デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
2節 感化事業
3款 第一回感化救済事業講習会
■綱文

第24巻 p.405-413(DK240048k) ページ画像

明治41年9月24日(1908年)

感化事業従事員養成ノ為メ、九月一日ヨリ十月七日迄、内務省内ニ於テ同省主催第一回感化救済事業講習会開催サル。是日栄一、之ニ出席シテ一場ノ演説ヲ為ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK240048k-0001)
第24巻 p.405 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
九月二十三日 晴 涼
午前六時起床、入浴シ畢テ原胤昭氏ノ来訪ニ接シ、中央慈善協会ノ事感化救済事業講習会ノ事ヲ談ス ○下略
   ○九月二十四日ノ記事ヲ欠ク。


竜門雑誌 第二四四号・第七二頁 明治四一年九月 ○感化救済事業講習会(DK240048k-0002)
第24巻 p.405 ページ画像

竜門雑誌  第二四四号・第七二頁 明治四一年九月
○感化救済事業講習会 青淵先生には内務次官吉原三郎氏の依頼に依り、本月二十四日、目下同省にて開会中の感化救済事業講習会に臨席の上一場の演説をせられたり


感化事業回顧三十年 社会局編 第七六―八〇頁 昭和五年三月刊(DK240048k-0003)
第24巻 p.405-406 ページ画像

感化事業回顧三十年 社会局編  第七六―八〇頁 昭和五年三月刊
    第四章 感化事業職員の養成
○上略
明治四十一年、始めて内務省主催の下に感化救済事業講習会が開催されたが、是実に規模の大なる短期講習の始であつた。第一回は明治四十一年九月一日より同十月七日まで開催され ○中略
    一、社会事業講習会の開設
 社会事業講習会は、前記の如く明治四十一年九月始めて感化救済事業講習会の名の下に、其の第一回を内務省に於て開催した。此の開設の理由に付ては開会式に於ける平田内務大臣・床次地方局長の演説に明かであるが、その要点は先づ感化事業が個人的事業に非ずして、公益を理想とすべき重要なる事業なるを明かにし、感化法の改正に当りて此の感化事業の一層の充実と良好なる発達を図らんが為には、之に従事する者の修養の必要を力説してゐるのである。国学院大学を講習会場となし、感化救済事業に関する参考品千数百点を蒐集して、展覧会をも併設した。
その外科目の選定・感化救済事業の実地見学・参考資料の展覧・実験談等に就いて諸般の用意が遺憾なく整へられてゐたのであつた。爾来大正三年までに七回、中央に於て開催し、大正四年の第八回より全国枢要の地大阪・仙台・福岡・名古屋・札幌・広島・金沢・東京・京都新潟・熊本・岡山・津・秋田・宇都宮・静岡・長崎・高知・和歌山・岐阜・札幌の二十一ケ所に於て、一年二回乃至四回開催せられ、大正十一年に至り再び内務省に於て講習会を開いた。而して此等の講習会
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は、最初は感化救済事業講習会と呼んでゐたが、大正九年よりは社会事業講習会と改称した。
 是等の会が感化事業職員の養成所として如何なる価値を有したかに付ては、現在感化院に職を奉ずる先進者、若くは過去に於て感化院枢要の地位に在りし人々の多くが、此の種講習会の受講者であつたのみならず、斯業先覚者は講師として感化事業の理論並に実際を説くことに努力を惜しまなかつた点より考へても、感化事業従事者の知識並に技能を啓発せしむる上に頗る重要の意義を有したことは明瞭である。翻つて各講習会に於て感化事業が如何に取扱はれてゐたかを見るために、今先づ第一回及第五回の講習会の模様を偲ばう。先づ第一回に於ける感化事業関係科目を列挙すれば
