デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
1節 外遊
3款 欧米行
■綱文

第25巻 p.75-115(DK250005k) ページ画像

明治35年4月5日(1902年)

是ヨリ先、栄一欧米漫遊ヲ計画ス。是日全国商業会議所聯合会ハ栄一ニ託スルニ彼我商工業者間ニ意志ノ疏通ヲ図ルコトヲ以テセリ。八日同会主催渋沢男爵欧米漫遊送別会帝国ホテルニ催サル。当日ノ会長大倉喜八郎ノ送別ノ演説ニ対シテ栄一答辞ヲ述ブ。

十二日清水満之助主催送別会、十八日伯爵井上馨主催送別会、二十日正午男爵尾崎三良主催送別会、同夜朝鮮協会主催送別会、二十一日日本勧業銀行総裁高橋新吉主催送別会、二十三日日本鉄道株式会社重役主催送別会、二十四日親戚及ビ関係会社員主催送別会、二十五日日本銀行重役主催送別会、二十六日日本女子大学校送別会、二十七日竜門社主催送別会、二十八日東京銀行集会所等主催送別会、二十九日横浜正金銀行主催送別会、三十日三井男爵家主催送別会、五月一日東京商業会議所主催送別会、二日朔日会主催送別会、三日正午埼玉学生誘掖会主催送別会、同夜商工経済会等主催送別会、四日深川区有志者主催送別会、五日正午内閣総理大臣伯爵桂太郎主催送別会、同夜大倉喜八郎主催送別会、六日渋沢喜作主催送別会、七日正午三好退蔵主催送別会、同夜キルビー主催送別会催サレ、八日飛鳥山邸ニ留別会ヲ開キ、十一日荘田平五郎等主催送別会、十二日東京市長松田道之主催送別会催サル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK250005k-0001)
第25巻 p.75-80 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年    (渋沢子爵家所蔵)
四月五日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ、十時兜町事務所ニ抵リ ○中略 畢テ東京商業会議所ニ出席シ、全国聯合会ニ於テ、余ノ旅行ニ関スル決議ニ対シテ一場ノ答辞ヲ述フ ○下略
   ○中略。
四月八日 晴
○上略 九時兜町事務所ニ抵リ ○中略 清水一雄・原林之助来リ余ノ欧米行送別ノ事ヲ請フ、依テ十二日ヲ約ス ○中略 一時商業会議所ニ抵リ午飧シ、聯合会員ト共ニ撮影ス ○中略
 - 第25巻 p.76 -ページ画像 
六時ヨリホテル ○帝国ホテルニ催フセル全国商業会議所聯合会ニ於テ余ノ欧米行送別会ニ出席ス、来会者八十名計リ、食卓上大倉氏会員惣代トシテ送別ノ辞ヲ述フ、余ハ其答辞トシテ一場ノ演説ヲ為ス、且曾遊当時ノ景況ヲ略述シテ古今ノ変化ヲ叙説ス、食後一同談話盛ニシテ各歓ヲ尽ス
此日平田農商務大臣及外務・大蔵・農商務ノ官員来会シ、平田氏一場ノ演説ヲ為シテ余ノ行ヲ送ル、夜十時王子別荘ニ帰宿ス
   ○中略。
四月十日 曇
○上略 十一時井上伯ヲ麻布内田山邸ニ訪ヒ、余ノ海外行ニ関シ種々ノ談話ヲ為ス、伯ハ支那行ノ企図アルニ付キ、欧洲ノ帰途、余ニ支那行セラレン事ヲ勧誘セラル、午後二時第一銀行ニ抵リ重役会ヲ開キ、海外行随行者ノ事ヲ決ス ○下略
四月十一日 晴
午前七時朝飧ヲ畢リ、八時過小石川大六天ナル従一位公 ○徳川慶喜ヲ訪ヒ拝眉ス、歓談数刻、去リテ番町ニ抵リ招魂社ヲ拝ス、十時英国公使ヲ訪フ、市原盛宏来会ス、蓋シ昨日電話ヲ以テ来会ヲ約セシ為メナリ、公使マクトナードニ面会シ、余ノ海外行ニ関シ英国ニ添書ノ事ヲ依頼ス、又此度渡来セル、ヒセツトノ事ニ関シ談話ス、十一時米国公使ヲ訪ヒ同シク米国ヘ添書ノ事ヲ依頼ス、去テ伊藤侯爵ヲ芝山内ノ邸ニ訪ヒ海外行ニ関シ種々ノ忠告アリ、且将来ノ経済界及国運進張ノ策ヲ討議ス、午後二時兜町事務所ニ抵リ、市原・八十島二氏ト行程ノ調査ヲ為ス ○下略
四月十二日 晴
○上略 午後五時再ヒ帝国ホテルニ抵ル、清水家ヨリ余ノ海外行送別ノ宴ヲ開クニ会ス、同族一同及同行者悉ク来会ス、種々ノ余興アリ、夜十二時王子別荘ニ帰宿ス
四月十三日 晴
○上略 清水泰吉来リ欧洲行ノ事ヲ切望ス、明日佐々木氏ト会話ノ後回答スヘキ旨ヲ約ス ○下略
四月十四日 晴
○上略 四時半兜町ニ抵リ、北越鉄道会社渡辺嘉一氏・岸精一氏ニ面会シテ鉄道ニ関スル法律ノ事ヲ談ス、佐々木勇之助氏来リ第一銀行員進退ノ事及清水欧洲行ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
四月十六日 晴
○上略 午後三時兜町ニ抵リ、大川平三郎氏ト王子製紙会社ノ事ヲ談シ、又岸精一・仙石貢及渡辺嘉一氏等ト鉄道抵当ニ関スル法律ノ事ヲ談話シ、明日午前英人ビセツト会見ノ事ヲ協議ス ○下略
四月十七日 晴
午前九時朝餐ヲ畢リ、十時帝国ホテルニ抵リ英人ビセツト氏ニ面会スキルビー・仙石・岸精一・渡辺嘉一同伴ス、鉄道抵当ニ関スル手続ノ事ヲ談話ス、十二時第一銀行ニ出勤ス、重役会ヲ開キ清水泰吉洋行ノ事ヲ決ス、各支店ヨリ出京セル諸氏ニ面会ス ○下略
 - 第25巻 p.77 -ページ画像 
四月十八日 陰夜雨
○上略 十一時兜町事務所ニ抵ル、来訪人頗ル多シ、午後三時麻布井上伯邸ニ抵ル、早川千吉郎・益田孝二氏ト共ニ製紙会社善後策ヲ講ス、五時ヨリ桂総理大臣・芳川逓信・曾禰大蔵・小村外務ノ各大臣等来会ス日本銀行総裁・岩崎・大倉・園田・高橋・三崎等ノ諸氏モ来ル、蓋シ井上伯此日ヲ以テ余ノ旅行ヲ送別スル為メ諸友ヲ集メテ開宴セラルヽナリ、席上余ト伯ト種々ノ演説ヲ為シ、桂総理ヨリノ挨拶アリテ酒間各笑談シテ歓ヲ尽ス、夜十時深川宅ニ帰宿ス
四月十九日 陰
○上略
午後四時同族会ヲ開ク、余カ留守中ノ事務処理ニ関スル要領ヲ説示ス三本木開墾業・仙石原牧場・製紙会社・造船所ノ事ヲ詳述ス、穂積・阪谷・篤二夫婦悉ク来会ス、夜十時王子ニ帰宿ス
四月廿日 晴
○上略 十二時華族会館ニ抵リ尾崎三良氏ト共ニ韓国京城領事三増久吉氏ニ会話ス、共ニ午餐ヲ為シテ近日氏カ帰任ニ就テ銀行・鉄道等ノ事ニ関シ注意ヲ依頼ス ○中略 五時再ヒ華族会館ニ抵リ、朝鮮協会ヨリ余カ《(ノ脱カ)》欧洲行送別会ニ参列ス、島津会長ヨリ食卓上送別ノ詞アルニ付、余モ一場ノ答辞ヲ為ス、近衛公爵ヨリモ送別演説アリ、夜九時散会 ○中略 十一時王子別荘ニ帰宿ス
四月廿一日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ書類ヲ整理ス、九時過ヨリ第一銀行各支店長悉ク来会ス、蓋シ今日此別荘ニ小集シテ行務ヲ談シ且余カ旅行ニ関スル趣旨ヲ陳ルノ約アルヲ以テナリ、十時半一同庭中ノ小亭ニ会シテ一場ノ演説ヲ為ス、畢テ相共ニ庭中ヲ散歩シ、抹茶ヲ点シ麦酒ヲ飲ム、各其好ム所ニ任ス、十二時半庭中ニ於テ午餐ス、一時席上ニ演芸ノ余興アリ、一同歓ヲ尽ス ○中略 午後五時浜町常盤屋ニ抵リ日本勧業銀行ヨリノ招宴ニ出席ス、高橋新吉・有尾其他ノ諸氏周旋饗応ス ○下略
   ○中略。
四月廿三日 曇
○上略 五時過華族会館ニ抵リ、日本鉄道会社重役一同ノ催フセル送別会ニ出席ス、賓主十数名、九時宴ヲ散シ、夜十時王子別荘ニ帰宿ス
四月廿四日 雨
○上略 午後五時帝国ホテルニ抵リ、此日余ガ関係スル各銀行・会社員及近親ノ者百数十名ニテ催フセル送別会ニ出席ス、食卓上須藤時一郎氏会衆ヲ代表シテ送別ノ辞ヲ述フ、余之ニ答辞ス、次ニ市原盛宏・梅浦精一・角田真平氏等ノ演説アリ、賓主歓声ノ間ニ宴ヲ終ル、夜十一時王子別荘ニ帰宿ス
四月廿五日 曇
○上略 午後一時桂総理大臣ヲ官邸ニ訪ヒ要務ヲ談話ス、午後三時兜町ニ抵リ市原盛宏ニ欧州友人ニ発状ノ事ヲ托ス、午後五時浜町日本銀行倶楽部ニ抵リ、日本銀行重役ニテ催フセル送別会ニ列ス、曾禰大蔵・阪谷・松尾諸氏及銀行・会社ノ諸員来会ス、夜十時散宴 ○下略
四月廿六日 雨
 - 第25巻 p.78 -ページ画像 
○上略 十一時女子大学校ニ抵リ、女生徒一同ヨリ送別ノ唱歌ヲ受ケ、成瀬氏一場ノ演説アリ、余モ之ニ答辞シ、更ニ教員ト共ニ撮影ス、兼子同伴ス ○下略
四月廿七日 曇
○上略 午後一時芝紅葉館ニ抵ル、竜門社員ヨリ余ノ旅行ヲ送別スル為メナリ、午後二時篤二先ツ開会ノ趣旨ヲ述ヘ、添田寿一氏送別ノ辞ヲ演説ス、最後ニ余ハ留別ノ趣意ヲ以テ、三十六年前ノ洋行ト比較シ如何ニ相違セルヤノ点ニ就キ今昔ノ感ヲ述ヘ、且ツ竜門社員一同留守中各其事務ニ勉励セラレタキ事ヲ附言ス、次ニ市原盛宏氏一場ノ演説ヲ為ス、夫ヨリ余興ニ入リ踊・落語等ニテ一同歓ヲ尽シ、夜九時王子ニ帰宿ス
四月廿八日 曇
○上略 午後五時兜町ニ帰リ、六時銀行集会所ニ抵リ、集会所・興信所・手形交換所及銀行倶楽部四団体ノ催フセル送別会ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為ス、畢テ一同ト共ニ立食ノ饗餐ヲ享ケ、夜十時王子別荘ヘ帰宿ス ○下略
四月廿九日 雨
午前八時朝飧ヲ畢リ、九時養育院ニ抵リ幹事以下ノ事務員ヲ会シテ旅行留守中事務取扱ニ関スル注意ヲ訓示ス ○中略 午後五時花月楼ニ抵リ正金銀行ヨリノ送別会ニ出席ス、桂総理・曾禰大蔵・小村外務其他朝野ノ有力ナル諸氏来会ス ○下略
四月三十日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ、九時兜町事務所ニ抵ル、佐々木勇之助来リ銀行ノ事務ヲ談話ス、市原盛宏来リ旅行ノ順序ヲ議シ、且旅行中ノ要務ニ関シテ内示ス ○中略 五時過三井集会所ニ抵リ、三井一家ノ催フセル送別会ニ出席ス、金子・末松・藤田・都築ノ諸氏来会ス、賓主種々ノ談話ヲ為シ各歓ヲ尽ス、夜十一時王子別荘ニ帰宿ス
五月一日 曇
午前七時朝飧ヲ畢リ、八時東京瓦斯会社ニ抵リ重役会ヲ開キテ留守中ノ事ヲ談話シ、且米国人ブリゼ氏ノ企望ニ関スル事ヲ内議ス、畢テ九時過兜町事務所ニ抵リ、更ニ英国公使館ニ抵リ公使ニ面会シテ添書ノ事ヲ依頼シ、及ヒセツト氏ニ関スル件、京釜鉄道社債ニ関スル件ヲ内話ス、市原盛宏同伴ス、畢テ十一時ノ汽車ニテ横浜ニ抵リ、英壱サミユールサミユール、モールス、イリス等ノ商館ヲ訪問シ旅行ニ付テ挨拶ヲ為シ、第一銀行支店ニ於テ午飧シ二時発ノ汽車ニテ帰京ス、三時第一銀行ニ出勤シ重役会ヲ開ク、畢テ兜町事務所ニ抵リ来人ニ接ス、午後六時東京商業会議所ニ抵リ其送別会ニ出席ス、桂総理・小村外務平田農商務来会ス、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、畢テ夜九時過深川宅ニ帰宿ス、此夜深川宅ニモ高木・野口等ノ送別会アリテ深更ニ至ル
五月二日 曇
○上略 銀行倶楽部ニ抵リ朔日会ノ催フセル送別会ニ出席シ、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、夜十時王子別荘ニ帰宿ス
五月三日 晴
○上略 十時岩越鉄道会社重役会ニ出席シ、留守中ノ事ヲ詳話ス、久野・
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清水・小池・前田ノ諸氏来会ス ○中略 十二時過精養軒ニ抵リ、埼玉県人ノ催フセル送別会ニ出席ス、一場ノ演説ヲ為ス、午後三時兜町事務所ニ抵リ書類ヲ整理シ、五時過華族会館ニ抵リ商工経済会・経新倶楽部ノ催フセル送別会ニ出席ス、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、畢テ十時桂総理ヲ訪ヒ奥田法制局長来会シテ鉄道抵当ニ関スル法律草案ノ事ヲ詳話ス、草案ヲ付与セラル ○下略
五月四日 曇
午前八時朝飧ヲ畢リ日記ヲ調査ス、松平隼太郎来ル、法律案ノ謄写ヲ命ス、午前十時兜町事務所ニ抵ル、岸精一氏来リ、昨夜桂総理大臣邸ニテ受取リタル法律案ノ事ヲ談シ、且其翻訳ヲ托ス、畢テ書類ヲ整理シ午後五時亀清楼ニ抵リ、深川区有志者ノ催フセル送別会ニ出席シ一場ノ謝詞ヲ述フ、夜九時王子別荘ニ帰宿ス
○下略
五月五日 雨
○上略 十二時桂総理大臣官舎ニ抵リ送別会ニ出席ス、芳川逓信・曾根大蔵《(曾禰大蔵)》・小村外務・平田農商務其他ノ諸友来会ス、桂総理ヨリ一場ノ送別辞アリテ後、余モ答詞ヲ述フ、宴畢テ午後五時葵町大倉氏ノ催フセル宴会ニ出席ス、徳川一位公・三位公○徳川家達・近衛公・松戸二位 ○徳川昭武・田安 ○徳川達孝・一橋 ○徳川達道ノ諸貴顕来会ス、夜十一時散宴、王子別荘ニ帰宿ス、此日兼子モ同行ス
五月六日 曇
○上略 午後六時麻布白金ノ同姓 ○喜作宅ニ抵ル、送別ノ為メ開宴セラルヽヲ以テナリ、種々ノ余興アリ、夜十二時王子別荘ニ帰宿ス、兼子同伴ス
五月七日 晴
○上略 十二時築地精養軒ニ抵リ、三好退蔵氏ノ催フセル送別会ニ出席ス千家府知事・浦田助役及養育院幹事等来会ス、食卓上一場ノ慈善問題ニ関スル談話アリ、午後三時日本郵船会社重役会ニ出席ス、畢テ兜町ニ抵リ衣服ヲ改メテ、築地メトルホールホテルニ於テ催フセル、キルビー氏ノ送別会ニ出席シ、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、英国人十数名来会ス ○中略 此夜英国人ビセツト氏モ来会ス
五月八日 雨
午前八時石川島造船所ニ抵リ、旅行ニ付留守中ノ心得方ニ関スル事ヲ社員一同ニ訓誡ス、十時帝国ホテルニ抵リ英国人ビセツト氏ニ会見シ鉄道抵当ニ関スル法律ノ事ヲ談話ス、午後一時王子別荘ニ帰ル、此日ハ留別ノ為メ親戚一同ヲ会セシモ雨中ニテ庭園散歩ヲ為ス能ハス、室内頗ル雑沓セリ、種々ノ余興アリ、夜ニ入テ家事ヲ阪谷其他ニ談シテ八時過キ散会ス
五月九日 晴
午前八時朝飧ヲ畢リ、九時小日向ニ抵リ前公 ○徳川慶喜ニ謁シ告別ヲ為ス十時京釜鉄道会社重役会ニ列ス、大倉・前島・尾崎ノ取締役、井上・小野ノ監査役来会ス、余カ留守中ノ用務ニ関シテ種々ノ意見ヲ述フ、畢テ兜町事務所ニ抵リ来客ニ接ス、浅野総一郎・坪田佐平太及古田等来リ鉱山部ノ事ヲ談ス、篤二・八十島・松平等来会ス、夜九時王子別
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荘ニ帰宿ス
五月十日 曇
午前八時朝飧ヲ畢リ、九時兜町事務所ニ抵ル、来客ニ接ス、十時法制局ニ抵リ、仙石氏ト共ニ岡野・田辺二氏ニ面会シ、鉄道抵当法ニ関スル談話ヲ為ス、畢テ帝国ホテルニ抵リ、大倉氏ト共ニ、フレーグ及神谷氏ニ事務取扱上ノ手続ヲ談ス、三時兜町ニ抵リ書類ヲ整理ス、午後五時ヨリ同族会ヲ開キ、留守中ノ要務ヲ説示ス、夜十一時王子別荘ニ帰宿ス
五月十一日 曇
午前七時朝飧ヲ畢リ、韓国林公使・竹内・日下及其他ノ諸氏ヘ書状ヲ裁ス、井上伯・清浦男等種々ノ友人ニ書状ヲ認ム、午後三時兜町ニ抵リ渋沢作太郎来話ス、商店事務改正ノ事ヲ談ス、五時浜町常盤屋ニ抵リ、荘田・末延氏ノ送別会ニ出席ス ○下略
五月十二日 雨
午前九時朝飧ヲ畢リ、兜町事務所ニ抵リテ来人ニ接ス、十一時東京市役所ニ抵リ、送別会ニ出席ス、千家知事・松田市長其他市参事会員等悉ク来会ス、食卓上養育院感化部ノ事及美術館建築費ノ事ニ関シ一場ノ企望ヲ述フ、畢テ兜町事務所ニ抵リ、前川益以ニ面会シテ韓国鉱山ノ事ヲ談ス、高木正義来ル、韓国赴任ニ付テノ注意ヲ与フ、夜九時王子別荘ニ帰宿ス
五月十三日 曇
午前七時朝飧ヲ畢リ、八時兜町事務所ニ抵リ来人ニ接ス、十時伊藤侯爵ヲ訪フ、十一時帝国ホテルニ抵リビセツト氏ヲ訪フ、仙石氏同伴ス会見後内閣ニ抵リ曾根大蔵・菊池文部ニ面会ス、桂総理ハ宮中伺候ニテ面会ヲ得ス、三時兜町ニ抵リ米国人チゾン氏ニ面会ス、浅野・岸・大橋来会ス、東京瓦斯会社ノ事ヲ談話ス、五時銀行集会所ニ抵リ喜賓会ノ事ヲ談ス、六時偕楽園ニ抵リ浅野・小山ト共ニ鉱山部ノ事ヲ談ス篤二・尾高来会ス、夜十時王子別荘ニ帰宿ス
五月十四日 曇
午前七時朝飧ヲ畢リ、八時桂総理大臣ヲ訪ヒ、仙石氏ト共ニ鉄道抵当法ノ事ヲ談ス、十時外務省ニ抵リ山座氏ニ面会ス、十一時海軍省ニ抵リ、斎藤氏ヲ訪フモ逢ハス、十一時古河市兵衛氏ヲ築地宅ニ訪ヒ告別ヲ為ス、十二時三菱会社ヲ訪ヒ岩崎・荘田・豊川・三村ノ諸氏ニ告別ス、十二時半郵船会社ニ抵リ社長及社員ニ告別ス、一時大倉氏ヲ訪ヒ又米国公使ヲ訪フ、二時清国公使ヲ訪ヒ、更ニ独乙公使館ヲ訪問シ、又英国公使館ヲ訪フ、三時大蔵省ニ抵リ曾根大臣・松尾氏等ニ告別シ要務ヲ談ス、日本銀行ニ抵リ高橋其他ノ諸氏ニ告別ス、四時三井銀行ニ抵リ、更ニ物産会社ニ於テ三井家主人ニ面会ス、畢テ第一銀行ニ抵リ佐々木氏ト要務ヲ談ス、畢テ興業銀行ニ抵リ添田氏ト面話ス、五時兜町ニ抵リ米国人チソン氏ト面話ス、畢テ浅野氏ト鉱山部ノ事ヲ談ス尾崎・添田二氏ト京釜鉄道ニ関スル社債ノ事ヲ談ス、夜八時王子ニ帰宿ス、篤二・尾高幸五郎来リテ留守中ノ要務ヲ訓示シ、且覚書ヲ交付ス、夜十二時寝ニ就ク

