デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 災害救恤
2款 水害救恤
■綱文

第24巻 p.578-588(DK240073k) ページ画像

明治29年9月(1896年)

是月、東京府下ノ出水ニ際シ、栄一、罹災者ヘ金二百円賑恤ス。


■資料

青淵先生公私履歴台帳(DK240073k-0001)
第24巻 p.578 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
同 ○明治卅三年十二月一日 明治二十九年九月東京府下出水ノ節、罹災者ヘ金弐百円賑恤候段、奇特ニ付為其賞木杯壱組下賜候事      同 ○賞勲局



〔参考〕東京市史稿 東京市役所編 変災篇第三・第二六五―二六六頁 大正五年三月刊(DK240073k-0002)
第24巻 p.578-579 ページ画像

東京市史稿 東京市役所編  変災篇第三・第二六五―二六六頁 大正五年三月刊
 ○第二章 第二節 本記 帝都時代ノ風水災
    明治廿九年水災
廿九年 ○明治《(以下原註)》○紀元二五五六年。九月初旬ヨリ十五・六日 ○明治廿九年(紀元二五五六年)九月。ニ至ルノ間、大雨暴風連リニ臻リ、荒川・利根川・多摩川及市内ノ諸川漲溢シ、十一日 ○明治廿九年(紀元二五五六年)九月。本所区 ○市内。浅草区 ○市内。ノ一部浸水シ、十二日 ○明治廿九年(紀元二五五六年)九月。工事中ノ永代橋 ○市内。足場中央二百尺許ヲ壊流ス。殊ニ十六日 ○明治廿九年(紀元二五五六年)九月。中川六ツ木 ○武蔵国南足立郡花畑村。入堰破壊スルヤ、大水本所区 ○市内。ヲ襲ヒ、其東北部ハ浸水最モ深ク、十八日 ○明治廿九年(紀元二五五六年)九月。夜ノ如キ、水量実ニ五尺ニ達シ、家屋ノ浸水スル者頗ル多シ。是ニ於テ表町 ○市内本所区。明徳学校・須崎町 ○市内本所区。牛島学校・中ノ郷業平町 ○市内本所区。真正寺ヲ罹災者ノ避難所ニ充ツ。滞水十余日、廿七日 ○明治廿九年(紀元二五五六年)九月。ニ至リテ全ク退水スト云フ。是災下谷区 ○市内。深川区 ○市内。ノ一角亦浸水ス。○中央気象台。観測表官報。東京府第一課文書類別。
 - 第24巻 p.579 -ページ画像 
○下略



〔参考〕東京日日新聞 第七四七三号 明治二九年九月一五日 ○東京府下の出水(DK240073k-0003)
第24巻 p.579 ページ画像

東京日日新聞  第七四七三号 明治二九年九月一五日
    ○東京府下の出水
江戸川・荒川・多摩川の三大水及び浅川筋の氾濫に就ては本社勉めて耳目を鋭にし、得るに従ふて直に之を詳報し来りたるが、今亦た聞く所に拠れば江戸川筋の堤防一たび欠所を北葛飾郡三輪ノ江村字二階新田地先に生じてより、連日堰き止められたる積水は天地も摧けんばかりの音して落下すること宛も懸泉の如く、滔々として田野に溢れ村落に漲り、霎時にして万頃尽く大海と化し去りたり、其余激は一昨朝即ち午前八時頃に至りて南足立郡内に及ぼし、向ふ千住は勿論、堤外地に於ける江北村一円は眼界全く沼湖と変じ、之と同時に南葛飾郡戸田川筋へも氾濫し去りて、そが下流なる志村の如きは一帯に河伯の荒らす所となりたりと云ふ、目下秋穡方さに忙しきの候に際し、田産物を運び入るゝもの、熟稲を刈り取るもの相伴ふて田野に出で、蓑笠雨を冒して働き居たる真最中、忽焉この激浪に出逢ひ周章狼狽担へるものまでも打捨て置きて我が家に逃げ込み、軈て滔水の囲む所となりては床板までも流されて棲むに所なく、燻ぶりたる二階の隅に身を屈めて僅かに家宝を守護し居れる有様は、総て是涙の種ならざるはなし、地方の有司は早速炊き出しをなし此等餓民を招けども、各々家財を窃まれんことを怕れて一人も炊出場に来るものなく、家々食を欠きて餓死に瀕するもの多しと云ふ ○下略