 泰西に於ける感化救済事業 司法省民刑局長 平沼騏一郎
 泰西に於ける模範感化救済事業
               司法省参事官 大場茂馬
 感化事業の方法と感化の程度     男爵 渋沢栄一
 監獄行政と感化事業    司法省監獄局長 小山温
 少年犯罪者とその特殊矯正法  貴族員議員 伊沢修二
 少年犯罪者の訓育      浦和監獄典獄 早崎春香
 感化事業と農業       文部省視学官 針塚長太郎
 感化事業と工業教育 東京高等工業学校教授 河津七郎
 東西貯蓄思想の異同及監獄感化院に於ける貯金問題
     郵便為替貯金管理所長兼逓信書記官 下村宏
 中等教育界に於ける不良生徒の感化
               金光中学校長 佐藤範雄
 感化教育と葉隠の意義
           神道実行教幹事大教正 鍋島秀太郎
 感化事業実験談     大阪府慈恵会理事 山田俊郷
 感化事業と其の管理法     内務省嘱託 留岡幸助
 感化院の目的及其の事業 前内務省警保局長 古賀廉造
 警察行政と感化事業    内務省警保局長 有松英義
 少年犯罪者の訓育      横浜監獄典獄 有馬四郎助
 宗教と感化事業との関係  内務省宗教局長 斯波淳六郎
 之を以て見れば、感化事業に就いて重大なる考慮を払はれてゐたことは、明かに窺ひ知られると共に、又世の先輩が感化事業を如何様に考へてゐたかをも察知することができる。第一回は、講習日三十六日講習時間百四十時間・科目二十五科目・出席人員三百四十人・日々の出席平均二百九十二人で、大成功の裡に修了式をあげたのであるが、感化法施行の準備といふ意味が大にあつたので、感化事業関係科目が非常に多かつたやうである。
○下略


感化救済事業講演集 内務省地方局編 上・第七一―八四頁 明治四二年三月刊 【感化事業の方法と感化の程度 (男爵 渋沢栄一 講演)】(DK240048k-0004)
第24巻 p.406-413 ページ画像

感化救済事業講演集 内務省地方局編  上・第七一―八四頁 明治四二年三月刊
    感化事業の方法と感化の程度 (男爵 渋沢栄一 講演)
 感化部設置のことは明治三十年頃より東京市養育院にて心掛けて居
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つて、三十三年から試験的に経営して見ることになりました。さうして一昨年 ○明治三九年から東京府の代用感化院となり、現に甲武線の吉祥寺駅の傍の井頭といふ所に感化部を設置して居ります。其収容人員は七八十人乃至九十人はかりて、漸く其緒に就いたのて、また整理してゐるとは申されませぬ。此井頭に設くる前は養育院内に置きましたか、行旅病人や老人なとを収容して居るのて、不良少年を一所に収容してやることは出来ぬ、此計画は大に間違つて居つた、それ故井頭に設くることに致しましたのてあります。
 感化と申し、救済といふも、要するに是は慈善に属する事柄であるか、殊に感化救済と表題を立てますると余程大きな問題にならうと思ひます。果して此感化救済か完全に出来得たならは実に天下は泰平てある、社会は黄金世界になると斯う申しても宜いたらうと思ふ、一言に広い言葉を遣ひまするならは、感化救済の完全に行はれるは、王道の普き場合てなけれはいけないといはなけれはならぬ。故に為政家の最も心を用ひなけれはならぬと同時に、人道の為めに欠くへからさるものと申して宜からうと思ふ。去なから救済といふことは、余程心せぬと却て利益は為さすに害を為し、其人の勉強心を妨害するものてある、救ふ人も救はれる人も共に過つといふことか間々こさいます。而して此慈善といふことに付ては近頃追々に世の中の種々なる方面に発達して、到る所に之を唱ふるやうになりましたのは甚た喜はしいことてこさいますけれとも、悪く致すと慈善事業といふものは或は起り或は止み、所謂興廃常ない有様に終つて、品に依ると流行的事業に走る虞れかこさいますから、是は心ある人の余程注意して、此慈善事業をして流行物・慰み物に至らさるやうに力めねはならぬと思ひます。