デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
3節 保健団体及ビ医療施設
5款 熊本回春病院
■綱文

第24巻 p.523-535(DK240060k) ページ画像

明治39年5月14日(1906年)

是日栄一、当病院ヘ寄附金醵集ノタメ、東京銀行集会所ニ催サレタル協議会ニ出席シ、其ノ趣旨ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三九年(DK240060k-0001)
第24巻 p.523 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三九年     (渋沢子爵家所蔵)
四月七日 晴 風ナシ             起床七時 就蓐十二時
起床後、原田一道氏ノ来訪ニ接シ、曾テ熊本県ニ癩病院ヲ設置シ居ル英国人リデル嬢ヨリ依頼ノ件ニ関シ種々ノ談話ヲ為ス ○下略
   ○中略。
四月十二日 半晴 微寒           起床六時二十分 就蓐十二時
○上略 十二時島田三郎氏来リテ癩病予防法及回春病院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
五月十四日 晴 暖             起床六時三十分 就蓐一時
○上略 午後二時銀行集会所ニ抵リ癩病救助方法講究ノ事ヲ議ス、大隈伯清浦・石黒其他多人数来会ス、午後五時散会ス ○下略


渋沢栄一書翰 大隈重信宛 (明治三九年)三月三一日(DK240060k-0002)
第24巻 p.523 ページ画像

渋沢栄一書翰  大隈重信宛 (明治三九年)三月三一日  (大隈侯爵家所蔵)
○上略
将又熊本回春病院ニ関する寄附金勧募之事ハ、別紙印刷書ニて尊名ニ小生も御加名いたし、夫々依頼状発送取斗仕候、御聴納可被下候、殊ニ閣下御寄附金之事も他之参考ニも相成可申と存候ニ付書添申候、是又御承引可被下候
右拝復旁一書申上候 匆々敬具
  三月三十一日              渋沢栄一
    大隈伯爵閣下
         侍史