〔参考〕東京日日新聞 第七四七五号 明治二九年九月一七日 ○東京府下の洪水(DK240073k-0004)
第24巻 p.579-581 ページ画像

東京日日新聞  第七四七五号 明治二九年九月一七日
    ○東京府下の洪水
府下の三大河中荒川の一水のみは風勢雨量の漸く減ずると共に稍々減水の姿となり、従ふて危険も亦た薄らぎたるも、彼の江戸川の堤防欠壊は端なく中川の漫水となり、滔天の濁流は岸を毀ち堤を越え、氾濫又た氾濫、其余勢は遠く北千住・江北各地に及ぼし、中川両岸の官民等は先づ所有土俵を搬び来りて怒れる濁流を堰き止めたり、已にして俵尽く畳を持ち出して之に継ぐ、畳尽く所有材木を横へて之を堰く、材尽く遂に計の為すべきなし、官民共に手を空しくして呆然滔水の漲り来るを傍観するのみ、之を一昨々夜半より一昨暁に至るの光景とす嗚呼奚ぞ夫れ惨なるや、幸にして右岸の人民多年洪水の経験あり、能く防備を尽したるを以て亀青村以西の地は一時水害を蒙むること甚しからざりしも、其左岸なる新宿諸村の人民等は洪水の経験に乏しく、周章狼狽の余堤防の護りを怠りしと、対岸なる亀青村の防護愈よ完備するに従ふて東岸は愈々危険を増せしとに依り、遂に堤防の欠壊を来たし、左岸一帯は転瞬にして大湖と化し去り、之が為に其の東南方なる各地方も将に滔水の害を被らんとするものゝ如しとは、一昨夕刻まてに聞知したる所なるが、昨暁に至りて形勢ガラリと一変して、其右岸なる花畑村字六ツ木の圦樋は全く破壊し去り、堤防は忽ち欠潰せり之が為めに亀青以下西岸の各村俄かに危険となり、従ふて綾瀬川の警備愈々急を告るに至りたり、多摩川・浅川の如きも去十二日頃の報告
 - 第24巻 p.580 -ページ画像 
に拠れば一時稍々減水の模様なりしに、又候降雨の為め増水尺余を加へたれば各所欠壊の報頻りなり、今其の急報数件を挙げんに
 新宿町登記所々在地に於ては、積上げたる土俵潰裂し多少の負傷を出せり(十五日午前二時半本所区役所員発)
 午前一時新宿町堤防二ケ所欠壊し全町一面に浸水す、人民は皆難を堤防上に避く(同上)
 新宿破壊の為め小村井三尺余減水せり(十五日午前六時十五分本所区役所発)
 花畑村六ツ木圦今抜けたり(十六日午前一時五十五分南足立郡長報)
 六ツ木破堤せしを以て洪水亀青以下各村へ汎濫し来るべし、綾瀬川は警備を要す(十六日午前三時四十五分南葛飾郡長報)
 奥戸村大字奥戸新田汐入堤防(渡場の辺)十二間破壊せり(十五日午後五時廿五分南葛飾郡長報)
 中川筋奥戸村損所は目下必死となり防禦中なるも、村民逃避したる為め警戒行届かず、僅かに総武鉄道会社員等によりて防禦しつゝあり、水防夫不足にして欠所漸く広がり凡二十間に達せり(十五日午後八時桐原技手報)
 西多摩郡福生村地内凡そ四十間破堤、其他河中突出五十間・護岸立籠数十間流失、又熊川村地内堤防突出三十間欠け込む(十三日関口技手報)
 浅川筋浅川村地内石垣欠落八間・立籠欠壊四十間、尚出水せば危険尠なからず(十四日富田技手報)
 浅川筋一尺余増水す、尚ほ増水の模様あり(八王子町中中野村危険の場所あり防禦中(十五日午後七時半原技師報)
谷口参事官の惨話 