デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
1節 外遊
3款 欧米行
■綱文

第25巻 p.317-340(DK250010k) ページ画像

明治35年8月19日(1902年)

是日栄一、ロンドンヲ発シテベルギーニ入リ、ブラッセルニ着ス。二十四日ブラッセルヲ発シテドイツニ入リ、二十七日ベルリンニ着ス。三十日ベルリン商業会議所会頭ヘルツヲ其自邸ニ訪ヒ、意志疏通ニツキ説明ニ努ム。三十一日ベルリンヲ発シ、ハンブルグヲ経テ、九月二日再ビイギリスニ向フ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK250010k-0001)
第25巻 p.317-321 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
八月十九日 晴
午前九時倫敦ノ旅宿ヲ発シ、チエイリングクロスニ抵リ汽車ニ搭ス、十二時ドウバーニ抵リ直ニ汽船ニ乗組ム、是レ白耳義国オステンドニ赴ク便船ナリ、船中ニテ白耳義ナル万国東洋会社専務理事コロネルタイス、東洋主任フランキー、書記長カチイー等三氏ニ邂逅ス、蓋シ三氏ノ会社用《(ハカ)》ノ為メ頃日来倫敦ニ来リテ、社用果テヽ帰国スルモノナリ依テ白国滞在中ノ都合ヲ三氏ニ協議ス、汽船午後四時オステンド着、直ニ上陸シテ行李ノ検査ヲ畢リ、四時過同地発ノ汽車ニテ六時五分白耳義国ブリツセル着、汽車場ニハ諸井六郎・木島某 ○孝蔵及二・三ノ本邦人来リ迎フ、ホテルベルビユト云フ同府有数ノ旅宿ニ投ス、夜加藤公使来話ス
八月二十日 曇
午前東洋会社書記長カチイー氏来ル、当地滞在中諸方一覧ノ事及東洋会社ニ関スル事務上ノ談話ヲ為ス、十一時加藤公使来ル、十二時東洋会社専務理事コロネルタイス及フランキー二氏来ル、先ツ国王謁見ノ事ニ付、王ニモ余ノ来遊ヲ心待ニセラレシモ、生憎今日旅行ニ発途セラレシニヨリ其事ヲ遂クル能ハサルヲ遺憾トスル旨ヲ告ケ、次テ会社事務ニ関シ清国着手ノ要務ヲ略示セラレ、且天津電気鉄道ノ事ヲ詳話ス、畢テ本邦ニ於テ将来経営スヘキ事業ニ関シ種々ノ討議ヲ為シ、明日以降三日間当地滞在シ、其間リヱージ鉄工場及ガラス製造工場等案
 - 第25巻 p.318 -ページ画像 
内ノ手続ヲ照議ス、畢テ午飧後当府ニ有名ナル裁判所ヲ一覧ス、其構造盛大ニシテ聴訟断獄悉ク具備シ、階段・廻廊・柱等皆大理石ナリ、一覧後一行ハ市街ヲ通過シテ公園ニ抵ル、余ハ公使館ヲ訪問シ加藤公使ニ面会シ、公使同伴シテ当国ノ外務次官ヲ訪フ、此外務官ハ齢八十三ニシテ尚壮健ナリ、款談久フシテ去テ木島氏ヲ伴ヒ公園ニ抵リテ一行ト会シ、午後六時帰宿ス、夜諸井六郎氏来話ス
八月廿一日 晴
午前九時ブラツセルヲ発シ、汽車ニテアンベルスニ抵ル、此地ハ三十六年前曾遊ノ地ナルモ、爾来白耳義国商工業ノ繁盛ニ伴ヒ百事拡張シテ、市街モ港口モ皆昔日ノ観ヲ改ム、着後先ツ領事館ニ抵リ休息シテ後、余ハ萩原氏ヲ伴ヒ当地商業会議所会頭〔   〕《(欠字)》氏ヲ訪ヒ、種々ノ談話ヲ為シ、東京商業会議所決議ノ趣旨ヲ伝フ、畢テ埠頭ニ抵リ若狭丸ヲ訪フ、蓋シ該船ハ郵船会社欧洲航路ノ一船ニシテ、昨日アンベルス港ニ来レルナリ、暫時談話シテ後領事館ニ帰リテ一行ト共ニ午飧ス、食事ハ諸井領事ト郵船会社ノ厚意ニテ日本料理ナリシガ、其味極テ美ナリ、食事畢テ余ハ当地ノ農工商会議長ストラース氏ヲ訪ヒ、種種ノ談話ヲ為シ、午後五時汽車場ニテ一行ニ会シ、六時過帰宿ス、此夜加藤公使ヨリ一行ヲ招宴セラルルニヨリ、七時半ヨリ公使館ニ抵ル晩飧畢テ夜十一時帰宿ス
八月廿二日 晴
午前七時半一行相伴フテ停車場ニ抵ル、蓋シ一昨日コロネルタイスニ約スルニリヱージ鉄工場ノ一覧ヲ以テセシニ付、同地ニ赴ク為ナリ、然ルニ通訳者ノ誤謬ニテ汽車ノ南北ヲ誤リ、南停車場ヨリ更ニ北停車場ニ抵レハ汽車ハ既ニ発シテ其時ヲ失セシヲ以テ、次回ノ発車ヲ俟タサルヘカラス、依テ停車場近傍ノ花園ヲ散歩シ、九時十七分発ノ汽車ニテリヱージニ抵ル、同地ニ於テ汽車ヲ下リ、余及兼子ハコロネルタイスノ用意セル自動車ニテ市街ヲ遊歩シ、十二時頃コクツリール鉄工場ニ抵ル、鉄工場ノ技師長及三人ノ案内者ハ余等一行ヲ一旅舎ニ伴フテ午飧シ、食後場内各部ヲ巡覧ス、且場内広キヲ以テ汽車ヲ以テ往返ノ便ニ供ス、鉄工場ノ一覧畢リテ更ニ石炭採堀場ニ抵リ、其採取ノ現状ヲ一覧ス、午後五時過工場ヲ去リテリヱージニテ汽車ニ搭シ、七時過ブラツセルニ帰宿ス
八月廿二日《(廿三日)》 晴
此日モコロネルタイストノ約アリテ硝子製造所一覧ノ為、午前七時半南停車場ニ抵リ、汽車ニ搭シテ行程二時間ニシテジユメーニ着シ、硝子製造工場ヲ一覧ス、此工場ハ鏡又ハ大板硝子ノ製造ナリ、其方法頗ル緻密ニシテ且ツ精巧ナリ、一覧畢テ工場ノ支配人ノ宅ニ抵リテ午飧ス、食後再ヒ汽車ニ搭シテ〔   〕《(欠字)》ト云フ所ニ抵リ、瓶及板硝子ノ製造工場ヲ一覧ス、工業ノ手続前ニ一覧セシモノト異リテ極テ簡易ナリ、畢テ六時過ブラツセルニ帰着ス、夜八時コロネルタイス宅ニ抵リ其招宴ニ応ス、加藤公使・亀山・松村両書記官・諸井・木島及タンヌタン男爵等相会シテ其宴頗ル盛ナリ、食後タイス及フランキー氏ト種種ノ用務ヲ談シ、夜十一時帰宿ス
八月廿四日 雨
 - 第25巻 p.319 -ページ画像 
此日ハ当地ヲ発シ独乙ニ赴ク筈ナリシニヨリ、朝来旅装ヲ理シ午前九時五十分ノ発車ニ搭ス、加藤公使・諸井・木島其他ノ本邦人及コロネルタイス父子等送リテ停車場ニ抵ル、発車後鉄路山間ニ入リ、又ハ広野ニ出テ、午後四時頃独乙国コロン市ヲ経テライン河ヲ躋ル、六時過ヱツセン市ニ着シ、旅館ヱツセンナルホフニ投宿ス、此夜停車場ニクルツプ鉄工場ヨリハウスト云フ人ヲ以テ余ノ一行ヲ迎ヒ、種々ノ周旋ヲ為ス