竜門雑誌 第二一六号・第二五―二八頁 明治三九年五月 ○癩病予防に関する協議会(DK240060k-0003)
第24巻 p.523-526 ページ画像

竜門雑誌  第二一六号・第二五―二八頁 明治三九年五月
○癩病予防に関する協議会 我国に於ける癩病予防調査に関し、且つリーデル嬢の熊本に於て設立せる回春病院に対する寄附金醵集の件に付き、十四日午後二時より阪本町銀行集会所に於て有志協議会を開きたるが、出席の重なるは大隈伯・清浦男・青淵先生・石黒男・窪田衛生局長等外数十名にて、大隈伯は癩病の救治は国家の急務なる点より説明し、進んで一外国婦人の惨憺たる経営に成れる彼の熊本回春病院の目下維持の困難なるは、我国民の黙過す可らざる処にして、此事たる最も切迫せる問題なるを以て、一日も早く多少の醵金を為して寄附
 - 第24巻 p.524 -ページ画像 
せんことを望むとの意を述べ、尚ほ之に関して過日米国の富豪シツフ氏より神戸発の来書に接したるに、書中リーデル嬢は、醵金のことは大隈に一任しありとのことなるが、右進行は如何なりしや静岡へ向け返事せよとのことなりし故、吾輩は十分に尽力中なるも、戦争後と云ひ、東北の饑饉其他内外の震災等にて、醵金の運び自然後れたるも、目下引続き尽力中なる旨を告げ、尚ほ同氏にも幾何の寄附を望む旨を申送りたりとの趣を熱心に談話し、次に青淵先生も、我々は癩病に対して国家的救治の方法を設定せんとは、是非とも希望する所なるが、差当り回春病院の保護は焦眉の急なるを以て、兎に角右寄附金の一件を決了せんと発議し、一同之を賛成し、先づ委員を設け、主意書を頒布し、委員手分けの上醵金することに決定し、午後四時散会せり、因に記す、同会主唱者より同志者に宛てたる案内状及趣意書は左の如し
 拝啓、益々御清穆被為在奉賀候、陳者別紙趣意書の件に付、来る五月十二日午後一時より日本橋区坂本町銀行集会所に於て集会相開き申候に付、御多繁中恐縮に存候へ共御繰合せ御来臨被下候はゞ幸甚に奉存候、抑癩病予防の必要並に其の患者救済の方法等は、未だ我国一般の問題と見認められず候へども、其の伝染病にして蔓延の危険ある者たることは、専門家の研究により夙に医界の定説と相成、海外諸国中苟も文明国の列に居る者にありては厳重なる予防と懇切なる救済とを施行し居り候、其の伝染病たる以上国家は公衆衛生の為めに、国民は各自自衛の為めに、相当の施設を必要と存候、此の儀に就ては各位の御高見相伺ひ候上にて前途の計画を相立申度と存候、此の他差向の問題は熊本県に設置せられ居候癩病患者収容の回春病院が、専ら外人の資力によりて経営せられ目下其の維持の困難を訴へ来りたる一事に候、癩病救済の事業を外人の手に委ねて我国人之を顧みず、其の事漸く外人間の問題とならんとするに国人が袖手傍観致候は帝国の体面にも拘り可申と痛心仕候、且此の病院援助の一儀は少しく注意を払ひ其の方法相立候へば其の急に応ずる事は格別の労にも有之間敷と存候、仍て別紙趣意書封入仕り御参考に供し候、何卒御一覧御臨席の上御高見御洩示被成下度、且つ御応分の御尽力併せて願上度、此に御案内仕候 敬具
  明治三十九年五月五日
                   伯爵 大隈重信
                   子爵 岡部長職
                   男爵 石黒忠悳
                   男爵 清浦奎吾
                   男爵 渋沢栄一
                      窪田静太郎
                      山根正次
                      土肥慶蔵
                      添田寿一
                      頭本元貞
                      横井時雄
                      石河幹明
 - 第24巻 p.525 -ページ画像 
                      島田三郎
  癩病予防の必要
    癩病は伝染病なり
癩病は古来天刑病と称して不治の症と為し、遺伝病として血統の上のみ注意したるが、進歩せる近時の医学を以てするも未だ治癒の方法を発見せず、然れ共其伝染病たる事実は確証せられ、随て之を駆斥消滅するを得るの好望を生ぜり、之と同時に之を予防するの注意を怠るに於ては、其の蔓延すべき至大の危険あり
治癒の法知られずして蔓延の虞ありとせば、国家衛生上よりするも各自防衛の上よりするも一日も之を等閑に附すべかず
    伝染の証拠
一、往時埃及・西部亜細亜等より欧羅巴に侵入して、一時は欧洲に多数の癩病患者を出せしが、厳正の隔離予防法を行へる結果今日は殆ど消滅して、英国に於ては他国に赴きて帰国せる者の外に此の病者を見ざるに至れり、是れ血統より来るの証甚乏しく他より伝染し来る一証なり
一、布哇の癩病患者多きは世人の普く知る所なるが、或は五十年前来布せし支那人より伝染せしとも言ひ、或は其頃既に土人中に在りしともいふ、此の二説共に存するを見れば其頃患者の極めて少数なりしことは確信すべき事実なり、而して五十年間に十万の人口の中三千の患者あり、是れ血統によりて産出せる数としては余りに迅速且つ過多にして、伝染より来る一証なり
一、死刑の罪囚に癩菌を接種して其接種部より癩を発したる実例あり
一、国家の専門的研究以外普く世上に知られたる一例は、白耳義の宣教師ダミアンが布哇のモロカイ島に於て五年間癩病患者を救護して伝染し、之が為めに死したる一事世界の同情と注意とを喚起したり
    我国人と外人と癩病に対する感覚の相違
一、我国内癩者の確実なる数は分明ならず、癩病予防会議に列せる者の為に内務省が府県の警察に調査せしめたる文書によるに三万三百五十九人あり、是れ明に人目に触るゝ者を挙げたるが故に、実際の数は是より多き事疑ふべからず、青森に於て篤志の医家が調査せし数は内務省の調査に比較して三倍の多きを見れば、全国の数も亦略之に準じて多からん、然るに国人警戒せず、国法予防せず、重症患者の路傍に食を乞ふに任せて意とせず、是国人が伝染にあらずと為して之を恐れざるが為めなり、往年独逸帝国に三十七人の患者ありしに、独逸帝は国際予防会を召集して其の処分法を講究したり、我国五千万の人口中三万余の患者あり(推測の数は三倍)国人之を恐れず、独逸は六千万の人口中に三十余人を出して国際予防会議を開く、其の注意の差異余りに甚だしといふべし
以上の事実は癩病に関する取締法の必要なる理由の一斑なり
    回春病院の事情
癩病に対する国人の感覚上述の如くなるを以て、明治年間百度更新制度漸く整頓するに拘らず、人間最恐るべき癩病に関しては公私の施設一切見るべきの迹なく、習慣の致す所其の患者の路傍に呻吟して満身
 - 第24巻 p.526 -ページ画像 
潰爛・悲惨醜悪の状を曝露するも看者深く之を意とせざるが如くなるは、未開国人も亦屑とせざる奇怪の現象といふべし、現在我国に存する専門癩病救護所とも称すべき者四箇所、悉く外人の施設経営する所にして、之に与かる国人は僅に其の補助の客位に居るに過ぎず、是れ既に国家の為めに恥とすべし、熊本の回春病院は其の一にして、今を距ること十二年英国婦人リデル嬢熊本の本妙寺に詣り、門前に癩者の群集して哀を行人に乞ふを見て愍惻の感に堪えず、書を本国の父母に贈りて生別を告げ其許可を得て此に其救護院を設立したる者即ち回春病院の濫觴にして、爾来十余年身を以て此困難の事業に任じ、前後収容救護せし患者数は男六十一人、女二十五人、計八十六人、外に牧崎出崎出張所に於て施療せし患者は実に四百余人の多きに至れり、同院が英国宗教団の贈金を以て経営し来れるに、日露戦争の際英国の贈金他の救済に支出せられて之が為めに病院の費途欠乏し、其後宗教団の後援絶へて益其の維持に困むに至れり、我国に来遊する外人にして此の事情を知る者はリデル嬢の志に感激し、義金を投じて之を援助し、又病院を訪問して其の美挙を賛嘆し其の労苦を慰藉せり、此事世上に聞え熊本県会は昨年末一年千円の補助金を同院に与ふる事を議決し、政府は本年一月緑綬章をリデル嬢に贈賜せられたり、然れ共病院維持金の不足は尚院務担当者の愁訴する所にして、目下我国有志の援助を求めつゝあり
    目下の急要
回春病院の収容する患者の数四十余人にして、其諸般の設備頗整頓し居るは之を訪問したる内外人の語る所なり、此現状を維持する費用一年概算五千余円なるが故に、此際二万円乃至三万円を醵集するを得ば四年乃至六年を支ゆるを得ん、国家は国民衛生の為に此問題を永く未決に附すること能はざるべきが故に、国家的事業として全部の解決を謀らざる可らず、此時に至らば回春病院の如きも其一部として相当の処分あらん、唯病院の現状前述の如くにして此期を待つこと能はず、是れ其概況を報じて有志諸君の助力を仰がんと欲する所以なり