中川の暴水漲溢して堤防を越え危機愈々迫るとの急報に接し、谷口東京府参事官は被害の実況を視察する為め府属二名を随へて一昨日午後四時新宿町に向け出発し、昨日午前十一時過ぎに至りて帰庁したる由なるが、今氏の実見せし大要を聞くに、氏が新宿町に到着したるときは早や已に全町浸水し来りたるを以て、警官及町村吏員は数百名の人夫を督して水防に力を尽し、氏も亦属官を指揮し木を伐り石を運び、一万余の空俵を積上げて堤を築きしも、水量益々加はりて一方に防げば他方に崩れ、数百の俵は見る間に流失し去られたるを以て、更に数百枚の畳を徴発して之が水防に力を尽したるも、木裂け石流れて怒濤は愈々勢を逞ふするのみ、加ふるに当夜天地闇黒咫尺を弁ぜずして遂に堤壩を支ふる能はず、警官及吏員は昨朝午前一時前に至りて人夫一同に引上を命じたり、之が為め新宿町は浸水床上二尺余に達して一面湖海となり、其方位さへ分明ならざりしを以て、先づ江戸川筋の堤防に退却して金町に避難所を設け、女子を徴発して炊出しを為さしめ男子をして之を被害地に運搬せしめたりしが、被害の民家は老幼相扶け、家族相擁して悲声を発するもあり、飢を叫ぶもあり、其惨物の名状比較すべきなく、人をして転た暗涙に咽ばしむ、斯くて小岩村・鹿本村・篠崎村に来れば鐘を鳴らして非常の警報を為し、人心恟々として僅かに露命を求むるに倉忙たるの有様ありたり云云と
 - 第24巻 p.581 -ページ画像 
倉田技師の帰庁 去る十五日谷口参事官と同時に中川の西側亀青地方面へ出張し、専ら防水に尽力し居たる倉田技師は、水勢東側に氾濫し新宿町一円浸水し、一昨夜に至て愈々対岸の堤防決潰して危機已に迫り居るを望み、止むなく危険を冒して中川橋を渡り、新宿町に至り人夫を督して急水の防止に従事したるも、如何せん住民は皆避難に汲々として防水に従ふ者なく、材料亦乏しくして到底防水の見込なき為め終に現場を引払ひて他の手配に従事し、同時に警官よりも住民一般に対して速かに立退を命じ、それより氏は又奥戸村破堤の箇所に至り、村吏に対し人夫・材料等の徴発を協議し、僅かに人夫のみ集りたるも材料全く調はず、是に於て氏は一方に三浦技手を派して郡長に商議せしめ、一方には一先づ帰庁して材料を蒐集する事に決し、一昨夜午後八時帰庁せり
防水材料を送る 一昨夜帰庁したる倉田技師は、昨日午前九時頃内務省土木局に至り、溢水防止に要する麁朶其他の材料を借り入れ、正午に至りて漸く被害地へ向け送致せり
谷口参事官の再出張 谷口参事官は、六ツ木花畑各村の破堤せしを以て、昨日正午再び同地へ出張せり
府庁吏員の徹宵 去る十一日来水害の飛報続々到達するより、東京府庁第一部及第二部にては属及び技手の出張、信書の往復織が如く、其他空俵及び防水材料送達の為め連日徹宵して執務し居る由
寺田書記官の出張 水害区域の益々広く且つ甚しき報昨朝続々到達したるにより、寺田書記官も亦属二名を随へて昨日午前七時被害地へ出発したり
常置委員会 予記の如く府会の常置委員会は昨日午前十時開会、急施費三千余円は異議なく可決し、尚ほ種々善後策に就て協議する所あり正午前に至りて散会したり
綾瀬川の堤防破る 花畑村字六ツ木の堤防破壊したる為め、綾瀬川の警備愈々急を要する由は昨日午前三時四十五分発南葛飾郡長よりの報告に拠つて知られたるが、案に違はず其後綾瀬川は俄然水量を加へて東部堤防に決壊を生じ、南綾瀬村一円浸水し、尚ほ西部の堤防も決壊の恐ありとのことは昨午前十一時五分発南葛飾郡役所の急報に拠つて愈々確かめられぬ、東部の破堤は那処まで其影響を及ぼすべきやは未だ俄に判知し得べからざるも、万一西部の堤防決潰を来さば大千住地方一面の沼湖と化すべきは必然なり、従ふて同村元小菅御所跡なる東京集治監も頗る危急に迫りたるに依り、内務省警保局にては直ちに監獄課属を同集治監に急派し、尚ほ府庁よりも属官数名空俵一万俵を携へて同地に出張せしめたりと聞く、目下人夫の不足を訴へ居るとのことなれば防水の事非常に困難なるべし
深川附近の出水 昨午前十一時十分着深川警察署発の急報に拠れば、深川区山本町より西仲町に通ずる長本橋は、出水の為め橋板三枚を攫はれ橋梁傾き通行危険なり、又た霊岸町より山本町に通ずる山本橋も橋台五尺許り陥落して同じく危険となりたる為め、共に通行止となりたるよし

