巻 p.344-345 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第五五九―五六二頁 明治三三年六月再版刊
    第五十六章 東京市養育院
○上略
明治三十年一月英照皇太后崩御ニ付大赦アリ、又帝室ヨリ金四拾万円ヲ府県ニ下賜シ慈恵救済ノ資ニ充ツ、内東京府ノ配当弐万五千円ニシテ、此ノ内東京市ノ分壱万六千九百八拾五円ハ養育院ニ下付アリ、先生之ヲ原資トシ養育院ニ感化部ヲ興シ不良ノ少年ヲ感化セント欲ス、偶々前大審院長三好退蔵、多年我邦感化事業ノ欠タルヲ慨シ感化学校ヲ起サント欲ス、来ツテ先生ニ計ル、先生即チ三好ト協議シ、一私人ノ事業ハ興廃多キヲ以テ共ニ力ヲ合ハセ養育院ノ感化部ヲ成立スルニ決シ、三好ヲ推シテ顧問トシ、御下付金ノ外ニ建築費壱万三千弐百五拾円・原資参万九千余円ハ広ク世上ノ慈善家ヨリ募集スルノ計画ヲ定メ、先生自ラ三千円ヲ寄付ス、又三十一年三月九日諸新聞記者ヲ帝国ホテルニ招キ、先生・三好及東京府知事岡部長職主人トナリ、感化部設置ノ必要及資金募集ノ方法ヲ演説ス、同年三月十二日ノ東京日日新聞ハ感化部ニ就テ左ノ如ク論セリ
      感化部ノ設置
 文明ノ社会ヲ益スルヤ甚大ナルモノアリ、彼レヤ人類ノ智識ヲ進歩セシメ、人類ノ富資ヲ増殖セシメ、凡ソ事ノ有形ニ属スルト無形ニ属スルトヲ問ハス、未開時代ニ於テハ人類ノ享有スル能ハサルノミナラス、夢想タモ及ハサリシ利益幸福ヲ感受セシム、社会ノ彼レニ謝スヘキノ恩沢ヤ決シテ浅カラサルナリ、然リト雖モ利ノ存スル所ハ弊ノ伏スル所ナリ、福ノ在ル所禍亦之ニ伴フヲ免レサルナリ、是
 - 第24巻 p.345 -ページ画像 
レ自然ノ理勢ニシテ、彼レ文明ナルモノ亦独リ此ノ理勢ノ軌道ヲ逸スル能ハサルナリ、彼レハ人類ノ智識ヲ進歩セシメ其富資ヲ増殖セシムルヲ得ルト同時ニ、自他ノ競争ヲ盛ナラシメ、其余勢ノ趨ル所智ハ益々智、愚ハ益々愚、富ハ益々富、貧ハ益々貧、智愚貧富ノ懸隔漸ク生シテ漸ク大、是ニ於テ乎同盟罷工生シ、浮浪乞丐生シ、兇児悪漢生シ、社会ノ一部ハ光明ノ天地タルニ反シ、其一部ハ暗黒ノ世界タラントス、是レ洋ノ東西ニ通スル古今ノ趨勢ニシテ、社会問題之カ為メニ起リ、慈善事業之カ為ニ起リ、感化事業亦之カ為ニ起ル、抑々本邦ノ社会タル文明ノ程度未タ欧米ノ社会ニ比肩スル能ハサルモノアリ、随テ其利福ニ浴スル彼レカ如ク渥カラサルモノアルト共ニ、其弊害ニ侵サルヽ亦彼レカ如ク深カラサルモノアリ、而モ其利害ノ影響ハ斉シク免ルヽ能ハスシテ、近時漸ク社会問題又ハ慈善感化事業等ノ声高キヲ加フルハ、蓋シ其反響タラスンハアラサルナリ、サレハ此等ノ問題相踵テ起ルハ決シテ悦フヘキノ現象ニアラスト雖モ、然モ是レ亦社会進歩ノ一徴証ナリトセハ、必スシモ不祥ノ事ニアラサルナリ、苟モ志ヲ救世済民ニ抱クモノ唯々当ニ之カ解釈ヲ施シ、以テ進歩文明ニ伴フノ弊害ヲ防制減殺センコトヲ力ムヘキノミ、是時ニ当テ我東京市民ハ渋沢栄一氏等ノ率先ニ依リ、従来ノ養育院ノ事業ヲ拡張シテ新ニ感化部ナルモノヲ設ケントス、吾曹焉ソ其志ヲ嘉ミシ其挙ヲ賛セサルヲ得ンヤ
 顧フニ我東京市養育院ハ、其起縁博愛慈善ノ意ニ出テタルニアラサルカ如シ、而モ其沿革及ヒ事蹟ハ博愛慈善ノ旨ニ合シテ、且ツ其効果ヲ収メタルモノ亦少シト謂フヘカラス、但其事業ノ範囲ハ孤弱ヲ救恤スルニ専ラニシテ、不良ノ年少ヲ感化スルニ及ハサリシハ、吾曹ノ夙ニ遺憾トスル所ナリ、抑々不良ノ徒ノ害ヲ社会ニ及ホスハ今更ニ言フヲ待タサル所ニシテ、社会民人ノ之カ為ニ損失ヲ蒙ムルノミナラス、警察ヲ煩ハシ監獄ヲ煩ハシ、延テ以テ累ヲ国家ニ及ホスニ至ル、故ニ慈善感化ノ事タル、人道ヲ外ニシテモ国家社会ノ利害上亦之ヲ施サヽルヘカラサルナリ、而シテ不良ノ徒ノ年少者タルニ於テ特ニ其害ノ甚シキヲ見ル、蓋シ年少ヨリシテ悪ニ陥リタルモノハ之ヲ救済スルコト頗ル難キヲ以テナリ、乃チ社会ノ害悪ヲ除カント欲スル、須ラク先ツ年少者ノ感化ヲ先キニスルヲ要ス、曩ニ前大審院長三好退蔵氏ノ其職ヲ抛テ感化学校ノ設立ヲ計ルニ際シ、吾曹ノ之ヲ賛シタル亦実ニ此ノ意ニ出テタルニ外ナラサルナリ、故ニ我東京市ノ今ヤ斯事業ヲ企ツルヲ聞クニ及テ、吾曹ハ先ツ其意ヲ得タルヲ称スルト同時ニ、全国各地亦此ノ挙アラン事ヲ望ムモノナリ、嗚呼人生誰カ好テ悪ニ赴クモノアランヤ、貧ノ為ニアラスンハ則チ愚ノ故ノミ、之ヲ感北シ誘導シテ以テ善ニ遷ラシメ、以テ聖代ノ良民タラシメ又人世ノ利福ヲ享ケシムル、豈社会公共ノ義務ニアラストセンヤ、況ヤ由テ以テ国家ノ損害ヲ除キ、其品位ヲ高ウスルヲ得ヘキニ於テヲヤ ○下略


