デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
3節 保健団体及ビ医療施設
6款 社団法人東京慈恵会
■綱文

第24巻 p.536-543(DK240061k) ページ画像

明治40年4月18日(1907年)

是ヨリ先栄一、東京慈恵医院幹事長有栖川宮威仁親王妃慰子殿下ヨリ、同医院拡張ノ資金募集ニ付キ特ニ御依頼ヲ蒙リ、是日、其相談役兼委員長ト為ル。


■資料

明治四十年二月ヨリ同年七月三十一日マテノ慈恵院拡張ニ付おほえかき 写 (威仁親王妃慰子殿下御撰) 【(以下二行栄一書入)】(DK240061k-0001)
第24巻 p.536-538 ページ画像

明治四十年二月ヨリ同年七月三十一日マテノ慈恵院拡張ニ付おほえかき 写 (威仁親王妃慰子殿下御撰)
                     (渋沢子爵家所蔵)
            (以下二行栄一書入)
              大正十三年三月十七日一覧済
                      渋沢栄一
一二月六日、慈恵院幹事一同・院長・次長・理事ヲ招集シ、慈恵院拡張ノ件ヲ相談、且幹事一同ヱ会員募集ノ事ヲ依頼ス
一同廿六日、慈恵院幹事一同・会員一同ヲ招集シ、前文ノ件ヲ談ズ
一三月廿八日、幹事会ヲ開キ決算予算ノ報告
一此度慈恵院拡張ニ付テハ、院ノ修繕・増築、患者多数ヲ収容スルニハ、会員増加位デハ到底多額ノ金ヲ醵集スルヲ得ス、広ク実業団体又ハ華族ノ尽力ヲ得ルニアラザレバ目的ヲ達スル事ヲ得ズ、故ニ松方・井上伯ニ謀リシニ、先ツ屈指ノ実業家ヲ招キ依頼スル方然ル可シトノ事ニテ、近日招集ノ目算、然ルニ井上伯興津ヘ転地ニ付帰京マデ待ツ事ニ成タリ
一井上伯興津ヨリ帰京ニ付、前文謀リシニ、伯ノ意見ハ此頃株式暴落ニ付時期悪シ、今暫ク時ヲ待ツ方然ル可ク、時期来レバドノ様ニモ尽力スルガ、如何ニセン今ハ都合宜シカラズトノ返答
一松方伯ハ、井上伯ガ尽力スレバ松方ニ於テハ異存ハナイガ、井上伯ガ時期悪シトノ事ナレバ自分モ同様トノ返答
一松方・井上ノ返答ニテ自分モ種々熟考ノ上、殿下○威仁親王ヱ伺フ可シト思ヒ、長文ノ電信ヲ御旅行先ヱ出ス
一御返電ニ、即今時期ニ適セズトモ、成効ノ成算有レバ、実業家ノ或者ヲ度々ニ招ギ尽力ヲ望ムモ一策、直接実業家ニ相談ヲスル方然ルベシトノ事
一幹事会ニテ幹事ニ、遠慮ナク意見ヲ談サレタシト度々申モ更ニ黙諾然シ裏面ヲ聞ケバ種々ノ希望モ有トノ事聞知シ、熟考ノ上、毎日或ハ隔日ニ幹事ヲ一人又ハ二人位ツヽ招キ、胸襟ヲ開キ意見ヲ聞ク事ニシタリ
一幹事ヲ招ギ種々談合セシニ、多数ハ拡張ヲ喜ブト共ニ、社団法人ト成ス事ノ希望、華族方・実業家ニ依頼希望、其他種々ノ細目ハ大同小異
一四月五日、幹事穂積歌子・阪谷琴子ヲ招キシ時ニ井上・松方ノ意見
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ヲ談話シ、株式暴落ト雖モ実際実業家今日ノ現況ヲ渋沢男ニ聞ク事ヲ希望ノ旨、両人ヱ依頼ス