 - 第24巻 p.582 -ページ画像 


〔参考〕東京日日新聞 第七四七七号 明治二九年九月一九日 ○府下水害の後報(DK240073k-0005)
第24巻 p.582-583 ページ画像

東京日日新聞  第七四七七号 明治二九年九月一九日
    ○府下水害の後報
江戸・中川二水の堤防決潰せし為め新宿・亀青・南綾瀬を始めとして中川筋左右の各村落は勿論、墨田堤の東部一帯及び本所区北方の幾部分の全く泥海と変じ去りたる由は已報の如くなるが、潦水は昨日に至りても尚ほ其嵩を減ぜず僅かに一・二寸の退水するを見るのみ、然れども再昨以降は風落ち雨止み、時に秋雨の降下するあるも之が為に水量を加ふべしとも思はれず、察するに瀦水は日一日に減退せん、唯々浸水区域甚だ広遠なる割合に水疏け最と緩慢なる為め、民家は長く瀦水の中に埋もれて、礎傾き壁落ち倒潰するもの漸く加はらん乎、之を尾濃・近畿地方の被害に比すれば稍々軽からんも、我が東京府下にあつては実に弘化三年以降、宛も五十一年ぶりの大洪水にして市民の恐慌一方ならず、殊に向島の如きは都下八勝の第一位を占めて春夏秋冬曾て花あらざるはなく、中にも桜霞堤上に靉く比は都下の老若男女・貴賤貧富誰れ何れの区別なく来り遊ぶの名区なれば、紳士豪商の別邸風流隠士の家屋参差として聳え、料理屋・掛茶屋軒を並べて連なるのみならず、白粉臭き姐さんの棲家、紅閨春深き権君の巣窟、又ツた真性無垢の三囲神社の阿狐さんの棲穴など、土手下一面に押し並びたる場所柄のことゝて、其周章狼狽の態も一層甚しく、一昨々日水出の頃には紅裙を搴げて逃げ出すもの、化粧道具を抱きて避難するもの、此処の土堤にも彼処の樹下にも夥しく、人をして交々苦笑又た酸鼻せしめたり、新聞に噂さに之を聞きたる人々その向島に親類縁家ある人々は酒筒提げ殽携へて見舞に赴くもあり、例の弥次馬連は面白半分墨田堤へ駈け付くるもあり、家具を満載して堤を南下する遭難者もあれば荷車に小舟を積み載せて北行する徒もあり、土俵を搬ぶ水防夫の懸け声勇ましく混雑を制する警察官の叱咜厳めしく、水店・小売酒屋・鮓屋・駄菓子屋・餅屋・豆屋は俄かに店を堤上に開きて水見の客を迎へ遭難者・手伝ひ人・水防夫は樹下に握飯を咬りて飢を凌ぎ、竹屋の渡守は漕ぎ草臥れて乗客の多きに苦しみ、堤上の掛茶屋は我が家を遭難所に当てられて商売の術なきを歎じ、十人十色百人百種の人物幾万とも数へきれざる程に、堤上に麕集し其雑沓花時にも増して夥し、唯々花時の佳殽は沢庵漬よりも旨さうにして、春来の泥酔連中は今乃一人だもなきを異なりとするのみ、潦水の深さは処によりて差等あり、土手際を距る遠き場所に於ては深サ丈余に達すべく、濁流は甍と其高サを等しくして人家は宛然湖中の小島の如く、松林樹叢も深く其幹を水中に没して、一瞥すれば殆んど蘆葦の如く、全景を見渡したる処は霞浦湖上に潮来の十六島を遠望したる景色と相似たり、土手下の家屋はさまで深く水中に没せざれども、三囲神社は暮煙の間に半面の蜃気楼を望むが如く珠籬の頂一尺許りを抜き居る丈けにて、他は翠松の空しく水面を摩するあるのみ、されば民家の建仁寺垣又は籬笆などの九分まで水中に没して、平家の軒の影さへ見えぬも別に訝かしからず、唯唯堤下近くの二階家若くは三階家は竹梯・火事梯など用ゐて俄かに窓より土手へ向け仮橋を架し僅かに来往をなし居れり、此の如きは殊に
 - 第24巻 p.583 -ページ画像 
芸者屋に多く、大姐小姐が軽羅を翻へして橋上を走り居れる態は、宛然織女が鵲の渡せる橋を伝ふて他の牽牛をして空しく悩殺せしむるものゝ如く、幾多の風流連は頤に涎の洪水を漲りつゝ呆然たるもあり、此橋下の大道も今は一面の水浸しにて深さ幾尺なるを知らず、田舟・釣舟・盥舟・木葉筏は断えず此橋下を漕ぎ行き漕ぎ戻りて、箪笥・葛籠を搬びつゝあり、殊に可笑しきは泣き疲れて呆然たる遭難者多きが中にも憂きを憂きとし思はざる河童子供の赤裸となりて濁流に泅浮を試み居れる一事なり、其他洋服着用の見物人・見舞人等が丸濡若くは泥塗れとなりて堤上に攀ぢ登り、二八の美人が尻引ツ搴げて車を輓き居れるなど、随分気の毒にも又可笑しき事ども多し ○下略