 - 第25巻 p.81 -ページ画像 

(八十島親徳) 日録 明治三五年(DK250005k-0002)
第25巻 p.81-85 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三五年   (八十島親義氏所蔵)
三月十一日 晴
九時出勤、今夕青淵先生居残リ執務ニ付、予モ漸ク十時半帰宅 ○中略
渋沢男ハ、来六月英皇戴冠式ノ節、日本ノ各商業会議所総代トシテ列席ノ為渡航サレン事ヲ一同ヨリ依頼セル趣ハ、兼テ去月中旬頃ヨリ聞及ヒシ処ナルガ、今夕ノ御話ニ先行ク事トナルベシ、就テハ足下ハ同行ノ考云々被申聞予モ随行トシテ欧米ノ地ニ到ルハ、実ニ至幸ノ至也
   ○中略。
四月五日 晴
九時出勤、男爵十時頃ヨリ午後マデ出勤セラル
男爵ノ欧米漫遊ハ愈々確定ノ由ニテ本日我々ニモ発表セラル、先キニハ英国皇帝戴冠式ニ商業会議所聯合会代表トシテ参列ヲ希望ストテ、同所ノ内々発議セシニ基ツキシモノナルガ、其参列ハ果シテ英国政府ノ承諾スル事ナルベキヤ否ヤモ無覚束ナキ次第《(衍)》ニ付、之ハ敢ヘテ目的トセズ、但シ此議導火線トナリテ男爵ハ欧米漫遊ヲ思立チ、其他ニモ京釜鉄道ノ外資輸入等ノ事アリ、旁々以テ愈々決意セラレタル也、予ニハ随行員ヲ命スル旨今日尚改メテ被申渡、其他ニハ目下古河足尾銅山ノ電気掛勤仕ノ工学士渋沢元治氏、古河家ヨリノ留学生トシテ此度同行ノ筈ニ略定、尚其他ニ高等通訳トシテ第一銀行ヨリ高木・市原両氏ノ内ヲ随行セシムベク、尚又以上ノ外ニモ随行生スルヤモ分ラザルトノ事也、又出立ハ多分五月十日ノ亜米利加丸ニテ桑港ヘ向フ事トナルベク、又帰路ハ上海ニモ要事アルヲ以テ多分印度洋航路ヲ取ルヘキ予定ナリ、而シテ日本帰着ハ十月頃ナラン
○下略
   ○中略。
四月九日 雨
○上略 兜町出頭後不相変関係事務ノ片付、海外持参書類ノ調査、発程前ノ旅行的準備調査等、百事輻湊シ中々多忙也、午後郵船会社ニ至リ男爵ニ面会ス、夕六時帰宅 ○中略 海外旅行日程ノ下調等ヲナシ十一時休ム但主人用ノ務多忙ニシテ一身ノ用意ハ未タ一向ニ着手セズ、商業会議所書記長萩原源太郎氏モ同所ノ決議ニ依リ随行スルコトヽナレリ
   ○中略。
四月十一日 晴
八時半ヨリ出勤、男爵午後出勤、来客雲集、予ノ一身ニハ洋行準備調、不在中ノ要務処理、其他ノ常務等百事蝟集シ目ノ回ル有様也、第一銀行ヨリハ横浜支店支配人市原氏随行スル事トナリシニ付、本日同氏上京種々打合等ヲナセリ ○下略
四月十二日 晴 寒シ
○上略 八時兜町ヘ出勤、男爵モ九時ヨリ十時過迄出勤、午後市原盛宏氏来リ相談シテ日程案ヲ作ル、甲案ハ往復共亜米利加ヲ経由シ、欧州滞在中ハ英国ヲ本拠トシテ、仏・白・独等視察、十月末帰京ノ計画、又乙案ハ米国ヲ経テ英国ニ至リ、白・独・仏ヲ経、印度洋ヨリ十月末帰朝ノ案也
今夜清水方ヨリ渋沢男爵ヲ帝国ホテルニ招キ、送別ノ宴ヲ設ク、陪席
 - 第25巻 p.82 -ページ画像 
者ハ令夫人・穂積・同夫人・阪谷・同夫人・若主人・夫人・須藤・三井・佐々木・西脇・市原・西村大人・萩原・渋沢元治及予也、主人側ハ清水未亡人・清水釘吉夫人・一雄・同夫人・清水末嬢等也、余興ハ相生大夫ノ義太夫、及遊左ノ落語
十一時半帰宅
日程案ハ、今夜往復共米国経由ノ案ニ略決定ス
   ○中略。
四月十四日 晴
拾時頃出勤ス、午後四時頃ヨリ男爵出勤、夜兜町ニテ竜門社幹事会開会、渋沢社長 ○篤二始、斎藤・野口・石井健吾・仲田・伊藤・松平・八十島集リ、来廿七日於紅葉館青淵先生送別会ヲ兼総集会ヲ開ク事ヲ議決ス、九時半帰ル
○下略
四月十五日 晴
九時出勤、男爵ハ今日高峰 ○譲吉氏等ヲ招ケル為兜町ヘハ出頭ナシ ○下略
四月十六日 晴
九時出勤、午前男爵出勤、段々日時迫リ来リ一層ノ多忙ヲ極ム、昨夜高峰・大倉・浅野諸氏ノ切ナル勧誘ニ依リ令夫人モ同行ニ内定セシ由今朝男爵ヨリ話アリ、午後王子邸ニ至リ令夫人ニ面会、男爵ノ衣服其他携帯品準備等ノ打合ヲナス、折柄男爵ヨリ電話ニテ、令夫人同行ノ件ハ交際向其他却テ迷惑スル事多大ナル恐アリト忠告セル人モアルヲ以テ、尚一両日熟考ノ上何レトモ確定スヘキ旨被申越
○下略
   ○中略。
四月十八日 曇夜雨
九時出勤ス、不相変多忙ヲ極ム、男爵《(夫人)》モ愈男爵ト同行スル事ニ再定ノ由ニテ、市原盛宏氏ハ男爵ヲシテ成功アル旅行ヲナサシメントスル上ニ於テ、此決定ヲ大ナル遺憾トシ異論アリ
○下略
四月十九日 朝雨昼晴夕雨夜晴
八時出勤、今日ハ終日男爵兜町ヘ出勤、市原氏出頭、男爵ニ対シ令夫人同道ノ不可ナル所以、若止ヲ得ズシテ同行トスレハ女通訳者ノ最適任者ヲ撰択シテ同行ノ件ヲ忠言セリト
今午後四時ヨリ同族会開会、旅行不在中ノ処務其他要件協議夜半帰宅
四月廿日 晴 日よう
○上略
渋沢若主人午後来訪、数時間談話ス、男爵夫人同行ノ為メ、西川乕之助氏令娘依頼シタキ下心アルヲ以テ、様子探リノ為同氏親類ノビツカー氏方訪問等《(ス脱)》、専ラ奔走中也
四月廿一日 晴
九時出勤、今午後若主人代トシテ、ビツカース夫人ヲ訪問シ、令妹ヲ男爵夫人ノコムパニオントシテ依頼ノ件ニ付話ス、夕刻男爵出勤、京仁鉄道ノ件其他所用多ク、夜十時迄居残リ夜業ヲナシ帰宅ス
四月廿二日 晴
 - 第25巻 p.83 -ページ画像 
九時出勤、今日ハ男爵午前ニ出勤セラル、不相変多忙
○下略
四月廿三日 晴
九時出勤、海外ヘ発状、不在後事務上ノ取調等ニ頗多忙、今日昼ハ王子別荘ニ英国新来ノビセツト氏招待ノ宴アリ、夕刻男爵出勤益多忙トナリ、七時帰宅 ○下略
四月廿四日 雨
九時出勤、多忙ハ依例如例、今夕帝国ホテルニ於テ、佐々木氏始メ男爵関係諸会社員重立者百五十人ノ催ニテ、男爵御夫婦・御一族及我々随行員ヲ招キテ送別会ヲ開ケリ、余興ハ遊左及貞水也、中々盛会、十一時帰ル
梅浦氏モ同行ノ事ニ決定セリ
   ○中略。
四月廿七日 雨 日曜
○上略
午後一時ヨリ紅葉館ニ至ル、今日ハ竜門社ニ於テ青淵先生及一行送別旁春季総集会ヲ開ク、予ハ一方ニ於テハ幹事タリ、一方ニ於テハ陪賓タリ、園遊会ノ見込ナリシモ、雨天ノ為万事室内ニ於テ取計フ、来会者三百名、式ハ社長送別ノ辞ヲ陳ベ、次ニ客員添田寿一氏送別ノ演説ヲナシ、次ニ青淵先生ノ謝辞、随員惣代市原氏ノ挨拶、之ニテ式ヲ終リ、階下ニテ弁当及立食場ヨリ急ニ移シタル団子・田楽ノ類ヲ出シ、軈テ余興ニ移ル、紅葉館ノ手踊ハ操三番叟及二人道成寺、外ニ円遊ノ落語アリ、五時半散会ス
○下略
四月廿八日 晴
○上略
今夕六時ヨリ銀行集会所・銀行倶楽部・東京交換所・東京興信所合同ニア、銀行クラブニ於テ渋沢男爵ノ為ニ送別会ヲ開キ、予等随行者ヲモ招待セラル、豊川氏ノ送別ノ辞、渋沢男ノ謝辞、市原氏ノ挨拶アリ終テ立食場ニ入リ盃ヲ挙ケテ園田氏ノ送別ノ辞ト万歳、渋沢男ノ之ニ対スル謝辞・万歳アリ、尽歓九時退散
○下略
四月廿九日 雨
九時出勤、午後王子邸ニ至リ令夫人ニ面会、御みやげモノ、又荷物ノ事等ニ就テ相談ス ○下略
四月三十日 晴
九時出勤、準備モ漸次捗レトモ中々多忙ナリ、今日ハ主用ニテ英国公使館・白耳義公使・加藤□□氏方・京釜鉄道等ニ至ル、夜分渋沢若主人・穂積・阪谷三家ノ催ニテ予等随行員ノ為ニ送別会ヲ被催、深川邸ニ至ル、阪谷氏ヨリ一同ニ対シ丁寧ナル依頼ノ挨拶アリ、支那料理ノ食事、貞水ノ講談等ノ余興アリ、十一時半帰宅
五月一日 晴
○上略
本夕ハ東京商業会議所ニ於テ渋沢男爵ノ為ニ送別会ヲ催シ、予モ招伴
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トシテ招カレタレトモ、予ハ同窓会常議員会ニ於テ送別会ヲ特ニ予ノ為ニ催サレ承諾シ置キシ為、其方ニ対シ偕楽園ニ至ル ○下略
五月二日 晴夜雨
○上略
午後六時ヨリ朔日会ノ催ニカヽル銀行クラブニ於ケル男爵ノ送別会ニ陪席ス、野崎広太・永井久一郎・桐島像一氏ヲ始メ八十余名出席、食卓ニテ野崎氏ノ挨拶、男爵ノ演説、梅浦氏ノ同行員惣代トシテノ謝辞アリ、男爵ノ演説ハ中々出来宜敷、食後ハ卅五年前仏国行ノ時ノ懐旧談モ面白カリキ、尚食卓ヲ放レ下ノ客間ニテモ同様中々面白ノ話アリ九時半帰宅 ○下略
五月三日 晴
○上略
六時ヨリ華族会館ニ至ル、今夕ハ商工経済会及経新倶楽部連合ニテ男爵ノ為ニ送別会ヲ催フシ、予等随行員モ招カレタレバナリ、食卓ニ就キ宴〓《(酣)》ニシテ大倉喜八郎氏一場ノ挨拶ヲ述ベ、渋男ノ謝辞、長尾・梅浦二氏ノ挨拶、高木益太郎ノ演説等アリ、九時半帰宅
   ○中略。
三月五日《(五月)》 雨
九時出勤、書類其他欧行準備モ稍整頓ノ緒ニ就クノ感アリ、男爵夫人ノコムパニオンヲ依頼シタル西川乕之助氏三女愛喜子(洋名メープル)嬢昨夕上京、今夕深川邸ニ招カレタルニ付予モ御招伴ニ到ル、年ハ二十位ナレトモ母タル人英人ナルヲ以テ、英国民ニ教育シタル結果ナラン、洋服ノキツケ、姿勢等全ク西洋人然タリ、英語モ巧ニシテ寧ロ日本語ヨリモ熟達セリ、流石ハ混血児丈アリテ、日本ノ廿前後ノ娘ト違ヒ予等ト面会シテモ聊カ恥ル風ナク中々テキパキト会話シ、半バ英語ヲ以テ談話ヲ試ミタリ、却而予ハ赤面スル位也、彼女ハ進テ予ノ英語ノミステーキヲ正セリ、坐布団ノ上ニ坐シ日本食事ヲナセリ、快話シテ十時帰宅セリ
来十日亜米利加丸ニテ出発ノ筈ナリシモ、同船本日長崎入港ノ際類似コレラ患者アリシ為メ、五日間ノ停船ヲ命セラレ、従テ横浜出帆ハ十五日ニ変更セリトノ急報ニ接ス、予等一行ノ出発モ不図五日間ノ延期ヲ見ルニ至レリ、間際ニ至リ斯ク延期セルハ準備上ニハ仕合ナリ
五月六日 晴
九時出勤、今夕ハ白金渋沢喜作氏方ヘ男爵ノ一行ト共ニ送別会ニ招カレタルトモ《(レ)》、予ハ都合ニ依リ断リタリ
○下略
五月七日 晴
○上略 夫ヨリ出勤、用務モ大率片付キ稍閑ヲ得ルニ至レリ、但男爵出頭ノ都合上午後七時半漸ク帰宅 ○下略
五月八日 終日雨
本日ハ王子ニ於テ同族・親族及今回ノ同行者又使用人等老若男女数十名ヲ招キテ、留別ノ為園遊会ヲ催サル筈ナリシガ、降雨ノ為坐敷ニテ会談、舞台ニテ神楽・蓄音器・素人義太夫(若主人・渋沢喜作・尾高次郎・青淵先生)及大川平三郎氏ノ端歌等アリ、黄昏退散、昼別室ニ
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テ一同ヘ手料理ノ饗応アリ、七時帰宅食事、十一時休
   ○中略。
五月十日 晴
○上略 今夜同族会議アリ、阪谷令夫人ノ外皆集会セラレ、十一時退散ス
   ○中略。
五月十二日 雨
十時出勤、午後ヨリ王子邸ニ至リ荷物ノ見届ヲナシ且多少ノ出入ヲナス、令夫人及令息・嬢等ト夕食ヲ共ニシ八時過男爵モ帰邸、十時辞シ帰宅ス
亜米利加丸出帆モ愈来十五日正午ト決定セリ
五月十三日 晴
○上略 午後出勤、男爵モ出勤、彼是多忙也、夕食後八時過帰宅ス
○下略
五月十四日 晴
○上略 三時過ヨリ男爵出勤、来訪者多ク且チゾン氏来訪、渋沢氏・大橋氏・男爵同席、予通訳、其他所用多ク午後八時漸ク帰宅 ○中略
愈明朝出発、欧米行ノ途ニ上ル事トナレリ
  欧米旅行
五月十五日出発、欧米旅行ノ途ニ上リ、米・英・白・独・仏・伊巡遊印度洋ヲ経テ十月卅一日無事帰宅ス、此間ノ日記ハ別ニ有リ