八月廿五日 曇
午前九時一行ハ、ハウスト氏及我陸軍省ヨリ派遣セラレテクルツプ鉄工場ニ注文セシ兵器類ノ製造監督役ナル田中・原口ノ両氏同行シテ、クルツプ工場ニ使役セル職工寄宿所ニ抵ル、寄宿所ハ市街ニ接続スル土地ニアリテ其設備頗ル完全ナリ、クルツプ鉄工場ニ於テ使用スル職工ノ総数ハ弐万四千人余ノ多数ヲ要シ、其寄宿所ノ場処モ七ケ所ニ分設セラレ、何レモコロニート称シテ各区域ニ寺院・小学校等ノ設マテモアリテ、実ニ至レリ尽セリト云フヘシ、殊ニ其家屋ノ構造モ各家其趣ヲ異ニシテ、殆ント小別荘ノ観アリ、各戸皆清潔ニシテ庭前ニ花卉又ハ野菜等ヲ培栽シ花園ノ態ヲ備フ、実ニ欧米各工場ニ於テ未タ曾テ夢ニタモ見ル能ハサル美観ト云フヘシ、蓋シクルツプ鉄工場ノ起源ハ今ヲ去ル凡ソ百年余ニシテ、現在ノクルツプ氏ノ祖父ナル人始テ斯業ヲ経始シ、刻苦精励セシモ時機宜ヲ得サル為メ資金窮乏シテ大ニ困難セシカ、其子ノクルツプ奇才アリテ技術ニ練熟シ、且人ヲ用フルニ巧ニシテ、殊ニ当時鉄道ノ発達ニ際シテ其車輛ノ製造ニ新発明ノ工夫アリシト、銃砲・鉄板等ノ製作時運ニ応セシトニテ一時ニ其利益蓓蓰シテ終ニ今日ノ盛大ヲ見ルニ至レリト云フ、而シテ現今ノクルツプ氏ハ工務督励ノ余力勉テ工夫保護ノ事ニ尽力シ、前ニ述ル如キ設備ヲ其寄宿所ニ施スヲ以テ終身ノ娯楽ト為スト云フ、真ニ美事ト称スヘキナリ午餐後、市原・八十島・元治・萩原等ヲ伴ヒ、陸軍士官両氏及ハウスト氏ノ案内ニテクルツプ鉄工場ヲ一覧ス、其施設曾テ英国アルムストロング又ハビカス及白耳義コクリール等ノモノニ比シテ、一層壮大ニシテ整頓セリト思ハル、一覧後旅宿ニ帰リテ衣服ヲ改メ、午後八時クルツプ氏ノ招宴ニ応シテ其邸ニ抵ル、此日晩飧会ハ余トブラジルヨリ来レル陸軍将官ノ為ニ設ケタルモノニシテ、接客ノ間及食堂ノ粧飾等善美ヲ尽シタリ、食後伊太里風ノ音楽数番アリ、夜十一時宴散シテ帰宿ス
八月廿六日 晴
午前八時五十分ヱツセンヲ発シ、汽車ニテジツセルドルフニ抵リ同地ニ開設スル博覧会ヲ一覧ス、此博覧会ハ独乙聯邦中僅ニ二州ノ共同ニテ開設スル由ナリ、就中クルツプ鉄工場ニ於テ盛大ナル鋼鉄砲其他種種ノ出品アリテ場中ノ大観ト為スヲ以テ、一見大博覧会ノ態アリ、入場後各室ヲ巡視シ、瑞西ノ山水ニ擬スル景色又ハ海軍操練及交戦ノ模型等ヲ一覧シ、午後六時過ヱツセンニ帰着シ、夜食後旅装ヲ理シテ夜十一時汽車ニ搭シテ伯林ニ向テ出発シ、汽車中ニテ一夜ヲ徹ス
八月廿七日 曇
午前七時過伯林ニ着ス、汽車場ニハ井上公使、其属僚ト共ニ来リ迎フ
 - 第25巻 p.320 -ページ画像 
相携フテ同地ノ旅舎カイゾルホフニ投宿ス、朝飧後井上公使ト伯林滞在中諸方訪問又ハ一覧等ノ手続ヲ協議シ、午前十時公使館ノ吏員ノ案内ニテ独乙帝室ニ属スル美術品陳列所ヲ一覧ス、午飧後更ニ公園ヲ巡視シ、動物園ヲ一覧シ、午後七時帰宿ス
男爵シーホルト旅宿ニ来リテ、伯林ニ於ル経済界有名ノ人ニ会見ノ手続ヲ談話セラル
八月廿八日 晴
此日早朝井上公使ノ誘引ニテ伊国皇帝来着宮城ニ入ルノ式ヲ一覧ス、午前九時当地ニ有名ナルシーメンス電気工場ヲ一覧ス、同社ノ社員両名馬車数輛ヲ以テ旅宿ニ来リテ余等一行ヲ迎フ、十時頃工場ニ抵リテ各部ヲ巡覧シ、畢テ路ヲ転シテ其事務所ニ抵リ、更ニ一旅館ニ於テ鄭重ナル午飧ノ饗宴アリ、午後三時過帰宿ス、四時アルゲマイネ会社ノ人来リテ同シク工場ノ一覧ヲ請ハル、依テ直ニ同会社ニ抵リテ各部ヲ巡視ス、畢テ其社長ニ面会シテ暫時談話ヲ試ミ、午後六時過帰宿ス
八月廿九日 晴
午前八時、独乙国会ノ建築ヲ一覧ノ為メ其建設地ニ抵ル、国会ノ前面ニアル凱旋紀念塔ヲ一覧シ、後議事堂ノ建築ヲ見ル、午前十時帰宿、再ヒ独乙帝国銀行ニ抵リ、副総裁ニ面会シテ銀行ノ各部ヲ一覧ス、十二時帰宿、シーホルト氏来リテ共ニハンゼマン氏ヲ割引銀行ニ訪ヒ、談話ノ後同行ノ各部ヲ一覧シ、更ニヒツシヤ氏ヲ訪ヒ経済上ノ談話ヲ為ス、午後一時半帰宿午飧シ、二時過一行ヲ伴フテ独乙銀行ニ抵ル、蓋シ昨日シーメンス氏ノ饗宴ニ於テ約束セシ為メナリ、銀行ノ各部ヲ一覧ノ後、同行重役コツポポ氏《(衍)》ノ案内ニテ汽車ニ搭シテホツダムニ抵ル、同地ノ停車場ニ抵リテ更ニ汽船ニ移リ、湖水ニ似タル入江ヲ渡リテホツタム皇居ノ近傍ニ抵リテ上陸シ、夫ヨリ馬車ニテ市中ヲ巡廻シ皇居ノ庭園ヲ散歩シ、再ヒ馬車ニテ汽車場ニ抵リ汽車ニ搭シ、夕七時帰宿、直ニ衣服ヲ改メテ井上公使ノ招宴ニ抵ル、同夜ハ日本料理ニテ一行悉ク饗宴セラル、食事中種々ノ談話アリ、食後井上公使ト用務ヲ談シテ夜十一時帰宿ス
八月三十日 雨
午前十時半市原盛宏ヲ伴ヒ、メンドルソン氏ヲ其銀行ニ訪ヒ、経済上ニ関スル種々ノ談話ヲ為ス、午後一時帰宿、午飧後斎藤書記官ト共ニヘルツ氏ヲ訪フ、氏ハ伯林商業会議所会頭タルヲ以テ萩原氏ヲモ同伴ス、面会ノ後東西商工業者意思疏通ノ事ヲ談シテ午後三時帰宿ス、後絵画陳列所ヲ一覧ス、午後五時シーホルト男来話ス、七時シーボルト男ヲ其旅寓ニ訪ヒ旧情ヲ話シ、其饗応ニヨリテ共ニ夜飧ス、午後十時帰宿ス、此夜京釜鉄道会社ヨリ電報ヲ落手ス
一昨日倫敦清水泰吉ヨリ三回ノ来状アリ、今日東京戸田宇八・倫敦根岸練次郎ヨリノ来状アリタリ
八月三十一日 曇夜雨
午前九時、萩原源太郎ヲ伴ヒ独乙老帝ノ廟所ヲ参拝ス、帰宿後井上公使、シーボルト及公使館員数名来話ス、午後一時旅宿ヲ発シ停車場ニ抵ル、井上公使、シーボルト及公使館員等送リ来ル、元治ハシイメンス工場ニ留学スル為メ、此地ニテ一行ニ離レテ滞在ス、梅浦精一氏モ
 - 第25巻 p.321 -ページ画像 