〔参考〕東京日日新聞 第七四八〇号 明治二九年九月二四日 ○洪水後の東京府下(一)(DK240073k-0006)
第24巻 p.583-585 ページ画像

東京日日新聞  第七四八〇号 明治二九年九月二四日
    ○洪水後の東京府下(一)
雨後の天地は紅塵を洗ひ払ひて万物皆新たに心気自ら爽快を感ずれども、洪水後の黄土は潦水何日までも停滞して、檐傾き甍落ちたる家の内には沈竈蛙を生じて炊爨するに術なく、寒食に餓を忍び救恤米に枴腹を医し辛うじて生を得るもの万又た千、春稼の望みあるを見て秋穡の多きを待ち設けたる傖夫は、己が田畑の泥海と急変したるを眺めて涕すら声すら出し得で、呆然と竚づみ居るなど其状惨澹其景凄絶、彼の面白半分酒殽を携へ美人を拉して水見に出懸けたる呑気仲間の人と雖も一たび其惨澹凄絶の有様を見てはお付合ひにもお世辞にも空涙を流さゞるを得ざるべし、否、美人にすら涙脆き殿原の何如でか同情の心を惹き起さゞるべき、されど水見の客は洪水の真最中にこそ雲屯麇集すべけれ、秋雨の降りつる暁、黒白を別かぬ真夜中頃には十里の長堤寂として履響なく、唯々遭難民等が額を鳩めて欷歔の声を漏すあるのみ、人は已に潦水退き去つて秋の七草今方さに堤下の園生に咲き揃ふならむと想ひ居らん、さなくも諸処の破堤最早や既に旧に復して災民漸く其土に安んずなるべしと推せん、然れども破堤は注文の如く速かに修工せられず、潦水は予想の如く忽ちに減退せず、中川筋東西の被害地十余方里間は黄波〓灔、細鱗簷下に跳り水禽人に驚かず、唯々救助船・材料運搬船若くは小室用船・榎本家持船などと標書せる小舟塩舟の芦荻竹木を掻き別て那方此辺を棹さし廻ぐるあるのみ、勿論人工決壊口は綾瀬川筋に口を開くもの内匠橋・南綾瀬村に各一個所あり隈田川筋口を開くもの鐘淵紡績会社・寺島村白鬚神社・向島大倉別邸の辺りに各々一個所あり、其他源森川に落ち込みつゝある濁流、堰樋の水閘より迸りつゝある泥水は、千百猛虎の哮り狂ふかと思はるゝ程の地響なして、或は瀑の如く或は噴泉の如く流れ出づれども、何如せん一望杳として際涯なき瀦水は迚も区々の人工決壊口より流れ去らしむべきにあらず、況して花畑村字六ツ木の決壊口未だ修築の工を竣へずして、滔々たる中川の濁水は淙々として昼夜に流れ込み、下口より流れ落ちる丈けの水量は常に上口より注入しつゝあるに於ては、其全く減水せんことを冀ふとも到底及び得べしとも思はれず、本社は洪水後の惨状の洪水当時の惨状に比して更に一層の凄其を加ふるものあるを慮りて、一昨社員を府下の浸水地方に特派し、中川筋一帯の光景を
 - 第24巻 p.584 -ページ画像 
巡見せしめたり、今其齎し来りたるものに就て概要を抜載せん
南足立郡花畑村大字六ツ木の破堤は当初に於て長サ十二間内外に過ぎざりしも、濁流次第に堤壩を噬み瞬間にして二十間となり三十間と広がり、今は已に四十間内外の破壊口を穿てり、中川に落ち込みたる江戸川の溢水は中川堤を匐ひ上りつゝ直下せる刹那に於て此破堤を生じたれば、中川の溢水は再び其破口より奔流迸出して田畑に溢れ民家を没し、更に転じて綾瀬の東堤を衝き堤上を乗越し、尚ほも其西堤に迫りたり、西堤下諸村の人民等は協力同心能く水防工事に尽瘁したる為め、綾瀬川以西は幸に河伯の暴威を免れたれど、堤上今に土俵又は角石などの縦横狼藉たるあり、燻ぶりたる油土瓶の中乗するあり、内匠橋附近は直に六ツ木の溢水を受けたる為め惨状最も甚しく、橋東より六ツ木の破堤口まで約十余町の間は漾々たる湖沼と異ならず、修築材料は此長距離の間を覚束なき小舟もて運搬さるゝことなれば来往自由ならず、材料屡欠乏を訴へ水防工事甚だ困難なるが如し、一昨日の如きは僅かに修築準備を為し得たりと云ふまでにて、其竣工の程も知れ難し、或は云ふ此処四五日の間には必ず完成すべしと、果して然らんには災民の幸福此上もなき次第なれども、道路軌を並ぶることを得ざる村道上を十数個の牛車の材料を搬ぶ位ひにては何如あらんかと危ぶまる
内匠橋以南に於ける道路、乃ち水戸鉄道線は中川・綾瀬両水間に於て尚ほ水面下一・二尺の処に没せる場所あり、水戸街道は水戸橋以東亀有村まで凡て濁水中に没し交通何れも遮断せり、若し夫れ真赤裸となり杖に縋りて擺渡せんには僅かに新宿地方へ達し得べしと云ふ
墨堤以東一帯の村落市街は今尚ほ水中に没し居れるを以て、舟行ならでは被害の実況を巡視し難きも、堤下直接の家屋は指顧の間にあるを以て、幾万の見物人は相変らず花時にも優して肩摩雑閙蝙傘相望む、物見高きは都人の常とは云へ、他人の難義を七草同様に心得、酒殽を提げ美姫を携へて物珍らしさうに堤上を徘徊するなどは実に気楽の沙汰と謂ふべし、榎本子の私邸、百花園の庭内は共に一面の湖海にして珍草奇石は流下しつゝある蓆・畳に押し倒され、浮草藻草を引ツ被り波に漂ふ芋の葉は蓮葉の浮ぶに髣髴たり、中に就て最も厭ふべきは幾個の雪隠水中に潰れて黄金の波民家を浸せるなり、最も憐むべきは潰家の家人涙の袖を絞りつゝ流るゝ家材を拾へるなり、性急の老婆はまだ半ば水中に没する格子を拭ひ、二階なき賤が家の主人はまだ濡ひ勝ちなる床上に早くも畳を敷き、手舟なきものは尻搴げして水中に働くあり、心なき童児は盥舟を浮べて遊べるあり、堤の左右には相変らず乞丐小屋風の避難場あり、売卜者流の応接所あり、牛御前其他幾処の救恤米炊出場にては掬び飯・梅干などを竹皮に裏みて断えず救助に従ひ、水戸邸内にては水疏け工事の真最中にて、丁々たる斧声は生籬・幔幕を隔てゝ堤上に落ツるなど、倉皇周章の態は洪水の当初と異ならざれども、葉桜芸者の今は那処へか潜み込みて堤下亦た一点の紅を添へざるは、弥次馬見物連に取つてさぞかし遺憾ならんと察せらる、減水の度は場所に依りて遅速あり、水声最も急なる所にては当初より約四尺を減じ、水戸邸辺りにては凡そ三尺程減退せり、然れども此処両
 - 第24巻 p.585 -ページ画像 
三日の減水甚だ緩慢にして平均一日二・三寸を減ずるのみなりと云ふ