往昔仏者の喜捨とか施与とかいふものかあつて、悲田院とか福田院とかいふものを設立した、詰り仏法の慈善は唯貧者に喜捨するは己自身の心を慰する為めにしたやうに見えます。名利に汲々する世の中にあつて成るへきたけ貧弱を助けやうといふ方法としては頗る結構に相違ない、けれとも段々人智の進んて行く今日には、其方法は決して慈善の宜しきを得たものてはないと思ふ。人に物を与へるのを心地よしとするのてせう、其事を咎めるのてはないけれとも、得た人か為めに其怠惰心を増すやうになつたならは、与へた人にも猶ほ罪かあるといはねはならぬのてある。故に喜捨・施与といふことに付ては其方法を択はすして力めることにしたならは、其結果は必す人をして怠惰な心を惹起さしむるといふことになるのてこさいます。是を以て出来心又は一時の慰み、若くは流行といふやうなものに依ります慈善は、其中には甚しき名聞に依るのもあります、さういふやうな慈善は必す組織的には成立つていかぬものてある。或場合には大層盛に成立つかと思ふと又頓と秩序立つたる手段を以て此慈善経営を尽さぬ様になる、それは慈善として大に嘉すへきものとは申されませぬ。感化救済といふことに付て大綱を論するならは、成へきたけ慢に与へす、与へたるものは必す効能あるやうにして、而して其施設か飽まても権衡を得て、持続的に経営するといふことか、最も心掛けねはならぬ極く重要なことゝ私は考へる。
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 凡そ人間生計の有様は数多いものて、所謂千差万別てあるけれとも其場合に於て大抵程度といふものがある。其程度は衆人か見て知れるものてあつて、常識に富んた人の必す判断し得るものてある。其常識の判断に依つて物の程度を成たけ失はぬやうに、感化事業てあれ、若くは救済事業てあれ、経営するを以て第一義とせねはならぬと思ふのてこさいます。感化の事業に付て私は其方法を玆に二・三申上け試みたいと思ふのてありますか、是はなかなかむつかしいことてす、感化事業位むつかしいものはないと私は思ふのてす。文明の進んた国柄には種々なる教育かあつて、各種の学校に依つて人の知識を進めて行く蓋し此学校教育も或点に於ては感化てある。又社会の交際上種々なる人々か交互錯綜して、相談し相交る、是も亦感化てある。併し是等は通常皆相共に相当な知識を具へ、適当なる経営を為す者の間にあるのてある。故に若し其処に一歩優れた人かあれは自然と其人に薫陶を受けるといふことになりますからして、余程行い易い。所か感化救済を受る人にあつては、多くは其境遇の甚た宜しからぬ者てある。而して教育の殆と無い者てある、さういふ少年若くは成年の者を集めて、之を感化して善良の人たらしめやうといふことてありますからして、大学者先生か講堂て声を枯して講演するのてさへ、或場合には学生の中に心得違ひをする者かあります。然るに此感化の事業に於てはまた今日の設備も、決して学校のそれと同しやうなることにはなつては居らぬ、而して感化法の制定も、漸く明治三十三年になつて世の中に現はれたと申す程遅いのてある。併し世の進む程感化の必要を生するといふことは、是は理解し得るたらうと思ふ、一例を申しませうならは、現に東京の養育院に於て之を証明する。東京の養育院に私か従事し始めた明治七年には四百人位を入れまして、窮乏の人をは大抵網羅し得たと申す程てあつた。今日より余程貧困の階級を強くして収容した。爾来年を逐ふて東京市の住民か増し、東京市の富の進むと同時に同し比例を以て窮民か殖へて来る。富と窮民と同し比例て進むといふと、貧民の多くなるのか富の進んたといふことになつて、不相応しからぬやうてあるけれとも、実際はさうなつて居る。明治十三・四年頃の東京は今日の東京と比較して富の程度か同様てはない、同様てない所てない、大変上つて居る。試に明治二十七年の日清の戦争の時に、国家の大事として東京市民か力を入れて募債に応した、その時の有様はとうてあつた、又三十七・八年のそれとはとうてあつた、殆と十と一とを以て数へる程てある。必す数倍に増して居るに違ひない、けれとも貧民も同様に増して居る、故に国家といふものゝ富の増す程、困難の人か多数になるといふことを覚悟しなけれはならぬのてあります、此困難の人、貧窮の人をして、宜しく其所を得せしむるか王道てある、人道てある。
