デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 災害救恤
6款 遭難救恤
■綱文

第24巻 p.618-636(DK240083k) ページ画像

明治33年12月(1900年)

是ヨリ先十一月中旬、伊豆列島東方ニ於テ遭難沈没セル、商船学校練習船月島丸ノ乗組員及ビ其遺族ノ弔祭慰藉ノ目的ヲ以テ、是月、月島丸遭難弔慰会設立サル。栄一、伊東祐亨・岩崎久弥・三井元之助・加藤正義・浅野総一郎等十四名ト共ニ其発起人ト為リ、義捐金募集ニ尽力ス。


■資料

中外商業新報 第五六七九号 明治三四年一月一日 月島丸遭難弔慰金募集広告(DK240083k-0001)
第24巻 p.618-619 ページ画像

中外商業新報  第五六七九号 明治三四年一月一日
    月島丸遭難弔慰金募集広告
商船学校練習船月島丸の踪跡を失するや、朝野力を戮せ百方捜索の手段を尽したるも、今に至るまて杳として消息なし、然れとも之を船長の遺骸其他漂流物件に徴するときは、該船は業に既に言ふに忍ひざる悲酸の運命に陥りたるにあらさる邪、若し青年有望の子弟七十有余人及其教育の任に当りし乗組職員其他水火夫等にして、空しく海上雄飛の材を懐きて一朝魚腹に葬られたりとせは、真に是れ海国の一大惨事にして吾人豈に之を黙視するに忍ひんや、是に於て下名等相謀り広く世人の義捐を募り、之を弔祭慰藉の資に供し、以て遭難諸士並に其家族に同情を表せんと欲す、江湖同感の諸君左記の条項を諒せられ多少の出捐あらむことを希望す
  明治三十三年十二月
      月島丸遭難弔慰会
       発起人(イロハ順)
        子爵 伊東祐亨   男爵 岩崎久弥
           加藤正義   伯爵 吉井幸蔵
           中橋徳五郎     山県伊三郎
           田健次郎   男爵 有地品之允
        男爵 赤松則良      浅野総一郎
           斎藤実       三井元之助
           荘田平五郎  男爵 渋沢栄一
           平山藤次郎
一本会の事務所は商船学校内商船学校々友会を以て之に充つる事
二発起人中に於て特に委員を選定し諸般の事務を処弁せしむる事
三義捐金は明治三十四年三月三十一日限り本会事務所並に左記の場所へ払込まるべき事
        東京市麹町区八重洲町一丁目一番地
               日本海員掖済会本部
        横浜市海岸通五丁目二十番地
               日本海員液済会横浜事務所
 - 第24巻 p.619 -ページ画像 
        東京府荏原郡品川町利田新地八番地
               日本海員掖済会品川事務所
        大坂市西区本田町通一丁目番外百一番屋敷
               日本海員掖済会大坂事務所
        神戸市東川崎町五丁目百六十五番屋敷
               日本海員掖済会神戸事務所
        函館区鍛冶町三十一番地
               日本海員掖済会函館事務所
        長崎市樺島町三十九番戸
               日本海員掖済会長崎事務所
        赤間関市田中町十一番戸
               日本海員掖済会馬関事務所
        広島市宇品町海岸通四丁目
               日本海員掖済会臨時宇品出張所
        東京市麹町区八重洲町一丁目一番地
               三菱合資会社 銀行部
               同各支店
        東京市日本橋区新右衛門町十五番地
               三井銀行
               同各支店
        東京市日本橋区兜町
               第一銀行
               同各支店
        東京市日本橋区小舟町三丁目
               第三銀行
        東京市日本橋区万町
               第百銀行
四義捐者の氏名及金額は便宜新聞紙を以て広告する事
五弔祭慰藉の方法は発起人の協議に依る事
六若し幸にして船体無事乗組員中生還する者あるときは、前項の協議に依り適宜慰労を為す事
七義捐金の出納決算報告は新聞紙を以て広告する事


中外商業新報 第五六七九号 明治三四年一月一日 ○月島丸遭難弔慰義捐金(DK240083k-0002)
第24巻 p.619-620 ページ画像

中外商業新報  第五六七九号 明治三四年一月一日
    ○月島丸遭難弔慰義捐金
月島丸遭難弔慰義捐金の募集は着々歩を進め、既に去月廿九日迄に左の如き申込ありたりと云ふ
    金五千円              男爵 岩崎久弥
    金五千円             日本郵船株式会社
    金五百円                安田善次郎
    金三百円              男爵 渋沢栄一
    金二百円                 近藤廉平
    金二百円                 加藤正義
    金一百円                 浅田正文
 - 第24巻 p.620 -ページ画像 
    金一百円                 岩永省一
    金一百円 日本郵船株式会社横浜支店監督係倉庫係一同
    金一百円        静岡県駿東郡静浦村有志一同
    金七十円       東京工業学校職員生徒有志一同
    金五十円             水産見習所員一同
    金十五円               神戸港務局員
    金十円          山形県農学校職員生徒一同
    金五円             佐賀県 福田顕四郎
    金五円            海軍々族横須賀婦人会
    金四円         香川県農事試験所長以下四名
    金一円    大阪市北大江尋常小学校内北大江同窓会
     計金一万一千七百六十円


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK240083k-0003)
第24巻 p.620 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年      (渋沢子爵家所蔵)
八月十六日 晴
○上略 夕方月島丸遭難醵金ノ処分ニ関スル集会ニ列ス
○下略


中外商業新報 第五八六九号 明治三四年八月一七日 月島丸義捐金の処分(DK240083k-0004)
第24巻 p.620 ページ画像

中外商業新報  第五八六九号 明治三四年八月一七日
    月島丸義捐金の処分
月島丸遭難弔慰会に於て募集したる義捐金は総計七万五千七百六十七円五十七銭七厘に達したる趣なるが、昨日午後三時より日本郵船会社楼上にて同会発起人会を開き、加藤正義・松山温徳・平山藤次郎の三氏及び内田管船局長も出席し、該義捐金の処分に就き種々協議したる由、聞く所に依れば前記総計金より諸入費を引去り船長百、教監六十二等運転士五十、三等運転士・事務員・嘱託医四十、学生三十、水火夫長二十五、水火夫二十の割合を以て夫々分配せられるゝ趣なるが、学生遺族へ義捐会分配の義は、発起人中出席者を除き多少異議あるべしといふ


中外商業新報 第五八七〇号 明治三四年八月一八日 月島丸遭難弔慰会発起人会(DK240083k-0005)
第24巻 p.620 ページ画像

中外商業新報  第五八七〇号 明治三四年八月一八日
    月島丸遭難弔慰会発起人会
月島丸遭難弔慰会は昨日の紙上に記せしが、既記出席者の外渋沢男・有地品之允・田健次郎の三氏も出席し、平山藤次郎氏提出の議案に就き種々協議せしか、結局再調の上、更に協議する事となり散会せしといふ