〔参考〕東京日日新聞 第七四八一号 明治二九年九月二五日 洪水後の東京府下(二)(DK240073k-0007)
第24巻 p.585-587 ページ画像

東京日日新聞  第七四八一号 明治二九年九月二五日
    洪水後の東京府下(二)
新小梅町より亀井戸梅園の北方に通ずる引船通りを界として、其以北は一面の湖海、家も草木も皆其半面を水中に現はすのみ、請地村より落ち来る濁流は急湍直下して横川・天神の二川に入り水渦紋をなして直に南奔す、引船通りに臨める押上・柳島・亀井戸諸村の水防工事中押上・柳島の或る部分に於ては一時決壊を生じたるよしなるも、今は土俵・角石等の長堤を築きて見事潦水を堰き止めぬ、中には石船を沈めて工事を助けし箇所もあり、大木を倒して護岸せる所もあり、水防工事の築き方は引船通りを以て最も巧みなりとす、天神・横川二水の左右両岸亦た多少の水防工事あらざるなく、以内は為めに浸水の区とならざりしとは云へ、押上・柳島・太平町・花月町・松代町・亀井戸の各地共に瀦水の床下を浸さゞるなく、街頭深きは尚ほ膝を没する所あり、亀井戸天神は前門に至るの道路のみ僅かに人馬の通行するあるも、裏門前及び境内は一面の瀦沼と化して穹橋は水より出で水に没して宛然海上に虹霓を見るが如し、されど利に鋭き藤下の掛茶屋は何れも客を迎へて慇懃到らざるなく、三々伍々来つて此処に小憩をなすもの風流才子又ツた紅裙一隊を見受けぬ、籬の萩は今方さに笑ひて頭上の藤は例の如く緑を流し居るも、まさかに置酒高吟の大平楽も出来ぬにや、焼麩を買ふて池魚に餌するもの多し、此際天地を広め食物に飽き意気揚々たるものは独り此池中の鯉魚のみならん乎、呵々
総武鉄道線以南は浸水家屋もなく瀦沼もなし、禾穀穣々たる所、火蛇雲を吐いて東西に馳す列車は当時赤帽白衣の一隊と火砲幾門とを搭載して西帰せり、察するに下志津附近に操演せし近衛砲兵中隊の帰り来つるならん
逆井橋は橋板動ぎて危険言はん方なく、橋下の水は狂奔矢の如くにして一瀉千里てふ趣きあり、橋の此方には府庁土木吏員の出張所あり、小名木川の岸辺は幾十隻の小船築堤石材を山積して一令の下るを待てり、橋の彼方には数隻の渡船あり、便して船橋に至るを得べく、小松川の市街は今尚ほ水中に没して、街頭舟を浮ぶ傖夫に就て減水の模様を聞けば当初に比して僅かに一尺五寸を減退せしのみと応ふ、こは新宿の破堤已に復旧せしも奥戸の破壊口未だ閉されざればなり、中川以東の事舟楫の便少き為め記者遂に其地を巡見すること能はざりしも、試みに幾個の董事者に就き其景況を尋ぬれば皆云ふ、新宿以南奥戸以北は潦水大に減退して今は全く濁水を見ざるの道路あり、其瀦水中に存在せる民家と雖ども殆んど浸水の床上に達するものなし、然れども奥戸の破壊口は其長サ二十余間に達し、今や辛うじて麁朶を挟みたるまでなれば、其以南の減水は何日迄とも予じめ期し難し云々と、水害の惨、実に言ふに忍びず、而して其減水何如が単に六ツ木・奥戸の修工何如に関すとせば、愈よ董事者に向ふて其迅速工事を急促せざるを得ず
一昨府庁の報ずる所に依れば、奥戸村破堤の修工は甚だ困難にして、
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其決壊口は僅かに二十間内外なれども水勢急激なる為め、已むを得ず稍々後方に於て凹字形の修築工事長八十余間を施こさゞるを得ず、然れども工事は追々其歩武を進めたれば遅くも一両日の後には竣工を見るべく、六ツ木村破堤の修工も材料人夫已に集まり、昨沈床をも設けたれば急ぎ修工に着手すべし、唯々其堤高六間を築き上げざるを得ざるが為め尚ほ若干の日子を要すべしと、当局者已に如是の精算あるに於ては記者の憂虞或は杞憂に属せん、否実に此事の杞憂に属せんことを冀望せずんばあらず