窮児悪化の状況 渋沢栄一編 第一―七二頁 明治三一年三月刊(DK240044k-0005)
第24巻 p.345-367 ページ画像

窮児悪化の状況 渋沢栄一編  第一―七二頁 明治三一年三月刊
本書は本院委員会に於て窮児救養の事宜を市参事会に開陳するに当り
 - 第24巻 p.346 -ページ画像 
院吏に命して其経過の情状を訪査して之を筆記せしめ、並に其収養方法・経費予算等の立案を以て之に附載せしものなり、蓋窮児悪化の状態は其境遇の一ならさると共に千差万別なりといへども、玆に摘録する所の一斑を見れは庶幾くは全体の情況を推知するを得べし、今や本市が恩賜に基き大に義捐を募り、窮児救養の事業を本院内に創設せむとするを以て、乃ち之を印刷して世の慈善家の一覧を乞ひ、彼の窮児の憐むへくして又之を放棄するの大に恐るべきものあるを知り、以て此挙を賛助せらるゝの参考に供すると云爾
  明治三十一年三月 日
            東京市養育院委員長 渋沢栄一
    目録
  ○窮児の種類
  ○窮児の変化
  ○窮児進で「ボタハジキ」及「カツパライ」となる
  ○「ボタハジキ」進で掏摸に化するの状況
  ○掏摸の状況
  ○窮児立ン坊となる
  ○「カツパライ」窃盗に化する状況
  ○旧幕政下の乞丐と維新後の乞丐
  ○窮児との問答
  ○犯罪増加に付き窮児の観察
  ○窮児救養法及救養費概算
    窮児の種類
窮児の種類は、皆父祖伝来の者にあらず中には伝来の者なしとせざるも多くは、左の種類なり
一父兄に捨られ頼るべき所なき者
 東京の下流社会は、月に幾回も移転するものあり、生計困難に際すれば其子を置去り、又は放逐するもの少からず、若し其子女にして十歳以内にて乞食を為す能はざれば、夫々の手続を経て棄児として救はるべき訳なれども、彼貧民の巣窟には、乞食を業とする者多きが故に、捨られたる者も常に之を見習ふが為めに、直に乞食群中に投じて救はるゝの道を得ざるなり
一継子の追放に遭ひし者
 下等社会は結婚離婚甚だ容易にして表面の手続を踏まざるもの少からず、故に其挙けたる子女も入籍せしめず、而して前妻の子後妻之を悪みて追放するが如きは此無教育社会に免れざるの状態なり、貧民窟にありては是等の子女若し十才以下なれば、之を引取りて乞食の材料に使用する者多し、而して其使用者は彼児女の段々成育して人の哀憐を惹かさるに至れば又之を追放す、追放せられたる子女は既に乞食に慣れたるが故に、毫も困苦を感せず忽ち乞丐群中に投ず
右の外にも乞丐の子乞丐となる者もあるべく、又他に種々の事情に出るものもあるべけれども、詮ずる所棄児・遺児の二種に外ならずとす扨此社会の棄児・遺児に就ては甚だ奇怪なる現象の存するものあり、曾て下谷万年町の貧民窟を取調たるとき、三・四才位なる小児を六名
 - 第24巻 p.347 -ページ画像 
有したる一家ありき、皆同年齢なるが故に一見して其の家に生れたるものにあらざるを知る、就て之れを糺せば、曰く彼は隣家の車夫某の置去にしたる小児なり、是れは此の長屋内に棄られたる者なり、憫然なる余り斯の如く育て置くなりと、其の言を聞けば頗る貧民中の慈善家の如し、当時其の行為に感し斯る貧民窟にも仁義は存する者よと思ひたるに、充分に取調ぶれば、何んぞ図らん、彼は実に残忍なる小児の損料屋ならんとは、小児の損料屋とは甚だ怪しむべきが如しと雖も彼等の社会には此種の者少からず、而して此損料屋は多くの棄遺児を養ひ、乞丐等に損料を徴して貸与するものと知るべし、不具癈疾の乞丐が、痩せ衰へたる小児を携帯するを見ば、誰か哀憐の情を起さゞるものあらんや、四十・五十の壮年なる男子が、懐中に当才子を抱き五六年なる幼児の手を引き連れ、此程妻に死なれ、小児二人を取遺され家業にも出られずとて、泣々店頭に立たは誰か一縷の涙を灑がざらんや、寒夜赤子を抱て寒風にさらさるゝ老婆の、娘に死なれて此子を遺されたりといはゞ、誰か数銭を投じて彼を救ふを思はざらんや、試に縁日を倘徉せば、此種の者を多々見受る事あるべし、是等の小児は此損料屋より貸出す者多しといふ、而して痩衰へたる者は、損料貴く、肥満なるものは損料廉なり、其価は十銭以下二・三銭に至ると云ふ、此事情に依りて、彼の損料屋が此小児を養ふ状況を思へば、其残忍にして小児をして肥満せしめざる方法を用ゆるや知るべきなり、豈驚くべき状態にあらずや
右の損料屋は、此小児等が損料貸とならざるの年齢に達すれば、女児なれば三味線又は住吉踊などを授けて乞食を行はしむ、若し男児ならんには角兵衛獅子の如き者に売渡すか、然らずんば追放するものとす追放すれば忽ち乞丐群中に投ずるなり、左れば棄児・遺児にても最下等の者は、収養せられざる者多々あるを知るべし
    窮児の変化
右等の乞丐の結局は、掏摸・窃盗・強盗・行旅病者となり公共の費用を以て収養せらるゝなり、其事実を詳明せんとせば、窮児が幼年より壮年に至るまでの変化を説かざるべからず
窮児の状態を観察するに、年齢に依りて、種々なる状況に変化するものとす、人の袖にすがり、人の軒に立て、哀を請ふ者は五・六才以上十一・二才以下を多しとす、風体を紙屑拾ひ等によそほひて種々の小盗をなす者は十才以上十四・五才迄の者多く、是より以上は掏摸と化し、立ん坊となるものなり、試に浅草公園・東西本願寺、其他所々の墓地を徘徊して、人の袖にすがり哀を乞ふ者を見よ、多くは五・六才より十一・二才以内の小児にて、其以上の年齢に見ゆる者は甚だ稀なるにあらずや、斯る小児は、自己の意思より出でゝ乞丐をなすに非ず多くは老人・壮者其陰に在りて之を使役し、成るべく悲哀の情をよそほふて他の愛憐の情を惹かんとする者なり、十年以上の者は、人の哀憐の情を惹くこと薄く、之に施与するもの少きが故に、止むを得ず、其手段に変化を生ぜざるを得ず
    窮児進んで「ボタハジキ」及「カツパライ」となる
抑も「ボタハジキ」及び「カツパライ」なるものは、前記の如き境界
 - 第24巻 p.348 -ページ画像 
を経過して成長したる窮児の将に掏摸・窃盗等に変化しつゝある所の一階級に属する名称なり、而して「ボタハジキ」は掏摸の雛子にして「カツパライ」は窃盗の雛子なり、「ボタ」も「カツパライ」も共に十四・五才より十五・六才の者多しと雖も、十二・三にして既に其仲間に入るものあり、「ボタ」は概ね「カツパライ」となる者より一層利発にして奸才に長じたるものとす、而して「ボタハジキ」が業とする所は、縁日又は種々の群集を当込みて些々たる金品を掏摸取るものなり然れども彼等は真成なる親方を有したる掏摸に非ず、「ボタハジキ」の中にて最も敏腕なる者より漸次に親方に属して真成の掏摸と化するものなり、「カツパライ」は多くは紙屑籠を脊負ひ、又は手に小籠を携へ其形相は紙屑拾ひなれども、十中の九までは純然たる屑拾ひに非ず、唯警察官の叱咜と駆逐を免れんが為と、裏小路又は邸宅内の塵捨場等に入込むに人の嫌疑を避けんが為の便宜に斯る状態を装ふ者にして、彼等は小路又は裏屋などに入込みて、紙屑・襤褸などを拾ひ取ると共に他人の隙を窺ひて衣類・履物等を手当次第に取り去るものとす、至る所に紙屑拾ひ入る可らずと書したる木札を打付たるは、此害を避けんが為の予防にして、彼等が如何に他を害するかは、彼木札の多く打たれたるを以ても之を推知するを得べし、彼等の所為は是に止らず、辻店・食物店、又は神仏の賽銭などを窺ふて之を盗み取るものなり、窮児が往々弐尺計りの棒先の曲りたるものを所持するを見るべし、彼棒先には鳥黐を付したるものなり、是彼等が神社仏閣の賽銭箱の中に指し入れて賽銭を釣り上げ、又は店先の小物品を釣り取るの用に供する者とす、彼等は昼夜種々の手段を研究して斯る悪事を働く事に身を任ぬるが故に、悪事に掛けて辛抱強き事は驚くに堪へたり、何れの町内にても彼等に些々の金品を盗まるゝ者、日として之あらざるなけれども、何れも些々たる金銭物品なれば、被害者も一々之を警察署に届出る者なし、又彼等の敏捷なる些かの間隙に乗じて、金品を盗み去る事、恰も鳶の地上の物をさらひて飛去るが如し、故に是を昼鳶とも名くるなり、此働きの巧妙なる者は、窮児群中の兄株と尊崇せられ、遂には衆多の窮児を使役して親方となるに至り、子分より収入高の幾分を徴収して、彼等に乞丐の方法より悪事を働く手段を教授するものとす、右等の窮児は単に斯る悪事を働くのみにはあらず、乞食をも為すものなり、彼等は人の哀憐を惹かざるが故に、其乞食をなすに当りては三・五群をなして、多忙なる店頭に立ち、哀を乞ふて頑然動かず、蓬頭垢面、身に襤褸を纏ひたる者の佇立せらるゝは、多忙なる商店にては、甚しき迷惑を感ずるより止を得ず数銭を投じて之を去らしむ、然れども、多くの窮児中右の境界に安するは、概ね十二・三才より、十五・六才迄の者を多しとす、試に彼等の群を見よ、稀にハ十七・八才とも見ゆる者あれども十中一・二に過ぎず、左れば十四・五才以上の者ハ如何に成行くやを考へざるべからず、実に彼等の成長ハ社会に大害を流すの泉源と化するものにて、詳かに此情況を観察し来れば誠に戦慄せざるを得ず
    「ボタハジキ」の掏摸に化するの状況
何れの市街にても、掏摸の多き事は実に甚しきものにて、或る有名な
 - 第24巻 p.349 -ページ画像 
る警視庁の刑事掛は、東京のみにて純粋の掏摸(「ボタハジキ」を除き)二千人より少からずと云へり、是等の徒が、世の中を害する事も亦甚しきものとす、而して此多数の掏摸は十中八・九は前の窮児なる「ボタハジキ」の転化したる者たり、抑も窮児が掏摸と化するには概ね二種あり、即ち掏摸の親方又は其子分より選抜せられたる者と、窮児の親方より推選せられたるもの是なり、蓋し多数の掏摸は前の窮児の成長して悪事の発達したるものたるに外ならず、而して其親方も亦窮児より成長して最も奸才に長じたるものにて、其手下は窮児中の才子たる彼の物を盗むに最も敏捷なる者を選抜して其弟子としたるものなり、是を以て市内の窮児は、過半彼等の知人朋友なるが故に、窮児中奸才ありて敏捷なるものは、掏摸の弟子の推選に依りて親方に紹介せられ、掏摸群中に投ずる者なり、是即ち前に記したる掏摸の選挙に依りて掏摸に化する窮児たり、次に窮児の親方の推選に依りて掏摸と化するものを説かんに、窮児にも亦親方あり、多きは百数十名、少きも五・六名の子分を有せり、而して子分は自己の稼高より親分に対し若干宛の割前を納むるものとす、之れを「ハジキ」と云ふ、而して其顔の広き親方を有すれば、其仲間に対して巾の利く事自ら大に、顔の狭き親方を有すれば、其勢力自ら少し、又親方を有せざる独立窮児も亦甚だ多し、是等は窮児中に於て最も勢力なきものとす、故に彼等は時として他の親方或は親方を有する子分の為に頭をハジカるゝ事あり若し之が請求に応ぜざれば、非常に辛き目に遇ふが故に止を得ず其望に応ぜざるを得ず、彼等の社会にては、殺傷等非常の大事あるにあらざれば、法律の保護に預ることは能はず、故に此社会は所謂強ひもの勝にて、普通人類社会とは大に其趣きを異にす、而して親方子分等の階級ありて、其間に種々なる習慣法の厳然として行はるゝなり
右に述べたる窮児の親方と親方とは、何れも聯絡ありて、恰も商業家の同業組合を組織したると一般の有様也、故に此社会にありては所謂強ひもの勝なるにも拘らず、如何に強き親方と雖も、猥りに他の親方に属したる子分の頭をハジクを得ざるは、恰も組合規約に於るが如きものなり、尚彼親方は同業社会と聯絡あるのみならず、実に掏摸の親方社会とも亦聯絡を有し、且掏摸の親方より幾分の割前を取るを得るなり、彼等は何故に掏摸の親方と聯絡するの必要あり、又何故に割前を取り得るの権力ありやといふに、是前に述べたるか如く、彼等は実に掏摸の候補者を選挙するを以てなり、是即ち聯絡の必要と、割前を取るの勢力を生ずる所以なり
窮児の親方の中には自ら掏摸を働く者あり、又は手下をして掏摸を働かしむるものあり、多くは「ボタハジキ」に属するものとす、然れども概して其稼方は子分の自由に一任して其子分の頭をハジキ、又は自己の子分又は他の独立窮児の中より敏捷奸才ある者を推挙して掏摸の親方に進め、以て其親方より若干の手数料を徴するものとす、尤も右の選挙資格を有するものは、啻に窮児の親方のみにあらず、往々独立窮児の中にも之あり、是等は長く窮児社会にありて顔を広くし、窮児の情態に通じ、且掏摸社会にも知られたるものなり
却説も窮児の掏摸群中に投ずるは前に記せし二種の方法に拠りて選挙
 - 第24巻 p.350 -ページ画像 
せらるゝものなるが、此群中に入るは実に彼等の立身の一階級を昇りたるものとす
    掏摸の状況
掏摸は幼きは十一・二才より、十五・六才及び十八・九才迄の者を最も多しとす、是等は下等又ハ中等に属する掏摸たるを免れず、彼等ハ皆親方に属して、日々其教授を受けて使役さるゝ者なり、長く独逸国に留学したる某学士は曰く、同国の都会には掏摸学校ありて数十百名の掏摸生徒を教授せりと、是れ独逸の事情を知て未だ我国の事情を知らざるの言のみ、我東京にても掏摸の親方ハ数十名乃至百名以上の子分を有するものあり、是等の者は皆掏摸の仕事を教授して使役するものにて所謂掏摸学校たるに外ならず、独逸の掏摸学校も公然看板を掲げて生徒を教育するにあらず、我国の親分子分に於けると同様の事なるべし、嗚呼我輦轂の下斯る悪事教授所の存在するとハ実に驚くに堪へたることにあらずや、扨掏摸の事情を聞くに、下等の掏摸ハ其衣食住皆親方の支給する所にして、其稼の割前ハ十分の一即ち壱円に対して拾銭を与へらるゝなり、割前の少き代りには仮令獲物なき時と雖も衣食に離るゝ事なく、又小使銭をも与へらるゝものなり、又中等以上の者は、其割前十分の三・四に及ぶものありと云ふ、然れども斯く中等以上となれば衣食住ハ皆自分持なり、是より以上は親方の手を離れて独立の稼をなすと共に、必ずや旧友なる窮児中より敏捷なる者を選抜して、自己の手下を拵へて以て業務を拡張す、汽車中の稼をなし、又は田舎人をたぶらかして、金銭を奪ふ等の大仕事をなす者は、皆親方株連合の仕事にして、手下輩のなし得る所にあらず、斯る親方となりたる掏摸ハ、実に窮児が最極なる立身出世なりといふへし
掏摸の仲間には、非常に厳密なる規則ありて、仮令捕へらるゝ事ありとも、決して其親方との関係及び仲間の事を白状するものにあらず、故に其連累は如何に夥多なるも、決して之に及ぶものなきなり、又現場犯罪の外は決して白状せす、是を以て其罪状甚だ軽きが故に、処刑せらるゝも久しからずして忽ち娑婆の人となり、再び前業を継続するものなり、又親方の子分に対する割前少なければ子分ハ之を胡摩化すべき筈なれども、若し之を胡摩化したる事の露顕したる時は、非常の刑罰に処せらるゝが故に、決して仲間中にて不都合の働きをなす事なしといふ、彼等は公法の刑に処せらるゝよりは、寧ろ仲間の処刑を恐るゝ事甚し、何となれば彼等仲間の仕置に関しては法律の保護を受くべき道なけれハなり
彼等が物を掏摸取る方法たる実に巧妙にして、如何に炯眼なる刑事係も、掏摸と知りつゝ容易に彼等の現行を取り押ゆる事能はす、其方法たる、五名乃至八名を以て一組となせり、形相は各異り、小僧を真似るもあれば、若旦那風となるもあり、消防夫もあれば大工もあり、種種なる状態を装ひて、先掏摸取るべき人を選定するや、彼等は同類を以て忽ち其人を囲繞するなり、たとひ掏摸の中に囲まるゝも、本人は毫も之を察知するに由なきなり、右に押し左に押す瞬間忽ち懐中の物は失去る、而して其四囲の人は依然として毫も異らす、其取られたる品を受取るべき人は他の方面にあり、既に受取れば忽然踪跡を闇まし
 - 第24巻 p.351 -ページ画像 
て行く所を知らす、此物品受取人は掏摸中の年功あり手練あるものを以て之に充るなり、其掏摸の仲間は依然として其所に在るが故に、毫も掏摸られたるを知る能はず、之を捕へて吟味すれば、却て逆捻を食はされ、逆に警察署へ訴へらるゝ事なしとせす、斯る情況なるか故に容易に彼等を捕ふる事能はざるなり
彼等の親方間には何れも聯絡ありて厳密なる規則あり、子分たるものは是に服従せざるべからず、時としては親方の厳罰を被るのみならす其業務の苦しき割合には割前は至て少く其辛苦は中々容易なるものにあらずといふ、而して十八・九才に至る間には、少くも一両回は必す監獄に投ぜらる、此時に当り、内に自己の業務を厭ふの心あり、さりとて幼年よりなせる事は悉く悪事にして見聞皆正業にあらざるが故に正業を思ふの念は毫も心頭に浮ぶにあらす、獄中にて強窃盗又は詐偽など種々の悪事を聞きて悪念増長し、出獄するに及びては強窃盗に化し、終身獄屋を住家となすに至る者亦多しといふ、是れ窮児の再転化をなしたるものなり
    窮児立ん坊となる
次に窮児中不敏不肖なる者は如何なる状況に変ずる歟を述ん、是等の徒は奸智を要する掏摸・窃盗の如き仕事には到底不適当なるが故に、幸にして掏摸の親方又は其旧知人の選抜を蒙らす依然として窮児なり身は窮児なれとも日一日年一年成長するに従て、人の哀憐の情を惹くこと薄きが故に到底乞丐を以て生活するを得す、偶々人の店頭を窺ふて銭物を奪へども、動もすれば見付られ捕へられて辛き目に遭ふか故に、彼れ等は成長すると共に種々なる業務を見付て是に従事す、其業務には真の紙屑拾ひあり、魚河岸などに集て魚類の頭腸部を拾ひ集て肥料に売却するあり、或は山の手の坂道橋詰などに立ちて車の跡押などをなして生活するものあり、世に之を立ん坊と称す、彼等は一所不住の無宿者なるが故に、平日人を損害するにあらざるも一朝病に臥す事あらば、必ず警察の手を経て公共の救助を受けざるべからず、行旅病者として年々養育院に養育せらるゝ者の過半は皆此種類なりとす