一四月八日、幹事岩崎早苗ヲ招キシモ病気ノ為来ラズ、電話ノ間違ノ為夫人ノ名代トシテ男岩崎弥之助来邸、同人ヱ慈恵院拡張ノ件懇談セシニ、何トカ尽力セントノ返答
一四月九日、穂積歌子・阪谷琴子来邸、両人ノ陳述、先日御沙汰ノ事渋沢ニ談シ候ニ、松方・井上ノ暴落ト申ス事ハ実際ノ事、宜敷時期トハ更ニ申サレズ、去レバトテ何時暴落ガ回復ト云フ見込モ今ハナシ、今秋或ハ来年マテ御待ニ成リテモ如何ノ物ヤ、渋沢ノ考ハ、思召立候事故思召通リノ金額ハ六ケ敷カモ知レヌガ、丸キリ延期ニナラズトモ宜敷ヤト存候ニ付、殿下ヨリ、渋沢ガ彼様申故井上・松方ニモ何トカ尽力サレタシト御談ニ成テハ如何ヤトノ事、渋沢ノ意見阪谷・穂積両人ヨリ、猶渋沢ヲ召サレ諮詢ヲ乞フトノ事承諾セリ
一同十一日、岩崎弥之助男宮内省ニ到リ、斎藤審査局長ニ面会ノ上、岩崎久弥ヨリ弐万円・同弥之助ヨリ壱万円寄附ノ事申出候事
一同十二日、渋沢男来邸、先日穂積・阪谷夫人ヨリノ返答、自分委細承知ス、私モ非常ニ満足、ドウゾ渋沢、井上・松方ニ行キ談合ヲ依頼ス」渋沢ノ返答ニ、左様ナレハ私参リ談シヲ致スカラ、両人トモ承諾ノ上ハ、殿下ヨリ両人ヲ御招キニテ、猶尽力ヲ頼ムトノ御一言ヲ乞フトノ事
一同十三日、三井男爵ヲ招キシモ病気ノ為不参、名代三井三郎助来邸ニ付、尽力ノ事依頼ス
一同十四日、渋沢来邸、同人ノ談話、井上・松方ニ先日ノ談話致セシニ承諾セリトノ事、然シ井上ノ談話ニ自分ハ明後日ヨリ一ケ月許旅行故、留守中松方ニ依頼ストノ事、松方ニ其事ヲ談ゼシニ、井上留守ナレハ致方ナシ、成ル可ク尽力スベシトノ事、夫ニ付実業家ノ中大倉・原・安田・早川・近藤・森村ヲ招キ、殿下ヨリ御談話然ルベシトノ事
一同十五日、井上伯ヲ電話ニテ招キ、午後来邸、万障ヲ繰合セトノ事同伯ノ談話ニ、渋沢ヨリ委細承知ス、出来得ル限リハ尽力致スベシ然シ殿下ノ希望ガ多額ユヱ、充分ニハ参ラヌカモ知レヌガ、大坂ヘモ参ル故、鴻ノ池ヱモ談スツモリ、其他地方ノ実業家ヱモ談スベシトノ事
一同十八日、渋沢ヲ始メ、森村ヲ除ク外一同来邸、高木モ来邸、拡張ニ付皆ノ尽力ヲ依頼ス、院長欧州慈善ノ景況ヲ陳述ス、此日渋沢ハ実業家団体醵金募集其他慈恵院ノ事ニ付テノ相談役モ兼、委員長ニ推選、早川ハ専務委員、他ノ人ハ委員ト決定、然シテ社団法人ノ草按ヲ穂積博士ニ依頼ノ事、且ツ華族方有力ノ人ヲ招ク事等相談ス
一四月十九日、公爵徳川家達・徳川頼倫来邸、拡張ノ件ヲ依頼ス、両人トモ承諾、併シ明日ヨリ韓国・満州ヱ旅行ニ付、帰朝後ハカナラス尽力ノ旨返答
一四月廿一日、侯爵浅野長勲・徳川義礼・鍋島直大・黒田長成・細川護成・伊達宗陳・池田仲博・徳川圀順・(蜂須賀茂韶不参)・渋沢栄一来邸、拡張ノ件依頼ス、渋沢ヨリモ種々懇談ス、一同出来得ル限
 - 第24巻 p.538 -ページ画像 
リハ尽力セン、併シ徳川家達帰朝ノ上願フ事
一社団法人ノ草按斎藤起草、高木ニ披見サセ、高木モ草按起草ノ事
一高木草按持参ノ上、種々ノ希望モ有、旁五月二日ニ松方・穂積・渋沢・香川・委員一同来邸ノ事ニ決ス
○下略