 そこて感化事業に付て、私か東京市養育院に於て聊か実験しましたことに付て二・三の愚見を玆に陳述して、諸君の参考に供したいと思ふのてこさいます。感化事業は唯一に論し切る訳に参らぬ、感化すへき種類か大別しても尚四つ五つに分たねはならぬかと思ふやうてこさいます。併し此分別する程度はとれ程にしたか宜しいかといふに付て
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は、また私も玆にハツキリとした案を具して申上け兼ぬる、是等は能く御攻究あれかしと希望する。例へは相当なる田舎の人の息子て、其家庭て之を矯正し切れぬといふ者も即ち感化すへき一つの種類といはねはならぬ。富者とか豪家とかいふ程てなくしても、相当の家柄の人の子ても、其家庭のみて矯正・戒飭の届かぬ子供か毎々こさいます。又扶養義務者かありなから之か完全に其職を尽すことか出来ない、何となれはそれか貧困てある、旁々以て浮浪の徒になるといふ種類もあります。又真の不良少年といふのもある。又感化すへき人の中には女子もある、是は男子とは勿論切分けたる感化するのか必要てある。又悪事に手を染めた種類かある、即ち犯罪者かある、是等のものは感化するに及はぬといふ訳にはいかぬ、矢張り是も感化すへき種類のものとしなけれはならぬ。又中には殆と感化を為し能はぬ者、即ち感化不成功の者かある、現に養育院ても大に困却して、已むを得す癲狂院の方に廻して仕舞ひました花村新六抔といふ者かある。是は放火をするのか性来の嗜好てある、火を附けて其家の焼けるのを、此上もない愉快とする。而して少しも人の迷惑をするのか気の毒ところてない、それか甚た喜ひたといふ、其点に付て人に解すへからさる感情を持つて居る。私も屡々本人を子供の中に見ましたか、其面色といひ、行為といひ、甚た悪い方に非凡てあつた。斯ういふ様な種類には私は一人しか接しませぬけれとも、果して少ないとは申されぬてあらうと思ふ。是等は医学から論しましたならは、病的といふ外なからうと私は思つたのてこさいます。故に類別すれは六つはかりに分たれるから、それ等のものを細別して劃然分たねはならぬか、或部分は一にして同しく収容し得るてあらうと思ひますけれとも、それ等の種類に対しては感化方法に自ら差等を設けさるを得ぬのてこさいます。是は私の強ひて論する所てはないか、将来各地方に感化法の遍く行はれる場合に、各県に於て各種のものを設けて、何処にも五つも六つも感化院を造るといふことは国家は余程厄介なことてあるから、場合に依つて此様の感化院は此種類を入れる、此県の感化院は斯かる種類を入れるといふ、各地に専門的感化院の設置かあつたら如何てあらうかと思ふたのてこさいます。蓋し是は充分熟考したことてこさいませぬか、左様に各種類あるといふことに付ては、感化事業に従ふ人の先つ第一に御注意ありたいと思ふことてこさいます。
 それから感化する方法に付て孰れを是とするかといふ問題てこさいます、少年若くは中年――殊に不良少年の如きは成るへきたけ意思の沈静にある様に、落付いて仕事の手に附く様に、又もう一つには自然に家庭の形造りを以て情愛の温かな有様に浴さしめる様にしたいのてある。故に仏蘭西のメツトリーとか、英吉利のレツトヒルとかいふ所の感化院ては大抵各家庭に区別して、且つ其居所等も最も清潔に致させて居るさうてこさいます。私は其メツトリーに参つて見ませぬから能く実況を知りませぬ。併し仏蘭西に於てガイヨンといふ所の感化院を実見しました、是はメツトリーなとゝは違つて全くの家庭法とはいへぬのてあつた。此ガイヨンは仏蘭西政府から費額を供して種々なる学校を設けて居る、左まて大きい感化院てはこさいませぬ、入院者の