竜門雑誌 第一六七号・第三七―三八頁 明治三五年四月 ○青淵先生の洋行に対する全国商業会議所聯合会の決議(DK250005k-0003)
第25巻 p.85-86 ページ画像

竜門雑誌  第一六七号・第三七―三八頁 明治三五年四月
    ○青淵先生の洋行に対する全国商業会議所聯合会の決議
去日青淵先生欧米漫遊のこと確定するや、当時開会中の全国商業会議所聯合会に於ては左の決議を為し、且つ先生の為め聯合会の名を以て送別会を開くことを可決せり
      決議
 由来我国は欧羅巴及び亜米利加諸国と商業上密切なる関係を有せり殊に今回英国と締結したる協約は、将来我が進歩発達を期する上に於て大に利益あるを疑はず、随て彼我商工業者の間に能く意思の疏通を図るは我々の熱心に希望する処なり、而して今や渋沢男爵が欧米諸国を旅行せらるゝは此希望を達するの好機と信するが故に、我我は同男爵が此等の諸国を歴遊せらるゝに当り、日本商業会議所聯合会の名を以て、又其代表者として、我々の友情を其国の商工業上に懇篤に表示せられんことを望む
次に青淵先生には、今回欧米漫遊につき全国商業会議所代表者たるの資格を得られたるを感謝すとて、左の意味の演説をなされたり
 不肖の今回欧米漫遊につき、全国商業会議所の名を以て又は其代表者たるの栄誉を担ふを得たるは、不肖の深く光栄とする処なり
 只不肖今回の漫遊は、別に商工業視察と云ふが如き立派なるものにあらず、云はゞ老後の保養に出掛くると云ふ方穏当にして、特に不学不識の身を以て、視察を為さんとするが如きは不肖の企て及ぶ処にあらず、然しながら日英同盟成立の此際に当ては日本の商工業者が負ふ処の責任は決して軽きにあらず、従来日本の事情が欧洲人間
 - 第25巻 p.86 -ページ画像 
に誤解せられ、為に我が商工業者の蒙れる不便尠からざれば、此の際日本の実体を彼地の商工業者に紹介し、亦欧米の視察をもなし、及ばずながら諸君の希望に添ふる事を勉めんとす


竜門雑誌 第一六六号・第四七―四八頁 明治三五年三月 ○青淵先生の欧米漫遊に関する直話(DK250005k-0004)
第25巻 p.86 ページ画像

竜門雑誌  第一六六号・第四七―四八頁 明治三五年三月
    ○青淵先生の欧米漫遊に関する直話
同先生か、来る六月中旬倫敦に於て挙行せらるべき英国皇帝陛下の即位式に列席旁々欧米漫遊を企てらるべしとは過般来各新聞紙上に頻りに記載する所なるが、右は無根の事柄にはあらされども、真目的・出発時日等に付ては多くは其真相を誤れるものゝ如し、左に録するは、去三月十三日夕同先生が此事に関し時事新報記者に直話せられたる筆記にして、能く事実の正鵠を得たるものなれば玆に転載して社員諸君に報することゝせり
○下略
   ○栄一ノ直話ハ本資料第二十一巻所収「東京商業会議所」明治三十五年五月一日ノ条ニ収録セルニツキ略ス。


東京経済雑誌 第四五巻・第一一二八号 明治三五年四月一九日 渋沢氏送別会(DK250005k-0005)
第25巻 p.86 ページ画像

東京経済雑誌  第四五巻・第一一二八号 明治三五年四月一九日
    ○渋沢氏送別会
全国商業会議所聯合会出席者によりて企てられたる渋沢男爵送別会は本月八日開会せり、来賓としては渋沢男の外平田農商務大臣・阪谷大蔵総務長官・安広農商務総務長官・木内商工局長・杉村通商局長等の臨席あり、大倉喜八郎氏は当日の座長として、渋沢男爵及其他の来賓臨席の栄を得たるを謝する旨を述べ、終て同氏の発声にて渋沢男爵の万歳を三唱せり、渋沢男は之に対する答辞として、今回の欧米漫遊に就き、前には日本経済界の事情を充分に海外、殊に英国に通達せしめ以て内外意思の疏通を謀り、且資本の共通、商工業上の聯絡と云ふことに付き充分に尽力すべき様にとの委嘱に預り、今亦斯の如き盛なる送別会を開きて余の漫遊を壮にせらるゝは最深謝する処なりと述べ
 予の希望も亦諸君と同一にして、此等の点に関しては充分に務めたき素志なれども、予の短才なる果して此の希望を達することを得るや否や、是れ予の今日より頻りに憂懼する所にして、唯今日にては殪れて後已むの決心を有するのみ、又た日本の国家も段々進歩し来り、而して既往を顧みれば種々の経過に由て各自皆発達をなし居ると雖も、第一に発達し居るのは軍事上の事にして、商工業の発達は余程後れ居るものゝ如し、今回予の赴かんとする国々は其の事情全く反対なるが如くなれば、充分に彼地の事惰を観察し、彼の長を採りて我に移し、以て大に我商工業の発達に資する所あらんと欲す、是れ亦予の今日の希望なれども、果して此の希望を達することを得るや否や、是れ亦た大に憂慮する所なり
とて、夫より維新前の渡欧に関する懐旧談あり、了て、平田農商務大臣の渋沢男に対する希望に併て、男の健康を祝する演説ありて散会したり

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竜門雑誌 第一六七号・第三九頁 明治三五年四月 ○全国商業会議所聯合会開催青淵先生送別会景況(DK250005k-0006)
第25巻 p.87 ページ画像

竜門雑誌  第一六七号・第三九頁 明治三五年四月
    ○全国商業会議所聯合会開催青淵先生送別会景況
全国商業会議所の聯合に係る青淵先生欧米漫遊の送別会は予記の如く去四月八日午後六時より帝国ホテルに於て開きたるが、来賓は青淵先生を始めとし、平田農商務大臣・板垣伯・阪谷大蔵総務長官・安広農商務総務長官・木内商工局長・杉村通商局長の諸氏にして来会者は目下滞在中なる全国商業会議所の代表員諸氏八十余名あり、席定つて晩餐の宴将に酣なる時、当日の会長なる大倉喜八郎氏は起つて
 近来欧羅巴の強国と亜細亜の強国と提携の成りたるは、主として我国軍隊の信用に基くものなれど、独軍隊の信用のみにては一国の隆運を招致し難し、同時に経済上の信用無る可らず、然るに我国の現状は軍隊の信用厚きと反比例に経済上の信用甚乏し、就ては此度渋沢男の外遊を幸、海外との資本共通、商業上の手続等の調査を御依頼し、我経済の信用を上進する助を得んと欲する、云々
との意味にて一場の演説を為し、青淵先生には之に向て、本誌社説欄に掲げたるか如き答辞を述べられ、最後に平田農商務大臣来賓総代として謝辞を述べ且つ先生の行を送り、右終りて主客共に別室に移りて互に時事談を交へ、午後十時散会したりと云ふ
   ○栄一ノ旅行ニ関スル全国商業会議所ノ決議及ビ四月八日開カレタル送別会記事、栄一ノ謝辞等ハ本資料第二十二巻所収「商業会議所聯合会」明治三十五年四月五日ノ条ニ収録シタルニツキ略ス。


渋沢栄一書翰 井上馨宛 (明治三五年)五月一一日(DK250005k-0007)
第25巻 p.87 ページ画像

渋沢栄一書翰  井上馨宛 (明治三五年)五月一一日   (井上侯爵家所蔵)
益御清適御坐被成候由、奉恭賀候、小生も十日出立之筈ニ候処、亜米利加丸ニ故障有之、十五日と申事ニ相成候、同日ハ発途六月初旬米国着、凡二十日間位各所巡覧、六月末ニ英国渡航之心組ニ御座候
帰国之途次も同様米国ニ致候方日程ハ利益之模様ニ候得共、清国ヘ立寄候ニハ矢張印度海ニ致候方歟と存候、是ハ八月頃まてニハ老閣之清国行御確定相成、其上御電報ニても被下候上取極可申と存候、右等ニ付而ハ尚詳細益田孝氏と打合置候間、御帰京之後御聞上可被下候
九州・北越鉄道抵当社債相談も、何分法律之改正小生等之企望通ニ相運兼困却罷在候、桂総理も奥田長官も余程心配致呉候得共、是迄之行掛有之候為充分ニ行届申兼候、昨日も仙石と共ニ其筋ニ引合、色々と論弁致候始末ニ御坐候、尚委曲ハ仙石氏ニ御聞取被下、此上御高配も相願度候、小生ハ概略之処ニてビセツト氏と引合いたし、英国ニ於てベイリングブロゾルと談判相試候積ニ御座候
○中略
右等内々申上置度、一書奉得芳意候 匆々拝具
  五月十一日
                     渋沢栄一
    井上老閣侍史
 尚々時令御調護益御健在之程奉祈候、御元気ニ任せ余り御無理ハ被成さる様呉々も御願申上候、いつれ本年十一月頃清国ニて拝光候様可相成歟と相考居候 匆々
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渋沢栄一書翰 萩原源太郎宛(明治三五年カ)(DK250005k-0008)
第25巻 p.88 ページ画像

