デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 災害救恤
2款 水害救恤
■綱文

第24巻 p.599-602(DK240077k) ページ画像

明治40年9月(1907年)

是ヨリ先八月下旬、関東地方水害ニ襲ハレ、埼玉県下惨状最モ甚シ。是月栄一、同県出身ノ有志者ト謀リ、埼玉水害罹災救済会ヲ設ケ、自ラ金千五百円ヲ寄附ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK240077k-0001)
第24巻 p.599 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年     (渋沢子爵家所蔵)
九月九日 雨 暑             起床七時
○上略 午前十時兜町事務所ニ抵リ埼玉県下水害救済ノ事ヲ高田・諸井 福田等ノ諸氏ト協議ス
○下略
   ○中略。
十月二十二日 晴 冷           起床七時 就蓐十二時
○上略 上野精養軒ニ抵リ、埼玉県知事大久保氏及湯本・竹井・田島・長谷川諸氏ト会話シ、県下水害救済ノ事ヲ談ス ○下略


竜門雑誌 第二三三号・第四一頁 明治四〇年一〇月 ○埼玉水害罹災者救済会(DK240077k-0002)
第24巻 p.599-600 ページ画像

竜門雑誌  第二三三号・第四一頁 明治四〇年一〇月
○埼玉水害罹災者救済会 八月下旬の水害は関東地方一般に及び、特に埼玉県下の如きは其惨状尤も甚しきより、青淵先生の主唱に依り同県出身の有志者佐藤延勝・大川平三郎・高田早苗・田沼太右衛門・山
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中隣之助・福田又一・渋沢作太郎・諸井恒平・鈴木兵右衛門の諸氏発起となりて埼玉水害罹災救済会を設け、牛込砂土原町三丁目二十一番地埼玉学生誘掖会内に事務所を設け、本月十五日限にて弘く義捐金を募集し、其醵金を埼玉県知事に送附し配付方を依頼したる由なるが、青淵先生には一千五百円を同会に寄付せられたりといふ


埼玉学生誘掖会十年史 同会編 第四三―四四頁 大正三年一〇月刊(DK240077k-0003)
第24巻 p.600 ページ画像

埼玉学生誘掖会十年史 同会編  第四三―四四頁 大正三年一〇月刊
 ○第一篇 埼玉学生誘掖会史
    第一期 会員組織時代
○上略
是れより先、八月下旬関東地方に未曾有の大洪水あり、本県の被害殊に惨状を極め、県下罹災者のため県地有志者相諮りて義捐金募集の挙あり。本会又坐視するの秋にあらざるを以て、九月埼玉水害罹災者救済会を設け、左記の趣旨を以て普く京浜在住本県出身者の同情に訴へ救済義捐金を募集せり。
      埼玉水害罹災者救済会趣意書
 本年八月下旬連日ノ暴風雨ハ安政以降稀有ノ大洪水トナリ、全国到ル所多少ノ被害ナキハ世人《(マヽ)》ノ熟知スル所ナリ。就中我埼玉県下ニ於テ殊ニ惨状ヲ極メ、県下ヲ貫流スル諸川ノ水量ハ実ニ前代未聞ノ増嵩ヲ示シ、荒川筋ノ如キ其損害最モ甚シク、官民共ニ百方応急防備ノ手段ヲ講ジタリト雖モ、奔流激浪一瀉千里ノ勢ヲ以テ田圃園野ニ氾濫シ、堤塘橋梁ヲ決潰シ、道路家屋ヲ破壊シ、着ルニ衣ナク、喰フニ食ナク、住ムニ家ナキノ災民挙ゲテ数フヘカラズ。吾人ハ我同胞県民ガ眼前斯カル酸鼻ノ苦境ニ沈淪スルヲ見聞シテ、転々憫憐ノ情ニ堪ヘズ。因テ同志相謀リ京浜在住本県出身諸君ノ同情ニ訴ヘ、義捐資金ヲ募リ、以テ同郷交誼ノ微意ヲ表スルアラントス。希クハ奮テ賛助アランコトヲ。
爾来京浜在住県下同胞の同情は翕然として集り、朞月ならずして義捐者総員壱百名、金額総計五千六百拾九円に達せり。因て之を本県知事に送附し、其処分を一任せり。後大久保知事より謝状を送られたるが故に、左に其全文を掲ぐ。
 拝啓、愈々御清福奉慶賀候、却説水害罹災者救済義捐金募集に関しては彼是一方ならず御配慮相煩はし候処、各位の御同情に依り醵金五千六百円に達し候趣にて、先以て金五千円寄贈相成り正に領収致候、御蔭を以て今日迄に醵集の救済資金総額は
 皇室の御下賜金を合して金壱万八千七百円余に相達し候段、誠に感謝の至りに御座候、尚ほ報告未達の分も有之、右完了候上は速に相当救済の途相講じ可申筈に有之候、先は不取敢此段得貴意候 敬具
  明治四十年十一月二十六日
                埼玉県知事 大久保利武
    男爵 渋沢栄一殿
此の如くして臨時設置せる救済会は、既に其目的を達したるを以て、収支一切の精算を了し、十二月八日之を解散せり。
○下略
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青淵先生公私履歴台帳(DK240077k-0004)
第24巻 p.601 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳          (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
同 ○明治四十一年九月一日 明治四十年八月埼玉県下水害ノ際罹災者ヘ金壱千五百円救恤候段、奇特ニ付為其賞銀杯壱個下賜候事    同 ○賞勲局総裁