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数か概略三百人てあつた、併し其所有の土地は甚た広い、其場所は田舎てこさいます。丁度巴里から三時間はかり鉄道に乗りましたやうに覚えて居ります、而して其隣り近所に家なとかなくて全く感化院か一構へになつて、近所に大なる耕作地を持つて居つて、感化児童は皆農業を主として経営して居りましたか、其収容の仕方も居所も食事も病人は別てあるか、又或階級に分つてあるけれとも、数級に分つ位てあつて、五人七人を一家族といふ様な制度にはしてなかつた、而して其院長はブラオンといふ人てあつて、長年勤務して居ると申すことてすか、私の参りました時に殊更に注意されましたか、二人の少年か院規を犯して拘禁されて居つた者かある。それをは私共か院内を廻つて行くと、私共への御馳走に其禁を解いて、今日は斯ういふ東洋からの珍客かあるから、此珍客の為めに日は早いけれともお前の拘禁を解いてやるから、此珍客に向つて厚く謝意を述へろといふのて、我々に向つて、誠に今日は難有うこさいます、御客様の御蔭て此禁錮か解けましたと、喜ひの顔を以て礼を述へた。そこらは院長の御手際と私共は感心しました。併し待遇方又は賄ひの仕方、各部屋の有様、病気の手当等は矢張り合宿法といはねはならぬのて、全くの一家族制度て、個々別々にはなつて居ない、長屋か一つあつて部屋部屋を小さくしてある故に二十人も三十人も一つ部屋には居らぬけれとも、集つて食事をする、集つて仕事をするといふことになつて居つて、合宿的に組立てゝあつた。近頃感化院の収容方法に付て合宿式は悪い、家庭式てなけれはいかぬといふ。又家庭式は経費か掛つてなかなか其世話か届かぬ、小さい仕掛ならは出来るか知らぬか、若し感化すへき人員か沢山あるとすれは、狭く深くしては多数の望みには応しられぬから、寧ろ浅く広くした方か宜いといふやうな議論かあるのてこさいます。是等は最も攻究してやらなけれはならぬものてこさいます。東京市養育院は余り狭くなつて困ります、今日の入院者は千六百人余になりました、其内子供か七百余人ある、子供には乳児もこさいますか大きいのは十四五まてある。そこて、是等の子供たけを別に収容するやうに致したいと考へて、其希望を数年前から東京市役所へも申立て、種々に心配して居りますけれとも、如何せん東京市も経費多端な場合て、養育院に金を支出するといふことか手か廻らぬのてあります。元来養育院は市に属して居りますけれとも、市の費用から余り補助を受けませぬ、全く養育院の自家の財産から生するものて、院費を支へて居るのてこさいます。稀に学校を造る等のことに付て聊の補助を市から受けることかこさいますか、年々の費用は大抵養育院自身か弁して居ります。而して今日は殆と五十万円はかりの財産を持つて居ります、それを今幼童の為に一部分を費消するとしますと、それたけ資本か減する。故に幼童の為めに別段に家屋を造つて呉れるといふことを市に請求して居りますけれとも、なかなか出来ない、先頃から私は市参事会にも市長にも御話をしました所か、相当の家屋を買つて宜しい、一時養育院の資金を以て其費用に当て、其金は東京市か借りて利息を払つてやる。養育院は力めて院費を増殖して、東京市か借りたものを補塡するやうにしたら宜からうといふことて、其方法を採るやうなことになつて居
 - 第24巻 p.411 -ページ画像 