渋沢栄一書翰  萩原源太郎宛 (明治三五年カ)      (萩原英一氏所蔵)
拝啓、然者過日御遣被下候東京商業会議所沿革之草案ハ、一覧之上少少修正相加ヘ返上仕候、早々翻訳御取斗可被下候、商業会議所之権限を記せし廉書中商ノ字ノミニ相成候得共、是ハ工をも含蓄せしものニ付、訳字ハ其積リニ致候方歟と存候、為念御注意申上候
又別紙之調査事項一覧候処、大概尽し居候様なれとも重要之物産(即米・生糸・石炭・茶・銅・石油之類)ハ可成最近之統計数字相分り候様致度、もし各品ニ区々之別相生し候とも、其辺ハ不得已次第ニ付、単ニ政表とか統計年鑑と申す書物ニのミ頼らすして特ニ取調候御工夫有之度候
汽車・汽船又は諸会社之資本額(払込済、未払込とも)銀行之数及其資本等も、先般英国人ステツト氏ヘ相送候振合も有之候ニ付、其例ニ倣ひ可成詳細ニ取調申度候
又国民之人員統計と租税金額之割合、即一人之負担額何程ニ相成候と申取調も必要と存候、而して其取調より軍費歳出総額之幾分とか、一人ニ割合幾許とか申割合抔も、種々之方法ニて取調置、もし相分り候ものハ他之重立候国々之例も比較的ニ列記之工夫必要と存候
右等之調査ハ悉く翻訳を要し候義ニも有之間敷、詰り旅行中入用之際小生之注文ニ応し、稍正確之取調出来候材料御携帯被下度と申趣旨ニ御座候
各国之商業会議所法も農商務省ニて調査之分参考之為御持参之方と存候、其外ニも御手ニて相分り候もの有之候ハヽ是又御持参可被下候
   ○右ハ栄一ノ直筆ナリ。


東京日日新聞 第九一六二号 明治三五年四月二二日 朝鮮協会の渋沢男送別会(DK250005k-0009)
第25巻 p.88-90 ページ画像

東京日日新聞  第九一六二号 明治三五年四月二二日
    ○朝鮮協会の渋沢男送別会
一昨廿日午後五時より華族会館に於て開かれたり、出席者は近衛・島津両公爵・細川侯爵、中島(錫胤)・松平(正直)・船越・島津(珍彦)の四男爵、前島密・大倉喜八郎・原亮三郎・浅野総一郎・高橋新吉・松崎蔵之助・元田肇・国友重章・押川方義・戸水寛人等の諸氏四十余名にて、宴酣なる頃会長島津公爵先づ立ちて、渋沢男の此行は極めて我が経済社会に有効なるべく、殊に朝鮮協会に取りては男の欧米視察の結果大に其賜を受くべき旨を陳べ、且つ渋沢副会長出発の際細川侯爵が本会副会長を承諾せられたるは本会の幸なりと挨拶し、一同三鞭酒を挙げて男の健康を祝し、次に渋沢男立ちて左の演説を為したり
      渋沢男の演説
只今島津公爵の御挨拶あつて夫れに御答致しますが、自分が今回の洋行は何等の意味もない只だの見物汗漫の遊歴に過ぎぬのである、然るに会長初め朝鮮協会に於て特に盛大の宴を開いて御送別を開き下さることは実に光栄とするところにして感謝に堪ぬ次第である、已に自分も諸所から送別を受けて商業会議所其他から何れも経済上の視察を遂げて我国の経済上に裨益する様との注文を受けたるも、学問もなし経験もなき故其希望に副ふことは夢にも出来ぬと思つて居ります、只私
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は一己の所感を申上げて置くのは私は三十余年前に一度西洋へ行つたことがある、今ですら浅識なる私なるが、其頃は尚一層の浅識無学であつたから何等の得る所もなかつたが、其時と今日とを比較すれば我国の変化は素より云ふまでもなきことであるが欧米諸国も長足の進歩をなし変化し居ることと思ひます、それで自分も三十余年前に行つた当時と今日欧米の進歩とを比較したならば、自分も魯鈍なるが多少感発することがあるだろうと是丈は感じて居る、そして特に自分が近頃大に感じて居ることは、近来欧米の文明と云ふことが重に物質的の発達に傾いて列国の相競ふてやつて居ることは、鉄道航海其他のことにて其勢力の消長は此等物質的の力次第と云ふ有様である、特に東洋清韓両国に於て見る所も眼前見る通りである、一体我国の実業家と云ふものは、従来は真に意気地なき有様で始終政治家に引廻はされ其跡を進んで行く有様なりしが、今日の物質的競争社会に於ては、実業家は尤も率先して社会の富及国家の富を増進して、競争場裏に尽力せねばならぬ責任があると思ふ、それで是等の事も種々方法を施設するに就ては種々遣り方あるならんも、特に欧米各国の状況を知ることは我国の実業家に取つて特に必要なることゝ考へらるゝ、乍併私の此の度の行は無意味なる汗漫の遊に過ぎざるものであるから、到底私の視察の結果が裨益を我経済社会に与ふると云ふことは到底期すべからざるに付諸君も御諒知ありたし、但し、此の夜御盛宴を開いて一言の謝辞で済む訳にもあらざるゆゑ自分の感じたること丈け述べて御答礼する次第である、終に一言申上げて置きますが、朝鮮協会も創立日尚浅く私も不肖ながら副会長の席を汚して未だ何等の責任も尽さずして遠行するは甚だ相済まぬ事と考へて居りますが、只今島津会長から御挨拶のあつた通り、今日迄欠員になつて居りました副会長の地位を細川侯爵が御引受になつたと云ふことは誠に結構なることで、私も朝鮮協会の為め安心して出発致す次第であります
次に細川侯爵は起つて、只今島津会長並に渋沢副会長より丁寧なる御挨拶のあつた通り、私も副会長席を汚す様になりましたが、実は自分は不省なるものにして会の為に何等の事も出来まいと思ひますが、段段御勧誘に就て遂に御請を致す決心に致しました、就きましては会長以下役員諸君は勿論総ての会員諸君の御賛助を受け私も充分尽力を致す積りで御座ります、唯今此席で御披露があつたに就ましては一言致します、との挨拶を為し、次に近衛公爵左の意味の演説を為したり
      近衛公爵の演説
只今渋沢男から大層謙遜の御演説ありしが、是は即ち御謙遜である、私は渋沢男の今回の御旅行は、我経済社会に少からぬ裨益を与へらるるといふことは信じて疑はぬ、又先刻来雑談中に老人の洋行は物好きで、何の益もないといふお話もあつたが、此は決して私はそうでないと考る、此事に就ては日本と欧米とは余程事情を異にし居る、是は日本に於ては時勢の変遷の際なる故止むを得ぬことではありますが、官吏を始め学者又は実業家といふ人達が洋行するのを見るに、要職を帯びて行く人が何れも若手の人のみであつて、欧米人から見れば黄口の児童と云はれても致方なき人達が行く訳である、従つて信用も薄く尊
 - 第25巻 p.90 -ページ画像 
敬も少ないと云ふ事情少なきにしもあらぬと考へらるゝ、已に私が実際感覚したことをお話するが、私は嘗て独逸に留学致して居つた事があります、又一昨々年から欧米漫遊に参りまして、一昨年帰りました次第であります、其時私は先年留学して居つた時の学友何かは定めて立派な地位に居る人も少からぬと考へて居りましたれば、真に意外な次第で、自分と同級位であつたものは勿論先輩であつた人達も宜しく地位を得て居ると云ふ人が各省の参事官位に過ぎない、或は未だ試補で居ると云ふ人も多いと云ふ有様であるので、それに私は貴族院の議長とか学習院長であるとかと云ふ様な訳で行つたことであるから、真に汗の出る様なことであつた、要するに欧米では学識のある上に経験を積まねば社会の要路に立つことの出来ぬことになつて居る、然るに日本にては経験もなくして要路に立つて居ることは、真に信用上に関することゝ思はるゝ、一体欧米諸国から見れば、日本は余程後進国であるから、信用も尊敬も薄い訳でありましたが、日清戦争以来特に団匪事件以来、日本の実力が段々顕はれ、信用も従つて増して来た次第であるが、此際老練なる政治家・実業家が欧米に視察に出掛るのは、我国の為め有益なることであると思ふ、已に伊藤侯初め或は松方伯と云ひ、今度は実業界の泰斗たる渋沢男爵が出掛らるゝと云ふのを見ては欧米人も日本の社会は決して黄口なる「ハイカラ」のみの時代でないと云ふことを知り、大に我国を信用尊敬する上に影響するだらうと考へる、私は今夕は何等の演説をするのなんのといふ事で参つたのではないが、偶然一言所感を述べて渋沢男の行を送ります
右終りて主客歓を尽し散会したるは午後九時過ぎなりしと
   ○右東京日日新聞ノ記事ハ「欧米紀行」ニ転載セラレタリ、又「竜門雑誌」第一六七号(明治三五年四月)ニモ転載セラレタリ。


竜門雑誌 第一六七号・第四一―四六頁 明治三五年四月 ○青淵先生関係諸会社聯合の同先生及先生一行送別会景況(DK250005k-0010)
第25巻 p.90-96 ページ画像