昨、復た府庁の報ずる所に拠れば、奥戸村字奥戸新田の破堤修築工事は、一昨廿三日午後六時五分を以て全く中川筋の濁流を堰き止むるを得、尚ほ引続き堤防を高めつゝあり、又た南足立郡花畑村大字六ツ木の締切工事は一昨二十三日までに破壊口四十余間中締切準備の為め杭木を打ち建てたるもの三十六間、土俵を以て堰き止めたるもの十八間沈床一層のみを沈下せしもの二十五間にして、尚ほ府庁より現場へ送り付けたる材料は粗朶一万二千束・栗石五十坪・杭木四百本・空俵一万一千俵にして、諸材料は優に修築工事を為し遂げ得べきを以て、昨日中には九分九厘竣工の見込なりと云ふ、果然工事は一進して愈々其奏効を見るに至らんとす、府庁吏員の其職務に励精なる、遂に陸軍工兵隊の援助を仰ぐに至らずして止みたるは記者の最も感謝する所にして、亦た府民一同の徳とする所なり、昨、二・三の新聞紙は真実しやかに工兵隊の出張せしよし記載せしも、こは唯々臆測の空話に過ぎず恐らくは樺山内務が被害地巡視の際或る吏員に向ふて、曠日弥久は府民一般の迷惑なり、已むなくんば第一師団工兵隊の援助を仰ぎてなりとも出来得る丈け工事を急施せざるべからずと語られたるを、揣摩しての説ならん乎、実は此事曾て無し
△防水材料運搬の困難 当所に於ては材料・水夫共に乏しくして工事捗々しからず、搗てゝ加へて中川の水運は逆井橋外三橋、別しては総武線鉄橋の為めに妨げられ、且つ小汽船行進の際には其波動を両岸に及ぼし、堤防の脆弱なる為め従ふて危険愈々加はる有様なりしかば、已むを得ず荷車又たは人肩もて総ての材料を運搬し来りしが、此頃本流の水量稍々退き危険の度漸く減じたる為め、去廿日初夜過ぎよりは小汽船を通行することゝなり、又た同時に江戸川堤防全町村地先切開きの場所よりも小伝馬船を通ずることを得たれば、材料運搬の一事は大に其困難を減じたりと云ふ
△樺山新内相の水害視察 樺山新内務大臣は、去る廿一日午後三時三十分退省すると直ぐ様、小野田警保局長・井上書記官及水野秘書官を随へて向島附近に於ける水害地を巡視し、各排水箇所及避難所等の実況を視察し、特に鐘ケ淵紡績会社内に設けある避難所に於て武田警察署長・飯島同区長等より被害の有様は勿論、六ツ木堤防の決潰、排水及び急施工事等の状況を聞取り、同五時過ぎ帰邸せられたり
△府下水害罹災者の総数 中川筋堤防破壊の為め、目下其活路を失ひ炊出米給与を仰ぐものは其数実に一万九千七百三十六人に達し、我が家を立退き避難所に投ずるものも亦た四千九百余人に上ぼれりと云ふ
今其員数を町村毎に分別せば左の如し
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  町村名      焚出給与人員      避難所入人員
  須崎町
  小梅町          ……         四一〇
  請地町
  南綾瀬村      一、八七〇          四〇
  隅田村       一、四〇〇          二〇
  寺島村         九〇〇          八〇
  吾嬬村         七〇〇         一〇九
  亀戸村          一七       一、九四〇
  小松川村      二、三五四       二、三五四
  平井村       一、四〇〇          ……
  鹿本村         六六六          ……
  松江村          三八          ……
  花畑村       二、五〇〇          ……
  亀青村       一、六四一          ……
  本田村       一、二五〇          ……
  大木村       一、〇〇〇          ……
  小岩村
            四、〇〇〇          ……
  奥戸村
   合計      一九、七三六       四、九五三