ります。最初の希望は完全なる方法を以て養育院の入院者を区別したいと考へましたけれとも、なかなかさういふことか出来ぬ為めに十三万円の金を以て他の学校に使用したものを買収しやうと考へて居る。所か之を買収しますると、学校の寄宿舎になつて居つた所に児童を入れることになりますから、前に申す通り完全なる家族制度に為すことか出来ぬ、一部屋か十五人、十六・七人入れなけれはならぬ広い間取てある、院内に従事する或る掛員抔はあすこてはいかぬから別に造りたいといふけれとも、別にすれは費用か掛るのて、頻に其事に付て攻究討論中てこさいます。此等の事は決して卓子上の議論てなくて、現に養育院ては実地問題になつて居る。即ち収容する方法に付て、合宿法と家庭法と孰れか宜いか、善悪たけを論すれは家庭法か宜いに違ひない。併しそれは費用といふものと共に考へなけれはならぬ、限りのない費用を掛けてもやるといふなら宜いといふ判断か附きますけれとも、唯宜いたけてはいかぬ、百事か都合好く行はれて行かなけれはならぬ、又其事柄か遍く行はれなけれはならぬ、是か前に申した通り最も御攻究あれかしと思ふ点てこさいます。
 それから感化すへき少年の感化の方法は種々こさいますか、私の今日目的として居りますのは、前に申す富豪の子供は除外して、詰り少年の身を誤り、又は罪悪を犯すやうになるのは全く境遇の然らしむるのてある、境遇か若し貧困なれは所謂貧の盗みといふものになるのてあるから、生活を得られぬ場合になると拠ろなく罪悪をも尚ほ忍ふといふことになつて来る。故にとうしても生活に差支ないやうにしてやるといふことを第一にしなけれはならぬ、生活に差支ないやうにさせやうといふには、手の職業を覚えさせなけれはならぬ、唯力かあるといふはかりてはいけませぬから、一通り所作を知らなけれはならぬ、書籍も読ませなけれはならぬ、算盤も出来るやうなことまてしなけれはならぬ。即ち世の中に立て、一日に五十銭なり七十銭なり賃銀を取り得るやうにしてやるのか必要と思ふ。さう考へると、東京に於ては機械の取扱いによりて工業に従事し得る様にしてやるのを必要と認めるのてこさいます。
 所か此主義を以て教育をしやうとするには従て費用か掛る、即ち学校の設備といふても、恐く電気とか蒸気とかいふやうな工業の素養を与へなけれはならぬ。併しそれはなかなか費用か増しますから、そこて工業を教ふることには大変困ります。何処に行つて見てもやつて居るやうな、縄を綯せるとか、草鞋を作るとか、今まて養育院ては状袋を張り、炭団を造るといふやうな種々な職業かありますけれとも、とうも世間に出て相当な生計の足しになるというやうに手工を与ふることか甚た困難てあります、成へくたけ普通教育をした上て、其地方地方に適当な職業の種類に応する教育か欲しいやうに思ひます。
 それから教育に付ては種々こさいます、修身・倫理・文学・数学、又教育はかりてなしに始終注意して行かなけれはならぬことかあります。殊に不良少年には特種の通有性かある、此通有性を能く観察してそれを宜しく矯め直すといふことてなけれは、感化の効能かないといふことにならうと思ふ。其通有性は何かといへは、是は何処て研究し
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ても同してあると思ひますか、養育院の感化部若くは其他に於て是まて調査しました処にては、何と形容して宜しうこさいますか、むつかしい言葉ていふと一般に忠恕の念か少しもないのです。己さへよけれは宜い、自己の都合たけを考へる、是か不良少年のものの持つて居る通有性てある。此点は余程注目して矯正して行かねは、感化をして其功を奏せさることか出来ぬと思ふ。