    「カツパライ」の窃盗に化する事情
前に記せし乞丐・屑拾ひ・小盗の三事を兼業する「カツパライ」なる一種の者は研究に研究を加へ、其年の長すると共に悪事も亦漸次に増長して、遂には専ら窃盗を事とするに至るものなり、抑も彼等幼稚の時より寸毫の教育を受けずして、唯他の金銭物品の掠奪法の教授を受けて成長したるが故に、才智も専ら悪事に向て発達し、彼等の脳中には盗賊の悪事たる観念だにある事なし、彼等の仲間にては入獄を以て年貢払に行くと称せり、既に入獄を以て租税と心得たる程なれば、仮令牢獄に投ぜらるゝも改悛の念を起すことなし、彼等は却て牢獄を以て巧妙なる専門学校に入りたる心事を以て悪事を学び、益悪事を増長するに至るやの観なきにあらず、始め良家の子と生れ、所謂不図したる出来心より悪事に陥りたる者は、入獄は彼等に後悔の念を起さしめ教誨師の訓戒は愈彼等の改悛の心を確めしむるも、斯る窮児より成育したる入獄者は、殆ど真正なる人となるの望みなしといふべし
右記し来りたる事情に依り窮児なる者の結果は左の如し
 - 第24巻 p.352 -ページ画像 
 一智ある者は掏摸・強窃盗となり監獄に入る
 一無智の輩は立ん坊となり行旅病者となる
 一不具癈疾の者は純粋の乞食となり行旅病者となる
斯の如く窮児は、智者は盗児と化して世を害し、結局監獄に投ぜられて公共の費用に養はれ、無智不敏の者、及び不具癈疾の者は、結局行旅病者となりて公共の費用に収養せられざるを得ず、嗚呼窮児を放棄したるの結果は如何なる程度まで世を害し人を損ふや測り知るべからず、況んや彼徒が知る所は唯情慾の一途なるが故に、彼等の間に行はるゝ婚姻及び離婚の早くして、且つ容易なると、彼等が児女を挙る事及び其児女は如何なる教育を施され得るやを思へば、実に慄然として恐るべきものあるなり、東京市内年一年棄児の多きも、其原因是等の徒の増加に基くものにあらざらんや
    旧幕政下の非人と維新後の乞丐
旧幕政の乞丐に対する制度を見るに、素より文明の制度に背反する者たるは論なしと雖も、兎に角今日の如き乞丐の悪化して国患となるが如きに比すれば大に優るものありしと云ふも不可なかるべし、彼の幕政下にては実に人類を区分して人と非人の二種として、人を分つに業を以てし士農工商及  の五種族とし、乞食をなすものを以て非人種族となし之を人類の度外に置き、諸国に非人頭を設け、市街村落には必らず非人番を置き以て彼等を取締らしめたり、一度非人の中間に入りたるものは人権・公権を剥奪せられて法律の保護に預るを得ず、其代りとして彼非人には乞食の特権を許すが故に白昼公然天下を横行して乞丐をなす事を得べし、若し農工商にして身代を分産し一定の住ひを失ひ堕落して乞食を為すに至れば、非人頭の配下に属し非人番の監督を受けざるを得ず、然れども彼れ等は公然乞食をなし得らるゝが故に、窃盗となり掏摸となるが如き危険の行為を為さゞるも露命を繋ぎ得るのみならず、中には裕かに生計を営むに至る者少からず、且相当の貯蓄を得て自己の領主なる非人頭に対し相当の献金を為さば元の農商に帰復する事も得らるゝなり、之を名けて足を洗ふと云ふ、万一非人にして悪事を為さん歟、彼非人番は忽ち之を捕へて之を拷問し、軽きは自ら之を所断し、重きものは乞丐等が生殺与奪の権を有する非人頭に引渡す、非人頭は之を極刑に処して自己の職責を明にすると共に他の配下の者共をして戦慄恐懼せしめ再び罪悪者の出ざらん事を勉めしなり、彼等の極刑は全身の皮膚を剥ぎて之を殺戮し之れを皮剥の刑と唱へしといふ、斯の如くなるが故に乞丐は寸毫の教育なきにも拘らず悪事をなすものは殆んど稀なりしなり、斯る方法たる残忍苛酷なりと雖とも、浮浪無頼の徒をして世に横行して悪事を逞ふせざらしむるの手段としては、誠に行届きたる仕方にして遺漏なしと謂つべし
然るに王政維新に際し斯の如き非人の枯骨も雨露の徳沢に浴して公私の権を与へられ、一般の王民とは化せしめられしなり、王民と化せし代りには乞食の特権は剥奪せられ、皆優勝劣敗の競争場裏に立て労働せざれば衣食する能はざるの人とはなりしなり、既に非人なく乞食なし、万一乞食を行ふものあれば之を駆逐し去るは警察官職務の一項に掲けらるゝ事となり、以て今日に至れり、何れの世如何なる政府の下
 - 第24巻 p.353 -ページ画像 
にても独立の生計を営む能はさるの民を生ぜざる能はず、放逸遊惰にして乞食をなすが如きは実に人類の非行にして悪むべき所業なりと雖も、尚幼少にして養育すべきの父母親戚なく、不具癈疾又は老年にして頼るべき所なき者をして単に之を駆逐し去らは、彼等は溝壑に転じて死するにあらずんば他の物を窃取して死を免るゝの道あるのみ、嗚呼彼等を駆逐するは恰も孤独者に対し汝は乞丐をなさんよりは寧ろ盗児となれよと教ゆると何ぞ異らん、否窃盗・掏摸の製造所を設けたるものと謂ふも不可なきなり、今や国家凡百の制度悉く整備を告るに際し乞丐・窮児を放棄して悪化せしめ、囚人を増加せしむるは豈救貧制度の不備にあらずや
左の問答書は他の記事より後のものなれども、記事順序に依り爰に記載す
    窮児との問答
爰に窮児に対する問答二・三を掲げて参考とすべし、之を一読せば其悪化の事情に於て思ひ半に過るものあらん、但其姓名は彼等が生長の後名誉に関するものなれば態と変名を掲げぬ
                   窮児 成瀬亀太郎
  性最も怜悧、応答明確、眼光炯々、人品卑からず  十一歳
  右は明治廿九年七月十四日迷児として京橋警察署より送付せし者なり
○お前の国はどこ
  △参州です
○参州の何といふ所
  △知らない
○お父さんは
  △お父さんは幼なき時死ました
○お母さんは
  △お母さんは参州にいます
○お父さんの名は
  △お父さんの名は万五郎
○お母さんは
  △おしん
○うちは何をして居る
  △うちは農夫《ひやくしやう》でした
○今はお父さんはないか
  △私の七ツの時あとのお父さんが内にきた
○名は
  △兼といつた
○兄弟は
  △兄弟三人ある、私ともに四人
○姉さんか兄さんか弟か
  △姉が二人で弟が一人
○姉さんは内に居るか
  △姉は二人とも郡内に奉公にいつています
 - 第24巻 p.354 -ページ画像 
○何しに
  △蚕の糸を取りに
○年は
  △十五に十三
○弟は
  △内に居る、七ツになる
○お前は東京へどふして来た
  △まゝお父さんと私は一昨年東京《おととし》に来た
○何をして
  △土方をして居た
○どこで土方をして居た
  △牛込ステーシヨンのそばで去年まで
○お父さんはどふした
  △お父さんは逃げてしまつた
○それからお前はどふした
  △私は乞食をして居た
○いつまで
  △昨日まで
○どこのへんで
  △新橋のへんで
○夜はどうした
  △新橋の馬車小屋で寝ていた
○ナゼ此処へ来た
  △つれの一人が人の下駄を盗で、三人で歩行て居たら探偵に捕まつて二人は逃げたの、私は何もしない
○それから
  △京橋警察署へつれて行かれた
○それから
  △区役所へ行て、区役所から玆に来た
○此所はよいか
  △こゝにいるのはいやだ、逃げて乞食をしたい、もらつて、あるいていた方がいゝから
以上は教員の取調べたる者、以下は幹事の聞取りたる者
○お前はナゼ乞食に成たの
  △ダツテお父さんが逃てしまつて親方の内に置て呉れないから
○どこの親方の内に居たの
  △牛込の土方の親方の内にお父さんと居たの
○何と云ふ内
  △知らない
○いつから乞食をして居たの
  △モー一年から
○仲間があつたか
  △どつさりあるよ
○お前の知つて居るのを皆云ふてごらん
 - 第24巻 p.355 -ページ画像 
  △知て居るナア百人もあらア、ホントウの己の仲間は六人ほど外ない
○其名は
  △皆綽号《あだな》だよ
○其名と年を聞かしてお呉れ、お菓子を遣るから
 (爰に於て菓子数個を遣す)
  △大きなのがチヤキといふ廿位、其次が常公で十三か十四、十蔵が十三、土橋が十二デ、コチビが十一、おけやが九ツ、それだけ
○それで親方ハないの
  △わたいたちはないの、外の者は皆ナ親方がある、万年町に婆アヤと云ふ親方がある、東京で一番の乞食の親方
○婆ア屋とは女か
  △女だよ
○親方があるとどうする
  △親方へ毎日二銭宛出す
○夫れは親方の内に宿つたり食べたりするからだらう
  △そーじやないの、宿らないでもだす
○どうして出す
  △歩を取る者が廻て来るからそれへやる
○皆ナ乞食ばかりするか
  △大きな者は泥坊ばかりするけども、わたいらア乞食をする
○何と云ふのが泥坊をする
  △沢山《どつさり》アラア、一番上手なのがズンドとネー書生といふの
○其ズンドと書生はいくつ位
  △ズンドが廿、書生もはたち位、新喜といふのは懲役にいつて、セイチビも懲役に行た
○新喜とセイチビはいくつ
  △新喜は二十二・三、セイチビは十五・六、黒チビは死だ
○黒チビも泥坊か
  △アヽ皆泥坊、夫から赤島だのチビだのといふのは浅草公園に居らア、六ツ七ツ位
○夫は泥坊ジヤアあるまい
  △そんなちいさいのはおもらいバかり、マダ大きなのはネー鯉口といふ着物をばア屋方から着せて呉れて籠を貸して呉る、そして歩くとお巡んさがつかまへぬ、それで泥坊するんだよ
○なにを取る
  △何でも取るけどもマア下駄だの、雪駄だの、靴だの盗で歩く、おしめでもなんでも取らア
○お前も少しは泥坊したか
  △わたいたちはマダおさないから取らない
○学校へ上た事はないか
  △上らない
是所謂カツパライに化せんとする所の窮児なり、彼の語る所に依りて彼等が社会の少年が如何に悪化しつゝあるかを知るに足る
 - 第24巻 p.356 -ページ画像 
                  紙屑拾 尾珠利三
  人相・性質共普通           明治廿九年 十六歳
  右者明治廿九年五月卅日行旅病者として、下谷警察署より送院したる者
○お前は父母はあるか
  △父は死ましたが母はあります
○父母の名は
  △父の名は尾珠兼吉、母はさいと申します
○父はいつ死だ
  △明治廿四年の十一月に死ました
○母さんはどふして居る
  △母は○○さんと云ふ内へ奉公をして、○○さんが遠方の田舎へ行かれてそれについて参りました
○○○さんとは何をする人
  △エライお役人だと云ふ事です
○お母さんは○○さんへ長く居るの
  △モー六・七年も居ります
○○○さんは今東京へ戻て居るジヤアないか
  △ソーですか
○お前はナゼ屑拾ひなんかに成た、悉く聞かしてお呉れ
  △母が○○さんについて遠方へ行きますので鉄砲洲の山中と云ふ鍛冶屋へ奉公をさせましたが、アンマリ酷ひ内ですから其所を出て紙屑拾ひになりました
○屑拾は一日いくら位になる
  △七銭か八銭位になります
○七銭や八銭で食たり着たり出来るか
  △足りません
○何所へ宿るか
  △問屋へ宿ります
○飯だの夜具だのはどふする
  △屋根代といふて、問屋へ一銭五厘だすとふとんを貸してとめて呉れます、飯は一銭でも一銭五厘でも問屋で売て呉ます
○菜は
  △菜は香の物を付て呉ます
○一度の飯代がいくら位であるか
  △二銭位です
○それでたつぷりか
  △イヽエ足りませんけれど堪へて居ります、時に依ると一銭位外たべられぬ事もあります
○雨の降る時はどふする
  △雨の時は仕事に出ませんから、問屋で一銭位宛の粥を煮て貸して呉ます
○五日も六日も降り続て出られぬ時はどうする
  △乞食に出ます
 - 第24巻 p.357 -ページ画像 
○問屋にはお前の様な者が沢山居るか
  △私の問屋には私位の年格こうの者が四人と、廿年位の者が四人居りました
○年上の者も何をして居る、矢張屑拾ひか
  △屑拾ひばかりじやアありません
○何をするの
  △泥坊です
○どんな物を重に盗むか
  △足袋だの襦袢だのチヨイチヨイ干物などを盗みます
○それをどうするか
  △問屋へ売るのです
○泥坊をする者は一日いくら位になる
  △廿五銭か卅銭位のもんです
○だんだん年を取ると皆泥坊をするか
  △大ていやります
○牢へはいる者はないか
  △捕まるとはいります
○女郎買なとには行かないか
  △おとなは三日ぶり位に女郎買に行ます
○お前の居た問屋は何処
  △私の親方は入谷です
右は不幸にして屑拾の群に入り為に窃盗に堕落せんとしたる者幸に病に罹りて救助せられし者なり、彼の言ふ所を以て見るも屑拾ひなるものは悉く窃盗練習中の如き者にて、問屋なるものは窃盗教授所の如し
                   乞児 林武之助
  下卑の相、性敏なる方         明治二十九年 十歳
  右は行旅病者として麹町警察署より廿九年六月廿五日送付し来りたる者
同年七月九日調
○お前はお父さんや母さんはあるか
  △死でシマツタ
○お前は元どこに居たの
  △お父さんやお母さんが生とる時は佐竹ケ原に居たの
○お父さんの名は
  △お父さんは常といふ名
○お母さんは
  △お母さんはおとめ
○お父さんはいつ死だ
  △お父さんが死でから二度お正月をした
○母さんはいつ死だ
  △母さんが死でからまだお正月をしない
○お父さんやお母さんハとこで死だ
  △お父さんもお母さんも佐竹で死だ
○親類はないか
 - 第24巻 p.358 -ページ画像 
  △ある
○どこに
  △佐竹ケ原に
○何をして居る
  △玉とろがしをして居る、料理屋をして居るのもある
○学校へ上た事があるか
  △八町堀に居た時亀島橋の先の学校へ上て居た
○夫ではいろはなど知て居るか
  △いろはや一・二は知て居る
○お父さんが死でからお母さんは何をして居た
  △お母さんはお父さんが死でから草履の鼻緒をこさへて居た
○学校はいつ止めた
  △佐竹へ来てから
○ナセ止めた
  △お父さんが死だから
○お父さんは何をして居た
  △天ぷら屋
○お母さんが死でからお前は何をして居た
  △おもらいをして居た
○ナゼおもらいなどをするの
  △たべられないから
○どこでおもらいをした
  △新宿の女郎屋へ毎日いつて立て居ると食るものを呉る
○夜は何地へ寝る
  △憲兵屯所の塀のところへ寝た
○此所へはどうして来た
  △四谷のお祭の時御輿様について行てさむしい処へ行とお腹《なか》が空《すい》てあんばいが悪くなつて道へ寝て居たら巡査《おまわり》さんが捕まへて警察署へ連れて行た
○それから
  △それから爰へ車で来た
○お前の内のお寺はあるか
  △お母さんのお寺は谷中にある
○お父さんやお母さんは生て居た時に神様や仏様を拝だ事があるか
  △拝だ事はない
○お墓へ参た事があるか
  △お母さんと一度お父さんの墓へ参つた
○モー是からはおもらいなどするジヤアないよ
  △ハイ
○爰で学校へ上て先生の言ふ事を能く聞て善ひ人になるんだよ
  △ハイ
右は孤児にして救助せられず乞丐となりたるもの、此輩若し久しく乞児たらんには、必らず悪化して掏摸・窃盗の群に入るべかりしも、幸にして病となり送院せられし者とす
 - 第24巻 p.359 -ページ画像 
                   下谷万年町
                乞食の遺児 丘本ふき
  美貌、性質敏なる方           明治廿九年 八歳
  右は遺児として廿九年四月十三日下谷区役所より送り来りし者、尤も病気の為めに棄たる者の如し
○父さんは
  △お父さんは死んチマツタ
○いつ
  △去年
○お母さんは
  △お母さんも死んチマツタ
○いつ
  △去年
○どこに居たの
  △宿屋
○万年町の宿屋に
  △うなづく
○お母さんお父さんと居た時も宿屋に居たの
  △うなづく
○お父さんもお母さんも宿屋で死んだの
  △うなづく
○お父さんは何をして居たの
  △足袋屋だつたの
○宿屋で足袋をして居たの
  △うなづく
○お母さんは何をして居たの
  △かつぽれ
○お前が躍てお母さんが三味線をひくの
  △うなづく
○お母さんが死でからお前はどこに居たの
  △宿屋に居たの
○お母さんが死でからお前は何をして居たの
  △かつぽれをして、やつぱりおもらいを
○だれと
  △よその叔父さんと
○叔父さんが三味を引て
  △うなづく
○それからどうしたの
  △あんばいが悪くなつたの
○それから
  △こゝへ来たの
○誰《だれ》と
  △おぢさんと
○お父さんの名を何といふ
 - 第24巻 p.360 -ページ画像 
  △知らない
○お母さんの名は
  △黙して答へず
○知れて居るだらう
  △かぶりを振る
○知らないの
  △ウン
是れ乞丐の父母死し乞食に救はれて乞丐となり、病気の為め棄られたる者の如し、若し病気とならざりせば必ず遂に乞食たらんのみ
    犯罪者増加に就き窮児の観察
統計年鑑の示す所に依れば我国には年一年在監人を増加するの傾向あり、此在監人増加が単に人口の増殖に随伴するものに止らんにハ差して憂ふべきにあらずと雖も、然らずして実は良民に対する不良民の割合を増加するものなり、豈恐るべきの一大現象なりと云はざるべけんや、今其事実を挙れば左の如し