中外商業新報 第七三三七号 明治三九年五月一九日 ○シツフ氏と回春病院(DK240060k-0004)
第24巻 p.526-527 ページ画像

中外商業新報  第七三三七号 明治三九年五月一九日
    ○シツフ氏と回春病院
熊本の回春病院は英国婦人リツデル嬢の創立に係り、経営十余年に渉りて幾百の癩病患者を助け来りしが、戦争の結果、従来の寄附金減少し頗る維持の困難を感するに至り、大隈伯・渋沢男等之に尽力中の由既報の如くなるが、曩頃シツフ氏は書を大隈伯に寄せ、リツデル嬢並に回春病院の事業は閣下委細御承知の由なれば問合せ致し候、果して聞く処の如くなれば応分の志を致さんと申越し、伯より其現状を答へられしに、シツフ氏は深く之に感激、直に二千五百円を大隈伯・渋沢男爵に寄贈し来れりとぞ、因にコンノート殿下御来遊の節、英国大使は殿下御臨席の音楽会により収入せし金の一部を東北飢饉地に、一部を回春病院に贈りし由なるが、日本の癩病患者は其本国人に冷視せられ却て外人に同情者多きかの如く、熊本県知事江木千之氏も之に心痛し慈善音楽会を開きて目下の急を補助し居れど、是れも唯一・二ケ月
 - 第24巻 p.527 -ページ画像 
を支ふるに過ぎざるにより、大隈伯・渋沢男等も頻りに配慮尽力中なりと云ふ


竜門雑誌 第二二一号・第五六頁 明治三九年一〇月 ○熊本回春病院寄附金(DK240060k-0005)
第24巻 p.527 ページ画像

竜門雑誌  第二二一号・第五六頁 明治三九年一〇月
○熊本回春病院寄附金 我国癩病患者に同情して熊本に回春病院といふを開き、この不幸の病者に慰藉と娯楽を与へつゝある特志の米国婦人《(英)》リデル嬢の事業に就ては嘗て記載せるが、青淵先生の尽力に依り、此程迄に同事業に賛同して岩崎家・三井家にては各二千円、松尾日銀総裁・木村長七・外三十余氏にて九千九百二十三円の寄附ありたりと云ふ


ミス・ハンナ・リデル 飛松甚五著 第三六―三七頁 昭和九年一〇月刊(DK240060k-0006)
第24巻 p.527 ページ画像

ミス・ハンナ・リデル 飛松甚五著  第三六―三七頁 昭和九年一〇月刊
    十五、法律第十一号
○上略
癩救療事業は、実に国家の大事業であり、政府と国民とは力を協せてこの事業に当らねばならないといふ主張の下に、ミス・リデルは屡々政府当局を訪ねて、種々建言する処があり、有力者を歴訪しては輿論の喚起に努めた。
 明治三十八年故子爵渋沢栄一氏は、ミス・リデルの熱心に動かされて、東京日本橋区坂本町の銀行集会所に朝野の名士を招き、ミス・リデルの意のある所を聴取せられた、出席者の中には、故大隈侯爵・清浦伯爵・島田三郎氏・頭本元貞氏、内務省からは窪田衛生局長などがあり、三井・岩崎・古河・大倉等の富豪の代表者も見えた。
 この席上、ミス・リデルは「日本に於ける癩患者を如何にすべきや」といふ題下に、その意見を具陳し、声涙共に至るの感があつた。こゝに於て窪田衛生局長は癩に関する法律案発布の必要を痛感し、遂にこれが動機となつて明治四十年、法律第十一号の発布を見るに至つた。
 大隈侯爵は「明治維新は馬関砲撃により、日本国民の長夜の夢を醒された為めに出来た。維新以来外国人の鞭撻により急速の進歩を遂げたものが多々あるが、癩救護事業も、ミス・リデルによつて先達された」と語られ、島田三郎氏は、氏が明治二十二年倫敦滞在中、フアーザー・ダミエンが癩伝道及び看護に従事中犠牲となり、癩病を獲て遂に太平洋の一孤島、モロカイに於て斃れたといふ報に接した倫敦市民のシヨツクと、その哀悼の意を表した、有様を追懐して熱弁を振はれた。
   ○右ノ記事ハ三十八年ト三十九年ノ両会ノ模様ヲ混同シタルモノノ如シ。