東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟 東京慈恵会編 第四九―五六頁 大正一五年六月刊(DK240061k-0002)
第24巻 p.538-539 ページ画像

東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟 東京慈恵会編
                           第四九―五六頁 大正一五年六月刊
    其四 威仁親王妃慰子殿下と東京慈恵医院の拡張
○上略
 此の如くして慰子殿下は、幹事・院長・次長・理事等に医院拡張の御趣旨を伝へて協賛を得たまへりといへども、院の修繕・増築をなし多数の患者を収容するには、多額の金円を要するが故に、会員の増加にのみ頼り難き事情あり。是に於て、殿下は更に一歩を進めて、広く実業家及び華族の尽力を得んと思召され、先づ伯爵井上馨・同松方正義にその旨を御諮問あり。然るに両伯よりは、思召の程畏ければ、幾重にも尽力致すべけれども、目下株式暴落・市況不振の時なるが故に尚暫く隠忍して、時期の到来を御待ちあらせらるゝ方然るべしの奉答あり。折角思ひ立ちたまへる事なるに、この奉答に接したるを以て、殿下はいたく御心を悩ませたまひ、恰もこの時、第一・第二艦隊及び旅順鎮守府特命検閲使として、南満洲に御出張中なる威仁親王殿下に長文の電報を寄せ、その旨を述べて御意見を求められたりしに「即今時期に適せずとも、成功の成算あらば、実業家の或者を度々に招き、尽力を望むも一策なり。直接実業家に相談をする方然るべし」との御返電ありしかば、殿下は爰に雄々しくも固く御心を決し、如何なる困難をも排して、この事業を遂行せんと期したまひ、それより毎日或は隔日に、一人或は二人位づつ幹事を招き、胸襟を披きて意見を聴取せられ、四月五日には幹事穂積歌子・阪谷琴子を招きて、井上伯・松方伯の意見を語り、経済界の現況を男爵渋沢栄一より聞くことを希望する故、斡旋すべき旨を依頼せらるるに至れり。両夫人は御希望を体して渋沢男を訪ね、四月九日参殿して「先日の御沙汰の旨を伝へたるに渋沢男は井上・松方両伯の言の如く、株式の暴落、市況の不振は事実なるに由り、今日は宜しき時期とは決して申し難し。さればとて何時回復すべしといふ見込もなきこと故、今秋或は来年まで御待ちあらせらるるも如何。渋沢の考にては折角御思召立たれたることなれば、仮令所期の金額を集め得ずとするも、全く延期するにも及ぶまじきかと思考せらるるに付殿下より、更に井上・松方両伯に、渋沢が彼様申す故に、両人共何とか尽力せられたし、と御話ありては如何やと存ずる次第なりと申述べたり」と復命しまゐらせたり。殿下は聞召して非常に悦ばせたまひ、両夫人よりの請ひに任せて、同月十二日渋沢男を召され「先日両夫人を通じての返答を承知し、非常に満足せり。何卒渋沢男が井上・松方両伯を訪ねて談合せられたし」と、恐れ多くも極めて鄭重なる御依頼ありしを以て、渋沢男は感激に堪へず「御言葉に随ひ、両伯を訪ねて相談すべきに由り、両伯承諾の上は、更に殿下より
 - 第24巻 p.539 -ページ画像 
両伯を御招きありて、尚尽力を頼むとの御一言を下したまはらんことを」と言上して退出せり。越えて十四日、渋沢男は重ねて参邸し「井上・松方両伯共御思召の次第を承諾し、十分尽力すべく、それに就いては実業家の中、大倉喜八郎・原六郎・安田善次郎・早川千吉郎・近藤廉平・森村市左衛門を招き、殿下より親しく御談話あらせらるる方宜しかるべし」との旨を言上し、同十五日には殿下よりの御招きによりて、井上伯も亦参邸し「大阪の鴻池その他地方の実業家にも御趣旨を伝ふべし」と言上せり。
 凡そ此等の事情は、慰子殿下の御自筆なる「慈恵院拡張に付おほえかき」と題する小冊子に詳細記述せらるるものにして、当時威仁親王殿下の御不在中なるに拘らず、殿下が殆ど御休息の御暇だになく、連日連夜多数の人々を招致したまひ、財界不況の困難を冒して、医院拡張の素志を貫徹することに努力あそばされし御有様、歴々として看るべく、世態と人情とを深く察したまひつつ、燃ゆるが如き御熱心を以て、事業の基を固めさせまたへる至純至誠の御精神は、これを拝読するものをして、覚えず襟を正しうせしむるものあり。
 四月十八日、渋沢・大倉・安田・早川・近藤の諸氏及び高木院長は御招きにより参邸し、殿下より御懇談を賜はり、高木院長はまた欧米諸国における慈善事業の状況に関して陳述せり。その席上において実業家団体醵金募集その他東京慈恵医院に関する相談役兼委員長として渋沢男を推選し、専務委員としては早川氏、委員としては他の諸員全部その任に当ることと決定し、拡張後の医院を社団法人となすことに就ては、法学博士穂積陳重に草案の起草を依頼することとなし、また有力なる華族諸氏をも招請することを協議したり。
 是に由り殿下は、翌十九日、先づ公爵徳川家達・侯爵徳川頼倫を招き、同月二十一日には侯爵浅野長勲・侯爵徳川義礼・侯爵鍋島直大・侯爵黒田長成・侯爵細川護立《(細川護成カ)》・侯爵伊達宗陳・侯爵池田仲博・侯爵徳川圀順及び男爵渋沢栄一を招き、医院拡張の件に就き御依頼あり。一同出来得る限り尽力すべき旨を奉答せり。
○下略