露国旅行ノ為此地ニテ一行ニ分レテ出立ス、汽車一時半ニ発シテ四時半ハンブルグニ着ス、同地ノ商人ヱリス氏来リテハンブルグ近傍ナル同氏ノ家ニ迎フ、此日ハ日曜日ナルヲ以テ汽車徐行シテヱリス氏ノ家ニ抵リシハ午後六時過ナリシ、家ハヱルベ河ニ沿フテ眺望佳絶ナリ、鎌倉金沢辺ノ風景アリ、七時過一行共ニ食卓ニ列シ、家人数名共ニ接伴ス、極テ懇切ナリ、食後花火等ノ余興アリテ、夜十一時ハンブルグ市ニ抵リ、ハンブルグホプニ投宿ス
九月一日 雨
午前九時、ヱリス氏父子来リテハンブルグノ港内ニ於ル諸設備一覧ノ事ヲ告ク、先ツ馬車ニテ旅宿ヲ出テ市街ヲ通過シテ保税倉庫ニ抵リ、其全体ヲ一覧シ、尋テ小蒸気船ニ搭シテ河川ヲ縦横シ、保税倉庫ニ於ル貨物ノ出入又ハ其昇降等ノ取扱振ヲ説明セラル、更ニ新港ノ築造工事ヲ見ル、此新築ハハンブルグアメリカン汽船会社ノ、市ト約束シテ設クルモノナリト云フ、総テ此港渠又ハ倉庫等ハ市ニ於テ設置シ商人ニ貸与スルモノニシテ、其賃貸ノ割合頗ル廉ナリト云フ、一覧畢テ市中一ノ料理店ニテ午飧ス、食後取引所又ハ市役所ヲ一覧ス、市役所ハ十二年前ニ建築落成セシ由ニテ、構造壮大ニシテ美麗ナリ、各室悉ク巡視スルヲ得ル、何レモ意匠ヲ凝セシ結構ナリ、畢テ市街・公園等ヲ馬車ニテ乗廻ハシ、市中ニアル湖水様ノ河川ニ沿フ大路ヲ巡回シテ後小蒸気船ニ搭シテ午後五時旅宿ニ帰ル、午後七時半再ヒヱリス氏父子ノ案内ニテ市内動物園内ノ割烹店ニ抵リテ夜飧ス、市原・萩原・八十島ノ三氏同伴ス、此日ハ園内ニ細工火等ノ余興アルヲ以テ、来人頗ル多ク場内雑沓ス、食後夜十時過帰宿ス
九月二日 晴
午前十時半、ヱリス父子来リテ一行ヲ伴ヒ日本品ヲ多ク備フル所ノ博物館ニ抵ル、場内ニ原某ト称スル日本人アリテ一行ヲ案内ス、種々ノ美術品ヲ陳列シ、陶器・漆器等ニハ観ルヘキモノ多シ、一覧後旅宿ニ帰レハ、ヱリス氏ノ夫人其女子ヲ伴ヒ来訪セラル、依テ一同午飧ス、午後一時ハンブルグ商業会議所ヲ訪ヒ、副会頭ニ面会シテ東京商業会議所ヨリノ議決ヲ通ス、午後二時過汽車場ニ抵リ二時四十五分ハンブルグヲ発ス、ハンブルグヨリ荷蘭国フラツシングニ抵リテ、夜十一時汽船ニ搭シ、直ニ出帆シ夜中汽船中ニ在リ一夜ヲ送リ、翌三日暁ニ及ンデ英国ウヱクトリヤ港着、直ニ上陸シテ再ヒ汽車ニ搭シ、八時半倫敦着、コーボルグホテルニ投宿《午前六時過》ス
  ○明治三十五年ノ日記ニハ巻末ニ旅行中ノ漢詩・和歌・狂歌ヲ記ス。左ノ二首ハソノ中ニアリ。
    独乙なるコロン市にて
ころむではどゑつもたゞはおきぬなりじつせんどるふゑつせんととる《(い)》
    井上ぬしの饗宴に伊太里製の索麺の味よきとて、人々めてたたへておほくたふへたりけれハ
御馳走ハすへていたれりつくせりでうまかろにとハたれもいふ良舞
  ○東洋万国株式会社ニ就イテハ本資料第十六巻所収、同社明治三十四年ノ条参照。

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渋沢男爵欧米漫遊報告 全国商業会議所聯合会編 第四四―四六頁 明治三五年一二月刊(DK250010k-0002)
第25巻 p.322 ページ画像

渋沢男爵欧米漫遊報告 全国商業会議所聯合会編
                    第四四―四六頁 明治三五年一二月刊
  欧米各地商業会議所訪問顛末
○上略
    アントワルプ
同年八月二十一日、渋沢男爵ハ領事館書記生木島孝造氏同道、萩原源太郎氏を随ヘアントワルプ商業会議所ヲ訪問シ、執務ノ状況ヲ視、引続キ会頭コルチー氏(Mr. Charles Corty.)ヲ其私宅ニ訪問シ、全国商業会議所聯合会附託ノ趣旨ヲ陳述シ、種々懇話ヲ遂ケタリ
又同月同日渋沢男爵ハ木島書記生同道、萩原源太郎氏ヲ随ヘ商工業高等会議々長ストロウス氏(Mr. Louis Strauss.)ヲ其私宅ニ訪問シ、前項同様ノ手続ヲ為シタリ ○中略
    ブラッセル
同年八月二十三日、渋沢男爵ハ差閊アリタルニ付、萩原源太郎氏ハ同男爵ノ代理トシテ練習生久野安雄氏同道、ブラッセル商工聯合会ヲ訪問シ、執務ノ状況ヲ視、引続キ法律顧問マアチニー氏(Mr. Emile Martiry.)ヲ其私宅ニ訪問シ、全国商業会議所聯合会附託ノ趣旨ヲ陳述シ、会頭及会員ヘノ伝達方ヲ依頼シタリ ○中略
    伯林
同年八月三十日、渋沢男爵ハ書記官斎藤鉄太郎氏同道、萩原源太郎氏ヲ随ヘ伯林商人会々長ヘルツ氏(Mr. Herz)ヲ其私宅ニ訪問シ、全国商業会議所聯合会附託ノ趣旨ヲ陳述シ、猶種々懇話ヲ遂ケタリ ○中略
    漢堡
同年九月一日、渋沢男爵ハイリス商会主人イリス氏同道、一行ヲ随ヘ漢堡商業会議所ヲ訪問シ、左ノ諸氏ニ面会シテ全国商業会議所聯合会附託ノ超旨《(趣)》ヲ陳述シ、猶執務ノ状況ヲ一覧シタリ ○中略
      会員
        ハー・ロビノー(Mr. H. Robinow)
        ルッド・クラースマン(Mr. Rud. Crasemann.)
        ヱリック・ポントピッダン(Mr. Elik Pontppidan.)
        フエルド・ペルツヱル(Mr. Ferd. Peltzer.)
        ハー・デイ・バーメ(Mr. H. D. Bohm.)
        ペー・ケステル(Mr. P. Koster.)
      書記
        ドクトル・セー・ゲッチヨウ(Dr. C. Gutschow.)
        ドクトル・アー・セー・イエルゲンス
                   (Dr. A. C. Jurgens.)
        ドクトル・エー・シユウエンケ
                    (Dr. E. Schwencke.)


中外商業新報 第六二三九号 明治三五年一一月五日 ○渋沢男爵の談片(四)(DK250010k-0003)