(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK240060k-0007)
第24巻 p.527-528 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三九年   (八十島親義氏所蔵)
十一月十九日 曇午後雨
○上略 午後二時ヨリハ虎ノ門女学館ニ至ル、コハ大隈伯・高木兼寛夫人其他ノ主唱ニテ、ミス・リデルノ経営スル熊本回春病院ノ為ニ、来廿八日当館ニテ慈善演芸会ヲ催サントノ企アリ、男爵モ大ニ賛助セラルルニ付、予ヲモ委員ニ加ヘラレタルガ故也、今日ハ大隈伯ノ手ヨリ桜井・油谷二氏、其他原胤昭・西田敬止・宮内省ノ田辺ナド打ヨリ、リ
 - 第24巻 p.528 -ページ画像 
デルモ来リ種々ノ細目ニワタリテ議ヲ定メ、六時帰宅ス ○下略
   ○中略。
十一月廿八日 晴
○上略
虎ノ門女学館ニ於テ今夜熊本回春病院ノ為ノ慈善演芸会アリ、予等ハ男爵ノ命ニ依リ初メヨリ種々協議ニ与カリ、尽力シ来リシ事ナルモ、不快ノ為出席ヲ得ザリシハ遺憾ナリ


竜門雑誌 第二二三号・第五〇頁 明治三九年一二月 ○熊本回春病院慈善演芸会(DK240060k-0008)
第24巻 p.528 ページ画像

竜門雑誌  第二二三号・第五〇頁 明治三九年一二月
○熊本回春病院慈善演芸会 青淵先生が同病院の趣旨を賛助し、先に基本金募集に尽力せられたるは既報の如くなるが、尚今回京浜の内外慈善家の企にて去月二十八日午後八時東京女学館内講堂に於て同病院の為にする演芸会の催あり、当日は青淵先生の演説に次ぎ諸種の演芸ありて、其収益千余円は全部同院に寄附せられたりと云ふ


東京市養育院月報 第六四号・第六―九頁 明治三九年六月 ○熊本回春病院を訪ふ(其一)(無髯子)(DK240060k-0009)
第24巻 p.528-531 ページ画像

東京市養育院月報  第六四号・第六―九頁 明治三九年六月
    ○熊本回春病院を訪ふ(其一) (無髯子)
熊本回春病院とは、諸君も御承知であらうが普通の病院ではなく癩病専門の病院である、創立者はハンナ・リデル嬢と云つて英国の女宣教師である、元は英国監督教会派の伝道者であつたが、今は教派の縁を離れて独立の伝道を熊本で試みて居られると云ふことである、而して何故此女宣教師が癩病院を設立するに至つたかの理由は、先頃の東京諸新聞に記載してあつたから玆には精しく御話しをする必要もないが一寸掻摘むで云へば、元来熊本と云ふ所は非常に癩病者の多い土地で有名な花園村の本妙寺などに行つて見れば、実に此憐むべき患者は其境内の一部に群をなして居るのである、今より十余年程前のことであつたが、創立者リデル嬢は一日此本妙寺に遊んだ時、其処に群れ集ふて参詣者の憐みを乞ひつゝある此憫れむべき患者を見て、坐ろに愛憐の情を催ほし、之れが救済に任ずるを自己の天職なりと自覚し、書を故国に飛ばして教友等の賛助を得、其寄附に係かる資金を以て、約四千坪の地を熊本市外黒髪村に購ひ、病舎の建築を起こし、明治二十八年十一月始めて開院の式を挙げたのである。
余が同院を参観したのは本年の五月二十二日であつた、回春病院の所在地は、之を明細に云へば熊本県飽託郡黒髪村字下立田《シモタツタ》と云ふ所である、余の宿泊して居た宿屋は熊本市手取本町の研屋と云ふ家であつたから、宿から病院までは約三十町許りあつたが、郡部と云つても極く市に接近した場所である、院は第五高等学校の横手に当り、細川侯爵家累代の墓所たる竜田山の直下なる高台の地に建てられてある、北は竜田山に塞がれ、南は遠く下益城及び八代の方面に開けて、一望数里頗ぶる形勝の地位である。
余が同院に到着したのは甘二日の午後三時頃であつたと思ふ、門前の丘下にて腕車を下り、直ちに門を入りて玄関に刺を通じた、『何卒此方へ御通り下され』てふ取次ぎの案内につれて応接室に通り、有り合せたる椅子に腰を下して二・三分間休んで居ると、怱ち室外の廊下に足
 - 第24巻 p.529 -ページ画像 
音が聞こえて、障子を開らく音と共に四十恰好の温厚なる一人の有髯紳士が現はれた、之れ即ち同院医長三宅俊輔君である、互に初対面の挨拶をしたが、聞けば我養育院月報も毎号此病院へ寄贈せられてあるそうで、紙上では常に余の所説を読むで、無髯子の名も夙に承知して居る旨を語たられたので、余は何だか慚愧に堪えぬ様な気がした、気を留めて読む人があるのだから一言一句でも実に不注意には書けぬと思つて。
三時頃から四時半頃まで約一時間半と云ふものは余が質問の連発であつた、建坪のことや、病室の間取りや、患者の数や、年齢や、職業や生地や、男女の別や、病類や、患者の入退院や、死亡の数やさまざまの事項を質問したが、三宅氏は少しも迷惑さうな顔もせず、喜んで一一詳細に説明して呉れて、尚ほ其上に病室へ案内をして呉れて、叮嚀に種々の説明を与へられた、唯だ一つ同氏に答へることの出来なかつたのは経費の点で、会計のことはリデル嬢が一切担任して院の職員は何人も之れを知る者がないと云ふことであつたから、余は其翌日直ちに同嬢を熊本市古新屋敷町の私宅に訪問して精しく其報告を聞取つた今左に当日見聞した処を聊か御紹介することゝしやう。
    (一) 敷地及建物
院の敷地全体は一町三反即ち約四千坪で、其買入れ値段は七百五十八円であつたさうだ、十余年前のことゝは云へ一坪十八銭九厘とは誠に安い地所であつた。
建物は総て日本造りの平家であつて、都合九棟に分れて居る、其総建坪は二百五坪で内訳は左表の通りである。
   種類                   坪数
                         坪 合
 第一男病室(一棟)              二七・五
 第二男病室(同)               二七・五
 女病室(同)                 二七・五
 重病室(同)                 二七・五
 男浴室(同)                  七・五
 女浴室(同)                  二・五
 礼拝堂・診察室・薬局・事務室・炊事場(同)  五五・五
 医長役宅(同)                二一・〇
 物置(同)                   八・五
  合計(九棟)               二〇五・〇