        人員        囚人    人口千人に付
               人      人  人
  廿二年 四〇、〇七二、〇二〇 六四、〇〇八 一・五九
  廿三年 四〇、四五三、四六一 六九、四四六 一・七一
  廿四年 四〇、七一八、六七七 七三、五九四 一・八〇
  廿五年 四一、〇八九、九四〇 七六、〇五七 一・八三
  廿六年 四一、三八八、三一三 七九、一七五 一・九一

左れば人口千人に対する囚人の割合は、廿三年は廿二年より一分二厘を増加し、廿四年は廿三年より九厘を増加し、廿五年は廿四年より三厘を増加し、廿六年は廿五年より八厘を増加せり
因是観之は囚人は年々人口増加の比例よりも更に大なる比例を以て漸次増加せるの事実を見るべし
三好退蔵氏は夙に窮児救済の必要を認め、未丁年犯罪者の増減に注目し、明治十五年より二十七年に至る十三年間、未丁年者の犯罪人員を調査したるに左の事実を得たりと云ふ
  明治十五年         九千十六人
  同十六年     一万二千四百四十九人
  同十七年       一万二千六十一人
  同十八年     一万四千五百四十八人
  同十九年        一万四千十九人
  同二十年     一万三千九百六十五人
  同二十一年     一万千四百三十八人
  同二十二年      一万二千九百一人
  同二十三年    一万九千九百六十三人
  同二十四年    二万二千九百三十二人
  同二十五年    二万五千二百四十六人
  同二十六年     二万六千四百五十人
  同二十七年     二万七千六百七十人
右の如く二十七年を以て之を十五年に比せば実に三倍余の増加にして之亦人口増殖よりも高比例を以て増加したるを見るべし、豈に驚くべ
 - 第24巻 p.361 -ページ画像 
き状態にあらずや
今又犯罪人増加の数字を以て未丁年犯罪者増加の数字に比較するに、其比例実に左の如し(三好氏の報告による)
    自明治廿五年至同廿七年東京地方裁判所管内未成年者犯罪調(重罪軽罪ヲ合ス)
  明治二十五年       二千四十六人
  同二十六年       二千二百十九人
  同二十七年        二千九十一人
    自明治廿五年至同廿七年東京地方裁判所管内被告人総数(重罪軽罪ヲ合ス但欠席ヲ除ク)
  明治二十五年     七千七百三十六人
  同二十六年        七千八百九人
  同二十七年       七千二百二十人
    自明治廿五年至同廿七年全国未成年者犯罪調(重罪軽罪ヲ合ス)
  明治二十五年   二万五千二百四十六人
  同二十六年     二万六千四百五十人
  同二十七年     二万七千六百七十人
    自明治廿五年至同廿七年全国被告人総数(重罪軽罪ヲ合ス但欠席ヲ除ク)
  明治二十五年   十四万二千百三十九人
  同二十六年    十四万八千百九十八人
  同二十七年    十五万千六百八十九人
即ち東京に於ては明治廿五年に於て被告人百人に対する未丁年犯罪者の数二六人四分強なりしもの廿六年に於て二八人四分強となり、二十七年に於ては更に上りて二八人九分六厘強即ち殆んど二十九人となれり、又之を全国の上より云へば明治二十五年に於て被告人百人に対する未丁年犯罪者の数一七人七分強なりしもの、廿六年に於て一七人八分強となり、廿七年に於ては一八人二分強となれり、以て未丁年犯罪者の増加急激なるを知るべし、翻て彼等未丁年犯罪者の情状を見るに統計年鑑の示すところ左の如し
    懲治場新入者ノ有様

            明治二十一年 同廿二年 同廿三年 同廿四年 同廿五年 同廿六年
  父母存在         一八八  二一五  三四二  三五〇  三七六  二七九
  父又は母のみ存在     一八一  二一四  三〇六  三六五  三八二  三八二
  父母共に死亡        九九  一二二  一五四  一九八  二二九  二四二
  棄児             一    ―    ―    一    ―    ―
  不詳             ―    ―    ―    四    四    六
   総計          四六九  五五一  八〇二  九一八  九九一  九〇九
  資産ある者         五〇   四七   四〇   三七   七〇   三〇
  資産なき者        四九一  五〇四  七六二  八七九  九一七  八七四
  不詳             ―    ―    ―    二    四    五
   総計          四六九  五五一  八〇二  九一八  九九一  九〇九
  読み書きをなし得る者    八三  一四一  一三一  一四四  二二一  一三六
  全く無学者        三八六  四一〇  六七一  七七四  七六九  七七三
  不詳             ―    ―    ―    ―    一    ―
   総計          四六九  五五一  八〇二  九一八  九九一  九〇九

右表中父母共に死亡したる孤児の入場者少なきは世に両親を共に失ふ
 - 第24巻 p.362 -ページ画像 
たる者の少数なるが故にして、一親を失ひたる者が両親を失ひたるものよりも犯罪の傾向少なしと見るべからず、且又両親を失ひたる者一親を失ひたる者に比して慈善者の注意を引くこと多ければ自から犯罪の境遇に陥ることも稍少なかるべきか、棄児の入場者少なきも亦同様なるべし、但し或意味に於て未丁年犯罪者は殆んど皆棄児同様の境遇に在りと知るべし、犯罪の原因之を以て概知するに足らん、即ち(一)個人的遺伝、(二)家庭及社会的境遇の不良、(三)経済上の変動は其主なるものなるべし、彼等の或者は犯罪的父母によりて生れ又其父母によりて養育せられたる者也、或者は貧苦の内に生れ貧苦の内に生長したるもの也、或者は家庭の変動例へば父若しくは母の死に遭遇し惨酷なる継母によりて養はれ、若しくは父母を失ひて路頭に迷ひ或は又棄てられて依るに所なく遂に浮浪悪徒の群に投したるもの也、其他維新以来制度の変更、都会に流入する人口の増加、之に附随して都会生活の困難都会生涯の誘悪多大なること、生活程度の一般に進歩したること等も亦一ツの原因なりとす、而して或者は実に経済上激変の為め社会の競争に堪へ得ざる者也、殊に近年犯罪者の増加前記の如くなる所以の者は、機械的文化の劇甚なる進歩と窮民救助法の不備より生ずる者なること不当の推測にあらざるべし、彼鉄道の四通八達は従来交通運輸の業に従事したる車夫・馬丁・担夫・舟子の如き者をして其業を失はしむる者幾十万人なるべきや知るべからず、紡績会社・織物会社の勃興は従来下流婦人職業の過半を奪ひ去りしにあらずや、其他如何なる新事業にても、一として労働社会に向て劇烈なる影響を与へざるものあらざるなり、我国は事業上より言はゞ、今や社会の大革命をなしつゝあるものと云はざるべからず、劇烈なる社会の大革命に遭遇して職業を失ふ所の者の犯罪者となるは誠に免るべからざるの事実にあらざらんや、是誠に止むを得ざるものにして、之に応ずるの策の如きは固より当路者有識者の夙に心を用らるゝ所にして、今之を論ずるは本旨にあらざるを以て之を言はす、窮民救助法の不備のために囚人の増加を致すは、前に詳記したるが如く彼の窮児を放棄したる結果のみにても彼の如く実に甚しきものあり、其他窮民救助法の不完備の為に生ずる犯罪人増加も亦推知すべきにあらずや、蓋し犯罪人減少の計ハ、犯罪の予防をなすより緊急なるはなく、犯罪の予防は窮民救助より急なるはなく、窮民救助は窮児収養より急なるはなきなり
窮児犯罪の罪質たる、社会の境遇に迫まられて止むを得す是に至るものたるに外ならず、彼等ハ実に依るべき所なく、衣食を得るに道なし乞丐をなさん歟、成長と共に人の哀憐せざるを如何せん、警官の駆逐するを如何せん、人の雇人たらん歟、受人たるものもなく証人たるものなくして、人の雇ハざるを如何せん、孟子曰く、恒の産なきものは恒の心なし、恒の心なければ放辟邪肆為さゝる所なきのみと、既に業を得るに道なく、衣食を得るの法なし、唯飢渇を免かるゝに急なり、豈善と不善を問ふの遑あらんや、知らず識らずの間犯罪者となり、終には治すべからざる習慣的犯罪者となり終るのみ、蓋し犯罪者の種類中其恐るべく厭ふべきものは習慣的犯罪者たり、習慣的犯罪者となる者は幼少年の犯罪者に外ならず、今社会の境遇が彼等を駈て習慣的犯
 - 第24巻 p.363 -ページ画像 
罪者たらしむるの事実歴然たるに於てハ、豈速に彼等をして其境遇を脱せしむるの道を講ぜざるべけんや
    東京地方裁判所管内 (三好氏の報告による)
      未成年者犯数調
    明治廿五年中

          十二年未満 十二年以上十六年未満 十六年以上二十年未満
  壱度         二七        二八一        二六八
  弐度         ――        一五八        三〇二
  三度          一        一一二        六三六
  四度         ――         五三         八三
  五度         ――         三七         五九
  六度         ――          五         一二
  七度         ――          二          五
  八度         ――         ――          二
  九度         ――         ――          一
  十度         ――         ――          二
    明治廿六年中
  壱度         四〇        三一二        七三二
  弐度          一        一七九        三七九
  三度         ――         八〇        一八五
  四度         ――         四八        一一六
  五度         ――         二六         六二
  六度         ――         一〇         二七
  七度         ――          三         一二
  八度         ――         ――          四
  九度         ――         ――          一
  十一度        ――         ――          一
  十二度        ――         ――          一
    明治廿七年中
  壱度         三三        三〇九        六二〇
  弐度         ――        一五五        三八七
  三度         ――         八三        一八一
  四度         ――         五二        一三三
  五度         ――         二〇         六七
  六度         ――          六         二七
  七度         ――          一          六
  八度         ――          一          三
  九度         ――         ――          二
  十度         ――          一          二
  十二度        ――         ――          二
  十三度        ――         ――          一