竜門雑誌  第一六七号・第四一―四六頁 明治三五年四月
    ○青淵先生関係諸会社聯合の同先生及先生一行送別会景況
青淵先生関係の会社・銀行其他各事業の担任者は去四月二十四日午後五時より青淵先生の為め帝国ホテルに送別会を催したるが当日は朝来風雨にして冷気甚しかりしにも拘はらず正賓たる先生及先生令夫人を始めとし、来賓には令息篤二氏・穂積博士夫妻・阪谷夫人、青淵先生の同行者たる梅浦精一・市原盛宏・萩原源太郎・渋沢元治・八十島親徳・清水泰吉の諸氏あり主人側よりは百五十余名出席し先づ食卓に着き食事を終へて後須藤時一郎氏主人を代表して送別の辞を述べ更に先生の健康を祝し次に先生の挨拶あり、市原・梅浦の両氏も一場の挨拶を述べ之にて式を終へたるが別室には遊三の落語、貞水の講談等の余興あり主客雑談に時を尽し歓を罄して散会したるは午後十時過なりき
    ○本社第廿八回春季総集会附青淵先生・同令夫人及随行員諸氏送別会景況
来五月十日解纜の亜米利加丸にて、青淵先生・同令夫人及先生の随行者たる第一銀行横浜支店支配人市原盛宏君・東京商業会議所書記長萩原源太郎君・青淵先生秘書八十島親徳君・青淵先生令夫人付西川乕之
 - 第25巻 p.91 -ページ画像 
助君令嬢、並に先生の一行と同伴せらるゝ東京石川島造船所の梅浦精一君、第一銀行の清水泰吉君、古河鉱山所員渋沢元治君等の欧米万里の途に上らるゝことゝなりたれば、本社は第二十八回春季総集会を兼ねて去四月廿七日正午より芝紅葉館に於て祖道の宴を開けり、前日より春雨霏々として降り続きたれば万山の新緑一段の風情を添へ、千草万花共に先生の一行と別を惜むの観ありき、殊に正午過きよりは降雨に加ふるに北風を以てし、道路の往来出入の不便甚しかりしにも拘らず、東西より来り会し南北より馳せ集る社員は無慮三百有余名の多数に上り、社長渋沢篤二君を始め幹事一同は玄関口に於て一々来会者を迎へて階上の会場に案内し、やがて午後二時を報ずるや社員一同着席し、先づ社長渋沢篤二君起て青淵先生・令夫人及随行者諸君送別の為めに本日の会を開きたることを述べて、次に本社々員を代表して祝文を朗読す
      祝辞
 青淵先生閣下、竜門社員総代として不肖篤二謹て本日開宴の詞を呈す、此回閣下欧米巡遊の壮挙は社員一同欽喜措く能はさる所にして今日祖道の供張を以て敢て玉趾を迎へたるに、閣下は公私事務の頃日殊に頻繁なるに当り一刻千金の貴重を抛ち、恵然賁臨を賜ひ、薫風人に可なるの候、楓林新緑の下に於て藹然たる温容に接するは、実に社員の光栄にして深く謝し奉る所なり
 恭しく惟みれば、閣下の初めて欧洲に航せられしは今を距る三十六年前にして、書剣寥々悲歌慷慨の時なりし、然るに此時に当り閣下は已に彼の商工建国の精粋を咀嚼せられ、帰邦の後偉大なる功績を我か経済界に奏せられ、而して功名富貴両つなから天授を荷ひ、玆に曾遊の地を歴遊せられむとす、嗚呼大丈夫当に斯の如くなるへくして人生最大の快事と謂ふへし、諺に錦を衣て郷に帰るの栄を重むす、栄は則栄なりといへとも、是れ多くは人生能事の消極に属し、今日閣下か我邦商工界を代表して以て海外に対する積極の盛挙と日を同ふして語るへからず、今や社員は閣下か空前の盛事を欽仰して今後我有志の為めに新に諺を作り出たし、一は以て今日盛挙の紀念と為し一は将来有為の目的を奨励せむと欲す、曰く「男児須らく功名富貴を博して再ひ欧米に遊ふへし」と、仰き願くは閣下、我邦商工界か長足進歩の由来と現情とを彼邦に紹介せられ、而して此満山の新緑か秋天錦を曝すの時に於て、閣下も亦海外より錦上花を添へて帰邦せられ、我経済界をして大に生色あらしめ、併せて社員をして咳唾珠を為すの徳音を拝聴せしめられむことを今より已に翹足して俟つ所なり、謹て奉道の蕪詞を呈し、仰て閣下の健康を祝す
  明治三十五年四月廿七日
               竜門社員総代 渋沢篤二
社長の祝文朗読を終るや、客員日本興業銀行総裁添田寿一君青淵先生の行を送らんか為め一場の演説を為されたり、之に次て青淵先生には演壇の前に進まれて謝辞を述べられ、且つ先生か三十六年前徳川民部公子に随行して洋行せられたる当時と、今日の欧米漫遊とを対比して今昔の情を演述せられたり、之に次で第一銀行横浜支店支配人市原盛
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宏君には随行員一同を代表して謝辞を述べられ、玆に全く送別の式を終りて、来賓及社員共に階下の広間に降り、予て用意しあるビール・日本酒・鮨・おでん等各種の露店に於て思ひ思ひの酒食を為し、又折詰弁当を喫し、室内の各所に三々五々輪坐して酒間快談を試み、或は旧情を温め或は新知己を求めて十二分の歓を尽せり、又余興としては場の一隅に於ては紅葉館得意の艶容婀娜たる美人の舞楽ありて万緑叢中に花を添へ、三遊亭円遊の落語は、例の如く奇より妙に入りて非常の喝采を博し、庭の小高き所に陣取れる、洋楽隊の奏楽は、頗る勇壮の気を振起したり、唯夫れ不幸降雨のありし為め庭園の散策を試むる能はざりしも、万事の用意十分に行届き、酒食の快、耳目の喜び共に整ひ、来賓を始め社員一同非常の歓を尽して午后六時散会せり、今当日の来賓諸君及来会社員の芳名を録すれば左の如し
 来賓
  青淵先生
  同令夫人
  市原盛宏君    萩原源太郎君    八十島親徳君
  清水泰吉君    渋沢元治君
 名誉社員
  渋沢社長     社長令夫人     穂積陳重君
  同令夫人     阪谷芳郎君     同令夫人
 客員
  添田寿一君
 社員(イロハ順)
  石井録三郎君   磯長令夫人     井上公二君
  岩崎寅作君    岩本伝君      伊藤半二郎君
  飯島甲太郎君   岩永尚作君     伊藤正君
  石井健作君    石井与四郎君    磯野孝太郎君
  伊藤登喜造君   石井健吾君     石川竹次君
  井田善之助君   家城広助君     岩田幸次郎君
  今井晁君     石川金之助君    長谷川一彦君
  橋本悌三郎君   長谷川正直君    早速鎮蔵君
  萩原久徴君    原田貞之助君    林保吉君
  長谷川粂蔵君   林正三君      林新右衛門君
  原簡亮君     長谷川幸七君    長谷川武司君
  橋本明六君    西谷常太郎君    西村道彦君
  西田音吉君    西川太郎一君    丹羽清次郎君
  西田敬止君    西内青藍君     穂積八束君
  同令夫人     本多春吉君     堀井卯之助君
  堀田金四郎君   堀井宗一君     戸田宇八君
  鳥羽幸太郎君   徳久武治君     利倉久吉君
  友田政五郎君   豊田伝次郎君    戸田忠身君
  千葉重太郎君   沼崎彦太郎君    長田貞吉君
  尾高幸五郎君   同令夫人      尾高次郎君
  同令夫人     大川平三郎君    同令夫人
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  岡本銺太郎君   長田忠一君     織田完之君
  大橋新太郎君   太田黒重五郎君   岡部真五君
  大沢省三君    岡本亀太郎君    大西順三君
  小熊又雄君    大畑敏太郎君    大沢佳郎君
  大須賀八郎君   大塚磐五郎君    岡本謙一郎君
  小沢泰明君    大熊篤太郎君    太田資順君
  大庭景陽君    恩地伊太郎君    大倉喜八郎君令夫人
  岡本儀兵衛君   萩原千代吉君    和田格太郎君
  和田豊基君    渡辺清蔵君     若月良三君
  和田巳之吉君   書上順四郎君    柿沼谷蔵君
  神谷義雄君    河井芳太郎君    神谷十松君
  亀島豊治君    川村徳行君     金沢弘君
  加藤為次郎君   金子四郎君     唐崎泰助君
  川口一君     横山孫一郎君令夫人 吉岡新五郎君
  横田清兵衛君   吉岡仁助君     横山直槌君
  横山徳次郎君   横井秀雄君     米田喜作君
  吉松幸次君    竹田政智君     田中栄八郎君
  同令嬢      同令息       谷敬三君
  高木正義君    高橋波太郎君    高村万之助君
  高田兼弥君    武沢与四郎君    田中七五郎君
  高橋毅君     谷八造君      谷信次君
  高田利吉君    田口竹蔵君     高橋俊太郎君
  玉江素義君    武笠政右衛門君   曾和嘉一郎君
  早乙女昱太郎君  坪谷善四郎君    土橋恒司君
  鶴岡伊作君    永田清三郎君令夫人 同令嬢
  中村得三郎君   成瀬仁蔵君     仲田慶三郎君
  中沢彦太郎君   中村源次郎君    長島郷英君
  長尾吉平君    中野次郎君     永田雄五郎君
  仲田正雄君    村木善太郎君    村瀬貞吉君
  村松秀太郎君   上原豊吉君     内海三貞君
  馬渡新五郎君   内山吉五郎君    植村金吾君
  内海利三郎君   浦田治雄君     上田彦次郎君
  梅浦精一君令夫人 野崎広太君     野口弘毅君
  野口弥三君    野本庄三郎君    野本金弥君
  野中真君     野村喜十君     野口半之助君
  倉沢粂田君    倉西松次郎君    久保幾次郎君
  久保田録太郎君  草野茂君      倉田竹次郎君
  山口荘吉君    山崎繁次郎君    山中譲三君
  八巻道成君    山田昌邦君     山本音吉君
  山中善平君    山崎一君      山際杢助君
  屋代忠恕君    柳田国雄君     増田充績君
  松平隼太郎君   松村修一郎君    松村五三郎君
  槙安市君     前田保雄君     松崎伊三郎君
  松倉長三郎君   福岡健良君     同令夫人
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  藤村義苗君    福島甲子三君    福原虎助君
  古田鎮三君    深沢儀作君     藤木男梢君
  小橋宗之助君   郷隆三郎君     木暮祐雄君
  国分綱太郎君   小林徳太郎君    小林市太郎君
  河野正次郎君   江間政発君     遠藤正朝君
  江南哲夫君    寺井栄次郎君    朝倉外茂鉄君
  青山利恭君    朝山義六君令夫人  青木直治君
  新居良助君    荒木民三郎君    赤羽克己君
  阿部吾市君    明楽辰吉君     相田懋君
  青山孝輔君    相原直孝君     青木昇君
  雨宮長次郎君   安藤保太郎君    佐々木慎思郎君
  佐々木勇之助君  西園寺亀之助君   坂倉清四郎君
  斎藤良八君    斎藤峰三郎君    同令息
  斎藤章達君    佐々木績君     桜井幸三君
  佐野米蔵君    坂本鉄之助君    斎藤亀之丞君
  猿橋義太郎君   笹山意平君     酒井正吉君
  木村清四郎君   北川俊君      北脇友吉君
  木村喜三郎君   北村銀平君     湯浅徳次郎君
  目賀田右仲君   三俣盛一君     南貞助君
  三輪豊次郎君   水上政五郎君    水野克譲君
  志田鉀太郎君   渋沢治太郎君    渋沢長康君
  渋沢政雄君    渋沢愛子君     渋沢作太郎君
  真保総一君    下条悌三郎君    清水喜之助君
  柴崎揆君     芝崎確次郎君    弘岡幸作君
  諸井恒平君    諸井時三郎君    桃井可雄君
  諸井四郎君    本山七郎兵衛君   関屋祐之助君
  関誠之君     仙波正太郎君    関口儀助君
  瀬下清君     鈴木清蔵君     鈴木金平君
  鈴木源次君
    ○青淵先生及令夫人の欧米漫遊
青淵先生及ひ令夫人には、愈々来る五月十日正午横浜出帆の東洋汽船会社汽船亜米利加丸にて欧
米漫遊の途に上らるゝことに決定し、別記の日程にて米国を経て英国・白耳義・独乙・仏蘭西諸国を巡遊せられ帰路再び米国を歴て来る十月頃帰朝せらるゝ予定なるが、先生の随行員は左の如し
 第一銀行横浜支店支配人 市原盛宏君
 東京商業会議所書記長  萩原源太郎君
 青淵先生秘書      八十島親徳君
 令夫人「コムパニオン」 西川乕之助君令嬢
外に左の三君も先生の一行に加はり渡航せらるべしといふ
 古河足尾鉱業所員工学士 渋沢元治君
 第一銀行文書課長法学士 清水泰吉君
             梅浦精一君
而して渋沢元治君は電気工学研究の為凡そ三ケ年間独乙国へ留学、清
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水泰吉君は銀行実務其他研究の為凡そ一ケ年間英国へ滞在、梅浦精一君は保養穿欧米視察の為め渡航せらるゝなりといふ
    ○青淵先生欧米漫遊日程予定表
青淵先生漫遊中の日程は、大抵左の予定なりと云ふ
 卅五年
 五月十日  横浜出帆(亜米利加丸)
 同廿日   布哇寄港
 同廿八日  桑港着
 同卅日   同地発
 六月二日  シカゴ着 六日間滞在
       ミルウオーキー其他近傍視察
 同九日   シカゴ発
 同十日   バツフツロー一泊
 同十一日  ナイアガラ大瀑布見物
 同十二日  紐育着 十二日間滞在
       此間ボストン、フヒラデルフヒア、華盛頓、ピツツボル等巡視
 同廿五日  紐育発(オセアニツク号)
 同卅日   倫敦着 一ケ月滞在
       此間都合ニ依リマンチエスター、シエフヒールト、グラスゴウ、エヂンボロウ、ニウカツスル等巡視
 七月三十日 倫敦発
 同三十一日 アントワープ着
 八月一日  ブラツセル着 四日間滞在
 同六日   同地発
 同七日   伯林着 十日間滞在
       此間漢堡其他附近視察
 同十八日  伯林発
 同十九日  里昂着 中一日滞在
 同二十一日 巴里着 一週間滞在
 同廿八日  倫敦ヘ帰着 五日間滞在
 九月三日  リヴアープール出帆(チウトニツク号)
 同十日   紐育着 三日間滞在
 同十四日  同地発
 同十八日  シアトル着
       附近視察
 同廿三日  シアトル出帆(加賀丸)
 十月十日  無事帰朝
    ○青淵先生欧米漫遊中郵便宛所
欧米漫遊中青淵先生に対する郵便宛所は左の如し
一紐育
  c/o Messrs.Z.Horikoshi&Co.
    66 Greene Street.New York
               U.S.A
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一倫敦
  c/o The Mitsui Bussan Kaisha,
    34 Lime Street,
          London, E.C.
一シアトル
  c/o The Consulate of Japan,
          Seatle,U.S.A.