前表に示めす通り病室は何づれも二十七坪五合の面積で、一棟が四室づゝに分かれて居るから男室が八個、女室が四個、都合十二室の勘定である、各室共皆な八畳敷で一室四人詰めの制限であるから、患者の収容定員は四十八名を超ゆることが出来ない、然かるに目下悉く満員で、此上一人も入院せしむることが出来ないことになつて居る、男病室は二棟とも一直線に並んで南向きに建てられてあり、女病室は男病室から少し懸け離れた所に東向きに建てられてあるが、相方とも室の前後左右は広き庭園を以て囲まれ、余の参観に行つた時などは数種の美はしき西洋草花が咲き乱れて居て、愛らしき蝴蝶の飛び狂るへる様など、少時は此所が憐れなる癩病院であることをさへ忘れしむる程で
 - 第24巻 p.530 -ページ画像 
あつた、先づ先づ一渡り行届いた病院であると云ふことは疑ふことが出来ぬ、赤十字社病院の如きを取りのければ、土一升金一升の東京では、斯かる天然的の贅沢を患者に与へることは決して出来さうにも思へない、医長の話によれば右の草花などは多くは患者の手で栽培されると云ふことであるが、斯かる閑静な別天地に収容されて治療と精神上の慰楽とを与へられて居る彼等数十名の患者は、実に不幸中の大なる幸福と云はねばならぬ。
    (二) 職員
職員は医長兼医員たる三宅俊輔君を始めとして、調薬手一名・看護婦二名・事務員一名で此五人は常詰めの職員である、目下入院患者の数は四十八名の定員限度に達して居るさうであるから、医員は三宅氏一人で手廻り兼ぬることはないかと尋ねた処、一体癩患者の如きは概して容体に変化のない病人であるから、同氏一人で決して間に合はぬことはないと云ふことである、看護婦は重症者のある場合は別として、平素は洗滌と繃帯とを主として担当して居る、リデル嬢は幹事と云ふ名を持つて居るが、院へは出勤せず自宅に於て外交及会計事務を取扱つて居られると云ふことだ、実際の職員は先づ之だけであるが、外に炊事婦が二名抱えてある。
    (三) 患者の状態
余の参観した五月二十二日現在の入院患者数は男三十一名・女十七名合計四十八名で、内どツと床に就て居る重症者は唯だ一人で、他は皆な自用の足りる病人のみであつた、兎角癩患者の如きは自身で不治の業病であることを諦めると同時に、動やもすると自暴自棄の捨鉢の態度を現はして、多少愛らしくない挙動を示めすものであるが、本院の如きは毫も其模様がなく、余が三宅医長の案内にて各室を巡視した時の如き、或は室の敷居際に立出で愛想よく辞儀をする者もあれば、或は余の姿をチラと眺めたのみで目礼した儘差し俯つむきて、極り悪るげな様子をして居る者もあり、皆な温良静粛の態度であるので、余は誠に心地よく感じた、其日は温かな好天気であつたものだから、室外の椽に立出でゝ己が飼養する籠の小鳥に餌を与へて自から楽しむ者もあれば、読書をする者もあり、四・五の患者打寄りて座談を試むる者もあり、孰れも本院の恩恵に対して感謝と満足の意《(マヽ)》して居る様に見受けられた、特に女室の如きは皆な一生懸命に裁縫をして居たが、三宅氏の説明に依れば、女患者は患者全体の衣類の修理裁縫等を受持つて親切に働いて呉れると云ふことだ。
患者の内には今が働き盛りの若者も多勢居たが、余は彼等を見て実に実に気の毒に感じた、何にも老人は癩病でも気の毒でないと云ふではないが特に血気盛んの壮年者が此不治の病、然かも人には忌み嫌はるる見苦しき難病に罹つて何の働きもなす能はず、空しく病室の小天地に屏居して自己の薄命を嘆じて居るとは、マア何と云ふ気の毒なことだらうと余はツクヅク感じ入つた、然かし斯かる病院に収容されて親切な治療を受けて居る者はまだしも非常な幸福であるが、家からは逐はれ人には嫌はれ醜骸を白昼天下に曝らして路頭に袖乞ひをなし、雨風に打たれつゝ山野に露宿する憐れなる癩患者が、未だ何等の救護を
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も受けずして苦悩しつゝあるを思へば、余は一種悽愴の気に襲はるゝ如き感がした、嗚呼憐れむべき貧しき癩患者、余は国家が一日も早く此悲惨の境遇に沈める同胞を救護するの処置を採られんことを希望すると同時に、世の紳士階級に属する有力者達が此回春病院の如き既設の私営救護事業に対しても、多大の同情を払はれんことを希望して止まないのである、リデル嬢に面会した時の話に依れば目下同院の事業拡張の為め差向き六・七万円の基本金調達中の由で、其件に就ては大隈伯爵や渋沢男爵の御尽力を辱けなうして居るなど語り居られた。
却説、特に憐れに感じたのは患者の内に妙齢の少女の居たことであつた、男とても気の毒さは同じであるが、然かし身妙齢の婦女子であつて、若しも之が世の常の人ならば髪形やら衣裳やら身分相応に夫々粧ひを凝して、莟の花とも愛でらるべき年頃の娘が、あはれや顔にあやしき腫物のふき出で、緑の髪の処まだらに脱け落ち、或は目口歪がみて皮膚の色さへ恐ろしげに変はれるなど、見るも惨ましき姿に接しては、誰れか一入のあはれさを感ぜざるものあるべきぞ、聞けば右婦人患者の内で二十五歳以下の者は八人で、尚ほ其内十五歳以下の者が三人あると云ふことであつたが、顔付を見た所などでは、一寸年齢の当りの付かぬ程に醜くなつて居るものもあつた。
概して云へば患者は総べて清潔に保もたれて居ると云ふことは誰れしも之れを認めるであらう、病室は申すに及ばず庭園なども美事に掃除が行届いて居て、得て有り勝ちの臭気などは露ばかりも無かつたのは余の最も喜びに堪えざる処であつた、之れと云ふも全く三宅医長の注意周到の結果であつて、氏は明治三十年三月リデル嬢の招聘に応じて本院に来たり爾来医長として尽力せらるゝこと玆に満九年有余、富貴利達の念を去つて専心一意癩患者の治療と慰藉とに身を委ね、従つて該病治療上特に会得せらるゝ処少からずと云ふことである、氏は其談話中頻りと我養育院の医員光田健輔君の癩病研究に熱心なることを称えて居られたが、直接同君と交際のなき余に取りても、知らぬ土地へ来て図らずも我院の医員たる人が同じ専門家から推重され敬服されて居る讃辞を聞いては、心私かに嬉しく感じて何となく顔の紐がゆるむ様な気がしたのである、余り長くなつたから本号は先づ之れだけとして、次号には参観の当日三宅医長に就て余が調査したる同院患者の統計を御目にかけることにしやう、即ち収容者の異動や、年齢や、男女の別や、職業や、宗教別や、病性やに就てゞあるが、余の質問の多いのと、数字が合ふの合はぬのと云つて三宅氏に御手数を掛けたことは一通りでなかつたので、同氏もさぞ迷惑されたことゝ思ふ。(つゞく)