渋沢栄一 日記 明治三八年(DK240061k-0003)
第24巻 p.539 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年        (渋沢子爵所蔵)
十一月十一日 晴 風寒
○上略 兼子同伴シテ芝慈恵院ノ園遊会ニ出席ス、園中種々ノ余興アリ、看護婦牧野ノ案内ニテ院内各室ヲ一覧シ、夕五時王子別荘ニ帰宿ス
○下略


(八十島親徳) 日録 明治三八年(DK240061k-0004)
第24巻 p.539 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三八年   (八十島親義氏所蔵)
十一月十一日 晴
例刻出勤、男爵モ昼頃一寸出勤セラレ、令夫人ト会シ共ニ慈恵医院ノ園遊会ニ赴カル ○下略


渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK240061k-0005)
第24巻 p.539-540 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年       (渋沢子爵家所蔵)
四月十二日 晴 暖             起床六時四十分 就蓐十二時
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○上略 三時半有栖川殿下ノ邸ニ抵リ、妃殿下ニ謁シテ慈恵院ノ事ニ関シ御依頼アリ ○下略
   ○中略。
四月十四日 曇 暖             起床七時 就蓐二時
○上略 有栖川宮邸ニ抵リ、妃殿下ニ謁シ慈恵医院醵金ノ事ヲ陳上ス、帰途高木男爵ヲ訪ヒ夕六時帰宿ス ○下略
   ○中略。
五月十日 雨 軽寒             起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 午前九時有栖川宮邸ニ抵リ、松方・香川其他ノ人々ト慈恵医院ノ事ヲ議ス ○下略
   ○四月十八日ヨリ二十八日迄ノ日記ヲ欠ク。