中央新聞 第五八八九号 明治三四年八月二一日 義捐金の分配争(DK240083k-0006)
第24巻 p.620-621 ページ画像

中央新聞  第五八八九号 明治三四年八月二一日
    義捐金の分配争
月島丸沈没の為め遺族救助の義捐金は其額七万五千余円に達したる由にて、過日右義捐金募集の発起人たる平山商船学校長・渋沢・加藤其他諸氏は日本郵船会社に集会して協議したる結果、略ぼ決定したるに
    △義捐金分配比例標準
は船長百円、学監・教授七十円、運転手・嘱托医等五十円、学生七十
 - 第24巻 p.621 -ページ画像 
九名一名三十円、水火夫二十円の標準にして、之に依て配分する時は船長凡そ二千五百円、学生一名凡そ七百余円に当ると云ふ、然るに此の分配標準を聞きたる学生の父兄は之れを以て甚だ不当の分配法なりとし、昨日午前日本橋区元大工町旅人宿青木方に集会して協議する処あり、其結果委員を以て
    △平山校長其他に談判
する事に決したる由なるが、学生父兄の云ふ処を聞くに、我々は今日迄月島丸捜索の結果に就きてのみ焦慮せり、金銭などの事は口にするを欲せざりし、然るに月島丸の消息は杳として聞くを得ず、本年五月以来は商船学校に於て我々父兄の質問に対して甚だ冷淡なり、然して今回義捐金の分配案なるものを聞くに甚だ不当なるが如く思はる、彼の職員等
    △船長以下は行衛不明者
として俸給を給され居り、其上愈よ溺死者と決定せば、職務に斃れたるものとして一時金若くは遺族扶助料等の支給あり、即ち船長以下は職務に死したるものにして惨は惨なりと雖も、普通船長として有るべき事なり、今回の世の義人が月島丸の沈没を憐み義捐金を投ぜしものの意思は、主として有為の学生が世に出でざるに先ち魚腹に葬られたるを悲惨なりとして也、義捐金分配は職員と学生と区別することなく平等に之れを分配するか、若しくは学生の分配律を今少しく引上べきが相当なりと認む、故に我々は平山校長其他へ対し此の趣旨を以て交渉せんとするものにして、場合によりては世人に訴へて其同情を求めんとす云々と云ふにありと


東京日日新聞 第九〇四六号 明治三四年一一月二八日 ○月島丸遭難義捐金処分決定(DK240083k-0007)
第24巻 p.621 ページ画像

東京日日新聞  第九〇四六号 明治三四年一一月二八日
    ○月島丸遭難義捐金処分決定
行衛を失してより一年余に渉れる夫の遭難船月島丸乗員に対する義捐金は八万余円の巨額に達し、爾来発起者は数回協議する所ありたるも該義金処分法に付ては確定に至らざりしが、此程の最終委員会に於て前回にて粗々決定したる協議を変更し、更に乗組生徒七十九名に対しては船長以下の職員より多額の贈金を為すことに決定し、同事務所にては、昨日より遭難者百余名の家族又たは親族に宛て通告状を発送したりと