 最後にもう一つ御話をして置きたいのは、感化しまする程度てこさいます。程度といふ言葉は少し適切にあらぬか知りませんか、それたけにしたならは感化か遂けたかといふことてある。先つ養育院の感化部に入れてある少年を見ますと、或は棄児として養育院に這入つた者の中の、甚た性行善からぬ者、其他の不良少年を入れるのてありますか、大抵は市街の屑物を拾ふたり、或は立ん坊なとゝいふことをして居るのて、警察の手に依つて連れて参つて、それを集めて追々に感化して行くのてある。先つ初には兎角逃けて困る、連れて来る、又逃ける、三回位逃けたのか多々こさいます。さういふ種類のものは必す人の為めといふやうな観念はない、唯己さへ都合か好けれは宜いといふことになつて居る。是等の種類を収容感化して行つて、何処まて来たならは感化か出来たかといふと、とんな悪友に誘拐されても動かぬやうになれといふたらは、或は其感化事業に従事する人達は、それは不可能といはなけれはならぬのてある。何となれは人心是れ危して、人の一生といふものは棺を覆はねは論か定らぬのてある。其人間を集めて正当に感化か出来て聖人君子と人に言はれるやうにしやうとすると殆と出院の時期は無くなつて仕舞ふ、これて井頭の学校なとては大凡此辺てあらうかと思ふ考を定めました。第一に自分て生活するたけの働をするのか人間としては甚た必要たといふ念を生すると同時に、何か勉強といふ考か起つて来る。さうすると人はとうしても己さへ宜けれは宜いといふ心を矯正して、他に対して思ひ遣り、他に対して愛情といふものゝ芽を生して来る。教育を受けても通常人の域に達することは出来ぬても、此処を逃亡しても自分の将来に甚た困つたものと思い、幸に此処て世話を受け、依つて以て自分か立つことか出来得るならは勉強したいといふ念慮を生した場合は、感化を遂けたものといふ程度に致します。それから工業て人を教育するといふ人の徒弟なそに出すやうに勉めて居りますのてこさいます、井頭学校の扱ひ方は大凡右のやうてある、併し或は場所に依りまして今申すやうな手段てなしに、他に考を立てゝやる例もあるやうてす、現に亜米利加といひ仏蘭西といひ、其趣を異にして居るやうてこさいます。皆其場所に付て自然に特点もありますし、其人に付て宜しきを得ることか必要てあらうと思ひます。故に単に一点に集むるやうな方法、一事を以て集むる手段は宜くなからうと思ふ、感化・慈善といふ事柄は意味か広く且大にして学理学説として御講習もこさいませうか、古人の言つた如く、心に之を思へは当らすと雖も遠からすてあつて、感化救済の事務を此の如く一堂に集つて、講師方の学問的講習を御受けなさるのは誠に結構てあるか、第一に心に誠に之を求むれは当らすと雖も遠からすと、私は之を以て大義と致したく思ひます、玆に諸君の清聴を煩しました。
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   ○本書ハ当講習会ノ講演ヲ集録セルモノナリ。


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK240048k-0005)
第24巻 p.413 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
十月七日 曇 冷
午前六時半起床入浴シ、畢テ朝飧ヲ食シ、留岡幸助ノ来訪ニ接ス ○中略 午前十時皇典研究所 ○国学院大学内ニ抵リ、感化救済講習会ノ閉会式ニ参列ス ○下略


(一木喜徳郎) 書翰 渋沢栄一宛 (明治四一年)一一月一三日(DK240048k-0006)
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(一木喜徳郎) 書翰  渋沢栄一宛 (明治四一年)一一月一三日
                     (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、時下益御清適奉賀候、陳者過般当省ニ於テ感化救済事業講習会開催之節者特ニ有益ナル御講話被成下、始テノ講習会ナリシニモ不拘満足ナル結果ヲ得候事、全ク御同情ノ致ス所ト深ク感謝之至ニ不堪候乍延引右御挨拶申上度如此御座候 匆々頓首
  十一月十三日             一木内務次官
    男爵 渋沢栄一殿
 追而甚タ軽少之至ニ候得共、御慰労之印迄ニ花瓶壱個贈呈致候間、御落手被下度候也