抑も一部社会の事変が、一般社会に影響を及ぼすは、恰も平静なる池水に石を投ずるが如し、一波数波を起し数波数千万波を起し、全池悉く波動を生して以て岸に達し再ひ反動を起して容易に平静に復せざる
 - 第24巻 p.364 -ページ画像 
が如く、小石は小波を起し、大石は大波を起すを知るべし、事変の全社会に及ぼす影響も亦復斯の如く大事大影響を及ぼし小事小影響を及ぼすと雖も、社会は複雑にして之を見る事容易ならざるが故に、其影響の結果は如何なる所まで及ぼしたる歟を見分る事能はず、彼窮児の掏摸と化し、盗賊と変じ世を害し人を損ふや、其影響は直接に損害を受けたるものに止まらずして、間接に全社会に悪影響を及ぼし悪結果を生するの如何なる所に至りて底止する歟を知るべからざるなり、若し夫れ窮児の悪化せざるに際し、彼等を教育して以て相当なる労働者となす事を得ば、一方には社会の損害を免るゝと共に国家の生産力を増加するものにして、其影響其結果前と反対に出で、社会を利し国家を益する偉大なるものあるは瞭々火を見るよりも明なり
試に窮児救養制度の設けある外国に就て之を見よ、監獄事務官小河滋次郎氏の語る所に依れば英国に於ては夙に感化事業の設けありたるが国家が大に其効用あるを認めて、終に千八百六十六年同六十八年発布の法律を以て「レフヲルメトリー、スクール」(犯罪に陥りたる不良少年を感化する場所)及び「インダストリヤール、スクール」(犯罪に陥らんとする無告の窮児を収養感化する場所)を設立するに至り、現今に於ては「レフヲルメトリー、スクール」六十一ケ所其収養男児五千四百五十四人同女児千百四十七人、インダストリヤール、スクールは百五十ケ所其収養人員男児壱万四千七十四人女児参千五百四十人、右総て弐百拾壱ケ所の感化院に於て計弐万四千弐百十五人の不良男女児を収養矯冶せりといふ、而して其成績甚だ著しく人口蕃殖生存競争の年一年激烈となるにも拘らず、曾て千八百五十六年に於て幼年犯罪の件数壱万三千九百八十一ありし所のもの十年後の六十六年に於ては漸次逓減して九千参百五十六となり、千八百七十六年には七千百三十八同八十二年には一層減少して五十六年の半数以下即ち五千七百件となるに至れり、加之丁年犯罪人の上に就て之を見るも、曾て千八百五十四年に於て懲役に処せられたる者弐千五百八十九人なりし処の者千八百八十一年に於ては千五百二十五人に減少し、同五十四年に於る禁錮処刑者壱万弐千五百三十六人は八十一年に於ては九千弐百六十六人に減少するに至れり、其斯の如き顕著の効果を見るに至りたる所以のものは監獄制度改良の結果にも由る事なるべしと雖も、所謂犯罪を嫩芽に苅る所の感化事業其者こそ与て大に力ありと謂さるを得ず云々と、此感化事業の設置ある英国の事実を以て前記我国の事実に比せば実に正反対の結果あるを見るへし、是我東京市が其必要を認めて、各地方に卒先して本院をして浮浪幼年収養の事業を創立せしめん事を議決せる所以なり
    ○窮児救養法及救養費概算
今棄児を救助する方法を見るに、棄られて歩行する能はざる者は直に棄児として収養し、同じく棄らるゝも能く歩行し得るの能力あるものは迷児として収養し一ケ月を経過して引取人なき時は棄児に編入するの制なり、而して同じく棄らるゝも、若し人の袖にすがり人の軒に立ちて人の哀を乞ふの能力ある時は、年齢の如何を問はず之を駆逐するは警察の一職務なりとす、故に窮児は甲区より乙区に逐はれ、乙区よ
 - 第24巻 p.365 -ページ画像 
り丙区に逐はれ、丙区より再び甲区に逐はるゝのみにて、恰も聯環を廻るが如きのみ、豈其当を得たるものといふべけんや、年齢は仮令当才子なるも十四・五才なるも棄児は均しく棄児なり、遺児は均しく遺児たり、人の哀みを乞ふの能力の有無を以て、之を収養するとせざるとの区別を立るは、毫も其理由ある事なし、故に本院は基金の増殖を謀り漸を以て悉く之を収養するの方法を立んとするなり
棄児・遺児は、如何なる能力の有無を問はず、満十五年迄の窮児を悉く収養し得ば市内の窮児は殆ど収養し尽すを得べし、而して其概算は幾許なるや、東京市内凡窮児五百名に過ぎざるべし、内満十五年以内の者は、其半数二百五十人位ならんと思はる、今前記したるが如き害悪を除んには先づ、満十五年迄の者を、徐々に収養の方法を講ずべし蓋し棄児・遺児の始めて乞丐となる者は、皆十五年以内にて、何れも救育せらるゝの道なき為に、止むを得ず、悪道に堕落するものなるが故に若し将来十五才以下の者を悉く収養せば、其継続者を絶つを以て其以上の者は之を放棄し置くも漸次其跡を絶つに至る事必然ならん
右の救育の方法は啻に東京のみならず、全国に設置せらるゝ事を望む然れとも是等の事は本院の力能く之を為すべきにあらず、只当局者の省慮を希望するに在るのみ
爰に一言せざるべからさるは、彼等を収養せば果して正しき生産者となし得らるべきや否やの事なるが、十二・三年以下の者に就ては深く懸念するに足らず、何となれば畢竟彼等は親戚知人の頼るべきものなく、営業に就くべき方法なく、衣食を得るに道なく、所謂社会の境遇に迫まられて止むを得ず悪化するものなるか故に、若し之を収養して彼に与ふるに衣食を以てし、彼に授くるに業務を以てし、且つ之を誘引するに教育を以てせば、何ぞ善良なる人となすを得ざるの理あらんや、飢へたるものには食をなし易く、渇したるものには飲をなし易しとは古の金言にあらずや、然れども彼等を善化せしむるにハ、其悪化の程度に依りて自ら難易あるべし、彼等が単に人の哀憐に依りて生活するの間にある者は、之を化する最も易かるべく、所謂「カツパライ」又は「ボタハジキ」と称するに至れる者は、之を化する稍難かるべく彼等が一層進歩して親方を有する掏摸と化し、窃盗と変じたるものに至りては、之を化するは殆ど難事なるべきなり、故に先づ恤救規則に相当するものは、悉く収養して悪化の根元を断絶するを以て、最も策の得たるものと信ずるなり
本院にては去廿八年より幼童雇預方法を設け店舗の走童又は職工の徒弟として望人へ預くるの事を創めたるより之を望む者甚多く、今日の勢を以てせば十年以上の児女は、幾許の多数あるも性質だに善良なれば忽ち雇預けとなし得べし、故に窮児を収養するに当りては、半日は簡易なる手工を授けて勤勉力行の良習を養成し、半日は簡易小学に就け誘ふに倫常の教誨を以てし、以て性質善良なる者より漸次に雇預となさば、一日の定員百名とするも一ケ年間其半数位は雇預となし得べきが故に一ケ年百五十人を収養し得らるゝものなり、今十三年以下の者百五名を収養するものと見做し一ケ年間之に要する経費は左の如し
 一金三千四百弐拾参円弐拾八銭
 - 第24巻 p.366 -ページ画像 
               歳出惣額 十三年以下の窮児百五名分一ケ年費用、一日一人に付拾銭
右一ケ年の経費に対する収入見込
 一金参千四百弐拾参円弐拾八銭    歳入惣額
      内訳
  金八百四拾九円弐拾五銭    下賜金壱万六千九百八拾五円の一ケ年利子
  金六百弐拾参円弐拾八銭    百名分国庫下付恤救米代但二十五六七三ケ年下米平均相場算出
  金千九百五拾円七拾五銭    此基本金額三万九千拾五円利子
      外に臨時費
 一金壱万三千弐百五拾円     家屋三百六坪弐合五夕建築費
前記の如く年々千九百五拾円七拾五銭を得べき基本金額三万九千拾五円と臨時建築費壱万三千弐百余円合計五万弐千弐百余円の義捐金を大方慈善者諸君より寄附せらるゝを得ば自今永遠に一日百五名の窮児を収養し得て一方には煢独依る所なき孤児をして各其所を得せしむると同時に社会の害毒を除き他方には犯罪者と監獄費を減すると共に多数の生産者を増加して国家の富を増進するの大効を奏すべきものとす
右は今度本院に於て創立すべき感化部に於るものより打算したるものなるが尚試に全国に渉りて窮児の収養と囚人囚監に於る利害を試みん今全国窮児の悪化して囚人となるもの幾人なる哉を概算するに、窮児の数は先東京に五百人、大坂に四百人、京都に二百人、他の各県に百人宛と仮定すれば全国に五千八百人となる、此半は悪化して囚人となると見よ、窮児を放棄したるの結果は実に年々二千九百人の囚人を出すの計算なり、事実に於ては窮児の数も前記の数よりは多かるべく、悪化して罪囚となるものも半数に止まらず、凡十中七・八に至るべきも爰に統計を得る能はざるが故に、東京に於て現在せる窮児の親方子分の数に独立窮児の数を概算し五百人を得たるを以て先東京を五百人と仮定し、他の府県の数を想像したるものなり、此想像数の半数二千九百人を囚人として要する費用は幾許なるべき乎、明治廿年より廿五年に至る監獄費一日平均一人当は拾四銭なり、之を二千九百人に乗すれば一日四百〇六円、一年拾四万八千百九拾円なり、而して本院に於て明治廿年より廿五年迄救育費一人一日平均は八銭四厘にて(前記予算には一日一人拾銭とせしは昨年以来物価非常の高直にて到底此平均金額にては不足なるに依る)其監獄費より少きこと六銭なり、若し右の窮児を養育するとせば一日弐百三拾弐円、一年八万四千六百八拾円なり、同数の人を養ふに監獄費より少なき事実に六万三千五百拾円の差なり、而して罪囚に要する費用は彼等を純良なる生産者たらしむる事覚束なきものなれども、悪化せさるものを収養するの費用は不生産的に悪化すべきものを純良なる生産者たらしむるものなり、其国家の大益なる火を見るよりも明なるにあらずや、然るに前記の窮児収養費は唯罪囚となるものに就き比較的に積算したるものなるも、窮児全数は其倍数五千八百人なるが故に、費用も亦倍数拾六万九千三百六拾円を要すれば全国の窮児を収養し得るの勘定なり、若し窮児収養を全国に於て実行し得たらんには、十年の後は今日の罪人の半数を減すると共に無生産的の人を化して多の善良なる生産者を得るものなり
前に論述せしが如く窮児は畢竟棄遺児の救養に洩れたる者に過ぎざる
 - 第24巻 p.367 -ページ画像 
が故に之を収養するは各府県の担任すべき者にして、国庫よりも亦恤救米を下付せざるべからざるものとす、而して今仮に窮児の数を全国に於て五千八百人とし一日一人の費用八銭五厘とせば、一ケ年収養経費十七万九千九百四十五円を要すべき勘定となる、而して十三年以下二千九百人、十三年以上十五年以下二千九百人と仮定し国庫より下付せらるべき恤救米代を計算するに、十三年以下一ケ年米七斗、十三年以上十五年以下一ケ年一石八斗の割なるが故に、合計七千二百五十石此代金六万四千八百拾五円(廿五・廿六・廿七三ケ年下米平均相場一石に付八円九拾四銭の算出)となる、左れば差引十壱万五千百参十円の不足にして、之を仮りに地方税の負担として各府県に割当れば左の如し(但仮定の予算)
 金九千九百弐拾五円 東京 人員五百人収養に付地方税支出額
 金七千九百四拾円  大坂 人員四百人収養に付地方税支出額
 金参千九百七拾円  京都 人員二百人収養に付同
 金千九百八拾五円  各県 人員百人収養に付同
初年は右の費用を要すと雖も、前段にも記したるが如く、本院に於て現今実行せる雇預の法に依り善良なる者より漸次に貸出すの方法を設けなば、凡二年目にハ五分の四、三年目にハ五分三、四年目には半額の費用に至るべきは必然なるべきを信ず、而して此方に収養費を要する代りに監獄費の年々減少を見るべきものなれば、実に一挙両得の策と云ふべきなり
尚爰に一言すべきは窮児収養事業は慈善に属するものなるが故に、一般慈善家の寄附金を奨励して之を基本金に編入すると共に、年々経費の残余を繰越金となさずして是亦基金に編入し、右基金の利子を以て経費を補充するの方を立つべし、斯の如き方法を設けなは、終にハ地方税を要せずして窮民救育の道を各地方に確立するを得べきなり


東京日日新聞 第七九二〇号 明治三一年三月一三日 ○感化部の設置(DK240044k-0006)
第24巻 p.367-368 ページ画像

東京日日新聞  第七九二〇号 明治三一年三月一三日
    ○感化部の設置
東京養育院にては、今回院内に感化部なるものを設置し不良少年を感化せむとする挙あり、為に同院委員長渋沢栄一氏及び委員諸氏は、去る九日の夜府下の新聞記者を帝国ホテルに招きて其経画の大要を演説し、岡部府知事及び三好退蔵氏等亦来り会せり、当夜渋沢氏演説の大要に曰く
明治二年の事なりし、露国の貴賓我国に来遊せむとすとの報あり、当時其筋にては帝国の首府に乞丐の徒の俳徊するは一国の体面に関すればとて、公費を以て此等の徒を収集し乞食頭車善七なる者に其取締を命じ、之を上野護国寺に収容せり、明治六年に至り時の府知事大久保一翁氏、夫の白川楽翁公の遺制に係る五厘金《(マヽ)》の東京市中の共有金として猶存在するものを確実なる人士に保管せしめむとて、予を招き相談する所あり、当時此の共有金の一部分を割て養育院を設立することとなりしが、是れ即ち今日の養育院の創始なり、爾来養育院は府の費用を以て維持せられしが、明治十四年頃府会に養育院廃止説起り、府会は調査委員を設けて之を調査せしむることゝなれり、当時予輩は府会
 - 第24巻 p.368 -ページ画像 
議員を歴訪して大に廃止の不可なるを説き、又調査委員に請に養育院の来観を以てしたるに、委員の一人は養育院を見て大に其必要なるを感じ、廃止説は終に府会に於て否決せられたるが、明治十六年に至り廃止説又々府会に現れ遂に可決せらるゝに至れり、是に於て予は時の府知事芳川顕正氏に向て廃止の不可なるを論じ、又説くに賦金を以て養育院の原資金とせむことを以てしたるに、芳川氏之に賛同し、府会亦之を容れ漸く養育院の命脈を維持するを得たり、然れども賦金の如きものを以て永遠の原資金と為さしむは稍危険の感ありしを以て、明治二十年頃より年々慈善会を催し以て原資金の増殖を謀れり、斯くて明治二十三年に至り自治制施行の事あり、当時予は養育院を以て私立となさんか将た又市の事業となすべきかに就ては頗る苦心したり、然れども一私人の事業たる盛衰に激変あることを思ひ、終に市に引継ぐこととなり以て今日に至れり、今日に於ては棄児・遺児・行旅病者の収容等稍遺憾なしと雖も、彼の浮浪の悪少年を感化するの経画に至ては一も存することなし、是に於て予等は夙に感化部の設置を経画せしが、昨年御大喪の節、恩賜金の事あり、市は其拝受せし金額一万六千九百八十五円を以て養育院に与へたるにより之を原資金とし、更に原資金三万九千余円及び建築費一万三千二百五十円を得て、以て感化院を新設せむとし慈善家に向て以上の原資金の義捐を乞はむとす、予輩は其金額の多少を論ぜず広く慈善家の義捐を得むとするものなり
と、渋沢氏の演説終るや、岡部府知事は感化部設置の甚だ必要なることを説き、併て渋沢氏等の多年養育院の事に関して尽力したる労を謝せり、次に渋沢氏は三好退蔵氏を来会の人々に紹介し、氏は感化学校設置の経画を為し、予に賛同を求められたるが、予亦感化部を起さむとするの志あり、依て氏に説くに私人の事業に盛衰の激変あるは免るべからざるの数なるを以てし、予等と合して尽力せむことを勧めしに氏亦之を諾し、終に感化部の顧問となりしことを披露す、次に三好退蔵氏立て、氏が感化学校設立の志を起したるは、氏が在職中裁判所を巡廻して不良少年の漸次増加するを見て感化事業の必要を感じ、官を去るの後感化学校を創立せむとし、之を渋沢氏に謀りたるに、氏の言により一私人の事業は一時如何に盛大を極むるも、創立者若し此世を去るの後は盛衰実に測るべからざるを感じたること、養育院の事業と感化事業とは其性質に就て多少相異る所あり、此点に就ては苦心する所ありしも、感化事業の急を要すると、同一の事業を双方に分れて経営するの不利益なることを思て、終に感化部の顧問となり、当初の目的を達する決心なることを説き、以て此会を了れり
不良少年感化の必要なるは多言を要せざる所、予輩は四方慈善家の此挙を助けむことを切に望む者なり