東京市養育院月報 第六五号・第五―八頁 明治三九年七月 ○熊本回春病院を訪ふ(其二)(田中無髯)(DK240060k-0010)
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東京市養育院月報  第六五号・第五―八頁 明治三九年七月
    ○熊本回春病院を訪ふ(其二) (田中無髯)
    (四) 患者の出入
前にも話した通り、回春病院は明治二十八年十一月の創立であるから本年の五月即ち余が本院を訪ふた時までに丁度十年と七ケ月を経過したのである、さうして此十年七ケ月間に幾何の患者が収容せられたかと云ふに、其入院総数は百四名で一ケ年平均十人宛の割である、又た
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右百四名の入院患者中軽快に趣きたる為め若しくは事情ありて退院した者は四十三名、死亡は十三名で、差引き本年五月二十二日の現在は四十八名である。
左に掲ぐる一表は、回春病院創立以来各年に於ける患者の異動及び其年末現員を示すものである。

図表を画像で表示--

 年         前年末より越   入院   退院   死亡   年末現在        男    ―       二    ―    ―    二 明治二十八年        女    ―       ―    ―    ―    ―        男    二       八    二    ―    八 同二十九年        女    ―       六    ―    ―    六        男    八       八    三    ―   一三 同三十年        女    六       三    一    ―    八        男   一三       四    三    一   一三 同三十一年        女    八       二    ―    一    九        男   一三       五    五    ―   一三 同三十二年        女    九       三    二    ―   一〇        男   一三       四    三    ―   一四 同三十三年        女   一〇       二    ―    ―   一二        男   一四       五    二    ―   一七 同三十四年        女   一二       三    三    一   一一        男   一七      一四    五    二   二四 同三十五年        女   一一       五    二    一   一三        男   二四      一〇    五    三   二六 同三十六年        女   一三       二    ―    ―   一五        男   二六       三    五    ―   二四 同三十七年        女   一五       一    ―    ―   一六        男   二四       七    二    四   二五 同三十八年        女   一六       ―    ―    ―   一六        男   二五       六    ―    ―   三一 同三十九年        女   一六       一    ―    ―   一七        男    ―      七六   三五   一〇    ― 合計     女    ―      二八    八    三    ―        計    ―     一〇四   四三   一三    ― 