〔参考〕商船学校校友会雑誌 第四八号・第四〇―五六頁 明治三四年 月島丸捜索始末書(DK240083k-0008)
第24巻 p.621-633 ページ画像

商船学校校友会雑誌  第四八号・第四〇―五六頁 明治三四年
   月島丸捜索始末書
    緒言
商船学校練習船月島丸は補助機関を有する鋼製帆船にして、長崎三菱造船所の製造に係る、明治二十九年十二月起工し、同三十一年六月竣工す、其資格は本邦の造船規程に合格し且英国「ロイド」の第一級船に位す、而して其積量及尺度等は左の如し
                   噸
  総噸数         一、五二四・四三
  登簿噸数          九四五・一四
                   尺
  長             二四一・九二
 - 第24巻 p.622 -ページ画像 
  幅              三七・五〇
  深              二〇・五四
                   呎
  「ロイド」所定最大平均吃水  二一・〇〇
月島丸は船長以下の職員として商船学校教官を乗組ましめ、明治三十一年六月竣工以後、遠洋に将た近海に五十六回の航海を為し、明治三十三年米国桑港に到りしが如きは最も長距離の航海たりしなり
今玆に報告せんとする惨事を惹起したる航海は、実に第五十七回の航海にして、明治三十三年十一月の事に係る、爾来玆に十閲月、尚ほ杳として消息を得す、之を公にしては国家は海国須要の材を喪ひ、之を私にしては父兄は其将来に信頼する所を失ふ、悲惨是より甚しきはなし、故に当局者は其筋の指揮を受け衆智を聚め各法を講し、力を極めて捜索に従事し以て今日に至れり、依て左に項を分けて事件の顛末を報告せんとす
    第一 遭難当時の航海
明治三十三年十一月十三日、月島丸は北海道室蘭に於て夕張粉炭三百噸、幌内塊炭千百五十噸、合計千四百五十噸を積載し、其吃水は船首約十八呎六吋、船尾十九呎七吋、平均十九呎零吋半にして「ロイド」最大吃水標に達せさること約二呎なり、斯の如くにして同日午後二時半同所を出帆し駿河国清水に向へり、当時の在船者は総員百二十二人にして、其種別は左の如し
 一船長以下職員       五人
 一医員           一人
 一事務員          一人
 一学生         七十九人
 一水夫          十五人
 一火夫           十人
 一大工           二人
 一製帆工          一人
 一賄夫           五人
 一給仕           三人
    第二 遭難当時の天候
明治三十三年十一月十七日、本邦南東海岸に襲撃し来りたる大風の発生地を講究するに、東経百二十五度乃至百三十度、北緯十度乃至十五度の間にあること論を俟たさるべし、而して其中心の初めて観測せられたるは十五日午後七時にして、馬尼拉気象台は之を本邦に報したり爾来大風は益々発達して北方に進行し、十六日黎明東経百二十七度北緯二十度の辺に来り、夫より東方の進路を採り、十七日午前琉球の東方を進行し、尚ほ同進路を持続して頗る迅速に南東海岸の沖合を経過せり、其石室崎より南方凡百八十乃至二百海里の所に襲来したるは十七日午後五時頃なりき、即ち駿河湾外並に石室埼附近は此時を以て大風の中心に接近し、風雨最も猖獗を極めたることは中央気象台の報告に徴して明確なりとす
抑も本邦に襲来する所の大風は、年々七・八・九・十の四箇月間に多く、其他の月に来るものなきにあらずと雖も其強度の大なるもの少な
 - 第24巻 p.623 -ページ画像 
し、所謂熱帯「サイクロン」の最も強猛なるものは多く八月・九月に襲来し、本邦海陸に損害を致すこと甚大なり、然れとも十月・十一月に至りては漸次其回数を減少すると同時に又強度を減少するを常とす但し気圧の低部位なるものは通例毎月数回は通過すと雖も、是れ尋常の週期を以て来るものにして敢て意とするに足らす、唯た注意すへき所のものは、彼の強勢なる「サイクロン」にして、回旋的の風雨なりとす、然れとも十月以後は大陸の気温一般に下降し、気圧高度を呈し来りて、本邦全部は北方の風卓越し寒気漸く加はるに及ひて「サイクロン」の我近海を経過するもの甚少しとす、故に這般の大風の如き其時期に於て近来稀なるものと云ふへし
這般の大風に付て最も注意すへき所のものは其中心進行の速度大なるにあり、普通北緯三十五度以下の地方にありては一時間の平均速度三十海里前後なるに、此大風の如きは平均四十五海里に至りたり、殊に北風の頗る長く吹続きたるは一顧の値あるものと云ふへし
    第三 照会応答
十三日室蘭を発したる月島丸は、常時に於ては十九日に清水に到達すへき割合なれとも、風波の状況に依り数日の遅達あるは帆船の常態として免れさる所なり、且つ前記の大風も其中心附近に於てこそ感触激甚なれ、東京の如き別に災害を被らざりしを以て、右の大風に対し月島丸の消息を介意するが如き観念は当時何人も之を存せざりしなり
然るに爾来豆相沿岸頻りに風害の報を伝へ、月島丸は予定の時日を経過するも到着の報知なきを以て、稍疑念を挟まさるへからさるに至れり、是に於て十一月二十二日航路標識管理所に各灯台に対し本船経過の時日を調査せんことを依頼し、管理所は直に電報を以て本船の航路に当る金華山・塩屋埼・犬吠崎・野島岬・石室埼・御前埼等の各灯台に照会する所あり、二十四日に至り金華山灯台よりは十五日午後四時該船が金華山沖を通過せしを認めたる旨を電報し来りたるも、其の他の灯台は総て該船を認めざる旨を報告し来れり、又十一月十五日、恰も月島丸と反対の航路を執り横浜を発し北海道に向ひたる胆振丸船長大熊徳蔵の談話に依れは、十六日午前四時同船が犬吠崎を経過し、北微東二分の一東(自差二度西)の針路にて六十海里許航走し、同十一時過小名浜沖に於て月島丸を五・六海里地方に見たりと、是れ十二月十五日付函館海事局長吉田有年の報告する所なり
    第四 伊豆列島及小笠原方面の捜索
十一月二十四日前記金華山灯台の電報に接したる後、更に他の方面の報告を待ちつゝありしが、一も之を接手せず、而して月島丸は尚ほ目的地に達したるの報を伝へず、疑団益加はり、事態猶予すべからざるを覚れり、乃ち海底電線敷設船沖縄丸に第一着の捜査に従事せんことを依頼し、同時に捜査を執行すへき方面を講究するの必要に迫れり、前記金華山灯台の報告は殆と確定の事実に属するを以て、之を基礎とし当時の天候・風位・潮流・時間及本船の速力等に徴し本船の現存すへき位置を推測するに、本船が金華山沖合を通過せし十五日は無風若くは北方の最軽風にして、翌十六日は同方位の和風なるを以て帆機を兼用し平均六海里の速力を以て航進したるものと看做すときは、金華
 - 第24巻 p.624 -ページ画像 