青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一三頁 昭和六年一二月刊(DK240077k-0005)
第24巻 p.601 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調  竜門社編
                  竜門雑誌第五一九号別刷・第一三頁 昭和六年一二月刊
    明治年代
 年  月
四〇  九  埼玉水害罹災者救済会主唱。



〔参考〕埼玉県誌 埼玉県編 下巻・第四四二―四四六頁 大正元年一一月刊(DK240077k-0006)
第24巻 p.601-602 ページ画像

埼玉県誌 埼玉県編  下巻・第四四二―四四六頁 大正元年一一月刊
 ○第四編 第九章 第六節 土木
    三 洪水
○上略
二、明治四十年の出水 八月中旬東北の風強く、驟雨連日十五日に至り諸川増水せるも水位格別高からさりしを以て、氾濫は隄外地に止れり。然るに其未た平水に復せさるに先ち同月二十一日気圧の急降は暴風雨を起さしめ、驟雨沛然として篠を束ぬるか如くなりしかは諸川漸く増水し、二十四日に至つて大洪水と為り或は隄塘を越え或は之を破り暴威を振ひたり。重て九月十八日に至り南風強雨を伴ひ来りしか今回は水量稍々少かりしも、尚隄外地一円に氾濫せしに依り其被害は前回に一段を加へたり。
第一回の出水量は利根川通旭村山王堂地先十三尺、権現堂川通権現堂村十五尺二寸六分の水位に達せるも、氾濫区域隄外地に止まり、護岸に損所を生せしのみ。第二回の洪水位は山王堂にて十三尺八寸、権現堂村にて二十一尺五分、渡良瀬川通川辺村にて十九尺三寸、江戸川通西宝珠花村にて十八尺七寸を示し、上流神流川の隄塘五十間を破り利根川の本隄児玉郡仁手村地先延長五百五間、大里郡新会村地先延長十九間五分、同郡男沼村地先五間五分、北埼玉郡中条村地先長五間を決潰し、濁水滔滔大里・南北埼玉・北葛飾四郡の平野に横流し、余勢を以て支派川の隄塘数十箇所を切潰し、荒川左岸の破隄より瀉注せる怒水と合流して、遠く東京市本所・深川・下谷の各市街を浸せり。尚渡良瀬の本隄北埼玉郡川辺村地先延長三百八間を破り、利島・川辺両村をして恣に濁水の奔流する所とならしめたり。斯くて利根流域内に於ける隄防の決潰四十三箇所・延長三千三百八十五間、欠損二百二十箇所・延長一万四千四十五間、道路の毀損二百二十六箇所・延長二万九千四十三間、橋梁の流失十七箇所・毀損百六十三箇所、河岸の欠損百六十五箇所、用悪水路の破損百八十九箇所なり。
第一回の洪水位は荒川通佐谷田村地先に於て十一尺四寸、入間川通伊草村地先八尺五寸、越辺川通中山村十三尺四寸を示し、沿岸に破損を
 - 第24巻 p.602 -ページ画像 
生せしも其氾濫区域は隄外地に止まれり。次回の洪水は佐谷田村十二尺四寸五分、古谷村地先二十六尺九寸、入間川通山田村九尺三寸、越辺川通中山村十六尺六寸、市野川通東吉見村十八尺七寸の最高水位に達したり。荒川本隄の如き全線殆と一斉に越水し、為に左岸北足立郡川田谷村地先四箇所・大石村二箇所・平方村二箇所・馬宮村一箇所・植水村一箇所・大久保村一箇所・横曾根村一箇所・川口町一箇所・比企郡東吉見村二箇所・小見野村一箇所・出丸村一箇所・延長四百三十六間を決潰し、其他支派川の小破隄数十箇所に及ひしを以て、比企・北足立二郡の大部、大里・入間二郡の一部に横流して其被害劇甚なり斯くて本流域内に於ける隄防の決潰百三十一箇所・延長一万五千七百十一間、欠損五百十五箇所・延長三万五千七百十四間、道路の毀損延長五万二千百三十三間、橋梁の流失八十八箇所・毀損二百九十七箇所河岸の崩欠二百五十四箇所・延長一万七千五百六十三間、用悪水路の破損四十七箇所とす。
而して前後三回に渉れる此洪水によりて害を被るもの管内町村百九十五・大字六百十四に及ひ、死亡者七人・負傷者十七人・行衛不明者六人を出し、家屋の流亡崩潰二百一軒・毀損七千五百六十九軒・浸水一万八千百七十四軒に達し、田畑の作毛は水腐に帰し、眼界青草を止めさる所多く、耕宅地の亡滅せるもの百七十一町歩、荒蕪地に変せしもの二百二十六町歩、満目荒涼人をして悽愴に堪へさらしめたり。此等の損失額を積算せは四百三十七万三千二百二十円に達し、内三百七十五万九千三百六十一円は実に作毛の損害に属せり。
土木復旧工事費の県営に係るものは百六十六万五千五百三十円五十六銭、内三十七万四千円は国庫の補助に係り、町村費に属するものは十五万五千二百九十三円八銭にして、内十二万六千二百九円五銭は県費を以て補助せり。
○下略