竜門雑誌 第一六八号・第一―八頁 明治三五年五月 ○本社第廿八回春季総会に於ける青淵先生の演説(DK250005k-0011)
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竜門雑誌  第一六八号・第一―八頁 明治三五年五月
    ○本社第廿八回春季総会に於ける青淵先生の演説
○上略
今日は竜門社に於て私の今度の海外の旅行を送る為めに、春季の総会を兼ねて特に此所に大会を御開きになりました趣で、唯今竜門社を代表されて、社長より甚た痛入りましたる祝辞を朗読されましてございます、且つ又客員たる添田博士から私の送別に対するお辞を懇々御申述がございました、此添田君の御演説、又社長の送別の祝辞は或点に於きましては、私には甚た――少し恐縮寧ろ過賞溢美ともいはれはせぬかと虞れるのでございまするが、併し斯々る内輪の――平日共に提携して商工業に若くは社交に相親むお間柄ですから、故らに遠慮立をして左様当るの当らぬのと玆に弁解する必要もなからうと考へまするで、皆様の御考通りに何れなりとも宜しく御頼み申すと申上けるのでございます
それで私の今度の旅行といふのは、段々と演説に演説が重なり送別会に送別会の加はる程、どふやら段々と重荷を負はせられるやうになつて、至つて微力なものが頻りに荷が重くなつて、ドウもハヤ出掛けるのが嫌になつたやうでございますけれども、今更モウ止めたいといつて今日旅行見合の御披露をする訳にも参りますまい、斯々る宴会に別に遠慮立を申すに及びませぬから正直に申しますけれども、真実何も求める所とか目指す所とかあつて旅行する訳ではございませぬ、真の老後の自由漫遊といふ看板に偽りなし、何か他に望みがあるだらう期する所があるだらう抔といふ御想像があるかも知れませぬが、エラい謙遜的にいふではないが事実ないからないと申すので、然らば左様に何も用のないのに、此経済界が漸く時期恢復といふ時代であるとは申しながら、少しく事業の発達を求めるに何も彼も不景気の余波を受けて居るといふ此時節に向つて、無芸と雖も経済界の一人に数へられて居るものが余り気楽ではないか、欧米漫遊と出掛けて、どこの山が高いとかどこの水が清いとかいつて、花を見月に嘯くを最上の楽しみの如く出掛けるは甚た贅沢千万な訳である、人間の世に勤労するといふことを忘れたかといふお小言が出るかも知れませぬ、其点については今添田博士から、渋沢老ひたりと雖も至て勤勉するものであるといふドウやら御褒賞下すつたやうであるが、私も病患等のございませぬ限りは、よい事は働き得ぬが唯た等閑に世を送るといふ事は極く嫌ひで申さば人間といふものは死ぬまで働かなければならぬものだ、息ある中は世の中の為めに勉励すへき筈のものだといふ観念は、今日急に覚
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へた訳ではございませぬ、殆と物心が付きますと左様あるべき筈のものだといふ一念は最早還暦を越へた今日も少しも変つて居りませぬからして、決して今申す通り唯た世の中を遠ざかつて、一閑人となつて世界を漫遊したいといふ趣意ではございませぬのです、抑も私の此度の旅行の動機は何から発したかと申すと、元来亜米利加といふ所をまだ見たことはないのです、亜米利加の非常な速力を以て商工業の発達して居る有様は、私共言語は通せす学問もありませぬけれども、ドウか壮健な中に一度見たいといふ観念は持つて居つた、又一方には欧羅巴も今竜門社員を代表して社長から祝辞に述へられた通り、今や三十六年の昔経過したことでございますからして、殆と前世紀の夢の如き有様であつて、是も一度は前遊の山水を経過するは、頗る興味あることであらうといふことは、唯た単に旅行としても左様思ひます、況や我商工業界に於て斯々ることを苦心する、斯々ることは斯ういふやうに行違つて居るといふことを欧米へ行つて質して見ましたならは、多少補益する所もあらうかといふ考は持つて居りました、然るに丁度此春頃から各地の商業会議所の人々が打寄つて、自然私の旅行の考があるといふことを機会として、商工業者として海外へ出た人も多いけれとも、商工業者の代表の意味を以て旅行した人はないから、幸にお前が行くなれは斯様な事を委托したいといふ如き評議も起つて、遂に其結果全国商業会議所の聯合会に於て、私の漫遊を機として、日本の商工業者は海外に対して、十分なる意思を疏通致したいといふことを平生思ふて居るといふ紹介者になれといふ決議をされました、蓋し此事も誠に漠然たる事柄であつて、決してそれが如何なる関係を生するとか、如何なる利益を起すとかいふことのあらう筈はないが、今までの有様では内外の事情が十分通せぬといふことは独り商工業ばかりではない、殊に斯ういふ社会に於て甚た憾みとする所であつて見ますると多少左様な事柄が意思疏通の端緒を得ることであるならは、大に喜ふへき点ではなからうかと思ふので、果して然らは自分の予て希図して居つた老後の旅行であるから、之を一つの時機として右様な任務を帯びて、所謂自由漫遊をするのも亦人生の一快事であらうと玆に始めて旅行の意を決した次第でありますが、各商業会議所即ち全国商工業者の希望する如く、我々商工業者が彼等欧米人と手を握り合ふといふ如きことは、私の一旅行に依て決して果し得られるものでないことは万万である、左りなから其一階梯を為すといふことは或はありもしやうかと思ひますれは、亦以て左様に己れを卑下し、事の成否を危んで、左様なことは好まぬといふものでもなからうかと玆に今の委托も受けて、愈よ旅行の意を決した次第でございます
右様な旅行でございますから、もとより何の得る所もなからうと思ひますが、旅行に当つて私は三十六年前の昔しを思返し、此前後の旅行に於て私の一身上に大なる差のあるといふことを玆に御笑草に御話して置かうと考へます、其昔し私が欧羅巴へ参りましたのは慶応三年で慶応三年一月十二日横浜を発程して、慶応四年即ち明治元年十一月三日に日本に帰つて来たと覚へて居ります、此時の旅行はドウいふ有様であつたかといふと、まだ日本の人に頭の髪を切つた人は一人もある
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訳ではなし、西洋の着物を着ることを知つた人も余りなかつたのであります、其旅行の重なるものは今松戸に御居になる徳川従二位――当時民部大輔と申されて時の将軍の弟であつて、此人が仏蘭西へ使節として行かれることになつて、種々なる事情がそこに纏綿して、多少攘夷鎖港主義を帯ひて居る人達が扈従して行かなければならぬといふ所からして、私も矢張其分子を含んで居る仲間で、所謂山の芋が半分鰻になり掛つた人間であるから、寧ろ斯様なものを附加へてやつたならは大に都合がよからうといふので私が任命されたさうでございます、それは後に分りました、所謂慷慨悲歌の士で京都・大阪の辺りを徘徊致して居りました末一ツ橋家へ仕官致し、引続き慶喜公が将軍になられたとき、幕府の極く下等の吏員になつて居ります際に右様な旅行を命せられたのでありますから、着物一枚人に相談して拵へることも出来ませす、手提一つ他人に持つて貰ふといふことも出来す、一切の衣服諸道具を始末して国へ送るとか、或は売払ふとか又は新たに着物を調達するとかいふことは総てモウ自ら営んだので、お負けに民部公子の荷物の世話とか、或は是に随行する人々の荷物の世話を致し、京都から民部公子の外にお附人が七人、私の外に二人の供があつたから都合十一人横浜へ来て、外国方の人々――当時の外交官です、今其人を失ひましたが向山隼人之正といふ人で、黄村といつて後に長く生きて居りましたが詩を善くする御人であつた、此人が外国奉行をして、それに今尚ほ健全でお在だが田辺太一といふ人が其時分の支配組頭で、其他それそれの役人が殆と十七・八人行きましたから都合其一行が三十人許りでありました、印度洋を段々経過して行く当時の種々なる奇談は中々数多うございまするが、最も可笑いのは斯く申す私が柴棍で以て縞のズボンに燕尾服を着て、船の上で大に叱られて縮込んで室へ這入つたといふ抱腹談もある、又巴里へ参つて那破烈翁の礼典に罷出て食事を賜つて「アイスクリーム」を紙に包んで袂へ入れて、皆な溶けてしまつたといふ抱腹談もある、是は私ではない外の人です、今考へると余程可笑いが、其時さういふ人々に始終追使はれる地位に立つて、其人々の世話を焼き種々な仕事をしたことを今考へて見ると其労苦中々思遣られる、或場合には書記になつて深更まで信書を認めたり又日常の事を記載して置かなけれはならぬから日記も絶へす記けたり事に依ると夜の十二時頃まで書類を調へるといふことも屡々ありまして、船が出る時国に向つて友人に書面を出したいと思ふけれども、公務を先として其筋々への発状の手配をするとか、又は日常公子の身の上についての雑務は皆な私が一身で取扱つた、尤も博覧会の開会の際には今申す外国の掛の人達があつて多く是に任して居られたから、私の任務といふものは甚た軽かつたが、丁度三月から始つて八月頃博覧会の礼典が済んで、それから瑞西・和蘭・白耳義を一巡回して、再ひ発して伊太利へ行つて伊太利の旅行を了り、それから仏蘭西へ帰つて最後に英吉利を旅行して、英吉利の旅行が済んたのは其年の末であります、其翌年一月から愈よ民部公子が大使と申す如き職務を罷めてさうして学生となつて仏蘭西に留学することとなつた、スルと二月・三月の間に京都の変が段々報知される、殆と海外に於て寧日なく、トウ
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トウ其年の十月頃彼国を発するやうな場合になつて、最初留学の希望も遂け得られなかつたのであります、故に半年余りは匆忙の間に諸方を奔走し、後との半年は心配に日を暮したといふ有様であつた、斯々る姿であつたから、其昔日の旅行は中々海外の学問とか視察とか――勿論視察すへき目もなく耳もなく、況や物を学ふといふ余暇は取り得られなんだ有様でございますが、併し其間に私が何か得たことがあるかといふと、学問的には一つも得たことはありませぬけれども、二・三今でも記憶して居つて、成程日本の国とは大に有様が違ふ、是等は心を着けねばならぬと思ふたことがあります、今でもよう覚へて居る其一・二を申して見ると、第一に白耳義へ参つたときに、私は民部公子の供をして国王謁見の礼典に参列したのです、私共の参列といふのは殆と殊遇であつたのです、人数が少なかつた為めに漸く其席に出られたのでありますが、国王は私より二つばかりお上で在らつしやる、今日まだ御健全なさうでございますが、民部公子に対してドウいふ応答をされたかといふと悉く奇異の思を為した、小児を対手にして何を話すかといふと、白耳義へ来て何所を見物した、製鉄所を見、何とか申す所で硝子の製造所を拝見しました、それは宜い、製鉄所を見たならば日本へ鉄を買ふて行くやうにせねはならぬ、総て国といふものは鉄を沢山使ふ程其国は盛んになる、私の国では鉄が沢山出る、英吉利よりも廉価に出来る、鉄を沢山買ふ国でなければ迚も其国は繁昌せぬと云て、国王初めての謁見に十四の小児に鉄を買へといふことを勧めるから実に可笑しい、ドウも西洋の君主は妙なことを言はれる、直様御商売に関係する、是だから夷狄禽獣だと思うたが、再ひ考へて見ると決して夷狄でもなけれは禽獣でもない、寧ろ禽獣と思ふ己れが禽獣であるから、さうして見ると中々空に聞いてはよくないといふことを深く感しました、博覧会の礼典の終りに何とかいふ宮殿です、那破烈翁が出て仏蘭西の極盛を極めた演説があつて、私にはよく分らなかつたが後に翻訳を見ると、実に立派な文章で随分人を眩惑せしめる程の名文章であつたが、其文章よりも此鉄の御商売の話が、私の皷膜をひどく感せしめたことを明らかに記憶して居る、モウ一つ自分を感せしめたのは役人と商売人との応対です、民部公子の接待役にコロネル・ヒレツトといふ人が那破烈翁から附けられた「コロネルで」あるから相当の軍人である、此人は至つて勝手強い男で、己れの国を自慢し己れの身を大変に自慢して、自分程立派な人は欧羅巴に二人とないといふ位に自負して居る、而して那破烈翁といふ人を神か仏の如く思ふて那破烈翁風を吹かして民部公子を教導指示するのです、私共は殆と虐待されたといつてもよい位に種々の小言をいはれましたが、此人の所へ毎度来る商売人があつて、此商売人を平生待遇する有様を見ると、それ程に自負の強い「コロネル」先生一言もない、いつでも公子のことについて何か話すと、如何にも左様貴君の御説御尤といふの外はない、日本では我々幕府の下僚に居つても、大層立派な商人の前で其方は何とかいつて威張つて、それがよい心持だと思ふて居るのと反対で大変に自負する役人が商人に対して極く敬意を表する、ドウも己れの国とは商工業者の待遇が大層違ふといふことをひどく感銘致しました
 - 第25巻 p.100 -ページ画像 
モウ一つよく記憶して居りますのは、公子が愈よ国が騒動になつたについて、是から先きは成る丈け経費を節減してせめて三年も仏蘭西に留学せしめたいといふ考の為に、偖て籠城するにはドウしたらよからうか、少々ある金をドウかして維持するやうにしたい、維持するといふには成る丈け経費を節減して其節減した金を以て何程か利殖する工風をするより外ないといふので、此利殖することについて今の商人に相談して見た所が、鉄道会社の公債が一番安全だといふから、それはドウいふものかと段々聞いて見ると、会社が社債を発行する、其会社といふものはドウいふ趣向で組立てるものかといふと斯様々々に組立てる、其公債の発行はドウいふ都合か、斯ういふ訳のもので何時でも「ブールス」へ行くと売ることも出来又買ふことも出来る、嘘と思ふならは自分が連れて行つて買つてやらうといふので、民部公子を長く留学させる為めに、其維持金として三万「フランク」であつたか五万「フランク」であつたか公債を買ふた、其時初めて会社といふものゝ仕組と公債といふものは斯様にして成立つものである、又売買されるものである、何程かある資本を蓄積するには最もよい方法であるといふことを会得して、自分の国にはまだ斯ういふものはなかつたといふことを発明致しました、今日申上けると至つて卑近な話で随分可笑いやうであるが、此二つ三つの事柄は、三十六年前の私をして海外に於て、大に感せしめ心を動かさしめた事柄である、而して其間の拮据経営中々の艱苦であつて、決して気楽な旅行ではございませなんだ、が寧ろ心が甚た愉快でもあり安心であつたかも知れませぬ、然るに此度欧羅巴行を企てましたにつき、右からも左からも種々なる御待遇を受ける、又翻つて己れを省みますると、言語が通せぬといふ所からして通訳者には市原君の如き人を連れて行つたらよからうといひ、商業会議所では一人では差支へるだらうから、お前が同意するならは萩原氏を随行員に命するであらうといふことである、其他平生自分が秘書として使つて居る八十島も随行するがよからう、或は銀行員としては清水泰吉とか、皆なそれそれ学問もあり言語も通じ世の中に有為の人々を同行し得られるし、而して到る所で便利を得るであらうと考へますると、実に此昔日のそれこそ脛一本腕一本で駈歩るいた旅行とは、何で斯様に懸隔するかと自ら甚た危む位でございますが、実は私の一身上に於ては、三十六年前の寧ろ困難な時期が或は愉快なときであつて今日の不自由のない時期が迷惑なときであつて亦得る所も少ないときではないかと恐懼に堪へぬのでございます、けれども人は左様に何時も窮屈なときならでは世の中に得る所は少ないものだ、得意なときは始終憂ふへきものであるとのみ考へたならば、何事も為し得ることは出来ませぬから、決して今日を私は得意なときとは思はぬ、矢張窮屈なときと考へて、此時期を十分利用して、さうして仮令満足なるお土産は持つて帰れぬでも、此必要なる時期に半歳を空しく費すといふことに成行かぬやうに致したいと考へるのでございます、斯々る此忙しい時代に半歳の日月を所謂閑日月として暮しまするのは、此経済界に手を携へ思を合せて務め合ふた皆様に対して、閑を偸むやうでお気の毒千万に存しまするけれども、不在中は皆様が十分御勉強下すつて、
 - 第25巻 p.101 -ページ画像 
ドウぞ此竜門社を繁盛ならしむるのみならす、竜門社に出て居る皆様は皆なそれそれの事業に従事なすつてお在になる諸君でありますからドウぞ私の不在中は其事業をして益々盛んならしめ、面倒とか苦情とかいふことのないやうに御心付を願ひたい、私も所謂閑日月を経過するのであるけれども、若し或は閑中に聊かの忙しい味を見、又静かな間に何程か動く機会を得ることが出来ましたならば、丁度此秋に際する帰国のときに、錦は飾れなくとも紅葉の一枝でも持つて帰ることに致したいと考へます、玆に感謝の意を述へると共に御別れの辞を述へて置きます次第でございます


竜門雑誌 第一六八号・第一三―一五頁 明治三五年五月 ○本社第廿八回春季総集会に於ける市原盛宏君の演説(DK250005k-0012)
第25巻 p.101-102 ページ画像

竜門雑誌  第一六八号・第一三―一五頁 明治三五年五月
    ○本社第廿八回春季総集会に於ける市原盛宏君の演説
 本編は去四月廿七日正午より芝紅葉館に於て催されたる青淵先生・同令夫人其他随行員諸氏送別会席上に於て、随行員総代として市原盛宏君の述べられたる謝辞の速記に係れり
今日は竜門社の大会を御開きになりまして、青淵先生の御洋行を御送りなさいます御容子で、それにつきまして私共随行を命せられましたものまても御案内下さいまして、玆に其席末を汚すことを得まするのは、誠に御厚意千万私共に取りまして光栄の儀と存します、就ては一寸簡単に御挨拶を申上けたいと思ひます
青淵先生の欧米御漫遊につきましては、御当人の御胸中にも長い間御希望の存して居つたことであらうと思ひまするし、又此竜門社員を首め広く世間の人々にも其希望の存して居つたことと思ひまする、私が玆に申上けるのも何だか嗚呼ケましいやうでございますが、私は明治三十二年に第一銀行へ入行致しまして、其年の秋のことであつたかと思ひます、甚た差出ケましいことなから先生に御洋行を御勧め申したこともあり、其翌年は丁度仏蘭西に大博覧会があり、青淵先生には目出度還暦の御祝をなされるといふ御年柄でもあり、旁々好時機でありますから、御洋行を御勧め申したこともあるやうに思ひます、其御洋行の理由です、御出掛になつたら宜からうと思ふ理由は種々あることで、今更私が玆に述へる必要もありませぬ、前に添田博士の御演説中にも種々其理由の端々を御述へになつたやうでありますが、大体考へて見ましたならば、或は公の為め或は私の為めに、青淵先生が此際欧米各国を御漫遊になつたならば、甚た有益なことが沢山あるだらうと思ふのであります、併し此度の御洋行は決して差したる六ケしいことではない、ホンの老後の漫遊として出掛けるといふ御趣意でありまして、如何にも其通りの御趣意と私共に拝聴して居りまする、併したゞの御漫遊が、不知不識の間に大変な利益を惹起すであらうと思ふです田舎者が浅草見物に来ると唯た種々なるものが目に触れる丈けて、結局何を得て来たか何を見て来たか分らないが、見る人の目が活眼で、其御耳が聡明である以上は見ること聞くこと普通の人間の得る所とは大に違ふだらうと思ふ、真の御漫遊、唯た汽車に乗つて西洋各国を走廻つてお帰りになつても、必す其利益は尋常人の得る所とは違ふだらうと思ふ、其理由は彼是申しませぬ、唯た今日になつて見ると、私は
 - 第25巻 p.102 -ページ画像 
青淵先生の御洋行の寧ろ晩かりしを惜むといふ観念が一方に起りますが、併し又翻つて考へますと、今日は却て好時機になつたかも知れませぬ、若しこれが一両年前であれば我国も内外多事といふ折柄であつて、或は先生がお外しが出来なかつたかも知れない、併し今日になつて見ますると、北清の事変も全く治りが付きまするし、乃至は日清戦争以来経済界の浮沈啻ならさる有様であつたのが段々と折合が付きまして、昨年の恐慌とも申すへき騒を以て一段落を告けた場合になりました、殊に近頃日英同盟抔も出来まして、兎に角東洋の平和も暫くの間は堅く維持することが出来るであらう、従つて今日は実業家の最も力を振ひ又最も経営を為すへき時節であつて、唯た日英同盟が出来たばかりでは何でもない、大に実業家の考を廻らし、又た企を為すへき時節が到来して居ると考へますので、此の際青淵先生が欧米各国を御漫遊になりましたならば、真の御漫遊も亦自ら御帰朝の時分には、お互が先生を経て得る所の事柄もあるであらうと思ふのであります、それで私は今日となつて先生の愈よ御洋行の御決心の出来まして、御出発の間際になりましたことを喜んで居りますが、図らすも随行を命せられました一人となつて御供を致しまするについては、他の随行員諸君と共に出来得る丈けは力を尽しまして、先生のお口ともなりお耳ともなり、又手足ともなりまして、御愉快に御旅行の出来るやうにして帰りたいと思ひます、曩に民部公子にお付になつて三十五・六年前にお廻りになつた御話を伺ひますと、余程私共随行員の為めには幸福になるやうな御話でございますが、私は不幸にして年も中老半《なかば》に数へられるやうになつて見込がない、先生の御年頃には殆と墓の中に這入つてしまうだらうと思ひますが、今度は若い諸君も御随行になりますから、此諸君が青淵先生御随行当時のことを思ひ、拮据勉励しておやりになりましたならは、他日青淵先生のお後をお踏みになり、必す第二第三の青淵先生がお出ましになつて、日本実業家の泰斗と仰れる方も出来やうと思ふ、さうして見ると此度の随行員には今の御話は余程目出たい御話と思ひますから、勇み進んでお出掛になつたら宜からうと考へます、私共御供を致しますものは、出来得る丈け青淵先生並に令夫人の御健康を御保護申上げ、出来得る丈け御愉快の御旅行をおさせ申したい考でありますから、今日御会合なりました竜門社員諸君は、ダウか各自御健康をお保ち下さいまして、其他先生の御関係の事業に御従事になつて居る諸君も、其事業を御永続になり、青淵先生の御不在中毫末も後顧の憂のないやうにせられんことを希望致します、今日御招待に預りました御礼を一同に代つて述ふると同時に、聊か蕪辞を呈して置く次第でございます