山より犬吠崎まての距離百五十六海里を航するに二十六時間を要す、然るときは犬吠崎に達するは十六日午後六時頃なり、而して強風と為りしは同日夜半なれは、犬吠崎経過後尚ほ六時間は普通の鍼路を以て航進することを得へし、故に十六日夜半に於ける本船の位置は大東岬沖に在りしものと認定せざるべからず、又金華山沖より大東岬に至る速力を平均四海里と仮定せば、同岬に達したるは十七日午前七時頃にして、即ち同附近に於て北或は北東の烈風に遭遇したるものと想像することを得、而して本船が大東岬沖合に於て此烈風に遭遇し順走したるものと仮定せば、現在の位置は伊豆列島の東方即ち東経百四十度より百四十五度、北緯三十度より三十五度に至る間に在るものと認定することを得べし、故に此区域間及南部群島小笠原島等の方面を捜索するを必要なりと認めたり
沖縄丸は其筋の電命に依り、艤装匆々前記の任務を齎らし十一月三十日午後三時横浜港を発航し、八丈島・青ケ島・「ベヨネース」島・「ミコ」島・小笠原島其他附近一帯の洋中を周捜したるも、何の得る所なくして十二月八日黎明横浜港に着航せり
月島丸の消息に接せざるや、一日の経過は一層の疑団を加へ、渺茫たる洋海の捜索一隻の沖縄丸に信頼すること能はず、十二月三日命を承けて海軍省に軍艦派遣のことを依頼したるに、海軍大臣は直に横須賀鎮守府司令長官及常備艦隊司令長官に訓電する所あり、軍艦橋立は五日横須賀を発し利島・式根島・神津島附近を捜索し、又軍艦常磐も同日を以て呉を発し、南は八丈島より東は北緯三十五度東経四十五度附近を捜索し、軍艦吉野は孀婦島附近を捜索したりしも遂に月島丸の片影だも認めざりしと云ふ
    第五 遭難認定の端緒
既に一方に於ては数艘の艦船、推定方面の捜索に従事すると同時に、他方に於ては、其筋より全国沿岸要部の各地方長官及海運当業者に対し、月島丸の踪跡に関し注意を怠らざらんことを依頼し、頻に消息を待ちつゝありしに、俄然一葉の端書は静岡県加茂郡仁科村役場より到れり、是れ十二月三日にして、去る十一月十九日漁民出漁の際、凡十数里沖合に端艇一艘漂流せるを拾得し届出たるを以て陸揚げ保管せり其長三間にして羅馬字を以て「月島丸東京」と記載せる旨を報ぜり、依て直ちに商船学校助教岡村為助及学生二人に命ずるに星馳して臨検すべきことを以てし、翌四日其電報に拠り、漂流艇は適に月島丸第一「カツター」なることを確認したり
越へて五日、岡村助教と同行したる学生の一人杉山文七先づ帰り、端艇臨検の状況を復命すると同時に、去る十一月十九日駿河湾内に於て容貌被服共に品位を備ふる屍体を拾得し、静浦村に仮葬したる風説あることを報告せり、依て直ちに静浦村役場に打電して詳細の報告を促し、其回答に依り、該屍体は月島丸乗組員ならんと思料せらるゝを以て即時教授松本安蔵を同地に派遣し調査せしめたりしに、該屍体は十一月十九日午後四時頃静浦村漁夫木村彦次郎外九人石花海《セノウミ》に於て拾得し、翌二十日静浦村に持帰り、二十二日役場に届出て之を仮葬に付したることを聞きたるを以て、更に拾得漁夫の談話及屍体を検按したる
 - 第24巻 p.625 -ページ画像 
医師安藤藤太郎の陳述を聴取り、且役場に保管せる被服を実見し、該屍体は月島丸船長松本航介ならんと認むるを以て、警官・村吏立会の上之を発掘したるに、果然松本船長の遺骸なりき、依て更に未亡人松本トキ子・親族鈴木恒・商船学校職員・学生及月島丸受託者野中万助等臨検し、愈相違なきことを確認したるを以て、十二月八日静浦村楞厳院に於て荼毘に付し、遺骨は即時之を遺族に引渡せり
    第六 豆駿遠三州沿岸捜索
船長の遺骸、端艇の漂着、此二件は実に月島丸に対する推想を駆りて歩一歩悲境に向はしめ、事態頗る容易ならざる者あるを以て、直に静岡県下沿岸の大捜索を行ふことに決し、先づ地理に依り本部を沼津に置き、商船学校長平山藤次郎之を督し、管船局海員課長・伊東治三郎教授・松本安蔵以下之に加はり、同時に日本海員掖済会理事松山温徳以下会員は、該本部附近に遭難者捜索出張所を設け大に斡旋する所あり、而して豆駿遠三州沿岸を五区に分ち、分担捜索せしめたること左の如し
               教授 小見忠雄
 第一区、下田・松崎・仁科間
               助教 奥山紋作
               助教 岡村為助
 第二区、仁科・大瀬埼間
               学生 佐々木盛吉
 第三区、大瀬崎・清水間      沼津本部員
               教諭 馬場信倫
 第四区、清水・焼津間
               書記 余語栄之助
               教諭 馬場哲次郎
 第五区、焼津・相良間
               雇  築地原親美
右の外教諭馬場信倫及同馬場哲次郎をして、各其部署の捜索を終りたる余力を以て更に相良御前崎白羽間をも探検せしむることゝし、十二月七日夜各捜索員は各々其部署に向つて急行せり、又逓信技手田総元一・商船学校卒業生松下武晴及学生一名は別に大島沿岸の捜索に従事したり
以上の捜索員は励精任務に従ひ、険を踏み難を踰へ、到る処の警察官署及町村役場を歴訪し、漂流漂着の物件を蒐集し、当時の天候及海難の事項に関し、漁家に尋ね蜑婦に問ひ、細大漏さす復命を了せり、其事項の重要なるものは必要に応し各節に之を記述すへし
    第七 月島丸附属物品及屍体の拾得
踪跡を失ひたる船舶を探究するには、水路及気象に関する学理実験に依り、其航跡を尋ねて遭難の場所を推究するの必要なるは論を待たすと雖も、漂着したる物件を聚集し、之を潮流及風位に照して判定を下すこと亦実に緊要の事項たり、故に此点に関しては曩に既に其筋より各地方長官に報告を依頼し、又当局者より捜索員にも命する所ありしか、其結果として蒐集したる材料中月島丸に関係するもの左の如し
 一「バケツト」        一個 加茂郡三阪村に漂着
 一椅子(月島丸機関長室附属) 一脚 三浜村海岸に漂着
 一「ボート・フツク」     一個 松崎沖合十海里の海上に於て拾得
 一櫂一挺、檣一本、「ブーム」二本
 - 第24巻 p.626 -ページ画像 
              伊浜沖二海里の海上に於て拾得
 一櫂             一挺
              田子浦を西南に距る二十海里余の沖合にて拾得
 一「バケツト」        一個 石花海附近に於て拾得
 一櫂             一挺 江奈海岸に於て拾得
 一「バケツト」        一個 松崎海岸に於て拾得
十二月十日、第一区捜索員小見教授・奥山助教等稲取村役場に於て、同村漁夫前田源太郎外六人は去る十一月二十五日午前八時頃南崎村下流沖合約十八町の所に於て屍体を拾得し、役場は之を仮葬に付したることを聞き、稲取警察分署の報告書及屍体検案書を調査し、又屍体を発掘して之を実見したるに、松本船長附給仕天沼積之助の遺骸なりと認めたるに依り、同月十一日午前七時之を荼毘に付し、其遺骨は海員掖済会幹事に送致し、同会は之を遺族に引渡せり