第25巻 p.322-323 ページ画像

中外商業新報  第六二三九号 明治三五年一一月五日
    ○渋沢男爵の談片(四)
○上略
それから独逸の方に往きますと、日本の財政上に付ての見方が又ズッ
 - 第25巻 p.323 -ページ画像 
ト変つて居るやうで、日本の財政が余りに困難して居るやうには見て居ないです、又日本が露西亜と戦争をすることが将に追つて居るとも見ても居ないです、兎に角仏蘭西で日本を悲観的に見るやうなことはない、仏蘭西よりは稍々温かなる感情を持つて居るやうです、独逸の商工業が実に盛なることは亜米利加に続いて驚くべきことです、世界の大国で最も盛大を極め、今後尚幾多の発達を為すであらうかと思はしむるものはどうしても亜米利加と独逸であります、独逸の盛なることは漢堡の港を見ても直ぐ分る、此港は海潮の工合が誠に良く天然の良港である所へ、種々改築を加へ其設備が益々完全になる所から、近来では大きな船が随分倫敦へ寄港せずに直ぐ漢堡に来て、貨物の集散が非常であります、或は倫敦の繁栄を奪ふかと思はるゝ位です、其他独逸の商工業は勿論、鉄道・船舶等を見ても独逸か近来如何に盛であるかと云ふことの一端を伺ふことが出来るので、今後欧羅巴中で独逸が一番盛なる所になりはせぬかと云ふことが一寸見て想像せらるゝのです、特に独逸の進歩は秩序的に往つて居るので、基礎は堅いやうに思はれるです
○下略
   ○右ハ「竜門雑誌」第一七五号(明治三五年一二月)ニ転載サル。


欧米紀行 大田彪次郎編 第二八九―三三四頁 明治三六年六月刊(DK250010k-0004)
第25巻 p.323-332 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

竜門雑誌 第一七四号・第一四―二五頁 明治三五年一一月 ○青淵先生漫遊紀行(其六)(八十島親徳)(DK250010k-0005)
第25巻 p.332-340 ページ画像

竜門雑誌  第一七四号・第一四―二五頁 明治三五年一一月
  ○青淵先生漫遊紀行(其六)(八十島親徳)
○上略
 ○第十七信(独逸エツセン八月二十四日発)
    △第一回欧洲大陸漫遊
八月十九日 晴、先生一行は此日を以て欧洲大陸第一回漫遊の旅程に上る、一行は先づ午前十時チヤーリング・クロス停車場発汽車にて倫敦を出発し、正午ドーバアに着し、直に白耳義オスタンド港行の汽船「プリンセス・ヘンリエツト」号に搭す、音に聞へし大英海峡の風波も思ひしよりは穏かにして、一行中船暈を感ずる者もなかりし、先生が重役に列せる白耳義万国東洋会社の専務理事タイス大佐・同理事フランキー氏及書記長カツチエー氏も同船したるが、特にフランキー氏は昨年中日本に来り先生と面識あるを以て甲板上談話尽きず、航程三時間余にして午後三時四十分オスタンドに着し、税関の撿査を終りて四時四十分発の急行列車に搭ず、白耳義国田野の状態は英国よりも一層周密に耕作せられ殆ど我国の田園を見るの思あり、六時五十分ブラツセル北停車場に着し、諸井領事・松村公使館書記官及木島・久野諸氏の出迎を受け、加藤公使より差廻されたる馬車に搭じて「ホテル・ベル・ビユー」に投宿す、加藤公使・諸井領事其他の来訪者多し、木島孝蔵氏はアンウエルス領事館に在勤すること数年に渉り、最も能く白耳義の事情に通じ、且つ仏語を能くするを以て、加藤公使・諸井領事の好意に依り一行と同宿し、万事斡旋せらる
八月二十日 晴、午前加藤公使来訪せり、次で万国東洋会社のタイス大佐及フランキー、カツチエー両氏等来訪し同社の事務に就き会談すタイス大佐は万国東洋会社の専務理事にして王室財政顧問を兼るの人也、午後先生は答礼の為め公使館及東洋会社を往訪し、次で外務省に到り次官ランベルモン男と会談せり、木島氏通訳の労を執る、終てブラツセル市中を遊覧す、「パーク・ロワイヤー」公園、サンギ・ジユール寺院、王宮の外構、裁判所等を観、有名なる森林公園(ポア・ドラカンプル)を遊覧し、小憩後市役所、「ブールス」及び「マンネキン・ピス」(有名なる小供の彫像にして、其或る局部より噴水をなし街頭に立てり)等を見物し、黄昏帰館す
 - 第25巻 p.333 -ページ画像 
    △アントワープ
八月二十一日 晴、此日先生以下一同、午前九時発の汽車にてアントワープに向ふ、行程五十分にして達す、直に領事館に到り諸井領事を訪ひ、楼上にて暫時休憩の後、先生は木島・萩原両氏と共に商業会議所に到り執務の状況を視、次で同会頭にして聯合商業会議所会頭なるコルチー氏を自邸に訪問し、霎時会談せり、夫より日本郵船会社代理店に到り、支配人ド・グラフ氏と会見の後、桟橋繋留の郵船会社船若狭丸に到り、旁らアントワーブ港内に於ける海陸聯絡の実況を視察せり、是より先令夫人を始め他の一行はアントワーブ大博物館を観、港頭に到りて先生一行と会し午後一時共に領事館に帰る、領事館にては諸井領事主人となり日本料理にて午餐の饗応あり、終て同市高等商業学校を視る、時偶々夏季休業中なりしも校長グランド・ケーナジユ氏の案内にて校内を巡覧す、規模は我東京高等商業学校に比し極て小なるも、商品陳列所の如きは大に見るべきものあり、同校は我商業学校創立の際模範となせし所なるを以て夙に其名を我国人の間に知らる、されば先生も面たり之を目撃して尠からざる趣味を感ぜられたるものの如し、而も同校に於ける学科の程度は、現今我邦の各府県立商業学校と高等商業学校との間に位するものゝ如し、夫より国立商工高等会議長ルイ・ストラウス氏を訪ひ会談の後、動物園・パノラマ・印刷博物館を観覧し、午後六時ブラツセルに向けアントワープを出発したるが、車中南亜の敗将軍ボータ氏あり、氏は和蘭よりブラツセルに到るものにして、汽車の停車場に着するや群衆の喝采湧くが如し、蓋し白耳義は和蘭と同じくトランスバールに同情を寄与しつゝありたればなり、此夜八時加藤公使の招待により先生以下の一行公使館に到る、亀山・松村両書記官・諸井領事・木島書記生等の諸氏同席し、最も叮重なる宴会にてありき