東京市養育院月報 第一一六号・第二三―二四頁 明治四三年一〇月 ○感化部の十年史 ○感化部創立前に於ける経過(DK240044k-0007)
第24巻 p.368-369 ページ画像

東京市養育院月報  第一一六号・第二三―二四頁 明治四三年一〇月
  ○感化部の十年史
    ○感化部創立前に於ける経過
本院に於て感化部設立の議を生じたるは、実に明治二十五年以来市内浮浪少年悪化の事情を取調べ之が収容感化の必要を感じ、委員会の議
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に付して種々の調査を経たるの結果にして、爾来其進行を計りたり、二十八年春日清戦争の終局を告ぐるや、全国挙て凱旋塔建設の計画あり、本院は此機を利用して凱旋院を創立し乞児収容感化の事を発表せんとせしも、遼東還附の事に依りて挫折せり、次で二十九年七月二十三日本院の調査にかかる乞児悪化の状況並に乞児問答書本を添へて、収容に漏れたる満十三年以下の孤児を収容せられん事を市参事会へ建議せり、然未だ其の実行の機を得ざりしに、翌三十年一月 英照皇太后陛下崩御の砌、各府県へ慈恵救済資金を下賜せられたるに際し、本院委員会は数次協議の末、同年五月二十日御下賜金の内本市に属する分を本院基本財産の内へ下賜せられたき旨を市参事会に提供せり、七月二十八日東京府知事より、今般東京市部へ配当の恩賜金壱万六千九百八拾五円及利子を命令条件を付し下付候条、其市養育院の基本財産となし之を管理すべし、との通牒あり、十月二十五日市会に於て感化部設置の決議せらるゝと共に、右恩賜金を感化部基金となす事に確定せり、之を本院創設の濫觴となす、三十一年一月二十七日本部設置寄附金募集に付き、曩に本部創設費として仏人アルベルト、カン及渋沢栄一両氏よりの寄附に係る金員の内七百六十七円余を支出して募集費に充てたり、先是前大審院長故三好退蔵氏は、悪化少年救済の方法を講し感化学校を設立せんとして既に其事務所を開きつゝありしが、時の東京府知事久我侯爵及本院々長渋沢男爵等の交渉により之を中止し本部設立の為め協力せられん事を約せられ、同二月二十五日三好氏を推薦して本部顧問を嘱託せり、三月三日義捐金勧誘の件に付き警視庁の許可を得たりしかば、第一着手として同月八日帝国ホテルに於て岡部知事・鈴木書記官・各区会議長・同代理者・各区長・各首席書記・各新聞主筆諸氏を招待し、渋沢委員長及各委員より寄附金募集の事に関する協議を為し、其結果として各区長・名区会議長及同代理者諸氏は、各区内寄附金募集事務員たる事の承諾を与へられたり、各新聞主筆諸氏も亦本部設置に関して応分の助力を為せん事を承諾せられたり而して本部創設後維持の資金は大約七万九千余円と定め、此内恩賜金にかゝる一万七千円を除きて残余の六万余円は広く江湖慈善諸氏の捐助を請ふべきものとし、同月二月十九日勧誘に関する書面を配付し、次で事務員をして勧誘に従事せしめたり、然るに予定の金額に達するは容易ならざるの故を以て、十二月六日不取敢予定人員の半数を収容すべき場舎を建築し、以て感化事業の端緒を開かんとの議案を市会に提出し、翌三十二年六月二十九日市会に於て建築費予算六千百五十円支出の議決を得たり、即ち同十月三日木造瓦葺九十七坪五合・便所廊下二十七坪を新築に着手し、翌三十三年二月竣工せり
○下略


養育院六十年史 東京市養育院編 第四七五―四八八頁 昭和八年三月刊(DK240044k-0008)
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養育院六十年史 東京市養育院編  第四七五―四八八頁 昭和八年三月刊
 ○第六章 学校及分院
    第一節 井之頭学校
 現在本校の名称は「東京市養育院感化部井之頭学校」と称する。この感化部の開設を見るに至りし淵源は、遠く明治十四年(一八八一)
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の頃に遡る。当時養育院に収容せる窮民中、往々不良少年あり、当事者は懇篤教誡を加へて、これが矯正に努力せるが、到底改悛の見込立たざる場合は警視庁と協議し、府知事に上申して、これを懲治監に入るゝ手段を取つた。
 明治十六年(一八八三)、本院へ棄遺児養育方を依託せられたるよりこれ等収容児童に付ては鋭意生業に就かしめ、又は雇預手続により相当成績を挙ぐるに至つた。然るに明治二十七・八年(一八九四―九五)日清戦争前後より、本院収容外の棄児又は孤児にして、悪化するもの市中に増加せる事実に顧み、本院委員会は屡次その調査を行ひたる結果、広く彼等孤独児を収養する方法を立て、意見を附し、明治二十九年(一八九六)七月二十一日を以て、市参事会に上申する所ありしが未だその実行の機を得るに至らなかつた。
 英照皇太后 崩御の後、各府県へ慈恵救済資金を賜はりたるに際し本院委員会は数次協議の末、明治三十年(一八九七)五月二十日を以て、左の建議書を市参事会に提出した。
 曩に棄児・遺児の収養に洩れ候者、乞食・屑拾様の業体に従事するも到底生活費を得る能はさるより、盗児・掏摸の如き者に悪化し遂に囚人と相成候者不少に付、右等の者の収養方法を設けられん事を建議致し候得共、該費途及ひ収養方法は未た考案も無之候処、過般英照皇太后 の御大喪に際し恤窮資として府県へ下賜相成候金員の内本市に属する分を本院基本財産の内へ下賜せしめられ候得は、本院に於ては之に加ふるに江湖慈善家を勧誘して義捐金を請ひ、之を基金として右等浮浪の幼年者を収養し、改過遷善の実効を奏し候様致し候得は聊以て
 陛下 御追孝の御旨趣に答へ奉り、且つ曩に建議致し候旨趣をも貫徹致し候次第に付、右恤窮資を本院へ下賜せしめられ候様御取計あらん事を委員会の決議を経、謹て建議致し候也
右の建議は貫徹し、同年七月二十八日を以て、東京府知事より発第八六一号の二を以て左の達があつた。
 一発第八六一号の二
                        東京市
 今般東京市部へ配当の恩賜金壱万六千九百八拾五円及利子は、左之命令条件を付し下附候条、其市養育院之基本財産と為し之を管理すへし
  明治三十年七月二十八日
              東京府知事 侯爵 久我通久
      命令条件
 第一条 東京市養育院に於て従来の規模を拡張し更に感化部を置き別紙目論見書の如く慈恵救済の事業を施設し、永遠無窮に恩賜の御意を貫徹せしむる事を要す
   但本目論見増減変更せんとする時は予め当庁の認許を受くへし
 第二条 東京市養育院感化部の施設に要する基金の内、義捐金は此際之を募集し、其予定金額に達する場合に於て恩賜金を養育院に下附し其基本財産に編入せしむるものとす
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 第三条 東京市養育院に下附せられたる恩賜金額は、同院感化部の基本金に充て永遠に之を維持保管すへし、決して其原資を消耗すへからす
 第四条 恩賜金より生する利子は、東京市養育院感化部事業費に充つるの外一切他に使用すへからす
 第五条 東京市養育院感化部を廃罷するときは、恩賜金を当庁へ返納すへし
 第六条 当庁官吏を派遣、下附の恩賜金額之保管、利子の支出及感化部の出納を検閲せしむることあるへし
 第七条 一ケ年度に於ける東京市養育院感化部の事務成績及収支予算は、会計年度開始後一ケ月以内に、精算は会計年度の終より遅くも四ケ月以内に之を当庁に報告すへし
 第八条 東京市養育院感化部の事業施設上都合ありと認むるときは其方針を指揮し之を改定せしむることあるへし
 第九条 本命令条件を履行せす若くは之れに違背する場合に於て、当庁の指揮に従はさるときは恩賜金を返納せしむることあるへし
 第十条 前各項を堅く遵守すへき旨の受書を作り、之を当庁に差出すへし
      養育院感化部目論見
 一、感化部は養育院構内に於て別に建築し、普通の棄児・遺児等との交通を隔離して、以て其未た善化せさる間の悪習を伝播せしめさること
 一、養育院幹事及書記をして教誨感化の事務を兼ねしめ、且適当の看護人を採用すること
 一、教誨感化の効ある者は之を本院幼童室に移し、普通の棄児・遺児と一様に教育すること
 一、右本院幼童室に移したる者は、市訓令第七十九号に拠り縁組又は雇預け等其望人あるに応して手続を為すこと
 一、実業・学業両様とも適宜に教授すること
 一、平均一日百五人を収養する見込なり
然るに同年十月十四日付を以て、該命令条件は左の通り更正された。
 一発第八六一号の三
 本年七月二十八日一発八六一号の二を以て東京市部へ配当の恩賜金を其市へ交付に付、命令条件相達置候処、今般詮議の都合有之、該命令条件中左の通更正候条、此旨相心得らるへし
  明治三十年十月十四日
              東京府知事 子爵 岡部長職
   東京市参事会
    東京府知事 子爵 岡部長職殿
      命令条件
 第一条 東京市養育院に於て従来の規模を拡張し、慈恵救済の事業を施設して永遠無窮に恩賜の御意を貫徹せしむることを要す
 第二条 恩賜金は東京市養育院に於て施設する事業拡張の目的相立たると認むる場合に於て之を下附す
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 第三条 東京市養育院に下附せられたる恩賜金は、同院の基本財産に編入し永遠に之を維持保管すへし、決して其原資を消耗すへからす
 第四条 恩賜金より生する利子は、東京市養育院に於て拡張する事業費に充つるの外一切他に使用すへからす
 第五条 東京市養育院に於て拡張したる事業を廃罷するときは、恩賜金を当庁へ返納すへし
 第六条 東京市養育院に於て拡張する事業の施設上不都合ありと認むるときは、其方針を指揮し之を改定せしむることあるへし
 第七条 本命令条件を履行せす若くは之に違反する場合に於て、当庁の指揮に従はさるときは恩賜金を返納せしむることあるへし
 第八条 前各項を堅く遵守すへき旨の受書を作り、之を当庁に差出すへし
越えて十月二十五日、市参事会より左の議案を市会に提出あり、愈々感化部設置の事は確定するに至つた。
 本市養育院に対し今般恩賜金を交付せられたるに就ては、同院従来の規模を拡張し更に感化部を置き、別紙目論見書の如く収養感化の事業を施設し、以て永遠無窮に恩賜の御旨意を貫徹せしめんとす
      感化部目論見書
 一、今般御交付の恩賜金に有志者の義捐金(此際新に募集す)を併せて基金となし、本院に感化部を設置する事
 一、感化部は養育院構内に於て別に建築し普通の棄児・遺児等との交通を隔離し以て其未た善化せさる間の悪習を伝播せしめさる事
 一、養育院幹事及書記をして教誨感化の事務を兼ねしめ、且適当の看護人を採用する事
 一、教誨感化の効あるものは之を本院幼童室に移し、普通の棄児・遺児と一様に教育する事
 一、右本院幼童室に移したる者は、市訓令第七十九号に依り縁組又は雇預け等其望人あるに応して手続きをなす事
 一、実業・学業両様とも適宜に教授する事(費用概算は略之)
   但最初凡百人を収養し一人一日拾銭を要する見込にして、目論見書にあるか如く善化したる者は他の望に依り縁組又は雇預を許して、其欠員ある毎に其補欠を収養するものとして、且基金の増殖に随ひ漸次人員を増加するものとす
 これより先、三好退蔵は感化学校設立の挙あり、既に事務所を開き着々事業の進行を謀りつゝありしが、本市に於て公共事業として感化部設置の挙あるに当り、私設の挙を中止して本院感化部設立に尽力せらるゝ事となり、明治三十一年(一八九八)二月二十五日を以て感化部顧問を嘱託した。斯くて三月八日より寄附金募集の協議を為し、同二十九日愈々左の書面を江湖の篤志者に向け配布するに至つた。
 曩に英照皇太后 の御大喪に膺り
 聖念の優渥なる窮民の情苦を哀衿し給ひ、各地方救恤の費として内帑を下賜せられ、我東京府の奉受する所は弐万五千円にして、此内市に属する者壱万六千九百八拾五円を養育院の基本財産に編入する
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ことを得たり
 嗚呼九重雲深きも聡々四達恩無告に及ひ、寒夜御衣を脱せられし御仁徳と相照映して其光輝万世消すへからす
 誰か
 聖慈の厚きに感泣せさるものあらむや
  惟ふに救恤の道は甚た広く其法亦頗る多しといへとも、要之無知矇昧の窮児を善導教育して人たるの本分を保たしめ、病苦凍餒の貧民を収養救済して其死を免かれしむるより急なるはなし、故に我養育院は創立以来鰥寡孤独を収救するを専務と為し、爾来慈善諸君の賛助に藉り規模既に備はり、功用漸く広く社会救済上に於て居然たる一機関に任するといへとも、未た此の如くにして足る者と謂へからす、然るに今回料らす此恩賜あるを以て、此金額を基本として大に天下慈善家の賛成を求め、許多の義捐金を得て之に加へ、新に感化部を設けて以て
聖徳の厚きを奉体し、窮児の窮苦を施済せむと欲す
 嘗て窮民子弟の情体を観察するに、内に之を教育するものなく外に之を提誨するものなく、飢寒之を駈て乞食・紙屑拾の群に陥れ、遂に不良の習慣に浸染せしめ、掏摸・窃盗至らさる所なく、法網に罹り刑人と為るもの比々皆是なり、其為す所甚た悪むへしといへとも境遇の然らしむる所其情状憐憫に堪へさるものあり、若し之を自然に放任して顧みさる時は則自暴自棄の極危を冒し険を蹻み、罪を犯して自ら省みす、甚たしきに至ては徒を集め党を結ひ、社会の安寧秩序を壊乱するに至るも亦知るへからす、是れ本院か今日を期として不良少年を収養教育し、以て悪漢兇豎の萌芽を未然に防遏し、倫常徳義の扶植に就て幾分裨補せむと欲するの挙ある所以なり、其詳査せし所の情状と方法規程に至ては別冊を以て参考に供す
 仰き願くは世の志士仁人、捐助の多寡を論せす腋を集め裘を成し、斯慈善義済の事業を賛襄し、上は
皇恩の優渥なるに報ひ、下は社会共存の義務を尽さむことを某等切望の至りに堪へす、謹て告く
  明治三十一年三月 日
          東京市養育院委員長   渋沢栄一
          同委員         小川三千三
          同同          中島行孝
          同同          金田伝兵衛
          同同          西村虎四郎
          同同       子爵 松平定教
          同同          安田善次郎
          同感化部顧問      三好退蔵
      感化部創設の要旨
 一、感化部は 恩賜金に基き広く慈善諸君の義捐を得て創立し、窮児を救養して自営自食の民に善導し、以て乞食・掏摸・小盗等の種類を未萌に減少し、社会の安寧を裨補せむと欲するを以て目的とす
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 一、感化部は東京市養育院構内に別築して普通救養の幼童と交通を離隔し、簡易小学科を授け並に生産作業を教授すへし
 一、感化部創設及ひ維持の資金は大約七万九千円を要し、此内壱万七千円は 恩賜金にして、広く慈善諸君の捐助を請ふへきものは六万余円となす
斯くして市内各区には右寄附金に関する委員及事務委員を嘱託し、而して各区委員より区内へ左の書面を発した。
 曩に本府が
皇太后 の慈恵救済資を拝戴するや、本市に於ては東京市養育院の事業を拡張して感化部を創設し、窮児収養の事業を起す事に確定致候に付ては、小生共大にその美挙を賛成し進んて其資金募集の委員と相成候次第に御座候、該事業たる固より本市の事業とは申しなから毫も市税等に依りて之を起すにあらすして
恩賜金 及ひ慈善家の義金を基本として之を興し、且永続の方法を謀るものにして、委曲は同院常設委員の公啓及ひ其方法書に詳述せられたる通りに有之候、願くは此美挙を賛助し多少の義金を投せられ大に其奏効あらしめられんことを伏して懇請の至りに堪へす 敬白
  明治三十一年三月
感化部設置費寄附金勧誘は前年より引続き行はれ、明治三十二年(一八九九)に至り金額四万二千八百余円に達したるを以て、同年十月大塚辻町養育院本院構内に感化部建物の工事に着手し、翌三十三年(一九〇〇)二月竣工を告げた。五月七日市会は本部の入院規則を制定し七月六日府知事の許可を得たるもの即ち左の通りである。
      感化部入院規則
 第一条 本部に入院せしむる者は、本市内に居住し左の各号の一に該当する者に限る
  一、満八歳以上十六歳未満にして、扶養義務者なき悪化の虞あるもの
  二、満八歳以上十六歳未満にして、放逸又は不良の行為ありて扶養義務者無資力の為め之を矯正すること能はさるもの
 第二条 入院を許可するは左の手続に依るものとす
  前条第一号の場合に於ては、認知者又は警察署長若くは区長の紹介ありたるとき
  前条二号の場合に於ては扶養義務者より出願したるとき
 第三条 入院を出願する者は、左の事項を記載し戸籍の謄本及所轄区長の証明書を添え養育院委員長に願出つへし
  本人及ひ出願者の氏名・住所・年齢・族籍・職業、本人の性行及ひ家族の状況
 第四条 第一条第二号該当者の入院は出願の順序に拠る、但し本人の情況に依り特に其順序を変更することあるへし
 第五条 入院者満二十歳に達したるとき、若くは改善の事蹟明かなるときは之を退院せしむへし
 第六条 第一条第一号の入院者の親族中扶養の義務ある資力者を発見したるときは、直に本人を引取らしむへし
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 第七条 府県其他公共団体に於て救助せらるゝ者又は入院費用の弁償を得へき者は、其費用を受け本部に収養することあるへし
斯くて同年七月二十二日感化部開始式を挙行し、愈々不良少年の収容を開始するに至つた。これ即ち養育院感化部の濫觴である。
○下略