    (五) 患者の年齢
創立以来の入院患者百四名を毎五歳の年齢級に区別すれば左の通りで一番多いのが二十歳以上二十五歳の青年で二十八名、次ぎは二十五歳以上三十歳未満の者で二十六名、次は十五歳以上二十歳未満の少年で十八名、其次が三十歳以上三十五歳未満の者で十一名、他の年齢級に属する者は皆な十名以下である、而して左表の年齢は患者の入院時に於ける年齢である。

   年齢級          男    女    合計
 十歳未満           ―    二     二
 十歳以上十五歳未満      四    一     五
 十五歳以上二十歳未満    一一    七    一八
 二十歳以上二十五歳未満   一九    九    二八
 二十五歳以上三十歳未満   二〇    六    二六
 三十歳以上三十五歳未満    九    二    一一
 三十五歳以上四十歳未満    六    一     七
 四十歳以上四十五歳未満    五    ―     五
 四十五歳以上五十歳未満    ―    ―     ―
 五十歳以上五十五歳未満    一    ―     一
 五十五歳以上六十歳未満    一    ―     一
  合計           七六   二八   一〇四

又た本年五月二十二日現在の入院患者四十八名に就て其当時の年齢を調べた所が、最も多いのは二十五―三十歳の者で其人員十三名、次は三十―三十五歳の者で九名、次は二十―二十五歳の者で六名、其他二
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十歳未満の者は総体で九名、三十五歳以上の者は総体で十一名であつた、総じて男女とも血気盛んの年齢者に多いのである。
    (六) 患者の自費給費別
世或は回春病院を施療病院の様に心得て居るものもあるが、決して純粋の施療病院ではない、規則上自費患者及び施療患者の二種に別れて居るので、本人若しくは親族故旧にして資力ある者は、其資力相応に入院料を支払はしむることゝして居る、即ち施療患者は読んで字の如く全然院の経費を以て収容しつゝある者で、人院料は申すに及ばず寝具・衣服・器物までも院の給与を受けて居るのであるが、自費患者は入院料を支払ふは勿論、寝具・衣服・器具等に至るまで皆な自弁するを以て原則とするのである、尤も場合に依つては寝具だけは貸与することもあると云ふことだ、而して自費患者の入院料は三等に別れて居て一等は一ケ月十二円、二等は八円、三等は二円と云ふ定めである、自費患者と給費患者と孰れが多いかと云ふに、其は何人も想像する通り無論給費患者が多いのである、即ち余の訪問した五月二十二日の現在に依れば、総計四十八名の内、自費患者は僅かに十一名で、然かも其十一名中九名までは三等入院料として僅々一ケ月二円を支払ふ者で他の二名は二等とも三等とも付かず薬価と食費とを兼ねて各々一ケ月五円を支払ふと云ふことである、故に此二名を除けば他は実質上悉く施療患者と称しても差支ないのである、因に患者一名の一ケ年の費額は平均百円であると云ふことだが、僅か百円の金があれば、頼る辺もなき憐れなる癩病患者をして一年三百六十五日間薬を飲んで三度の飯を喰べて、花を眺め鳥の歌を楽しんで慰安の裡に其日を暮らさすことが出来ると思へば、金と云ふものは、用ゐ方に依つては活きて働くものであると云ふことが明らかに分かるであらう。
左表は本年五月二十二日現在の入院患者自費及び給費の区別である。

  種別    男     女    合計
  自費    一〇     一    一一
  給費    二一    一六    三七
   合計   三一    一七    四八

    (七) 患者府県別
目下の入院患者は一道三府十四県より集まり来たつて居るが、其内で最も多いのが本院所在地たる能本県で、総員の約二分の一を占め、次は山口県の五名、大分県の四名、佐賀県の二名等で、他は各県とも皆な一名宛である、熊本県人たる患者の多いのは前にも言つた通り回春病院の所在地である為めだが、然し何故か熊本県は申すに及ばず、宮崎・鹿児島・福岡・大分等の九州諸県は元来頗ぶる癩患者に富んで居るのである、之れに次では四国一円と中国筋では山口県、海道筋では静岡県、北国筋では岩手・青森二県の如きも亦たナカナカ多いのである、序ながら一言して置く。
左表は現在患者(五月二十二日)の本籍別である、表中其他とは北海道・東京・京都・大阪・兵庫・神奈川・和歌山・栃木・岡山・岐阜・長崎・福島・岩手・長野の一道三府十県の十四地方で、入院患者の数は各一名である。
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 地方      男     女    合計
 熊本県    一一    一二    二三
 山口県     四     一     五
 大分県     二     二     四
 佐賀県     二     ―     二
 其他     一二     二    一四
  合計    三一    一七    四八