    第八 石花海方面の捜索
静浦村漁民の拾得せし船長の屍体、並に仁科村漁民の拾得に係る端艇の漂在せしは、何れも皆石花海附近なることは、十二月七日に至り捜索員の調査に依り之を確認することを得たり、此事実に拠り月島丸の航跡を堆攷するに、十一月十七日午前中大島附近に在りて尚ほ針路を保持し、駿河湾口に向ひしものとせは、大島より石花まての距離四十五海里なるを以て、同日午後五時頃、即ち該地方風力の極点に達せし際、本船は石花海附近に在りて恰も彼の副低気圧部位の中心に陥り、沈没の不幸に遭遇せしものと認定すへきを以て、前記屍体及端艇の拾得地を確認するや否や、更に軍艦の力に藉りて該方面を捜索するの要を感し、更に其筋より海軍省に依頼する所ありしに、恰も軍艦武蔵は当時清水に碇泊中なりしを以て、海軍大臣は直ちに右の任務を該艦に電命せり
又曩に八丈及小笠原の諸島に派遣せられたる沖縄丸は其任務を了し、十二月八日黎明横浜に帰着したるの報に接したり、抑も該船は海底電線敷設の目的に於て完全なる探海機を有し、頗る這般捜索に便なるの装置を有するを以て、直ちに復た命に依り駿河湾内の捜索に従事することゝなり、該船は曩に捜索中暴風の為め破損したる舵器に仮修繕を施し、倉皇の間に発航の準備を整へ、教授本多千代雄之に便乗し、十二月十二日横浜を発し、途次豆相沿岸を捜索しつゝ目的地に向へり軍艦武蔵は清水港を根拠とし、学生監大塚録四郎・講師奥洞元次郎・学生一人及湾内天候等の実験に富める漁夫二人之に乗組み、十二月十二日より同十四日に至るまて石花海附近及伊豆西岸を捜索せしが、更に何等の手掛りを得す、沖縄丸捜索の結果も亦月島丸の消息を窺ふこと能はさりき
    第九 石室埼方面の捜索
前記の如く武蔵及沖縄の艦船か石花海捜索の任務に就きたる十二月十二日、第一区捜索員小見教授より長津呂局発電にて「十一月十七日午後五時頃大瀬より東南黒根島の附近に於て月島丸と認むへき帆船の顛覆せんとするを目撃したる者あり」との報に接せり、是より先き十一月十七日伊豆沖にて遭難せし漁夫尾上由松なる者捜索本部に来り、同
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日午後五時同人か伊豆西南角に漂流しつゝありしとき、神子元島の近傍に二本檣と認めたる軍艦黒煙を吐きつゝ終始同一の場所に彷徨せるを見たる旨を語りしことあり、今之を前記小見教授の電報に対照するに、彼此頗る照応する所あり、且十一月十七日午前に於ける月島丸の位置を大島附近なりと仮定するときは、同日午後に於ける該船の位置は伊豆南端石室埼の沖合或は駿河湾の南部に在りと想像することを得へし、加之ならす、駿河湾外を東流する潮流は伊豆の南角に激して二派に分れ、甲は伊豆の東岸に沿ふて相模湾に入り、乙は伊豆の西岸を伝ふて駿河湾に入るを常とす、故に石花海に漂流したる屍体及端艇は或は此乙の分流に乗して石花海に到りたるものなるやも料られす、此点より推想する時は月島丸沈没の位置を伊豆南端の沖合とするも亦根拠ある認定にして、小見教授の電報も頗る価値を有する事項なるを以て、電報に所謂当日の実見者を本部に召集して、詳細に其状況を聴取り、直ちに該附近捜索の事を決し、沖縄丸船長に、石花海捜索の任務を了すると同時に石室埼方面の捜索に従事せんことを求めたり、是に於て沖縄丸は、十二月十七日昧爽清水を発して午前八時石室埼に達せり、会々小見教授の一行奥山助教か、水難救済会員鹿子木彦三郎及野中万助の店員宮田信一等と共に潜水夫を伴ひ、漁船二隻を以て此方面を捜索せんとするに会す、依て共に倶に部署を分て「タライ」埼より黒根島を見透したる一線を分界とし、其内部は潜水器に依り、外部は本船の探海機に依り、相応して捜査したるも一の得る所なく、尚ほ其西方沖合をも調査したるも何等の手掛りなし、依て二十一日横浜港に帰れり
    第十 大島方面の捜索
大島方面に於ては既に第七節に掲けたるが如く、其対岸南埼村沖合に於て月島丸船長附給仕の屍体を収容したる事実あり、又第六節に掲けたる大島沿岸捜索員田総逓信技手の報告に依るに、同島野増村々民安本伊之吉なる者、去る十一月十七日暴風中、午後二時三十分頃同村沖合に於て、月島丸に類する船舶の将に沈没せんとするを認めたりと云ふ、是れ亦容易ならさる伝説なり、故に此方面は既に第八節に記載したる如く、沖縄丸か石花海方面探検の途上行々縝密なる調査を遂けたる個所なるも、更に之を再捜するに決し、十二月二十六日航路標識管理所々属新発田丸に発電して之を依頼し、同船は翌二十七日横浜を発し、本多教授之に便乗し目的地に向ひ、同月三十日に至るまて、天城山と遠笠山との中間より野増村を見透したる一線の南西約三海里にして、陸岸を距ること一海里乃至三海里の間、水深六十尋より百五十尋以上に達する処を、綱索の一端に小錨を付し捜索を執行せり、抑も此方面の海底には岩礁諸所に散布し、執業極めて困難を感したれとも、十二月三十日に至るまて之を継続し、錨を奪はれ索を断たれ、材料全く尽くるに至るも毫も手掛を発見せす、十二月三十一日空しく横浜に帰港せり
    第十一 鱚縄の使用
第八節及第九節に掲載したるか如く、駿河湾内及豆南沖合の捜索は軍艦武蔵及沖縄丸之に任し、鋭意事に従ひたるも其効を奏すること能は
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す、百計将に尽きんとするに際し、駿河湾沿岸の漁夫等頻に其旧来慣用する所の漁具鱚縄を使用せば大に効力あるべき旨を唱道せり、依て之を使用するの議を定め、十二月二十二日講師奥洞元次郎・嘱託員川井捨次郎を伊豆国松崎に派し、同所を根拠とし駿河湾内の捜索に従事せしめたり
是れより数隻の漁船は鱚縄に従事し、小汽船一隻は之を監督して頻りに湾内を探究したるも、時恰も厳冬に向ひ天候険悪風波暴騰の日多くして、執業頗る困難なるのみならず、捜索員等危険に瀕すること数々なるを以て、天候風波の許す限りに於て夙夜励精事に従ひ、以て明治三十四年五月に迨へり、其間接触物を得たること数回なりしが、或は其物体の全く海底に附着して毫も高さを有せさるに由り、或は其物体の過小なるに由り、或は機具を用ひて削り取りたる物体の断片に由り皆月島丸に非らさることを認定し、唯多少疑を存すべき接触物に就ては、之を後の精密なる感応秤・電磁石の試験に譲り、玆に鱚縄の使用を終れり
    第十二 駿河湾最後の大捜索
鱚縄は海底捜索機として浅処に於ては効力あるべきも、駿河湾内の深所の如きは水深千数百尋に達し、到底鱚縄を以て其目的を達すること能はざるを経験せり、依て各種の方法を研究し、遂に実験上及科学上方今既知の範囲内に於て最良と認むべき方法を採用するに決せり、今其方法の要旨を約言すれは、先づ精密に海底を捜索して物体の存否を確め、而して物品の存否を認むるに於ては電気及磁石の力を借りて、其物質ハ何物なるやを感得するに在り、更に之を詳説すれば左の如し