八月二十二日 晴、此日は先生以下早起、先づ植物園を散歩し、次でリエージ市附近の「ジヨン・コツクリル」製鉄会社観覧の為め、九時半の汽車にてリヱージに向ふ、十一時半同市に達し、同社より迎の為め廻付されたる自動車に乗り工場に到る、技師長クラフト氏以下の社員数名出てゝ一行を迎へ、門前には日本及白耳義の国旗を交叉したり一行同社に着するや先づ昼餐の饗応あり、夫より場内を観る、リエージは石炭の産地にして白耳義国工業の中心なり、されば同社の如きも構内に石炭坑を為し、構内の自用鉄道卅五哩の長きに亘るといふ、一行は此自用鉄道に乗り鉄工場・製鋼場・レール工場・石炭坑等を見る規模宏大にして而も設備の整頓せる驚くに堪へたり、同社はもと英国人コツクリルの創立に係り、現に白耳義第一の鉄工場にして職工一万人を使用すといふ、午後五時半発の汽車にて七時ブラツセルに着す、此夜先生は目下帰国中の日本駐在の白国公使ダヌタン男を往訪せり
    △平硝子製造所
八月廿三日 晴、午前七時四十六分ブラツセル発の汽車に搭じ、タイス、フランキー、諸井・木島諸氏同伴、板硝子工場視察の途に就く、行程二時間余にしてブラツセルの南方タミーン停車場に着し、馬車を駆りてエーソー村に在る「サント・マリー・ドアニー」板硝子会社に
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到り、技師長の案内にて場内を巡覧す、同社は鏡の如き厚板専門の大工場なるが、各種作業の中溶解したる原料を鋳型盤上にて板の形に鋳造するの実際手続は、熱度高く主として夜間の作業となり居れるため之を見るを得ざりしも、原料溶解に関する混合竈の装置及作業より、鋳造の出来上りたる板を研磨する研磨装置及作業並冷却方法等を熟覧したるが、混合竈の火力は水性瓦斯を用ゐ、冷却竈には煉炭を用ゐつつあり、又研磨作業の如きは蒸気機関を用ゆる等規摸甚だ大なり、言ふまでもなく同国は板硝子の製造に於て世界に冠絶する程ありて、各種装置の完備せる若くは職工の熟練せる共に感嘆の外なかりき、工場の巡覧終りて支配人キユツチエー氏夫妻の接待にて昼餐の饗応あり、終て同社を辞し再び汽車に搭じて行程一時間、ジユーメに到りて「ベルリ・ナシヨナル・ジユーメ」硝子会社を観る、同社は重もに窓硝子及食器の製造を為しつゝあり、窓硝子の製造は至て簡単なるも職工の熟練は驚くに堪へたり、其他円筒形に出来上りたる硝子を截断する方法並に之を伸延する伸延装置及作業を観、五時十六分発の汽車にて六時卅分ブラツセルに帰着す、此夜八時よりタイス大佐の招待により、先生以下の一行同邸に赴き晩餐の饗応を受く、相客には加藤公使・諸井・松村・亀山・木島の諸氏あり、主人側にはダヌタン男爵、ウーテルフランキ、カツチエーの諸氏あり、頗る盛会なりき
    △白耳義出発
八月二十四日 小雨、先生一行は此日午前九時五十分ブラツセル北停車場を出発して、独逸に向ふ、加藤公使・諸井領事・松村書記官・タイス大佐父子・木島・久野・滝本の諸氏見送らる、行程幾時、白耳義の国境ベルベルスタルにて税関の撿査を受け、午後六時三十分「クルツプ」工場の所在地たる独逸国エツセンに着し、クルツプ氏の私設ホテルなる「エツセナーホフ」に投宿す、「クルツプ」工場の接伴員フワウスト氏を始め、我陸軍兵器撿査官たる田中・原口の両少佐来訪し、種々斡旋せる所ありたり
 ○第十八信 (英国倫敦九月四日発)
青淵先生の一行は、八月廿四日を以て白耳義を発し、独逸エツセンに安着したること前報記載せる所の如し、白耳義滞在中は加藤公使・諸井領事を始め白耳義王室財務顧問タイス大佐等の斡旋最も周到にして会談視察に利便を得たること尠からず、特に其当時地方へ御避暑中なりし白耳義皇帝陛下よりは、目下避暑中にて渋沢男爵を引見するを得ざるは陛下の甚だ遺憾とせらるゝ所なる旨をタイス大佐をして先生まで御伝言あらせられたる由に承れり
    △クルツプ工場
八月二十五日 少雨、午前九時半、我陸軍省派出監督官田中・原口両砲兵少佐及「クルツプ」工場のフワウスト氏の先導にて、市の郊外クルツプ・コロニー(殖民地)に到る
抑も「クルツプ」工場は今より百年前の創立に係り、現主人クルツプ氏は其第三世なり、二世クルツプ氏最も傑出し、現在の歳出入二億万マーク、世界第一の大工場を成すに至れるは実に此二世クルツプ氏の時代に在りといふ、エツセン所在の本工場のみにても職工の数二万五
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千に達し、エツセン市二十万の人口は皆直接間接に「クルツプ」工場に関係を有せざるなしといふ、クルツプ氏は由来慈善を以て職工待遇の方針となすを以て、自己の財嚢を聞いて職工を優遇すること甚だ厚し、されば職工も楽んで業に従ひ、曾て一たびも同盟罷工を起したることなしといふ、前記クルツプ殖民地なるものは此慈善方針の事実的に顕現せられたるものにして、職工の舎宅(家族あるものに給す)・合宿所(独身者に給す)・女子家政学校・養老院・物品原価売捌処等、一として備はらざるなし、職工にして二十年以上勤続せるものには終身年金を給し、配偶あるものには家屋・家具・花園等を給し、配偶なきものは養老男院・養老女院に在りて余生を送らしむ