竜門雑誌 第一四七号・第四六―四七頁 明治三三年八月 ○養育院感化部の開始式詳報(DK240044k-0009)
第24巻 p.375 ページ画像

竜門雑誌  第一四七号・第四六―四七頁 明治三三年八月
    ○養育院感化部の開始式詳報
東京市養育院感化部の開始式の去月廿二日小石川大塚なる同院に於て挙行せられたることは、前号に一寸と記載したるが、今其詳細を記せんに、当日参集したる重なる来賓は清浦司法大臣・伊達侯・土方伯・小笠原子・千家東京府知事を始め、四谷・牛込・神田の各区長、其他府市名誉職・新聞通信記者百二十名余にして、席定まるや松田市長・千家知事の祝詞朗読あり、次に同院の委員長たる青淵先生には養育院感化部の沿革より同部設立の必要を述べ、進んで将来に対する企望に渉り、一時間余の長演説あり、夫れより同部顧問三好退蔵氏は統計に拠りて感化慈善事業の必要に論究し ○中略 清浦司法大臣・土方伯等の演説あり、右終て一同は院長及び事務員の案内に依り、院内各所を縦覧し、同十一時より立食の饗応あり、午後一時頃より思ひ思ひに退散したり
 因に記す、当日現在同院か収容せる窮民・病者・棄児等の人員は左の如し
       男 百七十一人
  窮民           計 二百六十一人
       女   九十人
       男  九十七人
  行旅病者         計 百四十八人
       女  五十一人
       男  七十六人
  棄児           計 百三十二人
       女  五十六人
       男  二十七人
  遺児           計 五十七人
       女   三十人
       男    十人
  迷児           計 十八人
       女    八人


東京市会史 東京市会事務局編 第一巻・第七九九―八〇二頁 昭和七年八月刊(DK240044k-0010)
第24巻 p.375-377 ページ画像

東京市会史 東京市会事務局編  第一巻・第七九九―八〇二頁 昭和七年八月刊
 ○明治年間 第九章 明治三十年
    第九節 救護事業
十月二十五日附市参事会ヨリ、左ノ議案提出アリ。
  第七十六号
      養育院感化部設置ノ件
  本市養育院ニ対シ、今般恩賜金ヲ交付セラレタルニ就テハ、同院従来ノ規模ヲ拡張シ、更ニ感化部ヲ置キ、別紙目論見書ノ如ク救養感化ノ事業ヲ施設シ、以テ永遠無窮ニ恩賜ノ御旨意ヲ貫徹セシメントス。
   明治三十年十月二十五日提出
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            東京市参事会
              東京府知事 子爵 岡部長職
(別紙)
      養育院感化部目論見書
  一 今般御交付ノ恩賜金ニ、有志者ノ義捐金此際新ニ募集スヲ併セテ基金ト為シ、本院ニ感化部ヲ設置スルコト。
  一 感化部ハ、養育院構内ニ於テ別ニ建築シ、普通ノ棄児・遺児等トノ交通ヲ隔離シテ、以テ其未タ善化セサル間ノ悪習ヲ伝播セシメサルコト。
  一 養育院幹事及書記ヲシテ、教誨感化ノ事務ヲ兼ネシメ、且適当ノ看護人ヲ採用スルコト。
  一 教誨感化ノ効アル者ハ、之ヲ本院幼童室ニ移シ、普通ノ棄児遺児ト一様ニ教育スルコト。
  一 右本院幼童室ニ移シタル者ハ、市訓令第七十九号ニ拠リ、縁組又ハ雇預ケ等、其望人アルニ応シテ手続ヲ為スコト。
  一 実業・学業、両様トモ適宜ニ教授スルコト。
  一 平均一日百五人ヲ収養スルノ見込ニシテ、之レニ要スル経費収入等ハ、別紙ノ如シ。
     養育院感化部乞児収養費収入支出及建築費等見込
  一金五万六千円          収入高
        内
    金壱万六千九百八拾五円     恩賜金
    金参万九千拾五円        有志者寄附
  一金壱万参千弐百五拾円      建築費
        内
    金壱万弐千弐百五拾円      家屋二棟
     但建坪三百六坪二合五勺 一坪四拾円ノ見積
    金千円             地均シ及下水井戸板塀
   差引残金四万弐千七百五拾円   養育院感化部基金
      養育院感化部乞児収養経常費一箇年収支概算
  一金参千百弐拾六円参拾九銭    収入高
  一金弐千八百八拾壱円拾七銭六厘  支出高
    差引残金弐百四拾五円弐拾壱銭四厘
市会ハ、十一月二十九日ノ会議ニ上程、峰尾勝春君ノ動議ニ依リ、議長指名五名ノ委員ニ調査ヲ附託スル事トシ、議長ハ委員ヲ左ノ如ク選定セリ。
    長谷川深造  小川義春  中鉢美明
    今井兼輔   秋虎太郎
委員ハ長谷川深造君ヲ委員長ニ推シ、審査ノ末、原案ヲ相当ナリト認定シタル旨、十二月二十五日ノ会議ニ報告スル所アリ、市会ハ即日之ヲ議題ニ供シタルニ、長谷川泰君、本員ハ感化事業ニ対シテ不可ヲ唱フルニ非ズ、只普通教育スラ未ダ充分ナラザル今日、感化部ヲ新設シ依テ以テ貧民子弟ノ悪化ヲ防ガントスルハ、倒行逆施ト考フルモノナリ。若シ夫レ本案ガ、浅草公園・其他市内各処ニ散在シテ掏摸・かつ
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ぱらひ等ヲ働キツヽアル児童ノ総テヲ収容シ、之ヲ純良ノ途ニ導ク精神ナリト云ハヾ、予算表ニ示セル僅々五万円ノ資金、何ノ用ヲカ為スベキ。寧ロ本案予算書ノ資金ヲ以テ、職業学校ヲ建設シ、公費ニテ貧民ノ子弟ニ教育ヲ施シ、適当ノ職業ヲ授クルニ及カズト考フ。故ニ本案ハ、一先ヅ之ヲ廃棄セラレンコトヲ望ムト述ベ。佐久間貞一君ノ賛成アリ、委員ノ一人タル小川義春君モ亦否決説ヲ主張スル所アリタルガ、採決ノ結果、原案賛成者多数ニテ、原案通リ可決セリ。


東京市会史 東京市会事務局編 第二巻・第二八五―二八六頁 昭和八年三月刊(DK240044k-0011)
第24巻 p.377 ページ画像

東京市会史 東京市会事務局編  第二巻・第二八五―二八六頁 昭和八年三月刊
 ○明治年間 第二章 明治三十二年
    第弐拾四節 養育院感化部新設
養育院収容児童中、不良性ヲ有スル者ト然ラザル者トヲ同居セシムルコトハ弊害アルニ因リ、明治三十一年四月二十九日ノ会議ニ於テ、第三十一号議案ヲ以テ感化部新設準備費金千弐百参拾弐円追加予算ノ提出アリ、市会ハ満場異議ナク原案通可決シタルヲ以テ、爾来理事者ハ寄附募集ニ著手シタルモ、三十二年六月ニ至リ予定ノ金額ニ達セザリキ。然レドモ予定金額ニ達スルヲ俟ツハ、徒ラニ事業遷延ノ虞アルニヨリ、醵金中ヨリ予定人員ノ一半ヲ収容スル目的ニテ新築工事ニ着手スル事トシ、第五十二号議案ヲ以テ金七千七百六拾参円拾四銭参厘ヲ追加予算トシテ計上、六月十九日ノ会議ニ提出アリ、市会ハ村上耕一郎君ノ動議ニ依リ、議長指名三名ノ委員ニ調査ヲ附託スル事ニ決シ、議長ハ委員ヲ左ノ如ク選定セリ。
    太田直次  青木庄太郎  村上耕一郎
委員ハ村上耕一郎君ヲ委員長ニ推シ、審査ノ末六月二十八日ノ会議ニ於テ村上委員長ヨリ、井戸二箇所ヲ一箇所トシ、其他ハ見積単価ヲ減ジ、予算額ヲ六千参百五拾七円七拾銭六厘ニ減ジタル旨報告アリ、市会ハ異議ナク、委員会ノ報告通可決セリ。


東京市会史 東京市会事務局編 第二巻・第四二六―四二七頁 昭和八年三月刊(DK240044k-0012)
第24巻 p.377-378 ページ画像

東京市会史  東京市会事務局編  第二巻・第四二六―四二七頁 昭和八年三月刊
 ○明治年間 第三章 明治三十三年
    第十参節 養育院ノ拡張
○上略
▽養育院感化部ニ関スル建議  更ニ六月二十二日ノ会議ニ於テ、幼童室其他建築修繕費ノ追加予算ヲ議決スルヤ、先ニ養育院入院規則ノ改正及ビ感化部入院規則設定案ノ調査委員ニ当レル吉田幸作君外四名ヨリノ提出ニ係ル、左ノ建議ヲ付議セリ。
      養育院感化部ニ関スル建議
  東京市養育院感化部設置ノコトハ本会ノ賛成スル所ナリ。然モ其設備未タ完カラスシテ、入院者予定百名ニ過キス。今現ニ設計完成ノモノハ其半数即チ五十名ナリトス。然ルニ市内悪化ノ虞アル少年数ヲ観察スルニ、各警察署ニ於テ収容シ、感化遷善ノ為メ他ニ依託スルモノ実ニ数百名ナリトス。故ニ感化部入院ノ紹介アルモ其数ニ制限アリテ、之ヲ拒絶スルノ止ムヲ得サルハ今ヨリ推定シ得ル所ナリ。市参事会ハ是等少年収容ノ方法ニ付テハ更ニ調査
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ヲ遂ケ、相当ノ提案アランコトヲ望ム。
高橋庄之助君ハ、本建議案ノ趣旨ヲ説明シテ曰ク、本員等ハ過日第四十七号及ビ第四十八号両議案ノ調査委員ニ当選シ、養育院入院規則改正並ニ同院感化部入院規則設定等ニ関シ取調ニ従事セル際、種々ナル材料ヲ得テ慎重ニ講究シタルニ、市内ノ少年ニシテ悪化ノ虞アルモノ現ニ数百人ニ達ス、各警察署ハ随時之ヲ収容シテ、遷善感化ノ為メ依託教養ヲ加ヘツヽアリト雖モ、到底限リナキ人員ヲ収容スルコト能ハズ、今ヤ養育院ニ感化部ヲ設置スル以上、各警察署ガ是等ノ不良者ヲ送致シ来ルコト明白ナリ、然ルニ現在ノ養育院感化部ハ、僅ニ百名ヲ入ルヽノ予定ナルモ、今日ニ在テハ尚五十名ヲ収容シ得ルニ過ギザルガ故ニ、仮令入院ノ紹介アルモ、之ヲ拒絶セザルベカラズ、斯クテハ折角感化部ヲ設クルモ、充分ノ効果ヲ収ムル能ハザルニ依リ、乃チ本建議ヲ提出セル所以ナリト、斯クテ本案ハ直ニ可決セラレタリ。
   附記 前年起工ニ係ル養育院感化部建設工事ハ竣工ニ及ヒタルヲ以テ、七月二十二日開始式ヲ挙行セリ。