東京市養育院月報 第七四号・第九頁 明治四〇年四月 ○東京慈恵医院の拡張運動(DK240061k-0006)
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東京市養育院月報  第七四号・第九頁 明治四〇年四月
○東京慈恵医院の拡張運動 同院は明治十五年の設立に係り本邦慈恵病院中最も古きものゝ一なるが、資金の豊富ならざる為め目下僅かに五十名内外の患者を収容し得るに過ぎざるより、同院幹事長有栖川宮妃殿下には之れを遺憾とせられ、去二月六日重立ちたる職員一同を御邸へ召され、同院拡張に就き懇々の御相談ありしかば、職員等は殿下の御思召に感激し目下其拡張運動に就き夫々れ協議中なりと云ふ、因に当日幹事長殿下より一同へ仰せ聞けられたる令旨は左の如しと。
 我帝国の地位は日露戦争の結果一躍して列強の一に数へらるゝに至り、社会諸般の事業漸次整備の緒に就くも、独り慈善の業は未だ之に伴へりと謂ふを得ず、慈恵医院の如きも平均僅に五十人の患者を収容するに過ぎざる現状にして 皇后陛下庇護の下に置かせらるゝ事業としては規模狭少の憾なき能はず、或程度まで之が拡張を計らざるべからず、余一昨年欧洲へ渡航帰朝の際既に拡張の意ありしも時恰も戦役中なると又余が欧洲滞在は短日月にして慈善事業の調査を為すに十分の暇なかりしを以て、幸ひに同年十二月高木院長欧洲巡遊の途に就くを以て右調査を託したりしが、院長帰朝の際精細の調査報告を齎らしたり、且世局も平時の状態に復したるを以て本院拡張の時期至れりと認むるが故に、各位に於ても此意を体し一同協力して会員を募集し、之が拡張に尽力し、明治二十年中に賜はりたる 皇后陛下の令旨に副はんことを望む。
又た東宮妃殿下よりは今回特別の思召を以て本年より向十ケ年、年々金五百円を同院へ御下賜あるべき旨御沙汰あらせられしと云ふ。