    (八) 患者の職業
現在入院患者四十八名に就き其入院前の職業を調べたるに、左の如き結果を得たと云ふことである。

 職業      男     女    合計
 農業      九    一〇    一九
 商業      四     三     七
 画工      二     ―     二
 染物業     一     一     二
 下駄職     一     ―     一
 竹細工     一     ―     一
 会社員     一     ―     一
 学生      四     ―     四
 無職業     八     三    一一
  合計    三一    一七    四八

    (九) 患者病性別
三宅医長の語たる所に依れば、現在患者四十八名を大別して皮膚癩三十四名・神経十四名とするが、然かし其中には皮膚・神経の両方面を犯かされて居る、混合癩とも称すべき患者があると云ふことだ、今右皮膚性・神経性の両患者を男女別にして示めせば左の通りである。

 病性      男     女    合計
 皮膚癩    二一    一三    三四
 神経癩    一〇     四    一四
  合計    三一    一七    四八

又た本院に収容せる患者の死亡は、癩病の為めに死ぬ者は極く僅少で多くは癩病以外の死亡原因、即ち肺結核とか脚気とか其他の病気で死ぬので、一般の病気に対して癩患者は頗ぶる其抵抗力が弱いと云ふことである、中にも肺結核の如きに対しては特に脆いさうだ。
    (十) 患者の信教別
回春病院は、東京に在る目黒の慰癈園と同様に基督教主義の病院である、勿論純粋の病院であつて決して伝道上の機関として用ゐられて居るのではないから、此点は世人の誤解せざらんことを望むのである、唯だ其慰藉の方法として基督教の信仰を奨励し、従つて毎日日曜には説教を聴かせ、其上毎朝三宅医長が司会をして所謂朝拝《モーニングサービス》を行つて居る、朝拝とは毎朝時を定めて患者一同を礼拝室に集め、聖書を朗読し祈祷を捧げることであるが、医長の労も随分ナカナカのものと云はねばならぬ。
余は曾て或医学博士の説に、人は病気の為めに死ぬるよりは寧ろ死を
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恐るゝ恐怖心の為めに死ぬのだと云ふことを聞いた、之れは如何にも尤もの説の様に思はれる、気死と云ふ言葉さへある位であるから、恐怖心の為めに命を縮めると云ふことは確かにあるべきことゝ思ふ、而して宗教の目的は言ふ迄もなく安心立命にあるのであるから、仮令学者達は迷信と云ふ悪名を付けるかも知れぬが、宗教を信ずる人々の心の中には生死の境を超脱して無限絶対の神仏と渾然融合したと云ふ一種の喜悦安心を生ずる(筈である)、而して心身相関の理に依て此心中の喜悦安心なるものが、病患の苦痛を軽減し若しくは快復を早やめると云ふことは決して珍らしくないのである、故に本院が基督教(には限らぬが)を以て患者慰藉の根本的方法として居ると云ふことは、誠に其当を得たる処置と云はねばならぬ、目下在院の患者達も多くは入院後基督教を信ずるに至つた者だそうで、総員の三分の二即ち三十二名は皆な該教の信徒で、三名は将に信んぜんとしつゝある所謂求道者なるもので、残余の僅かに十三名が未信徒であると云ふことだ。
      ※
回春病院に就て見て来たことは大略此位いのことである、細々しいことを述べれば際限がないから先づ之れで擱筆と致さう。
尚ほ一言付加へて置きたいことは、同地の待労院と称する癩病院のことである、熊本には癩患者の多い為め、此外にも癩病院がないではないが、其は何れも営業としての病院で、純然たる博愛主義のものは回春病院と待労院の二箇である、回春病院の方は創立者「ミス」リデルの名と共に多少天下に知られて居るが、待労院の方は知る人が殆と無いのである、イヤ熊本市の人民でさへも此の病院の存在を知らない者が多いのである、所在地は熊本県飽託郡花園村字島崎で、本妙寺から南へ四・五町の所にある。
待労院は天主教会所属の慈善事業で、俗に仏蘭西人の癩病院として知られて居る、院の世話をする人は皆な仏蘭西人たる天主教の尼さんで其尼さんは七人居ると云ふことだ、余が同院を訪問したのは五月二十五日であつた、折節院長たる人(之れも仏人で此人は日本語が上手ださうだ)が他出中で精しいことを聞くことが出来なかつたが、幸ひ尼さんの内に英語の良く出来る人があつて種々親切に説明をし、且つ病室其他を案内して見せて呉れた、院の建築及其他の設備は非常に立派なもので、回春病院などは其点に於ては遥かに数等下だるのである、又患者の繃帯・沐浴等の世話も一切右の尼さんが親切に尽くすのださうだが、独り医員に至つては常置の者が無いので、之れは或は必要がないと云ふ訳かも知れぬが、些と物足らず感じた、余を案内した尼さんの話では、毎週二回宛近村から一名の医師が出張して来るのださうで、其れで別に差支はないと云ふことだ、余の訪問した日の在院患者は二十三名であつたが、之れは近頃少し減じた所で、平素は四・五十名を欠いたことはないと云ふことである、経費は一切仏国の天主教会で支弁するので、日本人の寄附などは未だ受けたことはないと云ふことだ、余り長くなりますから之れで御免を蒙りませう。   (完)