〔参考〕東京日日新聞 第七四八二号 明治二九年九月二六日 洪水後の東京府下(三)(DK240073k-0008)
第24巻 p.587-588 ページ画像

東京日日新聞  第七四八二号 明治二九年九月二六日
    洪水後の東京府下(三)
一昨廿四日午後七時を以て花畑村大字六ツ木破堤の堰止工事全部終工し、尚ほ引続き漏水防止中なりとの報、一昨夜夜本社に達せり、依て昨亦た社員を向島方面に出して減水の模様を聞見せしめたり、其報に拠れば
昨日(二十四日)までは六ツ木の破堤未だ修工せられざりし為め一面の湖海たりし向島地方も、今日(二十五日)は濁水全く涸れて鮒魚空しく轍中に枯死し、去る十八日以降殆んど一週日一百六十余時間中魚鼈と共に水中に棲ひたる流氓も、今は陸上の民と復して比隣互に慶弔す、水戸邸の内外、三囲神社の近傍、牛の御前一帯、又ツた榎本邸の比屋、百花園の園中は言ふも更なり、墨堤を遠く隔たる秋葉神社の近辺なども潦水影をすら留めず、溝渠僅かに黄濁せるを見るのみ、災民中手早きは已に店を開きて客を招くあり、遅きも方に柱梁を拭ひ居れる位なれば、先づは各地共に復旧したりと云ふを得べきか、然れども地盤の堅からざる庭園・床下等は今尚ほ湿潤して異臭鼻を衝くあり、流勢激しかりし場所は往々道路の中断せらるゝあり、若し夫れ衛生上の注意疎かならんには常に洪水と相伴ふべき悪疫を発生するに至らん家々共に洒掃に忙はしく、拭ひ洗ひに奔走せるは当局者の注意行き届きたるが為ならん、まだ生石灰を撒布せる場所あるを認めざれども、さして穢れたる土地ありとも見えず、されば注意の上にも尚ほ一層の注意を加へて悪疫の発生を未萌に予防ありたきものなり、見渡す所にては何れの民家も未だ畳建具を備ふるまでに至らざれども、今両三日
 - 第24巻 p.588 -ページ画像 
天気模様の変らざりせば土地の表面乾燥して旧形に復せんこと必然なり、田産物殊に晩稲の如きは三・四分通りは穂先より直に芽を生じて長きは二寸に達するものあり、畠物は葱・野菜類は総て収獲なかるべく、唯々芋のみはさして影響を蒙らざるべしと云ふ、秋の七草は其種類と浸水の多少とに依り多少枯死せしものあらん、されど萩寺の萩を始めとして亀井戸天神若くは百花園の庭内尚ほ見るべきもの多し、明日は幸ひの日曜日なり、久し振りにて遭難見舞旁々杖を墨堤に曳くも亦一興ならん乎、併し酔歌高吟は稍憚りありと知るべし
△水見連の減少 十里の長堤一時は立錐の地なきまでに人もて黒山を築きたれども、洪水の減退と共に是等の弥次馬連は追々減少して、今は此処彼処に見舞客の一群あるを見るのみ
△屎難義 都下人屎の需要者は葛西辺の阿哥どんが受持なれど、其の村里も這回の水害にて周章狼狽の真最中のことゝて買込みなどに出懸くる隙たく、家々の恭房は何れも溢れ出でんばかりとなれるが、中にも本所辺は殊に甚しく、差当つての屎難義何如とも為ん術なく、一荷五十銭を賃して掃除を頼みたる人々もあるよし、酸鼻酸鼻