雨夜譚会談話筆記 下・第七三五―七四一頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK240061k-0007)
第24巻 p.540-542 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第七三五―七四一頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第二十六回 昭和四年十月二十九日 於渋沢事務所
○上略
三、東京慈恵会に御尽力ありしに就て
先生「東京慈恵会は最初の名は何とか云つたよ」
篤 「東京慈恵医院だつたと思ひます(註、東京慈恵会発行の書籍「東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟」によれば、明治十五年八
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月二日、高木兼寛男創立の時の名称を有志共立東京病院と云ひ、明治二十年四月一日、東京慈恵医院と改称さる)」
先生「何時だつたか(註、明治二十年十月の事なり)私は鹿鳴館に聘ばれて行つて、東京慈恵医院に七百円か寄附させられた事がある。其時私が滅多にあんな所へ行くものではないと、冗談云つたのを覚えてゐる。其頃は専ら高木兼寛氏が経営の任に当り、全く高木氏の個人病院のやうに思はれて、世間でも広く知らなかつた。それからずつと後で、明治四十年前後の事と思ふ、当時、東京慈恵医院の幹事長をしておいでになつた有栖川宮妃慰子殿下が、洋行なさつて先方の有様を御覧になり、東京慈恵医院の見すぼらしい事を深く御感じ遊ばされた。そこで松方公・井上侯の二人に、東京慈恵医院拡張の御考に就て御沙汰があつた。けれども時恰も日露戦後で、実業界も沈衰してゐる有様だつたので、両人より此際一般から寄附を御求めになる事は困難であるからと云つて、お止め申したのである、然し妃殿下には、東京慈恵医院が、外国に比してあまり見つともないと思召しになつたので、或日突然穂積の歌子と阪谷の琴子とを御召しになつた。そこで両人が参上して見ると「実は東京慈恵医院拡張の事に就て、渋沢の力添を望んでゐる、それで直接渋沢本人に会つて意向を聴いてもよいと思つたが、或は渋沢に具合が悪い事がありはすまいかと思ふのでお前方に依頼するのであるから、お前方から私の考を伝へて呉れまいか」と、内々御沙汰があつたそうである。私は両人から殿下の御言葉を承はつて「兎に角殿下から御沙汰があれば何時でも罷り出ます、けれども経済界の現状がこんな具合で御座いますから、畏い事であるが、殿下の御満足の行くやうな御返答を申上げ得るかどうか懸念致して居ります」と、両人を通じて申上げた。すると御召しがあつたので伺つて見ると、威仁親王殿下と妃殿下とが御揃ひで懇切に種々御話があつた。お話の筋は要するに、「此事に就ては皇后陛下も御心配遊ばされておいでゝある。東京慈恵医院は現状の儘では高木個人のものゝやうであるが、これでは困る。何とかして一般的のものにしたい。それに就ては既に松方・井上の両人にも話して見たところ、両人から時機が悪いから困難だ、拡張してはいけないとは云はぬが、やりかけてうまく行かない時に困るだらう。それにしても一応渋沢らの意向を聴いて見たらよからうとの事で、実はお前を呼んだ訳である。だからお前の意見を腹蔵なく話して貰ひたい。経営法を改良するとしたら、どうすればよいか、その方法に就ての考もあるであらう」との御言葉であつた。それで私から「現在は困難な立場にありますが、やつてやれない事はございますまい。やるとなれば重立つた実業界の人々に援助を頼まねばなりますまい」と申上げた。そこで麹町三年町の宮家へ、各方面の重立つた人々を御召しになり、妃殿下御自身で、東京慈恵医院拡張の御趣旨をお述べになつた。前に妃殿下が私をお召になり、どんな事を述べたらよいかとの事であつたから、それはこんな具合にお話になつたらよろしうございませうと、私が演説口調に御話申すと、賢い御方で、よくお呑込になつて、なかなか上手に御演説なさ
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つた。あとで威仁親王が妃殿下に「お前は演説遣ひになつたネ」と御冗談仰せられたので、妃殿下は「あれは渋沢が智慧をつけて呉れたからでございます」とお笑ひになつたと云ふ事であつた。最近では、慈恵会の経営はそう大してうまく行つてゐると思へぬ。それに大正十二年の大震災で病院全部焼失してしまつた。病院の建設には相当の金が必要である。現在慈恵会の資産は百万円ばかりある。けれどもこれは基本金として保存して置かなければならないので、外から建築資金を借る事になつて、逓信省と第一銀行から融通して貰つた。何でも第一銀行からは三十五万円借りたと思ふ。其後建築の方は着手してゐるが、其費用は八十七万円とか聞いてゐる。新しく建つたら、定めし気持のよい病院が出来るだらう。先日慈恵会の寄附金の事に就て、森村・近藤・大倉などの若い男爵連中と寄合つて協議した。それから蜂須賀侯・鍋島侯がよく世話して呉れてゐるやうだ。」
   ○当日ノ出席者 栄一・渋沢篤二・渋沢敬三・白石・佐治・高田・岡田・泉


社会事業大系 中央社会事業協会編 第四巻(科外講義)・第八―九頁 昭和四年八月刊 【私と社会事業 子爵 渋沢栄一】(DK240061k-0008)
第24巻 p.542 ページ画像