一先づ漁船九隻を使用し、其一隻を通信船とし、他の八隻を各十間の距離を保ちて縦横自在に其列を変し得へき様竹材に繋ぎ、各漁船には千五百尋の鋼線を巻きたる絡車一台を据付け、鋼線の下端には約三貫目の重量を有する鉄材一個を附し、是より上部四十尺より八十五尺に至るの間に於て、十五尺毎に小錨一個を附し、船首に斜檣の如きものを設け之に導車一個を吊し、由て以て絡車に巻きたる鋼線を下すの用に供す、而して該鋼線は約七十貫目の重量に堪ゆべき抗張力を有するものなり
二汽船沖縄丸は先づ前項の漁船を縦列として之を曳き予定捜索区域に達し、更に之を横列に編制し、直に汽用探海測深機を以て水深を測り、其深に応して漁船より鋼線を下すの程度を定め、微速力を以て進航しつゝ数々水深を測り、之に拠りて漁船の鋼線を伸縮せしむ、漁船の鋼線下りて適当の長に達したるときは抗張力の微弱なる細索を以て之を留置くに依り、若し鋼線の下端に附したる小錨が海底の物体に鉤著するときは、其留索は直に切断し、同時に絡車に残存せる鋼線は導車を通して繰出するを以て、其瞬間に於て漁夫は竹材に取附けたる舫索を放ち、本船独り列を離れて物体の鉤著したる位置に滞留し、更に鋼線の緊張するまで之を巻き戻して沖縄丸の来るを待ち、沖縄丸は該船に接近し其位置及水深を測りて之を確め、然る後漁船は再ひ従来の装置に復し横列に入るものとす
以上は海底に沈没したる物体の位置を認定するの順序なり、而して其
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物体の何物なるやを認定するには、感応秤・電磁石及聴音喇叭に依れり、本機械は商船学校の依頼に応し、東京帝国大学に於て理科大学教授理学博士長岡半太郎等か講究したるものに係る、而して沖縄丸は電気に関する作業を船内に試むるには洵に恰当の装置なるを以て、該船に依り本機械を使用することゝせり、今左に機械の構造及用法を述ふへし
一感応秤は、二個の相等しき「コイル」(絶縁銅線を多数に巻きて造れる環)を二条の導線を以て連結し一の輪道を作り、電池・電流断続器共に此輪道中に在り、今仮りに此輪道を正輪道と名つく、又別に二個の相等しき「コイル」を連結し、前者と独立に一の輪道を為し電話用の受話器を其中に「パラレル」に繋止す、此輪道を今仮りに副輪道と名つく、此装器を使用するには、正副輪道の「コイル」一対を海底に沈めて、疑問の物体に近つかしめ、他の一対を水上に置き、電磁気感応作用に依り其金属なるや否やを定むるなり、今其作用を説明せんに、断続器に依りて正輪道中を流るゝ電流を断続するときは、電磁気感応作用に依りて副輪道中に感応電流を誘起するを以て、耳を受話器に当てゝ聞くときは一般に音を聞き得へし、然れとも若し各対の「コイル」をして正当なる面にて相向はしめ、又其相互の距離を適当に加減するときは、二対の電流互に反対して相消し合ひ受話器中に音を聞かさるに至ることあり、此位置に於て感応秤は正しく調整せられたるなり、斯く調整せられたる時に於て、海中に在る一対の「コイル」の近傍に金属の如き電気の導体を近つくるときは、此導体中に誘起せらるゝ感応電流の反働に依りて、感応秤は其平衡を失ひ受話器中に音を聞くに至るへし、而して実際之を使用するに当りては尚一の「コイル」を正輪道中に入れ、之を水上に在る「コイル」の近傍に置くの要あり、是れ感応秤は空気中に於て平衡する様に製作するも、其一対海水中に入るときは其平衡を失ふに由りて、適当に此補助「コイル」を動かして之を恢復せしめさるへからされはなり
 今回製作したる器械に於ては、周囲に溝を有する直径三呎三吋の木製円環の溝中に、十一番木綿巻銅線を巻くこと三十五回、之を正輪道水面上の「コイル」とし、其上に二十一番絹巻銅線を巻くこと四百五十回、之を副輪道水面上の「コイル」とす、各「コイル」銅線の各層間には石蝋紙を夾みて絶縁し、殊に両「コイル」の間には数重の石蝋紙を夾めり、水中の一対は全く水上のものと同様に作りたれとも、其海底に入りて絶大なる圧力に耐へさるへからさること、及ひ岩石等に触れて、破壊するの恐れあるにより、之を防かんか為めに之を直径三呎八吋高さ七吋の桶中に入れ、桶内の空所は凡て石蝋を以て充たしたり、又桶の木の継目は「チヤツタートン・コムパント」及松脂と蜜蝋との混合物を塗りて水の浸入を防きたり
 海中に入るへき「コイル」に附する導線には被鉛線を用ひたり、此線は銅線を「ゴム」管中に入れ其上に「ゴム・テープ」を巻き、之を鉛管中に納めたるものなり
二電磁石は「ロームール」鉄を以て造り、其形馬蹄鉄の如く両脚を有
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し、其両脚に絶縁銅線を巻き之を麻にて巻き、銅板を以て包み、其中に石蝋を注入して空所なからしめ、更に之を木片にて蔽ひ箍を施せり、此導線に若し十「アンペール」の電流を通したるとき、之に吸引せらるへき鉄物か能く此磁石の極面に密接するものとせは、優に四百貫以上の重量を吸引し得らるへきなり、此電磁石を使用する方法は其上端の鉤に索を附け、海底に吊して疑しき物体に近つかしめ、然る後電流を通するに在り、若し其物体鉄なれは強く吸引せらるゝを以て、索の張力急に増加し電流を断ては張力忽ち旧価に復すへきも、鉄物に非るときは斯くの如き張力の変化なかるへきなり
三聴音喇叭は、嘗て千八百二十七年「コラドン」及「スツルム」の両氏が「ゼネバ」湖に於て、水中に於ける音響の速度を測定するに使用せしことあり、其時此器を以て明瞭に二千「メートル」(即千百尋)の遠距離に於ける音を聞き得たりき、其使用の方法は喇叭を水面に近く置き、其口を下に向けて水中に入らしめ、別に海底にある物体を敲きて、其音に依りて岩石か或は船体なるかを区別するにあり、此方法は或は良法とは云ひ難きも其費用を要せさるの利あるに依りて之を試みたるなり
明治三十四年五月二十日午前九時、沖縄丸は商船学校長平山藤次郎・教授本多千代雄・教諭馬場哲次郎・嘱託員東京帝国大学理科大学助教授中村清二・同東京工業学校教授岩岡保作、其他各附属員を搭載し、一切の新案機械を齎らして横浜を抜錨し同日午後六時清水に著せり、是に於て捜索員一行は沖縄丸船長片岡清四郎等と共に協議を遂け、任務を分ち捜索の順序を定めたり
既に鱚縄にて捜索を終りたる区域及漁民の鱚縄を常用する区域は再ひ捜索を為すの要なきを以て、水深深きに過き鱚縄を用ゆる能はさる場所を今回の捜索区域とせり、其区域は石室埼より御前埼を見透したる一線上波勝埼の約南西に当る点と、同線上同埼の西南西に当る点の間に劃したる直線より北に向ひ、八木沢の西方約四海里より八海里に至る間にして、其水深五百乃至千二百尋とす
沖縄丸は各種の準備を整備し、予定捜索区域を表示する為め浮標を定置し、天候風波を見定め漁船の横列を率ひて捜索に着手したるに、二十六日午前九時二十一分一船は鉤著物を得、他の二船は綱線を切断せらる、其場所左の如し