東京市養育院月報 第一号・第四―五頁 明治三四年三月 本院感化部設立に就て(三好退蔵)(DK240044k-0013)
第24巻 p.378-379 ページ画像

東京市養育院月報  第一号・第四―五頁 明治三四年三月
    本院感化部設立に就て (三好退蔵)
諸君!余は当感化部顧問として斯業に従事するものなれども、斯業上特別の学識なく又経験なし、唯夙に感化教育の必要なることを感じ、不良少年を収養し感化の目的を達し犯罪を予防せんと欲するの熱心あるのみ、此熱心は余が曩きに在官の日職務を以て各地の裁判所を巡視し、到る処の監獄に於て幼年囚の処遇甚不完全なるを見て憫然の情に堪へず、窃に救済の志を抱きたるに起因す、爾来幼年犯罪者の増減に注目し、明治十五年より廿七年に到る十三年間の統計を按ずるに、十五年より廿二年に至る八年間は概ね九千人より一万四・五千人に止まりしに、廿三年より年々其数を増し、廿七年の如きは二万七千六百七十人の多きに至れり、明治二十八年以来は稍其数を減じおれども、三十一年に於ても尚二万三千三百七十二人あり、因て試に東京地方裁判所管内最近三ケ年間の統計を調査せしに
  明治二十九年      千五百八十二人
  同三十年        千五百二十三人
  同三十一年       千五百五十三人
にして、全国中殆ど十五分の一は東京府下の幼年犯罪者なり、勿論感化部に収養せんとする者は八年以上十六年未満に限るを以て、更に十六年未満の人員を挙れば
  明治二十九年      四百二十八人
  同三十年        三百七十三人
  同三十一年       三百六十九人
なり、是れ皆一旦刑事被告人として裁判所の判決を受けたるものなれども、此外東京市内に彷徨する不良少年、即ち十六年未満にして犯罪の傾向ある者を精査せば、感化教育を要する目的物の総数は蓋し常に五・六百人を下らざるべし
抑不良少年の国内に増加するは、猶疫病の社会に蔓延するが如し、感
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化教育の必要なるは予防衛生の急務なるに同じ、若し之を自然に放任して顧みざるときは大に国の健康を傷るのみならず、監獄の費用之が為めに増加し、国家の経済之が為めに不測の損害を被むるものあり、又其罪悪の増長する所、時に或は人民の財産・権利を蹂躙するのみならず、国家の安寧秩序を壊乱するに至る、其危険啻に疾病のみならざるなり、此れ余が曩きに感化学校を創立して不良少年の犯罪を予防せんと欲したる所以なり
当時余は先づ東京府下に一の感化学校を設け、欧米諸国感化学校の規程を斟酌し、教授方法を定むるの見込なりしも、其創立及維持の経費に至ては余の微力固より之を弁ずるに足らざるが故に、之を世の仁人君子に訴へ其賛成を得て余の目的を達せんと欲し、先づ之を渋沢栄一氏に謀れり、然るに氏は当時恰も感化部創設の計画中なりしを以て、直ちに同情を表せられしは勿論、東京府下の不良少年を収養教育して犯罪を予防せんとするの目的は全く余と同一なりしと雖ども、氏は之を養育院の一部として東京市庁監督の下に事業を経営せんとし、余は之を一個人の私立学校と為さんとするの点に於て、其方法に関する意見を異にせり、因て反覆論談数回交渉の末、余は大に氏の公義心に感ずる所あり、且つ時の東京府知事久我侯爵の周旋する所ありしが故に断然余の計画を廃して渋沢氏の意見に従ひ、氏と共に東京市公共団体の慈善機関たる養育院感化部の事業に従事することに決し、感化部顧問の嘱託を受け拮据経営漸く今日の事業開始を見るに至れり、故に余は自是渋沢委員長の指揮に従ひ経験を積み練達を加へ、生徒を監督愛育し化して良民と為すを期し、誓て人道に従ひ天職を尽さんと欲す
然れども此事たる国家百年の大計、社会永遠の事業なれば、余輩小数人の能くする所にあらず、諸君は東京市民として殊に朝野の有力者として、幸に感化部に同情を寄せられ、不良少年の東京府下に迷へるものをして帰する所を知らしめ、犯罪予防の実を挙げ感化教育の目的を達し、国光を添ふることを得せしめられんことを切望之至に任へす



〔参考〕渋沢栄一 日記 明治三三年(DK240044k-0014)
第24巻 p.379 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
十月十七日 晴
○上略 午後四時富士見軒ニ抵リ、養育院感化部事業ニ関シ同好ノ諸士会談ノ席ニ列ス、蓋シ三好退蔵氏ノ催ス処ナリ、軍人ニハ佐藤少将、医師ニハ三浦・片山、其他古賀・久保田等ノ諸氏来会シテ、海外感化事業ノ実験談アリ ○下略



〔参考〕社会 第二巻第一七号・第八〇―八一頁 明治三三年八月 養育院感化部を訪ふ(DK240044k-0015)
第24巻 p.379-380 ページ画像

社会  第二巻第一七号・第八〇―八一頁 明治三三年八月
    養育院感化部を訪ふ
小石川大塚辻町なる東京市養育院にては、今度感化部を開設したるに付、去月廿二日盛んなる開始式を挙行せり、記者一日之を訪ひ、同部役員山本徳尚氏の案内によりて、見聞したる要領左の如し
感化部は開設後未だ間もなければ、取出てゝ記すべき事柄なし、目下(本月八日)教師三名、感化生の数僅かに十一名に過ぎざれば、其性行・閲歴・父母・職業其他之を知るに必要なる状態は、素より統計の
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徴すべきものあらず、少くも百余名を収養せざれば、其状を知ること難し。記者の訪へる時は、先年本郷の大火を起したる花村信六と云へる少年ありけるが、他生は学事に従ふも彼一人は之に従ふを好まず、又朋友と共に遊戯することをせで、野獣の如く常に孤独にて悪戯を為すを常とすと云ふ、東京感化院より移されて未だ日少なきに、已に二回ほど逃走を企てたりとかや、之を尋常の人間と為すには尚ほ幾多の時日を要すべし。さて教育の方針の如き略定まれる由なるが、感化生の日課は、左の時間割によりて大体を察すべし
  午前五時           起床
  同五時三十分         朝食
  同六時より七時迄       上掃除
  同七時十五分より四十五分迄  庭掃除
  同八時二十分より十一時迄   学校
  同十一時十五分        午食
  零時廿分より一時迄      学校
  午後一時十五分より三時迄   手工
  同三時より四時三十分迄    体操又は遊伎
  同五時            晩食、後掃除
  同六時より七時迄       遊伎
  同七時三十分より八時三十分迄 読書
  同九時            就寝
当夏季中、午後の学校は休業とし、手工には「メリヤス」の編方、「アンペラ」の組紐製方を以てし、体操にはブランコ其他あり、遊伎には西洋楽隊を入るゝ筈にて、已に太皷・笛・喇叭等を備付けたり
建築は、保姆等の住居する一間を中心として、左右に三十六畳敷の大広間あり、素と養育院用にて感化部使用としては、他日別種のものを設くるとの事なり、此建築は感化事業使用の目的には不相応なること一見して解するを得たり
○下略



〔参考〕法令全書 明治三三年 内閣印制局編 刊 【朕帝国議会ノ協賛ヲ…】(DK240044k-0016)
第24巻 p.380-381 ページ画像

法令全書 明治三三年  内閣印制局編 刊
朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル感化法ヲ裁可シ、玆ニ之ヲ公布セシム
 御名 御璽
  明治三十三年三月九日 内閣総理大臣 侯爵 山県有朋
             内務大臣   侯爵 西郷従道
             司法大臣      清浦奎吾
法律第三十七号(官報三月十日)
    感化法
第一条 北海道及府県ニハ感化院ヲ設置スヘシ
第二条 感化院ハ地方長官之ヲ管理ス
第三条 感化院ニ関スル経費ハ、北海道及沖縄県ヲ除クノ外府県ノ負担トス
第四条 北海道及府県ニ於テハ其ノ区域内ニ団体又ハ私人ニ属スル感化事業ノ設備アルトキハ、内務大臣ノ認可ヲ経テ之ヲ感化院ニ代用
 - 第24巻 p.381 -ページ画像 
スルコトヲ得
 代用感化院ニ関シテハ本法ノ規定ヲ準用ス
第五条 感化院ニハ、左ノ各号ノ一ニ該当スル者ヲ入院セシム
 一 地方長官ニ於テ、満八歳以上十六歳未満ノ者、之ニ対スル適当ノ親権ヲ行フ者若ハ適当ノ後見人ナクシテ、遊蕩又ハ乞丐ヲ為シ若ハ悪交アリト認メタル者
 二 懲治場留置ノ言渡ヲ受ケタル幼者
 三 裁判所ノ許可ヲ経テ懲戒場ニ入ルヘキ者
第六条 入院者ノ在院期間ハ満二十歳ヲ超ユルコトヲ得ス、但シ第五条第三号ニ該当スル者ハ此ノ限ニ在ラス
第七条 地方長官ハ、何時ニテモ条件ヲ指定シテ在院者ヲ仮ニ退院セシムルコトヲ得
 仮退院者ニシテ指定ノ条件ニ違背シタルトキハ、地方長官ハ之ヲ復院セシムルコトヲ得
第八条 感化院長ハ、在院者及仮退院者ニ対シ親権ヲ行フ
 在院者ノ父母又ハ後見人ハ、在院者及仮退院者ニ対シ親権又ハ後見ヲ行フコトヲ得ス
 第五条第二号及第三号ニ該当スル者ノ財産ノ管理ニ関シテハ、前二項ノ規定ヲ適用セス
第九条 感化院長ハ、命令ノ定ムル所ニ依リ在院者ニ対シ必要ナル検束ヲ加フルコトヲ得
第十条 行政庁ハ第五条第一号ニ該当スヘキ者アリト認メタルトキハ之ヲ地方長官ニ具申スヘシ
 此ノ場合ニ於テハ仮ニ之ヲ留置スルコトヲ得
 前項留置ノ期間ハ五日ヲ超ユルコトヲ得ス
第十一条 地方長官ハ在院者ノ扶養義務者ヨリ、在院費ノ全部又ハ一部ヲ徴収スルコトヲ得
 前項ノ費用ヲ指定ノ期限内ニ納付セサル者アルトキハ、国税徴収法ノ例ニ依リ処分スルコトヲ得
第十二条 在院者ノ親族又ハ後見人ハ、在院者ノ退院ヲ地方長官ニ出願スルコトヲ得
 前項出願ノ許可ヲ得サル在院者ニ関シテハ、六箇月ヲ経過スルニ非サレハ退院ヲ出願スルコトヲ得ス
第十三条 第五条第一号又ハ第十一条第二項ノ処分ニ不服アル者、又ハ第十二条第一項ノ出願ヲ許可セラレサル者ハ、訴願ヲ提起スルコトヲ得
    附則
第十四条 本法施行ノ期日ハ府県会ノ決議ヲ経、地方長官ノ具申ニ依リ内務大臣之ヲ定ム
第十五条 北海道・沖縄県ニ関シテハ、勅令ヲ以テ別段ノ規定ヲ設クルコトヲ得



〔参考〕法令全書 明治三四年 内閣印刷局編 刊 ○内務省令第二十三号(DK240044k-0017)
第24巻 p.381-382 ページ画像

法令全書 明治三四年  内閣印刷局編 刊
○内務省令第二十三号
 - 第24巻 p.382 -ページ画像 
感化法施行規則左ノ通定ム
  明治三十四年八月六日   内務大臣 男爵 内海忠勝
    感化法施行規則
第一条 地方長官ニ於テ感化法第五条第一号ニ掲クル者ヲ入院セシメントスルトキハ、入院命令書ヲ交付スヘシ
 感化法第五条第三号ニ掲クル者ニ付テハ親権ヲ行フ父母又ハ後見人ハ、裁判所ノ決定書ヲ地方長官ニ呈出シ入院ヲ出願スヘシ
 前項ノ場合ニ於テ入院ヲ許可シタルトキハ入院命令書ヲ交付スヘシ
 本条ノ場合ニ於テハ、地方長官ハ其ノ旨ヲ感化院長ニ通知スルコトヲ要ス
第二条 前条ノ通知ヲ受ケタルトキハ、感化院長ハ入院命令書ヲ査閲シタル後入院セシムヘシ
第三条 府県ニ於テ感化院ヲ設置セントスルトキハ、其ノ位置・名称其ノ他必要ナル規則ヲ定メ、内務大臣ノ認可ヲ受クヘシ
第四条 感化院ニハ地方長官ノ定ムル所ニ依リ院長其ノ他必要ナル職員ヲ置ク
第五条 在院者ニハ独立自営ニ必要ナル教育ヲ施シ、実業ヲ練習セシメ、女子ニ在テハ家事・裁縫等ヲ修習セシムヘシ
第六条 感化院長ハ、必要ニ応シ在院者ヲ適宜公私ノ施設又ハ私人ニ託シ教育ヲ施サシメ、又ハ労務ニ就カシムルコトヲ得、但シ所在府県外ニ於テ公私ノ施設又ハ私人ニ託セントスルトキハ、地方長官ノ認可ヲ受クヘシ
第七条 在院者ニ対スル懲戒及検束ノ方法ニ付テハ、内務大臣ノ認可ヲ経テ地方長官之ヲ定ムヘシ
第八条 在院者ノ衣食・療養其ノ他必要ナル費用ハ、扶養義務者ニ於テ地方長官ノ定ムル所ニ依リ相当ノ額ヲ負担スヘシ
 地方長官ニ於テ扶養義務者前項ノ金額ヲ支弁スル資力ナシト認メタルトキハ、其ノ一部又ハ全部ノ免除ヲ為スコトヲ得
第九条 地方長官ハ、感化院ノ職員養成ノ為必要ナル設備ヲ感化院ニ附設スルコトヲ得
第十条 前各条ノ規定ハ代用感化院ニ之ヲ準用ス
第十一条 地方長官ハ代用感化院ニ対シ府県費ヲ以テ補助ヲ為スコトヲ得