欧米紀行 大田彪次郎編 第七―五九頁 明治三六年六月刊(DK250005k-0013)
第25巻 p.102-107 ページ画像

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東京日日新聞 第九一五八号 明治三五年四月一七日 ○渋沢男爵の送別会(DK250005k-0014)
第25巻 p.107 ページ画像

東京日日新聞  第九一五八号 明治三五年四月一七日
    ○渋沢男爵の送別会
東京銀行集会所・東京交換所・銀行倶楽部・東京興信所の四団体発起者となり、来る二十八日午後六時より渋沢男を始め萩原商業会議所書記長其他渋沢男随行員を招待し、坂本町銀行集会所内銀行倶楽部に於て送別会を催す由にて、目下夫々準備中なりといふ


東京日日新聞 第九一六八号 明治三五年四月二九日 ○渋沢男送別会(於銀行倶楽部)(DK250005k-0015)
第25巻 p.107 ページ画像

東京日日新聞  第九一六八号 明治三五年四月二九日
    ○渋沢男送別会(於銀行倶楽部)
昨廿八日午後五時より銀行倶楽部に於て、東京銀行集会所・手形交換所・東京興信所・銀行倶楽部の合同発起にて渋沢男一行の送別会を開きたるが、来賓は渋沢男爵を初め随行員市原盛宏・萩原源太郎・渋沢元治・清水泰吉・八十島親徳氏等にて来会者は豊川良平・園田孝吉・池田謙三・今村清之助・三崎亀之助・添田寿一・馬越恭平等の諸氏を初め、二百余名にして、豊川氏は、渋沢男の旅行に就きて我々銀行業者は男爵の健康にして一日も速かに帰朝せらるゝを希望すると同時に当業者に対し有益なる土産を齎し来られんことを望むと述べ、渋沢男爵は答辞として左の演説を為せり
○下略


竜門雑誌 第一六八号・第三七―四〇頁 明治三五年五月 ○東京商業会議所の青淵先生送別会(DK250005k-0016)
第25巻 p.107 ページ画像

竜門雑誌  第一六八号・第三七―四〇頁 明治三五年五月
    ○東京商業会議所の青淵先生送別会
東京商業会議所に於ては、去一日午後一時より、同会議所楼上に於て同所会頭たる青淵先生及会員梅浦精一・長尾三十郎両氏の送別会を開きしが、当日の出席者は、主人側に在りては副会頭大倉喜八郎氏を始め会員一同、来賓側に在りては青淵先生・梅浦・長尾の両氏及青淵先生の随行者諸氏を主賓とし、別に相客として、桂総理大臣・小村外務大臣・平田農商務大臣・柴田翰長・珍田・阪谷・安広・浅田の各総務長官、各局長等数十名にして、席定るや大倉副会頭より左の如き挨拶ありたり
   ○大倉副会頭挨拶、及ビ栄一謝辞ハ本巻第二十一巻所収「東京商業会議所」明治三十五年五月一日ノ条ニ収録セルヲ以テ略ス。
尚ほ桂総理大臣及梅浦及長尾の両氏も亦一場の礼辞を述べられ、其れより晩餐の饗応あり、午後九時頃散会せりと云ふ


東京市養育院月報 第一五号 明治三五年五月 ○院長の告別(DK250005k-0017)
第25巻 p.107-108 ページ画像

東京市養育院月報  第一五号 明治三五年五月
 - 第25巻 p.108 -ページ画像 
○院長の告別  渋沢院長は令夫人同伴にて本月中旬欧洲漫遊の途に就かるゝにつき、去月二十九日職員一同に対し告別旁留守中の心得向を懇示せられたり
○院長代理  院長欧米漫遊不在中、本市助役浦田治平氏を以て院長代理とする旨去る十六日達せられたり


竜門雑誌 第一六八号・第四〇―四一頁 明治三五年五月 ○朔日会の青淵先生送別会(DK250005k-0018)
第25巻 p.108-109 ページ画像

竜門雑誌  第一六八号・第四〇―四一頁 明治三五年五月
    ○朔日会の青淵先生送別会
少壮実業家の組織せる朔日会に於ては、去五月二日中後六時より銀行倶楽部に於て青淵先生の送別会を開きしが、定刻前後より会員の来会するもの頗る多く、其総員七十余名に達し、青淵先生を始とし梅浦精一・市原盛宏(事故不参)・萩原源太郎・渋沢元治・八十島親徳・清水泰吉諸氏の出席あり、席定つて晩餐に移り、宴将に終らんとするとき幹事野崎広太氏は総代として起つて左の如き挨拶を陳述せり
 閣下及諸君、今回我実業界の泰斗として仰き又我々後進の師父として敬重措く能はざる渋沢男爵には、欧米に御渡航相成るに付、本会は大会の決議に依り聊か送別の微意を表せんと欲し特に男爵の尊臨を仰ぎたるに、平素男爵が直接関係の銀行会社若くは団体の招待に掛るものゝ外は之に臨まれざるの内定なりしにも拘らず、尚又最早出発間際に切迫せるにも拘はらず、特に後進奨励の意に依り尊臨を辱ふしたるは本会の最も光栄とする所にして、余は本会を代表し特に男爵の厚意を深謝するものなり
 回顧すれば今を去る三十有余年前、男爵が徳川民部卿に随ひ欧洲に渡航せられ、親しく彼の文化の跡を視察せられ、帰朝の上国家財務の要職に当り、続て民間に下り実業界のため貢献せられ、遂に今日の功績を現はし、駸々乎として我実業界今日の如き隆盛を見るに至りたるを想へば、今回男爵が更に其声望と達識とを以て親しく日新月歩の欧米を広く跋渉せられ、彼の文化発達の向ふ所を視察せられ更に其該博なる見聞に依つて我実業界を指導せられたらんには、其効験頗る著大なるものあるべく、斯業の発達進歩大に見るべきものあるを信じて疑はず、実に男爵今回の旅行は我実業界に対し裨益する所蓋し尋常一様にあらさるべし、是を以て本会は男爵が常の如く健勝に此旅行を果され、無事に一日も早く帰朝せらるゝを鶴首して待たんとす、依つて余は先づ男爵の健康を祝し海陸の恙なきを祈らんとす
と述べ、一同起立して万歳を和唱し、続て同氏は更に随行員一同に対する送別の辞を述べ、随行員諸氏が先生に随伴して能く之を保護し此行の目的を全からしむるため日夜心神を労するの大任なるを語り、今より之が労を深く謝し併せて其健康を祝せんと述べ、一同更に起立して之に和唱し、続いて先生には満場の喝采に迎へられ、起つて左の如き挨拶を陳述せられたり
 本夕は少壮実業家の組織せらるゝ本会にて、余が今回の旅行に際し其行を盛にせしめんとの意を以て盛宴を張り、余及随行者一同を招待せられたるは深く感謝する所、特に少壮家の招待に依り活溌有為
 - 第25巻 p.109 -ページ画像 
なる諸君と親しく此歓を共にするは、余の最も欣喜に堪へざる所とす、諸君は実に我商工界の実務に関し直接其衝に当り拮据経営せらるゝ人にして、所謂口も八丁手も八丁と云ふべき人々なり、余が如き老人が海外旅行を企つれば大に人意を強ふすと云ふと雖も、余は発程に際し諸君の如き少壮にして活気ある口も八丁手も八丁と云はるゝ人々と共に一堂に会し斯る歓を尽したる為なるか、俄に若返りたる感ありて却て大に我意を強ふしたる者あるを覚ゆるなり、余が今回の旅行は何等の意味あるにあらず、無味淡白唯任意の漫遊に過ぎざるが、唯其内余が一の任務とも云ふへきは、全国商業会議所の委託に係る商工界の実情を能く欧米の地に徹底せしめ彼我の疏通を計ると云ふことなり、此ことたる完全に其目的を達せんとするは頗る困難に属すれども、余は亦之に牽連し多少の考なきに非す、我商工界の成育して現今に至れる跡を見るに、商工業者自らの自働的発達に依るに非ずして、寧ろ政治・軍事・教育等より他働的に啓発せられたるもの多きに居るが如し、是れ余の常に遺憾とする所にして今後更に我商工業の発達隆昌を計らんと欲せば、必ずや吾人自ら主働となつて之が経営に当らざるべからず、余は齢既に老ひたりと雖も聊か此一事に至つては銘肝する所あるなり、今回の旅行亦玆に其端を発せるに過ぎずして、之に向て聊か微力を尽さんと欲するなり昔源頼義前九年の役に臨むに際し、時衡と相談じ陣頭に立つて敵を降服するを得ば頭髪の白きも忽ちにして黒きを得んと語りたりと、又欧米先進国の風習として齢七十乃至八十に達するものと雖も、尚意気盛にして壮者と相伍し更に倦む所なしと聞けり、余が今回の旅行にして若し幸に壮年に立帰るの機を得、爾後多少なりとも我商工界のために尽瘁するを得は、余の満足之に若くものなきなり、幸に無事此旅行を終り故国に帰るの日、再び諸君と相会し本日の如く快談を試むるの時を今より喜んで待つものなり
続て梅浦精一氏は起つて随行者一同に代り謝辞を陳述し、其より引続き青淵先生を中心として雑談に移り、同先生より更らに趣味津々たる談話あり、愈々興に入りて綿々尽くる所なく、一同歓を尽し散会せしは午後十時後なりき


埼玉学生誘掖会十年史 同会編 第一二頁 大正三年一〇月刊(DK250005k-0019)
第25巻 p.109 ページ画像

埼玉学生誘掖会十年史 同会編  第一二頁 大正三年一〇月刊
 ○第一篇
    第一期 会員組織時代
○上略
同年 ○明治三五年五月会頭渋沢栄一氏欧米漫遊の事確定せるを以て、有志者相謀りて送別会を上野公園精養軒に催せり。会頭は同月十五日を以て出発せらる。 ○下略


竜門雑誌 第一六八号・第四一―四二頁 明治三五年五月 ○商工経済会及経新倶楽部の青淵先生送別会(DK250005k-0020)
第25巻 p.109-110 ページ画像

竜門雑誌  第一六八号・第四一―四二頁 明治三五年五月
    ○商工経済会及経新倶楽部の青淵先生送別会
商工経済会及経新倶楽部に於ては、去五月三日午後四時より青淵先生及随行員諸氏を華族会館に招請し盛大なる送別会を催したるに、来会
 - 第25巻 p.110 -ページ画像 
者百五十余名に及び、先づ発起人の挨拶あり、亜て青淵先生の答礼の辞あり、非常なる盛会なりし由なるが、先生演説の要旨なりとて日本新聞の記する所左の如し
   ○栄一ノ演説ハ本資料第二十三巻所収「商工経済会」明治三十五年五月三日ノ条ニ収録セルヲ以テ略ス。


東京日日新聞 第九一七四号 明治三五年五月六日 ○首相の渋沢男送別会(DK250005k-0021)
第25巻 p.110 ページ画像

東京日日新聞  第九一七四号 明治三五年五月六日
    ○首相の渋沢男送別会
桂首相には予報の如く昨日正午官邸に於て渋沢男の為に送別会を開かれたり、当日の参会者は主賓たる渋沢男を始め曾禰大蔵・芳川逓信・小村外務・平田農商務各大臣、近藤廉平・岩崎男・添田寿一・山本達雄・高橋新吉・三崎亀之助・高橋是清・浅野総一郎・大倉喜八郎・加藤正義・森村市左衛門・益田孝・豊川良平・今村清之助・高田慎蔵・池田謙三・大谷嘉兵衛・柴田家門の諸氏にして、主人なる桂首相には一同を設けの食堂に導き、三鞭の杯を執り渋沢男の健康を祝する旨を述べられ、次で渋沢男は起て簡単なる答辞あり、主客談笑の間に食事を了はり、夫れより更に別席にて暫時懇談の上、午後二時四十分頃より漸次退散せられたりと
   ○右ノ記事ハ「竜門雑誌」第一六八号(明治三五年五月)ニ転載セラレタリ。


渋沢栄一書翰 田中源太郎宛 (明治三五年)五月七日(DK250005k-0022)
第25巻 p.110 ページ画像

渋沢栄一書翰  田中源太郎宛 (明治三五年)五月七日    (田中一馬氏所蔵)
過日ハ尊書御恵投被下候処、取込中拝答延引仕候、然者小生此度之旅行ニ付御懇切之来示拝承仕候、格別之用事とても無之候得共老後之漫遊として一巡相試候積ニ候、もし出立前拝眉も出来得さる時ハ留守中之事共何卒可然御願申上候、殊ニ織物会社之義ニ付而ハ昨今不景気之為計算も不充分之由ニ候得共、尚御高配ニて幾分ニても回復候様御尽力願上候
岩村氏身上ニ付而之来示ハ早々伊藤伝七氏へ書面いたし置候、尚同氏ハ近々上京之由ニ付面会候ハヽ更ニ話合候様可仕候
関西貿易会社之事ハ御不満足之由残念千万ニ御坐候、右不取敢拝復まて如此御坐候 匆々不宣
  五月七日                渋沢栄一
    田中源太郎様
         拝復
 尚々京都地方ニ於而瓦斯事業ニ付此程浅野総一郎より中井三郎兵衛氏へ内話し、貴台へも中井より申上候様托し置候云々昨日浅野より被申聞候、右ニ付而ハ近日中井氏面会候ハヽ愚考詳細申含置候積ニ付其中御聞取可然御高配可被下候、乍序此段申上候
   京都下京区新町
   錦小路北入ル
      田中源太郎様    渋沢栄一
           拝復