図表を画像で表示--

     波勝埼  南東四分の一東(磁針方法、以下同し)  位置 江梨山  北三十五度東     松崎岬  南七十八度東  水深 九百二十二尋  底質 泥 



乃ち浮標を投して之を表示し、同十一時再ひ漁船の列を整へて之を曳きたるに、一船は列を離れ、他は二隻を除く外皆鋼線を切断せらる
是に於て沖縄丸は船体大に馬力強に過ぎ、漁船の操縦には却て不便なるを感し、小汽船第一伊豆浦丸を雇上け之をして沖縄丸に代らしめ、漁船六隻、通信船一隻を以て捜索を為すことゝし、沖縄丸は根拠地に碇泊し、諸般の準備、浮標の上下移転、捜索一行の応急救助及最後の
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機械捜索の任務に就くことゝなれり
是れより第一伊豆浦丸を以て捜索すること五月二十八日より六月八日に及へり、其間漁船の触底して列を離れたること左の如し
 第一回
  日時 五月二十八日午前十一時十分
     波勝埼 東南東
  位置 三石埼 南東四分三東
     松崎岬 東二分一北
  水深 千百尋
 第二回
  日時 五月二十九日午前九時十五分
     波勝埼 東南東
  位置 三石埼 東二分一東
     松崎岬 東四分一北、北方に偏す
  水深 九百六十尋
 第三回
  日時 五月三十日午前十時二十分
     石室埼 東微南四分一南、南方に偏す
  位置 波勝埼 東微北四分一北
     松崎岬 北東微東四分一東
 第四回
  日時 同日午前十時三十五分
     石室埼 東微南二分一南
  位置 波勝埼 東微北
     松崎岬 北東微東二分一東
六月八日、第一伊豆浦丸は既に予定区域の捜索を終りたるを以て玆に之を止め、是より前示海底接触物及曩に鱚縄に接触したる疑はしき物体の何物なるやを認定する手段に移れり
九日未明、沖縄丸は捜索員一行及各種機械を搭載し松崎を発し、終日縦横に奔馳して曩に接触物を得たる場所に至る毎に感応秤及電磁器を交互使用し、一行励精最後の決心を以て探究を尽したるも遂に其効なく、連日捜索員の苦心経営も玆に至りて水泡に帰したり
翌十日沖縄丸は横浜に帰航する途次に於て、更に探索する所ありしも終に得る所なく、是に於て捜索を終り一行横浜に帰着せり
    第十三 三本岳附近浮油の探検
三本岳は曩に軍艦常磐の捜索したる区域内に属したりしが、前節に掲けたる最終の捜索を了り未だ幾何ならすして、松崎町民より該岩の北方約四・五里の海面に石油の浮游する告知を得たり、依て七月二日平山校長・奥洞教諭は命を承け出張調査したるに、当時天候極めて険悪海上波浪高くして十九日に至るまで着手することを得さりしも、二十日稍静穏に復したるを以て、是より二十三日に至るまて探究に従事せり、初めは石油の浮游せるを認めたりしか其源の那辺に在るを知る能はす、二十三日午後一時頃に至り「レフアインド、ペトロリユーム、チエスター、ニユーヨーク」と記せる一個の石油函の漂流せるを発見
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し、水深を測りて約百六十尋を得たり
右の石油函に依りて推攷するに、客年四月中英国帆船「アイラニン」号が莫大に前記の石油を搭載し三本岳附近に於て沈没せしことありしを以て、右の浮遊せし石油は其容器の漸次腐朽して漏出するに至りしものと認定するを得たり、而して月島丸は僅々二・三個の石油を貯蔵するに過きさりしを以て、数月を経て多量の石油を浮出するの理なく且月島丸貯蔵のものは「デヴオース」と名くる石油にして其種類を異にす、故に本件は月島丸の消息に何等の関係を有せさるは断定するに難からさる所なり

  附録
    月島丸乗組員及学生氏名
            船長     教授 松本航介
            専任教官   同  本多惣一
            機関長    同  山原猪太郎
            一等運転士  教諭 鴇田武平
            二等運転士  同  水田俊穂
            嘱託医       伊藤祐吉
            事務員       児玉成之
   学生
    津田宣見   荻野保秋   石井二朔
    角剛吉    井戸川義隆  鶴崎義夫
    大倉徳平   戸村重三   山田利吉
    上羽敏    友野四郎次  中川恪造
    川添純一郎  安藤米太郎  畑中鉱吉
    戸田種蔵   毎熊敬一   村田猛雄
    森清     倉原一人   勝村定
    酒井次郎吉  掛下富重   伯井喜一郎
    山路清    松林繁    鈴木善次郎
    郡山員衛   谷山愛吉   門司赳彦
    中石三吉   高須二郎   山崎五郎次
    池田小四郎  堀江栄    神代勝胤
    右近虎吉   坪田久吉   光谷定
    池田操助   赤松格    伴正章
    千葉卯市   原悠三    吉森秀樹
    宇戸竹次郎  黒田栄次郎  高松八次
    早瀬義路   西原二郎   野田一也
    河波時雄   森田良司   上島利雄
    野津寛    高橋仙太郎  成田忠則
    徳安三郎   山田多一   市河亀太郎
    林忠     宇高三郎   櫛田勝次郎
    森部美孝   三沢弘    北村敬次郎
    細江川二朗  中村於菟雄  天野伝
    作間恒治   江原亮一   新納航平
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    高橋宏太郎  島村定夫   新美資雄
    野田美晴   安藤利喜太  牧野寅之輔
    佐坂輝吉
   水夫長  浅沼吉五郎   大工   寺本辰之助
   大工   斎藤清吉    製帆工  高田直吉
   水夫   筒井政衛    水夫   飯田粂三
   同    斎藤乙彦    同    森金次郎
   同    泉谷政吉    同    中村直哉
   同    稲垣嘉助    同    立花弥市
   同    尾形泰三    同    妹尾牧三郎
   同    石崎伝右衛門  同    小川作次郎
   水夫見習 戸木本作太郎  水夫見習 菩提寺要助
   火夫長  尾野良助    油差   堂前喜市郎
   油差   原総松     火夫   尾崎金一郎
   火夫   沓沢辰吉    同    板垣兼太郎
   同    河野秀郎    同    中村豊市
   火夫   船津竹松    火夫見習 森上三郎
   賄長   佐野重吉    料理人  西村弥三郎
   料理人  重見丈吉    同    鈴木友八郎
   同    渡辺勝治    給仕   竹内武男
   給仕   天沼積之助   同    上谷清吉