社会事業大系 中央社会事業協会編  第四巻(科外講義)・第八―九頁 昭和四年八月刊
    私と社会事業           子爵 渋沢栄一
○上略
慈恵会医院は故高木男爵が力を入れて、主として海軍の手で成り立つたが、皇室の御眷顧が厚く、非常に好都合に経営されてゐる。主として仕事は施療の方面であるが、之に附属して看護婦養成所と医科大学が経営されて居り、一日五百人位の外来患者と百四・五十人の入院患者を持つて年十万円位の経費を使つて居る。
 此会には徳川公爵が会長を務められ、私は副会長となつて居るが、之は故有栖川宮妃殿下が欧洲御巡遊から御帰朝された後、も少し何とか発展させる途はないものかと、私を御招きになつて御相談遊ばされたので、及ばずながら罷り出て金を集める御手伝を致したのである。此仕事は養育院とは異つて立派な人々や皇族方が関係して居られるので、経費の割合に事業は大きくないが、頗る御上品なものである。目下百万円位の基本金を有し、医者は高木男と実吉氏が中心であつた関係上、慈恵会医科大学の教授と学生が療治に従つて居る。
○下略



〔参考〕日本社会事業名鑑 中央慈善協会編 第二輯・第一二九―一三〇頁 大正九年五月刊(DK240061k-0009)
第24巻 p.542-543 ページ画像

日本社会事業名鑑 中央慈善協会編  第二輯・第一二九―一三〇頁 大正九年五月刊
 ○関東方面 東京府之部 施療救療並妊産婦保護事業(イ)施薬救療之部
    社団法人東京慈恵会医院  東京市芝区愛宕町二ノ八(医院長 子爵実吉安純)
 事業 施療
 組織 社団法人東京慈恵会の経営、御下賜金・同会々員醵金・基金利子・寄附金等を以て維持経営す。職員として医院長以下医院次長一名・商議医員五名・医員一七名・当直医長及副当直医各一名・当直医一四名・薬局員及書記各六名・看護婦取締一名・同副取締二名・看護婦長七名を置く。
 沿革 明治十五年七月、戸塚文海・男爵故高木兼寛等有志三十名発
 - 第24巻 p.543 -ページ画像 
起の下に之を設立す。初め有志共立東京病院と称して施療を開始せしが二十年四月上聞に達し 皇后陛下御眷護の下に、有栖川宮熾仁親王妃董子殿下を幹事長に仰ぎ、貴婦人慈善会員を以て東京慈恵会員となし、其醵金を以て事業の拡張を図り、東京慈恵医院と改称せり。爾来数次 皇后陛下の行啓を仰ぎて親しく御慰問を賜はり、且多額の御下賜金を拝せり、二十九年有栖川宮威仁親王妃慰子殿下幹事長の職を継承せられ、四十年七月事業拡張の為、東京慈恵会を社団法人の組織となし同時に東京慈恵会医院と改称す。是より 皇后陛下の御懿旨を奉じ、幹事長威仁親王妃慰子殿下を総裁に推戴し、以て今日に至れり。因に明治十八年以後本院に附設せる看護婦養成所及二十四年以来旧成医学校を継承経営せる東京慈恵会医学専門学校は、共に東京慈恵会に属す。
 現況 大正七年度の施療人員入院一、七〇一名・外来一八、〇五八名、外に一時施療人員二七、一二六名、会員より交付する施療券持参者及貧民と認めたる者に施療を為し、外来の外、病床百五十八個を備へて入院患者を収容す ○下略



〔参考〕執事日記 明治二二年(DK240061k-0010)
第24巻 p.543 ページ画像

執事日記  明治二二年          (渋沢子爵家所蔵)
五月一日 晴
一君公ニハ午前十一時御帰邸、夫ヨリ直ニ銀行ヘ被為入、午后一時ニ至リ奥様御同伴ニテ、高木海軍総監 ○兼寛ノ招待ニ因リ、鹿鳴館ヘ被為入 ○下略
   ○中略。
十一月十三日 晴
○上略
一来ル十四日ヨリ十六日マテ鹿鳴館ニ於テ、慈恵院慈善会開設有之ニ付寄送品トシテ左ニ御出品ノ事
  一 毛糸細工物         拾壱種
右之通リ 但シ見積リ代金八円位
○下略
十一月十四日 晴
一奥様ニハ本日慈善会ヘ被為入候、供ニハ村田スエ・根岸フヂ外ボーエ一人ニ有之候事
  但御買上ケ物代金七拾弐円四拾五銭ニ有之候事
○下略