先生一行は家政学校、養老村の一老夫婦の家屋、新教寺院、養老院、病後の保養院等を視察したるが、其設備の整頓せること真に驚くに堪へたり、此処に在住する老若男女は孰れも喜色面に溢れ、和気靄然軒頭に靉靆ひき、男爵一行の通過するや、孰も帽子を脱して慇懃に敬礼を表しつゝありき
世界の大事業家中には、其利益の大部分を挙げて一般公共の事業に投ずるものあり、又収益の大部を割て配下と楽を共にするものあり、米のカーネギー氏前者に属し、クルツプ氏は後者に属せる最大の事業家にして、共に世界事業家の好模範なるべし
午後一時「エツセネル・ホフ」の一室に於て「クルツプ」工場の副支配人エキシユーズ氏の案内にて、先生一行に昼餐の饗応あり、田中・原口の両少佐亦同席せり、午後二時フワウスト氏及田中・原口両少佐の案内にて「クルツプ」工場を見る、流石は世界第一の大工場なり、製鋼部・器械部・兵器部・車輛部等規模の宏大にして秩序の整然たる真に驚嘆の外なし
午後八時工場主クルツプ氏の招待により先生・同令夫人以下の一行、同氏より差廻されたる馬車に乗りて同氏の邸に到る、市外一里余を往き森林の間を通ぜる大道を経、二重三重の門を通過して漸く玄関に達す、邸宅の光景居然として城廓の如し
主人クルツプ氏は、齢五十有余温乎たる風丯一見して慈善的設備の由来する所あるを知る、氏は夫人及令嬢と共に接待に尽力せらる、令嬢二人、長十七、次十五、共に英仏の語を能くす、相客はルーメニア国の少将ポーヘスキユ氏夫妻、独逸大佐ダンフヱルト氏、伊太利少佐ベー氏、外に「クルツプ」工場の重役、男女合せて卅九名、叮重なる晩餐終て会談室に導き霎時雑話す、クルツプ氏の書斎及令嬢の居間には日本の器物をも交へ陳列したるが、中に目立ちて見られしは明珍の蟹短刀・物置・花瓶等なりし
邸宅の宏壮にして装飾の善美を尽せる、共に改めて贅するの要なし、同邸の裏門には自家用の鉄道停車場あり、前面には河流に沿ひてボート・ハウス其他の運動場ありて、配下一般の娯楽に供せり、同氏邸には小松宮殿下も逗留あらせられたる由にて、独逸皇帝の如きも屡々行幸宿泊せらるゝことありといふ
装飾品の中、日本皇帝陛下の油絵御真影をも拝するを得たり
    △ヂユツセルドルフ博覧会
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八月二十六日 晴、午前八時四十分エツセン発の汽車にてヂユツセルドルフに向ふ、フワウスト、原口の二氏同道せり、九時五十分同地に着し博覧会場に到る、同博覧会は去四月中の開会に係り、独逸国中単にライン及ウヱストフワリア二州の企に成れるも、此二州は独逸工業の中心なるを以て、器械・鉄道車輛其他有らゆる製造品の出陳甚だ多く、全国博覧会といふも不可なき程なり、外に海軍模擬戦闘、瑞西風景ヂオラマ、カイロの風景パノラマ、辷り舟等の余興場及大料理店もあり、一行は先づ「クルツプ」出品の兵器館に入り、陸海軍各種大砲の運転及び空砲発射等を観、次で美術館・鉄道及車輛館・器械館・工芸館等を観たる上、料理店にて食事を了へ、夫より海軍模擬戦闘の余興場に到る、場内には数千坪の大なる池を造りて港湾に擬し、正面には陸地都府の書割を為し、七・八尺の軍艦十数隻及水雷艇・運送船等を浮べ縦横自在に之を運転して陸上の砲台と艦隊との間に空砲の戦闘を為し、終て観艦式を行ふ、此余興は器械力を応用し、独逸人に海事思想を注入するが為め特に設置したるものなりといふ、次でカイロの風景場に入れば此処には亜非利加産物の販売店あり、各店は亜非利加土人之を担当したるが、土人等は何れの時に習得したるものか、一行を見るや「今日は」「チヨイト」「イカヾデス」「オハイリ」「オ早ウ」抔日本語を操りつゝあるも一興なりし、午後六時半の汽車にて帰途に就き、七時半エツセンに着し、更に午後十一時エツセン発の夜行列車にて伯林に向ふ
    △伯林市中
八月二十七日 少雨、先生一行は午前七時半を以て伯林フリードリツヒ・ストラツセ停車場に着し、直に「カイゼルホフホテル」に投宿す井上公使・シーボルト男・斎藤書記官・盧百寿等の諸氏停車場に出迎はる、「カイゼル・ホフ・ホテル」は過日小松宮殿下の旅館に充てられし所にして、一体の設備亜米利加風にして、英国に比すれば大に進歩しつゝあるが如し
井上公使・同夫人・畑書記官・同夫人・斎藤・赤塚・盧・シーボルト男等の来訪終りて、盧氏の案内に依り馬車を駆りて市中を遊覧す、先づ皇室御物博物館に到りしが、此処は累世皇帝陛下の御物展覧所にして、家具・玩具・勲章・写真等あり、現皇帝御物の部には、醇親王清朝を代表して北清事件の謝罪書捧呈の現場を写せる油画などは殊に目立ちて見られき、皇室の御物を汎く人民に示すも亦一の美風とやいふべき、次で公園に入る、大道の両側には歴代帝主の大理石像を建設しありて風致掬すべし、一行は次で王宮の近傍を遊覧して帰館す、午後シーボルト男の来訪あり、男は元和蘭人なりしも今は独逸に帰化し、ウルテンブルグに住せり、先年中永く職を日本政府に奉じたることありて日本語を善くす、青淵先生が三十六年前仏蘭西に在りしとき、男と与に各国を巡回したることもあり、爾来交誼浅からざるを以て此度面会の為め態々伯林に来りしものなりといふ、両男の会談数時に亘り夕刻動物園を観る、園は世界第一と称せらるゝ程ありて規模壮大を極む、帰路電気鉄道に搭ず、其線路は倫敦のチユーブの如く或は地下に入り、或は地平となり、又時としては高架となる、車輛の設備其他孰
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れも最新の式を用ゆ、一行独逸に入りて以来、目に映するもの一として改良進歩の跡を印せざるはなく、米国と東西相対して進歩を競ふ所真に羨望に堪へず