〔参考〕中外商業新報 第五六六九号 明治三三年一二月二〇日 月島丸沈没の原因(DK240083k-0009)
第24巻 p.633-634 ページ画像

中外商業新報  第五六六九号 明治三三年一二月二〇日
    月島丸沈没の原因
月島丸遭難の原因に就ては世間種々の風説を為すものあり、或は之を積載石炭の過量にありとし、或は之を乗組員の不良に帰し、又或は之を以て季節の関係よりせる航路の不良に在りとなし、死没せる船員の屍を鞭ちつゝあるより乗込生徒の父兄にも少からざる悪感情を与へ、延て月島丸を以て衆怨の府となさんとするの傾向あることなるが、今航海業に多年の経験ある某氏が月島丸沈没の原因に就いて語る所、左の如し
月島丸の構造及貨物積載量 月島丸は去る三十一年三月逓信省司検官及英国ロイド社の特別監督の下に長崎三菱造船所に於て製造せられたる二重底全通の鋼船にして、本邦の造船規程に合格し居れるのみならず、ロイドの甲種一等級船たり、其登簿噸数は九百四十二噸・総噸数千五百十九噸なり、次に同船の貨物積載量は果して幾何なるべきかに就ては正確なる算出を為すこと能はざるも、試に他船に就て一例を挙ぐれば、現今尚ほ門司・上海等を航海しつゝある英船オメガ号は、去千八百六十九年即ち今より三十年前の比較上進歩せざる造船術によりて製造せられたるものなるも、其登簿噸数二百三十一噸・総噸数四百九十二噸に対し、常に六百噸の貨物を搭載して、安全に支那海上を航行しつゝあるを見る、然るに月島丸は近く三十一年の製造に係るを以て、普通船ならば優に二千噸以上を積載し得べき割合なれども、同船
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は商船学校の練習船と云へる特別船にして船室多数なるを以て、其貨物積載は先以て千八百噸位なるべしとは同船竣成の当時に於て公表せられたる所にてありき、然れば同船か同年六月十三日を以て、口ノ津を発し横浜に向け初航海を為したる時は、初航海の事とて力めて積載を減じたるも、尚ほ
                 噸
    三池炭        三三五
    同粉炭      一、〇三〇
    武田炭          九
     計       一、三七四
即ち千三百七十四噸にして、吃水は舳艫共十九呎なりしといふ、次に同船が本年三月二十五日函館出発、米国の桑港に航したる時は
                 噸
    硫黄       一、四五〇
    燃料         一二〇
    同予備         三〇
     計       一、六〇〇
即ち千六百噸の積量にして、四月二十六日を以て桑港に着し、越て五月十九日桑港を出発したる際には
                 噸
    小麦         六〇〇
    麦粉         八〇〇
    フスマ        一〇〇
     計       一、五〇〇
外に牛皮六十巻、並燃料石炭若干ありし由なるが、麦粉は常に破損多きものなれども月島丸にては一俵の破損だもなくして、荷主に非常なる満足を与へたる由、亦以て同船か如何に堅牢にして乗組員の注意周到なりしかを察知するに足るべし、又去十月十八日門司を発したる際は燃料の外
                 噸
    金田塊炭     一、一七四
    伊田塊炭       一九六
     計       一、三七〇
なりしといふ、然るに今回室蘭出発清水港に向ひたる際には
                 噸
    石炭       一、四五〇
    燃料          五〇
     計       一、五〇〇
にして、前記各航海中の初航海及十月中の航海に比すれば積量多きも米国往航に比すれば百噸少く、復航に比すれば少くも積載燃料丈け少し、然るに遠洋航海に於ける乗組員の清水・予備食料並に船用必要準備を近海航路に比すれば常に百噸前後の多額を要し、月島丸の全積量に対する百噸は吃水六吋に当り、普通船舶に於ける六吋の吃水は五・六月頃の海上最も平穏なる時と八・九月頃の風浪最荒き時の差違に相当し、即ち八・九月頃の風浪荒き際には五・六月頃に比し常に六吋前後の吃水を減じて、船舶の安全を保ちつゝある程なれば、今回の積量を米国行に比すれば往航より二百噸余少く、復航よりも百余噸少し、従て今回月島丸の積量千四百五十噸を以て過大の積量となすの説は毫も理由なきことゝいふべし
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〔参考〕中外商業新報 第五六六一号 明治三三年一二月一一日 月島丸と海事思想(DK240083k-0010)
第24巻 p.635-636 ページ画像

中外商業新報  第五六六一号 明治三三年一二月一一日
    月島丸と海事思想
月島丸事件が究極如何に帰着するかは今尚未決の問題に属すと雖も、要するに現下の形勢を以てすれば、不幸にも遂に沈没の事実として証明せらるべきや殆んど疑なきが如し、然らば余輩は此悲惨なる出来事に対し万斛の涙を注かさるを得さるは勿論、為めに将来海事に従事せんと欲する国民の気勢に一大頓挫を与ふるの憂あらんことを恐るゝものなり、蓋し航海船舶の難破・沈没等に関する実例か、常に国民をして海事の嫌忌すへきを感せしむるのみならず、這回の事の如き、月島丸が普通航海船に非す其航海練習船たるの故を以て、一層海員養成の前途に障碍を加ふるの感なきにあらず、彼の月島丸に乗組める練習生等の父兄が這回の事件に依て如何なる感想を懐抱しつゝあるか、顧ふに必す其子弟をして再ひ海事に志さしめさる覚悟を決定し、此事実を傍観せる国民亦同一の感情を惹起したるや推知すべきのみ、是豈海事思想の発達に容易ならさる影響を及ぼすべきものに非すや
然るに翻て我海事の如何を見るに、船舶は年々非常の速力を以て増加し、従て海員の員数に欠乏を告くるの状態なるのみならず、技術の進歩と共に旧式の訓練に依り養成せられたる人物を淘汰するの必要に迫れること誠に夥し、是を以て其欠竅を塡充し又新規の需要に応せんか為め、海員の養成に全力を傾注すべき場合たるや勿論にして、試に最近三箇年間我船舶の航海に従事せる海員を内外人別に依り掲記すれば如左

            明治廿九年     明治三十年      明治卅一年
           内人   外人   内人   外人    内人   外人
 甲種船長      二八二 三二八   三四六 三六二    三三九 一四一
 同一等運転士    一六三 一一一   一五九 一〇九    一五四  二二
 同二等運転士    二二一  七三   二一四  七九    一四九  一六
 乙種船長      四四八   二   四八〇   二    三〇五   ―
 同一等運転士    四五五  一〇   五六〇  一〇    四七三   ―
 同二等運転士  一、一六四  一〇 一、九三六  一一  一、四五〇   ―
 丙種船長        ―   ―     八   ―     六〇   ―
 同運転士        ―   ― 一、一九一   ―  八、一四二   ―
 機関長       一六五 二〇三   二二八 二一二    二五二  六七
 一等機関士     三〇九 一四六   三七〇 一四九    四〇六  二五
 二等機関士     三八六   四   四四三   四    三八三   ―
 三等機関士     八八六   ― 一、一〇九   ―  一、〇三六   ―
  合計     四、四七八 八八七 七、〇四四 九三八 一三、一四九 二七六

即ち明治三十一年を以て同廿九年に比すれば高等海員の増加実に夥しく、其外国人の減少と内国人の増加に至ては更に最も驚くべきものなり、知るべし我海員の養成如何に長足に海事の発達と相伴はんとするものあるかを、然れとも甲種海員の如き最も枢要の地位は尚外人の占有に委すること甚た少なからずして、苟も貴重なる乗客の生命及貨物等を挙て其云為に一任するは、海国の恥辱として余輩の堪へさる所たるのみならす、遂に高等海員として我船舶より外人を一掃せすむは休
 - 第24巻 p.636 -ページ画像 
まさるの覚悟あるを要すへし、然るに近年漸く往時の鎖港的観念を打破し、海事思想の発達見るへきものあるに際し、偶々月島丸事件の如き惨劇に其発達を萎縮せしむるあらは、実に国家の一大不幸と謂はざるを得ず
然りと雖も海外との通商貿易益々伸暢するに従ひ、船主は貨物の保護最も切要なる所以を感じ、航海の安全なる方法を講せんことを努め、其結果海員の選択に鋭意すべきや明なる所にして、将来海員たるものの待遇恐く他の職業に従事するものよりも遥に優等なるに至るへし、是れ海国の開明と必然相伴ふへき顕象にして、抑々日本男子たるものの海員として自家を益し国家を益する所以たらすむはあらさるなり、然らは世の父兄たるもの這回の事件を以て徒に勇気を沮喪することなく、須く子弟等か国益の為め当然其本務に倒れたるを観念すべし、而して政府若くは世の先覚亦這回の不幸者を遇するに其道を得、且つ後進の奨励に一層の方法を尽し以て益々我海事の勃興に留意する所なかるべからざるなり