〔参考〕中外商業新報 第六〇八四号 明治三五年五月六日 渋沢男爵の欧米行(DK250005k-0023)
第25巻 p.110-111 ページ画像

中外商業新報  第六〇八四号 明治三五年五月六日
 - 第25巻 p.111 -ページ画像 
    渋沢男爵の欧米行
近頃我経済社会の事情に精通せる大家の、欧米視察に趨く者続々輩出するは洵に慶すへきの事なり、曩には松方伯及岩崎男の既に出発せるあり、今や渋沢男亦将に発程せんとす、余輩は前の出発者に向て一片の送辞を惜まさりき、後の発程者に向ても亦然らさるを得す、否此等諸大家を送る所の熱誠には何れも優劣なきや勿論なれ共、寧ろ後者に向て嘱望する所甚深からさるを得す、蓋し渋沢男の地位及経歴か爾かく余輩を余儀なくするを感すれはなり、豈独り余輩を余儀なくするのみならん、全国の商工業者は、亦其の漫然たる歴遊に終らしむるを許さす、英皇の戴冠を奉祝すべき全国商業会議所代表者の重任を以て之に托し、既に饗宴を張て其行を盛にす、日英の同盟か通商上の安穏を図るへき旨趣に基て成れるや、殆んと繰返すべき必要のなき事実なれ共、斯くも実業の勧奨に励精せらるゝ大国の主権者か一世一代の盛式を挙けらるゝに当て、之か同盟国の実業界を代表し賀詞を上るへき栄誉は洵に男子の本懐とする所にして、従て其責任も亦甚だ重大なるを感すへし、渋沢男の欧米行には既に斯る重任の負荷あり、其漫然たる箇人の遍歴と類を同ふして語る可らさるや勿論なり、且我が実業界の泰斗として聞えたるの人か一たび欧米に遊はゞ欧米の実業家競ふて之か歓待に怠なかるべく、彼我の交情を親和し彼我の経済を共通的になすへき傾向を助成するの効果甚た鮮からざらんを信するに足れり
伊藤侯の欧米に遊ふや、各国の王侯及政治家の歓迎頗る盛大にして大に其面目を施したるが如し、歓迎者の意蓋し以為らく、日本の勃興は世界の人目を驚かすに足り、而して其勃興を促したるの人は主に伊藤侯なりと、侯が箇人として漫遊したるに拘らず殆んど国賓の礼を以て接待せられたるは、即ち欧米の政治家に此観念あるが為なるに外ならず、政治上に於る日本の勃興は実業上に於ても亦同一の観あり、既往三十余年間商工業上進歩の程度は米国に比し又独逸に対し敢て譲る所なかるべし、而して其中枢に在て我実業界を指導し鞭韃したる者は即ち渋沢男に外ならず、今や此経歴を有する人が欧米に巡遊せんとす、彼の実業家等之を歓迎し接待すること必ずや欧米政治界に於ける伊藤侯の如くなるべし、是に於てか能く我経済界の真相を紹介し、我財政に対する誤解を弁明し、欧米人をして渙然たらしむべきの任務は必ず渋沢男に依て全ふせらるゝを得、我商工業者に対する不信の念も亦或程度まで外人の胸底より拭去せらるべきが故に、益々彼我の所行を交錯し経済の共通を円満にすべき希望を達するに足らん、慶応中水戸民部大輔に随て海外に遊歴せしは渋沢男が未だ一介の書生たるに過ざるの時なりき、而も他日我経済界を提撕し能く今日あるに至らしむべき理想と抱負とは、早くも此時代に於て熟成したり、今や老熟せる智識と経験とを以て更に進歩したる欧米の商工業を視察せんとす、帰来我実業界に貢献すべき効果は素より以て曩日の比に非ざる可し、即ち我実業界の大に改良発達せらるべき新紀元か是より将に開始せられんとするの希望あり、余輩は満腔の熱誠を以て玆に男の一行を送る、顧ふに欧山米水亦当に笑ふて其来遊を迎ふべき也

 - 第25巻 p.112 -ページ画像 


〔参考〕国民新聞 第三七二九号 明治三五年五月一五日 東京だより 木曜午後五時三十分(門外漢)(DK250005k-0024)
第25巻 p.112 ページ画像

国民新聞  第三七二九号 明治三五年五月一五日
  東京だより 木曜午後五時三十分(門外漢)
○渋沢翁も、愈よ米国に向け出発することに相成候。其の行程は、米国より、英・仏・独の諸国を経、本年の冬迄には南清地方を迂回して帰朝する予定の由に候。記者は翁及び其の一行の無事安全と、且つ其の愉快なる旅行の祝福を祈る。
○序でながら一言したきは、渋沢翁の実業界に於ける位置也。翁の経歴は、其の佳婿阪谷君の編纂に係る『青淵先生六十年史』に詳悉したり。然も是れ菊版の巨巻上下両冊、二千頁内外にして、今更ら摘要することすら容易の業にあらず。兎にも角にも、明治の実業興隆史の幾部分は、翁の伝記と表裏するものと一言するを以て、足れりとす可く候。
○翁が維新の当初に於て、身に藩閥の勢援なきを看破し、第二流の政治家たらんよりも、第一流の実業家たらんと決心したるは、先見の明ありと可申、而して三十余年、其の初心を一貫したるは、亦た以て操守の堅実なるを見る可く候。
○若し豪胆なる偉器を求めば、先代岩崎氏の如きあり。乃ち安田翁の如き、古河氏の如き、其他実業界に於て、特色ある人士、一にして足らず。然も渋沢翁が、隠然我国実業界の代表者たる所以は何ぞや。其の胆識にあらず、其の智略にあらず、其の手腕にあらず。恐らく其の徳望なる可き歟。
○人或は翁を目して、八方美人と称すれども、翁は天性八方に敵を作る能はざるの人なる可し。其の円満に近き常識と、其の寛大なる精神と、其の多角的の趣味と、其の公共心の横溢と、其の紳士的素養とは単に造銭的大動物たるを甘んずる能はざらしむるものあるに似たり。若し其の資産のみを以てせば、翁は恐らくは東京に於ても日本に於ても、実業界の代表者たる位置を占有する能はざる可し。然も何人も翁と其の座席を争ふものなきは、能はざるにあらず、為さゞる也。為すに忍びざる也。徳望の二字、或は此辺の消息を伝ふに足らむ歟。然も翁が大財産家たる能はざるの理由、亦た此の中に存せずんばあらず。
○記者は我国実業界の代表者として、翁を世界の各所に派遣するに於て、今日の日本の位置としては、決して疚しき所なきを信じ、今ま所感の一片を攄べて、翁及び其の一行を送ると云爾。



〔参考〕東京日日新聞 第九一八〇号 明治三五年五月一三日 ○寄書 △渋沢栄一先生を送る(佐藤顕理)(DK250005k-0025)
第25巻 p.112-114 ページ画像

東京日日新聞  第九一八〇号 明治三五年五月一三日
  ○寄書
    △渋沢栄一先生を送る (佐藤顕理)
春光已に老いて杜鵑血に叫び細雨糸の如し、渋沢先生将に此時を以て軽帆杳々遥かに万里欧行の途に上らんとす、余や平生先生の謦咳に接し先生の知遇を辱ふする者、豈一言の以て餞するなきを得んや
夫れ朱紫の高官にして我政府の代表者となり海外に漫遊せし者誠に枚挙に遑あらずと雖も、然かも我経済社会の代表者となり彼の洋人をして其持説に耳を傾けしむるに足る可き名士の洋行に至ては、之を先き
 - 第25巻 p.113 -ページ画像 
にしては益田・大倉の両氏、現今に於ては一の松方伯あるのみ、已に然り、渋沢先生這次の洋行は其名単に漫遊に過ぎずと称するも、先生の位地と声望とは恐らく先生をして袖手的漫遊を遂げしむる能はざるを奈何せん、唯だ余の喜びに堪へざるは先生の精力旺盛・体躯健全なる是れなり、先生の我国内に於て鞅掌管理せる事務は累積宛も山の如く、到底常人の耐へ得ざる所なるに拘らず、先生能く之に耐へて余裕綽々心身為めに毫も毀損せず、故に先生の海外に漫遊するに当て亦た固より健康を害するが如きなく、必ずや能く其行を果す可きは余の喜びに耐へざる所にして、抑々亦世人の祝する所なる可し
想ふに欧米列国の要地に於て思を日本貿易の現象に馳する者は甚だ多からん、苟も思を我貿易に馳する者は必ず渋沢先生の名を記臆せざる者はなけん、果して然らば先生の洋行は単に我国人をして望を属せしむるのみならず、亦外人をして明目張胆せしめ、遂に彼我交情の上に一層の密邇を来さんこと豈期待す可きにあらずや
先生は我実業界のオーソリチーなり、故に一たび先生の彼地に赴くや幾多の外人は必ず幾多の質問を提出して我実業界のオーソリチーに其答案を要求するなる可し、質問とは何ぞや、請ふ予をして少しく之を揣摩せしめよ、外人は先生に向て第一に日本人の排外心熾盛なるを問ふならん、蓋し我中学生等の行動は動もすれば排外的パノラマとして外人の目に映ずればなり、先生は之に対して充分なる弁駁的材料を有すべきを以て、予は玆に之を絮説せずと雖も先生が反覆丁寧能く彼等を諭解し、彼等をして毫も邦人の排外心なきを悟得せしめんことは予の切望に耐へざる所なり、外人は第二に我国語の難渋にして到底入り難きを問ふならん、蓋し言語の難きは意志疏通の唯一妨礙物なれはなり、されど邦人の一半は能く世界の通語たる英語に通じ之れに依て文明の智識を獲得し、之れに依て欧米人士と交際しつゝあり、予は先生の答弁の玆に出でんことを望む、外人は第三に我裁判所の訴訟事件著るしき時日を費消するを問はん、蓋し欧米列国何れの裁判所と雖も多少の時日を其判決に費すに相違なきも、我国の判決は殊に最も遅延すればなり、箇は恐らく先生と雖も其答弁に窮するなる可し、外人は第四に我商業道徳の欠乏を問はん、蓋し是れ確的なる事実にして、日本通なる外人の等しく非難する所なればなり、是れ亦至難の答弁たるに相違なきも、先生自身の信用と声望とは大に外人の非難を和ぐに足る者あらん、外人は第五に我政府及公共団体は統計冊子に乏しく、殊に横文の統計冊子皆無なるを問はん、蓋し統計冊子は国家の資力国力を測量する唯一の機関なればなり、知らず先生何を以て之れを答へんとする乎
予の玆に叙列せる這般五箇条は事甚だ瑣末に亘るの嫌あるも、然かも其答弁如何に因て彼我の意思玆に疏通し、外資輸入の途玆に展開す可きなり、而して先生の答弁が概して彼等の意思に満足を附与す可きは予の確信して疑はざる所なり、されど意思疏通・外資輸入の大障礙物とも申す可き者は第一外人に土地所有権を附与せざる是なり、第二株式会社の取締役は各自会社を代表すとの条項我商法百七十条に規定せる是れなり、第一項に関しては輿論も已に其不可を囂々するに於て、
 - 第25巻 p.114 -ページ画像 
其答弁敢て至難にあらずとせんも、第二項に至ては恐らく先生と雖も辞の以て弁ず可きなからん、前には実に此る難問の先生に向ふあり、後を顧みれば一も以て楯となり城となつて先生を援く可きなし、先生たる者亦大に労すと謂ふ可し、知らず何をか楯となし城となす乎
維新匆々の当時に在ては、如何なる険手辣腕の徒と雖も我外交官は重きを外人の間に為す能はざりき、是れ誠に国力微弱換言すれば一大後楯の以て彼れの背後を擁するなかりしが故のみ、而して今や尋常一様の外交官と雖も、尚ほ且つ列強と伍して樽爼折衝の任に耐ゆる者豈に是れ三十万噸の海軍力、十二師団の陸軍力たる一大後楯を有するが為めにあらずや、況んや日英同盟の今日に於てをや、借問す我実業家には猶ほ外交官に於けるが如き一大後楯あるや否や
請ふ之を手近き一例に見ん乎、先づ今日我国にて発刊せる三・四の英字新聞を瞥見せよ、其広告欄には必ず我銀行は預金に対して四・五分の利子を支払ひ、外国銀行は二・三分の利子を支払ふ旨を広告せるを発見せん、而して驚く可きは預金者の多くが高利なる我銀行に来らずして、低利なる外国銀行に赴く事是れなり、吾人故に曰く、若し渋沢先生の背後に後楯ありとせば実に此くの如き薄弱不信用なる後楯のみと、則ち然りと雖も、先生の隆々たる威名と赫々たる声望とは、焉んぞ道に横はれる此千難万艱を排し千万の欧米人をして先生を瞻仰崇敬せしめざるなきを知らんや
渺たる太平洋火輪浪を蹴るの処、潮華相激して鯨舞ひ鰐躍る以て先生の気を養ふに足らん、ウインゾル城は春暖かにしてテームス河畔煙淡し、以て先生の目を怡ばしむるに足らん、聊か一言を陳じて先生の行を送る、先生幸に自愛あれ
   ○右三通ノ新聞記事ハ「竜門雑誌」第一六八号(明治三五年五月)ニ転載サル。



〔参考〕竜門雑誌 第一六七号・第三八―三九頁 明治三五年四月 ○青淵先生欧米漫遊送別会一覧(DK250005k-0026)
第25巻 p.114-115 ページ画像

竜門雑誌  第一六七号・第三八―三九頁 明治三五年四月
    ○青淵先生欧米漫遊送別会一覧
青淵先生が来五月十日欧米漫遊の途に上らるゝに付き、先生の為め特に公私団体・会社及私人等に依て催され又は催されんとする送別会に出席せられ又は招待を受諾せられたるものゝ招待者・日時・会場等を時日の順序により抄録すれば左の如し

図表を画像で表示青淵先生欧米漫遊送別会一覧

     日時         会場          招待者  四月八日午後一時より   帝国ホテル     全国商業会議所聯合会  四月十二日午後五時より  帝国ホテル     清水満之助民  四月十八日午後五時より  井上伯邸      井上伯爵  四月二十日正午ヨリ    華族会館      尾崎男爵  四月二十日午後五時ヨリ  華族会館      朝鮮協会  四月廿一日午後六時ヨリ  常磐屋       勧業銀行総裁  四月廿三日午後五時半ヨリ 華族会館      日本鉄道株式会社社長  四月廿四日午後五時ヨリ  帝国ホテル     青淵先生関係諸会社諸氏百数十名  四月廿五日午後五時ヨリ  旧三野村別邸    日本銀行総裁  四月廿七日午後一時ヨリ  紅葉館       竜門社  四月廿八日午後六時ヨリ  銀行クラブ     銀行集会所・銀行倶楽部・東京興信所・東京交換所  以下p.115 ページ画像   四月廿九日午後六時ヨリ  花月楼       横浜正金銀行頭取  四月卅日午後六時ヨリ   三井倶楽部     三井家  五月一日午後六時ヨリ   商業会議所     東京商業会議所  五月二日午後五時ヨリ   銀行倶楽部     朔日会  五月三日正午ヨリ     精養軒《(上野)》  埼玉誘掖会  五月三日午後四時ヨリ   華族会館      商工経済会及経新倶楽部  五月四日午後五時ヨリ   亀清楼       深川区有志者  五月五日正午ヨリ     総理大臣官邸    桂伯爵 





〔参考〕竜門雑誌 第一六八号・第四三頁 明治三五年五月 ○青淵先生欧米漫遊送別会一覧(補遺)(DK250005k-0027)
第25巻 p.115 ページ画像

竜門雑誌  第一六八号・第四三頁 明治三五年五月
    ○青淵先生欧米漫遊送別会一覧(補遺)
      日附       会場          招待者
  月 日午前十一時ヨリ 日本女子大学校      同校
 五月六日正午      築地精養軒        三好退蔵氏
 同月同日午後三時ヨリ  白金 渋沢喜作氏方    渋沢喜作氏
 同月七日午後七時半   築地 メトロボールホテル キルビー氏
 同月十一日午後四時   常磐屋          荘田・末延両氏
 同月十二日午前十一時  東京府庁         松田市長