    △伊帝の独帝訪問
八月二十八日 快晴、此日は独逸の同盟国たる伊太利国皇帝陛下が、独逸皇帝訪問の為め来着せらるゝ当日なるを以て、鹵簿拝観の為め井上公使の誘引に依り、午前八時半より「ホテル・ベル・ビユー」の楼上に赴く、公使館員の外大蔵少将・長岡大佐、松田・幸田の両嬢、巌谷漣山人の諸氏亦同席す
伊国皇帝陛下には前夜ポツダム離宮に一宿あらせられ、此日は独逸皇帝と馬車を同うせらる、御馬車の前後には独逸皇后陛下及皇族の馬車あり、近衛騎兵更に其前後を護衛せり、往来は警官之を警護し、儀式は至て簡単なるも、甚だ壮厳に見受けらる、街路の両側は固より窓といはず屋上といはず、拝観の群衆山の如く、大声歓呼万歳を呼ひ、両陛下は絶へず右手を挙げて答礼せらる、戸々国旗を掲げ、凱旋門の内外には別に伊国風の歓迎門を設くる等、同盟国君主に対する歓迎到らざるなく、行列の前後に併列せる兵士は躯幹長大・姿勢厳粛、如何にも強兵の風丯を備ふ
午前十時一行は電機会社「シーメンス・ハルスケ」社の工場を観る、同社は夙に我国に支店を設けて逐年事業を拡張しつゝあり、別して今回は渋沢工学士の留学する所なるを以て、社主・社員諸氏の優待到らざるなく、アイネン氏外数名の担当技師が叮重なる案内に依り、発電機・電動機・変圧機・灯球・炭線等各科の工場を巡覧し、次で市中に設けたる同社事務所に到り、製造品の見本及之が使用法を示さる、同社は「アルゲマイネ」会社と共に電機製造業に於て独逸を代表し、米と競争しつゝあるものなれば、規摸の壮大驚くべく、使用の職工一万余人に上るといふ、観覧終て社長ボーヂツケル氏の招待に依り「ホテルプリスタル」に於て叮重なる午餐の饗応を受く
午後先生は「アルゲマイネ」会社の電機工場を観、同夫人は公使・書記官等を訪問す
    △ポツダム離宮
八月二十九日 快晴、伯林到着以来好晴打続き、倫敦に比し稍々暖気にして外套を要せず、公園を散歩し、議会前に新設せられたる比斯麦翁の銅像、並に戦勝紀念塔を巡覧し、後独逸帝国議会議事堂を見る、堂は石造にして数年前の建築に係り宏壮世界第一と称す、入場料を納むるものは何人と雖も観覧することを得、門衛懇切に案内説明をなす午前十一時、先生は市原氏を随え帝国銀行《ライヒスバンク》に到り、副総裁ギヤラレンカン氏に会見し、且つ執務の実況を見る、(同行は紙幣発行の権を有する中央銀行なり)次に正午シーボルド男と共に「ヂスカウント」銀行に到り、頭取ハンゼマン氏に会見、且つ業務の実況を視察せり
夫人は津村秀松氏の案内に依り、「ナシヨナルガレリー」に到り、絵画彫像等を見る
此日午後は、独逸銀行頭取コツホ氏よりポツダム離宮拝観の案内を受け、午後二時先生以下一行迎への馬車に乗じ、先づ独逸銀行に到て営
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業の状況、保護預り室其他を見、午後三時発汽車に搭じ同三十分ワンゼーに着し、同所より特に準備せる小蒸汽船に乗してワンゼーの湖上を横断す、水は河川の漲溢して自ら小湖をなせるものにして、四周樹木の鬱叢たる小丘を繞らし、風光テームスの上流に肖て規摸更に大に、眺望遥に佳なり、コツホ頭取は令嬢並に支配人バラゲー氏等を伴ひ、船中には美酒佳肴を備へ、船首には日章旗を掲げて優遇懇待を尽せり当日宛も独逸皇帝は、御来遊中の伊国皇帝と船を同ふして湖上を週遊あらせられ、偶々一行の乗船に接近し、図らず一統両陛下の竜顔を拝す、皇帝亦た深く日章旗に御注目あらせられ、一行の乗船を指して近侍に御下問あらせらるゝの状、歴々として之を拝することを得たり、行程一時間にしてポツダムに着し、上陸の上馬車を駆りて離宮に到る御園は天然の美に人工の巧を加へ、大噴水・彫像等殆ど人目を眩するものあり、皇帝は常に此離宮に起臥あらせられ、衆と楽を倶にせらるるやに拝聞す、時漸く黄昏に近けるを以て内庭の拝観を見合せ、六時発汽車に搭して帰途に上り、同七時伯林に帰着す
午後八時井上公使の招待に依り、先生以下一行公使館に到り日本料理の饗応を受く、曩に一行に分れたる梅浦精一氏亦露国行の途次当市に来着し、今夕同しく招待を受く、宴席に列せるものは主人及先生一行の外、畑書記官・同夫人・斎藤・赤塚・盧等の各館員諸氏なりき
    △大観兵式拝観
八月三十日 朝晴午後雨、此日午前十時よりテムプル・ホツフエル・フエルド練兵場に於て、伊国皇帝御来遊の為め大観兵式を挙行せらる井上公使の誘引に依り先生夫人以下一行中数名拝観に赴く、流石に雄兵を以て世界に誇る独逸帝国大観兵式のことゝて、其壮観能く言語筆紙に尽す所にあらず
先生には午前財政家メンデルソン氏を訪ひ、会談の後、午後よりは斎藤公使館書記官と共に商業会議所会頭ヒルシユ氏を訪ふて面談せり
夕景、美術共進会を参観し、夜先生はシーボルト男の案内に依り、其寓所に到りて饗応を受く、主客日本語を以て三十余年前の昔語を試み其他閑談に時辰の移るを忘る
    △伯林出発
八月三十一日 晴、先生は午前老帝の陵に展す、梅浦氏愈々単身露国に向て出発し、一行中の渋沢工学士は当初の希望の如く「シーメンスハルスケ」工場に入り電気工学を専攻する為め、一行に分れて当地に留まる、午後一時二十分汽車にて一行は伯林を去り、漢堡に向ふ井上公使・同夫人・畑書記官・同夫人・斎藤・赤塚・盧・馬越・シーボルト男・渋沢工学士等見送らる
午後五時漢堡に着す、「イリス」商会主イリス氏出迎はれ、其懇望に依り先生以下直に汽車を乗換えプランケネス停車場に到り、玆に下車してフアルケンスタイン村なる同氏の邸に到る、氏を始め夫人・令嬢・令息相集りて一行を歓迎す、食後庭園に於て日本煙火を打揚げ、閑談に更の闌くるを忘る、氏の邸は青山を負ひ、林間に渓流を眺め、観望頗る佳なり、同氏は多年日本との商業に従事し、先生とは旧交あり、且つ令息・令嬢等皆横浜又は神戸に於て生れ、日本の事物を好み、其
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装飾品概ね本邦品ならざるはなし、夜十二時漢堡に帰り「ハンブルグホフ・ホテル」に投す
    △伯林新聞と先生
伯林に於ける新聞紙は、英米に於けると同じく先生の来着前より競ふて一行に関する記事を掲げたるが、其重なるものゝ一を摘訳すれば左の如し
   ○前掲ニツキ略ス。
    △漢堡巡覧
九月一日 朝雨後晴、此日はイリス氏父子の非常なる厚意に依り、漢堡市中見るべきものは概ね見尽すことを得たり、即ち午前九時半「ホテル」を出で、馬車を駆りて自由港保税倉庫の所在地を見、特に用意せられたる小蒸汽艇に搭し、撿閲官一名の案内に依り港内を視察す、エルベの本流より縦横に運河を穿ちて波止場を設け、大船巨舶をして自由に横付けするを得せしむ、クレーン及上屋等、陸上倉入の設備の大仕掛にして完全なる、唯絶驚に外なかりき、即ち或所に於ては倉庫の四周繞らすに水を以てし、倉庫の窓と船舶との間は巧妙なるクレーンの働に依りて自由に貨物の揚卸をなすが如き其一例なり、エルベの本流亦大なる港湾の組織となり、船檣林の如く、百貨輻湊して設備の完、規摸の大、蓋し世界有数のものにして、人造港としては世界第一なりと誇称するも、強ち謂れなきにもあらざるなり、蓋し当港は欧洲北半の商業中心にして、貨物出入の額は倫敦に劣ることなかるべく、目下更に一新港建設中なり、此は「ノルド・ドイツチ・ロイド」汽船会社一手借受の約あり、市費を以て築造するものなりと云ふ
以上の観察を終り、市中有名の料理店「フオーセ」に於て昼餐の饗応を受け、次に取引所を見物す、会員群集衆声合して宛も遠雷の如し、当所はマンチエスターと同じく、会員随意に来集して任意に商談をなす一の倶楽部然たる組織なりと云ふ
次に市庁を見る、宏大なる石造の建築にして当市随一の荘観と称せらる、室内の装飾は絵画・彫刻其他善尽し美尽し、先にグラスゴーの市庁を見て驚きたるも、今は殆と比較するだに価なきを感ずるに至れり会議室・大宴会室の如き多く見ざるの大規摸と美観とを備へり、終て市中を馬車を駆り、更に小汽船にてアルベール湖を横ぎり、一方に於て商港として繁忙無比の俗塵区あるに反し、他に於ては緑樹清水、殆と仙境に擬ふの勝地あるを嘆賞し、黄昏ホテルに帰る
此夜イリス氏父子の案内に依り動物園の夜景を見る、園は一の公園をなし、音楽堂の四周には男女群集して昼間の労を慰す、園内の料理店に於て晩餐を喫し、閑談に時を移す
    △英国帰航
九月二日 晴、午前十時イリス翁の案内に依りて美術博物館を見る、日本部には刀剣及其附属品・陶器・銅器等の見るべきもの多し、邦人原氏係員となりて事務を担当し居れり
正午ホテルに帰り、イリス氏夫妻・令息・令嬢等と食事を共にしたる後、男爵は商業会議所に副会頭ルーバン氏を訪ひ、所謂内外商の為め意志の疏通を図る
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一行は午後二時四十七分発の汽車にて漢堡を発し、英国倫敦に向け帰途に上る、イリス氏一族見送らる
出発後列車内より四方を観望するに、鉄道の沿道は北独逸の荒涼たる原野にして別に記すべきの事なく、ブレメン、ミユンステル、ウエーゼを経て和蘭に入り、午後十一時ブリシンゲンに着し、直に汽船に接続、大英海峡の北部渡航の途に着く、海上至て平穏なり


東京日日新聞 第九二七四号 明治三五年八月三〇日 【○渋沢男 は目下伯林…】(DK250010k-0006)
第25巻 p.340 ページ画像

東京日日新聞  第九二七四号 明治三五年八月三〇日
○渋沢男 は目下伯林に在りて、同市の有名なる人人と会見し居れるよし


青淵先生関係事業調 雨夜譚会編(DK250010k-0007)
第25巻 p.340 ページ画像

青淵先生関係事業調 雨夜譚会編    (渋沢子爵家所蔵)
    青淵先生と私
              日仏会館常務理事 木島孝蔵氏談
私が渋沢子爵に初めてお眼に懸つたのは、明治三十五年の秋でありました。子爵は欧米漫遊旁々商業会議所方面の要件を帯びて、白耳義に立寄られました。当時子爵の御親戚に当る諸井六郎さんが、アントワプ領事で、私は諸井さんの下に書記生をして居りました。諸井さんが『子爵がおいでになつたら君案内して呉れ』との事だつたので、一週間余の御滞在中御案内しました。其時日本銀行の市原盛宏さんが子爵の御一行に加つて居りまして、英語の通訳は市原さんがやり、仏蘭西語の方は私が受持ちました。それから白耳義皇室からは特にレオポルト二世(Leopold II)の副官タイス大佐(Colonel Thys)とフランキー(Franquie)の二人を子爵の接持委員として差遣されて、子爵御滞在中は巡察観光に違算ない斡旋振であつた。特にコロネルタイスは陛下の副官であり、大佐の職を有して、又堂々たる実業家で大変権力のあつた人で、此人の言は何でも通ると云ふ塩梅でありました。フランキーは後欧洲大戦の平和会議に白耳義全権委員の一人(註、経済問題方面を担当)として、ベルサイユに赴いた人でありました。レオポルト二世は亦白耳義に於ける英明の君として知られた陛下で、現在のアルベール(Albert)陛下の叔父君に当る方でありました。
   ○市原盛宏ハ日本銀行ニ奉職セシモ、コノ当時ハ第一銀行ニ在職ス。